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小説『人類が絶滅する小説』

最終更新日:2008年7月2日



 僕は二十一時過ぎ、彼女の部屋を訪ねた。平日は残業があるから、隣の部屋に行けるのは二十三時頃になるのだが、今日は日曜で余裕があった。服装は平日と同じく、白いTシャツに灰色のスウェットをはいただけだった。
 僕は鍵も持たずに部屋の外に出た。三階建てマンションの三階廊下は吹き抜けになっていた。六月初めの夜に吹く風は、締め切った室内の空気に比べれば新鮮で、肌触りが心地よかった。
 自分の部屋から出て右隣にある、角部屋の前に立った。彼女の部屋の入り口は、僕の部屋と全く同じ造りだった。風埃で茶色くなった扉が、うっすらと光る電灯に照らされている。僕はインターホンのボタンをゆっくりと押した。
「どちら様ですか」と聞かれる間もなく、扉が開いた。僕の瞳がサマルの姿を捉えた。
 サマルの瞳はいつも通り厳しく、警戒心で研ぎ澄まされていた。肌は血管が浮き出るほど白く透明で、肩にかかる黒髪は悪魔のように滑らかで美しかった。黒光りするワイャツとベージュのミニスカートは、細い体の線にぴったりと張りついていた。
 通り一遍の挨拶を交わすこともなく、僕はサマルの部屋の中に足を踏み入れた。
 室内の間取りは僕の部屋と同じく、1LKだった。玄関右側にはキッチンと洗濯機のスペースがあり、左には広いバスルームとウォッシュレット機能つきのトイレがあった。真ん中の廊下を通ってすりガラスのドアを開けると、八畳ほどの広さのリビングルームがあった。
 僕は沈黙が苦手な方ではなかったが、黙りこむサマルと一緒にいたら、気まずくなった。僕は答えなど求めていない質問をサマルに投げかけてみた。
「なあサマル。僕しか来ないとわかっているからって、もうちょっと警戒した方がいいんじゃないか? 君を狙っている男がやってくるかもしれない」
「インターホンであなたの姿を確認した。あなた以外に私の正体を知っている人間はいない。私は安全。そうでしょう?」
 サマルの声は自信に溢れていた。
 サマルは中野のマンションに身を潜めて、人類に対するスパイ活動を続けていた。今のところ、サマルのスパイ活動を知っているのは、隣に住む僕だけだった。
 サマルがどのような組織に属しているのかはわからない。そもそもサマルが人類なのかどうかも僕にはわからない。確かなことといえば、サマルは人類存続の可否を判断するため、ある組織から派遣されたスパイであるということだけだった。
 リビングの壁一面に、背の高い白木の本棚が並べられていた。サマルの蔵書には、日本語以外の言語で書かれた洋書も多く、外国の百科事典や文学全集も揃っていた。
 僕の部屋寄りの壁際には、白いシーツにくるまれた小ぶりのシングルベッドが置かれていた。黒光りするカーテンの手前には、ノートパソコンが載っている木製の丸テーブルと、バーのカウンターでよく目にするような丸椅子が置かれていた。
 シングルベッドの正面には、28インチ程度の液晶テレビが置かれていた。液晶テレビが載るテレビボードの中にも、書物が詰めこまれていた。
 サマルは丸椅子に背筋を伸ばして座り、ノートパソコンに手をかけた。僕はシングルベッドの上に乗り、テレビのリモコンを手に取った。
 リモコンの電源ボタンを押すと、お笑い芸人とグラビアアイドルが多数出ているバラエティー番組が画面に現れた。僕はリモコンを操作して、海外ドキュメンタリー番組にチャンネルを合わせた。番組では評論家たちが、サブプライムローン問題と、原油・食糧価格高騰問題を論じ合っていた。
「それじゃ、今日のことを話して」
 サマルはノートパソコンの画面に目を落としたまま、はっきり輪郭のある声で言った。
 日課となった報告の始まりだった。僕の報告内容に人類の存続がかかっているのに、僕はテレビ番組を見ながら毎日報告していた。僕以外の人間がこうした怠惰を目撃したら、猛烈な批判を行うことだろう。
「今日は午前十時過ぎに起きた。遅い朝食をとった後、一人で歌を歌った。声の限りに歌い続けたら、一週間の疲れがとれて、陽気になった。高揚感を保ったまま、売れていると評判の小説と新書を買いに行った。午後は部屋でハイビジョン映像の殺人ゲームをやりまくった。ゲームのし過ぎで目が疲れたから、シャワーを浴びた。そして今この部屋に来た。そんな休日だった」
 僕はいつも通り、一日の行動を報告した。
「他には?」
 サマルは目をパソコンの液晶画面に落としたまま、僕に質問した。僕は質問にすぐ回答しなかった。テレビ画面には、購入した住宅のローンを払えず、途方にくれる白人女性の姿が、罪のない小さな娘と一緒に映っていた。
「僕は娯楽に浸かった自分の日常を話しているだけだ。こんな日常の描写が、一体何の役に立つんだ?」
「あなたは報告の評価基準を知る権利を持っていないわ。あなたは私に質問する権利もない。エル、報告を続けて」
 サマルの声には、抑揚がなかった。
「そんな一方的なやり方、帝国主義者みたいで卑怯だよ。君の属する組織には、人類と対話する意志はないのか? 一方的に調査して、絶滅させるか、生存を許すか決めるだけなのか? 民主的じゃないな、全く」
「私たちの決定方法を批判する権利さえないことをわかって。あなたたちが、ここ数万年でやってきたことをよく反省してみたらいいわ。あなたたちに残されたチャンスは、ただ一つ、この報告だけ。報告を真っ当することだけを考えなさい。後は我々で判断する」
 対話さえ許されていないのに、意志決定は、僕個人の報告によるのだ。しかも僕は娯楽尽くしの休日を送っている。これでは人類が救われないだろう。
「そういえば今日、あなたは会社が休みだったわね」
 サマルがキーボードの打音を響かせながら、小さな声でそう言った。
「そうだ。久々の連休だった。まあ僕がやったことと言えば、オフィスワークの疲れを癒し、慰める行為だけだったけれど」
「あなたたちが休日にすることって、今聞いたようなことだけなのかしら? 休日に他にするべきことはないの?」
 人類は、たまの休日にその程度のことしかしないのかと批判されているように感じた。テレビでは日本人の大学教授が、原油と食糧価格の高騰が、日本経済に与える影響について長々と語っていた。
「休日に屋外に出かけて、リフレッシュする人は多いよ。確かに僕の今日の休日の過ごし方は、のんべんだらりとしていて、スーパーエリートである君の目からしたら、意味がないもののように思えるかもしれない。もっと、他にやることがあるだろうと思うのは当然だ。けれど、僕は仕事で疲れたんだ。休日に何をしても、僕の自由じゃないか」
 僕はテレビのチャンネルを何度か変えてみた。民放ではどの局もCMばかり放送していた。
「あなたは以前、今の仕事が嫌だと言っていたわね。他にやりたいことがあるなら、なぜ自由時間を有効活用しないの? ゲームをして、読書して、歌って、食事をして、また今みたいにテレビを見て、そんなようでは、一生同じ苦しみの繰り返しだと思うけれど」
 僕は大学卒業後、毎年新人文学賞に応募していた。六年で十二作応募したが、全て一次選考で落ちた。受賞後すぐに辞められると思っていた会社勤めを、僕は三十歳になった今も続けていた。
 作家志望であることは、同僚や友人に秘密にしていたが、サマルには、愚痴と一緒に報告していた。
「先月末で昇給があった。僕は今まで、給料と仕事内容に対して強い不満を抱いていたけれど、昇給で不満が解消された。実績に応じて、これからも給料があがっていくなら、会社勤めも悪くないんじゃないか。小説家になんて苦労してなる必要は、ないんじゃないか。僕の心に、さっさと諦めて自由になれというささやき声が聞こえてきた。
 よくよく考えてみたら、こうして給料をもらえるということは、書く自由を与えられていることでもあると気づいた。僕は不況が深刻化する格差社会で、経済的に不自由なく暮らしていける給料を与えられている。インターネットに文章を発表する自由も与えられている。インターネットが発達する以前の時代、カフカやプルーストやジョイスの時代は、出版化されなければ、自分の作品を世に問うことができなかった。
 現代では、出版化を待つ必要もなく、高倍率の競争にさらされる必要もなく、自分の文章を自由に世に問うことができる。創作者にとってみれば、限りなく自由な時代だ。それでいて、収入も確保されているのだから、僕は出版社受けとか、読者受けとか、受賞向けとか、そういうわずらわしいことを一切考えず、自由に文章を発表できる。さっきシャワーを浴びながら、そう気づいた。随分心が楽になった。今日得た大きな成果といえば、それかな」
 僕は興奮していたが、サマルは変わらず冷静にキーを打ち続けていた。
「そうなの。それはおめでとう。せいぜいくだらない文章を書き続けて、自己満足に浸っていることね。休日に何もしないでいるよりは、いくらかはましだと思う。まあ私に言えることは、それだけ」
 僕はサマルに本心をさらけ出したことを、激しく後悔し始めていた。
「あなたは自由が好きみたいね」
「僕だけじゃない。多くの人間は自由が好きだよ」
 休日に何をするのも自由、仕事に何を選ぶも自由、何を書くのも自由、何を読むのも自由… サマルは、そうした人類の自由に、鉄槌を食らわせようとしているのだろうか。
「自由には責任が伴うし、限度がある。みんなが自由なら、対立が生じる。そうしたことを、あなたたちは知識の上では積み上げてきた。けれど、現実では、自由を持て余して、様々な対立と混乱を生み出している」
 テレビでは、歌手デビューを目指す女性が集まるオーディション番組が始まっていた。
「サマル、君たちは、人間の自由を制限するためにやってきたのか」
「そうじゃない。あなたたちが、神から与えられた自由を正しく扱えているか、見定めにきたのよ」
 神? 
 僕はサマルのことを異星人か何かと思っていたが、実は神の使徒なのかもしれない。あるいは、サマルはただの日本人であり、僕のことをからかっているだけかもしれない。
 僕はサマルがどういう存在なのか、彼女の背後にある組織の実態もつかめないまま、報告を続けていた。
 オーディション番組がつまらないのでチャンネルを変えると、先程のオーディションで歌っていた素人よりも下手な歌手が、乳房を上下させる程の激しいダンスをしながら、口パクで歌っていた。口の動きと、歌声のずれを見れば、口パクかどうか簡単にわかる。僕はテレビの電源を落として、サマルの部屋を出た。
 部屋に帰った僕は、マーラーの交響曲「巨人」を小音リピート再生でかけながら、眠った。





 昨日僕が決めたことは、受賞とか出版化とか読者数の獲得とか、そういう作品にとって全く重要でないことは目的とせず、ただひたすら正直に書き続けることだった。
 魂に従って正直に生きること。僕にとって自由に生きることは、人に左右されず、正直に生きることを意味していた。
 自由主義経済社会の東京において、正直に生きることは、とてつもなく難しいように思えたが、正直に生きること以外は、もう求めないことにした。
 しかし、僕個人が決定した生存の技法など、サマルにとってはどうでもいいことだった。普通の人にこうした決意を告白したら、たとえ建前だけでも、歓迎してくれるだろうに、サマルはいつも通り、冷たい反応を返しただけだった。
 よくよく考えてみれば、こういう告白話の際に、おおげさに感動してみせることは、不正直ではないだろうか。僕はサマルに、人にこびる不正直な対応を求めていた。感動する必要のない場面では、あえて感動しないこと。僕が冷酷だと決めつけていたサマルこそ、実は正直者だったのだ。
 僕個人の生活パターンが少々変わったところで、サマルにとってはどうでもいいことなのだろう。しかし、サマルが日常の報告を求めているのは、人類全体の中でも、僕一人だけだった。
 僕は人類全体のサンプルとして、選ばれたのだ。僕の生活態度によって、人類の未来が決定される。僕は、自分の優秀さをアピールする報告を、偽ってでも作り上げるべきだろう。自分自身を優秀な人格に作り替えるべきだろう。それでも僕はいつものごとく、心身ともに気だるい月曜日を始めたのだった。
 朝目が覚めても、全身が痛かった。眠気と痛みを感じながらも、僕はネイビーのストライプスーツに着替え、丸の内線に駆けこんだ。通勤電車の中には、僕以上に覇気がない会社員がたくさんいた。僕はアイポッドのイヤフォンを耳にはめて、テンシュテット指揮によるマーラーの交響曲第二番を聴きつつ、深呼吸を繰り返した。
 電車から降りた後、僕は会社近くのカフェに寄って、始業時間までの時間を潰した。一番奥のソファーに座り、トーストをかじった。食事後、アイスカフェラテを飲みながら、ブエノスアイレスで書かれた小説を読んだ。
 束の間の自由時間でさえ、末梢神経の痛みは抜けなかった。出社時間が迫ってきた。正直に書くため、自由に生きるのに必要な生活費を確保するため、こうしてオフィスワークを続けているのだと自分に言い聞かせて、僕は赤いネクタイを結び、立ち上がった。皿とコップの載ったトレイを片づけるため、手に持っただけで、腕の神経に痛みが走った。
 オフィスについてすぐ、僕はパソコン仕事を始めた。一日中液晶ディスプレイを見つめ、安物のキーボードを打ち続けた。嫌々ながら仕事をしていたら、サマルに態度不良と書かれるかもしれない。僕は全身に感じる痛みは表にはあらわさず、黙々と仕事をこなした。
 マンションには二十二時過ぎに帰宅した。帰ってすぐ、僕は部屋を雑巾で水拭きした。
 水につけた後、よく絞った雑巾を床に這わせると、埃や体毛がたくさん布に付着した。雑巾が汚れまみれになる度、僕は水道水で雑巾を洗い流した。しっかり雑巾を絞って水気をきってから、また床磨きを始める。家具の位置を変えながら、床の隅々まで水拭きすると、脳も体も洗われるようで、疲れがだいぶとれた。
 シャワーを浴びている最中も、清掃で得た頭の開放感は持続していた。シャワーを終えてリビングに戻ってきても、体が軽かった。
 僕は縞模様のボクサーブリーフをはいてから、白のTシャツを身につけた。ニュースを流しっぱなしにしながら、目を瞑ってストレッチをした。ニュースでは昨日秋葉原の路上で起きた無差別殺人事件の様子が放送されていた。筋肉の隅々まで伸ばしきった後、灰色のスウェットをはいて、僕はサマルの部屋に向かった。
 今日もインターホンを鳴らしてすぐ、ドアが開いた。サマルは白い細身のワイシャツにベージュのストレッチパンツをはいていた。肩にかかる黒い髪の毛は悪魔のように美しく輝いていた。
 僕はサマルのシングルベッドに乗って、壁を背にしてあぐらをかいた。液晶テレビの画面には、また秋葉原の無差別殺人事件の特集が映し出されていた。犯人は恋人のいないアニメオタクだったこと、学校時代は成績優秀だったが、工場で派遣社員として働いていたことなどが明かされていた。
 サマルは日中、図書館で調べものでもしていたのだろう、丸テーブルの上にコピーの束がつまれていた。
「今日は私から質問があるのだけれど、答えてもらえるかしら?」
 サマルがノートパソコンのキーを叩き始めた。
「いいよ。何でも答える。ただその前に、一つ注意しておきたいことがある。僕の回答は僕個人の意見であり、人類全体の模範的回答ではない。この点はいいね」
「ええ、私たちもそれを望むところだわ」 
 サマルが言う「わたしたち」が人類なのか、地球外の生命なのか、僕は疑問を口に出す自由を許されていなかった。
「僕らの社会は自由というものを享受してきた。一人一人が違った考えを持っていい、各人の意見は尊重するというのが前提だ。日本社会では往々にして個人の意見が否定される場合も多いけれど、自由民主主義社会の前提については、了解してもらっていると考えていいね」
「もちろん」
 サマルの声には馬鹿にするなと言いたげな、怒りの調子があった。
「わかった。質問してくれ」
「最近のニュースについて、あなたの感想を聞きたいの」
 僕は人類が生き残るために、最も的確な回答を考え出そうかと思ったが、あれこれ考えたところで、無駄ではないかと思えてきた。
「ニュースって、例えばどんな」
「まず今日は一つだけ。最近中国で大地震が起きて、何万人という死亡者が出たわね。あなたはこのニュースを聞いて、どう思った?」
 僕はどう答えようか迷った。あまりに大枠な質問であり、いかようにも答えられる。逆に答えるのが難しい。
「大きなニュースが生まれたことで、チベットの独立問題が煙にまかれたなと感じた。大地震による被害は、中国経済の停滞に影響すると想いもした」
 月並みな答えだ。けれど、これでいい。僕は自分の意見を言ったまでだ。しかしすぐさま、これはニュース番組やネット上で、誰かが言った言葉の繰り返しに過ぎないのではないかと思えてきた。
「そうして、他人事のように語っていていいの?」
 サマルは、彼女のベッドの上で、あぐらをかいている僕をまっすぐ見つめてそう質問した。僕はテレビのリモコンを操作した。関東地方局の通販番組が画面に現れた。三十代の主婦が骨盤矯正器具の体験談を語っていた。
「国際問題とか、政治経済の問題とか、そうしたどうでもいい些細なことにしか目がいかないの? この災害について、真摯に思考をめぐらしたことはないの?」
「そうだな。インフラが整っていなくて、必要以上の犠牲者が出た。それはとてもいたたまれないことだと思う」
「そう思うなら、なぜあなたは行動しないで、東京で働いているの? あなたや大勢の人類はこうした悲劇を前にして、何故自ら行動を始めないのかしら?」
「もちろん僕でもボランティアやNGOになって、災害の現場に駆けつけたいと思うことがあるさ。けれど、大勢の人には仕事と、その土地での生活がある。仕事で関わっている人たちの迷惑を考えると、すぐ行動をとるわけには行かないよ」
 僕は大人を批判する無邪気な子どもをさとすように、優しい声音で質問に答えた。
「災害にあった人々を助けることと、あなたのオフィスでの仕事を比べれば、あなたは、オフィスワークの方が重要だというの?」
「そうだね、僕が突然いなくなれば、会社や取引先に迷惑をかけることになる。労働基本契約にも抵触する可能性がある」
「本当に、心からそう思っているわけ?」
 心からはそう思っていない。僕はそう言いそうになった。
 サマルの論理に従うことは、満員電車に乗って毎日職場に通っている、スーツ姿の人たちを否定するように感じられた。僕はストレスをためながらも、真面目に働いている人たちの顔を思い浮かべながら、サマルに反論することにした。
「確かに死の危険に直面して困っている人のところに駆けつけることは、重要だと思う。けれどね、そうは思っていても、行動しない自由というのを僕たちは持っているんだ。ベストの行動を思いついたとしても、思う通りに行動しなくていい。選択する権利は、個人の自由に委ねられているんだよ。僕が行かなかったら、誰かが行く。誰も行かないということはない。僕は応援に向かった人々を、ニュースを見ながら応援するだろう。もし全員被災地に駆けつけるのが正義であり、行かない人たちは徹底的に糾弾されるというなら、それは全体主義社会だね。二十世紀、社会全体が同じ方向を向くことは危険だと、人類は気づいたんだよ」
「OK、この質問についてはもう解答いただかなくて結構。次の質問に移るわ」
 そういうサマルの声はひどく冷たく、僕はサマルのことを怒らせたのかも知れないと思った。
「二番目の質問。これはとても大事な質問。あなただけでなく、あなたの七代後の孫の運命まで決めることになる大事な質問だから、よく心して答えてね」
 僕は唾を飲みこみ、リモコンの電源ボタンを押した。注文のためのフリーダイヤル電話番号が表示されていた画面が、真っ黒になった。





 翌朝、目が覚めると、僕はサマルのシングルベッドの上で横になっていた。電気はつけっぱなしだった。起き上がって室内を見回したが、サマルの姿は見当たらなかった。
 四川大地震についての感想を聞かれた後、どういう会話を交わしたのか、僕は覚えていなかったし、いつ眠ったのかも記憶になかった。
 バスルームにもトイレにもサマルがいないことを確認した後、僕は鍵のかかっていない扉を開けて、部屋の外に出た。
 六月の空は曇っており、日差しは弱かった。鍵のかかっていない自室に戻って、目覚まし時計を見ると、午前六時半だった。ミネラルウォーターを一杯飲んだ後、僕は髭をそって、シャドーストライプのスーツに着替え、丸の内線に乗った。
 丸の内線の上り電車は、午前七時四十五分過ぎから通勤ラッシュで責め苦のような状態になるが、七時前は余裕で座れた。
 オフィスのある駅にたどりつくと、僕はアメリカ産牛肉未使用の牛丼チェーンで納豆定食を食べた。納豆は硬く、納豆に混ぜる卵の黄身はオレンジ色だった。
 納豆を食べて、冷たい緑茶を飲んだ後、僕は店を出た。牛丼チェーン店から三軒先にある、昨日の朝とは別の喫茶店に寄って、僕はエスプレッソを注文した。
 僕はアイポッドで、ニーチェのツァラトゥストラに影響を受けたというマーラーの交響曲第三番を聴きつつ、キューバからニューヨークに亡命した小説家が書いた自伝を読んだ。
 コーヒーの濃厚な香りを楽しみながらの読書中も、肩と腰の痛みが続いた。僕はサマルにも、その他の友人知人にも、慢性疲労感を告白していなかった。
 栄養ドリンクやビタミン剤のCMを見ると、同じ悩みを持っている人は多そうだった。僕は健康なふりをして、オフィスワークを続けた。
 全身の神経痛さえなければ、オフィスワーカー兼小説家であろうとも、十分幸せだと想えた。
 アマチュアの小説家でいるかぎり、僕には勝利も敗北もなく、競争から離れた自由な存在でいられる。本当に大切なのは、競争に参加することでも競争から離れることでもなく、生きている時間を必要な仕事に捧げることであるように感じられた。
 僕にとって必要な仕事とは、オフィスワークでもなく、競争に勝つための小説を書くことでもなく、ただただ正直な記録を毎日書き残すことであるように感じられた。
 それは小説家とかライターとか編集者とか、そういうクリエイティブな職業でなく、裁判所で証言を正確に書きとめる義務を持つ、証言書記係の仕事に近いだろうと思えた。
 六月一日から、僕の隣に新しい派遣社員が座っていた。一ヶ月契約で派遣された男の名前は、オナンと言った。
 オナンはいつも薄い灰色のスーツを着て、遅刻ぎりぎりの時間に出社していた。外見は細いが、スーツを脱げば、腹回りなど脂肪がたっぷりついているように感じられた。年齢は僕と同じか、若くても二十代後半のように見受けられた。
 お互い人見知りの癖があったせいか、僕とオナンは最初打ち解けなかった。一週間ほどたって、オナンは自分にスカトロの性癖があることを告白してきた。僕にそういう趣味はなかったが、オナンは僕のことを気に入ったのか、気がつけば仕事中スカトロの話題を喋り続けていた。
「エルさん、昨日の夜、ついにハイビジョンのプラズマテレビが届きましたよ」
 オナンは派遣社員だったから、夕方六時過ぎには毎日退社していた。昨日は退社後すぐアパートに帰り、新宿の量販店で注文しておいたプラズマテレビの到着を待っていたという。
「早速お気に入りのDVDを見ましたよ。ブラウン管で見るより、やっぱり女の子の体が全然綺麗ですね。さすがプラズマ、画質が素晴らしすぎる。高精細の画面で、美女のお尻からひねり出る大便を眺めるのは、すげえ興奮しますよ」
 僕はオナンの方を見向きもせず、パソコン作業を続けた。オナンは背筋を曲げてかがみこみながら、スカトロ話を続けた。
「みんなハイビジョンテレビで何を見てるんでしょうね。ブルーレイディスクの再生画面なんて、肉眼で見る風景より綺麗じゃないですか。ああ、ブルーレイで早くスカトロのビデオが出ないかなあ。現実よりも緻密で美しい画面で、女の子が悶絶しながらうんこを出すんですよ。汚いものをブルーレイの最新技術で楽しむんだから、贅沢の極致ですねえ。たまらないな」
 オナンはしばらく頭を垂れて、自分の妄想にふけっていた。僕はオナンを無視して、トイレに行くことにした。
 オナン退社から五時間後、僕は会社を出た。マンションには二十二時十分にたどりついた。
 僕は帰ってすぐ浴室に向かった。シャワーを浴びた後、瞼の上に濡らしたミニタオルをおいて、半身浴を続けた。二〇分ほどくつろいでから、僕はサマルの部屋を訪ねた。
 昨晩何があったのか、サマルにどう聞きだそうか迷ったまま、僕はインターホンのベルを鳴らした。いつもならば、すぐにドアが開いてサマルに招き迎えられるのだが、今日は扉が開かなかった。
 下の階から人の足音が聞こえてきた。三階まで上がってこられたら、気まずいと思った。
 マンションの三階には、僕とサマルの部屋を含めて、四室しかなかったが、お互い顔を知らなかった。三階の住人と廊下で出会っても、どの部屋に住んでいるのか、検討もつかないだろう。しかし、僕がサマルの部屋の前で躊躇している様子を、人に見られたくはなかった。
 僕はドアノブに手をかけて、引っ張ってみた。鍵はかけられておらず、扉が開いた。階段を登る足音が三階に近づいてきた。僕はサマルの部屋の中に入り、扉を閉めた。
 サマルの部屋に明かりはついていなかった。
 廊下の足音がとまった。階段近くの部屋のドアを開けしめする音が聞こえてきた。
 僕は玄関の電気をつけて、サンダルを脱ぎ、部屋の中に入った。
 室内にサマルはいなかった。今朝僕が出た後から、部屋の中は何も変わっていないように見受けられた。
 昨晩、四川大地震についての感想を求められた後、サマルはとても重要な質問をすると言っていた。質問の答えによって、サマルは、僕とのやり取りは一切不要と判断したのではないだろうか。故にマンションに鍵もかけず、本来彼女がいるべき場所に戻っていったのではないだろうか。
 僕は重大な質問の内容も、それにどう答えたかも思い出せなかった。ふがいない自分を責めながら、僕はサマルの部屋のシングルベッドに座ってあぐらをかいた。壁一面に並ぶサマルの蔵書が僕の心を圧迫してきた。
 サマルがどういう目的で本を集めているのか、僕は把握していなかった。現生人類の生態調査というのが蔵書収集の大きな目的だろうが、数多くある書物の中から、何故ここにある本を選んだのか、選考基準はわからなかった。
 人文科学、自然科学の国内外の専門書は一通り揃っていた。今や忘れ去られた一時のベストセラーや、くだらない新書も散見された。
 僕はラテンアメリカ文学の原書が並べられている棚の前に立って、本を手繰っていった。二十世紀ラテンアメリカ文学を読むことで、サマルは人類の何を評価しようとしているのか、僕には想像できなかった。
 プイグの『蜘蛛女のキス』と、レイナルド・アレナスの『夜になるまえに』の原書の間に、小型のカプセルが挟まっているのを見つけた。カプセルは風邪薬程度の大きさだった。最初は錠剤かと思ったが、触れて金属製だとわかった。
 僕はカプセルを天上にあるライトにかざしてみた。カプセルは電球の光を反射して、きらきらと輝いた。
 入り口のドアが開く音が聞こえた。すりガラスのドアを開けてリビングに入ってきたのは、サマルだった。
 サマルは、体にぴったりとフィットする、無地の黒いスーツで全身を包んでいた。顔の表情は相変わらず、悪魔のように冷たく美しかった。サマルは両手に東京都指定のゴミ袋を持っていた。
「何だ。あがっていたの?」
「ごめん、勝手に」
「人の部屋に無断であがると、この国では、不法侵入罪という罪が適用されるのでしょう」
「知らない者同士の間でならね。同胞の間では、法律よりも友愛の情が勝るよ。それより、そのゴミ袋どこから拾ってきたの? それこそ、人の個人情報を勝手に持ち出す盗難行為にあたるんじゃないか?」
 サマルは東京都指定のゴミ袋をリビングの入り口付近に下ろした。
「それも調査の一環というわけ? いくら捨てたものでも、人のゴミを漁るのは、あまりすすめられることじゃないね」
 サマルが珍しく微笑んだ。いたずらがばれた少女のような、あどけない表情をしていた。
 僕の方を向いたサマルの目つきが、突然厳しくなった。視線の先には金属のカプセルがあった。
「エル、そのカプセルを返しなさい」
 僕はサマルにカプセルを渡さず、手をひっこめた。
「この中には何が入ってるんだ?」
「あなたたち人類を絶滅させる最終兵器よ」
 サマルは真剣な顔をして、僕の目をまっすぐ見据えた。
「あなたたちが扱っている兵器みたいに、他の生物を巻きこんで環境を死滅させるわけじゃない。シンプルに、人類だけを地球上から絶滅させる、我々の最終兵器」
「何それ。これが爆発したら、人類だけが次々死んでいくのか?」
「爆発はしない。一瞬光り輝くだけ。それでおしまい。人類はこの地球に生存していなかったのと同じ扱いになる。あなたたちには、はかりしれない技術が使われている」
 サマルの顔にまた、いたずら好きの少女のような笑みが広がった。
「わかった。とりあえず今は返すことにする」
 僕はサマルの手のひらにカプセルを落とした。サマルはカプセルを、『蜘蛛女のキス』と『夜になるまえに』の原書の間に戻した。
「そんな危なっかしいもの、本棚において大丈夫なの?」
「ここには私とあなたしか来ない。大丈夫でしょう?」
 確かに僕にはカプセルを盗む気がなかった。カプセルが最終兵器だという説明は嘘かもしれないが、僕はそれ以上カプセルについて、質問しないことにした。どっちみち、僕にはわかりっこない問題だ。
 そうだ、僕は彼女の質問に答えるためにここに来ているのだから、余計な詮索はしない方がいい。たとえ僕が詮索し下手に動いたところで、裏目に出るだけではないか。サマルが僕に求める報告の質を高めることだけに、僕は意識を集中することにした。
 僕はいつも通り、彼女のシングルベッドの上に乗って、あぐらをかいた。
「今日は何を報告しようか?」
「そうね。ごみについて、どう思っている?」
 サマルはカーテン手前の丸椅子に座り、小柄なテーブルの上に載っているノートパソコンを起動した。
「毎日歩道に出されるごみは、所詮人間が定めたごみに過ぎない。地球にとっても、他の生物にとっても、それはごみなんかじゃない」
 僕は頭の中で、通勤途中の光景を思い浮かべていた。
 朝、新宿通りの歩道で、からすが生ゴミを漁っている。最初、からすの大群に遭遇した時は、他の街にくらべて新宿区はひどく物騒だと思った。
 しかし、毎日新宿通りを歩くうち、生ゴミに群がるからすを恐れてびくつくこともなくなった。ひょっとすると、からすは誰かに駆除されたかもしれないと思えるほど、僕の視界からからすの存在が消えていた。
「役にたたないものがごみになる?」
 サマルがようやく電源のついたノートパソコンのキーを叩き始めた。人間にとって役立たないものがごみになるが、からすにとってごみは、貴重な食糧源だった。
「ごみも資源として再利用されるようになったけれど、無用なものは処分される社会が続いているね」
 僕は入り口脇に置かれたゴミ袋二つに目を向けた。東京都指定の半透明のゴミ袋をよく見つめると、中に洋服の切れ端らしきものや、食品の紙パックが見えた。
「そういえば、最近高級料亭で、料理の残り物を客に出していたのが発覚して、大騒ぎになったわね」
 その料亭は、消費期限か賞味期限か、よくわからない期限の日付をごまかして、以前からニュースになっていた。料亭の経営者たちは、テレビに毎日あらわれ、心のこもっていない謝罪を続けていたが、今日ついに廃業になった。
「もしも食べ残しを他の客に出していなかったら、その食べ残しはどうなったと思う?」と僕が訊いた。
「ゴミ行きね」
「店の人たちが残り物を調理して食べるかもしれないけどね。家庭では昨晩の夕食の残り物を翌日食べることなんて普通にあるのに、客商売で料理のリサイクルをすると、さんざんバッシングされる。昔ならマナー違反だと批判されて当然だろう。けれど、大衆消費社会では、事情が違う。みんながみんなお客様だ。お客様がたくさんいれば、食糧も大量生産されるけれど、当然売れ残る。スーパーやコンビ二の残り物は、すぐゴミ箱に行く。賞味期限切れの商品を販売していると、クレームがつくからだ。賞味期限切れの商品が、家畜の食糧としてリサイクルされることもあるけれど、そうしたリサイクル行為は共食いの原因になる。牛肉の粉を食べた牛から、狂牛病が発生した」
「エル、あなたは廃業した会社の考え方を擁護しているの? それって、アブノーマルな立場じゃない?」
 アブノーマル。僕の考えはサマルに、一般的な日本人の考え方からすれば、異常な考えだとみなされたようだ。僕は人類のサンプルとして落第だろうか。
「社会の方が異常だ。こんな社会を続けていては、地球が成り立たなくなるのは目に見えている。食糧価格は高騰して、世界中に貧困が広まる。みんなおかしいと気づき始めている。何かしなければいけない」
 僕は後期トルストイのように正論をぶちまけてみた。僕の声の他には、サマルが叩くキーボードの音だけが室内に響いていた。
 僕がだまっていても、サマルはキーを叩き続けた。気詰まりになった僕は、テレビの電源を入れた。テレビ画面にはヨーロッパで行われているサッカーゲームが衛星生中継で映し出されていた。何百億円という高額の収入を得ているスタープレーヤー同士が、サポーターの声援を受けて、サッカーボールを蹴りあっていた。
「あなたはそうやってまた事態から逃げようとする」
 サマルが座っている脚を組み替えて、少し首を斜めに向けた。
「あなたのささやかな主張はそれだけ? 誰もがスローガンのように言っている、陳腐な綺麗ごとばかりじゃないの。何の解決にもならないわ。あなたはそうやって先人の行いを批判しつつ、自分の行動を特にあらためるでもなく、批判ばかり繰り返している。舌はよくまわるけれど、言葉だけで行いが伴わない。死んでいるも同然よ。その言葉を誰に届けるつもりなの? 自分の行動を変えるほどの威力もないのでしょう? 慰めの言葉ばかり繰り返していては、もう遅いんじゃない?」
 サマルはそう言いながらも微笑んでいた。
「僕の言葉は小さく無力だけれど、少なくとも、こうしたことをみなが言えるようになったことは、大きな一歩じゃないのかな。以前は誰も、こうしたことを言おうとも思わなかったのだから」
 僕は自分を弁護するのでなく、類としての私たち全体を弁護するように言った。
「そうした戯言を慰めだと言っているの。甘やかすのはもうやめにしたら? あなたは自分をだましながら、眠っている。もういい加減にしてよ」
 サマルに新興宗教の勧誘を受けているように感じられた。僕はサマルの勢いに流されることなく、冷静な観察を取り戻すことに決めた。
 サマルは、僕が何らかの行動に出ることを求めている。サマルの欲望は何なのだろうか。サマルは僕らを滅ぼすためでなく、地球と僕ら両方を生き永らえさせるために、やってきたのではないか。
 サマルの欲望を読み取るためには、彼女から一度離れた方がいい。僕はサマルの元を去って、時間を振り返る作業が必要だと感じた。





 僕は毎晩サマルの部屋に通うのをやめて、オフィスワークに集中する日々を送った。と言っても、仕事に集中しているのは、労働時間中のみで、朝と昼休みは小説を読んでいたし、夜はテレビを見ながらブログとミクシィを書いていた。忙しさに追われる合間に、サマルは何を企んでいるのか考えることにした。
 サマルの仕事は、人類を絶滅させるか存続させるか、その見極めであり、僕は生身の調査サンプルとして選ばれた。しかし、サマルと僕の会話の中には、調査以上の意図が感じられた。
 サマルは僕の思考と行動を批判しつつ、僕の未来をサマル自身が望む方向へ変えようとした。これは調査と言えるだろうか。
 サマルは他文化を調査する文化人類学者ではなく、異国の文化を支配しにきた、宣教師か帝国の総督であるように感じられた。サマルは罵倒の言葉を繰り返すことで、僕を服従させようとしていたのではないだろうか、そんな被害妄想が頭にもたげてきた。
 サマルは地球を征服しにきた異星人かもしれない。人類を無力化して、奴隷にすることを企んでいるかもしれない。知恵を働かせろ。僕の狡猾な良心は、そうささやき始めていた。
 しかしながら、実際の日本には、人類の評価を下げるような事件と問題が満ちていた。
 最近とみに若い男性による殺人事件が続発していた。平和と言われた日本には似つかわしくない頻度で、無差別殺人が続発していた。秋葉原、渋谷、佐世保、そしてまた秋葉原。暴走するトラックやら、銃弾やナイフが飛び交い、罪のない通行人が殺されていった。そうした凶悪事件に重なるように、ハリケーン、四川の地震、宮城・岩手内陸地震など、自然災害のニュースが続いた。
 ニュースで流れる事件はどんどん不可解で、突発的で、凶悪化していたが、僕の周りには、そうした事件の被害者は一人もいなかった。実際、社会の大半は平和になっているのだが、一部の人に不幸と不平等が集中しているようだった。ニュース番組は平和で幸福な光景を流すよりも、暴力的な情報を流した方が視聴率を取れるから、積極的に暴力を放送しているとも思えた。
 毎日放送されているバラエティー番組を見て、ストレスを発散するのもいいかもしれないが、それはサマルが言うように、現実逃避だと感じられた。ニュースに誠実に向き合うこと。それは世界で起きている現実から逃げ出さずに、観測する意志を持ち続けることだった。
 いつも二十二時近くまで残業していたがが、今日は二十時半に退社することができたので、サマルの部屋を訪ねることにした。
 珍しく残業していたオナンと帰りの電車が一緒になった。オナンは混雑している丸の内線の車内でも、僕にスカトロの話題をもちかけてきた。
「エルさん、昨日もスカトロのDVDを見ながらオナニーしちゃいましたよ。美女のお尻から大便が出る瞬間は何とも言えないですね。僕はあの大便が胎児に見えるんですよ。体液で濡れて、つやつやした大便が、肛門からぽとぽと落ちてくるんですよ。たまらないっすよねえ」
 僕は相づちも打たずに、目をつむって他人のふりをしていた。
「僕はね、肛門から排便される瞬間のマニアなんです。スカトロ好きにもいろんなタイプがありましてね、床に落ちた大便を眺めるのが好きな奴、大便を美女の体に塗りたぐるのが好きな奴、大便を美女に食わせるのが好きな奴、本当いろいろあるんですよね。けど、僕はそういうの、全部気持ち悪くて、見てられないんです。だってうんこですよ。汚いでしょそんなもん。肛門からぼっとり落ちる瞬間、それだけですよ、芸術的なのは。僕は便器の中に落ちるのが好きなんです。水の中に入ったら、うんこはよく見えなくなりますからね。一発出た後は肛門に注意を戻して、次こそ大きい奴出てこいって、期待するんですよね」
 語り続けるオナンに言葉もかけず、僕は電車を降りて、マンションを降りた。
 僕はシャワーを浴びた後、Tシャツにハーフパンツ姿で、ビーチサンダルをはいて外に出た。
 サマルは僕の生活に干渉しようとしているが、逆に言えば、僕もサマルと会うことで、彼女の生活に干渉することができる。サマルの属する組織が、僕の働きかけによって人類絶滅計画を中止したら、僕は人類を救うヒーローになる。
 外の空気は湿っていた。僕は角にあるサマルの部屋のインターホンを押した。返答がなかったので、呼出ボタンを二回続けて押してみた。ドアは開かないし、声も聞こえてこなかった。
 僕はドアノブをつかんでひねってみた。鍵もチェーンもかかっておらず、ドアが開いた。
 リビングルームまで続く廊下には、電気がついていなかった。閉められたリビングドアの向こうは、明るく光っていた。ドアのすりガラスから漏れる光のおかげで、廊下に、東京都指定のゴミ袋が等間隔で置かれているのが見えた。
 リビングの方から交響曲のステレオ音響が聞こえてきた。響いている交響曲は、聴きなれたマーラーの曲だとすぐにわかった。おそらく交響曲第四番ト長調の第四楽章。ソプラノの牧歌的な歌声がやむと、病的なまでに速いテンポで、第一楽章の鈴が鳴るモチーフが繰り返された。ドラマチックな音作りからして、僕がアイポッドで愛聴している、テンシュテット指揮による演奏だと推測された。
 マーラーの弟子ワルターが「天上の愛を夢見る牧歌である」と表現した交響曲第四番と一緒に、ゴミ袋から、生ゴミが腐ったような匂いが漂ってきた。僕は足音を立てないように注意しながら、リビングに向かった。
 リビングには電気がついていた。以前は壁一面に並べられていた本棚と蔵書が全てなくなっていた。かわりに、東京都指定のゴミ袋が大量につまれていた。ゴミ袋の合間に隠れて見えないが、おそらく床にステレオコンポでもおかれているのだろう、マーラーの交響音がソプラノの声と一緒に鳴り響いていた。
 サマルはリビングの一番奥、窓を覆う漆黒のサテンカーテンの前にいた。
 サマルは黒いブラジャーとショーツを着ただけの下着姿で、真っ白な肌をさらけ出しながら、ライフルを構えていた。ライフルの銃口は、両開きのカーテンの隙間から、窓の外に向けられていた。サマルはライフルに体を寄せて、中腰の姿勢でスコープカメラを見つめていた。
 サマルは僕の存在を無視して、ライフルの先に注意を向け続けていた。銃口はやや上を向いていた。道路向かいにある、オレンジ色の壁の高層マンションを狙っているのではないかと想像された。
 部屋を埋め尽くしている生ゴミ臭いゴミ袋も、僕のCDを勝手に借用してかけているとしか思えないマーラーの交響曲も気になったが、僕はサマルが成そうとしている発砲を止めることにした。
「サマル…」
 僕はか細く震える声を出した。サマルは僕の方に注意を向けず、銃口の先を見つめ続けていた。
「サマル、やめるんだ。暴力はいけない」
 人類絶滅を企む組織に属するサマルにそう言うのは馬鹿らしかったが、僕はそう呼びかけでもしないと、人類全体に怒られると思って、サマルに声をかけた。
 サマルはスナイパーライフルのスコープから顔を離して、僕の方を流し目でちらと見た。サマルの顔は相変わらず冷たく、感情が通っていないように感じられた。
「そうだ。手を離して。人を殺すのはまだ早いよ」
 人一人殺したところでサマルにとってはどうとないことだろうが、僕たち人類は、一人一人の命に多大な価値を置き、尊重していた。サマルが属する組織の決定がなされるまでは、サマルにも人命を尊重して欲しかった。
 サマルは目をまたスコープに戻して、ライフルを構えなおした。
「サマル、やめるんだ。何故人を殺すんだ?」
「別に人を殺そうとしているわけじゃないわ」
 サマルは姿勢を変えずにそっけなく答えた。
 確かに、サマルが殺人を企んでいるとは僕の想いこみに過ぎなかった。
「じゃあ何をしているんだ? 銃撃の練習? 建物の破壊? 鳥でも撃ち殺そうとしているわけ?」
 だいたいにして、下着姿で銃を構えているサマルはおかしかった。部屋には東京都指定のゴミ袋しかない。サマルにどんな心境の変化があったのだろう。ほんの一週間ばかりに過ぎないが、僕が報告を絶やしたのがいけなかったのだろうか。
 サマルはライフルをおろすと、ほんの少し開けていた窓を閉めてから、漆黒のカーテンを引いた。
 サマルはライフルをゴミ袋の間に投げ入れた後、ゴミ袋の上に腰をおろして、僕を見つめた。
「ありがとう、辞めてくれて」
 サマルは黙っていた。何を撃とうとしていたのか、僕に教えたくないようだった。
 マーラーの交響曲が、高速で盛り上がり始めた。木管がふざけて戯れる音を出していた。
「久しぶりだね。このゴミ袋、どうしたの?」
「拾って集めたの。ま、調査の一環ね」
「人類活動のサンプル収集か」
 サマルに話しかけようとすると、露出した肌に目がいった。僕は興奮していたが、性的興奮状態にあることをサマルにさとられたくなかった。
「本棚と蔵書はどこにいったの?」
「本棚は他の家具と一緒にリサイクルショップに出したし、本は近所の古本屋にまとめて売ったわ」
 リサイクルショップがどこにあるのかはすぐ思いつかなかったが、古本屋は僕もよく利用していたので、すぐに場所が思い当たった。サマルの本棚の中には、興味深い学術書がたくさんおいてあったので、僕はフランチャイズのその古本屋に、今度の休日寄ってみようかと考えた。
「早速だけど、報告を再開してもらっていいかしら?」
 サマルが笑顔を作って僕に話しかけた。その笑顔は営業職の人が商品を売りたい顧客の前でつくる、ビジネスライクな笑顔によく似ていた。
「いいよ。何を話そう」
 本当なら、質問したいことが山ほどある。蔵書を何故全て売り払ったのか、このゴミ袋はどこから集めてきたのか、ライフルを何処で手に入れたのか、さっきは何を撃ち抜こうとしていたのか。
 けれど、サマルは僕の質問に答えてくれそうになかった。僕はサマルから、報告者としての役割を与えられていただけだった。
「何でもいいから話してごらんなさい。あなたが考えたこと。本当になんでも自由に話していいのよ」
 僕に質問する自由はないが、報告内容の自由は与えられていた。しかし、報告したところで、サマルはきっと僕の回答を批判してくるだろう。自由に答えてよいと言っていても、必ず批判してくるのだ。
 僕は用意周到に答えようと思ったが、戦略を練らずに、正直に答えることを自分の信条にしたことを思い出した。
「君にも以前言ったことだけれど、僕は正直に答えると自分自身に誓っていた。君との報告の場だけに限ったことじゃない、人生の場面全てにおいて、僕は正直に答えることにした。けれど、その決意を僕はすっかり忘れていた。君は武器を持っている。まずいことでも言ったら、誰か殺されるかもしれない。それでまた下手な戦略を練ろうとしていた」
「愚かね」
 サマルの辛らつな物言いは僕の上司のようだった。
 もちろんオフィスにおけるビジネスの場では、愚かなどという主観的感情を述べるだけでは、上司として評価されない。何が愚かしくて、どうすれば愚かさが直るのか、こと細かに指摘できる者が、ビジネスの場では評価される。そうした営利活動全体が愚かしいかもしれないという、根本的問いかけは成されないが。
「何故ほんの数日前に決めたことを忘れていたの? 自分で決めたことくらい、覚えようとは努力しなかったの?」
 サマルが問い詰める様子は僕に、恋人との口げんかを思い出させた。何故こんなことで、そこまで怒るのか、僕には理解できないと言いたいけれど、サマルの怒りを僕は理解できた。
 やろうと決めたことをやらなかった。いつのまにか決意を忘れて別のことにかまけていた。思い返せば、僕の人生はそうした一貫性のなさに支配されていた。その場その場の出来事に対処するのに精一杯で、僕は自分の意志や行動を貫徹できずにいた。
「オフィスワークの仕事量、仕事のストレス、いろいろな厄介ごとに頭が支配されて、正直に生きようとするのを忘れていた。だいたいにして、正直に生きていたら、オフィスで仕事なんてできないだろう。疲れたら帰りたくなるけれど、疲れただけで帰ったりしたら、勤めを果たせなくなる。それは大人のすることじゃない。子どもの正直な振る舞いは、社会では否定されてしかるべきなんだよ」
「それは単に甘えでしょ。正直さとは違うわ」
 怒っている時の恋人と同じく、サマルに下手な言い訳は通じないようだった。
「正直な大人ときいてイメージする人間像と、疲れたからと行ってすぐ帰る大人の人間像は、まったく一致しないと思うわ」
「そうだね。正直な大人は、自分が本当にやりたい仕事、いくら時間をささげても、至福の時を過ごせる仕事を選ぶだろうね。僕は自分に嘘をついて、金儲けのためのオフィスワークを選んだ。そもそもの職業選択が嘘だった」
「あなたの人生には嘘が多すぎるのよ」
 マーラーの交響曲は矢継ぎ早に複雑怪奇なフレーズを繰り出していた。
「僕はたまに決意を述べて、すごくかっこつけるけれど、結局数々の問題にぶちあたって、かっこいい言葉を覆すことになる。決定事項は先に送られ、問題も累積したまま、ますます現実は複雑にねじまがってしまう」
「問題が多すぎるし、やっていることが手広すぎるの。つまり、あなたは自由を持て余している。もっと自由の範囲を狭めて、自分のやるべきことに生活を集中する方がいいわね」
 サマルの言葉は、僕への批判であると同時に、人類全体に対しての批判であるとも感じられた。
 人類の前には解決すべき問題が山積みであるのに、人類は自由時間を浪費するばかりで、一向に問題を解決しようとしていない。サマルの言葉が僕の頭の中ですぐさまこのように変換された。
 いささか行き過ぎた想像かもしれないが、何より、サマルは人類全体のサンプルとして僕を選んだのだ。サンプルの数が少なすぎることはおおいに問題だが、僕に下される低評価は、人類全体に対する低評価と直結している。
 いけない。人の機嫌を見てしまうと、また正直に言えなくなる。機嫌をとるために、本心では思ってもいない言葉が口から出てしまう。
 僕はサマルに自分をよく見せようとするのは、やめることにした。正直に想いを述べようとすると、すぐさま邪魔が入ってしまう。正直に生きることを邪魔していたのは、僕の内部にある、虚栄心だった。
「わかった。僕は自分の感情に正直に生きることに、全生活を集中してみる。ほかの事はどうでもいい。ただ正直に生きるだけにする」
 そう言った時、僕の気持ちはきれいになった。心にたまっていたストレスの元が、全て抜け落ちたように感じられた。
 マーラーの交響曲は、第一楽章の最初のモチーフの変奏を繰り返した。僕はCDを返せとも言わず、サマルの部屋を後にした。





 僕は正直に生きることを心がけようと決意していたのに、その決意を忘れていた。同じように、僕はサマルという存在に干渉して、サマルの企みを変えようと思い立っていたのに、いざサマルに会ったら、計画を忘れていた。
 何故決意を忘れてしまうかと言えば、僕が直面する現実が差し出してくる問題が複雑で、かつ無数にあるためだった。現実問題の対処に追われているうちに、僕の決意ははるか過去の出来事であるかのように、記憶の底に埋もれていった。
 部屋中にゴミ袋が溢れていたこと、室内に僕のものらしきテンシュテット指揮によるマーラーの交響曲が流れていたこと、サマルが下着姿でいたこと、窓際にスナイパーライフルを持って立っていたこと。等々、僕の想像範囲の外にあった出来事が大量に去来した結果、僕はサマルに干渉しようとする意志を忘れた。
 僕は迫り来る現実を解釈することに必死だった。サマルの銃撃を止めようとしたことが、強いていえば干渉行為に当たるのかもしれないが、僕はその時、干渉しようとする戦略的意志を持っていなかった。ただ単に、サマルが人殺しをしてはいけないと思ったから、サマルに呼びかけただけだった。それは率直な干渉だった。
 あるがままに生きるという最初の決意と、干渉しようと戦略を練ることは、矛盾する。問題になるのは、第一の決意と第二の決意の連続性の無さであった。
 僕個人にとって人生の決意とは本来何個もあるものではなく、一つしかないはずだと思えた。今まで、何か一つ決意したら、以前あった決意は忘却の彼方に忘れられていた。これからは何か一つ決意する際、前の決意を忘れずにいることにした。
 前の決意に新たな決意を追加したら、それはつぎはぎ工事のような決意になるだろう。今までの生活が無茶苦茶だったのは、決意が足し算か引き算か割り算になっていたせいだった。決意同士の連結を工夫したら、決意は掛け算となり、倍数的に強力なものになるだろうと思えた。
 僕が決めた最初の決意は正直に生きることだった。その決意にサマルに干渉するという第二の決意をかけてみよう。人生においてただ一つであるべき僕の決意は、正直に生きる僕の人生を、サマルという存在にぶつけることとなった。僕は今後も、正直に生きる自分を他者にぶつけて生きることにした。
 常日頃僕は、他者の機嫌をかんがみ、他者から拒絶される不安と恐怖に怯えつつも、愛想笑いを振りまいていた。今日からは違う。僕は正直に、世界と対峙することにした。
 オフィスでの仕事中、隣の席のオナンは、手を動かしていない時間が多かった。腕を組み、パソコンの画面をずっと見つめていることもしばしばあった。
「パソコンの動き遅いの?」と僕が訊いた。オナンのパソコンはオフィスの中でも最も古いものであり、処理速度が遅かった。
「そうなんです。こうして動き出すのを待っていると、肛門からなかなか出てこない大便を待ち構えている時を思い出しますよ。待った後には、たいてい特大の便が出てくるから、楽しみに待っていられるんですけどね」
 そこからまたオナンのスカトロ話が続いた。
「エルさんは、まだスカトロのDVD借りたことないんでしょ。今度持ってきてあげますよ。実はね、ブルーレイでスカトロのソフトがあったんですよ。スカトロ専門じゃないんすけどね。異常性欲ものってやつ? SMとかコスプレとか、アナルとかレズとかいろいろあるうちに、スカトロがちょっと入ってるんですよ。エルさんち、ブルーレイ再生できましたよね。今度持ってきますから、ぜひ超高画質で女の子の大便を楽しんでください」
 僕は承諾も拒否もせず、パソコンに向けて仕事を続けた。
 オフィスワークが終わって部屋に帰ると、二十三時前だった。僕は短い時間シャワーを浴びてから、テレビニュースを見た。
 連続幼女殺人事件の犯人だった、宮崎勤の死刑執行が今日行われたとわかった。秋葉原で起きた無差別殺人事件の献花が続く中、宮城・岩手内陸地震の復興ままならない状況のまま、今日、宮崎勤の死刑執行が行われた。
 宮崎被告と一緒に、数人の死刑執行が行われたそうだが、ニュースになるのは宮崎被告の死刑執行ばかりで、一緒に殺された人々の話題は、添え物のように扱われるのだった。
 もちろん死刑囚たちは、人を殺すなり多大な被害を与えており、その報いとして国家から死刑を与えられているのだが、今日彼らが、誰かの手によって殺されたという事実は、事実として僕の前に存在していた。
 連続幼女殺人事件の犯人がわからず、みなの興味が集中していた当時、容疑者の名前が宮崎勤と公表された瞬間、彼の名前が日本全土を駆け巡った。中学生だった僕らの間でも、すぐさま宮崎勤という言葉は記憶され、忌み嫌われる対象になった。つとむという名前を持っている人たちは、宮崎勤と同じ名前であるというだけで、なんだか一つ悪いものでももらったような感じだった。
 宮崎勤の犯行を起点として、理解できない犯行が多発するようになったとよく言われる。先週起きた秋葉原での無差別テロなどまさにそうした異常犯罪の好例だった。ヨーロッパやアメリカのニュース放送を見ても、宮崎勤の事件と同種の異常犯罪は散見された。こうした猟奇的殺人事件と、それに続く死刑執行は、戦争から遠ざかった平和な民主主義社会で、散見される現象だと思えた。
 こうした犯罪者にまつわるニュースを見るにつけても、サマルの人類に対する評価が下がっているのではないかと推測された。しかし、社会や行政の評価を下げる事件が起きても、一切報道しない封建的社会も問題だ。サマルが我々の社会の自由な報道の実情を見て、好印象を持ってくれることを願うばかりだった。
 死刑執行のニュースを見ながら、僕は残業続きで痛み出した体をマッサージしていた。事件ニュースなど見ずに、マーラーの交響曲第五番のアダージョでも流しながら、ヨガをすれば疲れは癒されるのだろうが、僕はニュースを見つつ、体を慰めた。
 ドアのインターホンが鳴った。二十三時近いというのに、来訪してくる者と言えば、隣で暮らしているサマルしか思いつかなかった。
 毎晩僕がサマルの部屋に通うばかりで、サマルが僕の部屋を訪ねることは一度もなかったが、僕はインターホンを鳴らしているのが見知らぬ人でなく、サマルであることを期待した。
 インターホンの受話器をあげて、声をかけても、返事は無かった。白のTシャツに灰色のボクサーブリーフを身につけただけだったので、僕はスウェットをはいてから、玄関の扉を開けた。
 黒いブラジャーとショーツを身につけただけの姿で、サマルが立っていた。梅雨半ばの蒸し暑い空気が、エアコンのきいた室内に入ってきた。
「どうしたの? そんな格好をして」
「暑かったの」
「隣の人に見つかったらどうするんだ。とにかく入って」 
 僕はドアを広げてサマルを室内に招き入れた。サマルはヒールの高い銀色のサンダルを玄関で脱ぎ、部屋に入ってきた。僕はサマルに、インターネットのオークションで購入した二人がけのソファーに座るよう促した。
 僕はキッチンでウォッカのソーダ割りを作った。サマルが地球人類の食事を好むのか、アルコールを飲むのかわからなかったが、グラスに入れて飲み物を差し出せば、口だけでもつけてくれるだろうと期待した。
 二人分のウォッカソーダを持ってリビングに入ると、サマルはソファーに腰かけ、つけっぱなしだったニュース放送を見ていた。ニュースでは、自民党による消費税値上げ問題が取り上げられていた。世論に反対意見は多いだろうが、消費税でもあげないことには、どう考えても減らないだろう膨大な借金がこの国にはあるのだから、僕は消費税問題などどうでもいいと考えていた。
 僕はテーブルの上にウォッカソーダをそっとおいた。グラスとグラスをあわせて、乾杯でもしてから飲みたい気分だったが、サマルは視線をテレビに向けたままだったので、僕は一人でウォッカソーダを飲み始めた。
 ソーダを口に含めると、炭酸が生み出す舌触りの後に、きついアルコールの触感が口内に広がった。
「僕の部屋に来るなんて珍しいね」
 サマルは呼びかけに反応せず、下着姿でテレビを見つめていた。番組は居酒屋タクシーのニュースになっていた。国家公務員が深夜、ホステスも乗車するという居酒屋タクシーに乗って帰宅していた。居酒屋タクシー利用率は、財務省が一番多いと発表されていた。
 ひょっとするとサマルは、テレビを見るためだけに僕の部屋に来たのかもしれないと思えた。昨日見たサマルの部屋の中には液晶テレビがなく、ゴミ袋しかなかったのも気がかりだった。
「エル、外に出ましょう」
 サマルがテレビを見つめたまま言った。ウォッカソーダにはまだ口もつけていなかった。
「その格好のまま外に出るのはまずいよ。服、持ってないの?」
「これだけだわ」
 そう答える時もサマルはテレビを見つめたままだった。テレビには、プロ野球セパ交流戦の模様が映し出されていた。
「ならいい。僕の服を着ていきなよ」
 僕はクローゼットの中から、サマルが着てもよいと思える服を探した。
 ミリタリーテイストのカーゴパンツと、黒いワイシャツをサマルに渡した。サマルは無言で僕の服に袖を通した。カーキ色のカーゴパンツに脚を通すサマルの様子を見ていたら、僕の性的興奮が高まってきた。女性が服を着こむ姿を見るだけなのに、変な気分になるのもおかしな話だ。
 僕はスウェット姿のまま、外に出た。深夜の歩道には、帰宅中のビジネスマンと、肌の露出が多い服装をした若い女性が散見された。丸の内線の昇降口近くの銀行前には、手相占いの易者がいた。
 易者はグレーのスーツを着て、髭を生やしていた。白い布で包まれた小さな台には「科学的判定」と書かれていた。易者は携帯電話で誰かと話していた。街頭に店を構えている易者という昭和的存在が、携帯電話で話しているのが奇妙に感じられた。 
 僕とサマルは会話することもなく青梅街道沿いを歩いた。丸の内線の上を通る青梅街道には、終電間際だというのに大量の自動車が走っていた。これだけの人々が、深夜自動車に乗って何処に向かっているのか、よくよく考えてみれば不気味に思えたが、毎日当たり前の光景になっていたので、気にせずにいた。
 僕らは交差点を渡った先にある公園に寄った。公園の脇には、シャッターをおろした交番があった。
 公園の中に入るのは、今日が初めてだった。自転車通行中に眺めていた時は、公園内で子連れの母親が話し合っているのをよく目にしていた。マダムの社交場になっている狭い公園という認識しかなかったが、いざ足を踏み入れてみると、想像していたよりも公園は広かった。公園脇の歩道には帰宅途中の人々が通っていたが、公園には僕ら二人きりだった。
 木が等間隔で何本か立てられており、青梅街道寄りには明かりの灯った公衆トイレがあった。砂利を前にベンチが並んでいたが、僕らは奥にある小さなブランコに座った。ブランコは大人が座るには板の位置が低すぎて、こぎ出せば足が地面にぶつかりそうだった。
 僕は四つ並ぶうち、一番道路側のブランコに乗った。サマルは僕の左隣のブランコに乗った。僕らの右手には鉄棒と、小さな滑り台があった。左手奥にはカラフルに着色されたジャングルジムと、大きな砂場があった。僕はサマルの正面に立つブナの木を見つめた。サマルも僕も、ブランコをこぎ出そうとはしなかった。
「昨日も今日も下着で、どうしたのさ」
 僕は左のブランコに座るサマルを見ずに、前方を見つめて尋ねた。僕の脳裏にはキャリアウーマンというか特殊部隊の女スパイのように、整った着こなしをしていたサマルの姿が蘇えっていた。
「正直になりたかったのよ」
 サマルは僕の質問をはぐらかそうとしているのか、本当にそう思って裸同然の姿となったのか、はかり難かった。
「人間が服を身につけ出してから、自分に嘘をつくようになったというのは真実だと思うよ。特に近代以降はそれが加速した。消費社会では誰もが過剰に洋服を持ち、嘘をついている」
「世界中には服を買うことさえできない人も大勢いるのに、あなたたちは新しい服を作り続け、売れ残れば処分する。そんなことの繰り返し」
「サマル、僕たちに絶望しているのか?」
 サマルは言葉を返さなかった。僕はサマルの目の前にあるブナの木を見つめていた。
「あなたたちは、気づかないふりをしている。情報としては同胞が衣食住にもこと足りず生きていることを知っていても、生活を変えずに浪費を続けている。これを不誠実と言わずに、何と表現すべきかしら?」
 サマルが言うように、僕らは他人に干渉せず、生きていた。もちろん政府間の援助はあるし、積極的に援助活動をしている良心的な人々も多かったが、世界システムの全体をみた時、そうした良心的行為の量は微細であり、圧倒的多数は世界の情報を入手することさえせず、浪費を続けていた。
「エル、我々の決定はなされた。人類は滅ぶべきである。理由は不誠実であること。目の前に広がる現実を見ても、気づかぬふりをして享楽していること」
 サマルの言葉は、預言者か新興宗教の開祖の宣託であるようだった。僕は反論することにした。
「待ってくれ。正直に生きていれば、東京で暮らす限り、世界の現実は見えてこないよ。国際ニュースで世界の現実を垣間見たとしても、それは対岸の火事に過ぎず、僕らに切迫した行動を促したりはしない。日本の生活の安全は、有る程度保障されている。正直に回りを見てみよう。凶悪な事件や事故は、ニュース映像を通してしか認知されない。つまり、東京で暮らすことはストレスフルだけれど、いつでも平和だ」
「それでは、あなたたちが作り上げた社会の仕組み自体が、問題ではないの?」
 サマルの声は冷たかった。
「制度的に問題があるかもしれないけれど、制度を作り上げた人と、それに従って生きている人は別じゃないかな。無実な人たちを絶滅させるのはよくない」
「誰も悪い人はいないと? どこかで歯車が狂ってしまった。なら歯車を狂わせた人が悪いんじゃない? 歯車が狂ったまま、修正しようと努力してこなかった人にも、責任があるんじゃない?」
「僕らは今必死になって修正しようとしている」
「システムトラブルを修正しようとしていないじゃない。テレビ画面の窓を通して、システムが生み出すトラブルを見つめているだけじゃない」
 僕はサマルと、サマルの裏にある組織の暴挙を食い止めるために最大限の努力をしようと思った。サマルの方が、知識も知性も僕よりはるかに上だろうが、僕は自分にできる限り最大の抵抗を試みることにした。
「サマル、君たちの意志決定を撤回するために、僕は今まで学習を積んできたように感じるよ。僕が人生に充実を感じていた頂点は大学合格の知らせを受け取った時だった。高校三年間の猛勉強の成果が、大学合格で報われた気がした。今振り返ればとても馬鹿らしい判断だけれど、僕は大学に合格してから、薔薇色の人生が開けると信じていた。大学生活開始後、実現したのは、生きる目的を失って、心身失調となった自分だった。ヘッセ的な受験馬鹿だった僕は、人生の目的も、直面に存在すべき目標も見失い、生きることの充実感や誇りを失った。しかし今、僕の目の前に、生きることの目標が見つかった。サマル、君たちの意志決定に干渉することだ。君たちと交渉し、人類の生存を勝ち取るためにこそ、僕は今まで学習してきたように感じる」
「交渉の余裕はないわ。人類滅亡は決定された」
 僕はサマルの否定に答えず、思考を進めた。
「人類の歩みを修正するために僕の知識を用いる。抜本的改革を行うわけじゃない。今生きている生物の幸せを守るために、僕は知性と時間を使うことにする。サマル、そのためにもチャンスをくれないか?」
 サマルは答えなかった。僕はサマルの横顔を見た。サマルは相変わらず厳しい顔をして、まっすぐ前を見つめていた。
「以前部屋にあったカプセル、もう爆発させたのか?」
「あのカプセルは、本当は爆弾でもなんでもない。我々の栄養源なの。絶滅のスイッチは、あなたたち自身が入れた」
「何? どこかの国が、核爆弾でもぶっぱなしたのか?」
「すぐ崩壊は訪れない。ゆっくりと人類は死滅していく。現存する地球生命の多くは、人類と一緒に死滅していく。そのゆっくりした死の行進に、私たちは干渉しないことにした。同類が死んでいくのに干渉しないで済ますことは、人類が示した振る舞いでしょ。私たちも人類に見習って、人類の絶滅過程に一切干渉しないことにしたの」
 サマルの声はいつになく低く、小さな囁き声だった。僕は時折道路を走るトラックが吐き出す轟音を邪険に感じながら、サマルの言葉を聞き取っていた。
「手を引くということは、それまで好意的に介入していたということ?」
「時折私たちは、人類の行為を善い方向に導こうと干渉してきた。しかし、そうした振る舞いももう終わり」
「もしかして、人類に干渉しないということが、意志決定の内実なのか?」
「その通りよ。私たちの調査結果から、人類は早々に滅びるという予測が立てられた。今まで私たちは、あなたたちが間違った道に行かないように支援してきたけれど、ここ百年は手を控えてきた。そして先週末、あらゆる干渉行為を永久停止することが決定された」
「つまり、自分たちが干渉しないのだから、愚かな人類は滅びるしかないと言っているわけか。ずいぶん高飛車な言い方だな」
「厳密な調査結果からみて、明らかじゃない」
 サマルは立ち上がって、ブランコに座る僕の正面にやってきた。
 サマルは僕が貸したワイシャツを両手で引っ張った。ボタンが外れ、黒いブラジャーをつけた上半身が露わになった。
「エル、私を殺して」
 僕の目の前にはサマルの真っ白な上半身が広がっていた。
「君のさっきまでの話はわかったけれど、殺せというのは納得できない」
「あなたは知らないかもしれないけれど、私を殺すも同然のこと、あなたたちは毎日繰り返しているのよ。さあ、殺しなさい」
 サマルはどこに隠していたのか、カーゴパンツのポケットからナイフを取り出し、僕の方に投げた。僕は慌てて手を出し、ナイフを手につかんだ。ナイフは軍事用のものらしいサバイバル型だった。
「さあ、その刃物で私の心臓を繰り抜いて、この木の下に埋めてしまって」
 サマルが左胸を僕の顔の前に突き出してきた。僕はナイフを自分の体の後ろに回した。
「何故、私を殺そうとしないの? あなたたちは地球上最も残虐で非道な、神の失敗作だというのに」
「僕は君を殺せない。それが僕の正直な気持ちだ」
「なら、私があなたを殺す」
 サマルが先程とは反対側のポケットから、ナイフをもう一本取り出した。
 僕は人を殺したことがない。殺されると想像したこともない。想像の枠外にある出来事に、人は対応できないものだ。
「もう人類に干渉しないとさっき言っていただろう。前言撤回か?」
「干渉はしないけれど、観察は続ける。あなたたちも、絶滅する生物の最後を記録しているでしょう。調査の目的は変更されたわ。人類を救うためでなく、なぜ人類は絶滅するのか、後代の参考にするため、調査が続けられることになったの」
 サマルはナイフの刃先を僕の左胸の上に当てた。少しでも動けば、僕の心臓にナイフが刺さる。僕は背中に回したナイフを握り締めなおした。





 日曜日、東陽町にある江東運転免許試験場まで免許更新に行った。当初は有給をとって、新宿にある免許更新センターに行く予定だったが、オフィスワークが忙しくて、有給をとれなかった。
 日曜日に更新にいけるのは都内だと、府中と江東と品川にある運転免許試験場だけだった。他の試験場はどれも駅から遠かったり、バスの利用が推奨されていたため、中野からは遠かったが、東陽町駅から徒歩五分の江東運転免許試験場に行くことにした。
 朝八時前に起きて、丸の内線に乗り、新宿三丁目で降りた。新宿三丁目駅は、地下鉄副都心線が開通したせいか、ライトの多い、近未来的なデザインになっていた。
 新宿三丁目から都営新宿線で九段下まで乗り継ぎ、九段下からは地下鉄東西線に乗った。東陽町駅の到着時刻は八時半過ぎだった。駅から地上に出て、ファミレスやカフェが並ぶ大きな道路沿いの歩道を六分ほど歩き、運転免許試験場に到着した。
 試験場構内に入ってすぐ、長蛇の列ができていた。試験場では、運転免許試験と更新手続きができた。平日来ることができない労働者たちが、大量に詰め掛けているのだろう。僕も縦四列の末尾に並び、アイポッドでテンシュテット指揮によるマーラーの交響曲第六番を聴きながら、順番が来るのを待った。
 僕は自動車を持っていないペーパードライバーであるため、当然無事故無違反のゴールド免許保持者だった。免許更新の区分は優良であり、手続きも少なかった。
 五分近く並んでから、受付にたどりついた。受付では現免許証の記載住所から、異動ないことを確認された。僕は渡された受付票に、氏名など必要事項を記入した後、収入印紙を購入する別の短い列に並んだ。
 優良区分の手数料三二五〇円を支払った後、僕は個人情報保護用の暗証番号を登録する端末機の列に並んだ。その場で決めた暗証番号八桁を端末に入力すると、ゴシック体で打ち出された暗証番号が、レシートのごとく印刷されて出てきた。
 視力検査、写真撮影と続いた。視力検査は輪のあいている部分を言い当てるだけですぐに終わった。写真撮影の前に、現在の免許証にパンチで穴をあけられた。
 写真機の前で並んで待っていた時、前の女性が機械に写される様子を見た。肉眼で確認された女性の顔と、コンピューター画面に映し出された写真用の女性の顔は、別人のように見えた。椅子に座ってかしこまっている女性の顔は、僕の瞳に映る時、ごく普通にかわいらしく見えたが、コンピューターの液晶画面に映る彼女の顔は、何十倍も堅苦しくなっていた。撮影用のカメラに、人間が持っている美をはぎとる細工がしかけられているのではないかと思えたほどだった。
 写真撮影を終えた後、僕は係の人に誘導されるままエスカレーターで二階に上がり、優良者向けの三十分講習を受けた。
 講習は白髪で定年間近といった感じの教官が行っていた。教室左奥には大画面の薄型液晶テレビがあり、講習ビデオはDVDによる再生だった。
 ビデオ上映が終わった後、五年前の前回免許更新時から今回の更新時までの、制度変更点が講義された。駐車の取り締まりが厳しくなったこと、飲酒違反の罰則が厳しくなったこと、老人に対するケアが手厚くなったこと等が説明された。最後に、ちょうど今年の六月から施行されたばかりの、後部座席のシートベルト着用義務化が説明された。
 制度改正についての矢継ぎ早の講義が続く中、僕はホワイトボードに書かれた交通事故者数の分析結果を眺めていた。交通事故による負傷者と死亡者の数が、全国と都内にわけて表示されていた。うち老人の被害者数も表示されていたし、今年度累計の数字が、昨年度より減少していることも明示されていた。
 講義終了後、僕は階段を使って四階に行き、新運転免許証の発行を待った。講義受講者のうち、最初に四階にたどりついたのだが、僕の運転免許はまだ発行されていなかった。僕はベンチに腰かけて、受付番号の順番が回ってくるのを待った。
 運転免許試験場で日曜日に働いている係の人たちは、全員公務員なのだろうかという疑問がわきあがってきた。新しい運転免許証を、受付票に記載された番号と照合しながら配布している窓口の女性二名は、毎日毎日こうした書類と番号を整理する仕事に携わっているのだろうか。
 よく考えれば、オフィスワークのほとんどはそうした整理の仕事に費やされている。オフィスワークの本質は、整理整頓活動による秩序の維持創出かもしれないが、僕はここに秩序を見出すよりも、合理の行き過ぎから生じる退屈さを見出していた。
 受付票と引き換えに渡された運転免許証に映る僕の写真は、五年前の写真よりも肌の色が白くなっていた。見ようによっては別人に見えなくもなかった。写真撮影前に、肉眼で見る顔と、免許写真の顔が、まるで異なるものになることを確認していたから、僕は写真映りの悪さを落胆しないことにした。
 免許更新手続きで最後にやることは、新免許証のICチップに登録された、本籍の内容に間違いがないか確認することだった。
 以前なら、運転免許証の表面、現住所欄の上に本籍が記載されていたが、新免許証では、本籍はICチップ登録情報となって、表面から消えたのだった。偽造行為を防ぐためと講習時説明されていたが、ICチップのデータを一括して盗まれる危険の告知は不要なのだろうかと思えた。
 ICチップ確認端末の上に新運転免許証をおくと、暗証番号の入力を求められた。一階で登録しておいた暗証番号八桁を入力したら入力ミスを指摘された。入力ミスが八回続くと、手続き不可になるという警告メッセージも出たため、暗証番号の用紙を見ながらもう一度入力した。
 液晶画面上に運転免許証が表示された。本物の免許証の本籍欄は空白となっているが、画面上には僕の本籍が表示されていた。本籍の住所よりも、本籍欄の横に映る、僕の顔写真が目についた。
 本籍の住所を確認した後、僕は免許証を取り出して、財布のカード入れの中に入れた。パンチで穴を開けられた以前の免許証は、マンションに帰ってから、はさみで切って捨てることにした。
 運転免許試験場を出ると、十時十五分過ぎであり、雨が降り始めていた。無意味な手続きで休日の貴重な時間が無駄になるという考えが最初はあったが、いざ手続きを終えてみると、午後の時間はたっぷり残されていた。懸念だった免許更新を何の問題もなくこなせたから、ほっとした。





 行きと同じように乗り継いで、新中野のマンションに戻った。伝車に乗っている最中は、「夜の交響曲」と呼ばれるマーラーの七番を聴いていた。
 僕は自分の部屋に帰らず、サマルの部屋に向かった。サマルの部屋には、相変わらず鍵がかかっていなかった。
 サマルの部屋のリビングには、マーラーの「大地の歌」が小さな音量で鳴っており、東京都指定のゴミ袋がちらばっていた。
 部屋の真ん中に、白い花が敷き詰められていた。茎の長い白い花の合間に埋もれるようにして、サマルと僕の裸体が横たわっていた。
 二人とも目をつむり、安らいだ表情をしていた。僕の裸体の左胸には、ナイフで心臓を抉り出した傷痕が残っていた。サマルの裸体には、胸上からへそのあたりまで、体の中心線に沿って裂傷が走っていた。皮膚と皮膚の間にあいた細長い穴を覗いても、臓器は見えず、真っ黒い空洞があるだけだった。
 僕は二人の遺体に深く礼をして目をつむった。耳にはテノールとアルトの掛け合いが聞こえてきた。
 自分の部屋に戻って、エアコンのスイッチを入れた。僕は鏡の前に立ち、あご沿いに顔表面の皮膚をつかんだ。
 皮膚を両手で思いっきり引っ張りあげると、エルの顔の下から、私本来の緑色の皮膚が現れた。
 二人で公園に行った日の夜、ナイフを突き立てられたエルは、無言で私の顔を見つめていた。私はエルの唇に、自分の唇を重ねた。目を閉じて、エルの心臓にナイフを突き立てた。エルの口からあふれ出した血液が、私の口の中に入ってきた。私は自分の腹を引き裂き、サマルの体から抜け出た後、脈打つエルの心臓を食らった。サマルとエルは亡骸になり、私は新しいエルになった。
 私はパンチで穴をあけられた旧免許証と、新免許証をローテーブルの上に並べてみた。二枚の顔写真は微妙に印象が違っていたが、係の人たちは誰も、免許証の持ち主が別人だとは気づいていなかった。
 私はクラウス・テンシュテットが指揮するマーラーの交響曲第九番の第三楽章をかけつつ、ノートパソコンの電源を立ち上げ、文章を記録し始めた。
 マーラーという作曲者が作り上げた音楽を、何人も別の指揮者が演奏する。指揮者によって、演奏の解釈は異なる。晩年のテンシュテットが奏でる音は、他のどの指揮者による解釈とも異なっていた。古典的に崇高な雰囲気を持っていながらも、大衆受けしそうな、獰猛な音響が時折噴出した。盛り上がる部分では金管が轟音で鳴り響き、ティンパニーは強烈な打撃を繰り返した。生命が死滅する瞬間を覗いたものだけが作り出せる、地獄の底で鳴り響くような交響曲だった。
 作曲者であるマーラーが意図した音の響きとは異なるものかもしれないが、テンシュテットとマーラーの相互作用により生み出された、芸術表現の極みだった。
 私はエルが書き散らしていたブログに、エルに成り代わって文章を続けた。運転免許の更新でさえ、私は偽装することができた。写真撮影でも、ICチップの登録でも、誰も私がエルだと気づかなかった。会社にも退職届を出してきた。これから私は、エル自身が本来到達したくて、到達できなかった生活、すなわち正直に生きる歩みを続けることにした。
 エルは地球の破滅をどうにか救おうと文章を書いていた。私は絶滅をくいとめることを目的としない。絶滅の過程を正確に記録することを目的として、エルの文章を引き継いだ。
 私が書き継ぐ記録は、私が属する組織のために書かれるものだが、人類に内容を公開したところで、問題はなかった。どうすれば人類絶滅をくいとめることができるのか、解決策がわかっていたとしても、私は文章におこさなかった。これは干渉ではない。考えるのは人類だ。
 私はエルが書いていたのと倍の量と速度で、絶滅過程の記録を書き、エルのブログ上にアップし続けた。
 真実だけを書く私が織り成す唯一のフィクションが、エルの生存であった。エルに対するせめてもの慰めとして、エルが生きているように書くこと。それが、エルが時折見せた真正直さに対する償いになろう。
 私は上にめぐりあげていた皮膚を引っ張って、下におろした。皮膚の表面をひっぱって、伸ばすと、エルの顔に戻った。
 僕は新免許証を手に取り、鏡に映る自分の顔と見比べてみた。鏡に映る僕の顔は、免許証に映る僕の顔よりも精気があり、生きて活動しているように見えた。続いて僕はパンチで穴を開けられた五年前に撮った免許証の写真を見た。
 よくよく眺めてみると、五年前の僕の写真と、午前中に撮影した僕の写真と、今鏡に映る僕の顔は、全て別人の顔のように見えた。僕が今まで付き合ってきた人たちと、会わなければ、そうした変化も気にする必要はないだろう。
 マーラーの第九番は第四楽章のアダージョになっていた。僕はビジネスバッグの中から、オナンという同僚が貸してきたブルーレイのソフトを取り出した。『ハイビジョン超高画質で堪能する異常性欲』と書かれたそのタイトルを、僕は再生してみた。
 第四楽章の響きは、天国の音によく似ていた。テレビ画面には、裸の男女が次々現れた。このソフトは男性の性欲処理を目的として作成されたものらしく、性交の様子がたくさん描写されていた。僕には性欲というものがなかったので、リモコンを使って六十倍速で見ていった。
 途中、女性が排便している映像が出てきたので、僕は再生速度を普通に戻してみた。このチャプターのみは、性交シーンがなく、女子トイレで撮影された、女性の排便行為が延々続いた。排便のスピードと、マーラーのゆったりしたアダージョのテンポは、歩調をともにしていた。
 僕はアップで映る排便行為を再生し続けながら、パソコンにブログの管理画面を開いた。そのまま夜遅くまで、世界で起きたニュースを文章化していった。
 秋葉原の事件の犯人が、ネットの掲示板に犯行予告を書いていたため、ネット上に犯行予告を書いただけで、逮捕される人が続出していた。そうした摘発にもかかわらず、秋葉原ではまたもやナイフによる殺傷事件が起きていた。
 インドのムンバイでは、売春を強制する少女たちの成熟を早めるために、売春組織が十代女性に女性ホルモン剤を投与していたことが明らかになった。
 テロル、殺人事件、偽装、汚職、環境破壊、不正行為の数々を文章化するばかりでは息が詰まるので、僕は他愛のない日常の様子を、文章の合間に挟んでいった。
 他愛ないという言葉は、他に愛がないと書く。他愛もない日常の出来事とは、愛の他には何もない行為の積み重ねではないかと思えた。

                           了
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