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小説『絶望した女のキス』

最終更新日:2009年5月1日


 僕は鍵も持たず、自分の部屋を出た。僕が身につけているTシャツ、スウェット、サンダルはどれも、ネットオークションで購入した、見知らぬ他人の所有物だった。
 僕の部屋は三階建てマンションの三階にあり、吹き抜けの廊下からは東京都中野区の空が見渡せた。地上に広がる灯りのせいで、夜空に星は見えなかった。
 僕は部屋から出て右に歩き、自室の隣にある、角部屋の前に立った。青梅街道を走る車が吹き出す排気ガスのせいで、外壁にも扉にも埃が積もっていた。僕はインターホンのボタンを指で軽く押した。
「どちら様ですか」と聞かれることもなく、扉が開いた。
 玄関にはサマルが立っていた。サマルの瞳はいつも通り警戒心で研ぎ澄まされていた。肌は血管が浮き出るほど白く透明で、肩にかかる黒髪は、悪魔のように滑らかで美しかった。サマルは黒光りするワイャツとベージュのミニスカートを身につけていた。シャツもスカートもタイトで、細い体の線がくっきりと強調されていた。
 挨拶を交わすこともなく、僕はサマルの部屋の中に足を踏み入れた。玄関右の壁際には、食器、調理器具が一切ないキッチンがあり、左には湯気がたちこめているバスルームとトイレがあった。キッチンとリビングを隔てるすりガラスの扉は半開きになっていた。
 リビングには、壁一面に白木の本棚が並べられていた。サマルの蔵書には、日本語以外の言語で書かれた洋書も多く、分厚い百科事典や、世界文学全集も揃っていた。
 僕の部屋寄りの壁際には、きちんとベッドメイクされた小ぶりのシングルベッドがおかれていた。シーツ、枕、ブランケット、どれも白の無地で汚れ一つなかった。黒光りする遮光カーテンの手前には、バーのカウンターで目にするような洒落たデザインの丸椅子と、ノートパソコンが載った木製の丸テーブルがおかれていた。
 シングルベッドの正面には、28インチ程度の液晶テレビがおかれていた。液晶テレビが載るテレビボードの中にも、ぎっしりと分厚い本が詰めこまれていた。
 挨拶もせず無表情で歩くサマルと一緒にいたら、さすがに気まずくなってきた。僕は沈黙と緊張を破るためだけに、サマルに質問をしてみた。
「なあサマル。僕しか来ないとわかっているからって、もうちょっと警戒した方がいいんじゃないの? 君を狙って男がやってくるかもしれないし」
「インターホンでエルの姿を確認した。エル以外に私の正体を知っている人間はいない。私は安全だ。何の問題もないでしょう」
 回答は、コンピューターで計算されたかのように、抑揚のない声で、一語ずつ正確に発音された。
 サマルは中野のマンションに身を潜めて、人類に対するスパイ活動を続けていた。今のところ、サマルのスパイ活動を知っているのは、隣の部屋で暮らす僕だけだった。
 サマルがどのような組織に属しているのかはわからない。そもそもサマルが人類なのか、異星人なのか、妖怪なのか、天使か悪魔かなのかも定かではない。確かなことといえば、サマルは人類存続の可否を判断するため、ある組織から派遣されたスパイであるということだけだった、サマルの口から僕に伝えられた、その事実さえも嘘であるかもしれないのだが。
 サマルは丸椅子に背筋を伸ばして座り、ノートパソコンに手をかけた。僕はシングルベッドの上に乗り、テレビのリモコンを手に取った。
 リモコンの電源ボタンを押すと、お笑い芸人とグラビアアイドルが、多数出演しているバラエティー番組が画面に表れた。僕はリモコンを操作して、海外ドキュメンタリー番組にチャンネルを変えた。番組では年老いた評論家たちが、サブプライムローン問題と、原油・食糧価格高騰問題を論じ合っていた。
「それじゃ、今日のことを話して」
 サマルはノートパソコンの画面に目を落としたまま、はっきり輪郭のある声で言った。
 日課となった報告の始まりだった。僕の報告内容に人類の存続がかかっているというのに、僕はテレビ番組を見ながら報告した。
「今日は午前十時過ぎに起きた。遅い朝食をとった後、一人で歌を歌った。大好きな曲を歌い続けたら、一週間の疲れがとれて、陽気になった。高揚感を保ったまま、売れていると評判の小説と新書を買いたくもないのに買いに行った。買い物から帰ってきても、読書はしなかった。午後は部屋でハイビジョン画質の殺人ゲームをやった。ゲームのし過ぎで目が疲れたんで、ピザを食べて、シャワーを浴びた。そして今この部屋に来た。そんな休日だった」
 僕はいつも通り、一日の行動をただ羅列した。
「他には?」
 サマルはパソコンのキーボードを叩きながら、僕に目を向けずに質問した。
 テレビ画面には、購入した住宅のローンを払えず困っているという白人女性が、母親の苦悩を知らず無邪気に笑っている赤ん坊と一緒に映っていた。
「僕は毎日娯楽に浸かった自分の日常を話しているだけだ。こんな日常の報告が、一体何の役に立つんだろう」
「あなたは報告の評価基準を知る権利を持っていないわ。あなたは私に質問する権利もない。エル、報告を続けて」
 サマルの声からは、怒りも、嘆きも感じ取れなかった。
「そんな一方的なやり方、帝国主義者みたいで卑怯だよ。君の属する組織に、対話する意志はないのか? 一方的に調査して、人類を絶滅させるか、生存を許すか決めるだけなのか? 民主的じゃないな、全く」
「私たちの決定方法を批判する権利さえないことをわかって。現生人類が、ここ数万年でやってきたことをよく反省してみたらいいわ。あなたたちに残されたチャンスは、ただ一つ、この報告だけ。報告の義務を果たすことだけに集中しなさい。後は我々で判断する」
 人類存続の意志決定は、僕個人の報告によるのだ。それなのに僕は、労働と遊びに浸った毎日を報告するだけだった。
「そういえば今日、あなたは会社が休みだったわね」
 サマルがキーボードの打音を響かせながら、小声で囁いた。
「久々の土日連休だった。まあ僕がやったことと言えば、オフィスワークの疲れを癒し、慰める行為だけだったけれど」
「あなたたちが休日にすることって、今聞いたようなことだけなのかしら? 休日に他にするべきことはないの?」
 人類は、たまの休日にその程度のことしかしないのかと批判されているのではと、僕は不安を感じた。
「休日に屋外に出かけて、リフレッシュする人は多いよ。確かに僕の休日の過ごし方は、のんべんだらりとしていて、判定者である君の目からしたら、無意味なものだと思えるかもしれない。もっと、他にやることがあるだろうと考えるのは当然だ。けれど、僕は仕事で疲れているんだ。多くの日本人は過労で疲れている。休日に何をしても、僕らの自由じゃないか」
 テレビでは日本人の大学教授が、原油と食糧価格の高騰が、日本経済に与える影響について長々と語っていた。
「先月末で昇給があった。僕は今まで、給料と仕事内容に対して強い不満を抱いていたけれど、昇給で不満が解消された。低賃金で苦しむ人も多いのに、僕は昇給した。実績に応じて、これからも給料があがっていくなら、会社勤めも悪くないんじゃないか。僕の心に、喜べ、境遇を甘んじて受け入れろという声が聞こえてきた。よく考えたら、お前は経済的にも、精神的にも、自由を保障されているじゃないかってね」
 僕はテレビのチャンネルを何度か変えてみた。民放ではどの局もCMばかり放送していた。
「そうなの。それはおめでとう。せいぜい自己満足に浸っていることね。休日に何もしないでいるよりは、いくらかはましだと思う。私に言えることは、それだけ」
 僕はサマルに本心をさらけ出したことを、後悔し始めていた。
「あなたはたとえ無意味な行動を選択するとしても、自由に意志決定し、行動することが好きみたいね」
「僕だけじゃない。多くの人間は自由を愛しているよ」
 テレビでは、歌手デビューを目指す女性が集まるオーディション番組が始まっていた。司会のお笑い芸人が、夢見る女性をからかいなら紹介していた。
「自由には責任が伴うし、限度がある。みんなが自由なら、対立が生じる。そうしたことを、あなたたちは知識の上では積み上げてきたけれど、現実では、自由を持て余して、様々な対立と混乱を生み出している」
「サマル、君たちは、人間の自由を制限するためにやってきたのか」
「そうじゃない。あなたたちが、神と考えている存在者から奪い取った自由を正しく扱えているか、見定めにきたのよ」
 神? 
 僕はサマルのことを異星人か何かと思っていたが、実は神の使徒なのかもしれない。まあ、サマルはただの日本人であり、神の使徒を無意識に演じている困った人なのかもしれないが。
 オーディション番組がつまらないのでチャンネルを変えると、先程のオーディションで歌っていた素人よりも下手な歌手が、乳房を上下させる程の激しいダンスをしながら、口パクで歌っていた。口の動きと、歌声のずれを見れば、口パクかどうか簡単にわかった。
 僕がテレビの電源を落とすと、サマルが上着とブラジャーを脱ぎ始めた。サマルのつんと張った乳房が目に飛びこんできたので、僕は顔を伏せた。
 サマルの突然の脱衣は、報告の義務が終了した合図だった。僕のことを気にすることなく、スカートを脱ぎ始めたサマルを残して、僕は無言で部屋を出た。
 僕は部屋に帰った後、マーラーの交響曲「巨人」を小音リピート再生でかけながら、ベッドに入った。目を閉じて眠ろうとすると、マーラーの交響曲にのせて、サマルの露わになった上半身の映像が再生されてしまい、なかなか眠れなかった。




 サマルが日常の報告を求めているのは、人類全体の中でも、僕一人だけだった。僕は人類全体のサンプルとして、選ばれたのだ。僕の生活態度によって、人類の未来が決定される。僕は、自分の優秀さをアピールする報告を、偽ってでも作り上げるべきだろう。自分自身を優秀な人格に作り替えるべきだろう。
 そう思いつつも僕は、いつものごとく、心身ともに気だるい月曜日を始めた。
 朝目が覚めても、全身の筋肉やら神経が痛かった。体は休息を求めていたが、僕はネイビーストライプのスーツに着替え、丸の内線に駆けこんだ。通勤電車の中には、僕以上に覇気がない会社員がたくさんいた。僕はアイポッドのイヤフォンを耳にはめて、テンシュテット指揮によるマーラーの交響曲第二番「復活」を聴きつつ、深呼吸を繰り返した。
 電車から下りた後、僕は会社近くのカフェに寄って、始業時間まで時間を潰した。一番奥のソファーに座り、アイスカフェラテを飲みながら、焼きたてのトーストをかじった。食事後、僕は「復活」を一人轟音で聴きつつ、ブエノスアイレスで書かれた文学作品を読んだ。
 オフィスワークの時間、僕はパソコンの前に座り続けた。一日中液晶ディスプレイを見つめ、大量生産されたキーボードで、英語と日本語とアラビア数字を打った。嫌々ながら仕事をしていたら、サマルに態度不良と書かれるかもしれない。僕は全身に感じる神経の痛みは表にあらわさず、黙々と仕事をこなした。
 マンションには二十二時過ぎに帰宅した。帰ってすぐシャワーを浴びてから、ニュースを見ながらヨガをした。
 ニュース番組では、秋葉原の路上で起きた無差別殺傷事件が特集されていた。ヨガのポーズを一通り終えた後、救急車が何台も並ぶ電気街が映るテレビを消して、僕はサマルの部屋に向かった。
 インターホンを鳴らして二分後、ドアが開いた。サマルは白い細身のワイシャツに黒光りするストレッチパンツをはいていた。肩にかかる黒い髪の毛は、邪神のように魅惑的に輝いていた。
 僕は皺一つないシングルベッドに乗って、壁を背にしてあぐらをかいた。テレビの電源を入れると、画面にまた無差別殺傷事件のニュースが映し出された。犯人は恋人のいないアニメオタクだったこと、学校時代は成績優秀だったこと、事件当時は自動車の下請工場で派遣社員として働いていたことなどが明かされていた。
 サマルは日中、図書館で調べものでもしていたのだろう、丸テーブルの上には、コピー用紙の束がつまれていた。
「今日は私から質問があるのだけれど、答えてもらえるかしら?」
 サマルがノートパソコンのキーを叩き始めた。
「いいよ。何でも答える。ただその前に、一つ注意しておきたいことがある。僕の回答は僕個人の意見であり、人類全体の意見を示すものではない。この点はいいね」
「ええ、私たちもそれを望むところだわ」 
 サマルが言う「私たち」が人類なのか、地球外の生命なのか、神か悪魔か幽霊か、僕は問いただす自由を与えられていなかった。
「僕らの社会は自由というものを享受してきた。一人一人が違った考えを持っていい、各人の意見は尊重するというのが僕らの社会の前提だ。日本社会では往々にして個人の意見が否定される場合も多いけれど、自由民主主義の前提については、了解してもらっていると考えていいね」
「もちろん」
 サマルは何をくだらないことを聞いているのといった様子で、無表情で僕を見つめた。
「わかった。質問してくれ」
「最近のニュースについて、あなたの感想を聞きたいの」
 僕は人類が生き残るために、最も的確な回答を考え出そうかと思ったが、あれこれ考えたところで、無駄ではないかと思えてきた。
 何が適切な回答なのか、僕が思うところと、サマルの考えは一致しない確率が高かった。二人の考えを一致させようと努力すべきかもしれないが、考えがずれているなら、もっとずらしてやろうと思った。
「ニュースって、例えばどんな? この殺傷事件かい?」
「最近中国で大地震が起きて、何万人という死亡者が出たわね。あなたはこのニュースを聞いて、どう思った?」
 僕は答えを迷った。あまりに大枠な質問であり、いかようにも答えられる。逆に答えるのが難しい。
「大きなニュースが生まれたことで、チベットの独立問題が煙にまかれたなと感じた。大地震による被害は、中国経済の停滞に影響すると想いもした」
 月並みな答えだ。けれど、これでいい。僕は自分の意見を飾りなく、自分をよく見せようともせず、ただ告白しただけだ。しかしすぐさま、これは僕個人の意見でなく、ニュース番組やネット上で、誰かが発した言葉の反復に過ぎないのではないかと思えてきた。
「そうして、他人事のように語っていていいの?」
 サマルは、彼女のベッドの上で、猫背であぐらをかいている僕をまっすぐ見つめてそう言った。
 僕はテレビのリモコンを操作した。関東地方局の通販番組が画面に表れた。三十代の主婦が骨盤矯正器具の体験談を語っていた。
「国際問題とか、政治経済の問題とか、そうした些細な問題にしか目がいかないの? この災害について、真摯に思考をめぐらしたことはないの?」
「そうだな。インフラが整っていなくて、必要以上の犠牲者が出た。それはとてもいたたまれないことだと思う」
「そう思うなら、なぜあなたは行動しないで、東京で働いているの? あなたや大勢の人類はこうした悲劇を前にして、何故自ら行動を始めないのかしら?」
 テレビ番組は、骨盤矯正によって背骨のゆがみが治り、便秘、腰痛、睡眠不足など心身の不調が綺麗にとれるとアナウンスしていた。ただし、画面の下には、「個人差があります」と小さな文字で注意書きされていた。 
「もちろん僕でもボランティアやNGOになって、災害の現場に駆けつけたいと思うことがあるさ。けれど、大勢の人には仕事と、住む土地での生活がある。仕事で関わっている人たちの迷惑を考えると、大災害が起きたからといって、すぐ行動をとるわけにはいかないよ」
 テレビ画面には、骨盤矯正危惧の値段と、クレジット分割払いの方法を示すテロップが表れた。
「災害にあった人々を助けることと、あなたのオフィスでの仕事を比べれば、オフィスワークの方が重要だというの?」
「そうだね、僕が突然いなくなれば、会社や取引先に迷惑をかけることになる。労働基本契約にも抵触する可能性がある」
「本当に、心から、そう思っているわけ?」
 そうは思わないけれど、同時に、そうだと思っている。
 サマルの論理に従うことは、満員電車に乗って毎日職場に通っている、スーツ姿の人たちを否定するように感じられた。彼らは自分を殺しながら働いているゾンビだろうが、彼らの生活を否定することは、正義による暴力だと思えた。
「確かに死の危険に直面して困っている人のところに駆けつけることは、重要だと思う。けどね、そうは思っていても、行動しない自由というのを僕たちは持っているんだ。僕が行かなかったら、誰かが行く。誰も行かないということはない。僕は応援に向かった人々を、ニュースを見ながら応援するだろう。もし全員被災地に駆けつけるのが正義であり、行かない人たちは徹底的に糾弾されるというなら、それは全体主義社会だね。二十世紀、社会全体が同じ方向を向くことは危険だと、人類は気づいたんだよ」
 テレビでは、今回骨盤矯正危惧を注文すると、肩こりを和らげるチタン製のネックレスが無料でついてきますと紹介されていた。ネックレスを映す画面にも、「個人差があります」と表示されていた。
「OK、この質問についてはもう解答いただかなくて結構。次の質問に移るわ」
 そういうサマルの声は、いつも通りひどく冷たかった。
「二番目の質問。これはとても重要で決定的な質問。あなただけでなく、あなたの七代後の孫の運命まで決めることになる問いだから、よく考えて、正確極まりない回答を提出してね」
 僕は唾を飲みこみ、リモコンの電源ボタンを押した。フリーダイヤルの電話番号が表示されていた画面が、真っ黒になった。




 翌朝、目が覚めると、僕は上半身裸で、サマルのシングルベッドの上で横になっていた。照明はつけっぱなしだった。ベッドから起き上がって室内を見回したが、サマルの姿は見当たらなかった。
 四川大地震についての感想を聞かれた後、どういう会話を交わしたのか、僕は覚えていなかったし、いつ眠ったのかも記憶になかった。
 バスルームにも、トイレにも、サマルの姿は無かった。僕はベッドの隅でくしゃくしゃになっていたTシャツを着てから、照明を全て落とし、部屋の外に出た。
 六月の空は曇っており、朝の日差しは弱かった。自室に戻って、目覚まし時計を見ると、午前六時半だった。ヨーロッパ産のミネラルウォーターを三杯飲んだ後、僕は髭を丁寧にそって、シャドーストライプのスーツに着替え、丸の内線に乗った。いつもの乗車時間より早かったので、通勤客も少なく、余裕で座ることができた。
 オフィスのある駅にたどりつくと、僕はアメリカ産牛肉未使用と主張している牛丼チェーンで納豆定食を食べた。納豆は硬く、納豆に混ぜる卵の黄身は、濃いオレンジ色をしていた。
 僕は牛丼チェーン店から出た後、三軒先にある、昨日の朝とは別の喫茶店に寄って、エスプレッソを注文した。僕はアイポッドで、ニーチェのツァラトゥストラに影響を受けたというマーラーの交響曲第三番を聴きつつ、キューバからニューヨークに亡命したゲイの小説家が書いた自伝的小説を読んだ。
 コーヒーの濃厚な香りを楽しみながらの読書中も、肩と腰の痛みが続いた。僕はサマルにも、その他の友人知人にも、慢性疲労感を告白していなかった。健康とはどういう状態であるのか、定義も確信もなかったが、僕は世間一般的に見て健康なふりをして、オフィスワークを続けた。
 僕の隣にはオナンという派遣社員が座っていた。オナンは、サマルと知り合ったのと同じ頃、僕の隣に一ヶ月契約でやってきたのだった。
 オナンは体より一回り大きいスーツを着て、毎日遅刻ぎりぎりの時間に出社していた。見た目は小太りだがスーツを脱げば、ワイシャツに透けて、腹回りにたっぷりついている脂肪が見えた。オナンの年齢は僕と同じか、若くても二十代後半のように見受けられた。
 お互い人見知り癖があったせいか、僕とオナンは最初打ち解けなかった。一週間ほどたって、オナンはスカトロの性癖を持っていることを僕に告白してきた。僕にそういう趣味はなかったが、オナンは気がつけば、仕事中スカトロの話題を小声で喋り続けるようになっていた。
「エルさん、昨日の夜、ついにハイビジョンのプラズマテレビが届きましたよ」
 オナンは昨日退社後、すぐ木造アパートに帰り、ネットで注文したプラズマテレビの到着を待っていたのだという。
「早速お気に入りのDVDを見ましたよ。ブラウン管で見るより、やっぱり女の子の体、綺麗ですね。さすがプラズマ、画質が神です。高精細の画面で、美女のお尻からひねり出る大便を眺めるのは、すごい興奮しますよ」
 僕はオナンの方を見向きもせず、パソコン作業を続けた。オナンは背筋を曲げてかがみこみながら、スカトロ話を続けた。
「みんなハイビジョンテレビで何を見てるんでしょうね。ブルーレイディスクの再生画面なんて、肉眼で見る風景より綺麗じゃないですか。ああ、ブルーレイで早くスカトロのビデオ、出ないかなあ。現実よりも緻密で美しい画面で、女の子が悶絶しながらうんこを出すんですよ。汚いものをブルーレイの最新技術で楽しむんだから、贅沢の極致ですよねえ。たまらないな」
 オナンはしばらく頭を垂れて、自分の妄想にふけっていた。僕はオナンを無視して、トイレに行って大便した。
 オナン退社から五時間後、僕は会社を出た。疲れたビジネスマンたちと一緒に電車に乗り、マンションには二十二時過ぎにたどりついた。瞼の上にお湯を含ませたミニタオルをおきつつ、二十分ほど半身浴をしてから、僕は鍵をかけずに、自室を出た。
 昨晩何があったのか、サマルにどう聞きだそうか迷ったまま、僕はサマルの部屋のインターホンを鳴らした。いつもならば、しばらく待てばドアが開いてサマルに招き迎えられるのだが、今日は扉が開かなかった。
 下の階から、階段を登る足音が聞こえてきた。三階まで上がってこられたら、気まずいと思った。三階には三室しかない。上ってくるとすれば、サマルか、もう一方の隣部屋の住人だ。
 サマルの部屋のドアノブに手をかけて、引っ張ってみた。鍵はかかっておらず、扉が開いた。僕はサマルの部屋の中に入り、扉を手早く閉めた。
 階段を登る足音は三階にたどりついて、止まった。部屋の鍵を開ける音が聞こえ、扉が閉まる音が続いた。顔を見たことはないが、僕にとってのもう一人の隣人が帰宅したのだろう。
 サマルの部屋に照明はついていなかった。僕は玄関の照明のスイッチを入れて、サンダルを脱ぎ、部屋の中に足を踏み入れた。
 部屋にサマルはいなかった。今朝僕が出た後から、部屋の中は何も変わっていないように見受けられた。
 昨晩、四川大地震についての感想を求められた後、サマルと僕は何を告白しあったのだろうか。その時の会話内容によって、僕とのやり取りは今後一切不要と判断されたのではないだろうか。故にサマルはマンションに鍵もかけず、本来彼女がいるべき場所に戻っていったのではないだろうか。
 僕はサマルと何を話したのか、どんなやり取りをしたのか、一切思い出せなかったが、こうなってしまったら、無理に思い出す必要はないと思えた。サマルが部屋にいないという未来が来ることは、予測不可能だったし、しかるべくして到来したのだ。
 僕はリビングのシングルベッドに座ってあぐらをかいた。壁一面に並ぶサマルの蔵書が僕の心を圧迫してきた。
 サマルがどういう目的で本を集めているのか、僕は把握していなかった。現生人類の生態調査というのが蔵書収集の大きな目的だろうが、数多くある書物の中から、何故ここにある本を選んだのか、選考基準はわからなかった。
 人文科学、自然科学の国内外の専門書が一通り揃っていた。今や忘れ去られた一時のベストセラーや、くだらない新書も散見された。
 僕はラテンアメリカ文学の原書が並べられている棚の前に立って、本を手繰っていった。二十世紀ラテンアメリカ文学を読むことで、サマルが人類の何を評価しようとしているのか、僕には不明だった。
 玄関のドアが開く音が聞こえた。僕は手に持っていたプイグとレイナルド・アレナスの小説を本棚に戻した。すりガラスのドアを開けてリビングに入ってきたのは、サマルだった。
 サマルは、体にぴったりとフィットする、無地の黒いスーツで全身を包んでいた。顔の表情は幽霊のように冷たく美しかった。片方の手に一つずつ、東京都指定のゴミ袋が抱えられていた。
「何だ、上がっていたの?」
「ごめん、勝手に」
「人の部屋に無断で上がると、この国では、不法侵入罪という罪が適用されるのでしょう」
「知らない者同士の間でならね。同胞の間では、法律よりも友愛の親密さが勝るよ。それより、そのゴミ袋どこから拾ってきたの? それこそ、人の個人情報を勝手に持ち出す盗難行為にあたるんじゃないの?」
 サマルは東京都指定のゴミ袋をリビングの入り口付近に下ろした。
「それも調査の一環というわけ? いくら捨てたものでも、人のゴミを漁るのは、あまりすすめられることじゃないね」
 サマルが珍しく微笑んだ。いたずらがばれた少女のような、あどけない表情が見えた。
 僕はいつも通り、彼女のシングルベッドの上に座りなおした。サマルはゴミ袋を床におくと、カーテン手前の丸椅子に座り、小柄なテーブルの上に載っているノートパソコンを起動した。
「今日は何を報告しようか?」
「ごみについて、どう思っている?」
「毎日歩道に出されるごみは、所詮人間が定めたごみに過ぎない。地球にとっても、他の生物にとっても、それはごみなんかじゃないし、人間にとっても、本当はごみじゃなくて、資源だ。けれど、資源も本質的に資源とは言えない。人間が手にしているもの、食べているもの全ては、ごみかもしれない」
 僕は入り口脇におかれたゴミ袋二つに目を向けた。東京都指定の半透明のゴミ袋をよく見つめると、中に洋服の切れ端や、食品の紙パックや、商品広告の束が見えた。
「そういえば、最近高級料亭で、料理の残り物を客に出していたのが発覚して、大騒ぎになったわね」
 その料亭は、消費期限か賞味期限か、よくわからない期限の日付をごまかして、以前からニュースになっていた。料亭の経営者たちは、テレビに毎日現れ、心のこもっていない謝罪を続けていたが、今日ついに廃業になったのだった。
「もしも誰かの食べ残しを他の客に出していなかったら、その食べ残しはどうなったと思う?」と僕が訊いた。
「ゴミ行きね」サマルが答えた。
「店の人たちが残り物を調理して食べるかもしれないけどね。家庭では昨晩の夕食の残り物を翌日食べることなんて普通にあるのに、客商売で料理のリサイクルをすると、さんざんバッシングされる。ちょっと昔なら、マナー違反だと批判されて当然だろう。けれど、グローバル化した大衆消費社会では、事情が違う。世界中の人間がお客様に成り果てている。お客様がたくさんいれば、食糧が大量生産されるけど、売れ残りも大量に出る。スーパーやコンビ二の残り物は、すぐゴミ箱に行く。けれど、それはゴミじゃない、食糧だ。」
「エル、あなたは客に食べ残しを出して廃業した会社の考え方を擁護しているの? それって、アブノーマルな立場じゃない?」
「アブノーマルってなんだろうか。何がノーマルなのだろうか。僕には全てがアブノーマルだと見える。ノーマルとアブノーマルを分ける境界なんて、曖昧でぐらついている」
 僕とサマルの声の他には、サマルが叩くキーボードの音だけが室内に響いていた。
 僕がだまっても、サマルはキーを叩き続けた。気詰まりになった僕は、テレビの電源を入れた。テレビ画面にはヨーロッパで行われているサッカーゲームが衛星生中継で映し出された。何百億円という高額の収入を得ているスタープレーヤー同士が、サポーターの声援を受けて、サッカーボールを蹴りあっていた。
 サマルを黙って見つめたら、サマルも僕を見返した。無言の見つめあいが続いた。部屋には衛星中継で放映されるサッカー場の大声援が響いた。
 試合中、競技場を裸の男女が走り出した。テレビ画面にも成人男女一組の裸が映し出された。裸の男女は警棒を持った警備員たちに拘束され、試合も一時中断した。
 サマルが上着を脱ぎ始めた。僕は目を背けず、サマルが裸になっていく様子を観察した。サマルは上着を脱ぎ、下着も脱いで全裸になると、僕の前を素通りして、バスルームに入っていった。僕はシャワーの音を聴きながら、大声援のするサマルの部屋を後にした。




 僕は毎晩サマルの部屋に通うのをやめて、しばしオフィスワークに集中する日々を送ることにした。と言っても、仕事に集中しているのは、労働時間中のみで、朝と昼休みは小説を読んでいたし、夜はテレビを見ながら、ブログとミクシィをアップしつつ、エンターテイメント小説やケータイ文学の新人賞応募原稿を打った。
 サマルの仕事は、人類を絶滅させるか存続させるか、その見極めであり、僕は生身の調査サンプルとして選ばれた。しかし、サマルと僕の会話の中には、時折調査以上の意図が感じられた。
 サマルは僕の思考と行動を評価し、批判していた。サマルは他文化を調査する文化人類学者である以上に、異国の文化を支配しにきた、宣教師か帝国の総督であるように感じられた。サマルは僕に評価を伝えることで、僕の行動を変革しようとしているのではないか、僕の行動を支配し、服従させようとしているのではないか、そんな仮説が頭に浮かんできた。
 サマルは地球を征服しにきた異星人かもしれない。人類を無力化して、奴隷にすることを企んでいるのかもしれない。知恵を働かせろ。僕の妄想癖と狡猾な良心が、そうささやき始めていた。
 しかしながら、実際の日本には、人類の評価を下げるような事件と問題が満ちていた。
 最近とみに若い男性による殺人事件が続発していた。平和と言われた日本には似つかわしくない頻度で、無差別殺人が続発していた。土浦、渋谷、佐世保、秋葉原。暴走するトラックやら、銃弾やナイフが飛び交い、罪のない通行人が殺されていった。そうした凶悪事件と並行して、ハリケーン、四川の地震、宮城・岩手内陸地震など、自然災害のニュースが続いた。
 ニュースで流れる事件はどんどん不可解で、突発的で、凶悪化していたが、僕の周りには、そうした事件の被害者は一人もいなかった。ニュース番組が液晶テレビに届ける現実と、ハイビジョン液晶画面のこちら側にある現実は、全く接触していないように感じられた。
 いつも二十二時近くまで残業していたが、今日は二十時四十分に退社することができた。珍しく残業していたオナンと帰りの電車が一緒になった。オナンは混雑している丸の内線の車内でも、僕にスカトロの話題をもちかけてきた。
「エルさん、昨日もスカトロのDVDを見ながら四回オナニーしちゃいましたよ。美女のお尻から大便が出る瞬間は何とも言えないですね。僕はあの大便が胎児に見えるんですよ。体液に濡れて、つやつやした大便が、肛門からぽとぽと落ちてくるんですよ。たまらないっすよねえ」
 僕は相槌も打たずに、目をつむって他人のふりをしていた。
「僕はね、肛門から排便される瞬間のマニアなんです。スカトロ好きにもいろんなタイプがありましてね、床に落ちた大便を眺めるのが好きな奴、大便を美女の体に塗りたぐるのが好きな奴、大便を美女に食わせるのが好きな奴、本当いろいろあるんですよ。けど、僕はそういうの、全部気持ち悪くて、見てられないんです。だって、うんこですよ。汚いでしょそんなもん。肛門からぼっとり落ちる瞬間、それだけですよ、芸術的なのは。僕は便器の中に落ちるのが好きなんです。水の中に入ったら、汚いうんこは見えなくなりますからね。一発出た後は肛門に注意を戻して、次こそ大きい奴出てこいって、期待するんですよ。めっちゃ大きいのが出た時の興奮って、すごいですよ。よくあんなのが美女の中に入ってたなって。美女って本当は汚れているんじゃないですかね、あんなもん体の中に抱え持っているんだから。時々ね、うんこは汚いんじゃなく、綺麗なんじゃないかって想いもするんですよ。そうなると趣味変わっちゃうな。僕はうんこ鑑賞マニアじゃなくて、元々一者だった美女とうんこが、二者に分離する瞬間、境界が引かれる瞬間を仔細に観察するマニアなんです。そうだそうだ、自分によく言い聞かせなきゃ」
 電車が新宿駅につくと、ホームに並んでいる大量の人が見えた。オナンは電車が人で一杯になっても、スカトロ話を続けるのだろうかと気がかりになった。
「僕専門店寄ってくんで、ここで下ります」
 オナンは人をかき分けて電車から出ると、階段に向けて走っていった。その場に残るのも気まずかったので、僕は電車がホームに停まっているうちに、一旦ホームに出て、隣の車両に乗り換えた。
 帰宅後、シャワーを浴びているうちに、久々にサマルに会ってみようと思い立った。サマルは僕の生活に干渉しようとしているが、逆に言えば、僕もサマルと会うことで、彼女の生活、考えに干渉することができる。
 外に出ると、湿気のせいで、シャワー後の爽快感が薄れてきた。僕は角にあるサマルの部屋のインターホンを押した。返答がなかったので、呼出ボタンを四回続けて押してみた。ドアは開かないし、声も聞こえてこなかった。
 ドアノブをつかんでひねってみた。ドアはあっけなく開いた。鍵もチェーンもかかっていなかったのだ。玄関にライトは灯っていなかったが、リビングルームから漏れる光のせいで、廊下に東京都指定のゴミ袋が、等間隔でおかれているのが見えた。
 リビングの方からは、交響曲のステレオ音響が聞こえていた。耳に注意を集中すると、聴きなれたマーラーの曲だとわかった。おそらく交響曲第四番ト長調の第四楽章。ソプラノの牧歌的な歌声がやむと、病的なまでに速いテンポで、第一楽章の鈴が鳴るモチーフが反復された。ドラマチックな音作りからして、僕がアイポッドで愛聴している、テンシュテット指揮による演奏だと思えた。
 マーラーの弟子ワルターが「天上の愛を夢見る牧歌である」と表現した交響曲第四番と一緒に、東京都指定のゴミ袋から、生ゴミが腐ったような匂いが漂ってきた。僕は息を止めながら、リビングに向けて、しのび足で進んだ。
 すりガラスのドアを開けた。以前は壁一面に並べられていた本棚と蔵書は、全てなくなっていた。かわりに、東京都指定のゴミ袋が、フローリングの床の上に大量に積まれていた。ゴミ袋の合間に隠れて見えないが、おそらく床にステレオコンポでもおかれているのだろう、マーラーの交響音がソプラノの声と一緒に、ゴミ袋の中から鳴り響いていた。
 サマルはリビングの一番奥、窓を覆う漆黒のサテンカーテンの前に立っていた。
 サマルは黒いブラジャーとショーツを着ただけの下着姿で、死体のように真っ白な肌をさらけ出していた。どこで調達したのか、手にはライフルを持っていた。
 ライフルの銃口は、両開きのカーテンの隙間に刺さって、窓の外に向けられていた。サマルはライフルに体を寄せ、中腰の姿勢でスコープカメラを見つめていた。
 僕が無断で部屋に現れたのに、サマルは、ライフルの先に注意を向け続けた。銃口の先はやや上を向いていた。道路の向かいにある、濃いオレンジ色の壁の高層マンションを狙っているのではないかと想像された。
 部屋を埋め尽くしている生ゴミ臭いゴミ袋も、僕のCDを勝手に借用して、かけているとしか思えないマーラーの交響曲も気になったが、僕はサマルの発砲を止めることにした。
「サマル…」
 僕が出した声はか細く震えていた。サマルは僕の方に注意を向けず、銃口の先を見つめ続けていた。
「サマル、やめるんだ。暴力はいけない」
 人類絶滅を企む組織に属するサマルにそう言うのは馬鹿らしかったが、僕はそう呼びかけでもしないと、人類全体に怒られると思って、サマルを注意した。
 サマルはスナイパーライフルのスコープから顔を離すと、僕の方を流し目でちらと見た。サマルの顔は相変わらず冷たく、感情が通っていなかった。
「そうだ。手を離して。人を殺すのはまだ早いよ」
 サマルは目をまたスコープに戻して、ライフルを構えなおした。
「サマル、やめるんだ。何故人を殺すんだ?」
 サマルが属する組織の決定がなされるまでは、サマルにも人命を尊重して欲しかった。
「別に人を殺そうとしているわけじゃないわ」
 サマルは姿勢を変えず、そっけなく答えた。確かに、サマルが殺人を企んでいるとは、僕の想いこみに過ぎないかもしれない。
「じゃあ何をしているんだ? 銃撃の練習? 建物の破壊? 鳥でも撃ち殺そうとしているわけ?」
 部屋には東京都指定のゴミ袋しかない。サマルにどんな心境の変化があったのだろう。ほんの一週間ばかりに過ぎないが、僕が報告を絶やしたために、サマルが異常な行動に出たのだろうか。
「そのどれでもない。あなたが想像できることを、私は成そうとしていない。説明したところで、あなたは私が何を成そうとしているのかわかりもしないでしょう。二人の考えは、永遠にずれ続けるでしょう」
 サマルはライフルを下ろすと、ほんの隙間だけ開けていた窓を閉めてから、漆黒のカーテンを引いた。
 サマルはライフルをゴミ袋の間に投げ入れた後、ゴミ袋の上に腰を下ろして、僕を見つめた。
「ありがとう、やめてくれて。僕の要請を受け入れてくれて」
 マーラーの交響曲が、木管がふざけて戯れる音を高速で繰り出し始めた。
「このゴミ袋、どうしたの?」
「近所のゴミ捨て場から拾い集めたの。調査の一環ね」
「人類が執り行っている地球破壊活動のサンプル収集か」
 サマルに話しかけようとすると、彼女の露出した肌に目がいった。僕は興奮していたが、性的興奮状態にあることをサマルにさとられたくなかった。
「本棚と蔵書はどこにいったの?」
「あなたの預かり知らないところ。早速だけど、報告を再開してもらっていいかしら?」
 サマルが笑顔を作って僕に話しかけた。その笑顔は営業職の人が商品を売りたい顧客の前でつくる、ビジネスライクな笑顔によく似ていた。
「いいよ。何を話そう? 本当なら、質問したいことが山ほどある。蔵書がどこにいったのか、このゴミ袋はどこから集めてきたのか、ライフルを何処で手に入れたのか、さっきは何を撃ち抜こうとしていたのか」
 僕はそう告白した後、だまってみた。サマルは無言だった。僕はサマルから、報告者としての役割を認められていただけだった。
「何でもいいから話してごらんなさい。あなたが考えたこと。本当に何でも、自由に話していいのよ」
「そう言うならさっきの質問に答えてくれ。僕は君の話を聞きたい。君が今考えていることを知りたい」
 サマルは無言だった。サマルについて、質問する自由は与えられていないようだ。僕に与えられているのは、自分の行動、考えについて報告するのみ。しかし、報告したところで、サマルはきっと僕の回答を批判してくるだろう。
「君は武器を持っている。まずいことでも言ったら、誰か殺されるかもしれない。僕は君の暴力を阻止するため、下手な戦略を練ろうと今考えている」
「愚かね」
 サマルの物言いは、僕の上司のようだった。
 もちろんオフィスにおけるビジネスの場では、愚かなどという主観的感情を述べるだけでは、上司として評価されない。何が愚かしくて、どうすれば愚かさが直るのか、こと細かに計算し、指摘できる者が、ビジネスの場では評価される。そうした営利活動全体が愚かしいかもしれないという、根本的問いかけは成されないが。
「僕はオフィスワークの仕事量、仕事のストレス、いろいろな厄介ごとに頭が支配されて、正常な判断ができなくなっている。正常とは何だろう。真面目に働くことだろうか。たくみに働くことだろうか。正直に生きているとしたら、オフィスでなんか仕事できないんじゃないか。疲れたら帰りたくなるのは当たり前だ。オフィスでは、疲れていても、就業時間内は職場にいることが求められる。疲れただけで帰ったりしたら、オフィスのルールに反する馬鹿者と罵倒される。自分の心に正直な振る舞いは、社会では否定されてしかるべきなんだよ」
「それは単なる甘えでしょ。正直さとは違うわ。正直な大人ときいてイメージする人間像と、疲れたからといってすぐ帰る大人の人間像は、まったく一致しないと思うわ」
 サマルの下した判断は、日本語の意味によく通じた年寄りの説教じみていて笑えた。
「本当にそうだろうか。正直な大人は、くだらないことがあったら、すぐにも家に帰るんじゃないか。帰宅してつまらなかったら、外に遊びに出るだろうし、外で遊ぶのもつまらなかったら、眠りながら遊ぶんじゃないか。正直な大人は、正しい大人とは違う。正しいことばかりする大人こそ、嘘つきだよ」
「エル、あなたの人生には嘘と詭弁が多すぎるのよ」
 マーラーの交響曲は、矢継ぎ早に複雑怪奇なフレーズを繰り出しては、消え去り、非交響曲的な音響へと突き進んでいった。
 サマルに自分をよく見せようとするのも、サマルに従うのもやめることにした。正直に想いを述べようとすると、すぐさま虚栄心が邪魔してしまう。
「僕は自分の感情に正直に生きることに、全生活を集中してみる。他のことはどうでもいい。ただ正直に生きるだけにする。人類が滅びることさえ構わない。僕は人類ではないかもしれない。僕はもう死んでいる幽霊かもしれない。僕がただ自分自身で勝手に自分という存在を人類だと想いこんでいるだけで、僕こそ宇宙人かもしれない。サマル、君こそ滅びるべき人類なんじゃないか。というか、人類はもう既に滅びていて、僕は人類の遺骨なんじゃないか」
 マーラーの交響曲は、第一楽章の最初のモチーフの変奏を繰り返した。僕がだまると、サマルは再びライフルを手に持って、窓際に立った。
 僕はもうサマルがスナイパーであることを否定しないことにした。サマルが人を撃とうとしていると考えたことは、僕の勝手な想像に過ぎない。サマルは僕をはぐらかし、たぶらかし、試している。僕はもうサマルに計測されたくなかったし、計測したくもなかった。
 僕はお気に入りのCDを返せとも言わず、サマルの部屋を後にした。部屋に帰ってCDラックを見てみると、マーラーの交響曲全集のCDが全てなくなっていた。しかし、パソコンとアイポッドに全てデジタルデータで取りこんでいるので、別に問題なかった。




 僕はサマルという存在に干渉して、サマルの企みを変えようと思い立っていたのに、いざサマルに会ったら、計画のことなど忘れていた。そもそも僕は、サマルに会うのはやめにしようと考えていたのに、思いつきで彼女に会ってしまった。そこからして計画の破綻だった。
 僕が直面する現実が差し出してくる問題は複雑であり、かつ無数にあった。僕は現実問題の全てを対処しようとしていた。そうして慌てて行動するうちに、僕の思考や決意は、はるか過去の出来事であるかのように、いつも記憶の底に流れ去るのだった。
 部屋中にゴミ袋が溢れていたこと、室内に僕のものらしきテンシュテット指揮によるマーラーの交響曲が流れていたこと、サマルが下着姿でいたこと、窓際にスナイパーライフルを持って立っていたこと。僕の想像範囲の外にあった出来事が大量に去来した結果、僕はサマルに干渉しようとする意志を忘れた。
 しかし、忘れた方がよかったのではないか。あらゆることを記憶にとどめようとして、あらゆる問題を解決しようとして、自分の決意、計画を完遂しようとして、大慌てで生きることは、結局問題の複雑化を増大させるだけではないのか。
 僕の生活は仕事から、遊びから、矛盾だらけで、つぎはぎ細工のようだった。僕の生活に連続性はなく、周りにあわせて翻弄されていた。サマルもまた僕の生活を混乱させる原因だ。僕は混乱の根源と戦い、征服し、自分の人生を静かで落ち着いたものにしようと努力してきたが、むしろ人格の統一を求めない方が、コントロールしようとしない方が、安らげるのではないかと思えてきた。
 常日頃僕は、他者の機嫌をかんがみ、他者から拒絶される不安と恐怖に怯えつつも、愛想笑いを振りまいていた。本心では、愛想笑いなど振りまきたくなかった。「卑屈」になることを避けたかった。しかし、嫌々やっていた愛想笑いだけを振りまいて、何の中心もなく生きてみることこそ、自由ではないのか。
 あらゆる他者の上に立とうと努力せず、他者を不安と恐怖の下に支配しようとせず、他者が自分に機嫌よく振舞ってくれることを求めもせず、不連続で非統一的な生活を送ってみることこそ、他者にとっても、自己にとっても、開かれた自由なのではないか。
 オフィスでの仕事中、僕は無心でキーボードを打ち続けた。キーボードが画面上に生み出す文字の束と僕の心は同期していた。文字を五回打てば、僕の心も五回生まれ変わるような心地がした。
 隣の席のオナンは、手も動かさず、画面をぼんやり見つめていた。そんなオナンを見ると、以前の僕は苛立ちを感じたが、今日、僕の心は静かだった。
「パソコン固まったの?」
 僕は腕組みをして画面を見つめるオナンに質問した。パソコンの画面には、砂時計のデジタル記号が現れていた。
「ええ、僕のパソコン、オフィスの中で一番古いですからね。一旦固まると、なかなか復旧しないんですよ。こうしてプログラムが動き出すのを待っていると、肛門からなかなか出てこない大便を待ち構えている時のことを思い出しますよ。待った後には、たいてい特大の便が出てくるから、楽しみに待っていられるんですけどね」
 そこからまたオナンのスカトロ話が続いた。
「エルさんは、まだスカトロのDVD借りたことないんでしょ。今度持ってきてあげますよ。実はね、ブルーレイでスカトロのソフトがようやく出たんですよ。市場原理なんて無関係ですね。芸術的欲求への応答責任貫徹ですね。エルさんち、ブルーレイ再生できましたよね。これどうぞ、貸しますんで。ぜひ無意味な程の超高画質で女の子の大便を楽しんでください」
 僕はオナンから紙袋に入ったDVDソフトを受け取ると、袋の中身を確認もせず、鞄の中に押しこんだ。
 オフィスワークが終わって部屋に帰ると、二十三時五分前だった。僕は短い時間シャワーを浴びてから、テレビニュースを見た。
 連続幼女殺人事件の犯人だった、宮崎勤の死刑執行が今日行われたとわかった。秋葉原で起きた無差別殺人事件の献花が続く中、宮城・岩手内陸地震の復興ままならない状況のまま、今日、宮崎勤の死刑執行が行われたのだった。
 宮崎被告と一緒に、数人の死刑執行が行われたそうだが、ニュースになるのは宮崎被告の死刑執行ばかりで、一緒に殺された人々の話題も、名も、添え物のように扱われるのだった。
 死刑囚たちは、人を殺すなり重罪を犯しており、その報いとして国家から死刑を与えられているのだが、今日、彼らが、誰か名前も知らない別の隣人の手によって、死を与えられたという事実は、事実として僕の前に存在していた。
 連続幼女殺人事件の犯人がわからず、みなの興味が集中していた当時、容疑者の名前が宮崎勤と公表された瞬間、宮崎勤という名が日本全土を駆け巡った。中学生だった僕らの間でも、すぐさま宮崎勤という言葉は記憶され、忌み嫌われる対象になった。「つとむ」という名前を持っている人たちは、宮崎勤と同じ響きの名であるというだけで、なんだか一つ悪いものでももらったような感じだった。
 宮崎勤の名を起点として、理解できない犯行が多発するようになったとよく言われる。先週起きた秋葉原での無差別テロなどまさにそうした異常犯罪の好例だったが、僕は秋葉原の彼の名前を記憶していなかった。
 こうした犯罪者にまつわるニュースを見るにつけても、サマルの人類に対する評価が下がっているのではないかと推測された。しかし、サマルがこのニュースを見て何を感じるかは決してわからない。猟奇殺人とそれに続く死刑執行のニュースで人類の評価が下がると思い込んでいるのは、僕の価値観に基づくものだ。サマルは僕など全く及びもつかない観点から評価しているのだろう。
 死刑執行のニュースを見ながら、僕はヨガを続けた。事件ニュースなど見ずに、マーラーの交響曲第五番のアダージョでも流しながらヨガをすれば、疲れが癒されるのだろうが、僕は気が滅入るニュースを見つつ、健康のためヨガをした。
 ドアのインターホンが鳴った。リビングにあるインターホンの受話器をあげて、「はい?」と声に出しても、返事は無かった。Tシャツにボクサーブリーフを身につけただけだったので、僕はスウェットをはいてから、玄関の扉を開けた。
 外には、黒いブラジャーとショーツを身につけているだけのサマルが立っていた。梅雨半ばのどんより湿った空気が、エアコンのきいた室内に入ってきた。サマルは死神のように魅力的だった。
「どうしたの? そんな格好をして」
「暑いの。こうして外にいると、肌寒いけれど」
「隣の人に見つかったらどうするんだ。とにかく入って」 
 僕はドアを広げてサマルを室内に招き入れた。サマルはヒールの高い銀色のサンダルを玄関で脱ぎ、部屋に入ってきた。
 僕はキッチンでウォッカのソーダ割りを作った。二人分のウォッカソーダを持ってリビングに行くと、サマルはネットオークションで購入したソファーに腰かけ、つけっぱなしだったニュース放送を見ていた。
 ニュースでは、自民党による消費税値上げ問題が取り上げられていた。
 僕はテーブルの上にウォッカソーダをそっとおいた。グラスとグラスをあわせて、乾杯でもしたい気分だったが、グラスをおいてもサマルの視線はテレビに向けられたままだった。
 僕は一人でウォッカソーダを飲み始めた。ソーダを口に含めると、炭酸が生み出す舌触りの後に、きついアルコールの刺激が広がってきた。
「僕の部屋に来るなんて珍しいね」
 サマルは僕の呼びかけに反応せず、下着姿でテレビを見つめていた。番組は居酒屋タクシーのニュースに切り替わっていた。国家公務員が深夜、ホステスも乗車するという居酒屋タクシーに乗って帰宅していたという。居酒屋タクシー利用率は、財務省が一番多いとアナウンスされた。
「エル、外に出ましょう」
 サマルが言った。テレビには、タクシーの後部座席に、ホステスと公務員が乗っている再現映像が映し出された。サマルはウォッカソーダに口もつけていなかった。
「その格好のまま外に出るのはまずいよ。服、持ってないの?」
「服、つけてるじゃない」
 そう答える時も、サマルはテレビを見つめたままだった。画面には、深夜帰宅する公務員を待つタクシーが並ぶ、財務省前の中継映像が映し出された。
「そりゃ下着だろ。僕の服を着ていきなよ」
 僕はクローゼットを開けて、サマルが着てもよいと思える服を探してみた。
 ミリタリーテイストのカーゴパンツと、黒いワイシャツをサマルに渡した。どちらもネットオークションで、顔も知らない人から購入した服だ。
 サマルは無言で僕の服に袖を通した。僕も無言でサマルが着替える様子を見つめた。
 テレビではタクシー運転手が、「報道されるようになってから、みんなタクシー使わなくなっちゃってね」と語っていた。僕は歩道やタクシーの車内に、ホステスがいないか探してみたが、それらしい女性の姿はなかった。
「それじゃ、出発しようか」
 テレビの電源を切り、照明を落とした。




 僕はTシャツにスウェット姿のまま、外に出た。深夜の歩道には、帰宅中のビジネスマンと、肌の露出が多い服装をした若い女性が何人もいた。
 丸の内線の昇降口近くの銀行前には、手相占いの易者がいた。易者はグレーのスーツを着て、髭を生やしていた。白い布で包まれた小さな台には「科学的判定 一回六百円」と書かれていた。
 易者はパイプ椅子に座りつつ、携帯電話で誰かと話していた。街頭に店を構えている易者という昭和的存在が、携帯電話で話しているのが奇妙に感じられた。
 僕とサマルは会話することもなく青梅街道沿いを歩いた。丸の内線の上を通る青梅街道には、終電間際だというのに大量の自動車が走っていた。これだけの人々が、深夜自動車に乗って何処に向かっているのか、よくよく考えてみれば不気味に思えた。
 僕らは交差点を渡った先にある公園に寄った。公園の脇には、シャッターをおろした交番があった。
 公園の中に入るのは、今日が初めてだった。マダムの社交場になっている狭い公園という認識しかなかったが、いざ足を踏み入れてみると、想像していたよりも公園は広かった。公園脇の歩道には帰宅途中の人々が早足で歩いていたが、公園内は、僕とサマル二人きりだった。
 木が等間隔で何本か立てられている。青梅街道寄りには明かりの灯った公衆トイレがある。砂利の前にベンチが並んでいたが、僕らはベンチに座らず、公園の一番奥まった場所にある小さなブランコに座った。ブランコは大人が遊ぶには板の位置が低すぎており、こぎ出せば足が地面にぶつかって、転んでしまいそうだった。
 僕は六つ並ぶうち、一番右側のブランコに乗った。サマルは僕の左隣のブランコに乗った。僕の右手には、カラフルに着色されたジャングルジムと、巨大な砂場があった。
 僕はサマルの正面に立つブナの木を見つめた。ブナの木は大きなマラのように起立していた。サマルも僕も、ブナの木に向けて、ブランコをこぎ出そうとはしなかった。
「昨日も今日も下着で、どうしたのさ」
 僕は左のブランコに座るサマルを見ずに、前方を見つめて尋ねた。僕の脳裏には、キャリアウーマンというか特殊部隊の女スパイのように、整った着こなしをしていた頃のサマルの姿が映っていた。
「正直になりたかったのよ。と言えば嘘に聞こえるかもしれないけど」
 サマルは僕の質問をはぐらかそうとしているのか、真実を答えているのか、僕には計測不能だった。
「服を身につけ出してから、人間は嘘をつくようになったというのは真実だと思うよ。特に近代以降はそれが加速した。消費社会では誰もが過剰に洋服を持ち、嘘をついている。誰に? 自分にだ。自分の正直さ、純粋さ、良心、イノセンスに嘘をついている。けれど、そうしたイノセンスなんて、所詮幻想に過ぎない。みんな生まれた時から嘘つきで、裸だけど洋服を着こんでいるんだ」
「世界中には服を買うことさえできない人も大勢いるのに、あなたたちは新しい服を作り続け、売れ残れば処分する。そんなことの繰り返し」
「サマル、僕たちに絶望しているのか?」
 サマルは言葉を返さなかった。僕はサマルの目の前にあるブナの木を見つめていた。
「あなたたちは、気づかないふりをしている。情報としては同胞が衣食住にもこと足りず生きていることを知っていても、生活を変えずに浪費を続けている。これを不誠実と言わずに、何と表現すべきかしら?」
「サマルが言うように、僕らは他人に干渉せず、生きてきた。もちろん政府間の援助はあるし、積極的に援助活動をしている良心的な人々も多かったが、世界システムの全体をみた時、そうした良心的行為の量は微細であり、圧倒的多数は世界の情報を入手することさえせず、浪費を続けている。けれど、誠実とは何だろう。不誠実と誠実の違いとは何だろうか」
「エル、問い、考える営みはもうおしまいよ。我々の決定はなされた。人類は滅ぶべきである。理由は不誠実であること。目の前に広がる現実を見ても、気づかぬふりをして、享楽していること」
 サマルの言葉は、預言者か新興宗教開祖の宣託のようだった。
「待ってくれ。正直に生きていれば、東京で暮らす限り、世界の現実は見えてこないよ。国際ニュースで世界の現実を垣間見たとしても、それは対岸の火事に過ぎない、僕らに切迫した行動を促したりはしない。日本の生活の安全は、ある程度保障されている。周りを見つめてみよう。凶悪な事件や事故は、ニュース映像を通してしか認知されない。東京で暮らすことはストレスフルだけれど、いつでも平和だ」
「あなたたちが作り上げた社会の仕組み自体が、問題ではないの? 不安な知らせばかりが配達されるけれど、その実自分たちは安全で、ニュースをフィクションのように享受しつつ暮らしている。不誠実な虚構の世界。真正直な現実には、嘘しか配達されていない」
 サマルの声は冷たかった。
「制度に問題があるかもしれない点は認めよう。けれど、制度を作り上げた人と、それに従って生きている人は別じゃないかな。何にしても、大勢の人たちを一方的な決定により、絶滅させるのはよくない」
「誰も悪い人はいないと? どこかで歯車がくるってしまった。なら歯車をくるわせた人が悪いんじゃない? 歯車がくるったまま、修正しようと努力してこなかった人にも、責任があるんじゃない?」
「僕は今必死になって問題を解きほぐそうとしている。いや、本来あるべき正しい状態に戻そうとしているわけじゃなく、もっともっと歯車の回転をぎくしゃくさせようと企んでいる。歯車同士の回転をずらして、空回りさせて、別の組み合わせを作ってみたり、機械を解体してみたり。今までの回転では到達不可能な未来に転がりこめるように」
「エル、もう遅いの。人類滅亡は、決定された」
 僕はサマルの否定に答えず、思考を進めた。
「僕は君たちの決定から人類を逃れさせたい。チャンスをくれ。人類の歩みを、君たちの欲望に沿う方向に修正させようとは思わない。足取りをもっとちぐはぐなものにしてみせよう。人類自身の欲望や理想からもそれて、予想外の、計算では達成できない方向にずらせてみせよう。足が絡まって、転んで、骨折して、ゾンビになりつつも、想定範囲外の未来に向けて歩いてみせよう。決定不能な状態に留まり続けることに、耐えてみせる」
 サマルは僕の呼びかけに答えなかった。僕はサマルの横顔を見た。サマルは相変わらず厳しい顔をして、まっすぐ前を見つめていた。
「絶滅へといたるスイッチは、あなたたち自身が入れた」
「何? どこかの国が、核爆弾でもぶっぱなしたのか?」
「すぐ崩壊は訪れない。ゆっくりと人類は死滅していく。現存する地球生命の多くは、人類と一緒に死滅していく。そのゆっくりした死の行進に、私たちは干渉しないことにした。同類が死んでいくのに干渉しないで済ますことは、人類が示した振る舞いでしょ。私たちも人類に見習って、人類の絶滅過程に一切干渉しないことにしたの」
 サマルの声はいつになく低く、小さな囁き声だった。僕は時折道路を走るトラックが吐き出す轟音を感じながら、サマルの言葉を聞き取っていた。
「手を引くということは、それまで好意的に介入していたということ?」
「時折私たちは、人類の行為を善い方向に導こうと干渉してきた。しかし、そうした振る舞いももう終わり」
「もしかして、人類に干渉しないということが、意志決定の内実なのか?」
「その通りよ。私たちの調査結果から、人類は早々に滅びるという予測が立てられた。今まで私たちは、あなたたちが間違った道に行かないように支援してきたけれど、ここ百年は手を控えてきた。そして先週末、あらゆる干渉行為を永久停止することが決定された」
「つまり、自分たちが管理も干渉しないのだから、愚かな人類は滅びるしかないと言っているわけか。ずいぶん高飛車な言い方だね」
「厳密な調査結果からみて、明らかじゃない」
「いいよ。君たちが干渉しようが、しまいが、僕はどちらでも構わない。肯定も否定もしない。僕らは君たちが望む方向にも、絶望する方向にも進まないし、進めない。君たちと人類両方の観測は裏切られるだろう。僕らは誰も計算できない未来に進んでいく。見知らぬ、奇妙な未来がはるか先から、僕らの方にやって来ようとしている。未来がどう振舞うかは謎だし、計算した途端に、未来は過去になる」
 サマルは立ち上がって、ブランコに座る僕の正面にやってきた。
 サマルは僕が貸したワイシャツを両手で引っ張った。ボタンが外れ、黒いブラジャーをつけた上半身が露わになった。
「エル、私を殺して」
 僕の目の前にはサマルの肌が広がっていた。
「君のさっきまでの話は譲歩つきで理解を示せたけれど、殺せというのは納得できない」
「あなたは知らないかもしれないけれど、私を殺すも同然のこと、あなたたちは毎日繰り返しているのよ。さあ、殺しなさい」
 サマルはどこに隠していたのか、カーゴパンツのポケットからナイフを取り出し、僕の方に投げた。僕は慌てて手を出し、ナイフを手につかんだ。ナイフは軍事用のサバイバルタイプで、僕の所有物ではなかった。
「さあ、そのナイフで私の心臓を繰り抜いて、この木の下に埋めてしまって」
「だめだ。幽霊になるならいいけれど、死ぬのはいけない」
「何故、私を殺そうとしないの? あなたたちは地球上最も残虐で非道な、神の失敗作だというのに」
「もう人類に干渉しないとさっき言っていただろう」
「干渉はしないけれど、観察は続ける。あなたたち人類の生物学者も、絶滅する生物の最後を記録しているでしょう。調査の目的は変更されたわ。人類を救うためでなく、なぜ人類は絶滅するのか、後代の参考にするため、観察が続けられることになったの」
 サマルの唇が僕の顔に近づく。キスを迫るように唇の先端がとがった後、唇の先から皮膚が上下左右にめくれあがっていった。サマルの皮膚の下には、人間を形作る組織、細胞、血液、骨、神経、そんなものは一切なく、代わりに、ミニチュアフィギュアサイズの人間たちが集合しているばかりだった。
 裂けた皮膚はあご、喉仏、肩、胸、腕、臍をも超えて、めくりあがり続けた。サマルの皮膚の下にいた人間たちの多くは、僕の方を見つめていた。彼らは全員生きているわけでなく、死んでいる者の方が多かった。
 皮膚が腐敗した者、骨折した者、脱臼した者、女性、赤ん坊、老人、女性、半死半生の人、ゾンビ、幽霊、死者たち。ヨーロッパ出身の人、アジア出身の人、アフリカ出身の人、南米の人、大勢が密集しており、光り輝いていた。彼らの中には楽団員全員が骸骨のオーケストラもおり、マーラーの交響曲中でも最も悲劇的な響きを持つ第六番第一楽章が、今まで耳にしたこともない高速スピードで演奏されていた。
 腰のあたりまで皮膚がめくりあがると、大勢の見知らぬ人の間に、小さなサマルが座っているのが見えた。小さなサマルは他の人と同じように僕を見つめていた。ミニチュアサイズのサマルの姿を凝視していたら、そのサマルも唇から皮膚が裂けていった。小さなサマルの胴体には、蟻ほどの大きさの人間たちが密集していた。極小の人間たちもまた、僕の方を小さな瞳で見つめていた。
 等身大の方のサマルの皮膚は、性器までめくれあがった後、進行方向を反転し、上昇し始めた。ミニチュアサイズのサマルも、そのサマルの皮膚の中にいた蟻サイズの人間たちも見えなくなった。
 等身大のサマルは、首、うなじ、耳、髪の毛、瞳、鼻まで、完全に外形を取り戻していった。唇の方に皮膚が集まってくるのを見つめているうちに、サマルの唇の先端から、僕の口に向けて、大量の小さな人間が吐き出されてきた。僕は光り輝く流れとなった大量の人間、死体、ゾンビ、幽霊たちを吸いこんだ。




 日曜日、東陽町にある江東運転免許試験場まで免許更新に行った。当初は有給休暇をとって、新宿にある免許更新センターに行く予定だったが、オフィスワークが忙しくて、有給休暇をとれなかった。
 平日なら警察署で免許更新できるのだが、日曜日に免許更新できるのは、都内だと府中、江東、品川にある運転免許試験場だけだった。他の試験場はどれも駅から遠く、バスの利用が推奨されていたため、中野からは遠かったが、地下鉄の駅から近い江東運転免許試験場に行くことにした。
 朝七時に起きて、丸の内線に乗り、新宿三丁目で下りた。新宿三丁目駅は、地下鉄副都心線が開通したせいか、ライトの多い、近未来的なデザインになっていた。ただ休日の早朝のせいか、駅構内は、死体処理場のように閑散としていた。
 新宿三丁目から都営新宿線で九段下まで乗り継ぎ、九段下からは地下鉄東西線に乗った。東陽町駅の到着時刻は八時過ぎだった。駅から地上に出て、ファミレスやカフェが並ぶ道路沿いの歩道を七分ほど歩いた。道を歩く人全員が、免許更新に向かうため、歩いているように見えた。
 試験場構内に入ってすぐ、長蛇の列ができていた。試験場では、運転免許試験と更新手続きができた。平日は仕事で免許更新に来ることができない労働者たちが、大量に詰め掛けているのだろう。僕は列の末尾に並び、アイポッドでテンシュテット指揮によるマーラーの交響曲第七番を聴きながら、順番が来るのを待った。
 僕は自動車を持っていないペーパードライバーであるため、当然無事故無違反のゴールド免許保持者だった。自動車に乗らないのに、免許更新区分は優良であり、手続きも少なかった。
 七分近く並んでから、受付にたどりついた。僕は財布の中から運転免許証を取り出し、係のおばさんに渡した。現免許証の記載住所から、異動ないことが確認された。僕はおばさんから渡された受付票に、氏名など必要事項を記入した後、収入印紙を購入するため、次の列に並んだ。
 ゴールド免許は、更新手数料が他より安かった。優良区分の手数料三二五〇円を支払った後、僕は個人情報保護用の暗証番号を登録する端末機の列に並んだ。その場で適当に決めた暗証番号七桁を端末に入力すると、ゴシック体で記された暗証番号が、レシートのごとくプリントアウトされた。
 視力検査、写真撮影と続いた。視力検査は輪のあいている部分を言い当てるだけですぐに終わった。写真撮影の列で待っているうちに、現在の免許証にパンチで穴をあけられた。
 写真機の手前で、女性が機械に撮影される様子を観察した。肉眼で見る彼女の顔と、コンピューター画面に映し出される写真用の彼女の顔を見比べた。椅子に座ってかしこまっている彼女の顔は、僕の瞳に映る時、ごく普通に可愛いらしく見えたが、コンピューターの液晶画面に映る彼女の顔は、何十倍も堅苦しくなっていた。現実の彼女と、免許写真の彼女は、別人としか思えなかった。撮影用のカメラには、人間が持っている美をはぎとる細工がしかけられているのではないかと思えたほどだった。
 写真撮影を終えた後、僕は係の人に誘導されるままエスカレーターで二階に上がり、優良者向けの三十分講習を受けた。
 講習は、白髪で定年間近といった感じの教官が行っていた。教室左奥には大画面の薄型液晶テレビとDVDプレーヤーがおかれていた。講習は、DVDビデオの再生によって始まった。よくある事故パターンのビデオ上映が終わった後、講習受講者にとっては五年前にあたる前回免許更新時から、今回更新時までの、運転制度変更点が説明された。駐車の取り締まりが厳しくなったこと、飲酒違反の罰則が厳しくなったこと、老人に対するケアが手厚くなったこと等を定年間近の教官が語った。
 制度改正についての矢継ぎ早の講義が続く中、僕はホワイトボードに書かれた交通事故者数の分析結果を眺めていた。交通事故による負傷者と死亡者の数が、全国と都内にわけて表示されていた。老人の被害者数も表示されていたし、今年度累計の数字が、昨年度より減少していることも明示されていた。
 講義終了後、僕は階段を登って四階に行き、新運転免許証の発行を待った。講義受講者のうち、僕は最初に四階にたどりついたのだが、僕の運転免許はまだ発行されていなかった。僕はベンチに腰かけて、受付番号の順番が回ってくるのを待った。
 運転免許試験場で日曜日に働いている係の人たちは、全員公務員なのだろうかという疑問がわきあがってきた。受付票に記載された番号と照合しながら、新しい運転免許証を配布している窓口の女性二名は、毎日毎日こうした書類と番号を整理する仕事に携わっているのだろうか。
 よく考えれば、オフィスワークのほとんどはそうした整理の仕事に費やされている。オフィスワークの本質は、整理整頓活動による秩序の維持創出かもしれないが、僕はこの場所で起こること全てに秩序を見出すよりも、合理の行き過ぎから生じる退屈さ、過剰な秩序が生み出す秩序解体の実例を見出していた。
 受付票と引き換えに渡された運転免許証に映る僕の写真は、五年前の写真よりも肌の色が白くなっていた。見ようによっては別人に見えなくもなかった。写真撮影前に、肉眼で見る女性の顔と、免許写真に映る女性の顔が、まるで異なるものになることを確認していたから、僕は写真映りの奇妙さを落胆しないことにした。
 免許更新手続きで最後にやることは、新免許証のICチップに登録された、本籍の内容に間違いがないか確認することだった。
 以前なら、運転免許証の表面、現住所欄の上に本籍が記載されていたが、新免許証では、本籍はICチップ登録情報となって、表面から消えていた。
 ICチップ確認端末の上に新運転免許証をおくと、暗証番号の入力を求められた。一階で登録しておいた暗証番号七桁を入力したら入力ミスを指摘された。入力ミスが続くと、手続き不可になるという警告メッセージも出たため、暗証番号の用紙を見ながら、数字を一個ずつ正確に入力した。
 液晶画面上に僕の新しい運転免許証が表示された。本物の免許証の本籍欄は空白となっているが、画面の本籍欄には、僕の本籍が表示されていた。確認すべき本籍の住所よりも、本籍欄の横に映る、僕の顔写真の白さ加減が目についた。
 画面を確認した後、僕は免許証を取り出して、財布のカード入れの中に挿入した。パンチで穴を開けられた以前の免許証は、マンションに帰ってから、はさみで切って捨てることにした。
 運転免許試験場を出ると、十時十五分過ぎであり、小雨が下り始めていた。無意味な手続きで休日の貴重な時間が無駄になるという考えが最初はあったが、いざ手続きを終えてみると、午後の時間はたっぷり残されていた。懸念だった免許更新を何の問題もなくこなせたので、僕は折り畳み傘を指しつつ、ほっと一息ついた。




 行きと同じように乗り継いで、新中野のマンションに戻った。
 僕は自分の部屋には帰らずに、サマルの部屋に向かった。サマルの部屋には、相変わらず鍵がかかっていなかった。
 サマルの部屋のリビングには、白い花が敷き詰められていた。東京都指定のゴミ袋が、白い花の上に散らばっていた。部屋の中心には、花をかきわけるようにして、目を閉じて眠るサマルの裸体が横たわっていた。
 サマルの裸体には、胸上からへそのあたりまで、体の中心線に沿って裂傷が走っていた。皮膚と皮膚の間にあいた細長い穴を覗いても、臓器は見えず、真っ黒い空洞があるだけだった。僕はサマルの死んでいるのに生きる人のように美しい遺体に深く礼をして、黙祷を捧げた。
 鍵をかけずに、サマルの部屋を出た。自分の部屋に戻って、エアコンと照明の電源を入れた。僕はスタンドグラスの前に立ち、あごの下の皮膚をつかんで引っ張った。
 皮膚を両手でめくりあげると、エルの顔の下から、無数のミニチュアサイズの人間たちが現れた。鏡に写る群集の真ん中には、ミニチュアサイズのサマルの姿があった。サマルの隣には、目を閉じて微笑んでいる、ミニチュアサイズとなったエルの姿があった。
 私はパンチで穴をあけられた旧免許証と、新免許証をローテーブルの上に並べてみた。二枚の顔写真は微妙に印象が違っていたが、係の人たちは誰も、免許証の持ち主が別人だとは気づいていなかった。
 私はクラウス・テンシュテットが指揮するマーラーの交響曲第八番、「千人の交響曲」をコンポでかけつつ、ノートパソコンの電源を立ち上げ、文章を記録し始めた。
 マーラーという作曲者が作り上げた音楽を、何人も別の指揮者が演奏する。指揮者によって、演奏の解釈は異なる。晩年のテンシュテットが奏でる音は、他のどの指揮者による解釈とも異なっていた。古典的に崇高な雰囲気を持っていながらも、大衆受けしそうな、獰猛な音響が時折噴出した。盛り上がる部分では金管が轟音で鳴り響き、ティンパニーは強烈な打撃を繰り返した。生命が死滅する瞬間を覗いたものだけが作り出せる、半死半生の芸術家だけが描写できる響きだった。
 私はエルが無節操に書き散らしていたブログに、エルに成り代わって文章を続けた。運転免許の更新でさえ、私は偽装することができた。写真撮影でも、ICチップの登録でも、誰も私がエルだと気づかなかった。会社にも退職届を出してきた。これから私は、エルの偽物として、ただし社会生活上は真正なエルとして、生存するのだ。  
 私は特定のテーマもなく、脱線を繰り返す構成破綻的なブログの続きを書いた。私は人類の絶滅をくいとめることを目的としない。絶滅でも生存でもない場所に向けて、人類生存の目的に奉仕しない文章を書き送ることにした。
 私はエルが書いていたのと倍の量と速度で、人類絶滅過程の記録を書き、エルのブログ上に八本記事をアップした。同時に、エルが書いていた未発表のテクストの中から、新人賞応募用の原稿をプリントアウトしていくことにした。
 小説の新人賞には、ノンフィクションのドキュメントを送ることにした。ドラマ脚本の新人賞には、クローゼットの上においてあったDVDソフトを送ることにした。おもしろ動画の新人賞には、前衛演劇の脚本を送ることにした。経済評論の新人賞には、スケッチブックに残っていた絵画の習作を送り、作曲の新人賞には、自殺した詩人の朗読音声を送り、現代詩の新人賞には、ディスクの裏面が傷だらけの効果音CDを送ることにした。
 私は応募物一式を封筒に入れて、宛名と自分の名前を書いていった。もちろん私が書く署名は、サマルでなく、エルだった。
 私は皮膚を引っ張って、元に戻した。皮膚の表面を丁寧に伸ばすと、鏡にエルの顔が戻ってきた。
 僕は新免許証を手に取り、鏡に映る自分の顔と見比べてみた。鏡に映る僕の顔は、免許証に映る僕の顔よりも精気があり、生き生きとしていた。
 パンチで穴を開けられた、五年前に撮った旧免許証の写真を手にとってみた。よくよく眺めてみると、五年前の旧免許証の顔写真と、午前中に撮影した新免許証の顔写真と、今鏡に映る僕の顔は、全て別人の顔のように見えた。


大地の歌、九、十、十一

 交響曲第八番の演奏が終わると、「大地の歌」が自動で流れ始めた。マーラーは、ベートーヴェンが交響曲を九番まで作って亡くなったのを気にして、九番目の交響曲作品を「大地の歌」と命名した。男声テノールと女声アルトが交互に独唱をつとめる「大地の歌」は、マーラーが交響曲と決めなければ、交響曲と定義できないような声楽的作品だった。
 マーラーは九番のジンクスを恐れて、九番目の交響曲を「大地の歌」としたのに、十番目に作った交響曲は、交響曲第九番と命名した。本当は交響曲第十番なのに、第九番と命名された曲が世に出た後、マーラーは死んだ。
 死の前にマーラーが制作していた十一番目の交響作品は、未完成に終わったが、交響曲第十番として、世に親しまれている。マーラーの交響曲は、死のジンクスを避けようとした九番以降、全て数が合わなくなってしまったが、どれも天国と地獄両方をまたぐような音楽となっていた。
 僕は「大地の歌」を流したまま、各種新人賞への応募原稿をビジネスバッグに入れて、部屋を出た。隣の部屋の前に、小太りの男が立っていた。チェックのシャツにチノパンツをはいた男は、僕と目があうと、親しげに微笑んできた。
「エルさんじゃないですか。ここに住んでたんですか。嬉しいなあ、僕、隣ですよ」
 微笑む彼の顔も名前も覚えていなかったが、僕は愛想笑いを返した。
「ねえ、僕が貸したスカトロのブルーレイディスク、ちゃんと見てくれました?」
 僕は首をかしげて、しばし止まった。
「どんなパッケージだっけ? それ」
「やだなあ、見てないんですか。サマルっていうとびっきりの美人が映っているソフトですよ。サマルって子は九分か十分くらいしか出てないすけどね、彼女、この作品に出て脱糞してから、行方不明になったんです。スカトロマニアの間ではお宝美女として有名なんですよ」
 僕はひょっとしてと思い、ドラマ脚本新人賞の応募封筒を開いてみた。新人賞応募作として入れたDVDソフトのパッケージには、かつての僕であり、同時に私である、サマルが映っていた。「絶望した女のキス」というタイトル下に映るサマルは、竹久夢二の美人画に描かれた女性のように、斜め右下に目を落として、寂しげな表情をしていた。
「それですそれ! 何封筒に入れてんすか! 僕のソフト勝手にどっか送らないでくださいよ」
 男が封筒を手にとって、宛名を確かめた。
「なんすかエルさん、これテレビ局に送ろうとしてたんですか? ふざけてんすか?」
「ふざけてなんかいないよ。僕は真正直に遊んでいるんだ」
「やっぱ異常性欲者だなエルさんは。気に入りました。せっかくだから、僕の部屋に遊びに寄ってくださいよ。そのビデオ見ましょ」
 男は汗に濡れた手で僕の手を引いた。僕は無理矢理男の部屋に連れこまれた。
 玄関左の壁際には、食器、調理器具が一切ないキッチンがあり、右には湯気がたちこめているバスルームとトイレがあった。キッチンとリビングを隔てるすりガラスの扉は半開きになっていた。
 リビングには、壁一面に白木の本棚が並べられていた。男の蔵書には、日本語以外の言語で書かれた洋書も多く、分厚い百科事典や、世界文学全集も揃っていた。
 僕の部屋寄りの壁際には、きちんとベッドメイクされた小ぶりのシングルベッドがおかれていた。シーツ、枕、ブランケット、どれも白の無地で汚れ一つなかった。黒光りする遮光カーテンの手前には、バーのカウンターで目にするような洒落たデザインの丸椅子と、ノートパソコンが載った木製の丸テーブルがおかれていた。
 シングルベッドの正面には、28インチ程度の液晶テレビがおかれていた。液晶テレビが載るテレビボードの中にも、ぎっしりと分厚い本が詰めこまれていた。
 おかしい。この部屋はかつてのサマルの部屋ではないのか。僕は来る部屋を、あるいは時間を誤ったのではないか。それとも、僕の部屋は、右隣も左隣も、同じ部屋なのだろうか。
 男はDVDプレーヤーにディスクを入れて、テレビの電源を入れた。僕はシングルベッドの上に座り、あぐらをかいた。男が丸椅子に座り、ノートパソコンを開くと、テレビの液晶画面にアダルトソフトのおすすめ最新作紹介映像が流れ始めた。
「エルさん、僕のこと、単なるスカトロマニアの派遣社員だと思ってるでしょ。でもね、本当は僕の仕事、違うんです。今までエルさんのことずっと、観察してきたんです」
 本編が始まった。若い女性がトイレに座り、大便をしている場面が映し出されたが、彼女はサマルではなかった。
「何故観察してきたのか。それはエルさんを査定するためです、地球生命のサンプルとして、ふさわしいかどうかね」
 僕は男の顔を見た。男はテレビに映る排便の様子を見つめていた。
「僕はスカトロ好きの派遣社員オナンではなく、地球に生命が存続すべきかどうか、決定する権利を持つ組織から派遣されたスパイなんです。僕たちに関する詳細はお話できませんが、僕たちは本当に地球生命が無軌道な方向に進んでしまったことを嘆いているんです。今ここで地球生命を滅ぼすべきか、このまま存続させるべきか判定するため、エルさんを地球生命のサンプルとさせてください」
 テレビ画面には、三人の女がベッド上に並んで、排便する様子が映し出された。彼女たちは三人とも美しかったが、サマルではなかった。
「やり方は簡単です。エルさんが毎日どのように生活しているのか、僕に報告してくれればいいんです。今まで僕は、エルさんの仕事ぶりを観察してきわけですが、これからはエルさんの方から能動的に、僕にエルさんのことを報告してください。報告義務に対する報酬はありません。まあ、報酬と言えるとすれば、成果は地球生命が存続することです。ペナルティは、エルさんを含めた地球生命が全て絶滅すること、これだけです。どうです、簡単な仕事でしょ」
 僕はオナンと名乗る男の話を聞いて、いらついた。人類を絶滅させるのは一向に構わないが、他の生命まで絶滅させられては困る。それは僕が所属する組織が望む未来ではない。オナンは一体どこの組織に所属しているのだろうか。
「報酬交渉は無用だ。その仕事、歓迎するよ。僕は人類のサンプルとして、報告する義務を請け負うことにする」
「ありがとうございます。ただしエルさん、人類のサンプルではありませんよ。私たちの組織が欲しているのは、地球生命のサンプルです」
「ああそうだったね、ごめん」
「まあエルさんにとっては、人類のサンプルでも、地球生命のサンプルでも、どちらでも違いはないかもしれませんが、僕らの組織は、あなたを地球生命のサンプルとして調査させていただきますので」
 三人の女が排便する最中、撮影している男性スタッフたちが、彼女たちを侮辱する、いやらしい言葉を発し続けていた。
「ところでさ、この作品、苦しそうに排便しているのは女性ばかりだけど、男が排便するシーンは出てこないの?」
 オナンは首をひねった。そうしたことなど、今まで考えもしなかったという表情だった。
「あ、ほらパッケージの女の子が出てきましたよ。やっぱブルーレイで見ると、現実の人間より綺麗に見えますね」
 テレビ画面にやせ細った女が現れた。彼女は怯えた表情をして肩を震わせていた。僕はもう一度パッケージ画像を確かめてみた。
 オナンが指差した彼女は、パッケージに写るサマルとは、全くの別人としか思えない顔立ちの女だった。
 オナンが画面にすり寄り、両手で液晶テレビをつかんだ。オナンは液晶画面にアップで映る、泣きそうな女の唇に、キスをした。

(了)


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