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小説『見落としてしまいやすい小さな対象に投げる光』

最終更新日:2009年11月15日

歌舞伎町から新宿駅南口のネットカフェへ(2009年10月12日(月)午前)

 今日食べたもの。
 朝は新宿歌舞伎町のコーヒーショップで、海老入りのサンドとアイスカフェラテをいただいた。僕の注文には、アジア大陸出身の女性店員さんが答えてくれた。系列のコーヒーショップを毎日のように利用しているが、他の地域の店舗で働く人は、みな日本人だった。歌舞伎町だからこそ、アジア大陸の人が働いてくれているのだろう。
 歌舞伎町は、ファストフードのハンバーガーショップ、牛丼チェーン、イタリア料理チェーンなどでも、アジア大陸出身の店員さんが多い。彼ら彼女らの働きに感謝しよう。地球は一つなのだから。国境を越えて、言語の違いを超えて、わざわざ日本に働きに来てくれたのだから。
 中野から新宿まで自転車で来て空腹だったからか、海老入りのサンドを大変おいしくいただいた。パンとなった小麦の命、かつては海で生活していた海老の命、サンドの具になった野菜の命に感謝しよう。
 アイスカフェラテの原料となった異国のコーヒー豆、牛乳をもたらしてくれた母親牛さん、氷にも感謝しよう。それらの命を口の中に入れて、エネルギーとすることで、僕の命がながらえた。他の命をいただいて、僕は一つ命を継続させたのだ。これは当たり前の事実だが、東京で生活していると、忘れてしまいやすい。こうして毎日食事にありつけることの幸せを思い出し、感謝しながら、食事をしてみよう。
 入り口にあるレジ付近の座席で食事をしていたら、チェックのスカートをはいた白人男性の二人組が店に入ってきた。スカートはどこかの民族衣装だろうか。歌舞伎町ならではの光景だと思えた。
 続いて、若い女性二人と男性一人の組が店に入ってきた。三人とも日焼けしており、髪の毛は茶色で、派手な服装をしている。
「げ、ジャーマンドッグないじゃん」
「何食う?」
 女の子たちが楽しげに話し合っている。上下黒の服に銀色のアクセサリーを散りばめた男性は「奥のテーブル席取ってくるよ」と言って、注文前に店の奥に進んだ。女性たちは何を注文しようかと、レジの前で話し続けている。
 最初三人が店に入ってきた時は、ちょっと怖い人たちかなと思った。しかし、生育環境、外見や言葉遣いから人を判断するのはよくないと思い直した。生まれ、性別、国籍、能力の違いで、好意を持ったり、嫌悪感を持ったりするのは、いけないことだ。先入観を捨てて、人を受け入れること。三人が今日一日素敵な休日を過ごせることを願おう。
 朝食を終えた後、自転車を店の前の無料駐輪区域に残し、歩いてネットカフェまで向かった。歌舞伎町近辺にネットカフェは多いが、どこも混んでいる。禁煙席を取りにくいように思えたから、新宿駅南口の方まで歩いた。
 三連休最後の月曜日、朝八時の新宿には、たくさんの若者が歩いている。昼近くにもなれば、もっと人が増える。休日ながら、スーツを着たビジネスマンの姿も見受けられる。建設工事用のトラックが歩道に停車している。作業服を着たお兄さんたちが働いてもいる。学生なり一般企業に勤めるビジネスパーソンは休日だが、働いている人は普通にいる。外食店で働く人は稼ぎ時だし、僕が向かっているネットカフェも年中無休だ。多くの人に支えれられながら、平和な休日を謳歌できることに感謝しよう。
 ネットカフェにつくと、フロントで店員さんが、白いTシャツに短パンをはいた二十代後半といった感じの男性客と話しこんでいた。フロントには他に店員さんもいなかったから、二人の話を聞きながら待った。どうも、お客さんにお金がないらしい。
「友達に携帯で頼んで、これからお金もってきてもらおうと思うんですが」とお客さんが言う。彼よりも若く見える店員さんは、困った顔をしている。僕の後ろにも一人女性客が来て並んだからか、他の店員さんがやってきて、受付を済ますことができた。
 三時間千円の三時間パックを予約し終わった頃には、先程のお客さんはフロントからいなくなっていた。話し合っていた店員さんは、無人のネイルサロンブースに入って、携帯電話で話している。おそらく店の幹部に状況を報告しているのだろう。お客さんの申し訳なさそうな様子からして、本当に財布を忘れてしまったように思えたが、ネットカフェなどの遊戯施設ではよくあることだろうか。お客さんも店員さんも、双方揉めることなく、お金の問題が無事解決することを願おう。両者の仲裁に入るわけではないが、解決を願うことはできる。二人にとって僕の願いが無力だとしても、迷惑をかけるよりは、よっぽどいい。
 ネットカフェの個室に入ってからは、店内の自動販売機で手に入れた無料サービスのアイスカフェラテを飲みながら、ブログの記事を書いたり、小説を書いてみたりした。書くといっても、もちろんネットカフェ備え付けのパソコンに入っているテキストエディタソフトを利用してだ。
 家で文章を書こうとしても、他にいろいろ誘惑があるから、ついついさぼってしまいやすい。ネットカフェの個室なら、パソコンと自分しかいないから、書く仕事に集中できる。もちろん、周りはマンガだらけ、店には雑誌、DVD、ゲームもおいてあるし、パソコンはインターネットにつながっているから誘惑は多いのだけれど、暗いフロア、個室に灯るライトの下で文章を書いていると、作業がはかどる。
 三時間、当たり前にネットカフェのサービスを利用したが、よくよく考えると、じつにありがたいことだ。仕事に集中する時間と場所を与えていただいた。三時間で千円、とても安い料金だ。アイスカフェラテを二杯飲んだし、パソコンのインターネットと、テキストエディタソフトを利用したし、トイレも利用させていただいた。
 お金を払ったのだからと、サービスを当たり前のものとして受け取る。他の店にはない、極上のサービスを受けて、感動した時のみ、お店に感謝の気持ちを述べる。それは違うだろう。ごく当たり前に受けているサービスが大変ありがたいものだと気づくこと。自分が日常受けている恵みに気づくこと。消費者として傲慢にならないために、以後も気をつけていこう。
 利用時間を三十分延長した。十五分あたり、百円の延長料金が加算された結果、本日の利用料は、千二百十五円となった。安いものだ。
 会計を済ませて、正午の新宿駅前に出る。休日の新宿駅前には、若者の姿が多い。みな幸せそうな顔をして、歩道を歩いている。恋人同士の姿も多い。恋人同士でなく、友人とか、単なる知り合いかもしれないけれど、道行く男女の連れはみな、恋人同士に見えなくもない。何故なら、みな愛らしく、幸せそうな顔をしているから。
 休みの日を大好きな人たちと過ごせる幸せ。彼ら彼女らの幸せをひがむのでなく、しらけた眼で見つめるのでもなく、幸せが永遠に続くことを願おう。
 途中、新宿三丁目のレンタルビデオ店に寄って、ゲームソフトを二本購入した。一本は廉価版の新品、もう一本は廉価版の中古だ。新品をわざわざ買う必要もない。廉価版で十分だし、廉価版の中古ならなお具合いい。
 ゲームで遊んでいると、ついつい評論家ぶって、面白くない、ここがこうなっていればもっとよかったと批判したくなるが、廉価版を販売してくれたソフト会社に感謝しよう。遊び終わったソフトを中古で売ってくれた人に感謝しよう。中古品を売ってくれたお店の店員さんにも感謝しよう。こうやって今日、商品を受け取ることができたのは、ありがたいめぐりあわせだ。
 三千円前後のソフト二本で、六千円の出費となった。前日、僕自身ゲームと本を中古で売って、お金を手にしているから、計画内の出費だ。
 朝食をとったコーヒーショップに戻り、自転車に乗る。新宿駅前から中野の家までサイクリング。途中近所のコンビ二に寄って、昼食を買うことにした。いつもなら、せっかく新宿まで出たのだからと、新宿駅前で外食したものだ。コンビ二で買うにしても、主食にサラダ、デザートまで買いこんでいたが、今日は大盛りのきしめん三百円を買うだけにした。
 できるかぎりシンプルでいい。余分なものをそぎ落として、必要なもので、満ち足りること。まずは買い物から、人生を整えていくこと。無駄遣いせず、贅沢をせず、すでに手にしているものに感謝しながら、生きていくこと。
 コンビ二で買い物をしていると、店員さんのレジ打ちや喋り方が早口だから、ついつい自分のテンポまで早まってしまうが、今日は店内にお客さんが僕一人だけだったし、ゆっくりと買い物をすることができた。
 家に帰ってから、ペットボトルの麦茶と、買い置きのキムチと一緒に、きしめんを食べた。きしめんの原料となった小麦、ねぎ、キムチ、麦茶の原料となった麦に感謝しよう。きしめんの入っているお汁の原料はなんだろう。インターネットの時代だと、原料を調べるのも便利だ。お汁には、かつお、みりん、酢、醤油などが使われている。汁となっているそれらも、元はみな生命だった。
 きしめんにのっている天かすはどうだろう。天かすは、一見して生命に見えないが、小麦、卵からできている。小麦粉と卵を揚げる油も、一見して生命には見えないが、油は、動物、植物、鉱物などから摂取された液体であり、生命の一部である。醤油は大豆と小麦を原料としているし、ソースは野菜、果実、食塩、砂糖、酢、香辛料を原料としている。醤油もソースも命の恵みだ。砂糖はサトウキビの命からの恵みだし、塩は海藻や海水の結晶から作られている。
 僕が口にしているものはみな、何かしらの命や、命だったものであり、僕はそれらを毎日、当たり前のように消費しながら、明日の人生を得ているのだ。もちろん、こうして生きているのは、僕だけではない。同世代の他の人も、昔からの人類もみな、命の恵みを得て生き長らえてきた。この事実を消費活動の中で忘れないように気をつけながら、生きていくことにしよう。


ネイティブアメリカンの織物のようにゆったりと(2009年10月12日(月)午後)
 
 きしめんを食べた後、ネットカフェで書いた文章の続きを書くつもりだったけれど、そのままアニメを見たり、ゲームをしたりで、時間が過ぎた。
 さあ、これから仕事をやるぞと思った時、宅急便が来て、アマゾンで注文していた中古のDVDが届いたので、以後はDVDを視聴することにした。
 やはり家に帰ると、誘惑が多くて、仕事に集中できない。まあこれは僕個人の習慣の問題だ。本当なら、どんな誘惑よりも、文章を書くことが楽しくてしょうがなければよいのだろうが、仕事の時は、ついつい構えてしまう。
 ネイティブアメリカンの織物を織る人は、疲れた時は仕事せず、心安らかな時だけ仕事をするという。東京で働く多くの人のように、切羽詰った気持ちで仕事をするのはやめにして、田舎で暮らしていた子どもの頃の気持ちに帰って、おおらかに仕事をしてみようと思った。仕事をしている時の僕自身の気持ちが、仕事に反映するだろうし。
 宅急便で届いたDVDがあまりに面白かったので、自転車で中野駅前まで続きの巻を借りに行った。こうして休日、一枚二百五十円という低価格でDVDをレンタルできたり、家で視聴できることもまた、よくよく考えると、とても幸せなことだ。サービスとして当たり前に受けているから、ついつい自分が受けている恵みを忘れてしまう。
 今日これだけの恵みを受けたのだから、そのお返しとして、明日自分に何ができるのか。たくさんの恵みを与えてくれる地球に対して、何をお返しできるのか。肩に力を入れて、無理して考えこむ必要もない。まずは、感謝すること。ありがたいことなのだと認識してみること。そこから全てが始まる。
 新宿で中古ゲームを買ったお店と同系列の中野店で、一枚二百五十円のDVDを五枚レンタルした。千二百五十円の支払いは、レンタルビデオの会員証についているクレジットカード機能を利用し、カード一回払いとした。
 クレジットカードによる支払いもまた、当たり前に利用していることだが、よくよく考えると大変な技術である。僕一人の技術力と想像力では、とても作り出せない技術だ。たくさんの人の発想、技術、貢献があってこそ、今ある社会がある。クレジットカード利用過多による多重債務問題など指摘されるが、批判する前にまず、自分たちが利用している技術が、どれほどすごいことを毎日当たり前にこなしているのか、よくよく吟味してみよう。今手にしている技術の素晴らしさ、便利さ、強大さを認識した後に、問題について焦らず、ゆっくり考えてみるのもいいだろう。
 家に帰る前に、近所のスーパーマーケットに寄って、夕食を買うことにした。スーパーと略称で呼んでいるが、本当は、スーパーマーケット、超市場なのだ。 かつて街中の市場で売られていたものが全て、一つのお店の中にそろっている。スーパーマーケットは昔、確かにスーパーマーケットだった。それが今や、日常当たり前に利用できるものになっており、ありがたみが消えている。売られている食品の品質問題などが取り沙汰されてもいる。スーパーマーケットが僕の生活に与えてくれる恩恵をまず、認識してみよう。
 僕は休日よく、このスーパーマーケットで買い物をしている。世界中の食品がこのお店に並ぶ。原産地から、僕の食卓にあがってくるまで、どれだけの人が関わっているのか。僕が生まれた頃から、商店街の中にスーパーは存在した。普段当たり前に利用しているから、スーパーのスーパーさを理解できないのだ。たまには足をとめて、ゆっくりとスーパーに感謝してみよう。
 結局スーパーでは、プリン体と糖分をカットしたダイエット用のビール、しいたけの揚げ物、じゃがバター味のポテトチップス、クッキーチップ入りのチョコアイス、買い置き用に麦茶の二リットル入りペットボトルを買った。あわせて、九百十一円。全部僕一人の力では、とてもでないが作り出せないものばかりだ。こうした食品を作ってくれた人たち、スーパーまで運んでくれたトラックの運転手さん、レジを打ってくれたスーパーの店員さんに感謝しよう。
「ありがとうございます。僕一人の力では手に入れることができない食品を安価で頂戴しました。僕以外の多くの人も、このスーパーを利用しています。みんなが当たり前にスーパーの便利さを享受していますが、その存在のかけがえのなさに感謝します」
 ダイエット用のビールもよくよく考えれば、科学技術の研究成果によるものだ。こうした余暇的研究に情熱と時間を捧げることができる社会に対して、感謝してみよう。僕たちはこうした高度技術社会の中で生きている。
 ビールを飲み、買いおきのキムチを食べつつ、しいたけの揚げ物を食べる。揚げ物を包んでいる衣は、油と小麦粉でできている。動物性か植物性か鉱物性かもわからないけれど、油も命である。小麦粉の元となった小麦も命である。しいたけに対してももちろんだけど、揚げ物の衣が僕にもたらしてくれる恵みにも感謝してみよう。
「ありがとうございます。油っぽいもののとりすぎはよくないと、健康志向の人はよく言います。油は最近批判されてばかりですが、油がなければ、人類はここまで進化発展しませんでした。私たちは、自然を破壊したり、ひどい殺し合いをしたり、まだまだですが、今日もたくさんの人たちが、料理に油を使って、生きる喜びを授かっています。油さん、ありがとうございます。今日もおいしくいただきました」
 夜は、引き続きレンタルしたDVDを見ながら、時間をつぶした。本当は文章を書きたかったが、DVDが面白かったので、ついつい見てしまう。DVDという技術を当たり前に利用しているけれど、数年前からしたら奇跡みたいな映像だ。百年前からしたら、DVDは「奇跡みたいな」でなく、奇跡としか思えないものだろう。僕自身、こうしたすばらしい技術を低価格で享受している。科学技術には批判すべき点が無数にあるのだろうが、DVDの恵みに感謝しつつ、アイスを食べて、ポテトチップスを食べた。どれも技術の産物だ。
 夜眠る前、今日一日お世話になったことを文章に書き残して一日を終えた。


紙、石油、お金について(2009年10月13日(火))

 三連休明けの仕事の日、朝七時半に地下鉄に乗る。地下鉄を毎日動かしてくれている鉄道会社の人たちに感謝しつつ、オフィスに向かう。朝食は、オフィス近くのコーヒーショップで、レタスドッグとアイスカフェラテをいただいた。四百七十円だ。レタス、パンの元となった小麦の命、ウィンナーの元になった動物の命、カフェラテの元になったコーヒー豆の命と、母親牛がもたらしてくれた乳に感謝した。
 自分でコップにくんだ水がトレイにこぼれたので、カフェラテ用のストローを包む紙が水浸しになった。ストローを取り出そうとしても、紙がストローにはりついて、うまくとれない。手を動かしているうちに、ストローの包み紙の破片が、水が入っているコップの中に二片入ってしまう。うち一枚は、ストローを使って外に出したが、小さな一枚はコップの底に残ったままとなった。
 ストローでアイスカフェラテを飲みながら、水の中に入った紙の破片を見ていたら、ストローを包む紙も、元は木という命であったことを思い出した。
 たいていのお店で、ストローは紙に包まれて出てくる。割り箸も和紙に包まれている。割り箸は、包み紙も割り箸自体も、木からできている。江戸時代の昔なら、割り箸も風流でよいものだったろうが、科学技術が発達し、大量生産、大量消費、大量廃棄が当たり前になった現代では、割り箸も、ストローを包む紙袋も、ひどく浪費されている気がしてならない。朝、食べている時はそこまで想像しただけだったが、夜、こうして書いていると、ストロー自体ももったいないなと思った。
 別にコップに口をつけて飲めばいいのに、一杯飲み物を注文すると、必ずストローがついてくる。スーパーや本屋で買い物する時、ビニール袋はいりませんと断るように、ストローを使うことも明日から断ろうか。
 ストローはプラスチックからできている。紙に比べたら、化学物質のプラスチックは、人工の物質であるように思える。しかし、よくよく考えてみると、プラスチックは石油をもとにして作られている。そう、石油こそ、近代社会になって、人類が最も消費するようになった地球の貴重な資源だ。
 石油がはるか昔の生物の遺骸からできているのか、無機物質からできているのか、学説は定まっていない。しかし、動物を食べずに野菜ばかり食べるベジタリアンが人間として偉いわけではないように、石油の元が生物でも、無機質でも、たいした違いはない。どっちみち石油は、地球が僕らの文明に与えてくれた資源なのだから。ストローだけではない。レタスドッグがのっている陶磁器のお皿、水とカフェラテが入っているガラスのコップ、一連の食事が乗っているプラスチック製のトレイ、全て地球の恵みである。
 陶磁器、ガラス、プラスチック、これらの器を作るためには鉱物以外に、石油や石炭など天然資源も必要になる。石油や石炭が生み出す高熱で、鉱物を溶かし、食器を作る。日常当たり前に器を使っているけど、これらのレタスドッグがのっている陶磁器のお皿も、貴重な宝物である。当たり前に溢れているから、宝物だとは思えないけれど、浪費してはいけない宝物なのだ。心に留めておこう。
 昼間働いている最中は、パソコン、インターネットなどの技術のすばらしさに助けられた。これらの技術のすばらしさについて、書いていくとまた膨大になる。当たり前に利用しているから、忘れていることであるし、よく思い出して書きとめておきたいけれど、今日は昼食の思い出しに進もう。
 昼食は、ベーカリーショップで、コロッケサンド、ベルギーワッフル、アイスコーヒーを注文した。可愛らしい店員さんが、僕の注文に答えて、レジを打ってくれた。しめて、五百七十円である。
 コロッケサンドのコロッケの中には、たくさんの恵みが入っている。コロッケなんて、一つ五十円程度で購入できるから、恵みとも何とも思えないのだけれど、間違いなく恵みである。じゃがいもにひき肉や野菜を混ぜたものを、小麦粉、卵、パン粉を衣として、油で揚げる。こう書いているだけで、コロッケにはたくさんの種類の動植物の命が入っているとわかって、申し訳ない気持ちになってくる。何しろ昼休みに食べていた時は、そこまで想像しもせずに、ビジネスのことで頭がいっぱいだったからだ。食事を前にしたら、他のことはいったん頭の外において、食事の恵み、由来をよく想像してみることにしよう。
 ベルギーワッフルは、小麦粉、卵、バター、牛乳、砂糖、イーストなどを混ぜて、発酵させたものだ。日本から遠い、僕自身訪れたこともないベルギーの人気食を食べられるのだから、とてもありがたいことだ。
「ありがとうございます。昼食をおいしくいただきました。ビジネスのことで頭がいっぱいで、よく食事に感謝することができなかったので、今こうして感謝いたします。パン屋さん、たくさんの栄養、命の恵みを、低価格で提供していただき、ありがとうございました。これで明日も生きていけます。本当にありがとうございました」
 三時には、コンビ二で買っておいた百七円の野菜ジュースを飲んだ。「一日分の緑黄色野菜を摂取できます」と紙の容器に書かれている。こうした栄養が安価で、二十四時間営業のコンビニエンスストアに提供されていることに感謝しよう。コンビ二の営業時間の長大さや、野菜ジュースの栄養問題について指摘するよりも先に。
 夕食は午後七時過ぎ、カレーのチェーン店でキーマカレーを食べた。六百八十円だ。キーマカレーの中には、唐辛子、野菜、ひき肉が入っていた。カレーは元々、インドの伝統料理であったものだ。日本には、インドを植民地にしていたイギリス経由でカレーが伝わってきたという。今や国民的人気食のカレー。僕はキーマカレーも好きだし、インド料理店にもよく行く。日本にいて、インドの伝統料理を楽しむことができる幸せに感謝しよう。
 カレー店からの帰り道、99円ショップによって、ミネラルウォーターの二リットル入りペットボトルと、豆乳の紙パックを買った。99円ショップがあった場所には、元々コンビ二があった。近くに何軒もコンビ二があるのに、コンビ二だらけで、コンビ二はよっぽど儲かるのだろうかと思っていたら、数ヶ月前にコンビ二が潰れた。世界的不況の影響かと思っていたら、すぐ二十四時間営業の99円ショップができた。
 ここから歩いて三分としない場所に、最近100円コンビ二ができたから、また過剰競争のようにも思えるけれど、99円ショップのレジは、アジア大陸出身の女性店員さんが打ってくれた。
 100円ショップ、近所のコンビ二、お弁当屋さん、ファストフードのお店、スーパーマーケット、商品価額が安いお店には、アジア大陸出身の方が多い。商品価格を下げているが故に、人件費をおさえようとしているのだろう。
 アジア大陸出身の方たちが、僕の生活を支えてくれている。僕だけでない、この島国に住む多くの人々の生活を、アジア大陸出身の方たちが支えている。
 海外の友人がいない、海外交流していないなどと嘆く必要もない。スーパー、コンビ二、ファストフードチェーンに行けば、アジアの店員さんたちと、交流する機会をもてる。マニュアル的な対応になるかもしれないけれど、お金を渡しあう瞬間に心をこめることもできる。
 お金とは本来、人と人をつなぎ、人間同士の絆を深めるものだ。お金について悪い面ばかり見るのはもうやめにしよう。お金が生み出す交流関係の広大さに感謝しよう。お金によって、僕が接することのできない人たちと交流する機会を持てる。僕の支払ったお金がまわりまわって、知らない誰かの生活を支えている。僕も仕事を通して、見知らぬ誰かの生活を支えている。だからこそ、仕事を通してお金をいただくことができる。
 お金は現在、世界を駆け回っている。同時に、僕の生活も、世界を駆け回っている。僕が今日支払ったお金で、誰かの雇用が守られる。遠い国からわざわざ働きに来た人たちの幸せが守られる。このつながりを意識しておこう。


コーヒーと石油とおばあちゃんの注意(2009年10月14日(水))

 今朝は、いつもと違うコーヒーショップに入った。こちらのお店は、他のコーヒーショップよりも値段が高い。コーヒーも食事もみんな値段が高めに設定されているから、たまにしか通わない。不況のせいか、競争相手が増えたせいか、このコーヒーショップは売上が下がってきているという。社会全体が、低価格志向になっている。ならば僕は、このコーヒーショップで朝食を取ろう。困っている人がいるかもしれない。みんなが集まる人気店に自分も行く必要はない。誰もかえりみないようなまずいコーヒーを出すお店、高いコーヒーを出すお店に行って、そのお店の売上に貢献することだってできる。
 グラタンに包まれたポテトの入ったパンと、アイスコーヒーブレンドを注文した。二つあわせて、六百十円。ちょっと高いなと思う。けれど毎日同じコーヒーショップで朝食を取っていると、なんだか気まずくなってくるし、たまには他の店で食べたいなという気持ちも働く。たまにはお金のかかった食事をするのもよいだろう。
 昼休みは、また別のコーヒーショップに入って、きのこと木の実のサンドと、アイスコーヒーをいただいた。朝食よりボリュームがあったが、四百九十円だった。
 なんだかコーヒーとパンばかりで、栄養が偏っているなと、こうして記録してみるとつくづく思う。贅沢な食事ばかりすると栄養過多になるが、同じ食事ばかりでも、栄養が偏る。節食は重要だが、バランスよく、偏りのない食事を取るよう気をつけよう。
 きのこ、木の実、パンの小麦、コーヒー豆、植物を育ててくれた人、運んでくれた人、調理してくれた人、販売してくれた人たちへの感謝の気持ちは、頭の中に仕事の悩みが溢れていたせいか、浮かんでこなかった。昼休みはいつもそうだ。午前中の仕事を引きずっていたり、食事を早く終えて、残り時間で読書しようと企んでいるために、食事に集中できなくなる。オフィスを離れる休み時間はせめて、仕事から心を解放してみよう。心をただ目の前にある恵みに開いてみよう。
 食事を食べ終わった後、アイポッドでジャズを聴きながら、数年前社会現象になった推理小説の文庫本を読んだ。僕のアイポッドには、多ジャンルに渡り、一万曲以上の曲が入っている。薄く軽いアイポッドは、ワイシャツの胸ポケットに入っている。この小さなアイポッドに、通してきけば何日分にもおよぶ音楽が入っているとは、数年前なら想像もできなかったことだ。
 科学技術は日々進歩している。人類にとってひどく重要な問題のためでなく、娯楽のためにも、科学は毎日進歩している。その恩恵にあずかれることのありがたさを忘れずに、深く感謝してみよう。
「ありがとうございます。今日も音楽を聴きました。アイポッドのおかげで、僕の音楽生活は激変しました。毎日、音楽とともに生きるようになりました。みなが当たり前に享受している技術ですから、忘れがちですが、奇跡です。いただいた恵みに十分お返しできるよう勉強させていただきます」
 読書しながら、食べ終わったトレイを見つめてみる。プラスチックでできた黒いトレイに陶器と、ガラスのコップが二つのっている。アイスコーヒーの入っているコップには、プラスチック製のストローがささっている(昨日ストローを使うのは控えようと思ったばかりだが、店員さんがストローをつけてくれるので、使っている)。
 ストローが入っていた紙袋もあるし、紙でできたナプキンも何枚かおかれている。これらの物体のほとんどに、石油が関わっているのだろう。石油なんて、コーヒーショップの窓から見える自動車にだけ関わっているものと思っていたけれど、実は、コーヒーショップの建物のほとんどは、石油がなければできなかったものだ。椅子、テーブル、金属製の台、コーヒーメーカー、冷蔵庫、冷凍庫、レジ、硬貨と紙幣さえ、その製造に石油が関わっていることだろう。
 僕自身の生活、人生は、他の人々の仕事、他の多くの動植物の命がなければ存続不可能なものだが、まず一番に、石油がなくなれば、僕の生活は激変するのだ。僕が想像している以上に、実物もろくに見たことがない石油が、僕たちの社会を支えている。
 今まで石油のありがたさについて、しみじみ感じるということもなかった。石油さんに深くこうべをたれて、その力の偉大さに感謝しよう。また、石油さんの使いすぎに注意しよう。必要な分だけ使う。石油さんは人間だけでなく、地球にとって貴重な命、宝物なのだから、無駄遣いはいけない。
 三時のおやつがわりに、コンビ二で買っておいた紙パックの野菜ジュースを飲んだ。コンビ二では、アジア大陸出身の方にレジを打っていただいた。僕は毎日昼休みそのコンビニに行くけれど、彼女はいつも、レジに立っている。店員さんの働きに感謝し、野菜ジュースを味わった。
 夜は友人と一緒に、定食屋に行った。その定食屋は以前、八百円程度の価格帯だったが、二週間ほど前、突然全定食の値段が五百円に下がった。
 以前はおかず満載で、ボリュームもたっぷりだったが、五百円に見合う力の抜けた定食になった。お店にいけば、毎日違う若い女性の店員さんがいたものだが、今やフロアには金髪の店長さん一人だけ。コストカットの結果なのだろう。外食産業も、コンビ二も、スーパーも、どこも競争過多なのだ。
 僕は、から揚げ定食を注文した。年下の友人は、しょうが焼き定食だ。から揚げ定食には、ドレッシングがかけられたレタスと、ポテト、みそ汁、漬物が添えられた。友人が頼んだしょうが焼き定食には、何故かマスタードが添えられていた。友人はずっと、「ポテトとマスタードを間違えたんじゃないですか。しょうが焼きにマスタードはかけないですよね。大丈夫かな本当」とぼやいていた。そんな間違いもあるだろう。
 僕は栄養源として、から揚げ定食をゆっくり味わいながらいただいた。友人は食事を済ませた後、煙草をふかしながら、僕の食事の終了を待った。
 手を合わせて「ごちそうさまでした」と僕が言ったら、「みそ汁全部飲まないんですか?」と友人に注意された。確かにお碗にみそ汁が残っている。僕は慌てて、みそ汁のお碗に口をつけた。
「ごはん粒も残ってますよ。きれいに食べた方がいいですよ。おばあちゃんにね、ご飯粒は全部食べるんだよって、僕、よく怒られてましたもん」
 友人が笑顔で言う。ご飯茶碗を見てみると、確かにご飯粒が点在している。友人に指摘されなければ、気づかなかったことだ。僕は箸を使って、茶碗に残っていたご飯粒をつまんで食べた。
 ご飯粒を残したのは、無意識にしたことだった。パンなら全部食べるけれど、ご飯粒はよく茶碗に残している気がする。食糧は日本国内に溢れ返っていると思っているせいだろう。
 僕らのおばあちゃんの世代は、食事をいただくことが大変ありがたいことだった。現代の大量生産、大量消費、大量廃棄社会では、食事がありあまっている。残される。処分される。同時代の地球には食糧飢餓にあっている人がたくさんいるのだとよく想い出してみること。自分が保障されている安全な生活のありがたみに感謝する感受性を持つこと。忘れないでおこう。


「お客様は神様です」なら「店員様も神様です」(2009年10月15日(木))

 朝はコーヒーショップでレタスドッグとアイスカフェラテ。四百七十円。僕はいつも店の一番入り口側のソファーに座る。僕の隣には、いつも同じ、眼鏡をかけたおじさんが座っている。コーヒーショップの中には、他にも毎朝顔をあわせるおじさん、おばさんがたくさんいる。もちろん店員さんも同じ方だ。
 昼は駅前のベーカリーで秋のサンドとアイスコーヒーを注文した。五百九十円である。秋のサンドは、ごまが散りばめられた硬いパン生地の中に、かぼちゃ、なす、ベーコン、トマトソースが挟まれていた。秋の味覚と言っても、僕が口にふくんだ食材の多くは、外国で育ったものだろう。外国の恵みを低価格でいただける幸せに感謝の祈りを捧げよう。
「ありがとうございます。今日もおいしくいただきました。世界中の恵みを日本にいながらにして、いただけることに感謝します。私は日本国内で生きていても、多くの人が、私のもとに外国の食材を届けてくれます。大変ありがたいことです。感謝いたします」
 このベーカリーショップでも、僕はいつも同じ場所、レジに一番近いソファー席に座っている。食事が終わったら、アイポッドで音楽を聴きながら、読書する。毎日の日課だ。レジの店員さんも、僕が行くと、「店内で」と言ってくれる。昔は「持ち帰りですか?」と聞かれたものだが、それもない。僕は「はい」と気軽に肯定するだけだ。
「ポイントカードはいかがですか?」とも聞かれないし、「パンと一緒にスープとサラダのセットはいかかでしょうか?」とも聞かれなくなった。それらの言葉がけは、お客さんが来た時に、必ず発する言葉として、マニュアル化されたものだろう。しかし、毎日のように店内で食事していれば、「店内で」と、疑問符をつけずに言ってくれる。ポイントカードや、サラダとスープのセットのおすすめも不要になる。アイスコーヒーかカフェラテを頼むのだなと、体で察していただける。ありがたいことだ。
 僕の人生は、ベーカリーショップやコーヒーショップの皆さんの協力なしでは、成り立たないものだ。いつもお金を出すのは僕の側だ。お金を出していると、サービスを当たり前のものと勘違いしてしまうが、本当のところ、お客様は神様ではなく、店員さんと対等ではないのか。お金を払うから、お金に見合った食事をいただける。お客様は全然偉くなく、店員さんの方が偉いのではないか。
 むしろ、「店員様は神様です」なのではないだろうか。お金を払えば、食事をだしていただける。僕が実際には見たこともない世界の遠く離れた地域の食材を元に、料理を作っていただける。僕がレジで接する店員様の後ろには、僕が一度も会ったことがないトラックの運転手さん、外国の農家の方、飛行機会社の人々などが控えている。
 ほんのわずかなお金で、自分ではとても作り出すことのできない商品をいただける。食事だけではない、音楽も、本も、何でも至高の製品を安い価格で利用できる。実にありがたいことだ。
 昼休み終了十分前にベーカリーを出た。途中コンビ二により、紙パックの野菜ジュースを買った。オフィスの冷蔵庫に野菜ジュースを入れようとしたら、同じ野菜ジュースの一リットル入り紙パックが見つかった。その隣には、僕が買ったのと同じサイズの小さな野菜ジュースもおかれている。
 みんな野菜ジュースを飲んでいる。外食が多いと野菜が不足しがちだから、野菜ジュースの需要が出る。野菜ジュースなんて飲まずに、野菜を食べたらいいと言われても、忙しいから、野菜ジュースに手が出る。野菜ジュースの存在は、ありがたいものだ。
 夜は友人と中華料理屋のチェーン店に行った。友人が「安いところがいい」と言うので、この店に行こうと僕が決めた。「そこはまずいって聞きますよ」と友人が言う。以前、テレビでもそのお店は、低価格だけれど料理はそんなおいしくないと評価されていた。「みんなグルメだからね。安いお店にグルメを求めちゃいけないよ」と僕が言って、問題は解決した。
 僕は五百五十円の野菜炒め定食、友人は五百九十円のWギョーザ定食を注文した。店員さんの声は明るく大きく、お店全体に繁盛しそうな雰囲気がある。「明るく元気な方募集」という接客アルバイトの広告を求人雑誌で見つけた時、自分はそんな明るく元気じゃないから、気がめいったものだった。しかし、こうしたはきはきした接客に出会うと、やっぱり接客は、明るく元気な人の方がいいなと思えた。
 定食を待っている最中「田舎がいいですよね」と友人が言い始めた。
「東京はみんな長時間働き過ぎですよ。田舎って本当ゆったり時間流れてますよね。早く家に帰れて、時間たっぷりあるし。やっぱ田舎がいいわ」
「そうだね。田舎はいいね」彼も僕も田舎の出身だ。
「でもあれか、田舎の人、余った時間で何してんだろ。テレビばっか見とんすかね。早く帰って、夜ずっとテレビ見てたら、意味ないわ」
「そんなの偏見だぞ」
 確かに時間があると、ついついテレビを見てしまう。夜のテレビは、さびしさを紛らわせてくれるものだ。深夜にテレビ番組が放送されているから、ついつい夜更かしして睡眠不足になる。テレビがなければ、時間はたっぷりあるだろう。テレビの電源を消して、夜、部屋の中でじっとしていると、時間の流れがゆったりとなって、忙しさが消えてしまうものだ。テレビは時間を奪うが、みんなテレビを見る。寂しいからだろうか。楽しみを求めているからだろうか。
「やっぱ東京がいいわ。若いうちは、東京で長時間働かないと」
「お前どっちなんだ? さっき東京は駄目だって言ったばかりじゃないか」
「一度は東京に出ないといけないんですよ。こんなとこ、ずっといられないすけどね」
 友人の意見の変転の早さに、僕らは二人で笑いあった。
 笑い話を繰り返すうちに、野菜炒め定食とWギョーザ定食が出てきた。今日一日の栄養として、仕事の疲れを癒す糧として、料理をおいしくいただいた。
 田舎には、人手が足りない。日本国内に限った話ではない。一部の地域にサービスと物品と人が集中しすぎている。多くの地域は、サービスも、物も、人も足りていない。地球全体をおおう異常な偏り。
 東京ではみんな長時間働いている。たくさん働いているにもかかわらず、みんな時間が足りなそうで、生き急いでいるように見える。競争相手も多い。スーパー、コンビ二、ファストフード、ドラッグストア、コーヒーショップ、歩けば何軒も似たようなお店に出くわす。こんな狭いところで競争などせずに、田舎に行けばいいのにと思うけれど、田舎では売れないのだろうか。競争相手の少ない田舎で商売するよりも、競争相手だらけの東京で商売した方が、儲かるのだろうか。
 日本だけの話ではない。東京都内には食がありあまっており、賞味期限が過ぎた食品は処分されたりする。飢餓に飢えている人がたくさんいる地域に、何故みんな定食屋を開かないのだろう。競争相手もいないし、食糧を必要としている人がたくさんいるのに。飢餓に陥っている人は、レタスドッグとアイスコーヒーに払う五百円のお金もない。お金を持たない人を相手に、商売はできないのだろうか。


何のため、誰のために働いているのか(2009年10月16日(金))

 金曜日の朝、いつも通りに目覚めたが、体の節々が痛くて、ぎりぎりまで寝ていようと思った。睡眠時間を長めにとっても、筋肉疲労がとれない。金曜日にもなると、体がぼろぼろになる。疲れを翌日に持ち越さないように、今後はストレッチを十分にしよう。
 コーヒーショップに寄る時間がなかったので、駅前からオフィスまでの道の途中で、ビタミン入りの炭酸飲料を購入した。自動販売機で百二十円だ。ビタミンC、ビタミンB,ローヤルゼリーがたくさん入っている。このような栄養ドリンクに対する批判も多いだろうが、自動販売機で栄養を購入できる便利さにまず、感謝の言葉を捧げておこう。
「自動販売機さん、ありがとうございます。朝寝坊して時間がない時、あなたが街中に立っていてくれたおかげで、栄養を摂取することができました。雨の日も風の日も、雪の日も夏の暑い日も、毎日変わらず栄養を届けてくださる自動販売機さんの働きに感謝いたします。自動販売機さんのお体は機械ですが、あなたの体の中にある缶ジュースは、トラックの運転手さんが補給してくれたものです。ジュースを送り届けてくれるトラックの運転手さん、あなたをこの場所に設置してくれた作業員さんにも感謝しましょう。ジュースを造ってくれた人、自動販売機を製造してくれた人、そして僕の体の中に入って栄養となった栄養ドリンクに感謝します。ありがとうございました」
 昼食は、定食のチェーン店でとった。大分名物鳥の天ぷらとだんごの煮汁定食、七百九十円をいただいた。大分県の家庭で食べられている名物料理を東京の定食屋でいただくことができる。これも情報産業が発達したおかげだ。ごく当たり前にあるサービスだが、よくよく考えるとすごいことだ。僕が生きていて、東京で暮らしている限り、大分名物のこの食事を食べることは、なかったろう。情報技術が、大分の名物料理を東京の外食店に送り届けてくれたのだ。
 食後は、定食屋隣のコーヒーショップに入って、エスプレッソコーヒーを注文した。百六十円だった。エスプレッソコーヒーは、ヨーロッパで発明されたコーヒーの飲み方だ。もともと日本人は、コーヒーを飲む習慣がなかった。コーヒーを飲む習慣が日本に持ちこまれて、エスプレッソコーヒーまで、百六十円で飲めるようになった。毎日当たり前に、低価格で提供されているサービスだから、普通に暮らしていれば何の感動も、感謝の念も起きてこないだろうが、エスプレッソコーヒーを百六十円で飲めるというのは、すごいことなのだ。
「お昼休みは、大分の名物料理とエスプレッソコーヒーをいただきました。ありがとうございます。どれも僕が生まれ育った地域では見られない料理でした。世界中のいろいろな地域の料理、食材が僕のもとに届けられます。大変ありがたいことです。僕はいただいた料理に感謝し、仕事に励みます。ありがとうございます」
 立派な仕事をなそうと肩に力を入れる必要はない。僕がよく通うコーヒーショップで働く店員さんたちのように、食事を求めて店に来る人たちに対して、無理のないサービスを提供すること。働くことで、誰かを助けることができる。誰かの支えになる。実感しにくいが、仕事とは、そういうものだ。
 昼休みの最後は、99円ショップによって、二リットル入りのミネラルウォーター、栄養ドリンク、野菜のミックスジュースを購入した。三本あわせて三百十三円だった。レジの店員さんは、大変手際よく、レジ打ちをこなしてくれた。食料品についたバーコードの読み取り、お金を受け取った時のレジ打ち、つり銭の返し方、どれも素早く、流れるような一連の動作で、美しかった。
 店員さんのレジ打ちのすばらしさは、僕に機械の合理的な処理を連想させた。レジが全て機械になったらどうだろう。食料品の入ったかごを読み取り機の上に置くと、全自動で金額計算される。お客は、ディスプレイに表示された金額に足りるよう、硬貨と紙幣をスロットに入れる。レジマシーンが投入された金額と、請求金額を自動計算、差額をおつりとしてお客に返す。全自動化されたスーパーマーケットの幻想。全自動化されたスーパーマーケットは、自動販売機によく似ている。
 全自動化されたハンバーガーショップはどうだろうか。注文すると、機械が音声を認識して、全自動でハンバーガーとポテトとコーラのセットを出してくれる。お客は、トレイを取って、席につく。席はネットカフェみたいな、完全に閉鎖された個室だろうか。
 なんだか味気ない。やはりお店には、店員さんが必要だろう。防犯のためとか、不測の事態が起きた時に、対応できるようにするためというわけではない。 たとえレジでお金を交換するだけでも、そこに人がいてくれることで、自動販売機を作ってくれた人を想像する必要がなくなる。目の前の店員さんに、感謝の気持ちを伝えることができるようになる。
 午後も筋肉の疲労が続いて全身苦しかったので、99円ショップで買っておいた栄養ドリンクを飲んだ。ビタミンB1、B2、B6、タウリン、ローヤルゼリーが入った栄養ドリンクを飲んだら、体の疲労がとれて、仕事に集中することができた。本当は、栄養ドリンクを不要とするくらい健康で落ち着いた生活を維持できればいいのだろうが、時間がない。疲れた時、栄養ドリンクが僕の体を支えてくれる。
「ありがとうございます。ノーブランドの栄養ドリンクをいただいて、体の疲れをとることができました。感謝いたします。僕の体は疲労しています。特に金曜日ともなると、一週間の疲労がたまって、痛みが続きます。栄養ドリンクが、疲れを取り除き、僕に力を与えてくれます。栄養ドリンクには何回もお世話になってきました。いただいた力をいかして、仕事に励みます」
 夕食は、中華料理屋でいただいた。昔ながらの昭和風中華料理屋で、ほとんどが麺と丼のセットものである。壁一面に料理名と値段をマジックで書いた札が貼ってある。古いブラウン管のテレビがNHKのニュースを流している。食事をしているお客さんたちも、どこかみな一昔前の服装をしているように見える。
 つけ麺と焼肉丼のセット七百円を注文した。つけ麺も、焼肉丼も、ごく普通の家庭料理のような味がして、懐かしかった。僕が子どもの頃、食べていた料理の味だ。
 つけ麺の麺は、小麦からできたものだ。つけ麺の汁には、醤油やかつおのだしなど、様々な動植物の命が入っている。焼肉丼の米は、どこかの国の田んぼで育てられた稲だ。火で炒められた豚肉と玉ねぎがご飯の上に乗っている。甘いたれもたっぷりかけられている。
 焼肉丼となって、僕の胃袋の中に入り、明日の僕の栄養源となった豚の生前を想像してみよう。豚さんは、牧場で平和に暮らしていただろうか。それとも狭いスペースにぎゅうぎゅう詰めになるまで押しこめられて、飼料だけ食べる日常を送っていただろうか。
 夕食をとったら一時的に元気になったが、またすぐ腰と肩と目が痛くなった。働き過ぎだろうか。別に強制されて働いているわけではない。自分の意志で働いているだけだ。帰ろうと思えば早く帰れるのに、残業代が欲しいから、ついつい無理をして働く。長時間労働と給料は結びついている。しかし、体に負担をかけてまで、全身を酷使させながらも働く必要はないだろう。
 健康と仕事を両立させること。何より、食事に感謝する習慣に重きをおき、料理を作ってくれた人、料理となった動植物の命に感謝するゆとりを持てるようにしよう。食事をいただくから、仕事をする。食事を作ってくれた人のために、働いて恩返しする。食事となった動植物の命のためにも、平和を願う。


何も知らずにただ恵みを受けているだけでは(2009年10月17日(土))

 朝九時に起きて、買いおきしていたレトルトのカレーライスを食べた。ご飯は、チルドパックの麦飯だ。麦飯もカレーのルーも、電子レンジで温めた。
「朝の栄養源として、カレーをいただきました。ありがとうございます。電子レンジのおかげで、あたたかいカレーをいただくことができました。電子レンジという発明、技術に感謝いたします」
 昼は、中野駅前に行って、レンタルDVDを六枚借りた後、中野ブロードウェイ内の喫茶店で、ベジタブルサンドとアイスコーヒーのランチセットを頂いた。ベジタブルサンドの中には、レタス、トマト、キュウリなどの野菜が入っており、ドレッシングもきいている。ドレッシングの中には、想像するに、酢、油、塩、香辛料、ハーブ、酒、醤油などが入っていることだろう。液体状になったドレッシングは、生命ではないように見えるが、レタスやトマトと同じく、生命だったものだ。感謝しよう。
「暗い照明の下、落ちついた店内で、ベジタブルサンドのランチセットをいただきました。野菜、胚芽のパン生地、そしてドレッシングになった動植物の命に感謝します。僕がいただいた食物の生前の姿を想像し、彼らに感謝の祈りを捧げます。彼らのためにも、今後の人生を全うします。もちろん食事と一緒にいただいたアイスコーヒーにも感謝いたします。コーヒー豆、水、氷、シロップ、ミルク、全て、命です。命をいただいて、僕の命をつないでいます。ありがたいことです」
 七百九十円の料金支払いを済ませてから、三階に上がり、マンガの古書を数冊購入した。僕の部屋には、マンガも小説も学術書もたくさんある。買ったはいいが、まだ読んでいない本もたくさんあるし、古書店に売ろうと思って別の棚にわけたが、まだ売りに行っていない本もたくさんある。本も資源であると認識し、無駄遣いのないようにしよう。
 冬物の上着が欲しいと思い、商店街の洋服店を訪ねて回った。部屋のクローゼットの中には、おさまりきらないほどの洋服がある。上着も十分にあるのだが、ついつい買いたくなってしまう。せめて、安くて質のよいものにしようと思い、何軒かまわって、毛糸でできた黒のジップパーカーを一枚購入した。千三十九円である。
 本屋にも、洋服店にも品物がたくさんおいてある。本屋の商品である本は、紙からできている。紙は、もともと木だった。環境問題について語る本さえも、木からできている。何かしら犠牲にしなければ、何かを作り出すことはできない。洋服店にある洋服も、食物と同じく、動植物からできている。毛糸は何かの動物の毛だし、綿の洋服は、植物からできている。工場で綺麗に加工されているし、最近は化学繊維が混入されているものが多いから、なかなか想像できないが、洋服は、動物か植物だったのだ。寒さをしのぐため、あるいはファッションとして、動植物の命を買って、肌に身につけているのだ。
 千円以下の安い価格で洋服を買える時代だ。商店街には、安売りの服が溢れ返っている。洋服の恵みに感謝しよう。服を着られることは、大変ありがたいことだ。服を持っているのに、ファッションのため、余分に服を買い込むことは、もったいないことだと思えてくる。せめて、服となった動植物の命に背くことがないよう、服をわが身のように慈しもう。
 午後は、商店街の中にあるカラオケボックスに行った。歌手になった気持ちで歌うと、心と体の迷いが発散される。通信カラオケの機械に番号を入力すれば、何万曲という楽曲の中から、自分の歌いたい曲を選択することができる。現代の通信カラオケ技術は、魔法みたいなものだ。番号を入力する端末も、昔はリモコンだったが、今はハンディーの液晶画面になっている。
 液晶画面に指を当てて、歌いたい曲を検索する。検索結果が見つかれば、液晶画面に表示された転送ボタンを押す。すると、本体が自動で番号を取得し、通信サーバーに番号を送信する。通信サーバーからカラオケ装置に送信された楽曲を歌う僕は、番号を頭の中に浮かべる必要がない。通信カラオケの技術がどういう仕組でできているのか、知っている必要もない。
 何も知らなくても、情報技術を利用し、カラオケを楽しむことができる。これは、魔法である。魔法としないためには、技術の仕組みについて、無知でいることを恥ずかしいと思うことだ。何も知らずにただ恵みを受けているだけでは、地球に対して申し訳ないと思える。
 アイス黒烏龍茶の料金を含めて、七百五十四円でカラオケを楽しむことができた。カラオケを終えた僕は、自転車に乗って、部屋に帰った。部屋では、古本屋で買ったマンガを読んでみたが、それほど面白くなかったので、借りてきたDVDを見ることにした。
 DVDはレンタル期限があるから見るが、購入した本は期限がないから、ついつい後回しになる。読んでいない本がたまってくると、精神的にも負担に感じられてくる。溜めこまず、いただいたものはすぐ消化するようにしよう。
 夕方十六時には、近所の麺屋にいって、白ゴマたんたんつけ麺をいただいた。八百円である。そのお店は、室内にFMラジオや若者向けの雑誌が多くおかれており、料理のお品書きも、若者向けにデコレーションされている。お客さんには若者が多い。店員さんもみんな若い日本人の男女で、声が大きく元気がよい。麺もとてもおいしい。テレビにもとりあげられることがあると聞く。
 こうした人気の麺屋には、アジア大陸出身の人たちが従業員として働いていないことが多い。おいしさを売りにしている若者向けのお店は、いつも日本人の店員さんが働いている。そういうものなのだろう。
 食後は、中野坂上付近にあるネットカフェによった。初めて入る店だ。
 インターネットで探してみて、家に一番近いネットカフェがここだった。仕事からの帰り道に過去何度も看板を見かけていた。いざエレベーターをあがって、ビルの四階にある受付を尋ねてみると、気弱そうな男性の店員さんが出迎えてくれた。帰りに応対してくれた店員さんも、気弱そうな、最近の言葉で言うと「草食系男子」に見えたから、ここのお店はみなそういう若者がアルバイトとして店員さんをしているのだろう。いつも利用している新宿のネットカフェは、肌の日焼けした、茶髪の店員さんが多いから、ネットカフェの店員さんとはそういうものだというステレオタイプができていたが、むしろこのお店の店員さんの方が、一般的なのかもしれない。
 三時間で千円、入会料は二百円。やはりネットカフェはどこも料金が安い。
 店内は内装も小奇麗で、新宿のよくいくお店よりも、清潔で利用しやすい雰囲気だった。受付脇の棚から国際ニュース雑誌、マンガ雑誌とアニメ雑誌を手に取ってから、階段で自分の個室に向かった。
 真っ暗な個室に入って、パソコンの前におかれたスポットライトの電気をつける。暗い室内に、強く白い光が浮かび上がる。トートバッグを床の上において、テキストファイルを入れたUSBメモリをパソコンに差し込む。無料で支給されているブラックのアイスコーヒーを飲みつつ、雑誌を読み、インターネットをいろいろ見てまわった後、書き物の仕事をした。
 ネットカフェにはマンガ、雑誌、DVDがあり、インターネットでも遊べるが、狭い個室に入っているので、書く仕事に長時間没頭することができる。こうした静かな環境を低価格で与えられたことをおおいに感謝したい。
「ありがとうございます。休日の今日、ネットカフェで書く仕事に没頭することができました。原稿は思ったように進みませんでしたが、いろいろとたまっていた仕事を片づけることができました。ありがとうございます。これからも食事のサービスに報いることができるよう、がんばってまいります」
 ネットカフェを八時過ぎに出て、自転車で家に帰る。家に帰ってからは、また借りてきたDVDの続きを見つつ、ポテトチップスを食べた。ポテトチップスなど食べ過ぎると、胃腸に脂肪がたまりそうだが、ついつい気がゆるむと買って食べてしまう。お腹のたるみも気になるし、今後は、もっと体によいものをとることにしよう。
 もちろんポテトチップスなどのお菓子も、悪者ではない。本当に体に悪いものならば、そもそも販売していない。息抜きとして、ごくたまに食べるのなら、問題ない食品だ。だいたいにして、ポテトチップスの存在を否定することは、ポテトチップスになったじゃがいもに悪いし、油に失礼ではないか。


知識として仕入れる前にまず想像してみること(2009年10月18日(日))

 日曜日、朝六時頃目覚めた。いつも、六時頃に目が覚めるのだが、せっかくだからと七時まで寝てしまう。これからは、六時に目が覚めたなら、二度寝せずに早起きして、時間を大切に使おうと思った。早く目が開くということは、体はその時間にもう目覚めているということなのだから。
 昨日の深夜ハードディスクに録画したテレビ番組を見てから、自転車で中野駅前に向かう。朝七時だと、歩いている人もまばらで、あいている店も少ない。どこで朝食をとろうか迷ったが、チキンのファストフード店に寄った。いつものごとく日本語のイントネーションですぐ気づいたが、レジを打ってくれたのは、アジア大陸出身の女性店員さんだった。 レタスチキンドッグとアイスコーヒーのモーニングセット三百五十円を注文した。
 このお店は、フライドチキンを売りにしている。牛の肉でなく、鳥の肉とともに発展してきたお店だ。世界中たくさんの家族の幸せに貢献してきた鳥たちの命に感謝しながら、レタスチキンドッグをいただいた。
 中野駅から歩いて、ネットカフェに向かう。今日行くのも、初めて利用するお店だ。まるまるビル全体が、ネットカフェとなっている。このお店も、受付の店員さんは「草食系男子」だった。やはりネットカフェの店員さんは、こうした気弱で優しそうな男性が多いのだろう。
 朝の時間七時から十二時の間に入店すれば、十二時まで五百円で利用できるモーニングコースをオーダーした。ここのネットカフェは、僕がいつも利用しているネットカフェよりも古く、昭和の雰囲気がした。室内は真っ暗でなく、電気がついており、店内にはムードミュージックが流れている。受付の座席表は、手製の店内ジオラマ模型だった。
 ドリンクコーナーには、麦茶のポットがおかれている。自家製の麦茶だ。コーヒー、紅茶、烏龍茶も、自動販売機でなく、ポッドの中に入っている。この昭和な雰囲気は、中野だなあと思った。個室は、それほど汚いものではなく、パソコンのスペックも他の店と変わらず高速だ。キーボードに埃がたまっていないのも好感が持てた。
 朝七時台から、書く仕事に没頭できる。これも六時に早起きしたおかげだ。インターネットラジオでピアノの曲をかけて、ヘッドフォンで聞きながら、書く仕事を続ける。麦茶を飲みつつ、キーボードを叩く。
 男性トイレは、やや古くて汚れていた。便器に座ると、扉に張られている広告が嫌でも目に入ってくる。アダルトサイトの利用広告だった。お店がアダルトサイトと提携しているらしく、お店特有のIDを入力すれば、無料で動画を見れるという。 広告の下の方に「成人向けコンテンツのため、十八歳未満のお客様は利用をお控えください」と書かれている。十八歳未満は駄目なら、こんなトイレの便器に座れば誰もが目に入る場所に広告を張らなければよいのにと思うが、男性トイレだからこそ、この広告が貼られているのだろう。
 部屋に帰り、ポータルサイトのトップニュースを見てみる。「利用者の身分確認をしていないネットカフェは、全体の四割」というニュースが目に入った。
 ネットカフェにおかれているPCのデスクトップには、いろいろな便利サイトへのショートカットアイコンが貼られている。中には、アダルトサイトへのショートカットも当然貼られている。ショートカットをクリックすると、十八歳以上かどうか、年齢確認をする質問文が出てくる。画面上に表示された「はい」をクリックすれば、十八歳未満の子どもでも、アダルトサイトにログインすることができる。
 こうした状況を不安視するのは、僕が大人になったせいだろうか。十八歳未満の自分は、成人向けの情報を知りたいと強く思っていた。大人に情報を制限されることを嫌っていた。しかし、あの頃の自分は、家にインターネットがつながるパソコンを持っていなかった。PHSもインターネットにはつながらなかった。現代の子どもは、ネットを通して、簡単に成人向けの情報にアクセスすることが可能だ。僕が子どもの頃とは違う。夏休み、実家に帰った時、小学生の子どもを持つおじさんが、子どもが変なサイトに行かないように、パソコンを見守るのはとっても大変だとぼやいていた。
 インターネットは情報を開示する。知りたいという欲求があれば、学校で教えていないようなことでも、自分の力でどんどん知ることができる。学ぶ意欲がある人にとって、インターネットは無限の可能性を与えてくれる。しかし、ネット上に知識が溢れていすぎるからこそ、逆に知識の価値は相対的に低下したのではないだろうか。
 知ることよりも、想像すること。検索エンジンで知識を探そうとするより、まず自分の頭で、想像してみること。食事についてもそうだ。
 食事に関するいろいろな情報をインターネットから入手することができる。しかし、検索エンジンに手をかける前に、まず想像してみよう。自分が口にした食事は、食事になる前、何だったのか。動物か。植物か。油か。食事が乗っているっている容器は、石油から作られたものだろうか。食事となった動物が生きていた頃、何を感じて生きていたのだろうか。誰が動植物を育ててくれたのだろう。誰がさばいてくれたのだろう。誰がお店まで運んでくれたのだろう。誰がレジを打ってくれたのだろう。
 いろいろな命の関わりを想像することで、低価格の食事が、類稀ない奇跡であることを想像してみる。知識ではない、実感として、想像力を駆使して、世界とのつながりを取り戻す。アダルトサイトもそうだ。知識として仕入れるより前に、まず想像してみること。情報が溢れかえった世界で、想像の余地を残しておこう。
 昼前にネットカフェを出て、自転車で家に帰った。自転車に乗っていると、別に急ぐ必要もないのに、ついつい急いでしまう。歩道が詰まっていたり、前の自転車が遅かったりすると、急ぐ必要もないのにいらついてしまう。焦る必要はない。ゆったりしてみよう。時間はたっぷりある。焦るよりも、時間をかけて、よりよいものを生み出していこう。
 近所のコンビ二で大盛りきしめんと、ツナとコーンのサラダを買った。自室でレンタルしたDVDを見つつ、買い置きのキムチと一緒に食事をいただいた。ツナとコーンのサラダの中には、ゆで卵が入っている。大学生の頃、連日家で卵焼きを食べていたら、目の上のまぶたが真っ赤にはれた。あれは卵焼きを毎日食べ過ぎたせいだと思った僕は、以後サラダの中にゆで卵が入っていたりすると、ちょっと嫌な気分を持つようになった。別に親子丼やカツ丼の中に入っている卵は嫌だと思わないのに、サラダの中にゆで卵を見つけると、ちょっと嫌な気持ちになる。
 そんな卵アレルギー恐怖は、不要なものだと今気づいた。まぶたが真っ赤にはれたのは、大学が春休みの頃だった。あれは、花粉症だったのだ。卵の食べすぎは確かに体のバランスを崩すので悪いが、卵が一方的に悪いわけではない。これから、卵さんを食べる時に、不快に思うことがないようにしよう。卵の命に失礼だ。雌鳥から生まれた卵は、ひよこになっていたかもしれないのに、人間のために食事になったのだから。卵を一ついただくことはすなわち、別の命をいただいていることに等しい。この等式を忘れないようにしよう。
 午後は、テレビゲームをするうち、体が疲れて眠たくなったので、昼寝した。目覚めても、肩が痛く、全身けだるい。ここ数年、休日でも、夕方全身疲労を感じるようになった。働き過ぎだし、休日にも予定を詰めすぎなのだろう。見るべきDVD、クリアすべきゲーム、書くべき仕事、果たすべきビジネス、読むべき小説、マンガが多すぎる。そのうち、人生に必要なのは、ほんの一部なのだろうに。重要なことに取り組むのを避けるためであるかのように、娯楽が増えていく。娯楽のせいで、あるいは娯楽を購入するために働きすぎて、疲れ果てて、本当に必要な、書く仕事が進まないようでは、情けない。
 情け深い人生を送るためには、自分に嘘をつかないことだ。家族、友人、他人、外食店やスーパーの店員さんに見られても、恥ずかしくない生活を送り、店員さんたちに恥じない仕事を続けることだ。
 夕方、眠っても疲れがとれず、ベッドの上でストレッチを繰り返した。それでも疲れがとれないので、スーパーに行って、夕食を買ってきた。しいたけとえびの揚げ物、寿司、プリン体と糖分をカットしたビール、買いおきのキムチを食べたら、全身の疲れがきれいにとれた。僕は慢性疲労症でも、労働過多、ストレス過多でも何でもなく、ただ単に、お腹がすいた時に食事をしないばか者なのかもしれない。お腹がすいて、疲れたら、食事をすること。動物として当たり前のことを守るようにしよう。動物として当たり前のことをしないでいることもまた、何かのバランスが崩れた結果かもしれない。なら、できるだけ簡単な方法で問題を解決しよう。
 仕事を減らすとか、人生について考えなおすとか、そういう難しいことは必要じゃない。ただ単に、お腹がすいたら、糖尿病にならないよう気をつけつつ、体が欲する栄養を摂取すること。必要な分を必要な分だけとる。難しく考えこむ必要はない。体が感じたまま、食事の恵みをいただくだけだ。


たくさんの命を毎日消費する人生(2009年10月19日(月))

 今日食べたもの。
 朝は、ツナと野菜のカンパーニュサンドと、アイスコーヒー。五百二十円。昼は、きのこと木の実のサンドとアイスコーヒー。四百九十円。九十九円ショップで、麦茶の二リットル入りペットボトルと栄養ドリンクを買う。夜は、インド料理店で、ナン、ライス、三種類のインドカレー、シシカバブー、マンゴーラッシー、フルーツポンチのセットをいただいた。盛りだくさんでも、千円だ。今日私が口に入れた全ての食物の恵みに感謝し、それらの恵みに恥じない人生を、明日からも歩み続けよう。
 今日も、明日も、同じように、恵みに恥じない人生。いつまでも、ずっと。与えられた恵みに感謝し、答えていく人生。無理をする必要はない。僕に人生の恵みを与えてくれるのは、ごく当たり前の働く人たち、生きている人たちだ。彼女や彼と同じように、僕も無理をせず、働き、他の人々に仕えていこう。
 僕が毎日聴いているアイポッドの中には、現在一万四千四十二曲入っている。日数に換算して、七十・九日分、データに換算して四十九・四五ギガバイト分の音楽が、薄く軽い機械の中に入っている。レンタルショップでCD一枚三百円程度でレンタルできる。半額キャンペーンを利用すれば、百五十円でCD一枚分の音楽をパソコンに取りこむことができる。図書館にいけば、無料でCDを借りることができる。モーツァルト、バッハ、ベートーヴェン、世界各地の民族音楽など、人類が長年生み出してきた珠玉の音楽を無料で聴くことができる。あまりに大量の音楽を摂取できるから、一度取り入れてみたものの、ほとんど聴いていない曲もある。そうした曲がたくさんあるのに、安いからといって、どんどん音楽を追加してしまう。
 手に入れたものをとことん楽しんでから、次に進もう。次から次へと新しい情報を入手しても、自分自身忙しくなるだけだ。持っているもので、満ち足りることだ。
 さて、こうして毎日食事の記録をつけているうちに、自分の食事が偏っていることを痛感した。コーヒーを毎日朝昼二回は必ず飲んでいるし、休日にはお酒を飲んでいる。コーヒーとお酒を飲んだ前後には、飲んだ分の二倍の水か麦茶を飲むようにしよう。別にコーヒーもお酒も悪者ではない。飲みすぎず、節制して、適度に飲めば、人生の楽しみと味わいを与えてくれるものだ。
 体が慢性疲労なことにも気づいた。これだけ疲れて、肩、腕、背中、腰に痛みを感じているのだから、医者にいけばいいのに、疲れながらも毎日仕事を続けている。何かの感覚が麻痺してしまっているのだろう。夜眠たくても、夜更かしして、書く仕事に没頭してしまう。必要な分だけ働き、必要な分だけ休もう。疲れたら水分をとって、食事も十分にいただこう。
 未来に気になることがあると、今に集中することができない。不安、心配に押しつぶされて、今目の前に広がっている光景の美しさに目が開かれない。歩いている時は、常に考えごとをしている。自分の目の前に広がっている東京の道路には、美しさなど一つもないと思いこんでいるせいだ。
 あらゆる先入観を捨ててみた。この世界の大地に降り立った瞬間の自分に戻り、歩道から道路を眺めてみた。仕事の心配、人生の心配、社会の心配、将来の心配、あらゆる不安を頭の中から追い出して、ただひたすら視界に広がる都会の光景に目をこらしてみた。
 太陽が道路を照らしている。歩道には、木が何本も植えられている。木の根元には、草も生い茂っている。木の名前が何というのかは知らない。雑草一本一本の名前も知らない。しかし、草木のことを美しいと思った。
 僕の前を歩いている昼休み中のワイシャツ姿の若者たちもみな、美しいと思えた。ごく普通の男の子三人だ。昼休み、楽しげに話しながら、オフィスが並ぶ歩道を歩いている。自分たちが働く会社が入っているのだろうビルの中に、コンビ二弁当の袋を持って、入っていく彼ら。日常見慣れた光景だが、美しいと思えた。
 太陽が道路を通る自動車を照らす。自動車の車体が太陽の光を跳ね返して、光り輝く。歩道には、昼休みなのか、タクシーが何台も停車している。停車中のタクシーも、太陽の光に照らされて、光り輝いている。
 歩道脇にある小さな公園は、工事中なのか、布の膜で覆われている。公園に立つ大きな木。木の葉が風に揺られて、ざわつく。小鳥の鳴き声も聞こえる。公園の脇には、児童保育所がある。保育所は防犯のためか、鉄の柵でいかめしく覆われているけれど、建物の中からは、子どもたちの歓声が聞こえてくる。
 僕の視界に入ってくるものは全て、僕の命とつながっている。みんな、太陽に照らされて、光り輝いている。自動車も、ビルも、みんな生きている。何故なら、自動車もビルも、誰かが製造したものだから。
 自動車は、石油で動いている。石油は、命だ。ビルには、電気、ガス、水道が供給されている。それらの社会インフラは、人間の手によって設計された。人間は、社会インフラを整えることで、機械的な技術文明を発達させてきた。水、電気、ガスが大量に生産されて、東京中のビルに供給されている。
 僕たちは、たくさんの命、エネルギー、設計、製造物に支えられて、日常を生きている。そして何より、エネルギーを使いすぎてくらしている僕らの生活を、いつも太陽が照らしてくれている。
「本当にお前は、消費しているエネルギーにふさわしい人生を送っているのか」太陽が聞いてくる。
「エネルギーとは、命だ。たくさんの命を毎日消費して、お前は、それに見合った人生を送っているのか」
 太陽の質問に、胸をはって答えられる人生を送ろう。そうだと思えないなら、今からだって、変えられる。
 目の前に開けている光景に目を向けること。何をもとにして、全ての生物が生きているのか、想像してみること。繰り返し想像し、感謝し、問いかけてみよう。
 今日消費した全ての食物、電気、ガス、水道に感謝し、今日の記録を終えよう。明日も続く。人類が生きている限り、永遠に問いかけと記録が続く。


命を犠牲にしなければ、ほんの一日でも生き延びることができない(2009年10月20日(火))

 今日お世話になったこと。
 朝、サンドイッチとアイスコーヒーを、コーヒーショップの人に作っていただいたこと。お店の中で食事し、くつろいで読書する時間と場所を与えていただいたこと。昼休み、コロッケ、豆腐、肉と野菜の漬物、鯖の煮物など、六品目のおかずが入った定食を定食のチェーン店でいただいたこと。食事後は、隣のコーヒーショップで、エスプレッソコーヒーをいただいたこと。
 夕方、中華料理のチェーン店で、野菜炒め定食をいただいたこと。一日、仕事を与えられたこと。人につくす機会を与えられたこと。夜は、ゲームをして、DVDを見るレクリエーションの時間を与えられた。また、ブログに記事を書く時間を与えられた。
 今日お世話をしたこと。
 日中、仕事をして、誰かのお役に立った。目に見えて感謝されることもないが、働くことで、きっと誰かのために役立つことができたはずだ。自分自身の実感が伴わなくても、仕事は必ず、人のためになされる。
 夜は、ブログに記事を書いた。昼の仕事以上に、夜に書き残したブログの記事が、多くの人のためになったことを願おう。
 今日迷惑をかけたこと。
 仕事中、眠い、体がだるい、腰が痛いと何度も思った。体調がよくなければ、人様のお役に立つことができない。十分に力を発揮できない。姿勢が悪いと悔やむことで、多くの人の迷惑になっていることを恥じ入ろう。悔やむならば、姿勢をよくしてみよう。
 戦争が続いている。世界大戦は起きていないけれど、紛争、事件、自己、自殺、虐殺は続いている。人間同士が殺し合うだけでない。人間は植物の命を奪う。動物の命を奪う。無駄遣いをする。無駄遣いをするということは、何か物品を消費するだけではない。何者かの命を奪っているのだということに気づこう。しかし、こうしたことを声高に宣言して、みなに自省を促すことは、善意の押し付けだろう。偽善に見えるだろう。
 たとえどんなに善いと思えることでも、他人に強要することはできない。強要した途端、どんな善意も悪意に変わる。一人一人の人生は、その人の選択に委ねられている。選択を強制したら、その人の命の輝きをおとしめることになる。かといって、人々の選択を野放しに放任したら、エゴばかりが増大する社会になる。自由とは、何でもやっていいということではない。
 自分だけではない、みんなが自由だと気づくこと。人間だけではない、動物にも植物にも、自由に生きる権利があるのだと気づくこと。
 ともに生きる人々、動植物の権利、自由を認めた上で、自身の自由を謳歌すること。人間として、強大な技術を持った存在として、生きていく責任と自由を意識すること。
 人間が地球の王座に立つわけではない。人間が滅びても、地球は哀しまない。人間は、いずれ滅びる運命にある物体に過ぎない。地球の環境破壊を哀しむのは、人間だけだ。
 命を犠牲にしなければ、ほんの一日でも生き延びることができないのだと気づいた。何かを食べて、僕が生き残る。冷徹な命の現実。せめて感謝しよう。今日僕の代わりに亡くなった生命に。生命は生まれ変わる、僕の体の中で。だるい、痛い、眠いと言わずに、僕が口にした生命の分まで、働いてみよう。
 世界は改革できる。人間は、改善、改革を繰り返してきた。強大な科学技術の文明ができあがった。改善改革の果てにたどりついたのは、地球環境破壊の現実だったろうか。核兵器と化学物質と紛争に満ちた世界なのだろうか。
 人間は強力な破壊兵器を手にしたけれど、一方で、強力な愛も手にしたはずだ。核兵器をも包み込んでしまうほどの愛。できるだろうか。隣の誰か、遠くの誰かを愛すること。食べた動物と植物の命を愛すること。僕の体の中に入り、明日また生まれ変わって細胞になる動物と植物の命。恵み。


見落としてしまいやすい小さな対象に投げる光(2009年10月21日(水))

 僕は生きている。目の前に歩道がある。歩道を見つめると、アスファルトが見える。アスファルトは、原油からできている。コーヒーショップの中にある食器、プラスチックのトレイだけが、石油から作られているわけではなかった。店の並ぶ道路に敷き詰められたアスファルトもまた、石油を親としていたのだ。
 店の横に立つ鉄筋コンクリートのオフィスビル、これもまた、石油を親としている。やはり、僕らの社会は石油を親として、生まれた社会なのだ。
 石油はもう古いといって、人類は風力発電、太陽発電、原子力発電を目指している。しかし、どれもエネルギーだ。人間は何らかの強大なエネルギーを生み出さなければ、社会を維持できないのだ。膨大なエネルギーを消費して生きている僕たちは、普段何を感じているのだろう。何を考えているのだろう。これだけのエネルギーを消費して、何を地球に返そうとしているのだろう。
 朝は、いつものコーヒーショップで、レタスドッグとアイスコーヒーをいただいた。レタスドッグにも、アイスコーヒーにも、製造工程で莫大なエネルギーが使われたことだろう。それらのエネルギーに感謝しよう。そして何より、僕の中に入って今後のエネルギーとなってくれる命の犠牲に感謝しよう。
 昼は、かぼちゃとミートソースの入った焼きパンとアイスコーヒーをいただいた。昼休み、歩いていたら、また僕の前にアスファルトが広がっていることに気づいた。目を走らせてみる。どこまでも、アスファルトが続く。灰色、青、赤、色は変わっても、地面に石油が敷き詰められている。視界に入る地面は全て、石油を親として、舗装されている。道路の上には、これまた石油を動力源として動く自動車が走っている。自動車は、何も自動で動いているわけではない。石油を消費して、走り回っているのだ。自動車という言葉に惑わされないようにしよう。
 人力車しかなかった時代、自動車は、自動車だった。今の時代、自動車とは、石油力車だ。電気や太陽光で動くエコ自動車は、電気力車であり、太陽力車だ。決して、自動車ではない。自動で動くものなど、この世界に何もない。何かしらのエネルギーを消費して、みんな動き回っている。何かを犠牲にしなければ、何かを手に入れることができない。
 夜は、五百円の定食屋に行って、一口かつ定食をいただいた。一口かつを揚げるのに、油が使われている。一口かつの姿からは、もともとの豚さんの姿は想像できないけれど、僕は豚さんの命、油の命、かつの衣となった小麦粉や卵の命、稲、味噌の命に感謝した。かつをつけるソースの中にも、液状になってよく見えないが、様々な動植物の命が入っている。ソース、醤油、ケチャップ、マヨネーズ、サラダドレッシング、どれも大切な命の塊、液体だ。調味料は、命である。人類は調味料という命に助けられて、ここまで強大になったのだ。
 五百円でいただく一口かつ定食からも、人類の歴史、犠牲にしてきた命のめぐみを感じ取り、深く感謝することができる。
 何をするのが仕事なのか。ソースに感謝することが、僕の仕事だ。何も社会にとって重大なことをぶちあげよう、インパクトのある仕事をしようと意気込む必要はない。どこの家庭にも備わっている、ソースの中につめこまれている命の恵みに想像がおよぶように、きっかけを作るだけだ。
 どこにもありふれている当たり前の恵み、見落としてしまいやすい小さな対象、そこに光を投げかけてみること。
 目の前に広がる道路、コンビ二、そこかしこの物体に石油の陰を感じ取ってみること。自動車は今後、石油力車と呼んでみる。道路は今後、石油の道と呼ぶことにしよう。


肩に塩を振って海を思い出す(2009年10月22日(木))

 木曜日は、全身が痛かった。頭、目、首、肩、二の腕、手指、背中、腰、お尻、足の裏が痛い。精神がずっと緊張している。視界に入ってくる光景全て、機械と石油の塊に見える。そう感じるから、こんなに具合が悪くなったのだろうか。食事に対する感謝の日記も、残しておくことができなかった。ある程度調子のよくなった、今なら書いておくことができる。
 朝はいつものお店で、レタスドッグとアイスコーヒーをいただいた。昼は、いつものベーカリーで、味噌かつパンとアイスコーヒーをいただいた。夜は、一律五百円の定食屋で日替わりのハンバーグ定食をいただいた。当日、食べている時は、食事に感謝する気持ちになれなかった。精神的に追い詰められていて、ゆとりがないのだ。
 日記をつけている時だけでなく、普段から食事に感謝するゆとりを維持できる心を持ちたい。一時だけ、感謝しても無効なのだ。ずうっと持続して初めて、「ありがとう」という気持ちが、食べてきたみんなに届くのだ。
 こうして食事を記録してみると、本当に毎日同じ生活の繰り返しなのだと気づく。子どもの頃は、一日が長かった。一年がものずごく長かった。大人になると、一日があっという間に終わる。同じ生活を繰り返している性だ。型にはまってしまったのだ。
 子どもの頃だって、毎日同じ生活だったはずだ。しかし、毎日新しい発見があった。知識が頭に詰め込まれていなかったから、いろいろなことに驚き、時間を楽しむことができた。今は、気をつけなくては、型にはまってしまう。自分と人類の未来にも絶望してしまいやすい。希望と発見を絶やさぬよう、想像力を駆使してみよう。
 夜、全身の痛みに耐えながらニュースを見て、空港の滑走路が広がると知った。日本は、国際線の滑走路が、諸外国に比べて足りないと言う。石油の力を使って大空を飛び回ることが、それほど必要なことだろうか。大急ぎで飛び回る必要などないではないか。移動スピードをあげて、大量の人と物資を移動して、そんなに情報交換を活発にして、何をしようというのだろう。
 活動するよりも、大切なことがないか、じっくり頭を休めて想像してみよう。
 あまりに体が痛いので、迷信は嫌いだが、塩を体に振ってみた。何故お払いに塩を使うのか、科学技術のない昔の人々は、塩に何を感じていたのだろう。
 塩と砂糖は、人類の文化文明を支えてきた、貴重な恵みだ。海水からとれる塩は、海水の象徴となる。塩で体を清めることは、海の中に身を浸して、俗世の「けがれ」を取り払う儀式の代替行為となる。肩に食塩を振って、「けがれ」がとれた、つまり、なんだか不均衡な状態が安定した状態に戻ったと感じるのは、僕らの体と心が、海につながっているからだろうか。
 塩のしょっぱい味わいに、海の中で生きていた頃の記憶を思い出す。僕ら人間は、昔、海で暮らしていた。僕らが毎日食べている豚さん、牛さん、鳥さんたちもみな、元をたどれば一つの海に生きる生命体だった。
 塩も砂糖も安いし、大量に買うことができる。アフリカでは、水資源をめぐって、すでに紛争が起きているという。そのうち、塩と砂糖をめぐって、紛争でも起きるだろうか。
 これだけ安い食事が溢れている今の日本は、平和なのだろうか。異常な姿なのだろうか。


巨大帝国の皇帝のごとくみなが浪費する時代(2009年10月23日(金))

 朝になっても、前日の疲れがとれなかった。歩きながら、笑ってみた。胸を張る。気を張る。食事のかたよりや、働き過ぎが、慢性疲労の原因かと思っていたが、心が縮こまっていたことが原因ではないか。笑っていれば、何もかも、快方に向かうのではないか。
 そんな単純な思い込みで、疲労が取れるなら病院はいらないのだが、精神を強く保とうと意識した瞬間に、疲労がすっとひいた。病院を必要とする類の疲労ではなかったようだ。頭の中を「やるべきこと」すなわち「やる気がないがやる必要のあること」で一杯にしないように気をつけてみる。口に入ってくるものよりも、口から出ていくものの方に気をつけてみる。
 いつでも最高の自分でいられると勘違いしていた。自分は機械ではない、人間なのだ。人間は長時間同じ作業に耐えられない。集中力がない? 違う。詰め込みすぎたら、だめだ。朝から晩まで同じペースで、ずっと仕事できるという想いこみは、死を招く。最高の自分を維持することは、疲れる。妥協ではない。無理なことを要求するのはやめにしよう。体を壊す必要はない。ネイティブアメリカンが織物を縫う時のように、安らかな気持ちで人生を続けていこう。
 明るい笑顔を維持しようと思ったせいか、仕事中、電話で話す人の声が冷め切っていると、この人は疲れているのだろうかと思うようになった。以前は、想像しなかったことだ。こんなに暗く元気のない声を出して、この人の心は弱っているのだろうか。余計なお世話かもしれないが、何か自分にできることはないのか、想像してみること。
 余計なお世話こそ、仕事ではないだろうか。何か自分にできることはないかと思って、恩を返していくことこそ、働くということではないか。
 七日間、同じことを続ける必要はない。何事も、一週間のうち、三回もできればよい方だ。週四回もできれば、幸せだ。一週間は七日あるのだから、七日間毎日同じペースで仕事ができるという思い込みは間違いだ。休日もある。
 今日は烏龍茶をたくさん飲んだ。烏龍茶は、茶葉を発酵させたものだ。ポリフェノールも多いという。カフェイン、ポリフェノール、化学者ではないから、詳しくは知らない。烏龍茶にもカフェインは入っているが、コーヒーを飲むよりも、心と体が落ち着くように感じられる。コーヒーがもたらしてくれるような、強い興奮はない。体が安らぎつつも、思考が冴え渡る感じがする。
 朝は痛みのせいで電車に乗り遅れたので、ツナのサンドイッチとアイスコーヒーをいただいた。四百六十円だ。昼はマスタードハム入りのサンドと、アイスコーヒーをいただいた。四百四十円だ。夜はインド料理屋で、インドカレーのセットをいただいた。野菜カレー、チキンカレー、キーマカレーの三種類のカレーにナン、サラダ、鶏肉がつく。千円だ。全部食べると、満腹になる。
 インドの人たちは、毎日こんな豪勢なインドカレーを食べているわけではないだろうと思う。日本人が毎日テンプラ、スシ、懐石料理を食べているわけではないように、日本国内のインドカレー料理店は、日本人向けに、豪勢な食事を用意してくれているのだろう。
 ベジタリアンも、肉食の人と変わらず、命の恵みをいただいている。他の命を犠牲にして、生き残っていくのは、生命の宿命だ。他の生命よりも強く、優れた者が生き残るのだろうか。僕たちは、食物連鎖の頂点に位置する存在として、毎日他の生命の命を奪っている。奪っているだけではない。やがて食物となる動植物がよりよく育つよう、飼料を与え、飼育している。
 親子丼は、鶏のお母さんお父さんと、子どものセットだ。よく考えると残酷な料理だけれど、おいしいし、当たり前に食べているから、僕も好きだ。親子丼は、十九世紀末に発明された。その頃なら、まだおいしいで済む話だったろうが、これだけ合理的、機械的に、世界中の農場で大量の鳥が飼育されている時代だ。親子丼は、もう残酷なだけではないだろうか。
 必要なだけ食べて、必要なだけの満ち足りた生活を送ること。過剰は新しい文化を生み出す。けれど、過剰は、他の生命を犠牲にしもする。
 烏龍茶も古代中国では、皇帝たちの飲み物だった。今やドラッグストアや99円ショップで安売りされている。烏龍茶をおいしくいただきつつも、自分たちが、二千年前の皇帝よりも、莫大な浪費をしているのだと知っておこう。無知のまま、浪費し続けるよりは、希望がつながる。


手がこの世界に残していくものに注意すること(2009年10月24日(土))

 土曜日の朝、午前5時半に起きた。眠いけれど、深夜に録画しておいたテレビ番組を見てから、六時半に部屋を出て、ファミレスに向かった。
 ファミレスでチーズトーストとドリンクバーのモーニングセットを注文する。
 店内に話し声が満ちている。これから向かおうと考えているネットカフェは、いつでも静かだ。話し声一つしない。みんな静かにした方がいいと、図書館みたいに思っているせいだろうか。ファミレスは賑わうことが許された空間だ。ネットカフェは独特だと改めて思った。
 中野駅前にあるコンビ二手前の歩道に自転車をとめて、ネットカフェに入った。モーニングコース五百円。今日入った個室のパソコンは、ずっとぶんぶん唸っていた。キーボードのキーとキーの隙間に埃がつまってもいる。スペースキーの反応も悪い。五百円という低価格で、フリードリンクとパソコンと、仕事の場所を提供していただいているのだ。何も文句は言えない。ただ、他にもネットカフェがたくさんあるから、ついつい他のお店と比べてしまう。悪い癖だ。
 十一時過ぎにネットカフェを出て、書店で『悲しき熱帯』を買った後、コンビ二の前で自転車を探したが、見つからなかった。さてはと思い、警告の立て看板を見てみる。看板には、自転車撤去の日付が記入されている。書き込みは、今日の日付だ。撤去された自転車は、駅から離れたところにある回収センターに保管されている。ひきとりには、五千円必要とも書かれている。しょうがない。自転車を取りに行くことにした。
 歩道には自転車がたくさん並んでいる。早朝に自転車を撤去したのだろう。土曜の朝八時前後に撤去する自転車なら、前日から放置された自転車と考えるのがふさわしい。休日はてっきり撤収作業をしないものだと思いこんでいたのが甘かった。人で賑わう休日の昼間に撤収作業をしたら、クレームがくるのかもしれないが、早朝ならば文句も出ないのだろう。
 図書館と園芸センターを通り、高架橋の下をくぐる。こちらの通りは、あまり歩かないから新鮮だ。自転車の保管所は、鉄格子の入り口で、刑務所か自衛隊駐屯所の入り口のようだった。狭い隙間を通って、受付所をのぞいてみる。作業服を着て帽子をかぶった眼鏡姿のおじさんが、笑顔で「ごくろうさまです」と言ってくれた。撤収された自転車をわざわざとりに来てくれて、ありがとうございますという雰囲気だ。
「ごくろうさまです」と笑顔で言われた瞬間は、何とありがたいことだろうと思ったが、来ていきなり怒り出すクレーマーも中にはいるかもしれないなと思った。金なんて払うかと怒鳴る人もいるかもしれない。それほどの時代だ。
「先にお金を出せばいいんでしたっけ?」
 立て看板には何が必要と書いてあったろうと思い出しつつ、尋ねてみる。
「もしかして、書類をお持ちじゃないんですか?」
 驚いた様子で聞き返された。僕はうなずく。警察かどこかに行って、書類をもらってから、ここを尋ねてくる人が多いようだ。
「いつ頃、自転車をなくされました?」
「今朝です。多分七時くらい」
「ああ、それはお気の毒に」
 受付のおじさんが、本当に申し訳なさそうな顔でいる。僕はてっきり強面の係の人に、自転車の歩道駐輪は危険だからやめなさいと、説教されるだろうかと思いながらやってきたので、想像との違いに面食らった。
 保管場所までは、別のおじいさんが案内してくれた。僕の自転車は、保管駐輪場の左端においてあった。歩道の立て看板には、「撤去中の作業により、チェーンやブレーキが故障しても、責任を負いません」なんて、強気の文章が書かれていたが、実際の対応はとても丁寧で心和む雰囲気だ。
「鍵をさしていただけますか? 入り口まで運んでおきますので、受付へどうぞ」
 僕は自転車の移動をおじいさんの係員さんに任せて、受付に向かった。風と日にさらされて、ぼろぼろになった椅子に座り、同じくぼろぼろの机においてある書類に住所氏名を記入した。
「申し訳ありませんが、五千円いただきます」
 受付のおじさんは、僕が偶然の災難にあったことを哀れむように、頭をさげて、罰金の五千円札を受け取ってくれた。つくづくありがたいことだと思った。
 自転車に乗って、家に向かう。途中寄ったコンビ二で、照り焼きチキン弁当とコールスローサラダを買って、昼食にした。
 朝早く起きすぎたせいか、眠気がとれないので、二時間昼寝後、中野坂上方面のネットカフェへ。受付は、めがねをかけた温和そうな女性店員さんだった。ここ数ヶ月で、はじめての女性店員さんだ。いつも通り、三時間パック千円で滞在する。アイスコーヒーを飲みつつ、チョコレートをつまみながら、書く仕事を続けた。
 コーヒー豆とカカオ豆に感謝しよう。それにしても僕は毎日コーヒーを飲んでいる。僕が毎日飲み続けても、コーヒーはなくならない。世界中でコーヒー豆が消費されている。日本国内でも、年間どれくらいコーヒーが飲まれているのだろう。それだけコーヒー豆が栽培され、消費されているということだ。世界中の人間のために育ち、焙煎され、飲まれているコーヒー豆におおいなる感謝を捧げよう。
「僕は特に毎日コーヒーを飲んでいます。コーヒーを飲みすぎると、カフェインの取りすぎになるんじゃないかとか、不安な気持ちを抱えながら、コーヒーをいただいていました。今後はそのような迷いにとらわれず、コーヒー豆さんの命に感謝し、頭をたれながら、コーヒーをいただきます。ありがとうございました」
 十五分の延長料金百円を受付で払って、ネットカフェを出た。夕食は、帰り道にあるインドカレー屋で食べた。店内はカウンターのみで、入り口に自動券売機がある。八百五十円のベジタブルカレー券を取り出すと、券売機の側で待ってくれていた店員さんに「ナンですか? カレーですか?」と聞かれた。日本語のイントネーションは、外国訛りだが、店員さんの顔は、日本人に見える。インドカレー屋さんには、だいたいインドの方が働いている場合は多いが、彼は東南アジア系だろうか。
 ナンを注文したら、カウンターの真ん中に案内された。入り口付近には、ロングヘアーの若い女性が座って、ラッシーを飲みつつ、インドカレーを食べている。一番奥の席には、皮ジャンを着た年輩のインド人男性が座っている。こちらははっきり、インド出身の方だと見えた。
 店員さんが、カウンターの中に入り、料理を始める。一番奥に座る男性が、店員さんに英語で話しかける。店員さんも英語で答える。ベジタブルカレーは注文後、すぐ出てきた。カレーのルーの中に、ブロッコリーや人参や玉ねぎが入っている。料理を食べていたら、白人男性のお客さんがお店に入ってきた。インドカレーはおいしいから、世界中で愛されているだろうと思う。コーヒー、インドカレー、キムチ、僕は異国の料理をたくさん口にしている。恵まれた時代だ。このありがたみを忘れないように、気をつけよう。
「ありがとうございます。おいしいベジタブルカレーをいただきました。食物の恵みに感謝します。世界中の料理、飲み物を東京でいただけることに感謝します。これは大変幸せなことです。人類は大量の動植物を食べています。世界には食物の偏りがあります。たくさんの動植物の生命をいただいてきたお礼として、命のバランスを取り戻すことができるよう、貢献させていただきます。今までいただいてきた収穫の実りに答えること、農家の方々、トラックの運転手さん、調理してくれた方、レジを打ってくれた方に恩返しすることが、私の仕事です」
 誰もが仕事をしている。歩道に駐輪してある自転車を回収する人。保管場所に自転車を取りに来た人に対して、「ご苦労様です」「お気の毒に」と声をかけてくれる係員の人。
 職業に貴賎はない。みな平等、どんな仕事にも気持ちがこもっている。サービスを提供してくれる人たちの愛情に感謝しよう。おおいなる関係の輪を慈しもう。命を結ぶ関係の輪が、僕の人生を毎日支えてくれている。
 僕はつながっている、ブラジルのコーヒー豆、インドのカレー、韓国のキムチ、アメリカの母牛の乳、中東でとれる石油に。見えない場所で、つながっている。この関係を愛し、慈しもう。
 人間は宗教神話上の存在ではない。思ったことは言葉にして、表現しなければ、相手に伝わらない。
 気持ちを言葉で伝えるのがうまい人、身振り手振りで伝えるのがうまい人、書いて表現するのがうまい人がいる。僕は何が得意なのか。店員さんたちに感謝の気持ちを伝えるのが苦手だから、こうして書き残しておこう。
 口に取り入れるものよりも、口から出て行くものに注意すること。
 同様に、手が取り寄せるものに注意するよりも、手がこの世界に残していくものに注意すること。
 地球をこの手で汚さないよう気をつけながら生きてみること。僕らの手が世界に残していくものを、入念に組み立ててみよう。
 この世界に何を残すのか。自分の手を使って、体の中に取り入れたものたちに失礼のないよう、手渡しでお返しするのだ、言葉を。(了)


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