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小説『ロマンポップス』

最終更新日:2008年11月9日


 序曲 僕ノ中ニ居ル強イ女

 光。渦。私。届く。 
 陽光が何回も僕を襲う。襲われる。浸される。誰よりも望んでいた時の光線。体が焼ける。とっくみあい。言葉と。僕自身と。昔からずっと。春の風は弱まらない。僕の戦いもそう。優しくしてもらった?誰に?君にだ。これは僕と君のお話だよ健。
 夏の砂。柔らかな。どこから吹く風?最後に吹いた風を覚えている?楽園に誘われた日。
 Eの束縛。何回も。縄で縛って。かきむしって、肌を。祈って、行為の最後に。
 「僕をどうしたっていいんだよ、君が望むなら」寂しくないの?終わりにしたくないの?
 だって、まだ始まったばかりだよ、健。

 僕らの優雅な生活がもうすぐ始まる。僕の体は優雅になるんだ。僕の命の値段はいくらなんだろうね?きっと怖がると思うよ君も。楽な趣味なんてないよ一つも。

 よく読んでくれ。言葉を選んでくれ。いろいろ話してくれ。ヴェロニク。

「あら、あなた、まだこんなことをして遊んでいるのね。早く始めなさいよ、本当のあなたの仕事を」どんなものなのそれは?ヴェロニク。
「巨大よ。ピラミッドみたい」僕の誇り。スフィンクス。誇りはすぐ埃になる。くよくよしてたら、あっという間に錆が出る。このままのやり方で人生を続けてもいいの?ヴェロニク。答えて。
「かまわないわ。だけどね、あなたはもっと大きくなれる」
 巨大化した僕。今は痩せっぽちだけど、これから大きくなるんだって。どんなふうに?僕が大きくなったらどうなるの?ヴェロニク。
「そうね。受難者よ。キリストに仏陀。ムハンマド。みんな受難しているのよ」受難。僕の今の生活って、受難じゃないの?
「あまり私を笑わせないでくれる?あなたみたいな程度で受難なんて言っていたら、人類全体が受難にあっているようなものだわ。」
 広い部屋で。ヴェロニクと二人。会話した。この前みたく。

 美しいものが滅ぶと人は感動するんだ。君はとても美しかったね。しかも、滅んだね。どんなふうに体がばらばらにちぎれたのか、覚えているかい?明日にならないと思い出せない?君はいつもそんなふうなの?
 色気を発散させて、行ってきたの。遠い街へ。
 街の女は笑っていた。僕は彼女を睨んでいた。笑わないで聞いて。これは本当のお話。
 ヴェロニクが笑っている時の、あの唇のかたち。
「またここに戻ってきたのね」戻ってきたんじゃない。ずっとここにいたんだよヴェロニク。
 苦しみの歳月を越えて、僕の子どもが生まれる。体が熱いよエロニク。エロいよ。
 エロポップ。フレンチテイスト。少女が笑う。サドの饗宴。


 君はいじめられた。僕は君を少しいじめた。僕は君を少し無視した。僕は君を少し殴った。
 君はおおいにみんなに無視された。君はおおいにみんなに殴られた。蹴られた。びんたされた。殺されかけた。
 僕の荷担?ある意味、君だって荷担していたんだよ。僕らの共同責任。押しつけ?君は非難されない?良い者と悪い者の区別は定めらているとでもいうの?
















第一楽章 コトバノ秘儀

 ドクトリン。ブッシュの。危機感。戦争。何千回も。戦争。祈り。繰り返す。
 まずは二十一世紀。罪なき命。大義なき使命。国連。国際連祷。
 責任。重さ。認識。あるなし。質問。答弁。テレビ中継。本会議。
 水色の衣。ライオンハーツ。低い声。一致。全面協力。どっちも悪くないし、どっちも悪い。君を恋する人はいたの?愛していたの?親?
 説明責任。失言は当たり前。ご理解・ご協力を求めて。ダブルスタンダードは当たり前。外交はいつも二枚舌。国境でこすれあう利益。欲望。
 武力行使。君に。血が出ない程度に。校内で問題になるからね。そこは暗黙のルール。君に血を流させるほどの打撃を、僕たちは与えない。
 「我々は原爆を使わない。叱られるからな、国際社会に」
 僕たちは原爆を撃ちこまれた。市民が死んだ。戦争って市民が死ぬものなの?ヴェロニク。皆殺しなんでしょ。
「芸術家は戦争でも生き延びるのよ、ピカソも、シャガールも、バーンスタインも、アインシュタインも。プルーストや谷崎は、戦争中に色気を発散させたわ」
「でも、被害を受けた人もいっぱいいるんでしょ。アンネ・フランク、ソルジェニーツィン、ナボコフ、ツェラン」
 幹事長は悪魔の申し子。天子の申し子。人間なんだから、悪魔でも天使でもない。
 大量破壊兵器の拡散。国際テロリスト。アルカイダも君をいじめた。アメリカも君をいじめた。日本は君をレイプした。独裁者はサダム・フセイン。北朝鮮とはどうするの?
 ミサイルマン。ロケットマン。人間魚雷。ダイブとレイブでバイブレーション爆発。化学兵器と生物兵器。三億人が殺傷される。化学の世界。
 
 冷蔵庫の中にあった君のジュースに、洗剤が入っていた時があったね。君は飲んだの?化学兵器を。

 ムハンマド。タージ・マハル。サラディン。十字軍に蹂躙された。獣姦された。
 歴史が開く。歴史が閉じる。査察して。僕の教室。先生は知ってるかい?だいたい先生僕らをどうしたいわけ?人格教育なの?道徳を教えたいなら教えたいで別にいいけど。
 カントの理想。永遠平和。目的の王国。復旧復興。NGO。ガリ専とアナル。日本の果たす役割は?セックスできないんだ日本は。自衛隊しかないから。じーっとしてて自慰。一人で果てる。孤独な平和外交。
 常任理事国。五大国。冷戦。「私はマルクス主義者ではない」帝国。文化。黒いバリエーション。勃起。スカッドミサイルで迎撃。ステルス。ぴゅ。
 女性議員の服は、黄色に、ピンクに、赤に、とにかく派手派手。何でなの?ぴゅ。
 大量破壊兵器。残念。演説四分。米の国アメリカ。アメリカの国ジャパン。人道支援。ボランティア。物資の輸送。給食も運んで。危険情報あり。今日はソフトめんです。
 共産党。憲法九畳。敷金六百六拾六万円。ヨハネの黙示録。
 ぼっちゃん刈り。ぼっちゃん狩り。お嬢さまカット。お嬢さま葛藤。メガネくん。憲章を度外視。僕は君を狩る。ビルが落ちる。ハイジャック。ノータック。
 ヴェロニク。ヌード。ヘア。ちんぽ。違うの、好きなの。わかってるわよ。杜若の花びら。保険をかけて。アルコールホリック。空爆。好きだと言って。セイ・ユー・ラブ・ミー。愛していると言って。Say you love me.
 ジュエリー。動物園。バケツ。真珠。オラウータン。白いセーター。黄色いティッシュ。観覧車。そこに並んでお座り。女王さま。エログロハイセンス。若い頃はいい男だった。歳をとったら太った。幸せもない。ハッピーエンドにして。悲劇はよして。
 大歓迎。待ちぼうけ。旅に出る。ヴェロニカ。ビジネスワールド。スモールワールド。
 コールドスリープしていた薔薇十字軍が復活。クウェートで。フルシチョフのふるちんが原発事故を起こしつつも、自己啓発セミナーを開催。
 島。タヒチ。イビサ。快楽。レオナルド。ミラン。フィレンツェ。アドリアーノ。ブルデュー。ルノアール。ルドン。
 世帯主は、保って守る保守派。革命派。財閥。連合。挑戦。無垢。無色透明なイルカ。ナイルの源流。クフ王。ツタンカーメン。アヌビス。ガリ事務総長。アナン。こづかれる。バックで。騎上位で。六十九回も。マグダラのマリア。娼婦への慈愛。キリストは分け隔てなく愛する人だった。神のもとの平等。君は僕に殴られたら、左の頬を差し出すの?これはSMなの?
 マイクを握って。俺のも握って。全世界の人々。地球と宇宙と異次元。座椅子。サイコロ。ディズニーランド。
 国益。東アジアの安全保障環境。旧ソ連の脅威がなくなったヨーロッパ諸国。わが家は救急車。マクラーレン。シューマッハ。ドイツ。九月十一日。
「顔色が悪いようね。お薬を出すからね」臨時政府。ドゴン。ゴダール。サミット。自慰セブン。ガット!万物照応。シュタイナー教育におけるゲシュタルト概念の役割。サバルタンにはわからない。デフレスパイラル。インフレーション時におけるおっぱいパブの経済動向調査。愛想よく。いただきます。試験対策。マリリン・モンロー・ドクトリン。ケネディー暗殺。リーダーシップ。日銀総裁。最高裁の鞭、無知、無恥。即時撤回お願いします。テイクアウト。全裸で禅。密教式。理想と現実。信頼。関東地区オーディション。トラック運転手と一緒に。テレビデオ。照れる君。ヴェロニクと吾輩。
「ハワイ旅行に行きたい?タヒチ?パスポートはあるの?」
 隣の港はよくみえる。コンタクト。レンズ。夜はジャスティス。スパイダーマン。肉じゃが。セイ・ユー・ラブ・ミー。えろぐろハイセンス。Say you love me.









 第二楽章 秘儀参入ノ道ハ長ク険シイ

 朝。ヴェロニク。日差し。ベッド。窓から。柔らかな火。ヴェロニクの目がゆっくりと開く。
 バス。シャワーの水。反射して。体をふかせて。白いタオルで。ヴェロニク。歯磨きのチューブ。絞って。ぐりぐりと。

 夜。エロイカ。電気。ベッド。蛍光色。エロイカの足元に小年がひれ伏す。
 小年の背中には太い傷跡がある。赤紫色に腫れている。
「舐めな」エロイカが何の感情も込めず、小さい声で言う。突き放す感じ。
「はい」小年の声もまた小さい。卑屈な感じ。自信がない。こんなに整った顔立ちをしているのに。
 ビシビシビシビシ。ぞっくりと胃腸が割れる。肺が炸裂する。口がひん曲がる。 黄色い色。血の色。明るい色。持ってきてこっちに。
 僕をいじめたね君。僕をなぶったね君。僕をレイプしたね君。僕でオナニーしたね君。僕の裸を想像したね君。僕とのセックスを想像したね君。僕の、僕の、僕の。僕の君。僕のものだよ全部。
 ある日。腫れた日。君の陰部に触れた日。夏よりも赤い冬。真っ赤な冬の雪が、僕の体に降り注ぐ。涙をためて。君のお尻の穴に。旅路。いろんな色を君のお尻につめた。愛していた。君の全ての穴。ダブルフェラマスカットジュース。フェラーリ、フェラガモ、フェラレディーZ。僕らのフェラレディーをレーダーで探知。せめて美術品にはミサイルを撃ちこまないで。僕らの虎の穴。
 インクをお前の体にぶちまけたよ。とびきり太いお前は真っ黒になった。黒々と光る筆。墨汁を滴らせて。僕汁。ぼく獣。ライフル。トータルライフ。生活が芸術になる時。アール・ヌーボー。コンキスタドールのマタドール。寒々とした焚き火の火。テンプルパイロッツ。夜に寄る。エロイカの脇毛。黄緑色の毛。匂いを嗅いで。ジャスミンの薫り。目玉が飛び出る。いるならいると言ってくれ。たまらない色香。毛に顔をこすりつけて。少年は恍惚とした表情を浮かべる。パリジェンヌに誘われてイプセンと踊る。たらば蟹を食べるスキュラ。 の夜。ダブルスタンダードに濡れる。バブルが弾けて、子宮が凍る。クアラン・プールが炎上する。ヨハネの黙示録。マジックナンバー六六六。
 キャンプファイアーの炎がドラム缶を焦がしている。煙がごうごうと立ち昇って、雲になる。子どもたちは火の周りでダンスする。裸で。やめたらどう?そのうち交尾が始まる。まだ第2次性徴が始まっていないので、命が誕生することはない。
 黙祷。バラエティーに富んだ。私は幸せ。あなたがいるから。私のために。あなたのために。最後に沈黙して。旅の終わりには、お土産を買ってね。メモをおくれ。君の欲しいものは何?
 少年はエロイカの陰部を舐める。濁った液体が少年の舌を湿らせる。ざらざらとした触感が、少年の舌に伝わる。
 鳥が死んでいく。緑が灰色に変わる。油が水に混じる。人が神になる。自然が偽善に染まる。どこに境界線を引く?人としての限界。何を壊したの?田んぼをひいたのはいつの頃?まるで仮面舞踏会。あくる日もあくる日も踊って、交わって。くるくるくる。
 食べ物が余っている。一方では食糧が不足している。人が意味もなく死んでいく。「星に願いを」鼻が長く伸びた。おもちゃが砕けた。大なるものは小なるものと等しい。大きなつづらと小さなつづらは等しい。三匹のこぶたが屋根の上でオナニーをしている。出る。 ミニスカート。スキャット。半年で解散。来年の夏にはもう出産しているだろう。クリスマスツリーまで枯れ始めた。トーキングドラムが隣の街で鳴っている。サンタクロースがもうすぐ病院の子供たちにプレゼントを持ってきてくれるはずだ。彼のそりの音が聞こえてくる前に、早く眠ってしまおう。血だらけのベッドシーツに体を埋めて。
「まず始めに、私の顔にお前のをかけてくれ。ゆっくりと出せ。そうだ、少しずつ、何回も」大統領のスキャンダル。総書記長はSMがお好きだそうだ。きれいな娘が傷だらけで彼の部屋から帰ってくる。毎日だ。体に傷を書きこまれる。三日寝てしまえば消えるかすり傷だ。さいころを転がしておくれ。六かける六かける六は?そろばんを弾いて。答えは穴?
 環が閉じる。歯を磨く。葉っぱをちぎって尻を吹く。かもめが地面に落ちる。
 境遇が悪い。誰も実力を把握していない。力の無駄使いだ。もっと大事に。
 問いを出すなら、こちらの話が全部終わってからにしてくれ。データを転送。
 題名なんてない。これは終わりのない神話だ。神話に題名などあるはずがない。

 戸を閉めて。ハムレットが吠える。五百年前に父親が死んだ。天にまします我らが父よ、母は大血で尻を拭きます。整理されたハードディスク。アカシックレコード。
 沖縄で獅子が蛇に殺される。ひき笑い。大爆笑。エロイカが蛇を冷蔵庫から取り出す。少年の肉棒に蛇が絡みつく。蛇の体が少年を絞り始める。その様子を楽しそうに眺めるエロイカ。交響曲第四番が流れ始める。歓びの歌も流れ始める。
 ドライブスルー。スローフード。ラジオ体操を始めるマングース。キスマーク。国王の兵隊がカルキ臭を体から発散させている。鎧はよく洗おう。。赦してくださいおじじ様。これは先祖の祟りです。 
「お主らは三年前に一度死んでいる。バアル様のお力で甦ったのじゃ」
「こんな不確かなお話を聞くことに、どんな意味があるというのですか?」
「文句言うなっしゃ。黙って俺の話聞けばいいろが。おめみてなひよっこが、俺の話の意味わかろなんていう考えがあめんだ」
「んなこと言っても、じじさ、もっとためになる話してくんねかね?」
「黙って座ってれ」
 自由をくれ。「もうとっくの昔にあげたよ」罰をお与え下さい。「既に充分受けている」生きているのが楽しくない。「洗濯機の前で本を読め」
 昨晩、おばさんにたぶらかされた。ローテーブルの上に剥き出しになった僕のを乗せた。彼女は僕のを写真に撮った。もうすぐその写真が、年賀状となって送られてくることだろう。
 天皇。皇帝。シャーマン。総裁。お惣菜。ピエール・シャルダン。フェルメールの盗まれた絵を返して。
 あごがはずれた。時間が脱臼した。ガムを噛んだ。脳が活性化し始めた。海馬が死んだ。牛をてなずけて。丸まると肥えた鳥を締めて。飛行機から爆撃。ダメージをなくそう。林檎が地面に落ちた。パズーカ砲が空に舞い上がった。黄色い潜水艦。バスローブが吹き飛ばされた。ためらいの美学。少年は裸でベッドに仰向けに。エロイカが少年の上に乗っかる。動く動く。笑う笑う。少年は苦しそう。エロイカは楽しそう。少年がはてる。エロイカは不満気。ぐしょぐしょに濡れた二人の結合部。エロイカが引き抜く。少年のそれはまだ直立して。血管が生命のうねりをみせている。濡れに濡れた白い棒きれ。
 対等な関係に二人を置いてみたら?
「いえいえ、二人が対等な立場に立てることなどないのです。どちらかが上に立ち、どちらかが下に立つ。これが自然の道理です」
 上なるものと下なるものは、等しいのではなかったのですか?おじじ様。
「あすこにはそう書いてあったども、今は違うな。人様と接する時はな、できるだけ下に立つようにすれっちゃ。外に出っと、人様より下にい続ける余裕が必要になるすけの」
 バイバイヴェロニク。帰ってきてエロイカ。最後の晩餐。ジューダス。仔細な明細書を送って下さい。あなた、先月引っ越しましたね。何故教えてくれなかったのですか?コロス。
 ケーブルテレビの線が切れて。おむつを昨日捨てただろ。満月にうさぎちゃん。たぬきの金玉が二つに割れる。バックドラフト。ゴンブローヴィッチ。美しい肌。張りのある肌。望まれた肌。君の肌を見ていると満たされる。なぜそんなにもすべすべなの?ノーコメント?パイパイ。かつおぶし。象が三匹。長いお鼻が竿に変わる。
 この道をまっすぐ進めば、長老の庵に着くはずだ。道端の植物は変形している。枝が短すぎる。枯葉ばかりだ。動物がいない。虫もいない。腐った人間たちばかりいる。
 首都バグダッド。山羊のお祭り。キノコ雲。孫氏の兵法。ゲル攻撃。東の風が、家の中に向かって吹き始めると、中古車が地面に沈み始める。
 チグリスとユーフラテスの恵み。ふぐりをえぐってみて。疾風怒涛。流星。馬耳東風の子守唄。モンゴルの地平線。アイヌの小川。お母様の脳みその汁。伝染病。
 世界的労働体制の渦の中で、スーホーは煙草を買う。吸うとトリップできる。遊園地に行く。ジェットコースターから飛び降りる。血まみれになる。救急車が来る。隊員はやる気なげ。マスコミはハッスル。人ごみはトーテムポールに変わる。
 いるかのいる水族館。オットセイが発情期に入ったそうだ。ゴムを買ってこい。輪ゴムでやつの先っぽを刺激してやる。
 南の島の博物誌。たまらない。渦巻き。競馬場。ガラパゴス諸島の爬虫類が疾走。イグアナの娘。サンタクルスの鮪。ふとんの上でまぐろになる。ペンギンの首を切り落として家を作る。コバンザメと一緒にスキューバダイビングをする。熱帯魚に食い殺される。飛び魚が二つに割れる。樫の木の下に埋葬される。ウミガメは産卵。アシカが鹿のことを詩にする。
 バイオリンを弾くお嬢様。ブラームスは嫌い。蝶ネクタイとシルクハット。ピアノがドレッドヘアに変わる。客席に幽霊がやってくる。マエストロが第一バイオリンを食ってしまった。バッハのチェロ。バロックのキリスト。受難して。
 フルートをクラリネットに持ちかえる。プルーストが「クラリッサの屈辱」を読む。タイプライターをお前の頭に叩きつけてやる。オフィーリアの結婚式の日、サロメはヨハネの首にキスをした。
 ペレストロイカの風が吹く。マーラー。どんな?くらいつきたい?バイセクシャル?ホモサピエンス?ホームランでアウェイ。風とともにサリンジャー。黒いサリー。時計と旅するサブリナ。ローマの祝日。ドビュッシー。


 ここはここ。街は街。彼女は隣村に向かってひたすら突っ走る。道路標識など関係ない。助手席には一つ目小僧が座っている。時速七十キロでかっとばす銀白の軽自動車。ずっと続く田んぼ道。太陽がうすく積もった雪を焦がしている。
「お姉ちゃん、もっととばさんと間に合わんよ」一つ目小僧の目が、きょろきょろ動き回る。上を向いて、右に向かって、左斜め下に向かって、ぐるっと回転して。
「おじじ様に電話入れといてくれる?」アクセルをさらに踏みながら、エリカがぶっきらぼうに言う。
「エリカの携帯貸してよ。俺持ってないから」一つ目小僧は不満気だ。電話なんかしたくないんだ。耳が痛くなる。おじじ様だって嫌いなはずだ。
「後ろのバッグの中にあるよ」エリカはガムを噛んでいる。一つ目小僧が手を伸ばして、合皮でできた、茶色いボストンバッグを取り上げる。一つ目小僧の手が、バッグの中をごそごそまさぐる。掻き乱す。
「こら、いたずらすんな」うるさいな。こりゃいいや。日記だ。手紙か?
「何してんの?やめなよ」これなあんだ?縦書きの筆記。エリカの書いた字じゃないぞ。

 もうすぐ君のマンションに着くよ。最初に何をする?お花の匂いを嗅ぎたい?まず水をあげてからだよ。君の胸にスイートピーのお花は咲いてる?
 太い君の二の腕。おへその穴は真っ黒。最初に君の裸を見た時。でもそれは最期の時。
 食器を三枚ちょうだい。全部割ってもいい?君の部屋を虹色に変えたい。















 第三楽章 少年の物語

 開幕戦。会場。寝室。
 熱いおつゆを私の胸の上にたらして。そう。それを舐めなさい。はやく。そう。もっと貪欲に。そう。

 少年の先端から白い液体が一滴、エロイカの胸の窪みに放たれた。素早い動きをみせた最初の一滴に続き、より多大な分量の二滴目が、先程と同じ箇所に、同じ勢いで放たれた。少年の二滴目は分量が多かったので、エロイカの肌に白いものが飛びついた後、透明な液体部分のみが本体から分離して、ゆっくりと周囲に広がっていった。さらに三滴目が、今度はゆっくりと垂直に落下して、エロイカの腹の上に広がった。三滴目はそのままするするとエロイカのへその穴へと下っていった。一滴目と二滴目はそのまま、エロイカの胸の窪みにとどまり続けていた。
 少年の先端は液体を解き放った後も、ひくひくと痙攣を繰り返していた。エロイカはそんな少年の様子を眺めて、満足気に微笑んでいた。

 ぴゅっぴゅっ、たらり。胸の窪みに吸いこまれていく。どうして?ガクガクガク。まだだ、まだ終わってないんだ。はあ、はあ、はあ。笑ってやがる。どうでもいいの?そんなのあり?
 まずい。まずいよ。こっちに来ちゃだめ。ここは、君には見えない世界だよ。どこから入ってもだめ。砂漠に通じているんだここは。
 キングコングが山の向こうを歩いていく。全部さらけ出して奉仕しないといけないよ君。 これは最後の歌だ。やめようにもやめられない。
 
 怒っちゃだめ。他人への怒りは自分への怒り。胃腸が悪くなるよ、血圧も上がるし、お肌も荒れるよ、心身は全部つながっているんだからね。心をいつも平静にしなよ。余裕をもっと持ってごらん、ほら、怒らなくてもいいでしょ。ね。

 また怒ってるでしょ、そんなことで怒らなくてもいいのに。どうしてそんなちっぽけなことで腹がたつの?あなたが腹をたてた時の、あなたのお腹の気持ち、わかる?あなたが怒ると、胃腸は本当に傷つくの。だから、自分の体をもっといたわってあげて。そう、自分の体をいたわる余裕ができれば、みんなのことをいたわる余裕もできるの。そうでしょ?

 何でそんなに辛い辛いって言うの?何がそんなにあなたをいらつかせて、むかつかせて、意味もなく病弱にさせているの?怒れば怒るほど、あなたは強くならないで、どんどん弱っていくの。間違いだよ、今のあなたは。

 胸に手を当ててみて。本当は何がしたかったのか、よく考えてみて。あなたみたいに苦しんでいる人の力になりたかったんでしょ?その気持ちを大事にしようよ。すぐ忘れてしまうんだよね、その気持ちを。決意してみる?

 理想と現実が違うってずっと悩んでいたでしょ?あなたの理想にとって、現実はとても汚かった?頭の中で夢見たイメージと現実が違うから、何回も傷ついたの?もう理想を抱くのはやめようと思っちゃったの?あなたが現実につまづく姿をもう見たくないわ。今までは、理想を実現していくための、現実に働きかける力が足りなかったんじゃないかな?理想と現実は違って当然なの。みんな理想を実現するために、現実に働きかけてきたんだから。
「でも、自分の思い通りに現実を変えるってことは、他の人たちを自分の理想に巻き添えにするってことにならない?自分の理想が、他人の理想と重なることなんて、ごくまれでしょ?」
 あなたは自分が嫌いなのね、自分を信頼できないのね、自分が間違っているんじゃないかって常に不安なのね。だから、自分の理想の素晴らしさを確信できないの。現実の中で自分の理想を実現していくほど、理想を強く信ずるには至っていないの。
 あなたはとても優しい心を胸のずっと奥に秘めている。理想が人を傷つけるのではないかと心配する優しさがあなたにはある。普段、他の人にあなたはそれを見せないから、みんな気づいていないけれど、その優しさを、もっとあなたのまわりに振りまいたらいいんじゃない?
「もしかして、みんなの無事を願う優しさが、僕の理想?」
 そうかもしれないね。そう思ったなら、これからあなたは、ためらいなく現実の中にあなたの優しさを振りまいていけるね。
「優しさが、偽善に変わる危険があるよ。良心の押し売りはいけないよ」
 そんなことを言っていたら、あなたは現実と一切関われなくなるよ。ずっと自分の殻に閉じこもって、理想を実現している人たちをあなたは批判し続けることになるよ。ずっとそんな調子でいいの?怖がらなくてもいいんだよ。
 今生じた決意だけをいつも心に思い描いていて。そう、絵にしてみて。今あなたが絵にした理想のイメージを、何かある度に思い出してみて。


 大切な僕の一枚の絵。優しさの象徴。隣の部屋に立て掛けて眺めてみる。何を思い出す?幼稚園に入る前の思い出。赤ちゃん。子ども。笑う母の面影。それ以上は具体化できない。かすれながら網膜に映る情景。

 先程も先程の話。君がくれたワイングラスを家に持ち返ったよ。割らないようにスカーフで包んだ。君を包んだ。これが僕の大切なイメージ。他者と共有不可能な、僕だけの一枚の絵。だけど、僕の絵は、色合いも、かたちも、不鮮明このうえない。


「何これ?」一つ目小僧がエリカに尋ねる。珍しく文字を丹念に読み続けていたので、一つ目小僧の一つ目には、真っ赤な線が何本も走っている。
「着いたよ、ほら」巨木を目前にして急ブレーキ。一つ目小僧の体がシートベルトに食いこんだ。一つ目小僧の顔が歪む。一つ目も飛び出る。
「早くおりな。おじじ様がお待ちだよ」エリカがキーをかける。一つ目小僧は読んでいタものをエリカのボストンバッグに戻しながら、「これ、ここに置いといて大丈夫?」と、エリカに尋ねた。
「誰も盗みはしないよ。私にしか必要のないものだし」
「でもさ、俺、これ読んで、すげえ面白かったぞ」
「じゃあ、君が持ち帰る?」
「いいよ、俺も自分で自分ちに、こういうのがないか探してみる」
「そ。じゃ、早く車おりて。もう遅刻だよ」エリカは乱暴にドアを開けて、乱暴にドアを閉める。一つ目小僧は、目もくれずにドアの開閉を行った。ドアがしっかり締まっているか確認してから、エリカは車にキーをかけた。





 第四楽章 エロイカとヴェロニク

 眠たい眼をこすると、目に悪いから、べつにこすらないことにしていた。それでもついこすってしまう、そうするとエロイカが怒るんだ、僕の美しい顔が崩壊するのを見たくないって。
 エロイカは僕の体が何より大事なんだ。僕の汚れていない体。僕が何を考えているかなんて、どうだっていいんだ。ひどいと思わないかい?僕が苦しみながら彼女の相手をしているのを、エロイカは楽しんでいるんだ。僕は彼女の何なんだろう?奴隷かな?
 奴隷みたいな境遇に置かれている人って、実はいっぱいいるのかもね。
 急いで朝の支度を済ませてから、駅前まで歩く。エロイカと待ち合わせているんだ。こんな朝早くに、彼女と待ち合わせたことなんてない。
 駅の雑踏。おばさんたちは楽しそうな顔をしている、サラリーマンは疲れた顔をしている。女子高生は楽しそうに歩いている、男の学生は不満気に歩いている。
 改札の手前にある柱の脇に、エロイカが背筋を伸ばして立っていた。待たせたかな?いや、よく見るとエロイカじゃない。別の人?
「おはよう」その人が笑った。黒のタイトなワンピース、緑のややウェーブがかかったロングヘアー。
「驚いてる?私はヴェロニク。エロイカは来ないわ。そこの喫茶店に入りましょう」エロイカと、髪型から服装までそっくりなヴェロニク。本当はエロイカなんじゃない?僕をだましているだけ?でも、目の表情が、いつものエロイカとはまるで違うことだけは確か。

 自由を抵抗することだと思ってない?自由は許容することなの。どんなことでも素通りさせる寛容の精神を自由というの。赦し。誰が自分の庭に入ってきても気にしない。受け止める。善も悪も。淫欲も聖欲も。

 ぐるぐるまわる二つの乳首。舐めてみて。今日は特別に乳輪が回転するの。おっぱいの祝祭。

 君は何を望む?自由?なにものにも束縛されない?
 何を言ってるの?もう君は充分に自由じゃん。気づかなかったんだよ、今まで全然。気の持ちようだよ。おおらかになって。息をゆっくり、大きく吸って。そう。ほら、部屋が大きくなったでしょ。

 喫茶店には妖怪がいっぱい。今日は何かのお祭りだっけ?
「エロイカとどんなふうに遊んでるの?いつも」席につくなり、ヴェロニクが僕に尋ねた。まだ注文も頼んでいないのに。
「いきなりでびっくりした?私には時間がないのよ。答えて」

 ばふばふばふ。今から燃やすよ、君のパソコンを。パソコンは燃えるごみじゃなかったね。燃えないごみでもなかったね。いや、ごみが自分で燃えるんじゃない、人間が燃やすんだ。燃やせるごみと、燃やせないごみ。とりあえず君のパソコン燃やしちゃうよ。データが俳句になるよ。
 おおらかに書くということ。
 計算づくに、いらないものを排除しながら綿密に書いていくのとは、方法が全く違うよね。おおらかに生きていくということ。書くことは生きること。体がかゆい?なら、おおらかに体を掻きなさい、爪なんかたてないで。指のはらで優しく撫でるように掻いてごらん。そうすれば、かいても痛くないでしょ、血が出ないでしょ。
 大きな海。大きなおっぱい。大きな体。大きなちんちん。大きなお顔。傷つけないで。
 ばらばらになってもまた海に戻る。化学物質で汚染された海。でも、そんなものまで受け止めてくれる、海様。

「エロイカに何をされたの?詳しく話してみて」どうして?今すぐに?
「怖がらなくてもいいのよ。私はあなたの味方だから。さあ、始まりはどんなふうだった?」
 ぱっくりと持っていかれた。同一人物に。

 何回でも僕をさらっていいよ。僕のものは君のもの。欲しいものがあったら何でも言って。あげるよ全部。これとこれとこれ?はい。
 暗い色と明るい色を混ぜると、もぐらができるよ。大きなもぐらたちが踊る。今日はなんだか僕も一緒に踊りたくなったんだ。踊ってみた。僕の体をもぐらにしたい。そのうち性交まで始めちゃって。

 ばっくりと割れたヴェロニクの肌。喫茶店で見せつけられた。
「あなたが何も話し始めないからよ。触って。ほら、早く」ヴェロニクが上着を取って、ブラジャーを外して、僕に迫ってくるんだ。つるつるしているヴェロニクのおっぱい。お客たちは、ヴェロニクが脱いだことに気づいていない。気づいていても、そんなの、ここではどうでもいいのかな?
僕はエロイカにいつもしているように、ヴェロニクの乳首にそっと唇をあてた。やっぱり違う、この人はエロイカじゃない。紛れもなく別の女性だ。ヴェロニクの乳首はエロイカのものより弾力がある。僕が唇をちょっと放す度に、ヴェロニクの乳房はぽんと弾むんだ。
右の胸をしばらくの間舐めてから、心臓のある左の胸の方に唇を移す。彼女の脈拍が僕にもはっきりと感じられる。
 ヴェロニクが僕の頭を優しく撫で始めた。エロイカなら、こうして優しさを見せたすぐ後に、僕の髪を乱暴に掴んで、強く引っ張って、僕を怖がらせるんだいつも。それがエロイカにとっては歓びなんだ。
 僕はヴェロニクの手の動きを感じながら、いつもみたいに髪を引っ張られるのではないかと怯え始めた。ヴェロニクは、僕の髪を頭頂から首筋に向かって、何回も撫で続けてくれる。僕もお返しに、彼女の乳首を舐め続ける。左手の指で、彼女の右胸を優しく揉んであげる。
 エロイカにしつけられたんだ、体中を何回も叩かれながら。頭、背中、尻、もも。あそこを思いっきり握られた時もあるよ。痛かっただけだよ。
 ヴェロニクが突然ぐっと、僕の顔を彼女の体の方に引き寄せた。彼女の胸の窪みに僕の顔が埋まる。その拍子で、机と僕の椅子が横になって倒れた。がたごとと大きな音が出た。そんなことはもう僕には関係なかった。お客も店員も何も言ってこない。
 彼女は僕を抱きしめながら、椅子からゆっくりと立ちあがった。僕はヴェロニクの両胸の間に顔を埋めたまま、彼女のワンピースを下ろしていった。彼女の体熱と鼓動を間近で感じながら、彼女の服を取り去る快感。僕はひどく興奮していた。ヴェロニカの手が僕の頭頂に軽く触れた。僕は彼女の動きに促されて、彼女の下半身へと、顔を徐々に移動させていった。シルクの上から舌を這わせる。彼女の両手が僕の後頭部全体を包んだ。僕は何も考えずに、舌を這わせ続けた。
 僕はたまらず立ち上がって、肌着を全部脱ぎ捨てた。ヴェロニクが僕のものを見つめる。店員がコーヒーを僕らの隣の席に運ぶ。隣の客は読みかけていた雑誌を閉じて、コーヒーに砂糖を入れ始める。ヴェロニカが僕のものを口にふくんでくれた。彼女の舌が這う。エロイカとも、他の女とも異なる、彼女だけの、丁寧で大胆な口の動き。

 食べたいものがあったら言って。すぐに用意するから。トイレはそこ。寝る場所はそこ。眠たくなったらいつでもそう言ってね。一緒に眠りましょう。
 これは私のコレクション、でも集めたくて集めただけ。私のもとに残し続ける気はないの。気に入ったものがあったらどうぞ。
 私さえも、持ち帰っていいのよ。あなたが望むかぎり、一緒にいていいのよ。

 エロイカの指が僕を握りしめる。さすってくれる。気持ちいい。開放感。僕の世界が広がっていく。境界がなくなる。ヴェロニクの舌が、僕の先の先を精妙な振動で何度も刺激してくる。僕の腰が小さく痙攣する。足の指先からお尻の先端まで、電気が流れたようにびりびりし始める。下半身が冷たく麻痺し始めた。立っているのが辛い。
 僕はエロイカの肩に手を置いた。ヴェロニカが愛撫をやめて地面に寝そべる。僕は彼女の上に覆い被さった。愛しいよエロイカ?ヴェロニカ?あるいはヴェロニク?誰?

「私に戻っておいで。いたわってあげるから」エロイカが低い声で僕に迫る。

 私の時間はいつもゆっくりと、大きなテンポで進んでいくわ。あなたの時間はいつも早く、小刻みに進んでいくのね。急ぎ過ぎなのよいつも。みんなのペースに合わせなくていいし、みんなより早く行こうとしなくてもいいの。自分だけのペース、いえ、本当は自分の中に住む誰かのペースで生活してみて。あなたの中に住んでいる誰かさんは私。














 第五楽章 エリカと比丘尼

 エリカと一つ目小僧は、葉の生い茂る大木の、幹の真ん中にぽっかりとあいた大穴の中へと入っていった。手をつなぎながら、ぼこぼことした薄暗い洞穴の道を歩いて進む。洞穴のところどころに蛍が舞っており、彼らの発するほのかな光が、照明の役割を果たしていた。二人は曲がりくねった細い道のりを、足を滑らさないように注意しながら、深奥に向かって下っていった。
 早足で進んでいくと、洞穴の深奥に、一際強い光を放つ光源が見え始めた。賑やかな話し声まで漏れ聞こえてきたので、二人はさらに急いで奥へと向かった。
 洞穴の奥底は、地底湖まである広大な空間となっていた。地底湖の上では、大量の蛍が舞っており、彼らの放つ光が水面に反射して、淡くぼけた幽玄の世界が立ちあがっていた。淡い光の綾の中で、様々な大きさの妖怪たちが座って、談笑を繰り広げていた。
「ごめんなさい、遅くなりました」エリカが申し訳なさそうに、しかし、よく響き渡る、いつもの大きな声で、座の中心にいた最長老に向かって挨拶をすると、集まっていた妖怪たちが一斉に、二人の方に体を向けた。
「こら!ここで大きな声を出すでない」最長老がエリカより威勢のある声で、二人を叱りつけた。
「申し訳ありません」エリカがそう言ってお辞儀をすると、一つ目小僧も彼女に習って最敬礼をした。
「まだ食べていたところだ。ほれ、ろくろっ首の隣に座れ」二人は入り口の近くに座っていたろくろっ首の隣に座った。ろくろっ首は、一つ目小僧をなまめかしく見つめた。

『僕がっかり。隣の人が僕を食べたんだもの。ずっと前から僕の体はおかしくなった。だって、体の半分をあいつに食べられちゃったんだから。ねえ先生、僕もあいつ、食べていい?』
『だめだよ、健君。そのかわり、先生が君を全部食べてあげよう』
『先生やめて、僕を食べないで。僕を守って。先生は僕の先生じゃなかったの?』

 摩擦熱。こすりこすられ、熱を発し始める妖怪がここにも二人。一つ目小僧の目玉が、ろくろっ首の首を愛撫する。ろくろっ首の首が直立し始める。

「エリカよ、お前が本当に我々の仲間に入れるのかどうか、みなの意見が定まるまでは、街に帰れんぞ」
「よろしくお願いします」無理にとは言わん。無理にとはな。できることなら、この娘に、街に帰って欲しいが。
「おじじ、こいつらはわしらの敵じゃ。ここに入れてはならんはずだ」
「まあ落ち着け。比丘尼様のお計らいじゃ。比丘尼様も、もうすぐここに下りてこられる」「なんと!比丘尼様がか。ちょうどよかった、うちの娘を連れてくる。比丘尼様に診てもらわねば。構わぬな?おじじ」
「うむ。連れてこい」

『先輩はどちらの高校の出身ですか?先輩はどちらの大学の出身ですか?先輩はどなたかと結婚していらっしゃいますか?そいつは誰だ?教えろ。早く言え。早く』

「我々はな、何億年も前からこの地を見守ってきたのじゃ。この地が滅びようとしておる。黙って見過ごすわけにはいかぬ。これが最後の賭けじゃ。あの娘に我々の望みを託す。あの娘も後々には、比丘尼様のような存在になるかもしれん」
「比丘尼様は我らの住み処をこしらえて下さった。こんな我らのためにな。自分の身など振り返らずに、三日三晩夜通しで、我らの住み処をこしらえて下さった。比丘尼様は細い体をますます細めて、岩を削り、大地を掘り、森全体を我々に住みやすいように変えて下さった。この森が、今もって在り続けていられるのも、比丘尼様のおかげだ」
「この娘は比丘尼様とどういう関係にあるんだ?もしや、比丘尼様の娘か?」

 僕の牛乳瓶はなかった。僕のランドセルは白かった。僕のお姉さんはみんなと違う教室で勉強していた。僕の担任は何の解決も示してくれなかった。僕だけで解決しろとでもいうの?

「これ以上やつらに好き勝手にはさせんぞ。このままではやつらと一緒に、わしらまで滅びることになる」
「もう止められぬのだよ。あやつらの間で大きな戦いが起これば、我々の住む世界もろとも崩れ去る運命じゃ。我々は黙って見守るしかない。今までずっとそうしてきたようにな。そう騒ぐな。あやつらの中には、比丘尼様のような方もおられる」

 エロイカが僕を救ってくれた。誰も僕の友達じゃなかった。エロイカだけが、僕を人間と認めて話しかけてくれた。エロイカにいろいろと教えられた。僕は強くなった。でも、僕は彼女によって、ますます力を奪われた。

 比丘尼様は我々を見ても恐れなどしない。我々に触って下さる。我々と一緒に笑って下さる。我々とけんかまでして下さる。もう何年来のつきあいになるだろうな?彼女は我々と同じようにしか歳をとらなくなった。我々の住み処を作っていらっしゃらない時、比丘尼様はゴルゴダの丘に座って、街をじっと眺めていらっしゃる。比丘尼様が時々涙を流しておられるのを、俺は見た時があるぞ。街の方を眺めて泣きながら、衣を掻きむしっておられた。既にぼろぼろの衣をな。

 僕は、今度はエロイカに依存した。エロイカがいないと不安になる。寂しくなる。彼女なしでは、何もできなくなった。僕とエロイカは等しくなった。僕の中のパワーはエロイカになった。食欲も。性欲も。

 エリカ殿を食べてもよろしいか?心配するな、半分だけだ。比丘尼様に診てもらえば、すぐに元通りになるぞ。住み処もないのだろうに。比丘尼様に作ってもらえ。

 一つ目小僧の首が長くなる。ろくろっ首の両目が真ん中に寄って、合体して一つになる。二人の区別がつかなくなる。

 アヌビスが歩く。トトが死ぬ。ママハハが子を産む。それは比丘尼の子ども。何千年も昔の話だ。比丘尼の妊娠。比丘尼の流産。比丘尼の出家。彼女は異界の者たちの住み処を建てる。極彩色の丸い神殿。子宮をあしらった黄金の玄関。ソロモン王が古代に建てた、バビロンの空中庭園。

 私は私。貴方は私。彼方は私。此方は彼方。どこ?どこにいるの?貴方の居場所はどこ?
パラフレーズをプリコラージュして、ダイナミックに量子力学が回転し始めると、比丘尼の仕事が始まる。比丘尼の乳首から白い液が溢れ始める。乳液が大地に降り積もる。工事の着工である。高次元のアッパーカットが炸裂する。
 私の家は家ではない。私自身の拡大図だ。私は、我が家の縮小図だ。
 楽になったようだね。私も仕事を始めるよ。大好きなお菓子のおうち。花のお城。ヒヤシンスの城壁。向日葵のシャワー。夕顔のテーブル。末摘む花のごみ箱。散る花の咲く夜。
 まずは種を埋めて、水を毎日与えるの。一度にたくさん水をやっても想いは届かないよ。種に向かって気遣う言葉をかけながら、毎日少しずつの水を、種の埋まっている場所にかけてあげるの。彼女たちはゆっくりとしか成長しない。お日様の光をよく浴びせてあげてね。
 気長に建築。何年もかけて。ピラミッドやゴシックの大聖堂を作るみたいに。
 料理のコツは、手間と暇をかけること。
 秋になったら、実ができる。実からまた種がとれる。季節が巡ると、命も巡る。
 私の家は世界の謎だ。パズル。断片。家の中に配置された、様々な鍵を全て見つけた智者には、世界の秘密が開示される。別に本人に謎を解く熱意がなくとも、私の家に住んでいるだけで、自然と世界の謎が開示される仕組みとなっている。私の家の中では、空間と時間がねじれる。多重な次元が一つの場所に重なっている。超高次元から低次元までが、十二一重のように重なり、色彩の美を生み出している。
 私の家に住む者もまた、私の家の家具となる。謎が一つまた追加されることになる。私の家は住む者を選ばない。誰でも住める、訪問できる。人間たちの定めた知能では、私の家の謎は解けない。だから、誰にでも可能性はある。私が配した謎ではない。空から降ってきた謎だ。解かれることを心待ちにしている謎たち。誰にも解かれたことのない謎たち。人々の挑戦を待つ謎たち。
 入っておいで。迷う者はみな私の家に。おまえたちそれぞれに適した部屋を作ってやろう。喜びなさい。明日から、おまえはおまえを取り戻す。













 第六楽章 突然割ッテ入ッテキタ 聖ナル遊ビノ実演

 ホテルの寝室。ダブルサイズのベッドが二つ。僕とヴェロニク。僕とエロイカ。みんな裸。
「どこに行っていたの?早く書いてよ」エロイカが怒った声で僕に言う。僕だって知らないさ、何を書けばいいんだ?そんな。
「私がキスしてあげる」ヴェロニクが僕の顔に接吻する。エロイカが僕らを見つめる。でも、ヴェロニクとエロイカの区別なんて本当はない。僕への態度の違いだけだ。


「ワイルドハーツっていうバンド知ってる?ワイルドハーツの作曲をしているジンジャーっていうギタリストがね、とてもキャッチーでメロディアスな曲を作るの。オアシスがポール・マッカートニーそのものだとすれば、ジンジャーは、ポールの中の、一番楽しげで、メロディアスな部分を引き継いでいる感じかな。ワイルドハーツのバックサウンドは、ニルヴァーナみたいな重低音なんだけど、ジンジャーの作る曲がとってもメロディアスで、展開が多くて、ドラマチックだから、私は大好きなの。あんまりメジャーじゃないけどね。みんなが知らないからこそ、ワイルドハーツが好きなのかも。ジンジャーって人はさ、才能に溢れている人でも、大衆の人気を得られないことがあるっていうことの、証明みたいな人なんだよ」
「やたら誉めるね。珍しく」
「岡本太郎がね、人生の中で素晴らしいと思ったものを乗り越えろって言ってたの。岡本太郎の文章に刺激されて、文学、音楽、美術作品とかのうちから、自分が過去に強く感動したものを思い返してみたの。愛読書や愛聴版を列挙するのとは少し違うねこれは。その作品に出会って、人生観が変わるほど強く心を動かされたものを見つける作業だからね。音楽で感動した作品を探した時はね、クラシックやジャズの曲ばかりで、ポップスからは一曲も、人生観を揺り動かすほど、感動したと思えるものが見つからなかったの。やっぱり、クラシックやジャズに比べると、ポップスはまだまだ発展途上なのかなとその時は思ったんだ。でもね、よく考えてみたらさ、私はクラシックやジャズより、ポップスに育てられた人間だってことがはっきりしてきたのね。クラシックやジャズの方が『高級』だから、自分をよく見せるために、そっちのジャンルの方からばかり選んでいたのかもしれない。他人に見せるためのものじゃないから、そんなところでかっこつける必要なんてないのにね。かっこつけって、別に人前に見せる必要がなくても、自然とやってしまうくらいに、内面化されているものなのかもしれないね。とにかく、あれだけ今まで影響を受けたはずのポップスからは、一曲も『私の人生観を変えた』と思える曲が見つからなかった。今はクラシックやジャズを聴くことの方が多いから、ポップスは私の中で否定されてたのかもしれない。小さい頃はさ、少年向けのファンタジー小説で感動したのに、文学を読むようになると、ファンタジー小説をもう読まなくなっちゃうでしょ。たまに実家に帰った時にさあ、中学生の頃読んでいたエンターテイメントの小説を読むとさ、こんな文章の小説によく感動していたなあってびっくりするものでしょ。そうやって上位文化と下位文化の区別を行うのはやめるべきだと言ったってさ、実際そういう現象が起きてしまうんだから、しょうがないじゃない。『素晴らしい』という観点で作品のよしあしの選別を行えば、『美』という観点で選別していた頃のような、上位文化と下位文化の分裂は起きないと思っていたのにさ、『素晴らしい』で選別しても『美』で選んだ時と結果は似たり寄ったりなんだよね。『素晴らしい』っていう感情は、とっても主観的なものだから、自分の趣向がそのまま出てしまうじゃん、上位文化に浸りきった人が、『素晴らしい』という観点で優れた作品を選別すると、かえって『美』で選別す
「おいおい、岡本太郎は、『きれい』と『美しい』は違うって言ってたはずだよ。『きれい』とは単に時代に迎合したものであるから、『きれい』と『美しい』は正反対なんだって」
「なるほどね。彼の考える『美』は鮮烈なものだからね。上位文化にも下位文化にも属さないもんね彼の絵は。あれは本当に自分のオリジナルだよ。社会の枠に囚われない価値観で描かれているからね」
「だからさ、おまえの言ってることってさ、まだまだ歴史的に形成された社会価値に囚われている人間の、戯れ言に過ぎないんじゃねえの?」
「その社会から超然とした特権意識がむかつくっつうの。最初の話に戻すよ。初め探した時はさ、ポップスからは素晴らしく感動したと思える曲が一曲も見つからなかったのに、昨日ね、たまたまワイルドハーツのMDを久々にかけてみたらさ、やっぱすんごいよかったんだ。ジンジャーの作る曲はどれもキャッチーで、メロディアスで、楽しげな感じで、聴く人を惹き続けるドラマに溢れてたんだよね。これってさ、ポップスの王道じゃない?ポップスって、こういう音楽のことを言うんじゃないのかなって思ったの。ジャンルの枠で考えるのが古臭いって今思ったでしょ?でもね、今のポップスは、ありとあらゆるジャンルを取りこんで、融合しているから、ジンジャーみたいなポップなテイストがなくなっていると思ったんだ。私はポップスを聴いて育ってきた。ポップスの楽曲の持つあの刺激性が少しでもなくなると、私はすぐ早送りしていた。よく知ってるでしょ、私がつまんないと思うと、すぐ曲変えるの」
「うん」
「ジンジャーの作る曲はあまりにポップだから、早送りできないの。全ての展開が刺激的で、魅力的なの。しかも、曲はあくまで明るく楽しいポップなの。今はもうなくなっている、古き良きポップテイストへの反動的な回顧主義だと思ったでしょ?でも違うの。決定的に新しいの、ジンジャーの曲はいつ聴いても。ポップスで素晴らしく感動した曲が一つも思いつかなかったのに、ジンジャーの曲を聴いたら、これはモーツァルトやドビュッシーよりも絶対すごいと思えたんだ。強いの、ジンジャーの曲って。モーツァルトやドビュッシーの楽曲が、いつになっても古びないのと同じように、時代に流されない永遠の新しさが、ジンジャーの曲には秘められていると思うんだ。自分が何をしたいのかわかっている人の曲だから、こっちにがんがん響いてくる。これがポップスだよ。ジンジャーの曲は、クラシックやジャズとか、今まであった音楽を完璧に蹴飛ばしてるよ。媚びを売ってないもん、昔のジャンルに。ポップって今のことを指してそう言ってるわけでしょ。ジンジャーには、ボードレールやランボーが言っていた現代性があるんだ。同時代に強く根を張っている曲なのに、作られてから何年も経った後でも、これは新しい曲だっていう錯覚を聴く者に与える蘇生力?若返りの力?生命の躍動感?みたいなものがジンジャーの曲にはあると思うんだよね。ゴダールの映画みたいにね」
「ジンジャーの曲の中に、モーツァルトやドビュッシーの曲と同じ、いつまでも最新の感覚を保持し続ける現代性を見出したんだろ。現代性を評価の基準にするならさ、、ポップスもクラシックスも、ジャンルわけなんて、お前にとってもう意味がないじゃん」
「そうだね。岡本太郎と同じ認識の地点まで私も行っちゃったわけか。私はね、ポップって現代性のことを言ってるんだと思うんだ。だから、私にとっては、モーツァルトも、ドビュッシーも、バッハもみんな、現役のポップアーティストなんだよ。CDなら彼らの作った曲が、生で何万回も聞けるしね。ポップスって彼らの作った楽曲のような、魅力というか魔力を持つ作品のことを指すんだと思う。だからね、今のポップスって本当、私にとってポップスじゃない音楽ばかりなんだよね」


 エロイカがシャワーを浴びている間に、ヴェロニクがコーヒーを炒れてくれた。
「飲みなさい。」ブラックだ。おかしい。抹茶みたいな香りがする。
 まだ裸のヴェロニクが、ブラックのコーヒーを飲みながら、僕の裸をじっと見ている。気恥ずかしさを感じながら、僕もコーヒーを飲み始めた。エロイカの分は用意されていない。
 シャワーの水が弾ける音が、僕らのいる寝室にも聞こえてくる。僕とヴェロニクは無言で、コーヒーを何杯も飲んだ。エロイカがバスユニットから出てこない。トイレに行きたくなったけど、バスユニットにはエロイカがいる。僕は仕方なく、裸のヴェロニクに向かって











 第七楽章 聖ナル遊ビデ得タ知恵ヲ使ッテ 言葉ノ綾ヲ解キホドイテ

 話し合いは夜通し続いた。地の底の底だったので、もう朝になったのかどうかもわからない。地底湖で水浴びをする者、眠る者、踊り出す者、様々な者がいる中、エリカの適性を熟慮する談合は、途切れ途切れに続いていった。一つ目小僧は、既に二つ目になっていた。ろくろっ首は、首が六本ある怪物に変わり始めていた。
「エリカよ、わしらはな、お主が現実に、比丘尼様のような仕事ができる者になれるのかどうか、それを見極めたいだけじゃ」
「この娘が、比丘尼様のようになれるのかどうかを見極めるには、この娘に比丘尼様と同じ仕事をさせるしかないだろうて。比丘尼様に、この娘を弟子にして頂くように、頼みに参ろうではないか」
「そう焦るな。比丘尼様が、我々のもとに最初に現われた日のことを思い出せ。比丘尼様も、この娘と同じような小娘だったではないか」
「わしらにこの娘の才能を見極めることなどできぬのだよ。比丘尼様に直接お伺いをたてようではないか」
「比丘尼様がいらっしゃるまで、話し合いは、しばしお開きじゃ」

 私の夢。理想。現実。ぶつかる。現実は汚い。いや、私の方が汚い。私は、自分も現実の汚物の中にまみれていることに、気づかないふりをする。透明で客観的な主体の位置に留まり続けようとする。私はいつも特権的な位置から、遠くにある現実を眺めて裁断する。下されるのは痛烈な批判ばかり。でも、私も現実の中にいる。私も、他者から批判されもすれば、愛されもする。


 僕はエロイカにいつも力を奪われてきた。ヴェロニク、僕に、僕の力をちょうだい。
「私たちにすがってもしょうがないでしょ。あなたの中には大きな力がある。頼らなくてもいいのよ誰にも。思い出してみて、自分の中にあるパワーの大きさを」
 僕が力を持ってしまったら、僕は誰かをいじめないだろうか。犯さないだろうか。
「怖がる必要はないわ。あなたは自分の力をコントロールする感覚を忘れてしまっただけ。自分の力を上手くコントロールする感覚を思い出してみて。小さい頃のあなたは、確かに自分の力を適切に使っていたんだから」
 僕の現実はばらばら。僕の体もばらばら。僕の希望もばらばら。僕の頭もばらばら。どうすればいい?何から手をつける?
「私が側にいるわ。エロイカはもうあなたに遭いに来れなくなったのよ。だから安心して。私は、あなたを操ろうとはしないわ。あなたは自分で自分の生活を決められるの」


「比丘尼様。理想と現実の対立をどう乗り越えればいいのでしょうか?」
「理想と現実は対立しておらん。お主らが理想と決めつけているものもまた、現実じゃ。お主らは、お主らの目にも見えるかたちを取らずに、頭の中でのみ生命を得るものを、現実の事物ではないと考えてしまっておる。だから、頭の中にしかない理想のことを現実だとは思えないのじゃ。だがな、頭の中に浮かんだだけで、理想は現実としてのかたちを持ったと言えるのじゃよ。たとえ、理想が目に見える現実のかたちとして、現象界に具現化しておらずとも、頭の中にあるというだけで、理想は現実の事物なのじゃ。ただし、はっきりと確信をもって、具体的に、かつ、詳細に思い描かれた理想だけが、現実と呼ぶに耐える強度を持っておるのじゃ」
「比丘尼様は、現実にないものもまた、現実と呼んでおられるが、我らが体験している現実の世界の中には、夢幻に過ぎないような事象も多いですぞ」
「その通りじゃ。あやふやなものは、たとえ現象界に具現化していようとも、現実とは呼べん。そなたらが現実だと思いこんでおる、この世界の全てが、そなたらの現実のわけではないぞ。はっきりと、確かに掴めるものだけが現実じゃ。把握できなければ、たとえ現象界にあろうと、それは、そならにとっての現実ではない。幻に過ぎん」
「その人その人によって、現実は違うわけですな。ある者にとって現実のものも、別の者にとっては、幻となってしまうわけだ」
「そうじゃ。パズルを解くようにして、現実と見えるものの中から、また、理想の中から、確かに把握できる現実を掴み取るがよい。頭の中にある想像の事物が、細部にいたるまではっきりと想像されていたならば、それは確かに現実となる。あやふやなままでは、想像は創造物とならずに、夢のままで終わってしまうぞ」
「わしは、そんなに明確にやりたいことを想像したことなどありませぬよ」
「お主の想像力が貧困なのはな、お主が、目に見える世界の一つ一つを、十全に体験せずに、今まで見過ごしてきたことに由来しておる。あやふやなまま経験を素通りさせていては、お主は現実として体感できるものを、想像界でも、現象界でも、何一つ持たぬまま、命を終えることになるじゃろう。逆に考えると、世界の事物たちは、お主らに己らを十全に体験して欲しいと願っておるのじゃ。ただし、一筋縄ではいかん。事物たちは、お主らを初めは惑わす。様々な夢幻の中から、これだというはっきりとしたものを掴み取ってゆくがよい。己で体感しない限り、現実を把握することはできん。故に、己が体験してもいないことを、蚊帳の外から批判することなど本当は許されん。これからは、もしも否定すべきものが見つかったならば、そのものを己自身で十全に体感してから、批判することじゃな。そうでなければ、お主らの意見に、当事者たちは誰も耳を貸さぬことじゃろうて」
「比丘尼様、何故、世界の事物は、はっきりとした現実のかたちを最初から取ってはおらぬのですか?」
「世界の全てがはっきりとした現実では、お主らの生はそれらに振り回されて終わるだけになってしまうじゃろう。世界の全てを把握する必要はないのじゃ。変転する世界の中から、自分に必要だと思える事物のみを選び出し、迷いながら、知恵を駆使して、お主のみの現実を積み重ねてゆくがよい。それだけでお主らの生は満たされる。逆に言えば、お主らは、お主らの下の世代に、懇切丁寧に世界の謎を教える必要などないのじゃ。たぶらかすように、何も知らぬ者にとっては、迷宮にしか見えぬようにして、パズルのまま世界を呈示してやるとよい。その不可解な世界の様態の中から、お主らが這い上がってきたのと同じようにして、お主らの下の世代もまた、自分が欲する現実を掴み取っていくことじゃろう」
「比丘尼様の言い方では、現実は、自分にとっての現実でしかなくなりますな。他者と共有できる現実がないではありませぬか」
「そもそも万人が共有できる普遍的な現実などないのじゃ。体感した者のみが事物を現実として語れる。それは、自分の解釈に従った世界の切り取りでしかないのじゃが、そのようにしか、現実は現実として結晶しないのじゃ。他者とは、己が体感した現実について、実感の違いを語り合うがよい。その語りの中に起こる意見の衝突、未解決の葛藤、一瞬の同意が、他者と己が共有する新たな現実となるのじゃ」


あ、僕の体。僕には体があったんだ。もうエロイカのための体じゃないんだ。もう僕の体は僕なんだ。僕の思考。僕だけの自由な領域。僕の生活。僕が自分で毎日決められる生活。どうでもいい細かい部分まで、僕の裁量次第。これが僕の持っていた世界。
「ねえ健。あなたはエロイカを許せる?彼女があなたに振るった暴力、あるいは、彼女の存在を許せる?」
「僕に暴力を振るった人を赦すことは、彼の暴力を暴力と認めずに無化してしまうのだから、彼の暴力を覆う、より包括的なパワーの発動だと考えられる。相手の力を奪うこと、破壊することを、僕は暴力と定義する。自分の持っているパワーの過剰な暴発のことを暴力と呼ぶことにしよう。相手の暴発したパワーの行使に対して、自分の暴発したパワーを相手に贈り返してはならない。なぜなら、暴力の応酬は、どちらかが力尽きるまで続くからだ。どちらかの力が尽きるか、両方共倒れになる前に、一方が他方を赦してしまえば、暴力の交換は終わる。僕は今まで、人間関係の全ては暴力だ、二者以上の関係には権力が必ず介在しているという理論の虜になっていた。パワーという言葉を、権力とか、暴力と訳すからこそ誤解が生じるんだ。暴発したパワーのみを暴力と呼べばいいさ。自分にとって苦にならないパワーの影響を、権力なんていういかめしい言葉で呼ぶ必要もない。パワーそのままでいい。僕は権力理論を聞いてから、他人と関わるのが怖くなった。常に自分の行為が相手を傷つけていないか、気になり続けたんだ。でも、相手を痛めつけないパワーがあるということにも、最近になってようやく気づいたんだ。それが、赦すというパワーの発動だよ」
「ちょっと待って。まず一つ目の疑問。これはあなたの理論の、極限状況で行使される、生命を脅かすほどの暴力の取り扱いに関する疑問よ。多大な暴力にあっている人が、あなたの言うような赦しの行為に出られると思う?被害者が加害者を寛大な心で赦して受け入れても、加害者は暴力の行使を続けるのかもしれないわよ。あなたは、寛大な心で相手を赦せば、相手の理不尽な暴力行為が終わると思いこんでいるようね。ちょっと現実を甘く見すぎているんじゃないかしら?あなたの理論は私には、現実に暴力を振るわれている人にとって、何の役にも立たない、きれいなお説教に聞こえるわ。疑問の二つ目。これはあなたの理論の、強大ではない日常の微細な暴力の取り扱いに関する疑問よ。最近の権力論では、直接的、身体的な衝撃のかたちを取らない、柔らかなパワーの方が問題にされていたのでしょう?みんながパワーだとも思わないで、受容してしまう、優しさのふりをして生活に侵入してくるパワーのあり方が問題にされてきたんでしょう?あなたのいう苦にならないパワーが、実は自分をじっくりと飼い殺す恐ろしいパワーなのよ。そのパワーの行使を赦していたら、あなたはずっと制度に屈し続けることになるわ。優しい外見を装って、自分の生活に侵入してくるパワーを告発する方が、あまり苦の実感が湧かないという理由でパワーの行使を赦すより、よっぽど実りある行為なんじゃないかしら?」
「疑問の一つ目にまず答えよう。君はパワーの行使に対して、パワーで応対することを肯定しているけれど、相手のパワーの行使に対して、自分もパワーの行使で返答し続けるかぎり、パワーゲームは終わらないんだ。パワーゲームを終結させるためには、さっきも言ったとおり、どちらかが破れるか、共倒れになるか、ゲームにリセットをかけて、新しいゲームを用意するしかない。パワーにパワーで対抗すると、パワーの交換というゲームのルールを許容することになってしまう。ゲームのルールを変えるには、赦しという、何の攻撃性も持っていないパワーを発動させる必要があるんだ。赦しの持つ寛容さは、パワーゲームのルールを許容しない。赦しの発動は、安らぎを分かち合うという、新しいゲームの提案なんだ」
「やはりあなたの考えは甘いわ。暴力を行使している加害者に対して、被害者が寛容の精神を見せれば、加害者は感動して暴力行為をやめるだろうという期待、予想があなたの理論の背景にあるのよ。現実では、あなたの期待通りに相手が動いてくれない確率の方が高いの。やはり直面する危機に対しては、自分の少ないパワーを使って抵抗する必要があるわ。ある程度身の安全が確保できたならば、あなたのいう赦しの過程が始まるでしょう。生命の極限状況にある人に、抵抗しないで、相手を赦しなさいとあなたの理論は強制しているの。それは、宗教的な犠牲の精神よ。あなたはそれでもいいと思うの?」
「その点については、僕の理論は間違っていたようだ。極限状況では抵抗すべきだね」
「全ての場合に適合できるような、あらゆる秘密を説明し尽くす究極の理論なんてないのよ。各理論は、その理論が適合しそうな場合に使うことによってのみ、その効力を発揮するの。状況状況でしなやかに理論を変化させる柔軟さが大切なのよ。だから、私は極限状況では抵抗するけれど、赦しの行為が相手の暴力を無化できるとかなりの確率で予測できる状況では、相手を赦しもするでしょう。あなたのさっきの理論は、極限状況で、理論の予測が失敗する確率が高い場合でも、理不尽な暴力を耐え忍んで相手を赦しなさいと宣言してしまうの。これでは理論と呼べないわ。小さな命よりも、気高く美しい精神の方が尊ばれているんだから」
「わかった、君の指摘は理にかなっている。僕の非を認めるよ。赦しは赦しにふさわしい段階で行うべきであって、暴力の被害者は、自分で状況を見極めながら、各段階に適した行動を選択していくしかないんだね。では、引き続いて、第二の疑問点について、今行った修正を踏まえつつ、答えることにしよう。自分にとって苦にならないパワーの行使を僕は許容する立場を取っていたけど、そうしたパワーの影響力の方が、実体がないだけに恐ろしいという意見だったね」
「そう。あなたはフーコーやブルデューの説いた権力論の射程を見誤っているわ。微細なパワーの方が怖いの」
「でも僕は、彼らの権力論によって痛めつけられたと考えられなくはないか?彼らの書物の影響によって、僕はパワーが行使される状況に過度に敏感になってしまった。僕は全ての関係行為は、何かしら他者にダメージを与えるものだと思ったし、世界は目に見えない権力だらけで、何の希望もないと思うようになってしまった」
「それこそ、理論の限界を見極めさえすれば、回避できる馬鹿馬鹿しい事態でしょ。権力を告発したフーコーやブルデューが、あなたの生活にとって脅威的な権力を持ってしまったんだから、面白い皮肉になっているけれど、あなたはそんなに悲観的に、臆病になる必要なんてなかったのよ。理論や知識人を盲信しない方がいいわ。彼らは万能ではないんだから。適応できる臨界点があるのよ何事にも。まあそれでもあなたは、赦しという概念を使うことで、権力理論の盲信状態から脱却しようとした。その努力は認めるけれど、彼らの理論を全て否定する必要もないじゃない。あなたは、以前権力理論を盲信したように、また赦しの理論を万能のものとして盲信しようとしていた。きっと、赦しの理論に適応しない例が現実に起きてしまったら、あなたは赦しの理論を、つかいものにならないものだと決めつけて捨て去って、また新しい理論に跳びつくことでしょうね。それでは、理論のみが毎回変わっているだけで、あなた自身は何も変わっていないことになるのよ。理論には限界がある。どんな事象にも妥当する理論なんてないの。だから、理論に適合しない現実があることなんて当然なのよ。むしろ、全て理論通りに整理できる現実の方が怖いんだから。今度からは、自分の理論に合わない現実にぶつかったからと言って、その理論を捨て去らないでね。その現実が理論の正しさを否定することにはならないんだから。今後、新しい魅力的な理論を見つけたら、まず最初に理論の臨界点を把握するようにすべきよ。そうすれば、あなたは次々と新しい理論を、自分の現実に応用できるものとして吸収できるようになるわ。新しい理論を覚えるごとに、前の理論を捨て去る必要もなくなるはずよ」
「そうだね。ありがとうヴェロニク。これから僕は、暴力と感じさせないまま、自分の生活に侵入してくる静かな暴力に対して、実害はないからといって見過ごさずに、抵抗することにするよ。かといって、微細な暴力だらけの世界に対して悲観的になったりもしない。抵抗すべきところでは抵抗して、くつろぎ、赦すのがふさわしい場面では、おおらかな気持ちで赦すことにする。だから僕は、エロイカを今、赦す」
「そう、よかったわ。まあ、それだけ言えればもう大丈夫ね。抵抗するにしても、赦すにしても、自分一人の力ではなかなか難しいわ。まして力を大きく削がれていてはね。無力化された被害者が力を取り戻す過程を、援助してくれる協力者がいれば、有力化の過程は遥かに簡単に進んでいくわ。赦しというメタレベルのパワーを発動させるのか、抵抗という相手と同じ土俵で戦う方策を選ぶのか、あるいはまだまだある別の方策を選ぶのか、どういう方策を選ぶにしても、『力なき者に力を』という点では、他者の援助が被害者の回復の大きな支えになるわ」
「僕は、これから誰にも僕の生活を渡さない。自分で自分の生活を組み立てて、みんなに僕を分け与えていくんだ」


 比丘尼様。比丘尼様が来られた。ヴィクニさま。我々にとっての母様。比丘尼様は悲しんでおられる。比丘尼様は大昔から我々と運命を共にしてこられた。
「なんと!比丘尼様でいらっしゃったのか?お主はエリカではなかったのか?」
「これは失礼なことをいたした」
「比丘尼様のお戯れじゃ。わしらをお試しになられたのじゃ」

 エリカはエリカ。比丘尼は比丘尼。私は、ここに来る前、エリカと名乗っていた。もはや私は、エリカではない。比丘尼なり。何年前になるのか、定かではない、私がエリカだった頃の記憶。私に手紙を書いて送ってくれた、あの人の記憶。思い出そうとしても思い出せない、遠い昔の話。
                                  〈Fin〉 



 コーダ 一つ目小僧が盗み見た、筆記の続き

美しさ、清潔について。
汚れたものもまた清潔である。
全ては美しい。
赦しの文学。
赦すこと 寛大であること。

 私は今日世田谷区に引っ越してきた。世田谷区。素晴らしい。美しい。なぜ、こうも個人的な対話になるのであろうか?、小説というものは個人を見つめるものだろうか。小説中で私は自分個人を見つめるのだが、それに加えて、私の作品を人が見ることまで徹底的に意識した文章を書くようにせねばなるまい。
 このせねばなるまい、せねばなるまいの繰り返しで、私の人生はおかしくなってきたのだ。楽しみながら書くべし。
 楽しみ、面白み。
 違う、楽しみながら書くのではない。優雅に書くべきである。ここでまた私は「べき」を使用したのであるが、今回は「べき」の使用に何の抵抗感もなかった。私の思考回路が既に「優雅」になっていたからであろう。そうだ、優雅な人は、べきをも優雅に遣ってしまう。優雅でない人が「 するべきだ」と決心するとき、その人は必ず「べき」に囚われてしまうであろう。すべきだ、するべし、すべきである、となる。だが、優雅な人は「べき」を必然として優雅に受け入れるのだ。エレガントに、スマートに。成城のように。祖師谷は、アットホーム、オープン、フレンドリー、ウォーム、気さく、下町、商店街。成城は、エレガント、スマート、ビッグハウス、ビッグガーデン、ビッグストリート、ビッグスクール、高級住宅街。
 何もかもがビッグな成城。そう、ある程度の大きさはエレガンスの必需品である。エレガンスな男は、体が大きいからこそエレガンスを発揮するのであるが、スマート、すなわち細身を維持する必要が絶対にある。ああ、ようやくわかった。私の中にある「べき」、「せねばならない」の感情、思考法は、エレガンスの必需品なのだ。それらのマナーを守り通すことで、エレガンスは維持される。だから、私は、べき思考法をやめない。

「おしん」不幸な少女、かわいいのに不幸。美しいものが苦難にあう話がよい。

リアル?ロマンティック、過去のリアル=現代にとってはロマン

プルースト すごすぎるから 何が書いてあるのかわからなくてよい 全くの自由で書いているから

全くの自由????

ピカソ 成功したからこそ 何でもできる自由

◎プルーストの教え。「芸術家は、自分が深く感動した芸術について書くべきだ」自分が感動した作品の素晴らしさを乗り越える作品を作ること。

自分の人生で感動したものを思い出そう

小説
プルーストの社交界、芸術の描写 失われた時を求めて
トルストイの恋愛描写 アンナ・カレーニナ
ジョイスの決意 執拗さ
ナボコフの眼
モリスンの描く哀しみ

シェイクスピアの時代を越える強さ

宗教
キリストの感動
クリシュナムルティの気づき
グルジェフの強気

音楽
ポップス該当なし

ジャズ
キースジャレットの面白さ
クラシック
チェリビダッケの細やかさ
ミケランジェリの完璧に統制された音

モーツァルトの優しさ
ブラームスの哀愁

絵画
フェルメールの神秘的静寂
レンブラントの存在の奥底まで見通す観察力

彼女の元気、笑顔
みんな一人一人、やっぱり俺を感動させるものがある
それを全部もらってしまおう


これから話す物語に十分注意して欲しい。私が書いているのではないのだから。何かが訴えているのだから。だから、注意して。

平気で見て 自分の生の目でものを見て

平気 平気 楽しい? うん、楽しいよ 僕は今とても楽しい

あなたも? うん、 あなたも楽しい
ほっほっほっ

ボックボック

アジアばるばるばる ばるえさばるえあさ
アックスアックス ボッテリア アウルスコウルス

何じゃこれ?


毎日決まった時間に起きると調子がよい。
優雅な生活。哲学でなく、禅に基づいて書く。必然的に断片となる。
プルースト。細やか。「細やか」と「細かい」では、ニュアンスが違う。細かく細かくいくなら、一切省略せずに進むのがよい。自分の感情を十全に感じ取ること。

「しなければならない」をやはりやめよう。

した方がよい、よいだろうに言明を変えてみよう。そうすれば、優雅な生活が始まるのだ。

優雅な生活
全てにおいて細やかな小説

文体練習

「私の顔を見て」静が私の耳元でそう囁いた、静の吐息が私の耳元に触れた、彼女の呼吸の温かさを私は感じた、私は彼女の顔をまっすぐに見つめてみた、静の顔は笑顔となっていた。

絶えず右脳を働かせながら、もう一度同じ場面を描いてみよう。

静がにっこりと微笑んでいる。モナリザのような微笑み。口の両端が上がっており、ほっぺたが膨らんでいる。瞳は優しく見開かれ、らんらんと輝いている。

これをプルースト風に書いてみる。

静という女性が私の方を見つめながら、にっこりとモナリザのように微笑んだ。彼女の唇は中央部の下端から、左右に向かって、優雅なカーブを描いて上昇しており、その唇のかたちは、さながら古代の芸術作品に描かれた三日月のようであった。彼女の瞳は大きく見開かれていたのだが、それは決して、ぎょろ目であるとか、出目であるとか、ピカソの目のような、強烈な眼光を宿しながら開かれている目というわけではなく、ダヴィンチの絵画に描かれている登場人物の目のように、ある種の気品と優しさを携えながら開かれている、うるわしい目つきなのであった。

これをトルストイ風に書いてみる。

静は有侶の方を優しげな眼差しで見つめていた。静の口元は笑顔で丸くなっており、気品に溢れた優しさが、彼女の顔全体から漂っていた。

これをジョイス風に書いてみる。

「私の顔を観て」。静がそう囁いた。にっこりと。モナリザみたい。三日月みたい。彼女の吐息が僕の肌に触れる。とっても暖かいや。僕は彼女の顔をじっと見つめる。わあ恥ずかしい。顔。顔。顔。

これをナボコフ風に書いてみる。

「私の顔を見て」静がゆっくりと唇を動かし、私の方に向かって、そう言葉を紡ぎ出した。私の耳に彼女の囁き声が伝わる頃には、彼女はすでに唇を閉じて、微笑みを作り始めていたのだった。

これをモリスン風に書いてみる。

「有侶、私の顔を見て」静が囁く。聞こえるか聞こえないかの声。温かい声。しかし、哀しみも混ざった声。有侶は静を見つめる。二人の目が触れ合う。

ヘミングウェイの文体。

「私の顔を見てよ」静がそう言った。有侶は彼女の顔を見つめた。

ナボコフかつジョイスかつプルースト風で三回書いてみる。

? ジョイス

 僕の小年時代。輝き?マジ?どうだろう?からからと輝いてる。さっきからずっとね。寂しい?どうして?これはきっと小年時代のお話さ。
 
? ナボコフ

 幼い頃の思い出とは一体何であろうか。どんな魔法を使えば、私はその思い出に回帰することができるのだろうか。何もわからないままに、煩悶する気持ちを抑えながら、私は目を閉じてみた。瞼の裏に、私が子どもの頃に住んでいた、懐かしい部屋の映像が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

? プルースト

 小さい頃の記憶を呼び覚まそうとすると、いつも私は苦しみを感じるのだった。その苦しみは、私自身から由来するものではなく、より大きな何か、私の家族であるとか、祖先であるとか、私より遥かに長大な、時間と空間の蓄積から醸し出されてくるものであると私には感じられた。

? これら三人の先人を乗り越えられたら素晴らしいだろう、野尻拳詩の文体

 さらさらと流れる小年時代。音楽。光。謎。夢だろうこれは。どこから始まった?たった今だよ。

 これが僕の力だ。何ともろいのだろう。


ポストナボコフ調

 五、六歳であろう子どもたちの歌声が、まだ冷たい初春の風と共に、閉め忘れていた天窓から、私の部屋に入ってきた。

だめだ、やはりポストプルースト調で行こう。みなジョイスの文体の影響を受けているのだから、私がプルーストの文体をさらに発展させてもよいだろう。

 遠くから聞こえる歌声、子どもたちの歌声、まだ五、六歳の、男女の分別もまだついていないような子どもたちの歌声が、目覚めたばかりの私の耳に届いた。彼らのはつらつとした歌声は、私自身の少年時代を、私の思考の海の中からゆっくりと引き揚げる綱の役割を果たしたのだった。彼らの音程もよく定まらない、合唱の音の響きに合わせて、委ねて、私の幼少時の記憶は、私の意識の水面に上り、また、下っていった。
 
これでは、全くプルーストではない。私ではなく、プルーストそのものが書いたようにして書く。

 朝がまだ覚めやらぬ頃、私の浅い眠りを妨げるものがあった、子どもたちの歌声である。彼らの歌声はゆっくりと、寄せては返す波のように、私の寝室に届いたのだった。それらの歌声は、何を望んでいるのか、自分自身しっかりと掴めもしない、私の思考を掻き乱した。私の思考を一時的に強く掻き乱しはしたものの、子どもたちの合唱はすぐに終わりを迎えた。何故すぐに彼らの歌が終わったのか、私にはわかるはずもなかったが、歌の途中で唐突に終わってしまった、その性急な中断は、私には、私の人生の唐突な終わりを暗示させるもののように感じられたのだった。

まだだめだ。ナボコフその人が書く。

 寝室の窓から太陽の光がおそるおそる侵入してきた。朝だ。柔らかな光の束。それらの束が私の顔を優しく撫でながら、私の眠っていたセミダブルのベッド一体を明るい染料で染め上げた。今日の目覚めは、普段の目覚めの何万倍も私の心を至福で充たした。光に撫でられたおかげで、私の体内時計の針についていた錆も、きれいに払拭されたようである。

丁寧に書かれた作品は素人でも模写できる。

ジョイスの模写は難しい。しかし、ジョイスの文体からは、無限に派生できる。

プルーストの模写は簡単だ。しかし、それは確実にプルーストの文章そのものになってしまい、私が私でなくなってしまう。
 すなわち、ジョイスの文章には完全にジョイスの「我」が消えているのだ。ジョイスの文章を翻訳しようとしても、翻訳できない、翻訳者その人の文章になってしまう。無限にその人そのものの個性に変わる、ジョイスの自我が消えた文体。
 ジョイスは完全に、徹底的に考えぬいて書いていたのだ。
 私も、ジョイスのように完全に統制しながら書くべし。すると、影響力のある作家になれる。私の影響を受けた人は、その人自身の個性を、私の模写をしながらも発揮できるようになる。なぜなら、私の文体に私はいないから。私の文体と言えども、私の体は私そのものの中に入ったままだから。私は疲れない。私は、作品に私の力を奪われずに住む。


「ロマンポップス」
枚数:四百字詰原稿用紙換算で約百二十一枚
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