『スパイ小説』
最終更新日：2008年11月9日
新宿のマンガ喫茶でこれを書き始める。地下一階、真っ暗闇で、宇宙ステーションの中みたいな狭い廊下を潜り抜け、自分の個室にたどりつく。他人の小説が入っているリュックを置いて、ビタミンC入りのジュースとスムージーを一階に取りに行く。受付まわりにはたくさんの客がいる。入り口脇にはネイルスペースまである。
地下の個室に戻り、ジュースの入った紙コップをパソコンの上において、ヘッドライトをつける。どこからか聞こえてくるDVD映画の音声と、エアコンのうなり声と、私が生み出すキーボードの連打音が聞こえてくるだけ。完璧に創作に集中できる環境。正直私のタイピング音は間断なく続くので、この静寂の中ではうるさいと思う。気づかれないように静かにしようという意志が、創作活動を秘め事のように高めてくれる。
マンガ喫茶に入る前、私はつかれきっていた。家だと一日２，３ページ書くと、疲れと飽きで創作をやめてしまう。どこか外で創作できる環境はないかと思い、仕事中インターネットで検索してみた。もちろん最初に頭に浮かぶのはホテルである。一流ホテルのスイートルームで一日創作に没頭してみたいものだが、私はまだ作家活動から報酬を得ていない。経費を負担してくれる事務所も出版社もない。自然、もっとリーズナブルな価格の場所で仕事をしたい。ネットで「集中できる場所」を検索すると、コーヒーショップがいい、ファミレスがいい、モスがいいという意見が多い。ただし、私はノートパソコンを持ち歩いて仕事をしたくない。できたら公共スペースにあるパソコン上で原稿ファイルを作り、ネットを介して家のパソコンにデータを持ち帰るというやり方にしたい。そっちの方が遊牧民ぽいし、流れ弾みたいで素敵だと思った。そうなると、マンガ喫茶が最適だという話になる。
小説の執筆場所にマンガ喫茶を使うのは最初どうかと思ったが、よく考えるとこんなに創作にふさわしい穴蔵はない。ジュース飲み放題で食事もとれる、疲れたらネットサーフィンができるし、マンガも雑誌もDVDも見れる。ああいけない、誘惑に負けず集中するための場所を選んだのに、エッチな妄想を膨らませてしまった。と、ここまで書いたら左隣の客がいびきを立て始めた。親戚の親父の音に似ている大きなうねり音。右隣の多分二つ向こうくらいの部屋からは、ハリウッド映画らしい歓声が聞こえてくる。ヘッドホンをしながら映画鑑賞しないのだろうか。
休日はマンガ喫茶にたてこもって、ひたすら小説を創るぞと昨日意気ごんだ。昼に起きて、新宿に乗りこんだが、いきなりマンガ喫茶にはよらず、まず大書店に寄って、文学賞を受賞した本を買いこむ。以前は外国の過去の文学作品ばかり読んでいて、日本の同時代作品なんてまるで読む気がしなかったのだが、最近急に読む気になった。もちろん前から読む必要は感じていた。応募先の雑誌に掲載されている作家の作品を読まず、古今の名作ばかりを読んでいては、一生新人賞を取れないんじゃないかとも思った。今思うと、大学時代のトラウマが、私から日本の現代文学を遠ざけたのではないかとしのばれる…
大学時代、私は文学と現代思想を読む読書会サークルに所属していた。本当は軽音楽部でロックボーカリストとして大活躍し、そのまま学生デビューを飾りたかったのだが、私は軽音楽部にもクラスにも馴染めなかった。頼れる友達もできず、一人で鬱屈とした気分になっていたとき、別の大学に行った高校時代のクラスメイトが、哲学の読書会サークルに入ったと聞いた。「え、彼女そんな真面目そうじゃなかったじゃん」と最初思ったが、人伝えに聞いた彼女の決意に影響されて、私も読書会サークルに入ることになった。
教室の机の上に置かれていた、ムンクの絵みたいなイラストが描かれたビラを手に持って、私は新入部員オリエンテーションの小教室に向かった。社会科学研究会なのに、会長ではなく部長と名乗った人物は、スパイラルパーマの頭に丸眼鏡をかけていて、まるでジョン・レノンみたいだった。ヒッピーみたいな格好をして、メディア論とか認識論とか受験勉強しかしてこなかった高校生にはかっこよく響く彼らの言葉遣いにも惹かれて、私は読書会に、入会ではなく「入部」した。
最初の夏学期に読んだ本はもう忘れたが、次の学期では、小説を読む集まりに出た。集まりと言っても、文学好きの男と、渋谷にあるサブカル系企業に就職が決まっている四年生の男と、私の三人で、喫茶店に行って、コーヒーを注文した後語り合うだけである。
その時は、村上春樹と、クンデラと、エリクソンと、サリンジャーを読んだ。私は新聞で見た「J文学」という言葉に惹かれて、その当時評価されだしたばかりの、渋谷を舞台にした小説を書いていた作家の小説を読もうと提案した。村上春樹は文学と現代思想に詳しい彼らも愛していたので、酷評はなかったが、その作家の作品はぼこぼこに批判されたと思う。それがトラウマとなってか、私は日本の同時代作品は読まず、外国の現代思想的にも評価されている小説ばかりを読むにようになっていた。
その酷評された作家の最新作を私は先ほど、大書店の平積みの中から手にとって買ったのだ。奇妙な回帰である。彼もようやく権威ある文学賞を受賞した。本格的に小説家になろうと決意した私の軌道と、彼の軌道が八年ぶりにめぐり合った。
購入した小説を読むため、私はまだマンガ喫茶には行かず、ドリンクバーのあるファミレスを探した。マンガ喫茶では一時間あたり料金がかかるし、創作だけをしたかったのだ。以前歩いていた時に見つけたファミレスは、今日実際探してみたら、駅から随分遠い場所にあった。昼過ぎに来たし、人通りも少ない場所なので、店内はガラガラだった。私は一番窓際のソファーに座って、早速購入した本を開いた。ここで十六時くらいまで小説を読んでから、マンガ喫茶に行って夜まで小説を創ろうと計画していた。
ただ、気がかりなのは、私の隣のテーブルにうるさい客が来た場合である。ギャル系四人が座って、ギャアギャア盛り上がったとしたら、読書できるものではない。アイポッドを聴いて耳を塞ぐという手もあるが、今日はマンガ喫茶の中でアイポッドを聴くと決めていたので、電池節約のためファミレスでは聴かないことにした。
今これを打っていて、アイポッドのことを思い出した。クソ、今別に使っていないんだから、あの時耳栓代わりに使っておけばよかった。
私は窓際にある2人がけのテーブルの窓側に座っている。左隣に四人がけのテーブルがあり、右隣は柱になっている。もしこの左隣のテーブルにうるさい客が来ると、完全に静寂な私とひどい対称をなすことになる。その危険は、ボーイに案内された時からわかっていた。他に席がたんまり空いているのだから、他の場所に座ればよかったものの、私はそこに座ってしまった。もし左隣に誰も座らなかったとしたら、その場所は右隣の柱のおかげで、完全に周囲から隔離された架空の密室になるのだ。だからこそ、左隣に爆弾がしかけられたら、被害の大きさは尋常でないことも明白だった。
ドリンクバーからアセロラドリンクと卵スープをとってきて、私は小説を読み始めた。そんなたいしたことないなと思いながら読んでいたら、ソフトモヒカンの店員がランチを運んできた。高い料金の割にうまくないなと思っていたら、案の定、ギャル系の三人が左隣のテーブルに案内されてきた。
私が来た時はすいていたのに、もう店内は客で満杯だった。三人が見るからにうるさそうだったので、私は少しいらついた。決して視線を合わせないように注意しつつ、私は彼女たちのせいでますますまずくなったコロッケを食べた。
アセロラドリンクを飲み終わったら、野菜ジュースを飲んで、その後アイスコーヒーを飲んでと計画していたのだが、彼女たちが来ると、私は立ち上がれなくなった。テーブルとテーブルの間の狭い隙間を申し訳なさそうに通ってドリンクバーに向かうのが嫌だった。私は無言で小説を読んだ。いらついていたからか、右側に本を寄せて不自然な姿勢で読んだからか、首が痛くなってきた。
窓側には、太った体にぱっちぱちのピンクの服を着た女性が座り、通路側には白い服と黒い服の女二人が座っていた。三人とも丸っこくて、体型の類似性が仲の良さを象徴しているようだった。彼女たちはどこかのバンドのライブ帰りらしく、疲れたと繰り返し言っていた。食事後、黒い服の女の家に泊まりに行くらしい。
「わたしんち何もないよ」と彼女は言うと、「寝れればいいよ」と他の二人がすぐ返答する。なのに、「DVDある？」とすぐに尋ねる。「あるけど故障してて、見れるDVDと見れないDVDがあるの」「マジ！？」と驚き八割批判二割の歓声が上がる。寝れればいいんじゃなかったの？ とツッコミを入れたくなったが、私は関係ない関係ないと、読書に集中するよう自分を促す。
彼女たちは、ピザと、サラダと、冷麺とドリンクバーを注文した。いかにも彼女たちにふさわしいチョイスだ。自分たちが暮らす狭い世界のことをよくわかっていると偉そうに思っていたら、注文をとりにきた店員が「お皿お下げしてよろしいですか？」と私に向かって聞いてきた。私はずっと下げていた顔をあげて、「はい」と低く小さな声で答える。店員が私に声をかけた瞬間、彼女たち三人の動きが止まって、顔をあげた私の様子を伺っているのがわかる。時間が止まる。お互いに混じりえない珍種同士の会合である。私は店員に目線を合わせて、注目している彼女たちの視線をやり過ごした。
私の皿が下げられると、またとりとめもない会話が向こう側で続いた。最初は窓側に座っていたピンクが会話の主導権を握っていたが、料理が運ばれてくると、私から一番遠い位置に座っていたホワイトが、突然一人で一方的に盛り上がり始めた。ハイテンションで話しまくるホワイトの呼吸の合間に、ブラックが軽い相槌を入れる。さっきまで場をひっぱっていたピンクは食欲旺盛なのか相槌さえ打っていない。
ホワイトのチームプレイを度外視した興奮がおさまると、今度はブラックが、男性社員のお尻を触るという話題になった。上司や部下のお尻をよく触るというブラック。「パンツ何色ですか？ てまで聞いてんだよ。オヤジじゃん」とホワイトが笑いながら言う。「それセクハラじゃん」とピンクが低い声で言う。「黒ですって答えんの。答えんなよ、リアルだろ」とブラックが言い、三人が笑う。私は会話の最中一度も笑わない。部外者である限り、どんなに面白い内容の話を聞いていたとしても、つまらないのではないかと思った。たとえお笑い芸人三人がファミレスで爆笑ネタを話し合っていても、彼らをお笑い芸人だと知らない女性が隣に一人で座っていたら、頭ではおもしれえと思っても、顔は無表情を貫き通すのではないだろうか。普通より冷たい無表情。向こうの話が盛り上がり、つい笑い出しそうになれば特に冷たく。
本当なら早く野菜ジュースを注ぎに行きたいのだが、立ち上がるのがめんどくさい。首も痛いし、ここから早く出てしまいたい。予定を繰り上げて、私はレストランを出ることにした。ホワイトがコーラを注ぎに立ち上がったので、それにつられるようにして私も立ち上がった。ピンクとブラックと視線を合わさないように注意しようと思っていたら、案の定私が座っていた方のテーブルに脚をぶつけてしまった。テーブルの位置を直す私は滑稽なピエロみたいだった。
ドリンクバーにいるはずのホワイトとも目をあわすまいと思いながら、私はレジに向かった。彼女たちと顔をあわせたくなかった。通りすがりの他人でいたかった。ちょうど私が通ると、コーラを注いだホワイトが回れ右をするところだった。私は目線を下に落として、ひらひらしたホワイトのスカートと、思ったより太い彼女の脚を眺めるだけだった。
外はヒートアイランド現象か日本じゃないみたく蒸し暑かった。私は読書にまるで集中できなかったし、頭が痛かったので、マンガ喫茶で創作できる気分ではなかった。どこか喫茶店に入って、アイスカフェラテを飲みたいと思った。駅前に向かう途中、何軒も喫茶店はあったのに、どこも玄関前のオープンカフェ席がうまるほど満杯だった。この暑さなのにわざわざ外に座る人が出るんだから、店内が満杯なのは一目瞭然である。結局どこの店にも入れず駅前まで来てしまった。寄ろうと決めた喫茶店に寄らないままマンガ喫茶に入るのも口惜しい。
ぶらぶらといったりきたりして、賑わっている通りから少し離れた場所に、安っぽそうな看板のコーヒーショップを見つけた。外から見ても店内はガラガラ。私は中に入って望みどおりアイスカフェラテを注文した。
東南アジア系の店員が愛想悪くレジをうち、カフェラテをぶっきらぼうに出す。この接客のまずさがこの店の空白を生み出しているのだろう。１階でも余裕で座れたが、私は地下に下りることにした。地下は一階の三倍ほどの大きさで、一列の座席に一人くらいしか客がいない。私は一番柱側の、奥まった席に腰かけた。柱と低くなっている天井のおかげで、屋根裏部屋に入ったような気分だ。店内にはモダンジャズがかかっている。なんだか夜中の始発待ちの店に来たような感じがする。
小説を読もうと本を開いたのだが、照明が暗すぎて、目が悪くなりそうだから読む気がしない。何より先ほどイライラしながら本を読んでいたせいか、すでに視神経から肩にかけて随分痛い。リュックからスケッチブックとペンを取り出し、小説の構想を練ることにする。何を書いたらいいのかアイデアが浮かばない。とにかく頭が痛いし、眠くもなってきた。すると、私から4席くらい離れた場所に、大学生くらいのかっこいい男が二人座った。
何を話しているかよくわからなかったが、壁際に座った男が、「殺すよ」と言った声だけは認識できた。そう言った後、向かいの男が答えなかったから、「殺すよ」という言葉に詠嘆効果が出たのだろう。この二人、特に壁際の男はいらついているようだ。
「なんであんな早く帰ったんだよ」と壁際の男がもわっとした高音の優しいハスキーボイスでぼやく。
「後半四十二分くらいに帰ってたって」と向かいの男はシナトラみたいな低音のダンディー声で、問題を茶化すように笑いを含ませながら答える。
「一人でか？」と壁際が言う。たしかこっちの男は白い服を着ていたはずだ。通路側の男は濃い青の浴衣みたいな服を着ていた。
「二人みたい」と浴衣が答える。こいつらはサッカーの試合でも見に行ったのだろうかと、後半四十二分という言葉から想像を膨らませる。ああ、そんなことはどうでもいい他人ごとだ、私は小説のネタをしこまないといけないし、現代日本で慎ましくも話題の文学作品を読了しないといけない。
しばらく会話が続いた後、「もう一人はさ、女だったって」と浴衣が言う。「女かよ」といらついていた壁際が、リラックスした声で言って二人で笑いあう。あいつらの友達が先に帰ったため、後の予定がくるって壁際はいらついていた、しかし、先に帰った友達が女と一緒だったから壁際はほっとしたのだ、と推理してみる。
先に帰った友達が男か女かはわからない。男だった場合、壁際は「あいつが早く帰ってシラけたけど、なんだよ、女と一緒に先に帰ったならいいじゃん」と思って怒りをおさめたと仮定される。友達が女だった場合、「もっと一緒にいたかったのに、先に帰っちゃってシラけた、誰かと二人で一緒に帰ったって聞いてますますムカついたけど、その相手が男じゃなくてよかった」と考えたと仮定される。壁際のやつの偉そうな言動と、欲しいものを取られてダダをこねてる子供みたいな態度を見るからにして、先に帰った友達が男だとは考えにくい。多分女だろう。しかも壁際はその女に気がある、と最近今まで馬鹿にしていたミステリーを読み始めたせいで、勝手に推理してしまった。
もちろんこれは仮説に過ぎない。ファミレスではすぐ隣に三人いたから、会話の内容が筒抜けだったが、ここでは席が離れすぎていて、会話の内容全てを明確につかめない。だから妄想的推理も膨らんでしまう。先に帰った友達っていうのが女だったら面白いだろうなっていう推理だから、合理的判断などではない。
「俺一緒だったらもっと盛り上がったのに」と壁際がぼやく声が聞こえる。どうもここに来る前、二人は複数の友達で、サッカー観戦か何か、大勢の人間がいる場にいたらしい。壁際は先に帰ってしまった人物と仲良くしよう、集まりが終わった後も、一緒にいようと思っていたらしいが、集まりの場ではあまりその人と一緒にいられなかったらしい。逆に浴衣の男は先に帰った人のすぐ側にいて、状況をつぶさに観察していたようなのだ。
彼らの会話から頭が離れて、小説のプロットをどうしようか悩んでいたとき、「そいつが元カレだったって」と言う浴衣の声が聞こえてきた。「元カレいたのか！？」と壁際が答える。先に帰った友達の話をいまだにしていると仮定すると、先に帰った友達は女性で、彼女の元カレがその場にいたらしい。状況から推理すると、壁際は集まりの場に元カレがいたことを知らなかったらしい。これ以降の二人の会話で、彼らは元カレのことをずっと、名前ではなく「元カレ」という記号で呼んでいたことから推理すると、二人は元カレと親友ではないようだ。話題の中心人物である、現在壁際が狙っているらしい彼女の名前も、私は最後まで聞き取れなかった。
よく考えるとこれはおかしい。狙っている彼女についてずっと話しているのだろうから、彼女の名前がぽんぽん出てもいいはずだ。私は最初のうち、先に帰った友達が男か女かも判断できずにいた。というか、「元カレ」がその場にいた、壁際が狙っている「彼女」が、「先に帰ったやつ」と同一人物であるかどうかも確認できていない。先に帰ったやつの話と、元カレがその場にいた彼女の話は、全く別の話かもしれないのだ。ただ、二つの話とも、壁際をいらだたせていることは確かで、浴衣は壁際の苛立ちを面白がりつつ、壁際の知らない情報をたくさん語っていた。
ファミレスにいる時、3人組が恋話始めたらどうしようと思っていたが、結局三人は上司のお尻を触る話しかせず、恋の悩みを告白し合わなかった。それは不幸中の幸いだった。このうらぶれたコーヒーショップでは、大学生らしい男二人が恋の萌芽の話をしている。ああ、しかしこんなことは私の文学とは何の関係もない。
こんなに疲れていて、眠たくて、さっき食べたばかりなのにお腹も減っているけど、マンガ喫茶に行こうと思った。すぐ右隣の壁には、2時間以上滞在する場合は追加注文をお願いします、居眠りしたり、横になったりした場合は、退出していただきます、と強気の注意書きがある。昼間なのに終電待ちの雰囲気を醸し出しているこの地下室にいたら、みんな眠たくて、二時間以上滞在してしまうのだろう。私は癒そうとした疲れを癒せないまま、地上に出た。
東口駅前のマンガ喫茶に行ったら、フロント前の待合椅子に十人くらい座っているのが見えたので、「いらっしゃいませ」の声が聞こえる最中にエレベーターの扉を閉めて、そのまま戻った。やはり完全個室で室内設備もいい店は昼間から混んでいる。私はもう少し駅から離れている本店の方に歩いた。
駅前ではお祭りをやっていた。東京の繁華街で伝統行事風の祭をやられると、買い物目当てで来ている通行人は、迷惑に思いやすい。下北沢なんて、祭りの時、駅の階段が3分くらい渋滞して、祭に興味がない若い連中はみんな怒っていた。新宿は大通りの真ん中を歩行者天国にしてやっているから、祭の混雑のため目的の店になかなか進めないという悲惨な事態になっていなかったので、若者の顰蹙はかっていないようである。現に私も足止めをくらうことなく、先ほどのマンガ喫茶の本店にたどり着いた。
入り口から地下に降りる会談は総ガラス張りで、なんだか風俗店に入るような気持ちにならなくもない。私の後ろから階段に入ってきたカップルの女も「なに〜、これあやしい店っぽい」と男にむかって言っている。私も彼女に同意する。
フロントは暗闇の中にデスクだけがクリスタルのように光っていて、宇宙ステーションのような演出となっている。ドリンクブースの前に人がたむろしているが、並んで順番を待っているようでもない。
すぐに座敷の個室に案内された。「椅子の席がうまっていますので、座敷になりますがよろしいでしょうか」と茶髪の兄ちゃんに言われた時は、畳一畳の個室にパソコンとテレビが置いてある部屋をイメージした。真っ暗で狭い店内に、畳の個室が並べてあるとしたら、本当にいかがわしい宿に着たような感もある。
実際個室にたどり着いたら、座敷と言っても床は白いマットで、和風ざぶとんではなく黒いクッションがおいてある。宇宙ステーションの睡眠室兼プライベートルームに来たかのようだ。パソコンに文字を打っていると、まるで地球の家族に向けてメールを書いているような気持ちになる。
そうだ、私はこうしてマンガ喫茶にやってきて、小説を打ち始めた。何故かあれだけ疲れていたのに、部屋に入ってパソコン画面を立ち上げた途端、疲れが飛んで、頭が集中モードに入った。これだ、この感覚は家では味わえない。頭が仕事モードになっている。これなら何の邪魔も入らずに、仕事に集中できそうだ。
されど、書くネタが決まっていない。書くこともないのに、何故か意識だけが創作態勢になっている。私はとりあえず、現在の状況から打ち始めた。ゲーテもエッカーマンとの対話の中で、「大作を作ろうとすると描ききれなくて失敗する。目の前の現実を題材にしなさい」と言っている。プルーストも自分だけが感じた現実をありのままに描写することをすすめている、自分の感覚をありのままに、バカ正直に伝えられるのは芸術製作だけだと言っている。
ただ、そんな露骨に人には言えないことをカミングアウトすると、周りは相当傷つく。トマス・マンの「魔の山」に出てくる人物たちは、20世紀思想を体現した人物たちと評されているが、実際はマンの妻がいたサナトリウムの病人をモデルにしていたらしく、作品発表後モデルから相当クレームが来たらしい。表現の自由をとるのか、個人のプライバシーをとるのか、社会正義のためなら、表現の自由が優先されるとご立派にいいたいところだが、文学なんかは本来社会正義にたてつくものである。個人のプライバシーを尊重する方法で、ありのままの現実を描写するには、詩人ボードレールが言うように、通りすがりの、一瞬の出会いを芸術にすることだ。こういう観念的な評論家的解説を書き続けると冗長になるので、小説家はただ体験した現実を描写した方がよっぽどいい。
posted by のじり at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作ノート
以上が、昨日まで書いた原稿。今日は日曜日。二日連続、マンガ喫茶にたてこもり。ひきこもりはヒッキーだが、たてこもりはタッキーになる。ヒッキーよりタッキーの方が、戦っている感があって好きだ。
昨日、三時間パック終了間際に原稿用紙何枚分できたか数えてみたら、ちょうど二十五枚分ほど書けていた。いつもは一日二、三枚しか書けないから、とてもいい感じだ。満足してフロントに行くと、タッキーみたいなかっこいい兄ちゃんが応対してくれた。つい先ほど一日ぶりに現れた私を応対してくれたのも同じ兄ちゃんだった。私は二日連続で見た彼の顔を覚えているが、彼は安い客だから覚えていないだろう。
今日の席は百四十五番。昨日が百三十九番だったから、すぐ座敷に行ける。昨日は椅子席が満席だったから、しょうがなく座敷を選んだのだが、今日は自分の意志で座敷を選択した。地下二階で、黒いクッションに座りキーボードを打っていると、なんか気持ちいい。真っ暗なフロアで、ヘッドライトだけ灯して、背を丸めながら文章を作っていると、本当にスパイになった気分になる。北朝鮮からのスパイもこんなテンションで本国への報告文を作成していたのだろう。「休日何してるの？」と同僚から聞かれると、私は「洗濯」とか「ゲームしてます」とか「ずっと家です」と答えて、お茶を濁す。本当は小説を読み漁り、小説の構想を練り、原稿を打ちまくっているのである。会社にはすべて内緒だ。この勢いだと、結婚してもダンナに内緒で小説を書き続けるかもしれない。
北朝鮮からのスパイも夫や妻に内緒で秘密工作をずっとしていただろう。夫が北朝鮮からのスパイだと知らず、ずっと日本人だと思って暮らしていた日本人の妻が、テレビのプロデューサーか警察から「あなたの夫は北朝鮮のスパイでした」と聞かされたら、どんな気分だろうか。一番大切な人にずっと裏切られていた、偽装のため結婚されていたと知ったら、ひどいショックではないだろうか。
そう思うのはロマンチックすぎるかもしれない。実際は「あっそう」くらいの感慨しかないかも。そう言われれば、そうともとれる怪しい行動がいくつもあったりとか、夫が他国のスパイでもどうでもいいくらいの夫婦仲しかなかったかも。まあ妻はあえていうなら他人だ。二人の間に子どもがいたとしたら、父がスパイの子どもはショックだろう。
スパイのように、親兄弟友人同僚に内緒で小説を作りつつも、私はスパイの身分がばれることを願っている。スパイであることをカミングアウトするために行っているスパイ活動とは、何という矛盾。とにかく今日も自分が小説家であることをカミングアウトするために、私は靖国通り沿いのビル地下二階の暗闇の中で、報告文書を作成している。
昨日、地下から抜け出たら、外はまだ明るかった。地下で携帯の電波は届いていなかっただろうから、スパイ活動中に仕事中の部下から連絡はなかっただろうかと、ふと心配になった。
大学を卒業してはじめた会社の仕事は、小説家になるまでの仮の姿、そう、まさしくスパイがスパイであることを隠すために選んだ仮の職業だったはずだ。それがもう三年たとうとしている。大学時代の廃人かあるいは仙人のような浮世離れした生活からして、誰も私が普通の会社で働けるとは信じていなかった。何度も辞めたい気分になったが、何故か三年続いた。小説家になったらこんな会社辞めてやると思っていたから、理不尽なことにも耐えて続けられたのだろう。私は会社活動から早く離れるためにスパイ文書を作っている。
昨日の帰り道、新宿の駅前には街頭宣伝カーがいた。「政府が人権委員会を作ろうとしています」かなんだかわけのわからないことを真面目な声でまくしたてている。おじさんが熱血しているが、歩く若者は誰も相手にしていない。
宣伝カーはもっとマーケティングした方がいいのではないか。政治意識のない若者に向かって、政府の批判を言ったところで、伝わる確率ははなはだ低い。もっとまともな街で演説した方がいいだろうに。いくら人が多いとは言え、休日の新宿の、こちら側には娯楽しかない。
たしかクリスマスの時も新宿で、キリスト教系の団体が神の愛を説く街頭演説をやっていた。消費と性欲を買い求めにきている人々に向かって、両者から絶縁している神の愛を説くのもまた、マーケティングミスではないだろうかと思った。ただ、消費という、政治と宗教から対極にある活動をしている人々相手だからこそ、彼らの広報活動熱は、萌えに萌えているのかもしれない。最も異なる対象に向かうからこそ、萌える気持ちがあってもおかしくない。
とりあえず、私は「人権委員会を作って日本政府は無駄な予算を作ろうとしています」という政治宣伝を無視して、駅に向かって歩いた。気持ちは演説内容に向かわなかったが、しっかり聴いているのだから、耳にさえ入らない人より扱いはマシだろう。他にもティッシュ配りの兄ちゃんや、新製品を配るコンパニオンが私を取り巻いてくる。
この人ごみの中に、ファミレスのピンク、ブラック、ホワイトの三人組、場末のコーヒーショップにいた浴衣の男と文句ばかり言う壁際の男が歩いているかもしれない。私は彼らの顔を見ていないのですれ違っても気づかないだろう。彼らのうちの誰かが、充実した時を過ごして満足そうに歩いている私を見て、隣に座っていたやつだと気づくかもしれないが、気づいたところで、それは一緒にいた友達に言わず、自分の胸のうちにしまっておくことだろう。まあ私の方がファミレスでもコーヒーショップでも先に帰っている。会話の隙間を埋めるため、いなくなった私のことを話題にして残った連中が盛り上がったかもしれない。その場合は、数時間後再び私を見つけて、「おいあいつだ」と、またこそこそ盛り上がることだろう。
私は急行に乗って、アパートに帰った。電車の中で、書いた小説の続きをどうしようか考えた。とりあえず、書き上げた原稿は、ネット上の自分のブログにアップしておいた。マンガ喫茶のデスクトップに保存した原稿ファイルの全文をコピーして、自分のブログの新着記事にはりつける。
ちょうど北朝鮮のスパイが本国に報告書を送信したような感じだ。いやいや、私の場合は、原稿用紙にして、出版社に送るのがスパイ活動の本来の目的だ。出版社には、新人賞応募用原稿という名のもとに、日本全国のスパイから報告書が届く。その中から選考を経て、選ばれたスパイが、公共の場に「あいつは敵国からのスパイだった」と吊るし上げられる。スパイのカミングアウト。親兄弟同僚友人にスパイ活動していることをカミングアウトしているスパイならいいが、私みたいにスパイの職業倫理をまっとうして、絶対秘密で諜報活動している真面目な連中は、公表後みんなからびっくりされることになる。私なんてもうかれこれ5年もスパイ活動をしているから、「ついにばれてしまったか」と照れくさく微笑むことになる。
アパートに着いたら、マックを立ち上げて、自分のブログにアップした草稿をコピーし、マックのマイドキュメントに格納しようと電車の中で考えた。マイドキュメントに格納次第、ブログ上の草稿は削除する。大手出版社の新人賞応募原稿は「未発表の原稿にかぎる」が通例だから、倫理的なスパイとしては、それがたとえ下書き原稿の一部でも、発表の痕跡を抹消する必要がある。私は周りに存在するリアルな人に、一切自分がスパイ活動を行っていることを公言していないが、５つも同時並行してやっているブログでは、さりげなく公言している。ただ、ネット上では匿名だし、私の身元は割れない。故にスパイ活動の規律は保たれていると自分で勝手に納得している。
電車がついたら、駅前で食事をとろうと思ったが、どこも満杯だったので、コンビニでそばを買ってアパートに帰った。アパートの前では、二階に住んでいるじいさんが、もう一人の知らないじいさんと話しこんでいた。
あの歳で一人暮らしで、狭いアパートに住んでいて、将来大丈夫だろうか、面倒を見てくれる子や親戚はいないのだろうかと余計なおせっかいの気持ちを抱く。多分私の知らないじいさんは、二階のじいさんと深刻な話をしているだろう、世間話という感じではない。「すいませんね、久々に会ったもんで」と知らないじいさんが言う。二人が身をひく。私はアパートの入り口に自転車を乗り入れる。
部屋にあがったら妙にぐったりしてしまった。柄にもなく大量に文章を書いたせいだろうか。体中が湿っていたから、まずシャワーを浴びようかと思ったのだが、お腹がすいていたので、先にコンビニのそばを食べた。コエンザイムQ１０入りのヨーグルト飲料も飲む。目の周りが赤く腫れていたからだ。塗り薬を塗った方がいいのだが、コエンザイムで治らないかなと勝手に期待してしまう。
食べ終わったら、シャワーを浴びる気もなくなってしまった。寝っ転がって、バラエティー番組を見る。マンガ喫茶で書いていた時は、仕事に集中していたから、何の迷いもなかったが、いざ時間が空くと、あの原稿の最後をどうまとめようか、明日もマンガ喫茶に行こうかと迷ってしまう。
ファミレスの三人組とコーヒーショップの二人を、ああいう風に登場させたまま、ほったらかしにしていいものか迷った。小説なら、もっとまとまりをつけて、ラストで登場人物を全て絡ませた方がいいんじゃないかと思った。
例えば、壁際の男が狙っていた「先に帰ったやつ」を、ファミレスの三人組にしたり。三人のうち誰か一人を、先に帰ったやつにする。浴衣の男は、女と一緒に先に帰ったと行っていたから、女三人で先に帰ったことにしてしまえばいい。
そういえば、先に帰ったやつには、その場に元カレもいた。その元カレを、浴衣の男にしてしまうのである。あんな他人事のように話していたのに、実は自分が元カレだったとは、浴衣の男おそるべし。なんという策士！ 壁際の男は、浴衣の男に恋心を弄ばれていたのだ。などとエンターテイメント風に妄想を膨らませているうちに、じっくり休みたくなったので、テレビを消して、ベッドに移った。部屋の電気つけっ放しで眠ってしまった。
目が覚める。シャワーを浴びようかと思ったが、まだ夜中だろうし、ここで起きると目が冴えてしまうだろうと思い、電気を消して、本格的に眠ることにする。眠りながらも、時々起きる。起きる度に、小説をどうまとめようか考える。政治や宗教や、環境問題や戦争など社会問題盛りこんだ方がいいんじゃないのとか、そもそも小説を書くのを辞めて、癒し系の自己啓発本を書いた方がいいのではないかとまで思ってしまう。
気づくと日光がさして、部屋が明るくなっている。悩み多くて情けない自分の現実をありのままにさらけ出すのをやめて、かっこつけたり、神みたいな超越的立場から書いた方がよかったのではないかとも思った。
悩みの解決を求めている限り、悩みは続く。もう自分の悩みは全て解決したと思うと、途端に悩みは消える。問題の解決を求める過程を文章にするより、問題がもう解決した立場から、まだ悩んでいる人に向けて説く立場で書いた方が、気が楽でいいんじゃないかとも思った。
もう自分の人生に悩みなんてないと決めつけると、頭が楽だ。もう自分は生まれた時から快活だったような気分になった。快活さに気づかなかっただけのように思えた。
そんな強い気持ちで起きて、時計を見たら、もう昼の十二時だった。大丈夫、マンガ喫茶で仕事をするのは三時間だけ。まだまだ時間は十分ある。
シャワーを浴びて、鏡を見ると、しかし自分の顔はとことん弱々しかった。眠りすぎたせいか、昨日いろいろストレスを感じたせいか、まぶたが赤く腫れまくっている。
「誰かに殴られたみたいですね」と大学時代赤く腫れた顔を見た後輩に言われたことがある。大学5年目くらいから急にまぶたや頬が赤く腫れるようになった。野菜ジュースと、黒酢をたっぷり飲んで、肉を食べず、規則正しい生活をすれば、顔は白に戻るのだが、今日みたいに寝まくると、本当に殴られたみたいに、まぶたが赤く腫れる。
私の顔は弱っていた。思想の強さを手に入れたと思ったら、顔は殴られていた。こんな顔では出歩けないと思って、家でツボを押したり、痔の軟膏を塗ったりして、必死になって醜さを隠そうとする。
醜さとは弱さだと思っていた。美しさは強さだと思っていた。自分に自信がない時、顔は醜くなり、弱い心を表現するのだと思ったりした。起きる前、私は心を強くしたはずなのに、顔はとことん弱まっていた。間違った強さは、悲劇と暴力を生むのだろうか。
洗濯物を自転車のかごに入れて、コインランドリーに向かう。洗濯機はコインランドリーに四台ある。
一番道路側の洗濯機の前に、白のランニングに半ズボンの老人が立っていた。彼は洗い終わったばかりの洋服を洗濯機から取り出し、床の上に投げ下ろしていた。ごみみたいに扱われて、床の上に落ちている、洗い終わったばかりのねじれた洋服。私は老人の行動を奇妙に思いながら、空いている洗濯機がないか確かめた。
老人の隣の洗濯機は稼動していないが、老人が怖くて近づけない。道路側から三台目の洗濯機は運転中で、一番奥のは動いていなかった。一番奥のふたをあけたら、洗い終わった誰かの洋服が入っていた。
「さっき終わったばかりでね、もうすぐ取りに来ると思うよ」と老人が笑いながら言った。老人は洗濯機から取り出した洋服を床に投げ終えると、今度はそこに自分の洗濯物を入れた。
私は老人の隣にある動いていない洗濯機が使えるかどうか確かめたかったが、老人が怖くて近づけなかった。先ほどの老人の言い草からして、おそらく道路側から二台目の洗濯機にも、誰かの洗濯物が入っていることだろう。二台目の上の棚に、ビニール袋がおいてあることからもそれが察せられる。
この老人は、四台とも洗濯物が入っていたので、しょうがなく、一番道路側に入っていた、洗い終わった洗濯物を取り出したのだろうか。コインランドリーに、洗い終わったら人の洗濯物を動かしていいというルールはない。他人の迷惑をおもんばかって、さりげなくビニール袋を置いていく人もいるが、私は洗い終わった人の洗濯物を、置いてあったビニール袋に入れて、待ち時間を早めようとしたことはない。もう女子高生ではなく大人だが、何だか人の洗濯物に触ることはいけないことのように思えるからだ。そんな小さな倫理観を持つ私の目の前で、この老人は洗濯物を取り出し、床の上に捨てておいている。まだ彼の洗濯物なのか、他人のものかはわからないが、どちらにしても、洗い終わった洗濯物を床に投げ捨てては、洗濯をする意味がないのではないかと思った。お金を払って洗濯しているのに、水がしみ出しているかもしれない床に洗濯物を落とすなんて、自他関係なく間違っているのではないかと思った。
ただ、それは人それぞれの生活だから、私が道徳家ぶって説教することでもない。案の定、老人は洗濯機に洗剤を入れて、コインを入れ終わると、床の上の洗濯物を拾い上げて、建物から出ていった。よかった、あれは彼自身の洗濯物だったんだ。
私は老人がいなくなってから、まだ中を確認していなかった道路から2台目のふたをあけてみた。やはり中には少量だったが洗濯物が入っていた。男ものとも女ものともつかない真っ赤な生地の服と、白のTシャツか何かを確認した。
ごく少量の洗濯物だ。下着は一見してなかったし、わざわざビニール袋を残していってくれたのだから、この服を取り出して、早速洗濯することもできたが、私は持ち主が取りに来るのを待つことにした。
外では太陽がぎらついている。しかも蒸し暑い。コインランドリーの中はクーラーがきいておらず、外よりましだが暑かった。
私は外に出て、早く誰か来ないか見まわした。狭い道路には誰も通らない。一分たって、小学生の女の子が自転車で通り過ぎ、バイクに乗ったおっさんが二軒隣の民家の前にバイクを止めただけ。
このランドリーはマンションの隣にあり、主にマンションの住人のために建てられたもののようだった。多分マンションのオーナーと同じ人が管理しているだろう。一度、黒いTシャツを着た、太った眼鏡の30代前半のおっさんが、掃除道具を持って、コインランドリーに来たことがある。彼は乾燥機の奥にある扉を開けて、知らない部屋に消えていったが、おそらくオーナーだったんだろう。洗濯物を入れて外に出たら、銀色のベンツがとまっていた。マンションのオーナーは金持ちなもんだ。ベンツを持っていて、コインランドリーつきのマンションを持っているのに、彼の格好がかっこよくなかったから、別に憧れもしなかったけど。
三分くらい待っても誰も通らなかった。私はちょっと離れたところにある別のコインランドリーに行くことに決めた。そちらは八台ある洗濯機全てが未使用だった。洗剤を入れる計量カップがなかったので、代わりになるものがないか探した。いつも使っているあのコインランドリーには、オーナーのはからいで計量カップが常備されているから、私は計量カップを持ち運んでいなかったのだ。
灰皿なのかゴミ箱なのかよくわからない小さなアルミ缶の中に、ビニール袋を見つけた。中に何も入っていなかったし、汚れてもいなかった。私はビニール袋を手に当てて、持ってきた化学薬品未使用の自然洗剤をつかみとった。洗剤を生でつかむと手が荒れそうだから、ビニール袋を使ったまでだ。しかし、ゴミとしておいてあったビニール袋を使ったのだから、これではさっきの爺さんを非難できないなと思った。
洗濯の三十分は、コーヒーショップで時間をつぶすことにした。肌が荒れていたから、まずドラッグストアによって、ビタミンBがたっぷり入った栄養ドリンクと、りんご酢を買った。まぶたが腫れ上がった私を見て、店員が「お客様、大丈夫ですか、ぜひ薬をご購入ください」と言ってきてくれれば、ホスピタリティー溢れていて感動ものだなと思ったが、店員はいつもどおり「カードはございますか？ おつくりになりますか？」と言った。私はいつも通り無言で首を二度素早くふって、代金を支払った。
コーヒーショップではヘルシーに豆乳入りのラテとベーグルサンドを注文した。いつもは本を必ず携帯しているのだが、今日は何も持ってきていない。当初は近くのコインランドリーに洗濯ものを入れたら、家に帰って食事をとろうと考えていたため手ぶらだった。
ゆっくりと食べて、からっぽの時間を過ごすことにした。店員にばれないようにビタミンドリンクを飲み干す。おそらくここは持ちこみの飲食禁止だろう。それでも、病気のための栄養補助剤ならとって大丈夫だろう。
ばれないように禁止されていることをすると妙に楽しい。店員に見つかっても、軽く注意されるだけで、警察に通報されるわけでも、射殺されるわけでもない。注意もされず、見て見ぬふりをされるのがオチだろうが、禁忌を破る快感はそれでも楽しい。ああ、マンガ喫茶の狭い個室でこっそり小説を書いているのは、こういう楽しさだな、安全で何も法律破っているわけでもないのに、なんかちょっといけないことをしているという楽しさだなと思った。そう、セックスみたいな。
洗濯物を部屋に持ち帰り、干し終わってから、昨日買った小説を寝っ転がって読む。ビタミンドリンクのおかげで、すぐに腫れがひきそうな気分でいられる。十六時半に、私はアパートを出て、再びマンガ喫茶に向かった。
電車の中で本を読む。小説を読んでいるうちに、昨日の夜から朝にかけて私を襲っていた、どんな小説を書こうか、いや、そもそも小説なんて書かない方がいいんじゃないかという迷いは消えていた。
私は眠る前から、眠っている間、起きてからもずっと悩み続けていたのだ。だから殴られたみたいな顔になったのだ。小説を書いていいのかどうかわからない状況で、小説を書くために行動しているから、意識的行動と潜在意識がぶつかって、私の肌は内側から攻撃されたのだきっと。おい違うぜ、あんたがやろうとしていることと、思っていることがミスマッチだぜと、白血球か何かが警告したのかもしれない。
朝、私は神的超越の立場、悩みが全て救済された立場から、大上段の構えで小説を書いたらいいという結論に達した。大上段の構えはエリートチックで気分がよさげだった。宗教家として、迷える子羊たちに救いの道を指し示すこと。そんなことが小説家の役目なら、宗教家になった方がましだろう。
大学五年目、就職活動に失敗して、というかなりたくもないサラリーマンになろうとして、交通事故によって就職活動を強制終了した時、私は小説家になることを決意した。本心ではやりたくもないことをやっていると、どうも私は顔が荒れるらしい。あの時も自分から顔面傷だらけになったからだ。
負傷した後、小説家になるため本を読みまくった。ゼミの友人たちは大企業に就職を決めたり、大学院を目指すことを決めたり、人に言える道を踏み出していた。ただ、私は小説家を目指すことを恥ずかしくて誰にも言えなかった。それは本当に秘め事だった。スパイ活動と同じで、公言できる種類のものではなかった。それもまた自分が選んだことさとハードボイルドに己を慰めもしたが、どん詰まり感は否めなかった。そこで私は精神世界にふけりもした。私は小説家を目指したことで、定められたレールから脱線したのだ。大学生活半ばから徐々にアウトロー化していたが、企業で働くエリートにならない、公務員にもならないと決めた時から、エリート街道からの脱落感はいよいよ高まった。浮遊した私に、スピリチュアルな言葉は気持ちよく響いてきた。
所属していた読書会のメンバーの多くはアウトローだった。何年間も留年する者、院を目指すもの、創作舞踏家を目指すもの、クラブDJを目指すもの、映画監督を目指すもの、写真家を目指すもの、中にはまっとうに大企業に就職するものもいたが、圧倒的にアウトロー発生率が高かった。私は読書会によって何かに侵食されていたのだ。受け継がれたアウトローの精神を私は社会に発揮しようと企んだ。しかし、五年間、まるで社会に影響力を持てず、はかなくも企業人としての人生を歩み続けていた。
振り返れば、大学時代の友達の多くも、夢と現実の壁にぶつかっていた。アウトローを志していた人たちは、その後どうなったのだろう。写真家になると言ったものは、親からあと一年で個展を開けなかったら諦めろと言われたと言う。クラブDJはどこで何をしているか知らないし、その他のものもどこで何をしているか全くわからない。大学を卒業して四、五年で世間に名前が知られる方が珍しいというのが実状だ。アウトローを目指さなかったものでも、夢と現実の壁にぶつかっていることだろう。彼らもまた社会に名前が出ていない。それが当たり前だ、カミングアウトした連中より収入は多いだろうが。
サラリーマンになるのが嫌で、ダンサーを目指したやつは、舞踏家集団が、一流企業の組織みたいに統制されていて、嫌だったと言っていた。そりゃそうだろう、社会で名の知れた芸術家なんてみな、誰よりも仕事をするのが好きで、仕事に対して情け容赦ないほど厳しいものだろう。
マンガ喫茶にたてこもって、機械的に、決められた時間労働している私は、会社で働いている時とまるで変わらないではないか。
「黙々と、ずっとパソコンだけ見て仕事してる人」今の私もそうだ。これが私の真実の姿かもしれない。何にしろ仕事の実際は地味だ。華やかな仕事の表面の一部分しか外に伝わらない。地道な作業に没頭しているのが嫌になってくると、神との合一とか、愛の神秘とか、精神世界の言葉にはまりたくもなってくる。
ただ、私は小説の側で生きることを決めた。小説はアウトローのカミングアウトで、スパイ活動の報告書だ。神秘の世界は、人を殺しもする。小説は、作り話の中で何人もの人を殺すが、現実の人を殺しはしない。小説を読んで人を殺す人間はいるが、小説家は人を殺すことを促すために文章を書いてはいない。
何のために書いているのだろう、そんな単純な質問を馬鹿にするために書いている。誰のために書いているのだろう、そんな簡単に答えも出ない。わからないこと、断定できないこと、複雑さを知ってもらうために書いている。いいとも悪いとも言えないことを書いている。
こうして私の小説は終わった。後は少し時間をおいてから推敲して、報告書を完璧にするだけだ。
訂正作業はアパートで行う。元を作る作業はマンガ喫茶で行う。しばらく休日にマンガ喫茶に通う日々が続くだろう。機械的に小説を開発して、新兵器ができましたと出版社に報告する。これは利くと出版社が判断したら、社会に向けて発砲される。社会にとっておぞましいもの、見たくはない暗部、わざわざ触れなくてもいい秘め事、それが小説。カミングアウトされたら、より巧妙に隠れるだけ。
小説家は文筆家というより開発者、発明家、あるいは分泌家と言った方がいいかもしれない。社会にとってあやしい新物質の分泌家。毒にもなれば薬にもなる。利用する側次第の、得体の知れない新物質を編み出すのが小説家の役目。
posted by のじり at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作ノート
彼女は自宅のパソコンにブログ上の一時保管記事をコピーした後、ネット上から削除せず、そのまま掲載し続けていた。いつか暇になったら削除しようと思っていたが、一向に暇は訪れず、ほったらかしにされていた。数日後、メールソフトを開くと、いつも通りの二十件近い迷惑メールの間に、ある女性からメールが届いていた。
「ちょっとあんた。勝手に人のこと書かないでくれる。まじむかつくんだけど。何さらしてんの。みんな怒ってるよ。早くブログから削除してください。気分悪いから大至急！ 新人賞にも絶対！ 応募すんな。すぐ消して、二度とこんなことすんな。才能ないんだからもう小説なんて書くな、この負け犬。だいたいお前の文章小説なんかじゃねえよ。じゃあね。覗き魔さん」
件名なしの、言いたいことだけが書かれたメールを読んで、彼女は気味悪がった。ブログの反響が今までメールで来たことなどなかった。コメントやトラックバックはごくたまにあったが、初めてのメールが批判とも言えぬ罵倒だったため、彼女は戸惑った。このメールは、レストランにいた女性の一人が出したものだろうか、それとも小説の草稿を読んだ誰かがいたずらで送ったものだろうか。彼女はすぐに記事を削除しようかとも思ったが、それでも意地をはって、公表し続けていた。
四日後、今度は別のメールがやってきた。
「人のこと勝手に書くのってプライバシーの侵害だって知ってますか？ 別に俺は書かれてもどうでもいいけど、こういうことするのってどうかと思いますよ。傷つく人もいるでしょうし。迷惑な人もいるってことわかって書いてますか？ それでも書く理由ってあるんですかあなたに。ここに載せたらすぐ削除するって書いたんだから、ちゃんと言ったこと守って早く削除してください。新人賞に応募してもあなたの小説一次選考で容赦なく落とされると思うから、応募するのは勝手です。まんがいちどっかでこれが本になったら、裁判しちゃおっかな」
彼女はこのメールのアドレスが、以前きた非難メールのアドレス末尾とよく似ている事を奇妙に感じた。彼女はまだ非難の言葉になれていなかったが、想像していたより自分がショックを受けていないことを内心喜んだ。
結局、彼女はその日のうちにブログ上の原稿を削除し、自分のパソコンに落とした原稿ファイルも、推敲しないままゴミ箱にうつした。彼女はそれから二度と小説を書かず、新人賞に応募することもなかった。自己修練のため文学や哲学を読むこともやめて、ミステリーと歴史小説とビジネス書をたまに読むだけになっていった。ネット上で発表していたブログも二か月後、五つ一気に削除した。合コンで知り合った会社員とつきあうようになったのが、削除の原因である。
こうして彼女のスパイ活動はわずかの人に知られたまま終了し、一年後彼女はできちゃった結婚をして会社を辞めた。
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