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小説『ポストモダンコロニージャパン』

最終更新日:2008年1月20日

 私はある意味気づいていたのだ、自分は文学にむいていないということに。
 私は哲学者に向いていると思う。私は昔からいろいろと思索することが好きだった。
 ここで、私は気づく、哲学的に思索することもまた文学に含まれているということを。
 文学とは、人間の思考内容、精神の働き全てを指すのだ。
 言葉として、文章として書かれ、読まれるものの全ては文学だ。それらのテクストの中で最上のものが文学と呼ばれるわけではない、それらのテクストの全て、いわば世界の全ては、文学という現象なのだ。
 では、一般的に考えられている文学というテクスト群と、その他のテクストを分ける境界はどこに引かれているのだろうか。
 そのような境界線の選定は極めて曖昧でいい加減なものであり、諸個人の恣意によるものにすぎない。それでも私は今まで文学として選定されてきたテクスト群を好んで読む、例えば、プルーストの膨大な文章であるとか、モリスンであるとか。私は文学として選定されてきたテクストを読むことが好きなのだ。ただ、「文学」を読むことが好きだから、私の書く文章もまた、好きな「文学」に近いテクストになるだけだ。
 私は文学を書くことで何をなそうというのか。そのことについて思索を巡らす前に、日本語の「文学」という言葉が、私の考える文学には適していないことがまず感じれらた。「文学」という表記では、何かそのテクストが学問であるかのように感じられてしまう。文学は学問ではない。だが、学問であるともいえる。要するに、学問であって学問ではない宙づり状態のテクストが私の考える文学である。文学は学問に対する曖昧な関係と同じような、中途半端な関係をいろいろな他の分野とも結んでいる。エンターテイメントでもあるし、ミステリーでもあるし、小説でもあるし、詩でもあるし、演劇でもあるし、ゴシップでもあるし、法律でもあるし、説教でもある。が、同時にそれらではないもの、それが私の考える文学の定義である。
 こんな曖昧な定義では、定義とは呼べないかもしれないが、文学とはそのような、社会の正確さとは無縁の代物なのである。が、同時に文学は、正確極まりない文章であるともいえる、何しろ、世界は人間が通常考えるように正確ではないのだから。その不確かな世界の曖昧な有り様を、正確になぞろうとする行為が文学なのである。
 このようにひどく両義的で、思考の論理的な道筋を裏切っていく文章の運びこそ、文学的な文章の運びといえる。これこそ文学を読み、書く醍醐味なのだ。
 さて、話をもとに戻そう。私は文学を書くことで何をなそうというのか。答えは意図せずにして、既に出てしまった。つまり、今まで示してきたような思考の魔術的な運び方を書き記すことこそ、私の曖昧な使命なのだ。魔術的という形容詞は必要ないかもしれない。何しろ、実際の世界における物事の運びは、全て文学のようにあやふやで、行ったり来たりなのだから。人間は混沌とした世界を、住みやすいように、理解しやすいように、必死になって整理してきた。文学は社会に対するカンフル剤として、わかりやすく整理された社会を再び、もとの混沌とした有り様に返して映し出すのだ。文学を読む者は、世界の混沌とした有り様に還ってゆく。
 文学はわかりやすく整理された世界を迷路の状態に変換するのだ。いや、世界はそんなにわかりやすく見えていない、ごった返している、多くの凡人は混乱しているという反論も上がろう。まさしくそうだ、その通りなのだ。だから多くの人は、テクストを紡ぐことによって、問題を解決しようとする、問題を提起しようとする、より整序され、安定した世界の構築を求めようとする。文学はそれら一般のテクストの動きに反して、混乱した世界の問題を解決しようとはしないのだ。読む者を更なる混乱に導くテクストこそ文学なのだ。それは問題提起なのだろうか、提起された問題の解決を読者に迫る種類のテクストなのだろうか。解決できないほどに問題を次から次へと読者に与えるテクスト、いかようにも解決できるし、どのようにも解決できないような奇問を読者に投げかけるテクスト、それが文学である。そんな問題など解かなくていいのだ、何気なく暮らしていきたいのなら。人生には、世界には解決しなければならないと一般に思われている問題が山積みである。それなのに、文学は全く無意味と思えるような問題を読者に投げかけるのだ。なくてもいい、相手にする必要もない問題をわざわざほじくり出して、世界に投げ帰すのが文学の役割とも呼べないような役割なのである。


フェンネル


 私は彼の原稿を受け取った。どこかで聞いたことがあるような内容、いわゆる知識人、文学者、思想家と呼ばれるような人がいかにも書きそうな内容で、独創性が万全と発揮されているとは言い難い原稿だと思ったが、真に独創的な思考というものは今まで一度もなかったこと、全ての独創的な改革は、何らかの前任者の思考を受け継いでいるということに思い至って、この原稿もまた、一般の水準と比べれば独創的なのだろうと私は結論づけた。
 彼は、私が原稿を読む間、怯えているような、落ち着かない表情を示したかと思うと、自分の文章が私にどう思われようが関係ないとでもいうかのように、無表情な顔をして、窓の彼方を見渡したりした。過度のそれらの振る舞いは、明らかに彼の神経質さ、自信のなさを示していた。
 彼は最初の読者である私の反応が気になってしょうがないのだ。私は感嘆したとか、つまらなく感じたとか、一切表情に出さずに、丹念に彼の原稿を読んでいた。彼は私の集中に怯えてでもいるかのようだった。こんな大胆な文章を書くくらいなら、彼の文章に対する私の個人的な反応など、彼にはどうでもいいことだろうに。彼は書く文章の大胆さに比べて、実際はひどく神経質で、他人の顔色ばかり伺う、怯えきった、小さい心の人間なのだ。
 私は彼の勇ましい文章を読みながら、彼が哀れに思えてきた。彼の文章には、神経質な実際の彼と同じように、細かいところまで執拗に追い回す執着が見出された。だが、彼の文章の中に時々、日常の彼には見られない獰猛さや自信が顔を出すこともあった。日常ありきたりの生活には我慢できないとでもいうかのように、大言を吐き、世界について思索する彼が、文章の中に溢れ出すことがよくあるのだ。
 私は彼の、文章の中でだけ暴れ出す獰猛さを好んでいた。普段の生活から、文章を書く時と同じようにして、獰猛に暮らせばいいのにと、私は絶えず思っていた。それでも彼は、まるで自分の心の奥底にある、活力に満ちた部分の存在をひどく恐れてでもいるかのように、日常においては、慎ましやかに、大人しく暮らし続けていた。普段から、本来彼が持っている力が解放されたなら、彼は文学を書こうとは思わなかったのかもしれない。ひどく怯え、愛を乞う目つきをしているからこそ、彼は文学を書くのだろうと私は考えた。
 私は彼の原稿を机の上に置き、煙草を吸い始めた。健康おたくとでも呼べそうなほど、フェティスティックに健康を愛し、人体に有害なものを毛嫌いしている彼は、当然のように、酒も煙草も嗜んではいなかった。彼は文章においては、激しく煙草の害を説くのに、目の前で煙草を吸う私に対しては、何の文句も言わず、私が口から吐き出す煙草の煙を芸術作品でも眺めるようにして、幸福そうに見つめているだけであった。私は、彼が煙草を毛嫌いしているのを知っているし、少なくとも彼の前では私に煙草を吸ってほしくないと思っているらしいことにも勘づいているのに、悠然と煙草を吸い続けた。彼は、内心ではいらついているのだろうが、そんな素振りを一切見せずに、また、彼の原稿に対する私の感想を求めるような素振りさえ見せずに、天井にゆらゆら上がっていく煙の動きを丁寧に眼で追っていた。
「いかにもポストモダンという感じがするな。今の時代にしたら古くさいし、ありきたりな感じがする」
 私は、彼がこんなことを言ったら、すぐに傷ついてしまうようなナイーブな人間であることは分かっていたのに、冷酷にも、彼に向かって率直な意見を言い放ってしまった。
 彼は、まっすぐに私の眼を見据えながら、私の言葉を咀嚼しているようだった。戸惑う素振りを見せたくないというプライドが、彼に冷静さを装わさせたのかもしれなかった。とにかく彼は、プライドが高いから、自分がナイーブであるということを人に悟られないように、極めて無表情な、堅い顔つきをして、このようにして人に接するのだった。
「俺もそう思っていたんだ」
 彼は力なくぼそりと、息の混ざった声でそう言うと、首を右にうなだれ、机に視線を合わせた。私はコーヒーを一口飲んで、彼のいささか母性愛でもそそりそうな弱々しい様子を眺めていた。全く自信というものが彼には感じられないのだ。私は彼を哀れに思い、気休めの言葉をかけてやる気になった。
「でもいいじゃん、今時こんなことを書く人なんてごく少数だよ」
「ああ。せめて、ポストコロニアル調に書けたらいいんだけどね」
 彼はまだ自分が何を書くのか、何を書きたいのか、まるでわかっていなかったのだ。彼は自分の欲望、夢、やりたいことを把握できていなかった。その主体性のなさは、ポストモダンな主体の有り様のようであったし、同時に、時流にのった最先端の文章を書きたいと願うだけの、ただの凡人のようでもあった。
「そんなふうな甘い考えの持ち主から、ポストコロニアル文学は出てきたわけじゃないと思うよ。自分に切実な文章を書きなよ。それがあなたの小説になると思うよ」
「うん」
 彼の返事はまるで気が抜けていて、私の助言など、はなから聞いていない様子がありありと出ていた。彼は人づきあいが下手で、自分の主張を人前で押し通すことも、他人の主張と自分の主張を激しく戦わせることもできなかった。他人が意見を言えば、彼はすぐにその意見に従う素振りを見せた。しかし、彼はまるで人の意見など聞く気がないのだ。彼は私のことを内心ではいつも嘲っていたのだ、私の意見と自分の意見を戦わせようという闘争意欲さえわき起こせないほど、彼にとって私の存在は、卑小でどうでもいいものだったのだ。どうでもいいからこそ、彼はすぐに私の意見に従う素振りを見せるのだが、私がいなくなったらもう、私の不在とともに、彼の中から私の意見など消えうせてしまうのだった。 
「俺は、ポストコロニアルの作家たちみたいに熱烈に抗議できないもの。戦う対象がないんだ。日本になんか住んでいたら、戦う対象が見つからないんだ」
 彼は机に視線を合わせたまま、ため息のような声を漏らした。私の意見など聞いていないのだろうという私の予想、彼に対する侮蔑はいささか外れていた。意外にも、彼の心に私の言葉は響いたようである。ただし、彼は私が思った通り、戦う気力がないのだった。戦おうと思い立つほど周囲の存在に対して彼は憎しみも抱けないし、戦ってまで守りたいと思わせるような愛しい存在が、彼にはないのではないかと私は推理した。
 つまり、私の存在など、彼にとってはどうでもいいという私の予想は、この一場面の台詞に限っては外れたのだと私は認めるが、彼の心の深奥においては、やはり、彼は私を含めた周囲の存在を認めていないのだと私は思いたかった。私の彼に対する理論を、私はまだ誤謬だと認めたくなかったのだ。
 それはもしかしたら、もっと彼に認めてほしいという私の欲望から生じたひどく主観的な理論なのかもしれなかった。私が彼のことを想っているよりも、彼は私のことを想っていないのだ。常に彼は、何か別のことを考えながら、私や周囲の人間たちと接しているようで、まるで自分の周囲にいる人間と、自分は異なっていると彼はいつも暗に主張しているかのようだった。とりわけ、彼は私たちといる時、絶えず自分の小説のことばかりを考えているようだった。小説の構成、内容のことを彼は絶えず気にかけており、周りに存在する人間は、彼にとって小説の材料にすぎないかのようであった。
 私は彼のそんな態度が憎らしくてしょうがなかった。だが、その彼の態度に対する憎悪の度合いは、彼に対する好感の度合いと、奇妙にも等しかった。彼の友達は皆、私と同じように、彼のその、他の人とは異なる、何か常に考えごとをしながら生きている性質に苛立ちを覚えつつも、愛着を起こしていたのだった。
 とにかく私は、彼が周囲の存在に対して関心を持てないこと、自分の小説を書くことにしか興味がないということこそ彼の短所であり、かつ長所であるという私の推理を確証したくて、この会話の中でできれば彼に、私の推理を認知してもらおうと思い立ったのだった。
「あなたは小説のことばかり考えているでしょ。自分で小説を書くか、他人の小説を読むかばかりで、日本の現実にまるで関わってないよ」
「全ての偉大な小説は、作者が接した現実からできたとでもいうわけ?」
「もっと周囲に関心を持ったら、戦ったり、抗議する対象が見つかるんじゃない?」
 そう、私は、心の奥では、私にまつわることで、彼に戦ってほしかった。私に関する小説を彼に書いてほしかった。
「そうだ!俺は自分の小説について悩んでいるじゃないか。書けない書けないと悩み、抗議し、戦っている。なんだ、俺は立派に戦ってるじゃないか」
 彼はそう言って声高にはしゃいだ。私の期待に反して、彼はまた自分の内なる小説の世界に閉じこもってしまったのだ。
「自分の書きものについて戦ったら、メタフィクションじゃない。また高等で、現実から遊離しているポストモダン小説の完成だよ。ポストコロニアルの小説には主題で負けるね」
 私は卑屈にも、時代の流行となっていたポストコロニアル文学の方をメタフィクションより上におくことで、彼を小説だけの世界から抜け出させてやろうと試みたのだ。私は彼に、私たちの住んでいる現実世界に舞い戻って来てほしかったのだ。しかし、一抹の不安はあった。もし彼が現実に生き始めたなら、他の友人とは異なっていた、彼独特の魅力は消え去ってしまい、彼もまた平凡な、ただの私の友人の一人になり下がってしまうのではないかと私は危惧した。
「フェンネル、時間だよ」
 ああ、そうだ、いつもの時間だ。私はわずかの時間しか彼と面会できない。彼は人と接する時間を制限する。彼には小説を書くための時間が必要なのだ。私は、ポストコロニアルの小説を書くことで、彼に人と接する現実の世界に戻って来てほしかったのに。
 ポストモダンの小説作法では、「書くこと」と「フィクション」自体に作者は囚われてしまい、言語の遊戯を紙の上で繰り広げるだけになってしまう。小説家は広大な現実を見るのをやめてしまうのだ。想像以上に存在していた「小説」という世界の豊かさにポストモダンの小説家は気づいてしまったのかもしれない。小説、紙の上の現実は、現実の世界よりもはるかに自由なのだ。作者は紙の上で無限に遊び続け、仕事にうちこむことができる。紙の上での戯れは、小説家を現実の世界から遠ざけてしまった。
 しかし、ポストコロニアル文学は、作者を再び世界規模で進行する現実の問題に引き戻した。かといって、ポストコロニアル小説の描き出す世界は完全にリアリズムの小説世界ではなく、夢と現実がないまぜになったような摩訶不思議な現実世界だが、少なくとも現在の彼が取り組んでいるような、ごく自分の周囲にしか関心がないような近視眼的で微小な世界ではなく、膨大な歴史と地理を内包した、広大な思想世界であることは確かだ。
「とりあえず、このまま小説を書き続けていても光は見えて来ないと思うな。もっと今の日本の現状を見てみなよ」
「いいよ別に。俺は闇を描くのが自分の仕事だと思っているから」
「現実には闇と光の二つがあるの。じゃあね」
 私は結局頑固で、自分の意見を表明したがらず、他人の意見に深く同調する気もない彼を説得できなかった。しかし、口ではああは言っていても、次に会った時、彼の世界は変化していることだろう。私はそう願いながら、彼のまるで小説のような、生活臭のない部屋を後にした。





 彼


 何度私はポストコロニアル作家のように小説を書こうと思い立ったことだろう。皆が今まで読み親しんできた形式で小説を書くことなど許されるはずもなかった。私は偉大な作家たちが作り上げた豊穣な小説世界を否定するわけではない。ただ、昔のような小説を楽しみたいのなら、昔書かれた小説を紐解けばよいだけの話だ。現代に生きているのなら、昔のような小説を書く必要はない。昔の作家は、当時の最先端の技法を編み出しつつ、過去の偉大なる作品からも技法を継承し、作品を作っていた。現代の小説家も、時代の現実に鋭く対応するような、最先端の技法を絶えず編み出して、小説に生命感を与え続ける必要がある。しかし、頭でそうは考えていても、私の作る小説は、絶えずポストモダンの枠内に留まり、ポストコロニアルの流れを内包することはなかった。
 いや、ポストモダンであろうが、モダニズムであろうが、全ての優れた小説には、ポストコロニアル的な視点があることは確かだ。私がポストモダンの形式でしか小説を書けないということさえ、ポストコロニアルの視点で判断すれば、ヨーロッパ発のポストモダン思想に支配されている一小説家が日本にいると言うことができる。そうだ、ポストコロニアルとはある種の視点のことを指すのだ。日頃生活している上では、気づきにくい、社会の中にすくっている文化的な偏り、差別意識、社会制度をポストコロニアルという文学の新しい視点は鋭く観察して、えぐり出す。
 ポストコロニアルという言葉はどうしても、マルクス主義的な、社会主義的リアリズムの小説を思い起こさせてしまう。モダニズムは小説を、政治とは無縁な芸術として定義した。ポストモダンも芸術の至高性を否定しはしたが、いささかモダニズムの非政治性を受け継いだ感はある。しかし、ポストコロニアルは、小説の美には無縁のものとして、忘れられ、隅に追いやられていた政治性を、小説世界の前面に持ち込んできたのだ。
 モダニズムやポストモダニズムの時代においては、ゾラやモーパッサン、バルザックといったリアリズムの作家は軽視され、ボードレール、ランボー、マラルメといった象徴主義の詩人がもてはやされた。ポストコロニアルが、芸術を否定し、政治の世界を復活させたからといって、ゾラたちの価値が再び見出されるわけではない。むしろ、バルザックもボードレールもひっくるめて、過去の偉大な作品の全てが批判の対象となるのだ。というか、私が日本に住んでいながら、フランスの作家しか例に挙げていないという時点で、ポストコロニアルの視点からすれば極めて問題なのである。
 政治的なメッセージを含む小説の潮流は一時のもので、すぐに忘れ去られるのではないかという危惧はある。トルストイが小説の中で、当時のロシアの政治体制を語った部分は、時として極めて退屈である。トルストイの繊細極まる恋愛の描写は、何年経とうが決して色あせることはない。だが、ここで私はふと気づく、ポストコロニアル文学は政治的メッセージ、文章ではないのだ、それはあくまで文学なのだ。つまり、ポストコロニアルの小説家は、真正面から政治を取り扱うのではなく、文化の中で、様々に現れる差別や抑圧の構造をひっそりと描くだけで、その繊細に現実をあぶり出す有り様は、極めて文学的なのである。
 ここまで、曖昧でとびとびの、ポストモダン的な思考を進めてきて、私はふと大きなことに気づく。日常の中で、誰も気づいていないが、無意識に受け入れてしまっている思考習慣の堆積、文化の畜産物を、そのまま見過ごさないで、いちいち注意深く観察して、その世界規模の成り行き、政治過程を克明に描き出せば、それはポストコロニアル文学になるのではないか。
 私は、極めて普通の日本人の男として生まれてきたと思い込んできた。その思い込みさえ、疑問にふされなければならぬが、何もマイノリティーの境遇の生まれでなくとも、抵抗したい相手がいなくとも、日常にある瑣細な文化的連なりを描くだけで、それは十分に意義のあるポストコロニアル文学になるのだ。
 マイノリティーとは何だろうか、私は自分のことをマジョリティー側にいると思い込んでいるようだ、誰が決めたわけでもないのに勝手にである。自分が日本社会の中で、マイノリティーではないと日々実感しながら生きてきたからこそ、私は自分のことを世界の中のマジョリティーだと思いこんでしまったのだろう。そのマジョリティーの実感はまた、私が日本という近代社会に、資本主義・自由主義経済体制の社会に暮らしているという「事実」から生じている。
 ここでまた、思考の偉大なる跳躍が起こる。十九世紀の小説は、それまであったキリスト教社会の秩序と、新しく起ころうとしていたブルジョワ社会の秩序の対立を描いた。この近代化によって生じる新旧秩序の対立、価値観の問題を検討する作業は、特にロシアの、ドストエフスキーやトルストイの小説群において顕著に見られた。二十世紀南アメリカの小説群でも、十九世紀ロシアの小説と同じように、旧世界の秩序と新世界の秩序の対立が描かれている。二十一世紀の小説は、自由主義経済社会と、これから生じるだろう新しい社会体制の秩序・価値観の対立、衝突を描くのではないだろうか。
 現在の社会制度では、地球環境が破壊され続けている。地球全体の人間が幸せに生きていくことなど到底望めない。日本やアメリカが到達している社会システムを世界規模に拡大させてしまっては、社会は破綻する。破綻するという以前に、そんなことはそもそも不可能なのだ。近代化の程度が低い国家からの人材・物資の供給がなければ、マジョリティー国家における過剰に無駄なエネルギーの浪費は成り立たない。持てる国と持たざる国は、二つが組み合わさって初めて、お互いの社会を運営させているのだ。
 ポストコロニアル文学は、現在の社会秩序に対して疑問を鋭く投げつける。現在の社会の仕組みに変わる、地球という惑星にとっても、地球全体の生命にとっても、永続しやすい社会環境の実現を、究極的にはポストコロニアル文学は要求することになる。いや、我々の歴史とは、常にそのような要求に突き動かされることで、社会を改革してきたのではなかったか。


 フェンネル


 今までの彼とは異なる、新しい感じの彼がまくしたてた文章を読み終わり、私は彼の小説に対する姿勢が大きく変化したことに小さな驚きを感じた。まさか、私のたったあれだけの助言で、ここまでポストコロニアルの方に態度が傾斜するとは思ってもみなかった。彼は喜々として話し始めた。
「何も登場人物に特殊な生まれの人を持ってこなくてもいいんだ。ヒロインが国際的で、異文化体験の豊富な人間でなくてもいいんだ。ありきたりの日本人全員が極度にトランスナショナルな文化体験を持っているんだからね。どこにでもいる日本人が、高度にポストコロニアルな主体であることを暴き出せばいいわけだよ」
 彼はある種の発想の転換とでも呼べそうな、その発見を心底嬉しく思っているようだった。私も彼のいつにない喜びようにけおされて、相づちをうつように微笑んだ。 
「みんな文学好きは、マイノリティー作家の書いた小説を読み、評価している。これも所詮はマジョリティーのマイノリティーに対する搾取の変形じゃないか。考えてみればすぐにわかることだよ。マジョリティーの恩恵に属している者には、先鋭的なポストコロニアル文学は書けないとでも言うかのようだ。でも、ポストコロニアル文学は誰にだって書けるんだ。見つめればいいんだ、ただ現実を」
 こんなに饒舌になった彼は久々だった。今までの彼はヌーヴォーロマンにおける登場人物のように、ぽつぽつと、感情のない様子でしか喋っていなかったのに、今や彼はドストエフスキーの登場人物のような勢いを得つつあり、このまましばらくすれば、三ページにも渡り、一人で延々と語りかねないような有り様だった。
 いわば彼は、今まで手にしたかったもの、手にしたかったが自分の力では無理だと勝手に思い込み、手に入れずにいたものを、発想の転換によって、手中におさめたのだ。その喜びようは当然といえば当然だった。
 紙の上だけの世界から、現実の社会へと彼の思考が近づいたのに、それを私は願っていたのに、私は彼ほど喜べなかった、というか、全くといっていいほど嬉しいという感情がわいてこなかった。彼が喜びすぎていたため、ひいてしまったのだろうか、それとも、私が期待していたのは、こういう彼ではなかったからだろうか。
 いや、そうだ、突き詰めて言えば、私は彼に、彼の小説以上に、私自身に注意を向けてほしかったのだ。彼は私の働きかけによって、現実へと回帰したのにも関わらず、依然彼の最大の関心は小説の創作にあり、依然私は彼の小説作りのために利用されるだけの、ただの素材にすぎないようであった。彼の小説に対する態度、熱意は、ポストモダンがポストコロニアルに変わろうが、変化しなかったのだ、むしろ増大してしまったのだ。
 私は私の考えている方向に彼の創作を引き込もうとした。
「でもあれだね、モダニズムであろうが、ポストコロニアリズムであろうが、小説の名作は永遠に姦通小説だよね。全ての優れた小説は姦通小説でしかありえないと思わない?」
「姦通小説か。思えば『アンナ・カレーニナ』も『ボヴァリー夫人』も、いやいや、そんなわかりやすい例をあげてどうする、『ロリータ』も『ユリシーズ』も『重力の虹』も、文学史上重要で、魅惑的な小説は全部姦通小説じゃないか。社会的に認められている恋愛関係から逸脱した恋愛関係を描くからこそ、小説は小説になるんだ。社会評論と近代小説の違いは、姦通しているかどうかなだけだ」
 彼は明かに、いつになく断言を繰り返していた。思いきった警句、断言を、彼は文章の中で絶えず駆使していたが、会話の中で、彼がこんなに断言を言い放ったのは初めてだった。明らかに彼は、ポストコロニアリズムという流行に乗れた自分に興奮し、調子づいていた。しかし、そうしたおどけた彼の進んでいる思考の方向は、私の望む方向であった。そうだ、彼は今までポストコロニアル文学を書けなかったばかりか、姦通小説さえ書けなかったのだ。彼は、極めて社会規範に縛られた真面目な人間だったのだ。不真面目さへの逸脱、聚落は、真面目で純粋な彼に、快楽の混沌を授けてくれるはずだ。私はそのうねりの中に自分を放り投げてしまいたかった。
「ポストコロニアル一点張りでは、極めて真面目で退屈な小説になってしまうね。姦通の主題の中に、ポストコロニアル的な視点を紛らわせればいいのか。でもそこでは、異国の女も、第三世界の描写も必要ないだろう。ただ、日本のありきたりの姦通、ゴシップを描けば、それはポストコロニアルな姦通文学になるだろうさ。ジャパンはトランスナショナルな社会だからな」
 彼は興奮していた。時々にしか望めない一種の熱狂状態、こんな熱は一晩で醒めてしまうものだ、翌朝になれば、何故あんなことで熱狂していたのだろうと不思議がるような熱狂状態に彼は陥っていた。それでも、私はついに自分の思う方に彼をひきずりこむことに成功したのだ。後は、私の登場する姦通小説を彼に書かせればいいだけだ。それで私の願いは半ば達せられる。現実での関わりが望めないようだから、せめて小説の中だけでも、許されない愛の交わりを経験してみたかったのだ。登場人物の男が彼そのものでなくてよい、その男は彼の分身であるだろうから。女が私自身でなくてもよい、彼が小説で描く女は、必ず私の一要素を含んでいることだろうから。本人同士ではなく、自分の分身たる第三者同士が、愛の交わりを結ぶのだ。その方が甘美ではないだろうか、より心と身がもじれるのではないだろうか。現実では一瞬で終わる愛の高まりが、小説においては、永遠に残ることになる。多くの興味本位の人に私たちの愛の営みは読まれ、遊びの道具にされ、誤解と非難の渦に巻き込まれることだろう。こんな歓びは、変態的な、特殊な歓びだろう。しょうがないのだ、私は肉を食べない存在なのだから。


 彼


 姦通小説。『ボヴァリー夫人』を典型とする近代小説の雛形。禁じられた恋、社会から非難される恋。現代でも姦通小説は成り立つのだろうか。プルーストから、もはや姦通小説にかわって、同性愛が小説の主流になったのではないだろうか。社会規範から逸脱している恋愛を姦通小説だと広く定義するなら、同性愛は、ある種の先鋭化された姦通小説ではないだろうか。
 「障害者」の恋愛もまた、許されないのではないか。現代において、恋をし、人を愛することが最も許されないのは誰か。「正常に発育した」大人以外の全ての存在たち。彼らが決してマイノリティーでも何でもないことを描けば、それは小説となる。
 『ロミオとジュリエット』のような階級を超えた恋愛もまた、ある種の許されない恋の範疇にある。異なっていると考えられているグループの二人が恋に落ちること、これもまた姦通小説となる。人間が動物を愛すること、決して道義的にすばらしいような意味ではなく、本当に情熱的に、動物や植物を愛する人間、こんな恋愛を描いてもまた、ある種奇怪な姦通小説ができる。
 妻がいるのに、妻よりもペットの動物を愛する男。これが男だと、どうも読む気が失せるが、美しい女が、醜い夫に見向きもせずに、たくましいペットの犬と愛を交わす小説、ああ、なんと変態的で魅惑的な姦通小説だろう。『里見八犬伝』を裏返したかのような、畜生との禁断の結合。そうだ、動物や植物、あるいは幽霊と美しい女が、激しい情欲を伴う真実の愛に身を委ねること、これこそポストコロニアルな姦通小説にふさわしい主題ではないだろうか。
 だがはたして、ペットの動物や植木とセックスする日本人の人妻を克明に描写することで、それはポストコロニアル文学として成立するのだろうか。人は、その一種変態的な主題にばかり注目するのではないだろうか、ナボコフの傑作『ロリータ』が誤解された時のように。だが、これは実験しがいがある仕事だ。もはや同性愛者や障害者や精神病者や老人の「アブノーマル」な愛を描いても、良識的な人々は誰も非難しないだろう。もはや良識派においては、それらの人々が「普通」の若者と同じように恋愛することを非難することは、差別になるということが一般化しているためである。ましてや単なる不倫など、もはや当たり前すぎて、社会問題にさえならないだろう。やはり、動物や植物と美しい女が激しく恋に落ち、社会の非難を浴び、女の周囲の人々が破滅する話を描くしかない。それはもう立派な文学だ。
 もはや無理をしてポストコロニアル文学たろうとしなくてもいい気さえしてきた。だが私は、スキャンダラスで反社会的な作品を、ただ興味本位で書いたのだとどんなに誤解されようが、あくまでこれはポストコロニアル文学なのだと主張することだろう、ナボコフが『ロリータ』を書いた時、芸術性を主張したように。
 私自身もはやポストコロニアルの視点で文学を創る必要性など感じていないのに、私は自己に対する予防線をはるために、識者として自己を定義し安堵するために、ポストコロニアルという概念を悪用することになるかもしれない。ポストコロニアルに対する固着は、社会の良識派として自己を位置づけたいという私の自己防御本能から生じているのかもしれない。
 ああ、私は苦悩しながら、動物や植物を熱愛する女性を描くことになるのだ。私の小説に登場する女が、ためらいながら動植物を愛撫するように、私もためらいながら、卑猥なポストコロニアル文学を創るはめになるのだ。




 フェンネル


 私は期待に胸を膨らませながら、彼の部屋に向かった。もう彼は姦通小説を描いていることだろう、主役の女には私の面影があり、相手役の男には彼の面影があるだろうと期待しながら、私は彼から新しい原稿を受け取った。彼は原稿を渡す時、この前のように喜々とした表情ではなく、いつもの苦悩に疲れた、けだるい表情をしていた。
 何かが違う。嫌な予感は当たった。彼にはまるで姦通小説を書く才能などないのではないか。彼はただの変態なのだ、彼に女を魅惑するような男が書けるはずもないのだ。
 彼が私に渡した原稿は、またもや小説ではなく、変態的な、小説についての短い論考だった。いつもそうだ、彼は小説家を自称しながらも、私にいつも短い論考を渡すだけなのだ。彼はきっと、私に渡す論考に則した小説を書いているのだろうが、小説を私に読ませたことは今まで一度もなかった。私が小説家である彼の家に行って読むものと言えば、常に彼の小説についての論考ばかりだった。
「いい加減にしてよ。何を考えているの?」
 彼は私の怒りに当惑した、動植物と人間との姦通小説という、至極先鋭的な文学作品を構想したのに、何故彼女は怒っているのだろう、むしろ祝福してくれてもいいのにと彼は思っているかのようだった。
 彼が論考ばかりを私に見せて、創っているのかどうかさえ定かではないのだが、おそらく書き続けているのだろう小説を私に決して見せないように、私も彼との面談の中で、私自身の隠れた欲望は、決して彼には見せなかった。
 彼は、私が言ったことについては、忠実に内容を守り、私の期待以上の成果をいつも出していた。ただ、彼が私に指し示してくれるその成果は常に、私が口に出しては言わない、私の彼に対する隠れた欲望から絶えず逸脱していくのだった。しかし、私はその逸脱を表に出して非難しはしなかった。
 私が真の想いを彼から隠しているように、彼は、彼の小説を私から隠していた。私は、彼の小説を読みに彼の家に向かっているのに、彼は小説ではなく、いつも論考を私に渡した。私は、そのことについて今まで一切非難せず、問題にさえしなかったし、小説を書いているのかどうか彼に聞くこともなかった。そうだ、今はずばり核心をついてもよい頃合なのだろう、彼が小説を書いているのかどうか確認し、私の分身と彼の分身が愛し合っている小説を彼に書いてほしいという、私の、口に出すのがひどくためわられる願望を彼に告げる時がきたのだ、きっと。
 それでも、私は彼に、小説を見せてとは言えなかった。私の願望を告白するのと、彼が小説を書いているのかどうかを確認するのと、どちらか片方だけを実行することは不可能であるように思われて、小説のことについて彼に質問した途端、私の想いを彼に告白せねばならないような気がしたのだった。その二つのことに論理的なつながりはないように思われるのだが、二つのことは何か深くつながっているように感じられて、私は両方とも実行できないでいた。
 それは、私の勇気のなさとつながっているのかもしれなかった。自分の本当の望みを実現できないという予想、諦めが私の中にすくっているため、私は真相を確かめることができないのかもしれなかった。ただ一言、口に出せば、私の意志は相手に伝わり、相手は私の望むように動いてくれるのかもしれないのに、相手が思いどおりに動いてくれないのではないかという否定的な予想が先にたってしまい、私は自分の願いを口にすることをいつもためらっていた。願いを口にすれば、それは叶っていたかもしれないのに、言わないものだから、かえって否定的な予想は成就されてしまうのだ。その不条理を頭では理解していたのに、何故か心に歯止めがかかってしまい、私は彼に願いを打ち明けられないでいた。全ての動作は重苦しくなってしまい、気軽さから縁遠い人生を私は歩んでいた。もしもすぐ願いを口にしていたなら、私の人生は何倍ものスピードで進展していたことだろう。奥深いためらい、逡巡が、私の人生をひどく、ゆっくりとしたものにしていたのだ。
「こんなことを小説にして何になると言うの?」
 私の心は怒りの感情に支配され出した。怒りの感情は、願いが叶えられないという悲しみの感情の代用だった。私は彼に対して、自分で望みもしない感情をぶつけるはめになった。
「何にもならないさ。何の役にもたたないからこそ小説なんじゃないか。わかりきったことだろう」
 いつもは誰に対しても優しく接する彼が、珍しく、怒り気味の口調で私に反論した。彼は他人に対する怒りを人に向けずに、自分の中にこもらせるタイプだった。そんな彼でも、今の私の突発的な怒りが、ひどく非合理なものに見えたのだろう、いつもは自分の中に隠してしまう怒りの感情を、彼は正当な感情だとして、私に向かっておしげなく示していた。
 彼は生きていて、怒ることなどほとんどないと感じていたのかもしれない、「みんなが怒る大抵のことは、怒る必要もほとんどないことなのだ、怒ったからといってどうなるものでもないのだ」と彼は、以前私に語った時があったような気がする。そんな彼を私は怒らせてしまった。ただ、私もまた彼と同様に、怒りの感情に支配されていた。
「動物とセックスする女を描くことで、社会のノーマルという観念に疑問を投げかけるなんて、詭弁にすぎないよ。単なる悪趣味だよ。最低」
 彼に対して露骨に嫌悪感を示したのはこれが初めてだった。ただ、それは本当の嫌悪感などではさらさらなく、私の気持ちをわかってくれないという苛立ちから生じた、偽物の嫌悪感にすぎなかった。
 彼に罪などなかったのだ。言葉にして伝えなかったのだから、気持ちを感じてもらえなくて当然だった。気持ちを察してくれと望めるような間柄でもなかった。私と彼との間に、言葉を交わさずとも感じあえるほどの信頼関係はなかった。現に彼は私に対して、自分の小説を一つも見せようとはしなかったのだから、いつも小説の代わりに短い論考を渡すだけだったのだから。私は彼の未発表の小説を読めるほど、学のある人間ではないと彼に思われていたのだ、きっと。いや、これは全て憶測にすぎない。この憶測の前提となっている、彼は私に隠れて小説を書いているという仮定は、私の勝手な予測にすぎず、証拠も何もないからだ。
 証拠?証拠がほしいなら、彼がいないうちに、彼の部屋の中をくまなく探せばいいではないか。彼が不在のうちに、あるかもしれない彼の小説を探し出せばいいではないか。しかし、彼の小説を見つけたところで、待っているのは更なる落胆であろう。私が望むような小説を彼が書いているはずもなかった。もし彼が言っている通りの小説を書いているなら、彼の中に出てくるヒロインは、動物か植物と快楽をともにしているはずだった。
「いいかい、なんでそんなことを書くんだと常識人に例え思われるようなことでも、それは書く必然があるのかもしれないよ。例えば、召し使いの黒人の女と、主人の息子の白人が、結婚したいほどの熱愛に陥ったが、結局社会的に許されず、二人とも自殺する話を十九世紀に誰か小説家が書いたとしよう。その小説のことを当時の社会の良識的な人たちは、なんでわざわざそんなことを書いたんだ、どうせ書くならもっと社会に役立つことを書けと酷評するかもしれない。僕のこの小説の場合も同じだ。ペットの犬とセックスする人妻を描くなんて、汚らしい、悪趣味だ、やめろと轟々と非難されることだろうさ。僕自身なんでこんなことをわざわざ書く必要があるのかわからないよ。でも、二十二世紀の人がその小説を読んだら、当時の人には誤解されたが、極めて当たり前の愛の形をこの作家は描いたんだと思うかもしれないだろ」
「あなたは本当にそう思ってるわけ?」
「わからないよ、自分の本心なんて。本心に従って書かれた小説なんて、そんな真面目な小説、誰も読みたくなんかないだろ。馬鹿らしいよ」
「でも、将来的には、人間と動植物が交配する方がいいと思っているの?」
「交配とまではいかないけれど、もっと愛し合う関係になったらいいとは思うよ。ただ、そんな道徳的なお題目を小説にしてもつまらないだろう」
 彼は途方に暮れているようだった。私が彼の前でこんなに熱くなったのは初めてだったし、彼と激しい口調でやりあったのもこれが初めてだった。
「そうだな、動植物と人間との交流というテーマが刺激的すぎて、ポストコロニアルの側面は小さくなってしまうだろうな。ポストコロニアルの更なる先鋭化と言うべきか」
 彼は来るべき小説を構想して、書き終わってから浮かべるべき満足の笑みを浮かべていた。
 私は彼の部屋を後にした。いささかけんか別れになった感もあったので、また彼の部屋を訪れるのがおっくうな気分になってしまった。


 彼


 私は結局小説を書くための理論を見つけたかったのだ。しかし、理論を見つけたと思い、喜んだ後には、必ずその理論は、跡形もなく消えていってしまっていた。私が発見したと思い込んだ理論、自分で勝手に見つけたと思い込んでいるだけで、翌日になれば、既に誰かが発見しており、世間的にも知られているのがわかる、そんな理論は、一日一日と時間が経つうちに、発見当初の魅力を失っていくのだった。
 全て理論とはそんなものだ、特に現代においては次から次へと理論が生まれ、前の理論は、すぐにでも新しく生まれた理論によって葬り去られることになる。理論など見つけなくてもよい、ただ単に文章を毎日紡いでいれば、小説が書けるのかもしれない。無心に刻みこまれた文章たちは、その無心性、理論のなさによって、かえって、ある一つの理に貫かれて書かれたかのような構造をなすことだろう。それは、ひどく瞑想的であると同時に、論理的な文章になることだろう。心理の奥の奥まで見据える、禅の作業のような小説になるであろうし、読んでいるうちに、読者は観想的な感慨を作品に対して抱くことになるであろう。読書とは観想なのだ。小説とは観想家が自分自身観想するために紡ぎあげた思考の道具なのだ。
 だが、このような神秘的な小説解釈、理論とも呼べないような曖昧な理論は、すぐに社会の誤解を招く。いや、社会一般の誤解を招く以前に、読者一般から誤解されることだろう。いや、そもそも、小説を解釈してくれるのはほんの一握りの読者だけだ。後の読者は、私の小説を滅茶滅茶に読み、とんだ解釈を繰り広げてくれることだろう。神聖なる解釈をめぐる争いが作者と読者の間で生じることになる。常に作者である私は、自分の作品を聖なる領域にひきとどめようとすることだろう。しかし、現代文学理論上は、私の作品は、読者に向かって開かれていなければならないのだ。そもそも、現代文学理論上は、作者である私は、なんと自分の小説を創っていないことになるのだ。作者もまた読者と同じような、テクストの網の中に捕われた小さな存在にすぎず、小説は作者の自我からではなく、他の小説との関係性によって生み出されているのだから。
 自分より小さな小説を創った気になりながらも、自分より大きなテクストの網の中に捕われ続ける運命にある、この作者という人間はなんと卑小なことだろうか。小説の登場人物より、作者や読者の方がちっぽけな存在ではないだろうか。実は、真に偉大で、あらゆる苦労を経験している存在は、作者や読者ではなく、小説の登場人物たちなのだ。それが作者自身であっても、作者の分身であっても、作者の友の一部分の寄せ集めであっても、小説の登場人物たちは、小説に書かれることで、非難や誤解を浴びるのではないかと恐れる現実の人物たちよりも、よっぽどの危険にさらわれているのだ。
 現代世界においては、神はとっくの昔に死を宣告されたのに、多くの場所で未だに神や悪魔が生きており、人々の心を支配しているように、「作者の死」を言い渡された小説家もまだいたる所で生きており、小説の登場人物を支配しているのだ。


 フェンネル


 私は自分の家に帰ることができなかった。何故だかわからないが、帰る気がなくなっていた。本当ならけんかをしてしまったのだから、すぐに帰ろうと思うところだろう。だが、私は何故かすぐに帰ろうとせず、彼のアパートの前に留まっていた。
 二人の間に起きたことは、とても一般的な意味では、けんかとは呼べない代物だが、ひどく繊細で傷つきやすい、彼と私の間で起きた心のすれ違いは、全てけんかと言ってよいだろう。いや、私にはわかる、私は彼に対して、心の中で絶えずけんかしていたのだ、そのけんかを私は心の中におしとどめ続けていたのだ。心の中に想いをおしとどめ続けていたからこそ、私と彼の今までの関係は、全てすれ違いと言ってもよい代物になっていたのだ。
 ふと気がつくと、一匹の小さな白い犬が私の脇におり、舌を出して、はあはあと息をしながら、しっぽを激しくふっていた。私を見つめる犬の、大きな黒い瞳は、私に対して愛を必死に求めているかのようだった。私は膝を曲げ、犬の頭を撫でてやった。犬は落ち着いたと主張する表情を見せながら、しっぽをふり続けていた。私は手をそのまま犬の喉にまわして、彼の首筋を撫でてやった。彼の首はふっくらと温かかった。
 白い犬を撫でながら、彼のアパートの部屋の入り口に眼を向けると、閉まっていたはずのドアが半開きになっていた。彼が開けたのだろうか。私は犬と一緒に彼の部屋の手前まで進み、こっそりと、中に彼がいないか確かめてみた。狭いアパートの室内には、誰もいないようだった。私は犬を連れて、ドアの内側に入ると、そっとドアを閉じ、鍵を閉めた。入り口脇のユニットバスにも人はいなかった。私は犬を連れて、細長いキッチンを通り抜け、いつも彼と面会していた洋室に入った。犬の足にはあまり汚れがついておらず、ほとんど足跡が残らなかった。犬は異様に大人しく、私の脇にぴったりとついていたが、二人で洋室に入ると、早速彼の机に向かって進み、彼が座っていた椅子の周りの匂いを嗅ぎ回った。私は、犬をほったらかしにし、彼の原稿を探した。そう、できれば、小説の原稿を。
 机の上には原稿らしきものはなかった。いつも彼はワープロ打ちの原稿を私に渡していたから、私はまず机の上に無造作にのっていた彼のマックのスイッチを入れた。白いノートブックが起動するまでの間、私は彼の本棚に手書きの原稿がないか探すことにした。もしかしたら、彼が帰ってくる可能性もある、一刻も早く原稿を見つけて部屋を出ようと思った。だが、彼がいないうちに犬を部屋に連れこんで、室内を歩き回ったことなど、敏感な彼ならすぐ勘づくだろう。侵入者が何を目的に室内を荒らしたかまでも、彼は気づくだろう。容疑を彼にかけられようが、今の私にはもう関係なかった。とにかく、彼が書いているはずの小説を見つけること、その想いが今の私を突き動かしていた。
 何個かノートが見つかった。彼のノートはスケッチブックだった。彼は普通にはノートをとらず、絵を交えながら、紙いっぱいを曼陀羅のように使って、放射上にメモをとっていた。そこには小説のアイデアらしきものはあったが、小説そのものはないように思えた。私は何故かアイデアには興味を持てなかった。アイデアが形になった時、初めて意味を持つと私は思っていたから。
 スケッチブックを漁っているうちに、パソコンが起動した。パソコンの置いてある机の傍にいた犬を優しくテレビの方に促し、私は彼の椅子に座って、パソコンを操作した。小説の原稿らしきファイルがないか、デスクトップを調べてみた。書類の納まっているフォルダには、ほとんど無秩序に「文学について」とか「キリスト教神秘主義」とか「スピヴァク」とか「マリア・カラス」とか、様々な内容のファイルが入っていた。その中に「フェンネル」という名のファイルを見つけて、私は驚いた。私は早速フェンネルのファイルの上にマウスのカーソルを合わせ、ゆっくりとクリックボタンを押した。それは、まぎれもなく小説だった。

 私は彼の原稿を受け取った。どこかで聞いたことがあるような内容、いわゆる知識人、文学者、思想家と呼ばれるような人がいかにも書きそうな内容で、独創性が万全と発揮されているとは言い難い原稿だと思ったが、真に独創的な思考というものは今まで一度もなかったこと、全ての独創的な改革は、何らかの前任者の思考を受け継いでいるということに思い至って、この原稿もまた、一般の水準と比べれば独創的なのだろうと私は結論づけた。
 彼は、私が原稿を読む間、怯えているような、落ち着かない表情を示したかと思うと、自分の文章が私にどう思われようが関係ないとでもいうかのように、無表情な顔をして、、窓の彼方を見渡したりした。過度のそれらの振る舞いは、明らかに彼の神経質さ、自信のなさを示していた。

 驚いたことに彼は、私と彼とのつい最近の面会のことを小説にしていた。視点の中心となる語り手を私に見立てて、彼は私の立場から小説を書き、自分自身を客観的に眺めいてたのだ。その程度のことなら、普通の小説家が、息抜きでする陰険な遊びとして、十分考えられもするが、恐ろしいことに、彼が小説中で書き綴った私の心理の動きは、実際私が彼に会った時に考えていたことを正確に捉えていた。
 私が彼に会った時に考えたことと、彼の小説はそっくりそのまま同じというわけではなかった。そっくりそのまま同じなら、恐いと思うかもしれないが、実際はそれよりさらに恐ろしいものだった。彼と会った後で、夜眠りに落ちる前に私が考えたこと、数日たって、その日の面会を思い返して私が考えたこと、それら私の長い時間を含む思考内容が、彼の小説の中では、面会の場面に凝縮されて描写されていたのだ。
 何なのだろうか、彼は私の全てを監視しているのだろうか、ただ外から眺めているだけでなく、決して誰にも触れられないような、口には出さず、書面にもしていない、私の心の動き全てを、彼は正確に読むことができるのだろうか。彼と私はすれ違っていたとばかり思っていたのに、彼は、私の心の動き全てを掌握していたのだろうか。私の心を知った上で、彼はあのように私と触れあっていたのだろうか。
 頭がひどく混乱してきた。白い犬はいつの間にか室内からいなくなっていた。私は混乱した頭のまま、ベージュの床の上に倒れ込んだ。もう何が何だかわからなくなってしまい、眼や頭がとてつもなく膨張しているような感覚を覚えた。
 誰か人間が入ってくる足音が聞こえた。
「フェンネル、どうした?…フェンネル、読んだのか…」
 誰か男の声が私の頭の中で反響している。彼は何故私の部屋に入ってきたのだろう。


 彼


 部屋の中にはフェンネルの香りが充ちていた。彼女は、読んではいけないものを読んでしまったのだ。
 私は結局、ポストモダンでもなければ、ポストコロニアルでもない、純粋なフランス心理小説の伝統を引き継ぐ作品を書くことで、私の小説に対する愛情を安らげていたのだ。ポストモダン小説もポストコロニアル小説も、結局は私の心の琴線に響いていなかったのだろう、私にとって必然ではなかったのだろう。私が惚れこみ、書き継ぎたかったものは、十九世紀に勃興したヨーロッパの心理小説なのだった。
 しかし、前世紀の遺物を書き継ぐことに何の意味があるだろう。十九世紀の偉大な小説家たちは、十八世紀風の小説など書いていない、彼らは彼らの時代に即した独自の美学を磨き上げたのだ。なのに、私は二十一世紀に生きながら、敬愛してやまない二十世紀初頭のフランス心理小説のような代物を遊びで創って、自分で自分を慰めている。これはこの時代に生きることに対する裏切りだ、逃避だ。私は二十一世紀にふさわしい、前衛的な小説を書くべきだったのに、書く方法さえわからず、こんな心理小説を書くことで、自分の小説に対する愛情を満足させていたのだ。
 だが、前衛的な小説など誰が読むのだろう。みんながみんな、大正時代のような作風の抒情的な小説を読んでいる。小説の黄金時代は二十世紀初頭だったのだろうか。あの時代に小説は最後の高まりを見せ、偉大なる創造を行うとともに、自分を破壊してしまったのだろうか。
 ヌーヴォーロマンによってヨーロッパ産の近代小説は極限までいってしまった。近代小説は、モダニズムの技法は、極限にまでたどりついたのだが、世界中に溢れている「物語」にはまだ終わりが訪れていなかった。二十世紀後半のラテン文学の勃興は、物語の復権とともに起きた。ポストコロニアル文学もまた、近代化によって周辺に追いやられた神話、物語の方法を蘇生させている。近代小説、心理小説は第二次世界大戦とともに、フィネガンズウェイクの完成とともに、終わりを迎えたが、それは同時に、近代小説に劣るとして毛嫌いされてきた、原始から続く物語の蘇生をも意味していたのだ。
 そうだ、私は実験的な前衛小説を書くのをやめて、物語を創ろう。技巧の限りを尽くした前衛作品から、多元的な語りを生かした物語作品への移行は、クラシックにおける、実験的で難解な無調音楽から、多文化の伝統音楽を取り入れたトランスナショナルな音楽の形成という動向によく似ている。
 二十一世紀の小説では、一つの作品の中で、複数の異なる文化の声が共存するだろう。私はそのような複合的なアイデンティティが絡み合った、流動的で多元的な作品を創ることにしよう。一つの判断装置に従って、上位下位の序列が作られるのではなく、優劣の判断なく、様々な人々の声が共鳴している作品を紡ぎ出そう。

 滅び去ったフェンネルを私は花屋に買いにいった。残念なことに、花屋にフェンネルは売っていなかった。しょうがないので、雑貨屋にいって、私はフェンネルのエッセンシャルオイルを購入した。私は、搾り取られたフェンネルのエキスから生じる彼女の匂いを嗅ぎながら、フェンネルが白い犬と恋に落ちる小説を書きためた。

 二十一世紀では、おそらく動植物が小説の中心に来るだろう。動物や植物を擬人化して語らせるのは、単なるヒューマニズムの裏返しだろう。傲慢な人間によって、破壊される森林、不必要なまでに殺害され、食べられる動植物たちが小説の中で描かれることだろう。
明らかに今の先進国の人々は過剰な消費を行っている。消費という言葉遣いによって陰に隠されているが、裏では大量破壊、大量殺戮が行われているのだ。動物や植物も命を宿していること、人間と同じように痛みを感じる心があること、それをわからずして、もはや素直に、平和に暮らしていくことなどできない。消費社会では破壊と殺戮、汚いものが視界から隠蔽されてしまう。日本のこの平和は動植物の不必要な殺戮によって成り立っている仮初めの平和だ。この平和の偽善性を日本の知識人はどこまで鋭く問うことができるだろうか。
 一九八〇年以降日本の思想界はポストモダンの流行に染まった。今から振り返れば、あっさりとポストモダン一色に染まってしまったその有り様は、まるで日本の思想界がヨーロッパ産の思想の植民地と化してしまったかのようにも思える。私さえ、時代の潮流はとっくの昔に終焉を迎えたというのに、ポストモダン小説のような小説しか書けないでいる。現在の状態からポストコロニアルに、あるいはエコロジーに移行することは、また自分の頭脳を、外来の先進的な思想の植民地にしてしまうことなのだろうか。
 いや、ポストコロニアル思想のおかげで私は、自分がいかに他から来る思想に影響を受けていたか、はっきり言えば洗脳されていたかがわかった。私は自分の半自伝的な物語の創作を通じて、世界の一部の平和が、いかに他の多くの犠牲によって成り立っているかを描き出すことだろう。今私が生きている日本の平和、もちろん人々の病的な心理だとか、陰惨で不可解な社会事件を新聞で見かける限りは、決して平和とは言えない社会だが、それでも死ぬ危険の極端に少ないこの平和な日本社会が、どれだけ多くの生命を殺しながら成り立っているのか、その反省を私は自分の物語を通じて世界に呼びかけるだろう。
 少年が犯罪を犯すと日本の知識人と公衆は皆目を向け、語り合うが、動植物がどれだけ殺されているかについて、ほとんどの人はなかなか目を向けようとしない。日本の現実とは関係ないものとして、切実な問題ではないのだとして、事態がメディアから遠ざけられてしまっているのだ、この事態の留置こそ切実な問題であるのにも関わらず。私たちは、自分たちの住む社会の目の前で起きる突発的な事件に驚く感受性はまだ持ち合わせているが、何十年という規模でひそかに進行している大量の殺戮には、もはや憂いを感じる感受性を持ち合わせていないのだ。それはあまりに日常に組みこまれてしまったため、それなしではもう日本社会の消費生活が成り立たないため、誰も好んでひそかに進行している大事件を取り上げようとしないのだ。

 フェンネルの物語の続きを書こうとして、ファイルを開いたら、私の草稿の末尾に、私が書いたものではない文章が見つかった。最後に、その文章を転写することで、この論理的つながりが不可思議な物語を終えることにしよう。私は、そんなに肩をはる必要はないと、彼女に背中を撫でられたような気がした。


 フェンネル


 あなたはまたきっと作品にも成らない文章の断片か、小説論を書いていることでしょう。早く完成した小説を書いて。
 あなたの小説が完成しても誰も読んではくれないかもしれない。自分が期待していたほどの反響もなく、評価を受けることもなく、何もなかったかのように、あなたの小説はあなた自身からも忘れられるかもしれない。けれど、何度失敗しようとも、何回でも小説を書いて。その失敗をも小説にして。
 いつの時代にも小説家になることを夢見た人々は、あなたと同じ試練を味わっている。フローベールは書けずに、売れずに中年まで苦しんだ。カフカは売れない小説を書きながら働き続けた。ジョイスは小説家になると決意したら、どんなに食べれなくても自分の信念を押し通した。プルーストは小説を書けない悩みを長大な小説にした、死ぬまで。ナボコフは晩年になるまで自分の文学を評価されずにいた。フォークナーも全く評価されない小説を田舎でひたすら書き続けた。
 みんな純文学の作家とはこんなもの。売れているわけではない。生前に評価されている人とて少ない。
 生きながら絶大な名声を博した人さえ大変な苦労をしている。ドストエフスキーは留置場送りになった過酷な経験から自分の文学を生み出した。彼の作品がヨーロッパ中で読まれたと言っても、絶えず古巣の文学者から彼は小説の書き方を批判され続けた。バルザックは小説を書くために生きていたようなもの。ヘミングウェイはパリで転々としながら、小説家になることを夢見た。オースターも二十代はいろいろな職業を転々とした。
 むしろ苦しみと絶望を小説にして。ウォーカーは黒人の哀しみの歴史を小説化した。近代小説の父、セルバンテスは、今までの挫折にみちた人生の全てが虚構ではなかったかと思いこむことで、自分を慰めようとしてドン・キホーテを書き始めた。
 そう、小説とは虚構。現実に耐えきれないから、みんな別の世界を求めて小説にたどり着く。失望に満ち溢れた現実を否定するために、みんな小説を読む。読むだけでは癒されなかった深い哀しみを背負う者たちだけが、自分の小説を書き始める。
 セルバンテスは苦しい現実さえ虚構であると喝破した。フィクションに浸ろうとするあなたが生きているこの現実もまたフィクションであるとセルバンテスは見抜いた。私の住む世界がフィクションであるのと同じように、あなたの住む世界もフィクション。あなたの自我もフィクション、私がフィクションであるように。
 あなたの過去もまたフィクション、あなたの未来がフィクションであるのと同じように。言ってしまえば、全てがフィクション。これでおしまい。
 そんなフィクションだらけの世界で、何を絶望することがあるのかしら?全てが小説なら、あなたは自分の人生を自分で書ける、この国の歴史を自分で書ける、この地球の生態を自分で書ける。あなたが指導理性。
 絶望に絶望を重ねた末に見つけた、あなたの新天地。いや、前から全てがフィクションだとわかっていたのに、気づけずにいたのをやっと見つけただけ。あなたは自分で自分の場所を取り戻した、それはとても不安定な場所だけど。
 他の者たちにも自分の場所を取り戻させてやってもいいじゃない。新しい世界の見方を教えてあげてもいいじゃない。慣習という見えない意志に操られないように、自分で自分の生活を組み立てられるように、みんなにフィクションの真理を教えてあげてもいいじゃない。
 絶望の苦しみをすくいとるためには、自分自身が絶望の淵に立たなければいけない。故に全ての小説家は、一度人生を諦める必要があった。諦めて、また思い立ったわけではなく、諦めたままで、彼らは自分の小説を書き始めた。
 希望と絶望の葛藤の果てに、フィクションの記録の果てに、自分を取り戻すための足場が見つかる。ほんの小さな足場。今まであるとは気づかなかった足場。その足場はあなたのもの。あなた自身のもの。みんな持っているもの。
 フィクションの不安定な足場、それがあなたの小説、私の物語。

(2003年9月作)
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