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小説『動植物と人間の命』

最終更新日:2009年11月29日



一 人口爆発の物語


 人口爆発という言葉がある。人の数が爆発的に増加しているのだという。
 逆ではないだろうか。
 人が爆発的に死んでいっているのではないだろうか。爆発的に増加した人は、いつか必ず死ぬ。命は尽きてなくなるものだ。
 人の命を科学的な研究対象として観察した時、人口爆発という言葉が生まれる。人口爆発という言葉の裏側で実際起きているのは、人の命の爆発的な喪失ではないだろうか。爆発的に生まれた人も、やがては死ぬ。人口爆発という戯画めいた言葉で説明された瞬間、人の命は無機質な観察対象になる。
 文学の立場から世界を眺めてみよう。世界を見つめる瞳に想像力を宿してみよう。
 爆発的に増加した人口を養うために、たくさんの食糧も必要となる。食糧は動植物の命である。人口爆発が起きれば、動植物の命が、爆発的に消費される。増加した人口を養えるほど動植物の命がない地域では、爆発的に生まれたばかりの人たちが、爆発的に死んでいく。
 人口爆発が起きる時、動植物の命も爆発的に奪われているだろうけど、東京に暮らしている限り、人口爆発の現実は見えない。
 もちろんニュースや教科書で人口爆発という現象を知ることはできるけれど、東京都内は人口爆発の逆、少子高齢化に陥っている。東京はまだいい方で、日本の山村地方は、少子高齢化が爆発的に進んでいる。
 人類が抱え込んでいる様々な問題。バランスの欠如。特定の地域への資源の過度の偏り。
 ある地域では人口が爆発的に増加し、かつ動植物の命が食糧として消費され、別の地域では飢餓が蔓延する。さらに別の地域では、少子高齢化が起きる。いつまでこうした不均衡は続くのだろうか。何故誰もが今走っている直線のコースを走り続けるのだろうか。
 脚の動きを止めてみよう。生まれては死んでいく命の声に耳を傾けてみよう。
 自分一人主張したところで何も変わらないかもしれない。
 世界は自分を必要としていない。世界は巨大であり、個人は無力である。確かにそうだ。しかし、世界は無力な個人が集合してできたものだ。強大な権力を手にしていると思われている誰もが、現状に対して無力なのだから、そこまで悲観する必要はない。
 世界では人口爆発が起きているし、「先進国」では少子高齢化が進んでいるというけれど、東京の生活は安全だ。東京にはストレスと忙しさが溢れているけれど、人口爆発や飢餓、紛争の問題は、ニュース映像で見るだけの対岸の火事ではないか。
 世界には色々な問題が起きていると知っているのに、知らないふりをして過ごすのは、どうだろう。自分に直接的な被害が加わらないからといって、見過ごして生きていくのはどうだろう。
 偽善?
 違う。世界には、人間社会の暴走を食い止めるために働いている人がたくさんいる。やってもみずに、できないとあきらめるのは、得策ではない。
 私個人にできることは何か?
 自分の利得のためでなく、生まれては亡くなっていく、たくさんの命の灯のためにできることは何か?
 人口爆発という学術用語の中に、人の命の盛衰を読み取ること。たくさんの子どもが生まれては亡くなっていくイメージを、人口爆発という言葉に重ねてみること。男の子、女の子、赤ちゃん、青年、人口爆発という言葉の中に、数え切れない人生がたたみこまれている。
 人口爆発という言葉の中に、人間の食糧となるたくさんの動植物の命も含まれていることを想像してみること。
 豚、牛、鳥、羊、野菜、水、たくさんの命が、爆発的に増加する人間の命のために、食糧となる事実を認識してみること。
 あらゆる言葉の中に息づいている命を想像してみよう。どんな物にも命が宿っている。物には、それを作ってくれた人の命が宿っている。
 手作りの作品だけではない、工業製品にも、制作に関わった人たちの命が宿っている。工場で食品を生産する機械には、機械を設計した人、製造した人、機械を毎日動かしている人たちの仕事、人生が重ねられている。そうだとすれば、たくさんの資源を浪費している今の社会はどうなのだろう。みな物品の背景にある命の息吹を忘れてしまったのだろうか。言葉の背景にある豊かな命は、ゴミ処理場に捨てられたのだろうか。
 冷たくなった世界にもう一度命を吹きこむこと。
 繁栄には、必ずたくさんの命の消費がつきまとっているのだと想像してみること。消して費やすことは、決して尊ばれる行為ではないと思える。いろいろな命を消して費やしながら、毎日生き延びている。私の体の一部となって働いてくれている命たちに対して、生き延びた私は、何ができるだろう。
 まずは、頭を垂れること。今こうして自分が生きているのは何故だ。たくさんの仕事があったからだ。たくさんの食糧があったからだ。忘れないでおこう。



 一橋人見は、書き終えた文章を毎日書いている自分のブログにアップした。タイトルは「人口爆発という言葉の背後にある無数の命」。カテゴリーは「文明批評」とした。
 こうして自分がネット上に発表する文章がどれほどの影響力を持つのか、人見はわからない。ブログの管理ページで確認するアクセス数からして、たいしたものではないと思っている。けれど、毎日文章を書いて、発信し続けていれば、いつか希望が開けるのではないか。人見個人の力によるのでなく、言葉に触れた読者の力によって、文化は変わるのでないか。
 人に期待するのはむなしいことだと、中学生の頃人見は、姉の里見によく言われた。
「一人犀の角のように生きていくことだ」
 仏陀の言葉を引いた姉の里見は、若いながらも禅師のように達観していた。しかし人見は、文化に絶望したくはなかった。人の力にかけてみたいと思った。
 動植物は話すことができない。意見を主張することがない。人間ならば、動植物の代わりに、意見を主張することができる。
 誰か困っている人のお役に立つこと。それが仕事だとすれば、人間に通じる言葉を持たない動植物の命のために仕事をしていこう。
 動植物は人間ではないから、自分に弁護料金を払ってくれはしない。しかし、動物と植物の命を愛する人が世界にはきっといて、自分の仕事を、動植物の代わりに評価してくれるはずだという希望がある。
 一橋人見はそう信じて、言葉を発表し続けた。手ごたえがなく、むなしい気持ちに襲われそうになれば、あともう一歩なのだ、ここであきらめては終わりなのだと自分を奮い立たせて、人見は孤独な仕事を続けた。本当は孤独ではない、たくさんの命が自分の周りに息づいているのだと思いながら。


二 牛丼の物語


 牛丼一杯二百九十円という広告が目につく。狂牛病が話題になった時、牛肉に関連するニュースが飛び交ったが、今や牛肉がニュースで取り上げられることもない。アメリカ産牛肉の問題について過敏だった人々も、産地の表示を気にすることなく、牛肉やハンバーガーを食べている。
 日本国内のデフレの影響か、牛肉も安く提供されるようになった。牛丼一杯、二百九十円の命の中に、牛の命が含まれている。命の軽さを悲しく感じているのは、私だけだろうか。
 もちろん牛丼に入っているのは、大きな牛の体のほんの一部だ。牛一頭の命が、二百九十円で消費されているわけではない。ただし、牛丼の料金には、牛肉の他に、玉ねぎ、みそ汁、ご飯の料金も含まれている。無料で提供される水の料金も含まれるし、牛丼の器、プラスチック製の箸、牛丼を作ってくれる店員さんの人件費、店の月々の家賃なども含まれることだろう。顧客一人当たり二百九十円の単価が積み重なって、ファストフードの経営が成り立つ。
 安い料金で提供される牛丼は、多くの人の生活に喜びをもたらすものだ。菜食主義者も植物の命をいただいて生き延びている点は、牛丼を食べる人と変わりないのだから、牛を食べる人たちを一方的に批判することはできない。肉をさばく仕事に就いている人は、様々な国、地域で差別の対象とされてきた。肉食を原理的に嫌うことは避けたい。だが、牛丼一杯二百九十円が喜ぶべきことなのかどうなのかは、はなはだ疑問だ。消費者たる人間にとっては嬉しいことかもしれないが、牛にとっては、悲劇ではないだろうか。
 動物の命を尊重するあまり、人間を過度に批判するのは、生類憐みの令を連想させる。やりすぎは禁物だが、それにしても、現代文化は、動物の命を粗末に扱いすぎているように思える。粗末にというか、消費する工業製品として、動物の命を扱っている気がしてならない。
 賞味期限切れが怖いから、肉も野菜も消毒される。薬品漬けにされるレタスは、そもそも栽培の過程で、化学物質だらけの肥料によって育てられている。最近はそうした問題が意識されて、無農薬野菜が人気だが、今この瞬間も、世界ではたくさんの動植物の命が、工業製品として消費されている。今ある世界の歴史は、人間にとっても、牛にとっても、やはり悲劇ではないだろうか。



 人見は、一日の終わりに書き残した牛丼に関する随筆をブログにアップした。タイトルは「牛丼一杯二百九十円の背後にある牛の命」とした。
 一橋人見は最近、牛や豚や鳥のことばかり考えている。こうして毎日思っていることを文章にして、インターネット上に発信しているが、普段職場で接する同僚とは、食物の命について真面目に話し合うこともなかった。
 友人と食事に行けば、食器に盛られた食材一つ一つについて考えていることを述べることもなく、普通に食事を終える。黙っているから、友人たちは人見が食物についてどう思っているか知らない。人見は本当ならば、食物のことについてたくさんの人と意見交換したいと思うし、動植物の命に関わる仕事をしたいと願っている。しかし、自分のブログに文章を載せるだけで、具体的な行動には到っていないのだった。
 給料がそこそこいいからという理由で、個人的に情熱を持てないシステム開発の仕事を人見は続けている。人見の目に映る知り合いたちはみな、心の底から喜んで仕事に取り組んでいるようには見えない。時折、熱意が持てないと自覚している人見自身の方が、他の人より真面目に働いているようにも感じられる。自分の人生はこれでいいのかと思いながらも、隣人たちが妥協しているように見えるからという理由で、人見は現在の納得いかない生活を続けていた。
 納得いかなくても、続けていいのだろうか。こうした今ある妥協の生活を変えるためには、何をすればいいのだろうか。人見は、牛の声を聞き取りたいと思った。牛の声が聞こえるようになれば、生活が根本から変わる気がした。
 人見は、フローリングの床の上にパジャマ姿で寝そべり、目を閉じて、牛の姿を想像した。台の上に頭を押さえつけられて、電気ショックで殺される牛の声。電子搾取器で、子牛に与えるはずの乳を搾り取られる母牛の声。彼ら彼女らの声を想像すると、人見の気持ちは落ちこんできた。明日以降、牛肉を見ただけで、牛が最期を迎える瞬間発する悲鳴が聞こえてくるような気がした。
 牛が何を言っているのかわからない。けれど、むせび泣いているのはわかる。牛の考えは言葉になって聞こえてこなかったが、牛が持っている感情は、泣き声となって人見の心に届いた。
 自分が殺されると思った瞬間には、牛を通して感じたのと同じ恐怖を味わうのだろうかと、人見は自分自身に訪れる死の瞬間を想像した。おそろしさと一緒に、悲しみの情が人見の心に溢れた。牛の感情を知ってしまったからには、もう牛を食べるこができない、これ以上命がなくなる瞬間に発せられる悲しみを増やしたくはない、人見はそう感じた。
 何故これほど人は牛肉を食べるのだろう。牛のことを自分とは全く異なる存在だと思っているからではないだろうか。どれだけ殺して痛めつけても、良心の呵責に苦しまなくていいと思っているからではないか。
 牛の気持ちを考え、感じていたら、自分はもう何も食べることができなくなるのではないかと、人見は思い始めた。他の命を口に取り入れることができなくなって、やせ細って死んでいく自分の姿が、人見の頭に浮かんだ。
 食べることは悲しい。そう思いながら、食を拒んで死んでいく人間。なんだか極端だと思えた。今まで何千年と人類の歴史とともに生きてきた牛の命に悪い気がしてきた。
 牧場で、農家の人々に愛されながら育ち、幸せに生きた牛もいるかもしれない。農家の人も、牛丼屋で働く人も、牛肉を食べる人も、罪人なわけではない。牛の殺戮を喜んでいるわけではない。
 正義とは何だろうか。人見は胸の上で両手を重ねて考えた。
 正義とは、命が消費されることを問題視することではないか。生きていくために、食べることは必要だ。食べもしないのに大量に牛を飼育して、肉料理にして、結局捨てるのは、牛の命に大変失礼なことではないだろうか。命を食べることは必要だが、命を消費することは不要だ。人見はそう感じた。
 牛を食べる時には、牛の命の恵みに感謝すること。牛を育ててくれた人、調理してくれた人にも感謝の気持ちを持つこと。
 自分の体の中に入った牛の命が、自分の体の中で、新しい細胞となって、自分の一部となる様子を想像してみること。
 私は、人間ではない。私の中には、毎日食べてきたたくさんの動植物の命が息づいている。私の細胞は、牛をはじめとした動植物の命から再生されている。毎日たくさんの食べ物を取り入れて生きている私は、多種多様な命の交差点である。人間は、地球に一人立つ独善的な存在ではありえない。
 人見は、自分の体の中に複数の命が横たわっている様子を想像した。安らかに目を閉じて、眠っている牛。花を咲かせている植物たち。枝に果実をつけた大木。小鳥が集う湖。人見の体の中には、たくさんの命が息づいていた。
 食べることは、何かの命を奪う悲劇ではなく、命をつなぐ、奇跡ではないのか。
 そう考えていくうちに、人見の瞳に涙が滲んできた。電気を強く当てられた時、牛が発するだろう声を心に感じた時も、人見は涙が溢れそうになったが、今、人見に涙を滲ませている感情は、悲しみではなかった。
 何故自分は命の恵みに気づかず生きてきたのだろう。ごめんなさい。支えられていることを気づかずにいた。ありがとう。心の底からありがとうと伝えます。
 普段は寒さばかり感じる胸のあたりが温かくなり、涙が出てきた。続いて、人見の顔に微笑が広がった。
 今感じた気持ちを書き残して、たくさんの人に伝え広めるために生きているのではないか。この喜びの感情を伝えるために、たくさんの命を食べてきたのではないか。
 人見はそう思いながら、目を閉じた。真っ暗な視野の中に、たくさんの生命が泳いでいる映像が浮かんだ。牛、豚、鳥、稲、小麦、みな水の流れを泳いでいる。
 ゆったりとした水の流れは、人見の体であった。水の中を泳ぐ動物と植物たちは、人見の一部でもあった。


三 人見の物語


 昨日は一時、動物の肉はもう口にすることは不可能だと思っていたのに、今日はいつも通り、普通に肉をいただいた。
 生きていくため、肉を食べることはやむをえないことだ。肉の命に想いをはせることなく、肉を消費することは、慎むことにした。
 菜食主義者として肉を食べずに生きていくことはできる。けれど、人類は基本的に雑食であり、肉をたくさん食べている。この先何百年経とうと、人間が肉を食べることをやめるようになるとは思えない。菜食の人は増えていくだろうけれど、肉食が完全に絶える未来は想像できない。
 人間はこれからも牛や豚を家畜として飼い、彼らの肉を食べていくのだろう。ならば自分は、肉を消費しないで、命の恵みに感謝しつつ、肉を食べて生きていこうと思う。
 朝はコンビ二のおにぎりをいただいた。肉は入っていない。けれど、梅干となった梅の命を口に含んだし、ご飯となった稲の命、海苔の命もいただいた。肉を食べずとも、植物や海藻の命を毎日いただいている。おにぎりとなったものたちが、私にもたらしてくれた命の恵みに感謝しよう。
 昼は駅前のベーカリーで、茄子とベーコンの入ったサンドと、アイスカフェラテをいただいた。レジを打ってくれたのは、私より年下に見える女性の店員さんだった。柔らかく可愛らしい声で、丁寧に接客してくれた。彼女にベーコンのサンドを差し出すと、終始笑顔でレジを打ってくれた。
 ベーカリーの近くには、ハンバーグの専門店もある。そこでも笑顔の可愛らしい店員さんが働いているし、多くのお客さんが入っている。東京に暮らす人というか、地球に暮らす人はみな、当たり前に肉を食べている。ならばせめて、恵みに感謝しながらお肉をいただこう。
 料理となった動物の命に感謝する。動物を育ててくれた農家の人に感謝する。トラックの運転手さんにも、料理してくれた店員さんにも、レジを打ってくれた店員さんにも、酢食事後の皿を洗ってくれた店員さんにも、深い感謝の気持ちを捧げよう。
 命と仕事を無駄に消費しない。命を消費する人は、サービスも消費しているし、自分自身の人生も消費しているだろう。
 消費する者として生きるのでなく、命の働きに感謝する者として生きていきたい。
 働くとは、スーツを着て、デスクに座ってパソコンを操作することだけではない。何者かの命を助けること、何者かの命に恵みを与えることもまた、働きである。私は毎日、動植物の命の働きに支えられているのだから、彼らの働きに感謝し、自分自身も働いていこう。
 夜は会社近くの定食屋チェーン店で、チゲ鍋定食をいただいた。キムチ、豚肉、ねぎ、豆腐、鶏の卵が、赤い汁で満ちた鍋の中に入っている。
 チゲ鍋は、朝鮮半島の料理だ。朝鮮半島の料理が、日本国内の定食チェーン店でいただけることは、奇跡である。当たり前に低価格で提供されているから、奇跡とは思えないが、間違いなく、奇跡である。
 奇跡は何も、滅多に起きないから、奇跡と呼ばれるわけではない。海を越えて伝えられた料理の恵み、命の恵みは、全て奇跡だろう。
 生きているということ、様々な動植物の命を食べているということ、口に入れた動植物の命が、自分の体の中で新しい力になること、これらは全て奇跡だ。
 キムチを口に入れると、キムチの命が自分の体の中に入ってくる。鍋で煮られた白菜は、一度命を失っている。しかし、私の体の中に入った後で、私の命を明日につなげるための新しい命に変わる。
 もしも、私が誰か別の動物に食べられるとしたら、私は一度死んだ後、私を食べた動物の命を支える存在となる。
 人間は、他の動物に捕食される心配がない。人間は、他の人間に殺されるか、病気か事故で死ぬ。食べ物が原因で死ぬ人も多いが、何者かに食べられる心配はない。
 もし自分が食べられるとしたら、どう食べられたいのか。考えてみよう。
 自分が食べられたいように、食物をいただくこと。そうであれば、食べ物を残して捨てることはなくなるのではないか。もし自分が調理されたとして、食べられないまま、ゴミ箱に捨てられたとしたら?
 スーパーマーケットの棚に自分が並んだ後、売れ残って、値下げのシールを貼られて、それでも売れ残って、ゴミ袋にまとめられたとしたら?
 自分が死んだのは、何のためだろう?
 ゴミ処理されて、燃やされて、大気となった後、めぐりめぐって植物や動物の体内に空気として入りこみ、また別の命を助けることになるかもしれない。命はいくらでもつながるが、だからといって、無駄に殺された想いはぬぐえないだろう。
 たとえ調理の過程で、一度死んでいるとしても、死んだ後の自分が食べられようが、ゴミになろうが、無関心でいられるはずがない。
 調理した命を食べずに捨てることに対して、良心の呵責を感じる人となること。
 誰かに食べられる心配がないから、食べ物をゴミにすることができる。食糧がありあまっているから、そんな扱いができる。
 食料がありあまっているということは、必要以上に命を食物に変えているということだ。たくさんの命が人間のために犠牲にされている事実を忘れないでおこう。



 人見は随筆を書き終えると、自分の言葉を点検した。書き終えた言葉が、主張するに足る意味を持っているか。自分自身が持っている最良の言葉を出すことができたか。また、自分自身の最良の限界を超えることができただろうかと、書いた言葉を読み上げてみた。
 今書き終えた言葉を誰かに向けて、声に出して主張することはできない、それは恥ずかしいと人見は思った。こんなことを口にして、変な女だと思われたらどうしよう。動植物の命を守ることよりも、保身の気持ちが先に働くことが、情けなかった。
 けれど、書いた言葉であれば、人に伝えることができる。口に出して話すのが恥ずかしいならば、まず書いて伝える努力をなすこと。書いて書いて、書きまくって、自分の心の底からのぞいた言葉に馴れ親しんでくれば、口に出して人に伝えることもできるようになるのではないか。そもそも、話すことが得意だったら、こうして毎日書いていなかったのではないか。まず書こう。書き続けてみよう。この言葉をどう話すのか、考えるのは後でもよい。人見はそう思い、書き終わった記事をブログにアップした。
 ノートパソコンがおいてあるローテーブルの脇、壁際にはローチェストが置かれている。ローチェストには、ステレオコンポ、スタンドグラス、化粧箱、CDラックが置かれている。木製のスピーカーの上には、写真がたてられている。写真に写っている高校の制服を着た少女は、人見の姉、里見である。
 紺のブレザーを着て、校門の前で中学生の人見と一緒に笑っている一橋里見は、大学一年生の六月、自殺して亡くなった。里見が自殺した当時、人見は高校一年生だった。自殺の理由ははっきりしない。里見は、大学のグラウンドにあるサッカーのゴールポストに首を吊って死んでいたという。遺書は残っていない。
 里見と仲のよかった人見は、里見と一緒に映っているお気に入りの写真を部屋にずっと飾っていた。人見は落ちこんだ時や、嬉しいことがあった時、里見の写真の前に座って、里見に向けて自分の感情を語ったりしていた。
 里見がこの世界からいなくなってもう十年以上経つが、人見は今でも姉が自分のすぐ側で呼吸しているような印象を持っている。パソコンの電源を落とし、歯磨きをして、電気を消す前、人見は里見の写真におじぎをした。
「里見。おつかれさま、今日もありがとうね」
 人見は里見の顔を見つめてにっこり微笑んだ。
「なんだ、もう寝るのか。明日もしっかりやれよ」
 人見の心の中に、よく覚えている里見の声が響いた。里見は、大学に入学した当時のまま、歳をとっていないが、人見は里見の歳を追い越し、里見よりも大人になった。それでも、幼少より肉を食べず、動物、植物、昆虫が大好きだった里見は、人見にとって永遠に年上の姉だった。
 ベッドの中に入って、ふとんに包まれた後、人見は里見の顔を思い浮かべた。里見は高校の制服を着て微笑んでいる。
 里見の口元が動く。
「おい、人見聞こえるか」
「聞こえるよ」
 里見の声も、答える自分自身の声も、人見の心の中で響いた。人見の声は、姉の里見よりも大人の声音だった。
「里見、またあの話をして」
 亡くなっている里見に、心の中で声をかける。
「いいよ。けれどお前、本当に好きだね」
 里見の体は生きていることをやめたが、人見の心の中で、生前の姿のまま生き続けていた。
 人見は目を閉じた。真っ暗な視界の中で、里見の声が響く。続いて人見の心は、里見と話していた中学生の頃の自分の部屋にとんだ。
 中学生の人見の部屋に高校の制服を着た里見が入ってくる。人見自身、頭の中で何度も繰り返し見た光景だ。里見が学校であった面白いことを人見に話す。人見も授業中クラスで起きたエピソードを里見に話す。二人で笑いあう。
今人見が頭の中で構成している光景は、実際に体験したものとは異なるかもしれない。複数の別の日に体験したことが、まとめられて総集編みたいに再構成されているのかもしれない。けれど人見は、この光景を懐かしく思うと同時に、つい昨日の記憶であるかのように感じていた。


四 姉の夢語り


 なあ人見、昨日の夜、変な夢を見たよ。
 私は湖を泳いでいた。最初のうちは、湖だとは思えなかった。去年の夏、お前の友達と一緒に海に行っただろ、あの時の海みたいに広かったね。冗談じゃないよ。本当に大きくてさ。まあ潮の満ち干きがなかったから、やっぱりあそこは湖だろうけど。
 私は湖の真ん中らへんで、顔だけ水の上に浮かべていた。水着はつけていない。裸だったよ。寒くはなかった。水は温泉みたいに温かくてね。湖じゃなくて、大きな温泉だったのかもしれないな。
 自動車のエンジン音はしないし、人がいる気配もない。野鳥と虫の鳴き声が遠くから聞こえるだけ。何で私はこんなところに取り残されてしまったんだろうと思ったよ。
 頭を水面からあげて、あたりを見回してみた。霧のたちこめる向こうに、苔むした岩山がかすんで見えた。空には白い満月が浮かんでいる。星もたくさん光っている。満天の星空とは、こういうのをさすんだろうな。
 ゆっくりと時間をかけて、湖を泳いでみた。私が水をかきわける音だけが、耳に響いてくる。湖の下の方には、魚も泳いでいるだろうし、プランクトンや両生類もいるんだろうけど、泳いでいる私の目には、何も見えなかった。
 どんなに泳いでも、岸辺にたどりつけない。遠くに見える山の大きさも変わらない。焦って泳いだら、疲れて溺れてしまうんじゃないか。
 泳ぐのをやめて休憩してみた。不思議と体が浮き上がった。仰向けになって、星空を眺めてみる。空には雲一つない。満月に浮き出ている染みの形がはっきり見える。うさぎが餅をついてるように見えなくもなかった。
 私の体は水の上に浮かんでいた。裸だけれど、私以外に人間の目がないから、恥ずかしくなかったよ。開放された気分になった。水が私の体を支えてくれているみたいだったし、とても心地よかったよ。
 しばらくするうちに眠ってしまいそうになったから、また泳いでみた。ひょっとすると岸辺はどこにもないのかもしれない。私が今いる場所は、湖しかない世界なのかもしれない。遠くに見える岩山には、一生泳いでもたどりつけないのかもしれないなんて、思い始めてしまったよ。
 まあそれでもいい。湖で泳ぐことなんて普段ない。湖のこと、知っているようでいて、何も知らないんじゃないだろうか。湖で暮らしてみれば、とても面白いことがたくさん見つかって、ずっと楽しく暮らしていけるんじゃないかなんて、いろいろ考えたね。
 私の他にもう一つ、湖の上に浮かんでいる物体を見つけた。その黒いものは、遠くに小さく見えるだけ。人間の形はしていない。ボートや機械には見えない。生き物だろうか、木でも浮かんでいるんだろうかと思って、泳いで黒いそれに近づいてみた。
 近づくうちに、そいつの形がわかってきた。そいつは、哺乳類のように見えた。湖の表面に動物が寝そべっている。湖を大地と勘違いしてしまったかのように、動物が浮いていたんだ。
 こげ茶色の毛が全身を覆っている。体は私より大きい。水の上に浮かんでいるそいつは、牛だったよ。
 牛は目を閉じていた。最初は、寝ているんだろうかと思った。この湖はとても心地いいからね。夜だし、太陽が昇るまで眠っているんだろうか。
 気づかれないように、ゆっくりと泳いで近づいてみてわかった。牛の腹が裂けて、内臓が飛び出している。牛の浮かぶ水面に、血が広がっている。この牛は死んでいたんだ。
 何故湖の上で牛が死んでいるんだろうか。牛の腹を何者が切り裂いたんだろうか。いや、牛が死んでいるというのは、私の勝手な思いこみで、この牛は、まだ生きているのかもしれない。腹が裂けながらも、一命をとりとめているのかもしれない。痛みのあまり、眠っているんだろう。何せ牛が湖の表面に浮かんでいるんだ。牛が生きていてもおかしくないだろうと思った。
 怖かったけれど、牛に近づいてみた。私が泳ぐことで、水面に波紋が広がる。私の運動が生み出した波が、牛の体に届く。牛の体が波にあたって揺れる。牛の体から出ている血も、波と一緒に水面に広がっていく。
 波に揺られた牛が、目を覚まさないだろうかって期待した。心地よい眠りを邪魔されて怒り出してくれないだろうか。あくびでもしないだろうか。
 結局牛は、目を開かなかった。私は手を伸ばせば、牛の体に触れそうなところにまで泳いでいた。傷口が見える。溢れ出た内臓を見つめるだけで、瞳から涙が溢れそうになったよ。
 誰がこんなことをしたんだろう。事故だろうか。意図的な殺しだろうか。この牛は、どこか別の場所で腹を切り裂かれた後、この湖にやってきたんだろうか。そう、ちょうど私が家からここに飛んできたように、牛もどこか遠くからやってきたんだろうか。
「牛さん、起きてください。牛さん、意識をしっかり保ってください」
 私は両手を口に添えて、大きな声で牛に呼びかけてみた。
「私の声が聞こえますか。聞こえてるなら、返事をしてください」
 答えはない。私は足を動かして、牛の体のすぐ側まで寄ってみた。手を伸ばして、牛の体に触れてみる。牛は冷たかったよ。生きている哺乳類の体は、たとえ湖の上に浮かんでいるとしても、もっと温かいだろうと思ったら、涙がこぼれ落ちてきた。
 牛の後ろに回ってみようと思った。頭を水の中に沈めて泳ぐと、悲しみを紛らわせることができた。あれくらい大きな動物が死んでいるのを見るのは初めてだったな。自然死じゃない。何者かに殺されたんだ。怖くて、水の中に入っても、涙が続いた。
 牛の大きな背中を両手で抱きしめた。頬と胸を牛の体につけてみる。牛の背中に胸を当てたら、私の心臓がどくんどくんと鼓動していることがわかった。
 牛の心臓は、どくんどくんと脈打っていなかった。ああ、この牛さんは、やっぱり死んでいるんだ。命をもう失ったんだと思った。
 牛の体に頬を押し当ててみる。牛の肌はまだ柔らかかった。生きているなら、もっと柔らかくて、温かかっただろうに。私は牛の体に残っている温もりを記憶することにしたよ。ほんのかすかに残っている温もり。もうこの世界から消えていくだけの温もりをね。


五 ブログの物語


 里見と人見は、よく夢を語り合った。将来の夢、人生の夢についてだけでなく、眠っているうちに見た夢についても、姉妹は語り合っていた。
 お互いの学校で今日起きたことについて語り合うこと以上に、人見は夢の話を楽しみにしていた。人見は話す前に忘れてしまわないように、朝起きた時、ベッドの脇においたノートに夢の内容を記録していた。里見はノートを取っている様子がなかった。一度だけ、里見に夢の記録をつけているか聞いたことがある。里見は一切記録していないと言っていた。人見は朝起きてすぐノートに書こうとしても、思い出せない部分があったので、里見はやっぱりすごいと思ったりした。
 里見が亡くなった今、人見は大切な思い出の一つとして、里見が話してくれた夢を記録することにした。人見の頭の中には、里見の夢の話が残り続けている。これからも忘れることはないだろうと思えたが、どこか外部の媒体に記録して、読み返せるようにしておきたいのだった。
 外部の媒体に記録しておけば、人見がいなくなってしまっても、誰かが読み返して、里見のことを思い出してくれるかもしれない。大学一年で亡くなった一橋里見は、何も特別な人間でなく、偉大な仕事を残したわけでもないが、人見にとっては親しい姉であり、忘れることのできない存在だった。里見のことについて記録し、彼女が生きて、思考していた事実を残しておくことは、人見にとって大切なことだった。
 人見は里見が自殺した原因を知らない。はっきりとしたひとつの理由など見つからないだろうとも思うが、それでも人見は、里見の死を理解したいと願っていた。人が死ぬということについて、理解することなどできないのかもしれない。完全な理解は夢のように遠くにあるのだろうが、里見の考え、発言を記録にとどめておけば、里見が生きていたということ、死んだということの理解の一助になるのではないか。人見は希望をつなげたかった。
 里見について思考をめぐらすのは、人見個人の自由であり、探求である。ただし、人見と同じように、親しい人が自殺して、その自殺を受け止めらない人がいるならば、人見個人の思考の記録が、その人を助けることがあるかもしれない。
 そうした理由づけは、結局後から頭で考えたものであり、無理矢理自分を納得させるための説明に過ぎない。人見の感情は、里見のことについてたくさん書きたいと願っていた。多くの人から忘れられようとしている、一〇年近く前に亡くなった姉について書くことに、感情的に向かいたくても、書いた後で、後悔する可能性もある。こんなことに意味があるだろうか。私以外の誰が、里見について知りたいと思うのだろうかと、疑問は常に浮かび上がってくる。人見は何とかして、自分の感情が生み出す行動に理由をつけたかった。将来自分の行動に迷いを見出した時、自分も周囲の人も納得させる理由が欲しいのだった。
 人見は自分のブログに、里見の夢の話を書いてみた。人見は日記や本の感想を書きとめるためにブログを始めたが、ブログは次第に、動物や植物の生命、食に関するニュースを集める場所に変わっていった。海外や国内のニュースサイトから集めた食糧問題、飢餓問題、動植物の絶滅の問題、バイオテクノロジーなどについて、人見はニュースサイトの記事を引用しつつ意見を述べた。人見自身の食生活を通じて考えたことを、随筆として掲載することもあった。そうした記事の中で、里見の夢の話が場違いなものにならないよう、人見は、動植物の命に関連した姉の夢語りのみを記事にした。夢の語りを連載しているうち、テーマを選別しているつもりが、覚えている里見の夢をほぼ全てブログに書こうとしていることに人見は気づいた。
 里見の夢には、いつも動物か植物が出てくる。人見が里見の死から十年以上たった今でも覚えている夢が、それらに限定されているのかもしれないが、結局、記憶している里見の夢を全部書かない限り、この作業は終わらないのだろうなと人見は感じた。
 人見がこうして、毎日動植物の命と食の情報をブログにしているのも、里見の影響である。もし里見が生きていたのならば、取り組んでいただろうことを、人見は想像し、自分自身で代わりにやろうとしていた。
 人見の周囲で生きている人よりも、亡くなった里見や、動植物たちの方を大事に思っているような自分自身の行動は、間違っているのではないか。もっと生きて、語り合うことのできる存在について、関わった方がいいのではないか。人見は毎日悩んだ。
 里見も、動物や植物たちも、人間に通じる言葉を話すことができない。生きている人間たちは言葉を話したり、書いて意思表示できるが、亡くなった人は意思を示せない。動物は声をあげて人間を威嚇することができるが、やはり無力である。
 言葉を持たない存在の代わりになって、言葉を記録することこそ、自分の仕事ではないか。そう考えて、人見は自分の行動と、動植物や人見の声なき言葉に、意味と力を持たせようとした。


六 姉の夢語り


 自然の流れに身を委ねる。
 人見、無理をしなくてもいいんじゃないか。お前一人だけで、そんなに哀しまなくてもいいと思うよ。哀しみって、誰かとわかちあうものだから。
 全部一人で背負わなくていい。積み荷を人とわけあっても、向こう岸まで一緒に運んで行ける。
 自由に、あの泉の向こう側まで羽ばたいていい。この世界では、空を飛ぶことだってできる。そう牛さんは言っていたっけな。
 過度の涙はいらない。前に向かって歩いて欲しい。来た道を後ろに戻る人もたくさんいるけど、前を向いて歩いていく人は、もっともっとたくさんいるから。人見も、前を向いて歩いて欲しい。私は、空を飛んで見守っているから、そんなに後ろを振り返らなくてもいいんだよ。
 道は曲がりくねっているようでいて、まっすぐだと、牛さんは話していた。日本語の声が耳に聞こえたわけじゃない。頭の中で、声が鳴っていたんだ。
 幻聴幻覚、そんなものじゃない。夢だよ。どこか遠くの世界から伝わってきた夢の話だ。


七 大企業の物語


 私は人生において、今まで一体何匹の牛を食べてきたのだろう。
 私は人を殺したこともない。子どもの頃、草を抜いたり、昆虫をあやめたことはあったが、動物をいじめて殺すことはなかった。
 私自身は手をくだしていないけれど、実際動植物の命を毎日殺すことに私は加担している。この事実を綺麗に忘れて、毎日食事を楽しんでいた。
 もちろん生きていくために他の命をいただく必要がある。人間以外の動物も同じように他の命を摂取して生きている。
 けれど、今の人間たちがやっていることは、なんだか特別なように思える。巨大で、合理的で、必要以上に、消費と利益のために命が奪われている気がする。だから記録しようと思った。
 利益とはなんだろうか。最も貴重な利益とは、命ではないだろうか。
 命の恵みを記録しよう。多くの人に命の恵みを思い出してもらえるように、命の言葉を伝え広めることにしよう。
 今日は、会社の研修で、大企業が主催する研修に参加した。自社のオフィスも、時々顔を出す取引先の会社のオフィスも、雑居ビルの中で、せいぜい二フロアをしめるくらいだ。今日訪問した企業は、六十階以上あるビルの全フロアが本社ビルだった。東京郊外の駅前に本社ビルがある。最近開発された駅前のショッピングモールと、本社が直結している。本社ビルの他に、すぐ近くには展示用のビルもある。地下鉄を降りてから、簡易地図を見ながら歩いたのだが、最初間違って、展示用のビルに行ってしまった。
 本社ビル一階には、深い青紫の絨毯がしきつめられていた。カフェのようにテーブルと椅子が並んでいる区画もある。照明の光は薄暗く、絨毯の色調も落ち着いたものだったので、夜になればカフェのスペースは、ホテルのバーに見えなくもないだろう。
 受付の場所がわからなかったので、エレベーターホール前にいる警備員の人に場所を訪ねてみた。
「あちらに受付がありますので、受付でカードの記入をお願いします」
 眼鏡をかけた警備員さんが、笑顔で受付を指し示してくれた。受付はすぐそば、カフェの前にあったのだった。
 大企業の受付というと、広いカウンターがあって、受付嬢が並んで待っている姿をイメージするが、別物だった。受付嬢四名それぞれに小さなカウンターが用意されている。カウンターのデザインも高級ホテルのバーのようである。企業の受付には見えなかった。
 黒い髪を上にまとめた清楚そうな受付の女性に挨拶する。不況かつ男女平等のご時世でも、大企業ではいまだに受付嬢が存在するのだ。まあ受付嬢という古風な呼び方でなく、「キャビンアテンダント」のように「政治的に正しい」男女差別のない呼び方なのだろうが。
「一橋人見と申します。研修で来たのですが」
「当社グループのロゴマークが入った社員証はお持ちですか」
「持っていません」
「こちらの用紙にお名前と会社名をご記入ください」
 訪問者カードにペンで名前を記入し終えると、お客様用の名札をもらった。社員証を持っていない人は、お客様として研修に参加するのだ。名札のビニールの中に自社の名刺を入れてから、名札を胸元につけた。
 先ほど受付の場所を尋ねた警備員さんに挨拶してから、エレベーターホールに向かう。研修会場は、ビルの五十五階にある。エレベーターが停止する階は、全て同じ会社のオフィスなのだと思うと、体が緊張して縮まった。エレベーターホールにいる男性たちは、首に社員用のセキュリティーカードをぶらさげいる。毎日のようにこのエレベーターを利用しているのだろう。
 彼らと私は同じ人間だ。しかし、彼らは別世界で生活しているように思える。私も彼らも、オフィスでパソコン仕事をしている点は同じだ。しかし、ビルの存在感がまるで異なる。
 私が働く会社のビルは、新築だが、九階までしかなく、他の会社のオフィスと共用である。こちらのビルは、受付、一階の内装からして異なる。高級感があり、立派で、紋切り型の企業には見えない。私の会社も、ここも、同じ仕事をしているのだとは、とても思えなかった。
 大学時代の友人たちの中には、このような有名大企業の本社で働いている人も多いだろう。私も選ぼうと思えば、こうしたビルの、特別に区切られた世界の中で、正社員として働くことができたのだ。しかし、私は大企業で働く道を選択しなかった。
 大学生の私には、このように区切られた世界は、胡散臭いと思えた。この区切られたスペースの中に入れば、安定した生活が保障される。裕福な生活を送るのに十分な収入と、社会的ステータスも確保されるだろう。しかし、日本の日常と、地球の中で起きている真実から隔離されるような気がした。こうした巨大組織に所属すれば、自分の体は守られはするが、胡散臭さの鎖国に陥ると思えたのだった。
 高層階行きのエレベーターは、途中の階を飛ばして駆け上がった。途中、社員用のセキュリティーカードをぶらさげた女性がエレベーターに入ってきた。彼女はどういう経緯で、この会社に入社したのだろうか。新卒だろうか。途中入社だろうか。実は派遣社員だろうかと、いろいろ勘ぐった。
 五十五階に到着する。一階から一緒にエレベーターに乗った男性社員と一緒に降りた。先ほどの女性は、さらに上の階に行くようだ。
 研修会場前には、人だかりができている。研修会場の隣は、新製品の展示ブースになっている。グレイのスーツを着た中年男性たちが笑顔で話している。顔見知りの人も、たくさん集まっているのだろう。
 私は研修資料を受け取ると、展示ブースを見回ることもなく、研修会場の真ん中の席に座った。最初は端の席にひっそり座ろうと思ったが、端ではスクリーンの映像がよく見えなかったので、会場の真ん中に座った。
 研修が始まるまでは、プレゼンテーション用のソフトで作られた研修資料を眺めた。レイアウト、資料の見せ方、うちの会社で作っている資料よりも優れており、大企業感があった。
 研修のテーマは、仮想化技術の最近の動向について。専門の情報技術用語が頻繁に出てくる。グループ会社所属の、スキルもキャリアもある専門家を対象にした内容に思えた。予備知識のない私にとっては、言葉の意味がわからず難しい話だった。
 研修中は、腰と肩が痛んできた。日中、パソコンをいじっている時も体が痛いが、パソコンを触っていない時こそ、痛みが増す。研修内容をつまらないと感じたせいか、いつにもまして節々が痛む。コンピューターの仕事をしているのに、コンピューターが嫌いなせいだろうか、動物と植物の命を日頃たくさん食べ過ぎているせいだろうかとも思えた。
 研修が終わると、参加者たちが挨拶を交わし始めた。私は知り合いもいなかったし、一人場違いなところに顔を出してしまったような恥ずかしさもあったので、足早にエレベーターホールに向かった。五十五階から一階にたどりつくまで、階段を歩けば長時間かかって、肉体も疲労したろうが、エレベーターを使えばすぐだった。
 短い時間のうちに、やっぱり、大企業の道を選択しなくて正解だったと思った。このような大企業は、外見からして魅力的だが、この道を選んでいたら、きっと毎日がつまらなかっただろう。見栄のため、人からどう思われたいかというのを理由に、仕事を決めるのは間違いだ。見栄は満たされたとしても、魂が満たされない。魂という表現が胡散臭いなら、精神、実存、個人的な達成感、なんでもいい。満たされないだろうと思えた。
 もちろん大企業で働いて、魂が満たされる人も多いだろう。大企業にふさわしい人はたくさんいる。大企業という存在が悪なわけではない。私の魂が、たまたま大企業に向かなかっただけだ。自由のある小さな会社で働いているだけで、体の節々が痛むのだから、大企業で働けば、より疲労しただろう。
 五十階を超す高層ビルがすべて自社のオフィスであり、グループ会社もたくさんあるような大企業は、日常生活から隔離された存在だが、同時に、日常生活に様々な商品、サービスを提供している存在でもある。大企業の活動を抜きにして、今の社会は成立しない。
 社会の中枢を組み立てている大企業は、何故こうも日常から隔離した雰囲気を持っているのか。隔離しているからこそ、日常に存在する様々なものを生み出しているのだろうか。
 青山にある自社に戻る途中、コンビニに寄って、ブルーベリー入りのヨーグルトジュースを購入した。コンビニも、ヨーグルトジュースの生産元企業も、広告をたくさん出している有名大企業だ。今日訪問した大企業と似たように巨大な自社ビルを持って、全国各地に支社を持っているのだろう。大企業の介入を通して、牛の乳からできたヨーグルトが、私のもとに届けられる。ブルーベリーとヨーグルトが混ぜられる。プラスチックのパックに入れられて、ストローをつけられて、コンビニエンスストアの棚に百五円で、ヨーグルトジュースが並ぶことになる。
 自社に着いて、ブルーベリー入りのヨーグルトを飲んだら、疲れがとれた。こうして命の恵みを受けて、他の命をいただいて毎日生き延びているのだから、そのお返しとして、大企業に負けない仕事をしようと思った。
 私個人の力でやるのではない。私が口に入れてきたたくさんの命の恵みの力を集めて、仕事を成すのだ。


八 姉の夢語り


 この地球で生きていくために必要なことは、競争することじゃなかった。切磋琢磨することは必要だけれど、自分の利益を拡大するために他人を蹴落とすことは、決して必要なことではなかったんだ。
 私はゴッホの絵が好きだ。ミレーの絵もそれ以上に好きだよ。農村で働く人たちの絵、中学生のお前には、刺激がなさすぎて、つまらないかもしれないな。けれど、高校生くらい大人になると、味がわかってくるもんだよ。
 ミレーの絵に出てくる農家の人たちは、植物を育てて、働きながら、祈っている。ミレー自身も、農村の絵を描くことを、祈りと等しい行為だと思っていたかもしれないな。ゴッホだってそうだ。
 大学受験の勉強をしながら、勉学が祈りと等しい行為だと思うことは、なかなかできないよ。人見だってそうだろ。科学技術が発展すると、何かについて祈る行為なんて、矮小化するんだから。
 昨日の夜見た夢の中で、私と人見はシスターの格好をしてたよ。白い修道着を身につけているんだけど、教会で祈ってはいない、畑で種を撒いてたんだ。二人並んで、かごから種を手にとって、畑に撒いていくんだ。植物が大きく育つことを願って、果物の豊かな実りを願って、種をどんどん撒いていったよ。
 ミレーもゴッホも、種を撒く農民を描いているの、知ってるか? 収穫よりも、大切なのは、まず種を撒くことだ。命の始まりは、小さな種だった。種もやがては芽を出し、葉を広げ、花を咲かせるんだ。
 種は親である植物から出てきたものだ。人間がお手伝いしているけれど、植物の親と子の命は、種を介してつながっているんだって、種を撒きながら思ったよ。種を撒いている時の人見は、とっても可愛らしい笑顔をしていたぞ。シスターの格好も似合っていたな。
 私たちが種を撒いている畑の周りも、みな畑だった。どこの畑でも、農家の人たちが種を撒いている。歌声が聞こえる。太陽が輝いている。私は夢の中で、絵の中の世界に入りこんだのかもしれないな。
 種を撒いて、収穫して、土を耕してから、また来年種を撒いて、収穫して、土を耕して、同じことの繰り返しだ。戦争でも起きない限り、平和な毎日が続く。ずっとずっとね。
 種はいつでも大地に根づいて、成長して、実を結ぶ。あの種から、どんな果物が実るんだろう。楽しみだな。
 種を撒き終わって、人見と一緒に教会に戻ることにした。農道を歩いていたら、道端に耳が落ちているのを見つけた。人間の耳が片方だけ落ちていた。今ナイフでちぎったばかりみたいに、耳の付け根の部分から、赤い血が垂れている。私は耳に気づいたけれど、人見は笑ったままで、気づいていなかった。
 人見には知らせないでおこう。このまま教会に帰って、夜一人でもう一度、耳の落ちている場所に戻ろう。そう思って、耳のことはだまっていた。結局、教会に戻る前に、目が覚めたから、その続きは見ていないけれど。
 あの耳はどうして、農道の脇に落ちていたんだろう。誰の耳だろう。もう誰の言葉も聞きたくないと思った人が耳を切り取ったのか。人間の耳ではなく、子どもがいたずらして切り取った動物の耳だったのか。それともやはり、ゴッホの耳なのか。
 いつか夢の続きを見るんだろうか。同じ農道に立った時、あのちぎれた耳は、残っているだろうか。


九 デフレの物語


 夜、会社近くの中華料理店で食事をとった。天井近くの棚に、液晶テレビがおかれている。この液晶テレビは大企業が作ったものであり、テレビに流れているニュースも、大企業が制作したものだ。
 政府がデフレだと発表したそうだ。物が売れないから、物価が下がる。ニュースになる前から、食品、洋服、レンタルビデオの価格が下がっていたのを実感していたから、別に驚きはない。デフレの現実を政府が認めただけだ。
 デフレだデフレだとニュースキャスターが騒いでいるが、個人的には、何を今更と思う。日本国内に商品が溢れすぎている。商品の過剰生産は、日本国内だけでなく、諸外国でもそうだろう。
 商品を買うことが、もてはやされている時代だ。物価が下がっていることよりも、根本にある、商品が溢れすぎていることの方を問題視すべきではないだろうか。
 物価がさがると、企業はコストを削減しようとする。まず人件費が削られる。従業員の給料が下がったり、失業者が出たりする。給料の少なくなった人たちは、商品を買わなくなる。売上を確保するために、お店がますます価格を下げる。商品価格の減少は、給料の減少と一緒に続いていく。こうした連動現象をデフレスパイラルと学者が名づけた。
 市場にたくさんの商品があるし、そのうちの多くがゴミになっているにも関わらず、新商品を作り続けているのだから、物価が下がって当たり前ではないか。
 ニュースを見ているうちに、卵と肉野菜の炒め定食が出てきた。白いご飯、餃子二つ、卵のスープもついている。鶏の卵の命、豚の命、野菜の命、稲、油、これらの命の恵みが、七百五十円で提供されている。命が安く提供されている。
 必要なことは、手に入れた商品、給料を次々と使い続けて無駄に消費することでなく、仕事から得たお金と商品の恵みを、大切に感じることではないだろうか。
 商品を慈しむこと。食料となった動植物の命の恵みに感謝すること。
 料理してくれたキッチンの店員さん、注文を取り、定食のトレイを運び、レジを打ってくれたホールの店員さんの働きに感謝すること。
 とてつもなく精神的な話で、実際は何の役にも立たない考えかもしれない。多くの人の生活を助ける、実用的な知恵ではないかもしれない。しかし、多くの人は、自己の利益を高めるための知恵ばかりを身につけて、手にしたものを慈しむ心を忘れてしまった。
 忘れないでおこう。思い出しておこう。もし私が卵を食べなかったら、卵は鶏になっていたかもしれないということを。
 私が卵を食べなかったら、別の人がその卵を食べたかもしれない。仮に誰にも食べられることなく、卵が孵化してひよこになり、無事成長して鶏になったとしても、最終的にはやっぱり鶏肉になって、市場に出回るかもしれない。もし彼女がメスで、無事成人して、交尾して、卵を産んだとして、彼女がこの世界に送り出した卵は、世界に姿を現した瞬間、市場に送り出されるのかもしれない。
 こうしたことを忘れないで、記憶にとどめるようにしよう。経済は、人間の手の中で行われているわけではない。人間の手は、鶏の卵を市場に持ってくる。牛の乳を市場に持ってくる。鶏の親と子が一緒に調理されて、親子丼になったりもする。人間の手は、動物と植物の命を自由に扱うのだということを、よく覚えておこう。
 中華料理店からの帰り道に、ファストフード店がある。ハンバーガーが販売されている。牛肉の扱いについて、世界的に問題にされているファストフード店だ。批判の声も多いけれど、今日もお客さんで行列ができていた。今日だけでない、このお店は毎日行列ができている。
 世界中いたるところの都市で、このファストフード店は、行列を作っている。ならば、そこまで批判すべきことでもないのではないか。
 先ほど言った食物の命を大切にするという考えと反対のようだが、このファストフード店が作り出すハンバーガーは、たくさんの人、家庭に幸せを送り届けているのではないか。
 ハンバーガーを作って販売することが、そんなにいけないことならば、法律で禁止すればいい。けれど、ファストフード店でのハンバーガーの販売は、法律で禁止されていない。菜食主義者は、ファストフード店にいかなければいい。ハンバーガーの製造工程に問題があるなら、指摘して、改善すればいい。
 ファストフード店でのハンバーガーの販売は、法律で今すぐ全面的に禁止すべき問題ではない。人間は雑食性の動物である。人間は、鶏の卵を食べることもあれば、ハンバーガーを食べて幸せにもなる動物である。ライオンも、他の動物の命を食べる。鶏や牛も自分以外の命を食べる。人間の雑食性は否定しきれない。私にできることといえば、肉食全面廃止を法律化することなどではなく、適切な量だけ食事をいただいて、食物の恵みに感謝することを呼びかけることくらいだ。
 ハンバーガーは百円で売られていたりする。数年前はずいぶん安いと思ったものだが、今は低価格が当たり前になったせいか、安いとも思わない。習慣とはおそろしいものだ。感謝しなければ、すべての出来事が、当たり前に、自分の前に存在するものになってしまう。ちょっとでも商品に不満があれば、文句を言うような存在になってしまう。
 人間の手が、自分のもとに手繰り寄せるものは、すべて当たり前に、こちらにやってきたのではない。何かから奪ったのだ。
 もし自分が奪わなかったら、生き延びたかもしれないもの、他の何者かが奪ったかもしれないもの、それを私たちは、手繰り寄せている。今、自分の手が手繰り寄せているもの、過去に手繰り寄せたものに感謝しよう。
 次から次へと新商品が欲しくなるのは、自分が手にしたものの恵みを忘れてしまうせいだ。購入する瞬間の快感に溺れているせいだ。瞬間で消える喜びでなく、持続する喜びを大切にしよう。
 生きていることはそれ自体で喜びであり、命に触れることもまた、喜びである。忘れないように、記憶してみよう。


十 姉の夢語り


 泣いている女の子がいた。その子は白いワンピースを着て、裸足で立っている。真っ直ぐの髪を震わせて、両手を瞳にあてて、涙をふいている。
「どうして泣いているの? 何が悲しいの?」
 答えはない。何故って理由を尋ねてみても、彼女の悲しみを救うことはできないだろう。それじゃあどうしようか。
 彼女の体に触れてみた。肩が震えている。
「もう泣かなくていいのに」
 私が発した言葉にはきっと、「どうして泣いているの?」という問いかけが続くだろうな。これもまた何故の質問だ。聞かなくてもいいことだった。
 ただじっとだまって、背中をさすること。 
 悲しかったんだね。気がすむまで泣いていいよ。泣きたい時には、涙をたくさん流していいんだ。
 口にしなかったが、手で背中をさすりながら、心の中で言葉を唱えた。私の手のひらから、彼女の体の芯に言葉が伝わるようにしながら。女の子は、私の胸に顔をうずめて、泣き続けたよ。可愛かったな。愛おしかった。
 どこの子だろう。どうして私のところに来たんだろう。そんな質問も不要だった。ただ私の目の前に泣いている女の子がいるんだ。こうやって抱きしめるのは、当たり前のことだろう。
 彼女は延々泣いた後、顔をあげて、笑顔を見せてくれた。
 彼女の顔は人見、お前の小さい頃にそっくりだったよ。あ、彼女は人見なんだと思った。
 今の人見より、ずっと背が小さくて子どもだった。小学校一、二年生くらいの雰囲気だったから、知らない子だと思ったのかもしれない。ごめん。怒らないでくれよ。
 夢の中に出てきた小さい頃の人見が笑ったから、私も笑った。



 人見は姉の夢語りをブログの記事としてアップした後、この夢語りの中に、動物と植物に関する言及がないことに気づいた。
 これでは私の個人的な話に過ぎない。どうにかできないものか。
 悩むうちに、人見の頭の中に、白い卵のイメージが浮かんできた。何の動物の卵かはわからない。卵は夢に出たがっているように見える。人見は姉の夢語りに、自分の頭の中に舞い降りてきた卵のイメージをつなげることにした。



 あたりは白い霧に包まれている。遠くは見えない。地面も白いし、空も真っ白。部屋の中のようだけど、外にいるような空気の湿り気がある。
 女の子が笑いながら、霧の向こうに走り出した。女の子の体が見えなくなる。霧の中に私だけが残った。
 私はその場に残った。さびしいと思い始めたら、子どもが駆け足で近づいてくる音が聞こえてきた。霧の中から女の子が戻ってきた。両手に白い卵を抱えている。あんな大きな卵、初めて見たよ。
「危ない。そんなに慌てて走ったら、卵が割れちゃうよ」
 女の子が私の前で立ち止まる。卵を差し出す女の子の笑顔から、私のことが大好きだって気持ちが伝わってくる。
「え? これ私にくれるの?」
 自分の顔に指さして、女の子に確認してみた。人見の小さい頃にそっくりな少女が、笑って三回うなずいた。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
 女の子から、卵を両手で受け取った。想像していたよりも、卵はずっと重かった。大人になったら、人間よりも大きく成長する動物の卵なのかもしれないな。
「これ、何の卵?」
 女の子は笑顔で首を横にふった。何の卵かわからないのだろうか。
「食べること、できるのかな?」
 女の子はまた首を横にふった。今度は笑っていない。食べちゃだめって言われている気がする。
「持って帰ってもいい?」
 女の子が首を縦に振る。両方の唇の先端をあげて、にっこり笑っている。人見の笑い方によく似ていたよ。
 私は卵を持って、女の子が卵を取りに走っていったのとは、反対の方向に歩いて帰ることにした。女の子が卵を取りにいった方には、私の家がないように思えた。家があるとしたら、卵と反対側だろう。
「ありがとうね。これ、大切にするね」
 女の子が笑顔で手を振る。私は片方の手で卵を胸に抱きつつ、片方の手を振ってお別れの挨拶をした。
 さっきまで笑っていた女の子が、また泣きそうな顔に戻った。私と別れるのが、辛いんだろうか。鼻をひくつかせ、口を震わせている。
 もうだめだ。このままじゃまた泣いてしまう。女の子のそばに残ろうか。それとも、彼女にもう一度お別れの挨拶をして、やっぱり帰ろうか、迷った。
 しかし待て、私が帰る家は本当にあるのだろうか。卵と反対の方に歩いていったとして、私はこの白い場所から抜け出て、家に帰ることができるのだろうか。
「あなたのお家はどこにあるの?」
 女の子に聞いてみた。
 女の子は泣きそうな顔のまま、卵を取りに行った霧の向こうを指差した。
「お姉ちゃん、遊びに行っていいかな?」
 女の子が何度もうなずく。
「じゃ、早速いこっか」
 二人で歩き出した。彼女が何故しゃべらないのかはわからない。私の言葉はわかるようだけど、女の子は一言も話をしない。
 私は彼女の後について、霧の中を歩くことにしたんだ、卵を持ちながらね。



 ここまで書き足してから、人見はブログの記事を更新した。里見の夢語りの内容を、里見の許可なく改変した。余計な部分をつけたしてしまったろうか。生きていた頃の里見なら、想像しないような話、夢に見ても口にしないような話を、捏造してしまったろうかと人見は悩んだ。
「いいよ人見。自分以外の存在に縛られる必要はない。頭の中に溢れてきた言葉をエゴでつまらせないで、そのまま素直に流し出せばいいんだ」里見の声が、人見を後押しした。
 今、人見が心の中で聞いた里見の声は、里見自身が話した言葉ではないかもしれない。人見の記憶も、確かなようで曖昧だ。人見にはもう、里見が語ったかもしれない言葉と、里見が実際に語った言葉の区別が、つかなくなっていた。大切な人の言葉を残したかったのに、人見の心の中で何度も反芻された結果、里見の言葉のオリジナルは何なのか、わからなくなっていた。
「私の言葉でも、人見が考えた言葉でもいい。人見の心と私の心が混ざっていても、何の問題もないよ」
 人見の心にまた里見の言葉が響く。
 人間は野菜も食べれば、肉も食べる雑食性の動物だ。草食動物は草を食べ、肉食動物は肉を食らう。草と肉を両方食べる雑食の人間なのだから、純粋無垢は目指さず、混合していてもいいだろう。純粋性を誇りにして、区分けしていたら、差別と憎しみが生まれるよ。
 人見の心の中に、里見のささやきが聞こえた。


十一 勤労感謝の物語


 三連休最後の日、中野駅前のネットカフェに行ってみた。昨日初めて行ってみて、今まで通っていたネットカフェよりも内装やドリンクの質がよかったから、二日連続で同じ店に行ったのだ。
 昨日は他のお店と違って素晴らしいと感動したのに、二日目の今日は、感動がなかった。動植物の命についての記事をたくさん書きたかったが、店内でカレーを注文して食べたら眠くなったので、うたた寝をして終わった。
 繰り返すと、感動が薄れてしまうのは、人間の習性だろうか。一つ一つの製品、サービスの提供を、ありがたいものとして、受け取ることにしよう。
 クリスマス一ヶ月前になったせいか、コンビ二やスーパーに入ると、店内にクリスマスソングが流れている。まだ一ヶ月もあるのに、早すぎではないかと思うけれど、そのうちクリスマス商品が並んで、ケーキも出てくるのだろう。
 クリスマスソングをお店で聴くと、なんだか居心地悪くなるのも、悪い癖だ。ただ単にクリスマスの音楽が鳴っているだけだ。クリスマスイブを過ごす恋人がいなかったり、家族がいないからといって、緊張したり、引け目を感じる必要はない。
 クリスマスを祝福しよう。恥じることもない。サンタクロースはたくさんの家庭を祝福している。子どもたちに夢を与えている。クリスマスは一人でいる寂しさを感じ、やるせなさを感じるための日ではない。祝福の日だ。
 ネットカフェから自分の部屋まで歩いて帰る途中、ホームレスの女性を見かけた。彼女はいつも、地下鉄入り口付近の歩道に荷物をおいていた。キャリーバッグに十個以上のビニール袋がくくりつけられていた。キャリーバッグに貼り付けられられた、開いた傘が、雨から荷物を守っていた。通勤途中、荷物と一緒に何度も見かけた彼女は、今朝、ネットカフェに向かった朝も、地下鉄の入り口前に荷物と一緒に立っていた。
 正午に彼女を見かけたのは、今日が初めてだった。白髪のまじった長髪の彼女は、古びたダウンジャケットを着て、裏道にある小さな公園に佇んでいた。公園は、家一軒ほどの広さしかなく、住宅の狭間に存在している。公園にいるのは、彼女のみ。彼女は太陽の日差しを浴びながら、公園にただ立っていた。
 彼女は三連休の休日も一人きりで、他に話す相手もなく、佇んでいるのだろう。私も含めて、この街に住む多くの人が、彼女の存在を知っているはずだ。彼女は一年以上前から、この街の路上で暮らし始めた。みんな声をかけない。私が見ていないだけで、彼女と話している人はいるのかもしれないけれど、少なくとも私は知らない。彼女はクリスマスの日も、今日と同じように一人、路上や公園で生きていくのだろう。
 私はたくさんの人の力になりたいと思っている。仕事を通して、一人でもたくさんの人を幸せにしたいと思っている。私みたいに考えている人は、きっと東京にもたくさんいて、みんな毎日働きながら、生きているはずだ。食事を作る人、コンビ二で働く人、スーパーで働く人、大企業の本社ビルで働く人、クリスマスソングをお店で流す人、みんな誰かを幸せにするために働いている。けれど、ホームレスの彼女を前にして、私はいつも無言で通り過ぎる。多くの人もそうだ。
 社会の中で働くことを放棄して、一人で生きることを選択した人たち。彼ら彼女らは、自分の意志でその道を選んだわけではないかもしれない。何か強制的な、自分ではどうにもならない力に巻きこまれて、その道を選ばざるを得ない状況に陥ったのかもしれない。
 働き、ホームを持つ輪から外れた彼女たちの生活と、働く人たちの生活は、隔絶している。同じ街に暮らしながらも、離れている。
 けれどどうだろう、彼女がホームレスだからこそ、特別に超えられない距離、話しかけにくさを感じ取れたのだとしたら?
 実は、歩道ですれ違う人に気軽に話しかけることなんて、歩行者全員に対して禁じられているのではないだろうか。
 誰が命じたわけでもない。歩道ですれ違った見知らぬ人に、気軽に話しかけてはいけないという暗黙の掟。
 話しかけてみたい、力になれることはないか考えたいと思いながらも、何もできなかった。もどかしい。みんながやっているからといって、みんなと同じことをしていては、何も変わらない。自分に何ができるのか。自分に残された時間を使って、どんな仕事ができるのか。
 言葉のない存在。他の存在の食料になるためだけに生まれて、育つ存在のために、働くこと。
 そういえば、今日は勤労感謝の日だった。食用の植物や動物は、誰かに食べられるために、肥料をたくさん食べて大きくなることが仕事だろうか。死んで、捕食者のために食べられるために生まれたことが、彼らの命の意味、命の目的だろうか。
 命の意味、存在の意味について考えてみること。何故生きているのか。捕食者に食べられるためか。別の種を食べて生き残るためか。
 食べて、食べられて、その果てに何が見えてくるのか、命の目的を想像してみよう。
 想像の瞳に見えてくるのは、命のつながり、命のプールだ。
 動植物と、捕食者である人間の命はつながっている。私の体の中には、たくさんの命が息吹いている。昨日口にした動植物の命が、今日の私の命を持続させる。そう想像してみよう。だとしたら、たくさんの命を体の中に持つ雑食性の人間は、何を語るだろうか。
 人間は生きていくために、仕事をする。お金を稼いで、食事を買う。けれど実は、仕事をしなくてもいいのだ、ゴミ箱の中に食料がたくさん溢れていたりする。想像力を働かせてみよう。ゴミ箱の中に余分な食料をたくさん捨てるために精一杯エネルギーを使って働くのか。
 ゴミ箱に入った食料とは、ゴミではなく、命である。想像力を働かせてみよう。何を食い止めるために、仕事をしていくのか。何に反逆するために、働くのか。大切な恵みである勤労感謝の日に考えてみること。


十二 姉の夢語り


 女の子からもらった卵を胸に抱いて、霧の中を歩いていく。
 私は、パジャマを着ていた。女の子はワンピース。二人とも、靴も靴下も履いてない。裸足で歩いていても、白い地面は温かく、柔らかい。
 歩みを進めるとともに霧が深くなっていく。前を歩く女の子の背中さえ、かすんで見え始めた。
「ねえ、どこまで歩くのかな?」
 女の子は答えない。白い霧に包まれて、私たちの体は消えてしまいそうだ。
 両手で抱えている卵を重く感じるようにもなった。もらった時よりも、心なしか卵が膨らんだように感じられる。ひょっとしたら、卵が割れて、中から動物の赤ちゃんが生まれるんじゃないかと思ったね。
 卵が割れて、赤ちゃんが出てくる場面を見たことはなかった。もちろんテレビで誕生の瞬間を見たことならあるよ。けれど、自分自身の目で実際に、卵が割れた後に赤ちゃんが出てくる場面なんて、見たことないだろ。人間の赤ちゃんが生まれる場面だって、テレビでしか見たことないんだしさ。
 私たちが卵を割る時って、目玉焼きを焼く時か、ご飯に生卵をかける時だもんな。卵の殻をむくっていうのもあるな。ゆで卵を食べる時だ。ゆでて固まった白身と黄身が出てくるだけ。卵の中に、本当は動物の赤ちゃんの命があるってことは、随分小さい頃に教わった。けれど卵を食べている時、赤ちゃんを食べている気にはならなかったな。何故なら、そう大人に聞く前から、卵を栄養としてよく食べていたから。
 自分はもうたくさんの卵を食べているのに、それが動物の赤ちゃんの命だと聞かされて、もう卵を食べたくないって思う子どもはいるだろうか?
 みんなたくさんの卵を食べて育っていたんだ。へえ、そうなんだ、冷蔵庫に入っている卵って、雌鳥が産んだものなんだって感心して、それで終わりだ。
 牛乳が、お母さん牛のおっぱいから出る乳だと初めて知った時も、へえそうなんだって感心したのみだった。子牛が飲むはずの乳を、自分たちがもらい受けている、お母さん牛と子牛に申し訳ないことをしたなんて、思いもしなかったな。だってそうだろう、そう知る前に、たくさんの牛乳を飲んできたんだから。
 鶏肉も豚肉もたくさん食べるけれど、鳥乳や豚乳は飲んだことがない。けれど人間は、牛乳はよく飲むんだ。よく考えてみると、おかしな話だ。スーパーに行けば牛肉がたくさんあるし、牛乳もたくさんおいてある。チーズもヨーグルトも、牛乳をもとにした食品だ。私たちは、どれだけ牛の命の恵みを受けているんだろう。
 一体何匹の牛から、乳を搾り取ったんだろう? 子牛が本来飲むべき牛乳を私は奪って、飲んできた。霧に包まれながらそう考えていたら、ぞっとしたよ。女の子の姿が見えなくなった。周りは深い霧。卵は内側から振動し始めている。
「ねえねえ、卵が割れそうだよ」
 女の子が歩いている方に声をかけてみた。女の子の気配はない。考えているうちに、はぐれてしまったのか。私の声が聞こえなかったのか。私は呼びかけたつもりでいたけど、実は言葉を発せていなかったのか。
 私は卵を持って走り出した。どんなに走ってみても、女の子の姿は見当たらない。卵や牛乳のことについて考えすぎていたのが悪かったのか。叫びながら走っても走っても、霧は晴れないし、女の子も見えないから、立ち止まってみた。
 サッカーのゴールポストが見える。ゴールポストにゴールキーパーはいない。サッカーボールも、選手も審判も見当たらない。
 ゴールポストには、大きな牛の体が吊るされていた。牛は表皮を剥がされて、赤い肌をさらしている。ロープの縄で脚を縛られて、逆さに吊るされている。
 誰だろう? こんな悪戯をしたのは?
 私は卵を持ったまま、吊るされた牛に近づいてみた。牛肉処理工場で、ベルトコンベアーで運ばれる牛は、こんな格好になるんだろうか。
 ゴールポストに吊るされている姿を見ると、処刑寸前の姿に見える。いや、寸前じゃない。この牛はもう処刑されてるんだ。ゴールポストに吊るされた牛を見た人は、みな不快に思うだろう。刺激を求めている人の中には、喜ぶ奴もいるかもしれない。けれど悪趣味だ。命をけなす残酷な仕打ちをみんなに見せつけて、喜ぶ連中がいるんだ。
 哀しいという感情は、こういう時にわき起こってくるものなんだろうね。小さな怒りの後にすぐ、大きな哀しみが続いた。悪戯のために奪われた牛の命に申し訳なく思った。
 目を落としてみる。ゴールポストのそばにおいた卵にひびが入ていることに気づいた。割れそうだ。命が生まれるんだ。牛はこうして殺されたけれど、卵から新しい命が生まれるんだ。卵は誰かに食べられることも多いけれど、命の結晶であり、命と愛情をつなぐものだ。卵の中には、黄身でも白身でもなく、赤ちゃんがいるんだ。
 卵が音をたてて割れた。卵のてっぺんだけが破られた。上から覗いてみた。
 卵の殻の中に、人間の女の子の頭が見えた。綺麗な長い髪の毛だ。女の子は卵の殻の中で、脚を両手でかかえて座っていた。透き通った肩、背中も見える。彼女は裸のようだ。
 卵の中には、人見、お前が入っていた。人間の女の子が、卵の中で誕生を待っていたんだ。この卵が、誰かに食べられなくてよかったと思ったよ。


十三 殺生の物語


 卵が割れる場面を書き終えてから、人見はノートパソコンのキーボードにおいていた両手を放した。
 姉の夢の中で何が起こるのか、人見自身先を予測しないままに、夢語りを書いていった。ゴールポストに吊るされた牛のイメージは、書いている最中、里見の自殺を人見に想起させた。里見は大学のゴールポストに首をくくって自殺したのだ。この牛は里見だろうか。自分の記憶の中に存在する里見が、ゴールポストに吊るされた牛のイメージを書かせているのだろうか。この夢語りの続きは書かない方がいいのではないだろうかと人見は悩んだ。しかし、書き終わらなければ、次の人生にすすめない気がして、書いてみた。すると、卵が割れて、裸の人見が出てきたのだった。
 ステンレスのマグカップに入れた無糖のアイスコーヒーを一口飲んでから、人見はリモコンを押して、液晶テレビの電源を入れた。無糖のアイスコーヒーは、近所のスーパーで買ったものだ。一リットルのペットボトルで百九十八円。ペットボトルの中には異国で栽培されたコーヒー豆の命がつまっているだろう。コーヒー豆の命の恵みに感謝しながらコーヒーを飲んでいたら、テレビニュースが、とある殺人事件の初公判の様子を伝えた。
 半年以上前、総理大臣や厚生大臣を経験した大物政治家が自宅で刺殺された。誰が犯人だろう、どういう動機だろうと、ニュースが盛り上がった。事件から数日後、犯人は自首した。自首した男は、子どもの頃飼っていた犬を保健所で殺されたから、それを恨みに思って、殺人を犯したと語った。自首した男は、マスコミ向けにファックスで、犬の命の重みを語り、犬の命の虐殺を非難した。
 人見も含めて、大勢の人が、自首した男は嘘をついていると思った。本当の動機は別にあるのではないか。男の後ろには、マスコミに出てこない組織があるのではないか。疑惑は膨らむが、ニュースは次第にこの事件を取り上げなくなった。自首した男は、動物愛護の思想を殺人の動機として語り続けた。
 初公判でも被告は、動物愛護の思想を語った。人見は胸が痛んだ。被告が本気で動物愛護の思想を語っているのであれ、虚偽であれ、動物愛護の考えに対して、偏見と誤解が助長される未来が想像された。動機は不可解だと言われる。動物を可愛がっている人たちも、そうでない人たちも、違和感を感じている。
 もし里見が自殺せずに生きていたら、このニュースを見て、何を思うだろうか。
 人見は再びパソコンのキーボードに両手をおいて、里見の言葉をパソコンの画面に映し出してみることにした。
 テキストエディタのソフトを起動して、里見の言葉が溢れてくるのを待った。指が走らない。里見は何も語り始めなかった。



 今言葉を語り出す必要があるのは、私だ。里見はやっぱり、死んでいるんだ。生きている私が、しっかりと言葉を生み出していこう。



 人見の頭の中に、手を振る里見の姿が見えた。里見は相変わらず、高校の制服を着ている。人見はもう中学生でなく、社会人として労働している。自分専用のノートパソコンを持って、動植物と人間の命についてのブログを毎日更新してもいる。
「さようなら里見」
 人見の頭の中で手を振る里見は、笑っていた。
 人見は里見の自殺後、大好きな里見と会えない未来が自分に訪れたことを、ずっと不幸だと感じていたが、今は哀しい気分が晴れた。里見が自殺したことは、当時の人見にとって不幸だったが、未来にまで引きずる必要はないと思えた。
 生きている、言葉を交わす人たちに向けて、言葉を出していくこと。言葉を話せないものたちの代わりに。己の意見を主張できないものたちの代わりに。
 何故そうするのか。自分の心の中に、言葉のないものたちの命が息吹いているから。自分は一人の確固とした存在ではなく、体の中で多数の命がうごめく、複数形の存在だから。そのうち意見を主張することができるのは、自分一人だとしたら、自分の中でうごめく他の存在たちの代わりに、この自分が、言葉を書き起こそう。
 人見は早速、初公判のニュースを耳にして、人見自身が主張する必要があると強く感じたことを、インターネット上に発信して、世に問うことにした。キーボードの上で、指が素早く動く。人見の脳は、指の動きを意識していない。ただ、言葉だけを考えている。それでも十本の指は、素早く動くのだった。(了)


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