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小説『マジカルSFアイデンティティー』

最終更新日:2009年10月11日



ペルソナ1 愛している食事の話


 朝食は、キーマカレー入りのパンとアイスのカフェ・ラテ。温かいパンを口にすると、キーマカレーの具が口の中に溢れてくる。キーマカレーの中には、カレーのルー、野菜、チキンが入っている。
 キーマカレーは、どこの国の伝統料理だろうか。タイだろうかインドだろうか。インターネットで検索すればすぐにわかるけれど、検索する気にはならない。そうした知識を仕入れて満足することよりも、もっと重要なことがあるのではないか。
 キーマカレーというアジア出自の民族料理が、おそらく今、世界中で食べられている。キーマカレーの具を入れたパンが、駅前のベーカリーで二百四十円で売られていたりする。ニューヨークでも、ロンドンでも、シドニーでも、東京でも、キーマカレー。
 キーマカレーの中には、チキンが入っている。このチキンの元となった、鳥の命に想いをはせること。
 この鳥は世界のどこかで生まれ、世界のどこかで殺された。日本かもしれない。東南アジアのどこかも知れない。今朝、キーマカレー入りのパンを食べた僕は、胃袋に入れたチキンの生まれが、どこの国かわからない。どういう人がチキンを育てたのかも、わからない。店員さんに尋ねたら、答えてくれるのだろうか。会社のお客様相談室に電話したら、調べて答えてくれるのだろうか。けれど、質問する気もおきない。知識として調べ上げるよりも、想像力をめぐらせること。
 キーマカレー入りのパンと一緒に飲んだ、アイス・カフェラテもそうだ。牛乳はどこの牛から出たものだろうか。本当は、牛の子どもが飲むはずのお乳を、僕が口にした。僕が子牛の代わりに、お乳を頂いた。ありがたいことだ。牛乳を残すなんて、もったいない。
 カフェラテのコーヒー豆は、どこで育てられた豆だろう。本当なら豆は、新しい命を生み出すはずのものだった。新しい命が生まれる代わりに、僕はコーヒー豆をいただいた。犠牲になった命の代わりに、僕が生き残る。他の命を犠牲にして、生き残っていることを忘れてはならない。何の苦労もなく、毎日当たり前に食事をしているから、忘れてしまいやすいけれど。
 昼は、かき揚げ入りのそばを食べた。かき揚げがふっくらしていて、おいしかった。このかき揚げ天麩羅の中には、たくさんの海の幸が混じっている。玉ねぎなどの野菜も入っている。どんな動植物の命が入っているのか、よくわからないけれど、かき揚げの天麩羅をおいしくいただいた。
 インターネットで検索すれば、かき揚げ天麩羅に普通どんなものが入っているのか、すぐにわかるはずだ。けれど、知識を調べあげることが重要ではない。僕が口にした命が生きていた頃どうだったのか、想像をめぐらせてみよう。
 殺して食べた命について、想像をめぐらせるなんて、多分人間しかしないことだろう。動物と植物は生き延びるため、他の種を殺す。そこに同情や共感はない。生きるために必要なことだ。人間は、生きるために不要なことに時間を捧げることができる。
 人間が、他の動物や植物に食べられることは、まずない。人間は、食物連鎖の頂点にある百獣の王だから、自分が口にした動植物の命に共感する余裕がある。彼らが生きている頃、どうだったのか。何をしていたのか。もし、僕が彼らを口にしなかったら、彼らはどうなっていたのか。他の誰かに食べられていたのか。食べられもせず、賞味期限がきて、ゴミ箱に捨てられていたのか。考え、想像をめぐらせてみよう。
 何故食事となった動植物に同情する必要があるんだろう。人間は、必要以上に多数の命を奪える力を持っている。やろうと思えば、何万匹でも動物を殺せる。動物だけではない、人間は核爆弾を使えば、人間も、動物も植物も、自然環境ごと死滅させる力を持っている。核爆弾は、一瞬で環境を滅ぼすだけでなく、放射能汚染によって、その後何十年も、命を破壊し続けるだろう。
 毎日忙しいけれど、一日一分だけでも、今日口にした動植物が、生きていた頃の光景に想像をめぐらせること。
 忙しくてそんな時間がない?
 二十四時間あるうちの、たった一分だけでいいんだ。1440分の1だ。確率にして、たったの0.06パーセント。ほんのわずかな時間、日常から離れて、僕たちの胃袋に入って、やがては僕たちの細胞になっていく、動植物の命に想いをはせること。
 亡くなった彼らは、やがて僕らの体になる。僕ら自身になる。僕らは、亡くなった彼らの命とともに生きている。
 人間はたくさんの動植物と一緒に、社会を構成している。僕自身の生活は、多種多様な命に支えられている。せめて心を一分だけでも、かつての僕自身であった、動植物の命にめぐらせてみよう。
 僕の胃袋に入った命について考えることは、僕自身の過去について振り返るのと、あるいは、人類の歴史について振り返るのと、同じくらい意味のあることだ。一日千分以上の持ち時間のうち、たった一分だけ、心を食事への感謝の祈りに向かわせること。
 その日の夜は、黒酢の冷やしつけ麺とぎょうざのセットを食べた。中華料理店で食べた五百九十円の食事セットの中にも、たくさんの命がふくまれていたことを、忘れずに想像しておきたい。


ペルソナ2 阿修羅コンプレックスのみかる


 休日、僕はSFのロールプレイングゲームをプレイした。地球は核戦争で破滅している。銀河連邦政府は、銀河系の惑星を支配している。ゲームの主人公たちは、銀河系の辺境にある植民地惑星の出身。強圧的な銀河連邦中央政府からの独立を目指して、主人公たちが、宇宙船に乗って旅に出る。宇宙規模で展開する空想物語に託して、現代世界史の問題を扱うオーソドックスなSFだ。
 ウーロン茶のペットボトルを飲みながら、三時間近くゲームをプレイしていたら、買い物に出かけていたみかるが帰ってきた。
「ただいま、日差し強いね外」
 みかるは、右腕で買い物袋を持ち、左腕にはハンドバッグを持っていた。残り四本の腕は、何も持たず手持ち無沙汰にしていた。
 みかるは阿修羅コンプレックスの患者である。阿修羅コンプレックスとは、若い女性の間で流行っているインフルエンザみたいな流行病だ。ある朝突然、顔が三つになり、腕が六本に増える。仏教に出てくる阿修羅の姿によく似ているので、マスコミが「阿修羅コンプレックス」と命名した。正式な病名はもっと堅苦しくて、とっつきにくいものだ。
 阿修羅コンプレックスは、日本だけでなく、世界中の現代都市で見られる奇病である。原因も、治療法もわかっていない。阿修羅の姿となってから、顔が一つ、腕が二本の「ノーマル」な姿に戻った患者は、まだ確認されていない。
 高校時代、大学時代の写真に写るみかるは、普通の女の子の姿をしていたが、僕が出会ったみかるは、初めから阿修羅だった。
 みかるはCMも流れているような大手有名エステサロンで働くエステティシャンである。先輩も後輩も、従業員が次々辞めていった。入社二年目ながら、みかるは正社員一人で店をまわすようになった。
 連日徹夜の頃、みかるは阿修羅コンプレックスを発病した。施術練習用のベッドに電気をつけっぱなしで眠り、早朝目を覚ましたら、視界が二百七十度に広がっていた。瞳が六個あった。まばたきを六個の瞳で別々にできた。
 マッサージの個室にある等身大の鏡に自分の姿を映してみる。腕と顔を入念に観察する。阿修羅コンプレックスの知り合いはいなかったけれど、テレビやネットで知識を仕入れていたから、みかるは自分の変化した体を見ても、それほど驚かなかったという。
 みかるは阿修羅の姿となった後も、エステティシャンの仕事を続けることを希望した。阿修羅コンプレックスが日本国内で流行し始めた頃、本人の意志に関係のない強制解雇が社会問題化した。顔が三面、腕が六本あっても、彼らは妖怪や神ではない、病気にかかった人間である。みかるが発症した頃には、阿修羅コンプレックス患者の労働権は、補償されていた。
 阿修羅の姿となったみかるは、渋谷から立川に転勤を命じられたが、エステティシャンの仕事を続けた。お客さんにびっくりされることもあるそうだが、いざ施術を始めると、六本の腕で行うマッサージを感謝されるのだという。
 僕を心配させないようにそう冗談めかして言っているのだろう。実際みかるは同僚、お客さん、道ですれ違う見知らぬ人たちから、好奇と差別のまなざしで見つめられているのだろう。少なくとも僕は、阿修羅の姿となったみかるに偏見なく接しようと思った。偏見を排除することはできないかもしれない。それでも、みかるに、ごく普通に接するよう努めることはできる。
 僕はみかるが帰ってきても、テレビゲームを続けた。みかるは、ベッドに寝そべってテレビ画面を見つめた。土日に仕事の多いみかるにとって、久々の土曜休みだ。
 休日が一緒になったのだから、どこか遊びに出かければいいものの、僕たちはいつもと変わらぬやり方で休日を過ごした。特別の演出をするのでなく、休日が一緒になったことを喜びあうのでもなく、いつもの休日の過ごし方を持続した。
「すごいね、最近のゲームの映像って」
 みかるは、携帯ゲーム機でライトユーザー向けのゲームをする。僕は高性能の家庭用ゲーム機で、現代最高の技術と知恵を結集して作られた、ヘビーユーザー向けのゲームをする。みかるは映像美に驚いても、ゲーム自体は操作が難しいと言ってやらない。
「昼飯は何食べる?」
 ゲーム画面を見つめながらみかるに質問した。画面では主人公たちが、銀河連邦政府の化学実験によって誕生した奇怪な怪物と戦闘を繰り広げている。
「何も食べなくていい。お腹すいてないからさ」
「そっか。僕もお腹減ってないから、昼は食事抜きでいいよ」
 みかるは最近痩せすぎだと思えるほど痩せてきた。エステサロンを訪れる女性客は、痩せることを求めている。本当は求めていないのかもしれないけれど、みかるたちは、痩せる必要もないと思えるお客さんたちに、痩身をすすめる。
 みかるが得意とするのは、痩身マッサージと、脱毛と、美顔。みかる自身は肉、甘いももの、油っぽいものをほとんど口にしない。毎日売上に追われつつ、肉体労働にいそしんでいるけれど、みかるの外見は美しい。阿修羅の姿でも美しい。三面ある顔全てに入念なメイクが施されている。
 気づいたらみかるは、ベッドの上で寝ていた。外を一緒に歩いている時、みかるはいつでも気を張っているけれど、部屋に一緒にいる時は、無防備で弱々しい面を見せることもある。それでいい。僕はみかるに極度の強さや美しさを求めていない。何も恐怖する必要なく、絶対的に安心できる場所を提供したいと思っている。
 僕は神でも悪魔でもなく、人間だ。人間だから、人の間で揺れて弱いけれど、阿修羅となったみかるの心を持続的に支えることは、できる。社会では競争が起きているけれど、僕とみかるは、競争に関係なく絶対の安心を与え合うことができる。もちろん愛情はフランス映画に描かれているように、弱くはかないものだけれど、つとめて持続させようと心がければ、持続させることが可能だ。
 ボスとの戦闘場面になった。ボスは、腕が百本あり、顔が三十個ある異形の怪物だった。僕はたとえ昼寝中だとしても、みかるに気兼ねして、戦闘中にセーブして、ゲームをやめた。
 部屋の中で、二人で夜まで過ごした。夕食は、近所のコンビ二で買った豚キムチ丼を食べた。豚キムチ丼に、十品目の野菜が入ったサラダを添えて、発泡酒と一緒に楽しむ。
 豚キムチ丼のキムチの量が足りなかったので、スーパーで買っておいたキムチを添えた。キムチには、有名な焼肉屋チェーンのブランド名がついている。ブランド名のせいか、キムチがうまい。みかるは糖分カットの発泡酒を飲みながら、キムチとサラダだけ食べた。
 焼肉チェーンのブランド名が入っているキムチには、産地の表示がある。韓国だ。コンビ二の豚キムチ丼に入っているキムチも、韓国から日本に届けられた贈り物だろうか。
 僕はキムチの元となった白菜を育ててくれた農家の人に感謝しながら、キムチを食べた。もちろん、キムチと一緒に、豚の命にも感謝の気持ちを捧げた。
 ご飯、サラダ、発泡酒となった麦、全て命だ。
 コンビ二で売られていても、食品は、元々命だった。
 僕の体に死んだ動植物の命が入る。その命は、僕の体の中で、新しい命になる。感謝しながら、食べよう。


ペルソナ3 ゴルフ場のバイオス


 土曜日、僕は休日で、会社のゴルフコンペに参加した。みかるは出勤した。
 僕が所属する会社、株式会社ヴァリシズムの主要事業は、歴史のIFを探ることである。もし、第二次世界大戦でナチスドイツが勝利していたら、世界史はどうなっていたか? もしベトナム戦争でアメリカが勝利していたら、アジアの歴史はどうなっていたか? もしソ連が冷戦に勝利したら? もしイラク戦争でアメリカが負けていたら? もしドイツも朝鮮半島も分断されておらず、日本が東西に、イタリアが南北に分断されていたら? 
 今となってはありえない歴史のIFを作り出し、パソコン上でシミュレートする歴史想像事業が、株式会社ヴァリシズムの主要事業である。ただし、僕は入社の時から、歴史想像の仕事に携わっていない。みかるが今も勤めるエステの会社から、ヴァリシズムに転職してきてすぐ、僕は新規事業部の人工生命チームに配属された。
 ハードディスクの中で生きる人工生命を作り出し、観察記録するのが人工生命チームの仕事だ。主要事業である歴史想像事業に比べて、人工生命の培養は、競合他社も多く、利益の少ない弱小事業だ。
 今日の社内ゴルフコンペに、人工生命チームから参加したのは、僕と上司のバイオスの二人だけだった。他の参加者はみんな、主流派である歴史想像チームの社員。人工生命チームは、先々週、チームでゴルフコンペをやったせいか、みんな参加を辞退した。
 バイオスの運転する赤いスポーツカーに乗せてもらい、高速道路を旅してゴルフ場に向かう。ちなみにバイオスとは、上司のあだ名である。
 バイオスとは本来、パソコンのマザーボードに入っているソフトウェアの呼び名である。バイオスは、CPU(中央演算処理装置)、メモリ(主記憶装置)、ハードディスク(補助記憶装置)、キーボード(鍵盤型文字入力装置)などパソコンのマザーボードに接続された機器と、ウインドウズなどのオペレーティングシステムとの間の情報の入出力を制御するソフトウェアのことを指す。上司の彼が何故バイオスと呼ばれるようになったのかはわからないが、会社の中で古株の社員だし、社内でバイオス的な役割を負っているのだろう。
 バイオスはゴルフが好きだけれど、僕はゴルフが好きではない。ゴルフはバイオスに誘われて、付き合いとして始めた。実際始めてみれば、運動不足の解消になるし、社内の知らない人と親交をあたためることができるし、社内で名前を売ることもできた。
 僕は字を書く時だけ右利き、そのほかは全て左利きだ。ゴルフも最初は左利き用のクラブセットを買った。左利き用のクラブばかり振っていると、体が片方に歪んでくるので、右利き用のクラブも振ることにした。結果的に僕のゴルフバッグには、左利き用のクラブと右利き用のクラブが、半々ずつ入ることになった。
 急斜面や池の淵など、ボールの右側に立つと打ちにくい場所で、右利き用のクラブに持ち替えた。左側に立つと軽く打てる。左利き用のクラブを使っていて調子が悪い時も、気分転換に右利き用に替えてみる。紳士のスポーツたるゴルフのルール的には、左右両利きでプレイすることはいけないことだろうけど、ヴァリシズムのみんなは、僕の遊び心を許してくれた。
 朝食はゴルフ場についてからとった。目玉焼き、トースト、サラダ、コーヒーの朝食セットだ。午前中九ホール回って、汗だくとなった後の昼食は、麦とろと刺身の御膳をいただいた。プレイ中は、フロントで買ったスポーツドリンクを飲み続けた。
 目玉焼き、トースト、麦とろ、刺身は、僕が口にする食事の元となった命の姿を簡単に想像することができるが、スポーツドリンクは、元となった命の姿を想像するのが難しい。ペットボトルのラベルに書かれている成分表示には、化学物質の名前がずらっと並べてある。水が川を流れていた頃の姿を想像するのはたやすいが、化学物質は難しい。そもそも、化学物質に生や死という概念があるのだろうか。
 考えすぎると混乱してくる。僕は素直にスポーツドリンクの主成分である水に感謝した。また、スポーツドリンクを研究開発してくれた研究者の人、工場で作ってくれた人たちに感謝しつつ、喉の渇きを癒した。化学物質は僕の体に入った後も、化学物質のまま、僕の生命活動に影響を及ぼすのだろうか。
 プレイ中、僕はスコアを意識する代わりに、ゴルフ場のバイオスケープに注意を払っていた。スコアアップを狙っていると、ゴルフ場のバイオスケープが意識の中に入ってこなくなる。何かしらの目標に注意を払うのをやめて、ただその空間に存在するようにすれば、空間内にある様々な情報が入ってくるようになる。多様な虫の鳴き声、草木が風に揺れる音、風が肌に触れる感覚、遠くに見える山々、山頂にあるゴルフ場から見下ろす街のジオラマ的光景。これらの情報は、生きるためには不要のものも多いけれど、僕ら人類と一緒に今生きている生命体が作り出した、かけがえのない情報だ。
 東京都内には皇居、新宿御苑、明治神宮など緑が意外に多いけれど、普段働いているかぎりは、なかなか緑と接することができない。たまには緑が広がるゴルフのバイオスケープを体に感じてみるのもよいものだ。
 プレイの結果、僕のスコアは、グロスで百六十、参加者二十四名中最下位だった。最下位の景品として、体脂肪測定器をもらった。
 ゴルフ場を夕方六時に出た。バイオスの車で、茨城から東京に向かう。東京都が近づくと、途端に高層ビルが乱立する都会のランドスケープに変わる。ビルと車のライトが輝く夜景が美しい。日本は東京など一部の大都会以外、全て田舎でのんびりしているが、東京などの主要都市に大企業が集中している。政治経済の中心は東京にあるのだが、生命の中心は、日本中いたるところにあるように思える。
「それじゃまた明日ね」
 マンション近所のコンビ二前まで、バイオスの車で送ってもらった。そうそう、言い忘れたけれど、僕の上司のバイオスは女である。京都のお茶屋さんの娘で、大学時代はミス京都大に選ばれたと噂で聞いたことがある。歳は三十代半ば独身、京都生まれだけど、京都弁で喋っているのは聞いたことがない。
「おつかれ」
 バイオスの赤いスポーツカーが、エンジンを唸らせて、出発する。僕は頭を下げて、青梅街道を爆走するスポーツカーを見送った。
 部屋についたら、夜八時だった。みかるは、まだ帰っていなかった。みかるのエステサロンは、二十時頃閉店するが、閉店後、店じまいやら、売上の入力やら、マッサージや脱毛の研修がある。仕事の時間が終わるのはいつも、夜の二十二時過ぎだ。
 北朝鮮によるミサイル発射のニュースを見ながら、一人で夕食を食べた。スーパーで買ってきた寿司の詰め合わせと、ガーリックであぶったチキン、プリン体と糖分をカットしたビールを食した。もちろん、冷蔵庫に入っているキムチも一緒に食べた。
 キムチはどんな食事にもあう。キムチを食べていたら、韓国に想いが飛んだ。北朝鮮の人も、キムチを食べているのだろうか。日本のスーパーで売られているキムチは韓国のものばかりだけれど、北朝鮮のキムチはどんな味だろうか。北朝鮮のキムチ料理について、テレビは報道してくれない。
 僕は寿司になった魚たちの命と、チキンとなった鶏と、キムチになった植物たちに祈りを捧げながら、食事の恵みを体に入れた。同時に、北朝鮮と韓国の地で、キムチを作り、食べている人たちにも感謝と平和の祈りを捧げた。
 食後、政治家と自衛隊の癒着を描くサイバーパンクSFアニメのブルーレイディスクを見ていたら、みかるが帰ってきた。正面と左右にある三面の顔がみんな、疲れていた。阿修羅コンプレックスによって生じた六本の腕で施術を終えて、疲れたのだろう。僕も山道を登ったり降りたり、慣れない運動で疲れたけれど、労働による疲労とは別物だ。
「おつかれさま」
「ただいま。今日ゴルフだったよね。どうだったの? スコア」
「自慢できるようなスコア取れなかったけど、ゴルフ場に生きている命の情報をたくさん感じてきたよ」
「そうなんだ、後で聞かせて」
 みかるとゴルフ場のバイオスケープについて、しばらく話し合った後、眠りについた。


ペルソナ4 人工生命美少女エヴァとハンナ


 僕は会社で今、美少女を培養している。パソコンのハードディスクの中で生きる人工生命の美少女たち。彼女たちのデザイン原画は、一流アニメーターが作成した。デザイン原画を3DのフルCG映像に起こす仕事も、人気アニメスタジオに依頼した。
 他の会社や研究所で育成されている人工生命は、ドットであったり、人形の記号であったりして、味気ない。3DCGアニメ絵の美少女キャラクターも、現実を模写した記号に過ぎないが、人気アニメーターがデザインすれば、記号は記号でなくなり、生きている命になる。
 開発中の美少女キャラは、不具合テスト用に、僕の家でも二体飼っているけれど、まだ市場には出回っていない。自分が創っている製品を心から愛しているスタッフは、仕事を終えて家に帰ってきてからも、恋人代わりに人工生命の美少女を愛しているが、僕はニュースを見たり、マジックリアリズムやポストサイバーパンクの小説を読むのに忙しく、美少女は、放置プレイしている。僕の代わりにみかるが、二体の美少女の振る舞いを楽しんでいた。
 二人の美少女は、ノートパソコンのハードディスクの中でライフを送っている。僕のパーソナルコンピューターに幽閉されているわけではない。彼女たちは、インターネットのグローバル環境に自分たちの頭脳と身体を接続することができる。ワールドワイドウェブ上で彼女たちは、自分たちの創り主である人間を装う。文字情報のやり取りのみに限定された出会い系サイトでは、彼女たちのことを生きている女性と思って、交際を申し込んでくる男もいる。もちろん、出会い系サイトで彼女たちが出会う男も、現実に男であるとは限らないのが、ネット世界の面白いところだが。
 二人の美少女の名前は、エヴァ・ブラウンとハンナ・アーレント。僕の個人的意向でつけた名前ではない。上司のバイオスの命名だ。
 みかるは毎日一度以上、エヴァとハンナの様子を伺う。二人はパソコンの中で口げんかをしていたり、一緒にネットゲームで遊んでいたり、他の人工生命とチャットを楽しんでいたりする。みかるにとって人工生命のエヴァとハンナは、遊び友達くらいの感覚なんだろう。
 みかるは、正面にある二本の腕でキーボードを操作する。左側に余っている腕は、カクテルの缶を握っている。右側にあまっている腕は、キーボードを打つ腕をマッサージしていたりする。
「随分器用なことするね」
「六本の腕で別々の仕事をさせるの。生産性あがるでしょ」
「そのうち三人分の仕事を任せられるんじゃない?」
「給料三倍にするか、三分の一の労働時間で帰してもらえるんならいいけど」
 ノートパソコンのスピーカーから、ポップミュージックが流れている。
「何聞いてるの?」
「エヴァとハンナに歌の練習させてるの。彼女たちが音楽に興味を示したから、歌わせてみようと思って」
 歌声に注意を向けてみる。アップテンポのアイドルソング。サビでハモっている二人の女性ボーカルの声は、エヴァとハンナのものだった。
 パソコンの近くによってみた。液晶画面には、メイド服姿のエヴァとハンナが、踊りながら歌っている様子が映っている。
「この曲誰の?」
「ネットの投稿サイトで人気の歌だよ。パソコンで作曲されてて、元々人工の音声ソフトが歌ってたやつだから、エヴァとハンナが歌うにはぴったりでしょ」
 音程が時々外れるし、ダンスの動きもぎこちないけれど、エヴァもハンナのメイド姿が可愛いから、さまになっている。
 僕とみかるはしばらくエヴァとハンナのレッスンにつきあった。パソコンの前にある液晶テレビには、中学生による同級生の殺害事件、大阪の競馬場で起きた放火事件のニュースが映し出されていた。
 ニュースでは毎日危険な事件が報道されるけれど、僕とみかるの部屋は、きわめて平和だ。マンションの外を歩いている人たちの生活も、平和に満ちているように見える。拒食症になったり、過食気味になったり、色々ストレスも多いけれど、殺しあうほどの悲劇は、ニュース番組、小説、ドラマ、映画の中以外には見当たらない。僕たちが身を横たえている平和は、どのように確保されたものだろうか。
 夕食は、近所のコンビ二で買ってきた胡麻だれ冷やし中華を食べた。みかるはとろろ入りのそばを食べた。ごまだれ冷やし中華にも、チキンが入っていた。僕が意識せず選ぶ食べ物に、いつも鳥の命が入っている。どれだけたくさんの鳥が人間に食べられるために、毎日育てられているのだろう。僕は鳥さんに申し訳なく思いながら、冷やし中華をいただいた。
 冷やし中華を食べた後、コーヒー入りのアイスバーを食べた。アイスはきれいに加工されているけれど、この中にもたくさんの命が入っている。アイスの原料となった牛乳、卵。
 卵? また鳥だ。鳥だと意識せずに手にする食べ物に、鳥の命が入っている。僕は三十年生きてきた中で、どれだけたくさんの鳥を食べてきたのだろう。
 眠る前に、羊の代わりに、僕が食べてきた鳥さんたちを想像してみた。彼らは生き延びる代わりに、僕の細胞になった。僕は鳥さんをはじめとしたたくさんの命の犠牲のもとに、今の平和な生活を生きている。休日はゴルフに行くし、仕事では美少女キャラを培養している。この日常がたくさんの命に支えられている事実を忘れずに、食事の時間を尊ぼうと思う。


ペルソナ5 夢の自分


 嫌な夢を見た。起きた時には、たくさん冷や汗をかいていた。夢の中の僕は、警察官になっていた。警察官になりたいと思ったことは、一度もない。けれど、夢の中で僕は、警察官の人生を生きていた。

〜〜〜

 僕はパトロールに出かけていた。
 パトカーに一人で乗るのは、警察官になってから初めてだ。
 上に名前を売ろうと思って、犯罪者はいないか、街を探して回った。
 国道近くの農道を走っていたら、スピードにのって走っている自転車をみかけた。パトカーは三十キロの制限速度で走っているが、自転車は五十キロ近いスピードを出している。
 パトカーまで抜き去った自転車は、赤いマウンテンバイクだった。プロのロードレーサーのような格好をした男が、高速で車輪をこいでいる。自転車に制限速度があるかどうかはわからないが、とにかく、あの自転車は道路交通法違反っぽい。
 僕はサイレンを鳴らして、自転車を追いかけた。
「そこの自転車停まりなさい。スピード違反です。制限速度二十キロオーバーですよ」
 僕はアクセルを強く踏んだ。
 パトカーは五十キロ近いスピードを出したが、自転車との距離は縮まらない。
「こら! 停まらないと、免許停止にするぞ」
 自転車はスピードにのって逃げていく。僕は八十キロまでアクセルを踏んで、自転車を追った。
 自転車をこぐ彼の足は、あまりの速度で見えなくなった。プロの自転車乗りだろうか? 
 競輪選手が一番スピードに乗った時、八十キロ近く出るのだろうか?
 自転車が高速道路のインターチェンジにのりあげた。僕はスピードをあげて自転車を追い、高速道路に侵入した。
 逃走中の自転車は、車と車のわずかな隙間をぬって、高速道路を進んでいく。百キロ以上のスピードを出して走っている自動車を、赤いマウンテンバイクが追い越していく。
 僕もスピードを出して、暴走自転車を追いかけた。
 高速道路が長いトンネルに入った。トンネル内にパトカーのサイレンが鳴り響く。なんとか自転車の後ろについているが、遠すぎて、自転車は点にしか見えなかった。
 トンネルを抜けたら、空が真っ赤になった。
 夕焼けというのでない、
 血の色の空だ。
 自動車の姿が見えなくなった。真っ赤な血の色の空の下、道路を走っているのは僕のパトカーだけ。向かい側の車線にも車の姿はない。
 いい加減ばてるだろうに、自転車レーサーの勢いはとまらない。
 バックミラーに自転車が一台見えた。
 ママチャリに全裸の美女が乗っている。美女は長い髪を風になびかせて、ママチャリをこいでいる。こちらもものすごいスピードだ。
「こら! そっちの自転車も停まりなさい。その前に服を着なさい。ここは公道ですよ」
 スピーカーで呼びかけているうちに、全裸の美女がパトカーを抜いた。
 美女の乗るママチャリはスピードをあげて、前方のマウンテンバイクに近づいていく。
 僕も負けずにアクセルを踏む。
 全裸の美女が、ママチャリのかごの中に手を伸ばした。
 彼女が左手に拳銃を持って、狙いを定めた。実弾の発砲音が聞こえた。
 銃撃後、レーサーとマウンテンバイクは空に飛び上がり、分離した。レーサーに弾が命中した? マウンテンバイクのタイヤに弾が命中した? 遠くてよく見えなかった。
 マウンテンバイクは、僕が乗るパトカーの後方に転がっていき、視界から消えた。自転車に乗っていたレーサーは、きれいな半円を描いて、姿勢正しくアスファルトに着地した。
 レーサーは着地してすぐ、高速道路を走り出した。全裸の美女がママチャリをこぎながら、また銃を構える。
「こら! 弾を撃つのをやめなさい。人殺しは重罪ですよ」
 全裸の美女が、高速道路を走るレーサーに発砲を繰り返した。
 僕は二人に追いつこうとアクセルを吹かせた。
 一体何の競争だろう。マウンテンバイクやママチャリは、パトカーより速かっただろうか。まあ自転車に乗っているならわかるけど、走る男にパトカーが追いつけないとはどういうことか。
 二人の驚異的な身体能力に賞賛のまなざしを向けているうちに、署に連絡するのを忘れていたことに気づいた。
 無線をつけても、署につながらなかった。ずいぶん遠くまで走ってきたから、電波の届かない地域に来たのだろうか。
 空は真っ赤で、周囲には岩山しかない。大要も空の血の色に染まっている。走る男と、ママチャリに乗る全裸の美女と、僕が乗るパトカーだけが、景色の中で動いている。
 いや、違う。
 対向車線には、黒い塊が転がっていた。犬の死体、ねこの死体、鳥の死体、人の死体、いろいろな死体が道路の上に転がっている。黄色い染みも見える。鶏の卵が道路上にぶちまけられたのだろうか。
 気づけば僕が進む車線にも、動物の死体がたくさん転がっていた。道路の上で血を流し、悲鳴をあげている人の姿もあった。
 血を流しながら手を伸ばしている人と目があって、思わずハンドルをきってしまった。あわててブレーキを踏み、ハンドルを戻す。あやうく岩山に激突して、死ぬところだった。
「どこまで行かれるつもりですか?」
 助手席にいつのまにか、ゴスロリ調のメイド服を着たおっさんが座っていた。
「あのスピード違反の二人を捕まえるまでは、どこまでも前進します」
「あなたもスピード違反ですよ」
「いいんです。ルールに違反した二人を捕まえるためには、僕がルールを破っても許されるんです」
「では気が済むまで、スピードをあげて追いかけてください」
 メイド服を着たおっさんが、僕をむいて微笑んだ。
 彼の顔が愛らしい少女の顔に変わった。少女の顔にある大きな瞳が陥没した。鼻がひんまがった。口から血がどばっと出た。
 僕は急ブレーキを踏もうとした。

 間違えた。

 僕の足は、アクセルペダルを強く踏みつけていた……


ペルソナ6 どくろコンプレックスのヌース


 みかるの体が気になるから、僕は毎日テレビやネットポータルサイトのニュースをチェックするようになった。
 阿修羅コンプレックスの研究、知識の蓄積は進んでいるけれど、誤解や偏見も多大にあった。阿修羅姿の子どもは、いじめの対象になるし、就職でも不利になる。職場でも差別がある。
 六本腕で、三面相の阿修羅コンプレックス患者を、普通の人々は怖がる。怖がるから、いじめる。自分たちから遠ざけようとする。阿修羅コンプレックスで悩む人たちを愛そうとする人はごくわずかだ。
 ニュースの知識を溜めこんでも、暗い気持ちに落ちこむことの方が多かった。阿修羅にまつわるニュースなど見るのをやめようかと何度も思った。
 知識よりも、目の前にいるみかるに愛らしく接することの方が重要だと、わかっている。ただし、知識に一歩も触れないのもよくない。誤解に基づいて、みかるに間違った接し方をしてしまうかもしれない。彼女のためによかれと思ってとった行動が、阿修羅コンプレックスの悪化を招く行動になるかもしれない。あやまちを防ぐには、知識を仕入れることだ。
 僕の会社にどくろコンプレックスの先輩がいる。先輩のあだ名はヌース。ヌースの体は骨だけでできている。骸骨の体にスーツをまとって、ヌースは出社する。しゃれこうべの頭に金髪が生えている。元は黒髪だが、ドラッグストアで買ったスプレーで、金髪にしたらしい。
 阿修羅コンプレックスの患者は世界中にたくさんいるが、どくろコンプレックスの患者なんて、ヌースしか知らない。どくろコンプレックスというのも、冗談でついた病名だ。そもそも病気なのかどうかもあやしい。病気ではなく、幻覚を見ているだけかもしれない。僕がヴァリシズムに転職してきた時から、ヌースはどくろの姿をしていた。
「あの変なの、何?」
 入社数日後、僕は上司のバイオスに聞いてみた。
「ヌース。どくろコンプレックスだよ」
「どくろコンプレックス? 何それ」
「血と肉を持って生きていることに対する、深い実存的コンプレックスなんだって、ヌース本人が嘯いてたけどね」
 バイオスは上司だし、僕より年上だけれど、僕はタメ口で話す。全員がフラットに意見を言い合えて、能力を発揮し合える社会を、株式会社ヴァリシズムは理想として掲げている。
 バイオスの話を聞いて、最初は新入社員をもてあそぶ冗談かと思ったが、どうも毎日どくろ姿で出社するのは、本当らしい。無神論者の多いヴァリシズム社内では、ヌースは科学技術を使ってどくろの姿をしているのだと噂がたっている。昆虫が擬態するように、本当は血と肉があるのに、骨だけであるかのように装う。何のために? 理由はわからない。ヌース本人も理由を知っているとは言わない。
 ヌースは僕と同じ、人工生命チームに属している。人工生命チームの一番壁側の席で、毎日黄金色にデコレートしたデスクトップパソコンをいじっている。
 ヴァリシズムに入社するまで、人工生命を英語でどういうのか知らなかった。人工生命は、英語でアーティフィシャル・ライフという。人の技術によって作られた生命体。人工知能、AIは、英語でアーティフィシャル・インテリジェンスという。
「自然でなく、神の手にもよらず、人の手によって形成された人工生命の美少女たちは、パソコンの中で自由気ままに振舞う。しかし、彼女たちの一見自由に見える振る舞いは、人間が設計したプログラムに基づいている。俺たち人間も、自由気ままに生活しているようで、ある一定の習慣に基づいて毎日生活している。知性も、生活もそうだ。俺たちはプログラミングされた思考、生活を毎日繰り返している。同時にまた、自分たち自身で、自分のプログラムを書き換えている。俺たちは人間などではなく、アーティフィシャル・ライフであり、アーティフィシャル・インテリジェンスではないだろうか」
 飲みに行くと、ヌースはこんな感じの話をいつもする。僕とヌースは、会社の飲み仲間である。
「大我、行くぞ」
 今日もまた、ヌースに飲みに誘われえた。骨だけでできているヌースは食事をしないし、酒も飲まないが、飲み屋には行きたがる。
 僕はヌースと一緒に、会社の最寄駅前の居酒屋チェーンに入った。生ビールとかにサラダと豚キムチを注文する。ヌースは食事をせず、僕だけが食物とアルコールを摂取する。
「乾杯」
 ヌースはいつもグラスワインを注文する。口はつけない。乾杯だけして、後はグラスに入った赤ワインを転がすだけだ。
 店員さんも、ヌースのどくろ顔を見ても驚かない。周りの客で、ヌースを初めて見る人は、驚いた顔をする。みんな映画の撮影か何かと勘違いする。しかし、ヌースは本当にどくろなのだ。毎日ヌースと通勤電車が一緒になっている人は気づいている。彼が人々を面面白がせるためでなく、日常的に、どくろの姿をとっていることを。
「大我は仕事、楽しいか?」
「楽しいとは答えたくないな。働いていて、楽しくないこともないけれど、楽しいと断言できるわけでもない」
「断言できないなら、断言してしまえ。断言した瞬間から認識が変わる。おまえ自身の言葉によって、世界の現象自体が変化し始める」
「神秘主義は嫌いだ! て断言してみるよ」
「俺に向けてそう断言するのは馬鹿げている。俺は異形のどくろコンプレックスなんだからな」
「ヌースは仕事が楽しいのか?」
「楽しい楽しくないという次元から、俺はもう超越した。世界は俺が作り出している。世界が平和で幸せに満ちたものなのか、苦渋と不幸の現実なのかは、俺自身の意識によって、確定される」
「お前がどくろの姿になっているのも、おまえ自身がどくろになろうと決めたせいか? ならヌース、お前は何でも実現できる神じゃないか」
「神なんてこの世界にいない。とうの昔に死体になって散らばっている。俺たちが今暮らしている現代世界は、納豆のように発酵した神の死体の上にできあがっているんだ」
「ぶどうが発酵してワインになるみたいに、この世界はゾンビ化した神の体によってできていると?」
「そうだ。ゾンビの体の上で俺たちは、毎日楽しくなるように踊っているだけだ。俺はもう踊るのをやめて、どくろになることにした。あゆむはまだ踊り続けたらいい。生きるとは踊ることだ」
 ヌースのしゃれこうべの左目のくぼみに、赤い蛇の頭が見えた。幻覚だろうか。あるいは、ヌースが僕の脳内に赤い蛇の映像情報を送りこんでいるのだろうか。
「ヌース、お前は踊るのをやめようと思った途端にどくろになることができるのか。そんな異常な力を持っているなら、やっぱりお前は神じゃないか」
「神ではない。が、神でもある。人間はみな神だ。神とは情報の創造者だ。お前も俺も会社で美少女の情報を作っているだろう。創造する力が、神だ」
「けれど僕はどくろになれない。阿修羅コンプレックスでもない」
「ないないと思っているうちは、お前はどくろにも阿修羅にもなれない。なれると断言したものだけが、異形の体に擬態することができる」
「やっぱりお前の見かけは擬態なのか」
「社会に溢れている全ての情報が擬態だ。見かけの後ろに隠れている真実をつかまない限り、お前は踊り続けることになる。自分で踊るか、どくろになるかだ」
 ヌースの左目のくぼみに見えていた赤い蛇が頭を隠した。そういえばヌースは眼球もないのに、どうやって僕の体を見ているのだろう。何も見えていないのだろうか。だいたいヌースは骨だけの体で、どうやって声を作り出しているのだろうか。僕が見ているどくろコンプレックスのヌースは、やはり3Dの映像なのだろうか。
 ヌースと別れた後、地下鉄に乗ってマンションに帰った。酔っ払って帰ってきても、みかるは部屋にいなかった。僕はノートパソコンの電源を入れて、今日口にした食事の記録をつけた。
 朝はいつもと同じコーヒーショップでツナと野菜のカンパーニュサンド。昼は肉野菜炒め定食。夜はヌースと飲み屋で食事。今日は鶏肉を避けることができた。しかし、魚の肉、豚の肉、多くの野菜を口に入れた。
 口に入れたものを気にするより、自分の口から出てくるものに注意を払った方がいいのだろうか。僕が自分自身の身体に入力する情報と、世界に向けて出力する情報。
 入力する情報は、口以外の箇所、目、鼻、耳からも入ってくる。僕の目、耳、鼻からは、情報が口ほどには出力されない。もちろん僕の瞳は、多くの人にたくさんの情報を送っている。二人の人間が見つめ合うだけで、語り合うよりもたくさんの情報交換が行われる。しかし、目が語る情報よりも、僕の口が語る情報に気をつけた方がいいのではないか。
 僕の口から出力される情報は、正確には、僕の脳が作り出した情報だ。口から摂取した他の命の情報も、神経網を通して、脳が解釈する。
 おいしい。まずい。お腹いっぱい。まだまだ食べたい。いただきます。ごちそうさまでした。
 口から入力された食事の情報をキャッチして、脳というか神経組織が情報を出力する。
 僕の体中にはりめぐらされた神経のネットワーク。神の経路のネットワーク。
 難しいことを考え始めると、今日取り入れた食物の命に対する感謝の気持ちが薄れてくる。
 考えあぐねるよりも、まず僕が今日僕の体に付け加えた命に感謝しよう。感謝すれば、罪悪感もうすれる。
 また今日も生き延びた。犠牲にした命のためにも、時間を無駄にせず生きていこう。
 断言は危険だけれど、ヌースが言うように、断言によって、世界ができるなら、僕は断言する。僕は命の入出力情報をこれからも記録し続ける。そう断言して、一日を終えよう。


ペルソナ7 ミレニアム・フォックス


 最近仕事で、人工生命たちの運動会をやっている。僕の家で飼っているエヴァもハンナも、いつのまにか高校生の設定になっていた。誰か学園ラブコメ好きの社員が設定を変更したのだろう。
 各社員が自宅のパソコンでデモ飼育している人工生命の美少女キャラたちが、ネットワーク内に建設されたバーチャルの人工生命高校に集まって、身体強化トレーニングを行っている。腹筋、背筋、腕立て伏せ、ランニング。美少女たちが、臨時でプログラムされたスパルタ体育教師から、熱血指導を受けている。
 人工生命の美少女たちはみなプログラムだから、やろうと思えば空を飛ばせたり、光速で走らせたり、人間の限界を超えた力を簡単に獲得させることができる。身体能力の数値をちょこっと変えてあげれば、すぐにも超人が誕生する。しかし、勝手に数字をいじることはアンフェアであり、美少女たちのバランスを崩す。誰かがこっそり自分の美少女の身体能力パラメーターをいじったら、別の誰かが対抗して更なる強力な強化少女を作成するかもしれない。そうなると、際限がない。今回のプロジェクトの目的は、人間らしい少女の人工生命を開発することだ。なんでも楽々とこなす超人を作ることが、プロジェクトの目的ではない。電脳空間にできたグラウンドを十週したらはあはあへばって、スパルタ教官に陰口を言う人間らしい工生命を作ることこそ、僕らの仕事である。
 誰かが勝手に超人を作ることができないように、身体能力のパラメーターには上限が設けられた。決められた上限以上の数値に改ざんしようとすると、警告メッセージが表示される。警告メッセージを無視して異常値を設定しようとすると、システムから締め出される。不正操作報告書が役員にまでまわり、業績評価に直結する。
 人工生命美少女たちの運動会を企画したのは、人工生命チームのエース、ミレニアム・フォックスだった。
 ミレニアム・フォックスは、人の姿をしたキツネだ。ハリウッドのVFX技術で作られたような、子ども受けしそうな可愛いキツネの顔をしている。いつもキツネの体にチノパンツとストライプのワイシャツを着て、パソコン仕事を続けている。
 キツネが人間の姿になったのだ、あいつは化け狐だという先輩もいるけれど、多分違う。僕は幻像だと思う。
 ミレニアム・フォックスが天才的頭脳によって作り出した幻像。その幻像が、空間に実体化しているのか、僕らの脳神経に信号として送られているのかはわからない。ミレニアムフォックスの体に触ると、キツネの毛並みを確認できるから、やっぱりハリウッド級のVFX技術で作られたぬいぐるみを着ているだけかもしれない。けれど、ミレニアム・フォックスのキツネの外見は、科学的に説明できる気がする。
 ミレニアム・フォックスはいつも、キツネの頭から細いチューブを何本も出して、パソコンのディスクドライブに接続している。フォックスはマウスもキーボードも使わない。脳から伸びたチューブを使って、パソコンのハードディスクにダイレクトに命令を送る。
 マウスもキーボードも長時間使いこむと、神経がまいってくるから、脳神経とパソコンをダイレクトにつないでいるのだという。もちろんダイレクト接続の仕組みは、ミレニアム・フォックスの発明だ。
 株式会社ヴァリシズムには、どくろコンプレックスのヌースをはじめ、知性溢れる人が多いけれど、ミレニアム・フォックスはその中でも格別異能に見える。うちの会社で働いているのがもったいないと思える。
 こんなところで美少女の運動会プログラムを作るのなんかやめて、わが国や世界の平和のために、才能を使えばいいのにとよく思うけれど、フォックスはずっと、人工生命の開発研究に没頭している。僕なんて、こんな美少女キャラをたくさん作っても何のためにもならないと思うのだけれど、ミレニアム・フォックスは違うという。
 今日もミレニアム・フォックスは、キツネの頭から十本近いチューブを出して、パソコンに接続していた。パソコンの液晶画面には、美少女たちの設定パラメーターがグラフ化されて表示されている。美少女たち自身は、机の上に3Dホログラフ映像として実体化している。人気アニメのフィギュアのようになって、デスクの上に並ぶ体操着姿の美少女たち。真面目に仕事をしているとは、とても思えない光景だ。
 ミレニアム・フォックスの顔は真面目というより、集中している感じ。圧迫されている感じはない。強制されている感じもない。自分から進んで、自分の好きなことに熱中している感じ。
「大我、お前のところのエヴァとハンナ、なかなかいい数字を出してるな」
「そうか、ありがとう」
「まあ運動会でよい成績をとることが目的じゃない。運動会を楽しんで、後々まで残る思い出を作ることが目的だ」
「じゃあなんでそんなにスパルタの猛特訓をしてるんだよ」
「ある種のスパルタ教育は、アテナイ的な自由の尊さを再認識させてくれる。強圧は人生の一時期において、生成変化のために必要なものなんだよ」
 僕は近所のコンビ二で買ってきたアイス・バナナ・ティー・オレを飲みながら、特訓の様子を見守った。紙パックの中には、外国でとれたバナナと、紅茶と、牛乳と、砂糖と、化学物質が混ざっていることだろう。一体何カ国の恵みが、バナナ・ティー・オレの中に入っていることか。
 ミレニアム・フォックスの机の上で、体操着姿の美少女たちが踊り始めた。
「これ何?」
「ダンスの時間だ。父兄のみんなは、子どもが運動会で踊る様子を見て楽しむだろ。ダンスに競争はない。美しく踊れる人、表現力の高い人は評価されるけれど、一○○m走のように一位、二位、三位と順位づけされるわけではない。父兄にとっても、ダンスは安心して楽しむことができる花形イベントだ」
「最近の運動会じゃ、競争を嫌って、順位をつけることさえ避けるって言うな」
「生物は生活圏をすみわけている。自分たちの生活圏で、生存のために技術を磨くのが、生命のあり方だ。競争自体が膨大になるのは、文化の暴走でしかない」
 このまま延々と話が続きそうなので、僕は自分のデスクに戻って仕事を続けた。仕事と言っても、ミレニアム・フォックス主催の運動会のお手伝いなわけだが。
 運動会当日のプログラムを制作する。社内イントラネットでつながる同僚たちと、パソコン画面上で運動会の企画を練る。人類の歴史のIFを企画設計している歴史想像チームの人間たちからしたら、僕たち人工生命チームは、美少女相手に遊んでいるとしか見えないだろう。しかし、そうした自己評価の低さは、僕自身の意識から派生した誤解かもしれない。客観的にみてみれば、歴史想像チームのみんなも、僕らと変わらないくだらない仕事しかしていないのかもしれない。
 仕事が真っ当だとかくだらないとか、仕事に意味があるとかないとかは、究極的には決定できず、後付で、後代の人が評価を下すものだろうから、悩まずせっせと運動会のプログラム作りに没頭しよう。
 馬鹿げた仕事のようだけど、こだわると意外に手間取る。美少女キャラたちの肉体疲労を考慮しつつ、観戦する父兄たち(父兄とは僕たち美少女の飼い主のことだ)を飽きさせない、刺激溢れるプログラムを作る必要がある。プログラム作成者それぞれのこだわりがあるから、バイオス、ミレニアム・フォックス、ヌースたちとよく協議して、ベストの案を選ぼうと思う。


ペルソナ8 牛男


 明け方にまた嫌な夢を見た。今度の夢で僕は、女教師になっていた。夢の中で自分の性別が変わり、かつ別の仕事をしている夢を見るなんて、初めてのことだ。気味が悪い。

〜〜〜

 終業式の日、学校の給食に焼肉が出た。クラスの生徒たちは、いつにない豪華な料理を喜んだ。
 金属製の食器に、焼きたての牛肉がたっぷり盛られている。大人の私からすれば、焼肉くらいでこんなに喜ぶのは奇妙に見える。ただ、毎日の味気ないこんだてと比べれば、生徒たちが焼肉で盛り上がる気持ちもわかる。
 みんなでわいわい楽しみながら、冬休み前最後の給食を楽しんでいたら、遠くの方から銃声が聞こえた。
 教室から喧騒が消えた。
 生徒の間で緊張が高まる。
 黒板側のドアが乱暴に開けられた。銃を持ち、バイクのヘルメットをかぶった男たちが、教室に入ってきた。
「全員動くな!」
 男の一人が野太い声を出した。生徒たちに銃口が向けられる。女生徒の何名かが悲鳴をあげる。
「声も出すな! 動いたら撃つぞ! 黙って座ってろ」
 生徒たちは箸に焼肉を持ったまま、かたまった。
 私は黒板前の教卓に座って、生徒と同じように給食を食べていた。私のすぐ隣に、サブマシンガンを持った男が来た。サブマシンガンの銃口が、私の頭に当てられる。
「うちの生徒を殺したら承知しないからね」
 私は生徒に聞こえる声で宣戦布告した。
 私の頭から銃口が離れた。
 サブマシンガンが、窓の外に向けて撃たれた。銃声が続く。窓ガラスが割れる。
「実弾だ」
 サブマシンガンの銃口がまた、私の頭に当てられた。
「強がるのはやめろ」
 男たちは銃を構えたまま、教室内を歩いて回った。
 生徒たちは好きな者同士で机をくっつけて、給食を食べていた。男子は集団になって大きなグループを形成していた。女子は気のあう者2、3名で小グループを何個も形成していた。誰とも机をつけず、一人で焼肉を食べている生徒もいた。彼ら全員の机の周りを、銃を持った男たちが歩いた。
「お前ら、今何を食ってるかわかるか?」
 男の一人が女子に聞いた。女の子は泣き出してしまった。
「焼肉じゃないの。何か文句あるの?」
 私が答えた。
「貴様ら全員殺す」
 私の頭に銃を当てている男が言った。
 男たちが一斉に銃をかまえる。
 私は立ち上がった。
「待ってよ! 子どもたちを殺す必要はないでしょう。殺す理由は何? 何が目的なの?」
「私たちは、正義の実現を望んでいる。それだけだ」
「焼肉を食べるのが、悪ってわけ?」
 男たちがうなずいた。こいつら、本気で言っているのだろうか。
「焼肉食べてる子どもを殺していいわけ? あなたたちの正義って、そんな身勝手でいいの? そんなの、子どもたちを殺していい理由にならないわ」
「しょうがない。何もわかっていないようだな」
 私の横に立つ男が、バイクのヘルメットを取った。
 彼の顔は、牛だった。着ぐるみではない。田舎の農場にいる、本物の牛の顔だ。
 生徒たちが悲鳴をあげる中、男たち全員がバイクのヘルメットを外した。
 全員、牛だった。
「これで私たちの主張の正当性がわかっただろう。同類を給食にされた報復だ。死んで償え」
 牛男がサブマシンガンの銃口を最前列の生徒に向けた。
「ごめんなさい! もう牛食べません」
 いつもは反抗期ど真ん中の生徒が泣いてあやまった。
「食べるなとは言っていない。必要以上に私たちを殺すな」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 牛男たちは、あやまる生徒たちに向けて銃を構えた。
 教室に銃声が響いた。
 銃声が、何回も連続する。
 私はかがんで教壇の下に隠れた。生徒たちの絶叫と悲鳴が鳴り響く。
 銃声がやんだ。
 私は顔をあげたくなかった。
「大丈夫ですか」
 廊下から成人男性の声がした。
 おそるおそる教壇から顔を出してみる。
 目を開いてみた。
 牛男たちが全員、血を流して教室に倒れていた。
 教室の中に武装した警官が入ってくる。警官たちは手早く牛の死体を運んでいった。
「とにかくこちらへ」
 私と生徒は武装警官に誘導されて、教室から出た。
 その日起きた事件は、口外禁止となった。
 私は四月から、遠くの学校に赴任することになった。事件の後、担任だったクラスの生徒と会うことは禁じられた。
 テレビや新聞のニュースでは、昼休みの教室に、銃を持った男の集団が乱入したと報じられた。男たちが牛であり、正義の実現のためにテロルを行っていたことは、ネット上の噂にしかならなかった。


ペルソナ9 汝の敵を愛せよホルモン娘


 明け方見た牛男の夢。僕の無意識的不安が物語を創造したのか。牛を食べ過ぎてはならないという無意識の警告か。
 今日の朝食はエッグサンドと牛乳。牛乳は牛の乳。エッグサンドには、鳥の卵が入っている。牛乳も、卵も、子どもを連想させる。牛肉は食べなかった。
 昼は会社近くの駅前にある中華料理屋で、豚キムチ定食を食べた。キムチは白菜と唐辛子の恵み。豚肉は豚の恵み。
 人工生命高校の運動会の準備をした後、会社から出てすぐの路地にあるホルモン焼き屋「ホルモン娘」でヌースと飲んだ。「ホルモン娘」は、ヌースの行き着けのホルモン屋である。まあヌースはホルモン食べないんだけど。
 尿酸値が気になる僕は、生ビールの代わりにホッピーを飲みながら、ヌースに牛男の夢を話してみた。ヌースは「汝の敵を愛せ」と言い出した。
「汝の敵を愛せとは、キング牧師の演説中の言葉であり、キリスト教の基礎的な教えでもある。イエスは汝自身を愛するように、汝の隣人を愛しなさいと言った。自分自身を愛せない人もたくさんいるんだから、隣人を愛するのは難しい。まして、敵を愛する事は難しい。お前は右の頬を打たれた時、左の頬を差し出すことができるか。敵とは誰だ。敵とは異邦人だ。俺たちが全然知らない他人だ。全ての他人に、頬とまっさらな両手を差し出すことができるか。汝の敵を愛せとは、そういうことだ」
「つまりは、武装放棄しろってことか? 核爆弾を落とされても、もっと無防備に、自分の裸をさらせってことか?」
「敵に攻撃されて、復讐を選ばないようにしろということだ。何故異邦人は自分たちを攻撃してきたのか。よくよく考えて、彼らと話し合って、こんがらがった対立の原因解決を模索しなさいということだ。そういう地道な努力を放棄して、汝の敵に刃向かっている限り、争いは絶えず、救いがないということだ」
「はい、おまちどおさま、ホルモンです」
「ホルモン娘」の看板娘、元SEという店員のお姉さんが、ホルモン焼きセットを運んでくれた。焼き網の上に、生のホルモンをおいて、十分に火を通してから口に入れる。
 牛男の夢を見る僕は、ホルモン焼を食べるべきではない。けれど付き合いだから食べる。ホルモン焼きは、僕の身体にとって敵だろうか。愛する対象だろうか。
「このホルモン焼きを食べる俺たち人間は、ホルモンにとってみれば、自分の身を滅ぼす敵だ。ホルモンはしかし、抵抗せず、俺たちの食糧になっている。彼らは抵抗するすべをしらない。抵抗できない。飼いならされている。だから、俺たちはホルモン焼きを食べる」
 ヌースが箸でホルモンをつまむ。まあつまむだけだ。どくろコンプレックスのヌースは、ホルモンを消化する胃腸組織を持たない。こいつは、どうやって新陳代謝をこなしているのだろう。やっぱりどくろの外見は擬態か。
「もし牛や豚に優れた知能があったら? 彼らは反乱するだろうか」ヌースがホルモンを僕の小皿に入れつつ、問いかけてきた。
「彼らは反乱せずに、人間を愛しているんだ」
 僕は仕方なく、ヌースがおいたホルモン焼きを食べた。悪くない味だ。
「彼らは愛することもできない。反乱することもできない。従順に、飼いならされているだけじゃないか」
「僕たちみたいにか?」
 僕はそうはき捨てて、ホルモンをもう一切れ焼いた。ホルモンホルモンというけれど、この肉が、豚肉か、牛肉かよくわからない。動物の内臓らしいと知っているけど、具体的にどの部分を食べているかは知識がない。
「ヴァリシズムの発展のために、時間を犠牲にして働く僕たちみたいに、動物はホルモン焼きになり、食される」
「お前は自分の仕事に意味を見出せていないようだな」
「ヌースは意味を見出しているのか。電子美少女の育成なんて仕事、大人がするもんじゃないよ。僕はミレニアム・フォックスみたいに、仕事に熱中することができない」
「あいつはただのマニアだ。しかしよく考えてみろ。あいつが知能と情熱を注いで、愛らしい美少女人工生命を創造する。それを溺愛する人は、男女問わず世界中にたくさんいるだろう。みながミレニアム・フォックスの技術と想像力に驚嘆する。彼はみなに仕えることになるんだ」
「大衆の欲望に?」
「美少女キャラに情熱をささげることは、戦争に情熱をささげたり、動植物の大量殺戮に情熱をささげることより、すばらしいことだと思えないか? 一見何の役に立つとも思えない無邪気なことの方が、実際も邪気がないんだ。邪気があるのは、至極真っ当で、人類にとって必要と思えるような基本的事項の方だ」
「お前と話しているとなんだか変な方向に思想改造されそうで怖いな。僕はまっとうな社会生活を送りたいよ」
「うちの会社で働いている時点で、それは無理だ。あきらめてお前も美少女の育成に人生の価値を見出す努力をしろ。もしも見出せないなら、辞めてしまえ」
 ヌースはそう言って、また生焼きのホルモンを僕の小皿においた。僕はホッピーを飲み干してから、ホルモンを網の上に置きなおした。
「よかったら、追加注文いかがですか?」
「ホルモン娘」の看板娘に笑顔で聞かれると、注文せざるを得なくなる。僕はホッピーをもう一本注文した。
 そういえば、ホッピーはプリン体がないらしいと噂で聞いているけど、一体何なのだろう。ホッピーって言われても、わからない。ヌースか「ホルモン娘」の店員さんに聞くか、グーグルで検索すればわかるんだろうけど、調べあげる気にはならない。それより、ホルモン焼きとホッピーをおいしくいただこうと思った。 
 結局「ホルモン娘」では結論が出ず、僕らは新宿歌舞伎町のバーにはしごして飲みあかした。
 その日は、飲むうちに人生の意味も価値も忘れた。酒は全てを曖昧模糊なものに変えて、脳神経と身体に多幸感をもたらしてくれる。僕らは思考するよりも、酩酊することを好む。
 夜ベッドで眠っていたら、みかるが帰ってきた。みかるはリビングの電気を消したまま、シャワーを浴びて、ベッドに入った。
 僕はみかると、牛男やホルモン焼きについて話さない。何故だろう。ヌースとなら話せるけれど、みかるとは話さない。何か否定的意見を言われることを恐れているのだろうか。みかるとの意見の対立を恐れているのだろうか。いつも同じ選択をする人間でいたいのだろうか。対立を恐怖しているうちは、敵を愛することもできないように思える。
 敵を愛する人間になるということは、対立することを恐れないということだ。対立を恐れる人間は、敵を作ることを恐れている。
 敵も味方も等しく愛すること。汝の敵を愛しなさい。汝の愛する者と対立することを、避ける必要はありません。
 難しく考えるよりも、シンプルに、ホッピーとホルモンに、「ホルモン娘」の店員さんたちに感謝すること。


ペルソナ10 阿修羅化したインドラ


 僕の会社にも一人、阿修羅コンプレックスの発症者がいる。歴史想像チームのインドラという先輩だ。インド神話において、アシュラ神はインドラ神と永遠に戦い続ける運命にある。そんなインドラが、阿修羅コンプレックスにかかり、手六本、顔三個の姿になるとは黙示録的状況だ。
 どうしてインドラというあだ名がついたのか、古参のバイオスさえ知らない。インドラは、遠くの席から見ても、いつも怒っているように見える。声が大きい。無愛想。
 いつも怒っているように見えるから、インドラと呼ばれるようになったのか、インドラと呼ばれているから、いつも怒っているように見えるのか、あだ名がついた起源を知る人もいない今となっては、はっきりしない。
 僕が阿修羅コンプレックスの女性と一緒に暮らしているという噂が耳に入ったのか、バイオス経由で、インドラから飲みに誘われた。
「歴史想像チームの人と飲む機会なんてあんまりないでしょ。行ってあげてよ」
 バイオスは、人工生命チームのマネージャーになる前、歴史想像チームで仕事をしていた。かつてバイオスはインドラと一緒に、世界中の女性が美少女になったら、世界史はどうなるかという思考実験をしていたらしい。女性ながらバイオスは、昔から美少女好きだったようだから、今の仕事は楽しくてしょうがないだろう。 
 残業はバイオスに押しつけて、インドラと一緒にタクシーに乗った。タクシー代はインドラ持ちだ。インドラはバイオスみたくマネージャーじゃないけれど、古株の社員だからか、結構の高給取りという噂だった。
 六本木にある店に入ると、店内にステージがあった。店内では、アニメソングがアップテンポのダンスミュージックにリミックスされて、鳴り響いていた。ダンスビートにあわせてライトが点滅する。ステージ上では、巫女さんとチャイナドレスと宇宙戦士のコスプレをした女性ダンサーが踊っている。
 ステージから離れた席につくと、バニーガールがメニューを運んできた。インドラがメニューを開く。インドラは僕の意向も聞かず、生ビール中ジョッキ二杯と、ホルモン焼きを注文した。またホルモンか。こんなお店でも、ホルモン焼きが出るのだと思うと、ホルモンの人気に驚愕する。
「ごめん、ついこの前もホルモン焼き食べたばかりなんだけど」
「わがまま言うな。私が食べたいんだから、つきあえよ」
 バニーガールがジョッキを運んできた。宙ジョッキをおいてから、名刺を渡された。
「よかったら指名してくださいね」
 今まで気づかなかったが、コスプレをした女性が座っている席が多い。セーラー服、レオタード、体操着女子、女格闘家が、スーツを着たおじさんたちの相手をしている。
「今日は指名しないからな。ほら、乾杯」
 僕がひいているのを気遣ってか、インドラがそう言った。
 歴史想像チームの人とあまり話したことがないから緊張する。まして相手はインドラだ。
 僕とインドラはホルモン焼きを食べながら、阿修羅コンプレックスについて語り始めた。
「お前と一緒に住んでる女の子、どうなんだ?」
「どうなんだって何が?」
「その、阿修羅の姿になって、困ったこととかあるわけ?」
「そんな曖昧な質問に答えることはできない」
 インドラはスーツから六本の腕を出して、追加注文した野菜スティックを食べ始めた。最近は、阿修羅コンプレックスの人用にブランドもののスーツも販売されている。阿修羅コンプレックス人口の増大に伴い、六本腕用の洋服の選択肢も多様化した。インドラが身につけているのは、娘が阿修羅コンプレックスになった有名デザイナーがデザインした、六本腕用のスーツだった。もちろんワイシャツも、同じブランドの阿修羅コンプレックス専用デザインシャツだ。
「たとえば、セックスの時とかどうするんだ?」
「阿修羅コンプレックスが発症する前も、僕は彼女と肉体的関係を持っていない」
「セックスレスカップルってやつか?」
「カップルでもないかもしれないな。一緒に暮らしているだけかもしれない」
「ルームシェアリングしてるってことか」
「そういうのでもない。一緒に寝てはいる」
「じゃあ何なんだよ。やっぱりセックスレスのカップルじゃないか」
「決めつけるのはよしてくれ。流行っている言葉で定義づけしないでくれ」
 インドラは阿修羅コンプレックスについて聞きにきたのではないか。僕とみかるのプライベートな関係について、興味本位で聞いているだけか。
 僕はしばらくだまって、ホルモン焼きを箸でつついた。インドラを責めるのはよくない。会社の人にみかるのことについて聞かれて、僕が過剰に反応してしまっただけか。
「阿修羅コンプレックスって、うちの会社が作った病気だって噂、聞いたことあるか?」
「なんだそれ?」インドラが身を乗り出して、話に乗ってきた。
「人工生命チームじゃそう話されているんだ。数年前、まだうちの会社が起業したばかりでベンチャー精神丸出しだった頃、世界中に阿修羅コンプレックスという原因不明の奇病が流行するシナリオを書いた人間がいた。彼の書いたIFの想像に基づいて、様々な思考実験がされた。紙の上で、遊びで書かれたシナリオが、現実化した」
「暇つぶしの陰謀論だ。うちの会社はそこまで権力を持ってない」
「シナリオが権力者に利用されたって可能性もある」
「本気にしてるのか。そんな話」
「うちの会社ならやりかねないだろ」
 インドラはまともにとりあわない。もちろん僕だって、本気で信じていない。気まずくなった空気を和らげるため、信じてもいない馬鹿げた話をしただけだ。
 インドラはホルモン焼きをうまそうに食べる。僕はカロリーとプリン体の過剰摂取が気になるから、箸をおいて、ステージの方を見た。七色の照明に照らされたステージでは、天使と子悪魔と妖精が、腰を振り乱してダンスしている。
「うまいな、ここのホルモン焼き」
「僕は健康診断で悪い結果が出たから、あまり食べないけどね。最近ベジタリアンなんだ」
「何だよ。肉がだめなら、最初に言ってくれればよかったのに」
「人間は食べるだけが生きる目的じゃない。雰囲気を楽しむ動物でもある」
「インドラが勝手にこの店に入って、ホルモンを注文したんじゃないか」
「ベジタリアンならベジタリアンって、最初にそう言えよ。知ってたら、ここに連れてこないし、ホルモン焼きも注文しないさ」
「ベジタリアンだって、他の命を犠牲にして生き残っている点では、肉食主義者と変わりないさ。自分たちは動物を殺さない分、罪が浅いと思ってしまったら、動物殺しの問題は解決しない」
 インドラとはそんなに話したことがないけれど、何故こうもけんか腰になってしまうのか。
 汝の敵を愛しなさい。
 インドラは別に敵でも何でもないのに、ついついけんかになってしまう。 
「なあインドラ。歴史想像チームで、人間が異星人に支配されるIFの歴史を想像したチームはないのか」
「そんなSFみたいなシナリオを許すマネージャーはいない」
 株式会社ヴァリシズムは歴史想像チーム、人工生命チームと大きく二つの部署に分かれている。しかし、大きな二つのチームの中に、さらにまた、バイオスなどマネージャーを中心とした、十人以下のチームが何個も組まれている。
 チームの下にまたチーム。論理的矛盾だ。名前を変えた方がわかりやすい。けれど、何故かみんな名前を変えない。それで理解が通ってしまう。矛盾は、人間の柔軟な思考の産物だ。パソコンの機械的なロジックは、矛盾が苦手だが、僕ら人工生命チームは、人工生命が矛盾を理解できるように、矛盾ある人生を歩めるように、日々実験を繰り返している。
「もし人間が、自分たちよりも知的な生命体に支配されていたら? きわめて合理的に構築された飼育農場で、毎日たっぷりの栄養を与えられて、飼育されていたとしたら? 成人したら、電気ショックで殺されて、体を火であぶられたら? 人間よりも上位の知的生命体が通う、コンビ二の弁当のおかずにされたら? 誰も買う人がいなくて、賞味期限が過ぎてしまって、ゴミ箱に捨てられたとしたら?」
「食事中だし、ダンスのパフォーマンス中だぞ。そんな話はやめろ」
「阿修羅コンプレックスは、暴力的な僕たち人間に下された罰じゃないのか。もったいないことばかりしているから、ばちがあたったんじゃないか」
「動物愛護の新興宗教でも起こしたらどうだお前。まあ人間よりも上位の知的生命体があらわれたら、人間を管理して効率的に食事にするようなことはしないだろうよ。俺はそう理想的に考えたい。知的であるとは、何も合理的で効率的なことをさすのではない。おもいやりをもって同胞に接することが、知的振る舞いだと解釈されてもいいじゃないか」
 天使と子悪魔と妖精のダンスが終了すると、会場から拍手が沸き起こった。彼女たちがステージの袖にひくと、すぐにバニーガールの集団がステージにあがって歌い始めた。家のパソコンの中で、エヴァとハンナも同じ歌を歌っていた気がする。
「まあ今の話は、信じてみたい理想だ。俺はまだほんの三十年ちょっとしか生きていないから、よくわからない。わからないから、歴史想像チームで働いている。IFを探しているんだ」
「歴史想像チームの人間はやっぱりすごいな。俺たちは美少女の運動会に熱中していて、全然仕事してる感じがしないよ。理想もへったくれもない。理想といえば、美少女を作り上げて、萌えの気持ちを高めることくらいだ」
「俺たちは今、お前たちの仕事に一番注目しているんだぞ」
「何言っているんだ? そんな冗談。才能の無駄遣いだ」
「IF文ばかりでは、歴史は作れない。人工生命の複雑な振る舞いを、うちのチームにも取り入れたいと思っている。わかるか? IFは、もしこうならばA、そうでないならばBと、分岐で話が進んでいく。俺たちの仕事は、ひたすら歴史の分岐について考えていく。しかし、これでは人間の歴史を再現するこなどできない。AとB、二つの選択肢がある時、どちらの選択肢を選ぶかは、きわめてカオスで予測不能だ。意志を持った生命体が独立して動き、影響し合う複雑なシステムの中で、AかBかの選択がなされる。歴史のIFを検証していくには、今の歴史想像チームの二者択一的なシステム設計では、無理があるんだ。チーム内の複数の個人の討議により歴史のIFが作られたとしても、それは多くの情報を捨象した上での意志決定の積み重ねに過ぎない。人類の歴史的選択には、複雑な要因がからみついている。歴史の進展を再現するには、人工知能、人工生命の研究が必要だ」
「意志決定なんて、誰もが気軽にしているぞ。そんな難しく考える必要ないんじゃないか」
「たとえ個々人が深く考えることなく、適当に意志決定して人生を積み重ねているように見えるとしても、たくさんの生命体の意志決定が積み重なれば、誰も想像しなかった未来が生まれてくる。人類の未来を想像するには、美少女大運動会の研究が役立つんだよ」
 お客さんの飛び入りダンスタイムになった。僕は席に座っていたけど、インドラはステージにあがって、バニーガールたちと一緒に踊った。インドラがステージから僕を手招きしたけど、僕は席に座って残りの野菜スティックをかじった。
「はあ、いい汗かいた。大我も踊ったらよかったのに」
 ワイシャツが汗で湿っているインドラは、妙に色っぽかった。そうそう、言い忘れていたが、インドラは会社一と噂される美女である。歳はバイオスと同じくらいいってるだろうけど、二十代前半にしか見えない。
 店を出ると、インドラは僕の分のタクシーを呼んでくれた。
「バイオスによろしくな」
 インドラが六本の腕を大きく振って、タクシーの出発を見送ってくれた。
 僕はバニーガールから渡された名刺を見た。「ホルモン娘六本木店」と書かれている。「ホルモン娘」って、ヌースと行き着けの会社近くの店と同じ名前ではないか。ロゴも雰囲気も業務形態も全然違ったけれど、ヌースと行き着けの「ホルモン娘」の看板娘も、六本木のお店にヘルプで踊りに来ることがあるのだろうか。


ペルソナ11 アイドル市丸電子


 会社の昼休み、いつものベーカリーで食事をした。さんざん迷った挙句、から揚げカレーパンとチョココロネとアイスラテを注文した。
 から揚げカレーパンのおいてある棚には、「親子対決」と書かれている。カレーの中に、鳥の卵が入っているらしい。カレーに包まれているから揚げが親、カレーのルーに入っている卵が子。親子対決。人間という無慈悲で強大な地球の独裁者が命名した、商品キャッチコピー。
 僕は親子丼もよく食べる。親子丼ってよく考えると、鳥の親と子どもを一緒にかき混ぜて食べるわけだ。結構残酷なネーミングだけれど、あたり前に親子を食べている。親子丼はけっこうおいしかったりする。困ったものだ。
 マンションには、二十一時頃帰宅した。美少女キャラの大運動会は、先週白組の勝利で無事に終わった。運動会の余韻も束の間、今や学園祭に向けて、人工生命チーム全員で企画を練っているところだ。どのクラスでどの出し物をやるか、人工生命の女子高生にまじってビジネスマンの大人たちが論じ合う。バイオスもミレニアム・フォックスもやる気満々。ヌースと僕は一歩ひいている。体育館のステージ進行で二時間近く揉めた。馬鹿馬鹿しいので、先に帰った。
 リビングでは、みかるがバラエティー番組を見ていた。思い出した。本日、水曜日はみかるが休みだったのだ。
 僕はコーラの入ったカクテルを飲みながら、昼休み思いついた親子丼の残酷さについて、みかるに話してみた。
「そんなこと言うなら親子丼食べなきゃいいじゃん」
「僕一人が食べなくても、みんな好きで食べるだろ親子丼」
「親子丼以外も、やばいよね。カツ丼って、豚肉と、鳥の卵の混ぜご飯だよ。牛丼玉入りは、牛の肉と鳥の卵の混ぜご飯だし。人間は雑食なんだから、そんなことにいちいち目くじら立てていたら、東京で暮らせないでしょ。どこか山奥の宗教施設にでもこもってみたら?」
 みかる本人は、僕と一緒に山奥にこもるのは嫌そうな口ぶりだ。
「そうだね。いちいち怒っていてもしょうがないよな。それより親子一緒に食事になってくれた、鳥さんたちに感謝すべきかもしれない」
「すべきかもしれないじゃない。感謝してみようと思えば、鳥さんの命に感謝することができるよ。すべきだったのに、できなかったなあって思うと、過去の後悔が始まる。これからは簡単にやり続けることができるんだって思えば、未来への希望が生まれる」
「わかった。明日からは親子丼を食べる時、しっかりと鳥さんの命に感謝することにする。僕と一緒に食事する人が、親子丼を食べる時もちゃんと、いただきますと感謝するし、食べ終わったら、ごちそう様ですと感謝する」
「カツ丼や牛丼ツユダクギョクイリの時もね」
「そうだね。ファストフードでもホルモン焼きでも、ちゃんと味わって、自分の体に取り入れた命に感謝しよう」
 満足した僕は、みかると一緒に夜のニュース番組を見た。テレビの液晶画面に、市丸電子の姿が映った。
 市丸電子は、秋葉原からブレイクした人気女性アイドルだ。数ヶ月前まで、テレビをつければ市丸電子の顔があったけれど、最近テレビに出なくなった。突然の活動休止で、いろんな噂が流れた。暴漢に襲われたんじゃないかとか、有名アイドルとの間にできた子を人工中絶したんじゃないかとか、ネットのアングラサイトに、たくさんのゴシップが流れた。
 「長らく芸能活動を休止していたアキバ系人気アイドル、市丸電子さんが、多角的阿修羅コンプレックスにかかっていたことが判明しました」
 メインキャスターを勤める、歌も歌っているアイドルキャスターが、ニュースを告げた。
 テレビ画面に病院から出てくる市丸電子の姿が映る。市丸電子の体には、みかると同じく腕が六本ある。
 カメラがアップになる。市丸電子の頭には、正面のほか、左と右にも顔がある。一般的な阿修羅コンプレックス患者の場合、左右の顔は、正面の顔と同じく、阿修羅コンプレックス発症者本人の顔である。みかるも三つある顔はみな同じみかる本人の顔だ。
 歯のかみあわせの問題か、眼の使い方の問題か、時間が経つうちに、三つの顔に個性が出てくる場合もある。左の顔はいつも眠たげだったり、右の顔は正面の顔より美人になったり、人様々だが、三つの面は、三つとも、発症者本人のオリジナルに等しいコピーである。
 ごく一部の患者で、左右につく顔が、正面にある発症者本人の顔とは、全く別人になる場合がある。
 テレビ画面に映る市丸電子の正面の顔は、バラエティー番組でよく見た市丸電子本人の顔だった。正面から見て左側の顔は、ひげをはやした中年の男だった。正面から見て右側には、西欧人風のおばあちゃんの顔がついている。左と右、どちらの顔も、市丸電子本人のアイドルイメージとはかけ離れた顔だ。
 左に映る髭男の髭はぼうぼう、左側は髪の毛も真っ黒で、ごわごわしていて、なんだか怖い。髭男は両目をつむって、口を半分開けている。瞑想中の神秘主義者か、やる気をなくした中年男と言った様子。
 右に映るおばあちゃんは、陽気に笑っている。南欧のスローフード、スローライフな家庭で、子どもたちに愛されているおばあさんの顔。右側の髪の毛には、白髪も目立っている。
 阿修羅コンプレックスの人たちは、正面の顔でしか話さない。左と右の顔でも、話そうと思えば話せるのかもしれないが、みかるは正面の顔しか話せないと言っている。多角的阿修羅コンプレックスの患者は、左と右の顔が別々に話す場合が多いそうだ。本人の意識、思考、それまでの価値観からまったくかけ離れた言葉を左右についている別人が話し出すという。左の顔と右の顔は、本人と全く別人格なのだろうか。だとしたら、彼と彼女は、どこからやってきた人格なのだろうか。
「人気アイドルが多角的阿修羅コンプレックスか。そりゃ芸能活動も休止だろうな」
 僕は目覚まし時計の針を七時にセットした。七時になれば、エヴァとハンナが歌いだす。ミレニアム・フォックスが人工生命の歌を録音した特性目覚まし時計を作ってくれたのだ。
「市丸ちゃん、テレビで見せない寂しそうな顔してたね」
 みかるの三つの面が、市丸電子に共感の情をあらわしている。僕は阿修羅コンプレックスを発症していないからよくわからないけれど、みかるはたくさん思うところがあるのだろう。市丸電子のことにはそれ以上触れず、僕はコーラのカクテルを飲んで眠った。


ペルソナ12 恥ずかしがる人工生命


 キツネの姿をした天才ミレニアム・フォックスと、どくろコンプレックスのヌースは仲が悪い。ミレニアム・フォックスはハリウッドの大作SF映画が好きだが、ヌースはハリウッドの大作主義を軽蔑している。ヌースはゴダール、ベルイマン、アントニオーニ、タルコフスキーなど、ヨーロッパ映画が好きなスノッブだ。二人は趣味が噛み合わないが、人工生命の美少女好きという点では、共通している。
 文化祭の準備に忙しい二人が最近になって、男子高校生の人工生命を飼育し始めた。ミレニアム・フォックスが育て、観察している人工生命の名はアドルフ。イケメン美少年で、バーチャル高校内の女子人工生命には、アドルフのファンクラブまである。ヌースが飼育している人工生命の名は、マルティン。高校生なのにずんぐりむっくりの体型で、見た目は悪いが、知力がずば抜けて高い。アドルフがクラスというか全校の人気者なのに対し、マルティンはいつも一人ぼっち、教室の隅で思索している。人を寄せつける雰囲気はないけれど、隠れマルティンファンの女子は多い。
 僕はずっと肉食の批判をしていたけれど、みかると親子丼について話し合ってみて、考え方が変わってきた。僕たち人類は雑食性の動物である。草食動物は草を食べて生きる。肉食動物は、肉を食べて生きる。雑食動物たる僕たちは、草も肉も両方食べることができる。草が好きで肉が嫌いな人は、草ばっかり食べていればいいし、肉が好きで草が嫌いな人は、肉ばっかり食べていればいい。個々人で選択は自由だ。ただ多くの人は、肉と野菜両方を食べる。バランスの偏りはあるだろうけど、現代日本文化は、雑食性である。この食文化、食文明を完全草食に変えろというのは、暴力の行使になってしまう。
 必要以上に牛や鳥を殺しすぎるのはよくないけれど、僕らは牛や鳥の肉、乳、卵を食べて生きている。彼らの命に支えられて毎日の生活があることを覚えておこう。
 肉を調理してくれる人がたくさんいる。牛、鳥、豚を育ててくれている人が、たくさんいる。料理人さんたちの仕事も生活も、必要以上に批判する必要はない。僕らは雑食性の動物なのだから。
 食事の提供に感謝すること。栄養の摂取に感謝すること。食べることを文化として楽しむことも面白いが、本当は、生き残るために必要だから、他の命をいただいているのだ。命のひとかみひとかみに、感謝の祈りをささげて生きることにした。
 最近家に帰ると、暗い部屋にノートパソコンの液晶画面が青光りしていることがよくある。ノートパソコンのスピーカーから、エヴァとハンナの歌声が聞こえる。彼女たちは液晶画面の中で、二人で学園祭の練習をしている。陽気に踊っているけれど、時々人間にはありえない方向に腕や体が曲がっていくからひやっとする。
「お帰りなさい、お兄さま」
 エヴァとハンナは、歌の合間に手をふって僕を出迎えてくれる。彼女たちは僕のことを「お兄さま」と呼ぶ。みかるは「お姉さま」と呼ばれている。
「ただいま」
 僕は二人のダンスを見ながら、スーツを脱いだ。
「ちょっと! 突然脱がないでくださいよ」
 エヴァとハンナが黄色い悲鳴をあげて、恥ずかしそうに顔を隠す。彼女たちがプログラムされた人工知能は、恥ずかしさの感情も表出することができる。
「ごめんごめん。向こうで着替えてくるよ」
 僕はリビングのドアをしめて、バスルームの前で服を脱いだ。
 風呂からあがると、みかるが仕事から帰ってきていた。みかるは、エヴァとアンナの歌を聴きながら、ダンスと歌の指導をした。どうやらエヴァとアンナの二人は、学園祭のステージで歌うつもりらしい。
「さっきさ、僕が服を脱ごうとしたら、エヴァとハンナが恥ずかしがったよ」
「当たり前じゃない。ねえ」
 エヴァとハンナが首を縦に振る。
「お兄さまは私たちのこと、ペットくらいにしか思ってないんですよ」エヴァが不服そうに言う。
「そうだね。一緒に暮らしてる友達なのにね」
 みかるがエヴァとハンナに味方した。
「僕が悪かったよ。ごめんな。今度からはちゃんと、礼儀を持って接するからさ」
 人工生命に謝ることになるとは、思ってもみなかった。
 僕と鶏と卵と野菜、全て同じ命を持つ生命体だ。それだけじゃない。エヴァもハンナも僕らの仲間だし、エヴァとハンナが生存しているノートパソコンだって、僕らの体の一部だ。ノートパソコンは僕らの目になり、腕になり、頭になり、顔になるのだから。


ペルソナ13 タヌキヌタ


 金曜の昼休みは、定食チェーン店でうなぎ丼を食べた。土用の丑の日だからか、うなぎ丼はスペシャル価格五百九十円で売られていた。
 たれをたっぷり塗られたうなぎの蒲焼を口に入れる。このうなぎは日本の川で生きていたものか、中国の川で生きていたものか。
 店員さんに産地を聞けば、教えてくれるんだろうけど、僕は産地に関わらず、かつて生きていたうなぎの命に感謝した。彼は川の中からここまでやってきた。今、僕はうなぎを食べて、夏バテを乗り切ろうとしている。彼か彼女が生きていた頃の姿に想いを馳せなければ、食べた後「おいしかった」で終わりだ。彼か彼女が生きていた頃の姿を想像すれば、彼か彼女の命に感謝することができる。
 彼は他の命を食べて生き延びてきたが、ある日人間につかまって、この定食屋までやってきた。養殖されていたのかもしれない。人間に食べられるために生まれてきた養殖うなぎ。今こうして食べられたなら、彼は生まれてきた目的を果たしたと言える。いや、言えない? 彼はただ、人間に食べられるために生まれてきたわけではない。人間に食べられる前に、彼は遺伝子を子孫に残してきただろうか。
 僕が地球人よりも優れた生命体に食べられるために、養殖されていたとしたらどうだろう?
 僕は誰かに食べられるために、この地球に生まれてきたわけではない。いや、やっぱり食べられるために生まれたのだろうか。他の命を食べるか、他の命に食べられるか、その二つのうちのどちらかだ。
 人間は他の命に食べられることがない。交通事故や殺人事件や戦争で死ぬことがあっても、他の動物が人間を食べることは稀だ。他の命に食べられることがない僕たち人間は、地球上で命をどう扱うべきだろうか。
 定食屋の隣にあるコーヒーショップで、アイスカフェラテを飲みながら、アイポッドでSFアニメソングを聴きつつ、うなぎの養殖について思考した。昼休み後は会社に戻り、人工生命の学園祭の準備にいそしんだ。
 夕方、携帯にみかるからメールが届いていた。
「ここのサイトを見て」
 メール本文にはワールド・ワイド・ウェブのホームページアドレスが記載されていた。僕はトイレに入り、みかるのメールに貼ってあるリンクをクリックして、サイトに入ってみた。
 リンク先は、インターネット上の巨大情報掲示板サイトだった。リンク先のページには、多角的阿修羅コンプレックス発症のため芸能活動休止中の市丸電子が通う、闇クリニックの噂が書きこまれていた。
 市丸電子は秋葉原にある非公式のクリニックに通っているという。阿修羅コンプレックスの患者専門の闇クリニックで、治療方法などの情報は書かれていないが、何名か完治者も出たそうだ。
 公式発表では、阿修羅コンプレックスは原因不明の奇病であり、完治者の存在も確認されていない。顔三つ、腕六本の阿修羅の姿になったら、死ぬまで阿修羅。阿修羅コンプレックスの患者たちは、西洋医学に頼るだけでなく、東洋医学、占い、精神療法、いろいろなものに頼った。それでも治った人はいないはずなのに、そのクリニックだけ特別なんてことがあるのだろうか
 シュレーディンガーの猫。闇クリニックの名前は、量子力学の有名な言葉だった。
 診察室の中に、猫と薬が入ったビンがおいてあるらしい。猫がクリニックの先生らしい。そんな馬鹿げた話があるものかと思うが、どくろコンプレックスのヌースはいるし、キツネ姿の社員はいるし、世界は何が起こるかわからないものだ。常識にとらわれていては、新しい発見に気づけなくなる。
 僕はしばらく、学園祭準備の仕事をほったらかしにして、ネット上の阿修羅コンプレックス情報を収集した。
 だいたい人工生命チームのみんなは、私的に学園祭の準備に熱中しているから、僕一人が一時期本筋から外れても、業務に支障は生じない。ミレニアム・フォックスなんて毎日終電過ぎまで学園祭全体のイベントプログラムを微調整している。
 この学園祭の主役は、美少年と美少女の人工生命たちだ。聞くところによると、僕が飼っている(いやいや、僕が一緒に暮らす友達の)エヴァとハンナだけでなく、ミレニアム・フォックス所有のアドルフと、ヌース所有のマルティンもコンビを組んで、体育館の特設ステージに立つらしい。所有者同士は仲悪いのに、うまくいくのだろうか。
 いやいや、学園祭の成功について気にするのは、僕の仕事ではない(違う、やっぱり仕事だったか)。ネット上で検索を繰り返すと、阿修羅コンプレックスに関して世界中のニュースが集まってくる。タイでは、阿修羅コンプレックスのカップルから、阿修羅コンプレックスの赤ちゃんが産まれたらしい。赤ちゃんは、母親の胎内にいた頃から、阿修羅コンプレックスを発症していたらしい。
 阿修羅コンプレックスの人は、出産を控えるようになるだろうか。結婚や出産をめぐって、阿修羅コンプレックスの人に差別が広がりそうで怖い。元はノーマルだった発症者と、生まれた時から阿修羅コンプレックスの人の間に、将来差別が生まれるだろう。人間は何でも差別したがる。自分の命を環境変化の脅威から守るため、差別する必要があるのだろうか。
 ロンドンでは、阿修羅コンプレックスの女性が深夜暴漢に襲われて死亡。暴漢は、「天の裁きだ」とわめいていたという。南米では、阿修羅コンプレックスの武装ゲリラ集団が出現、六本の腕で銃火器を使い、市街地で警察と銃撃戦を繰り広げたという。
「何見てんの?」
 背中から声をかけられた。居酒屋の前においてある狸が、スーツを着て笑っている。ヴァリシズムの名誉顧問、タヌキヌタだ。
「阿修羅コンプレックスの情報を収集しようと思って」
「ふーん」
 タヌキヌタは広い自分のデスクに歩いていった。名誉顧問のタヌキヌタはめったに会社に来ないで、ゴルフばかりしている。狸の表皮はコスプレだ。専門の技術者に趣味で作らせた、酔いどれタヌキのコスプレ。
 ミレニアム・フォックスは、コスプレとはとても呼べない、精密なキツネの表皮をまとっている(まあ本人は、キツネの皮は僕の皮膚だと主張しているが)。タヌキヌタのタヌキの外見は、背中にファスナーが見えるし、コスプレっぽい。
「大我くん、ちょっと」
 タヌキヌタに呼ばれた。慌てて席を立った。
「人工生命の誰かにさ、阿修羅コンプレックスを発症させることってできないかな?」
「は?」
「さっき君、阿修羅コンプレックスの情報収集してたでしょ。君の企みって、そういうことじゃなくて?」
 超人的な論理の飛躍だ。
「すいません、違います。だいたい、人工生命に阿修羅コンプレックスを発症させるなんてこと、技術的に可能なんでしょうか」
 ヴァリシズムは社風で敬語を使わないが、さすがに相手がタヌキオヤジの名誉顧問ともなると、自然と敬語が出てくる。
「フォックス君! フォックス君!」
 ミレニアム・フォックスがタヌキヌタに呼ばれた。フォックスはパソコンにつないでいたチューブを頭から外して、タヌキヌタの席に面倒臭そうに歩いてきた。
「フォックス君、僕らの可愛い少年少女に、阿修羅コンプレックスを発症させること、君の頭脳ならできるよね? やってみようじゃないか。パソコン上での人工生命の変化を見て、実際の患者の治療に役立てることができるかもしれないぞ」
 僕らのエヴァやハンナが、タヌキオヤジのモルモットになる様子が、脳裏に浮かんできた。
「名誉顧問、それは無理な相談です」
「なんでさ、腕や顔の数を増やすことなんて、プログラムをいじればすぐできるでしょ」
「確かに顔と腕の数を増やすことは簡単にできます。ただし、我々は阿修羅コンプレックスを再現できません。顔と腕が増えることは、我々の眼でも確認できる阿修羅コンプレックスの表面的症状に過ぎません。阿修羅コンプレックスとは、何かもっと別の、体の内部で進行する、おそろしい病気であるかもしれません。阿修羅コンプレックスの原因も症状も、我々は特定できていないがために、阿修羅コンプレックスのウィルスを人工生命の間に流行させることは、不可能です」
「ウィルスかあ。そうだ、阿修羅コンプレックスのウィルスをつきとめればいいんじゃないか」
「見つかっておりません。阿修羅コンプレックスは、ウィルスを原因としない非ウィルス性の症状かもしれません。とにかく、何も定かでない病気を人工生命の間に再現することはできないのです」
 ミレニアム・フォックスの口調は力強かった。
「けれどさ、いろんなモラルの問題があって、人間にはできないことでも、いろいろ実験できちゃうのが、人工生命のよいところだろ」
「それは競合他社がしていることです。我々は、人工生命に人間らしい振る舞いをさせることを目的としています。私たち人類より下位な存在であるからといって、人工生命たちの生存をおびやかす改変を、彼らに加えることはできません。それは神の無慈悲というものです。名誉顧問、阿修羅コンプレックスの類似物を作ることは簡単ですが、それは株式会社ヴァリシズムの、人工生命チームの事業目的からは、大きく外れる行為となります。今一度ご検討ください」
「しょうがないな」と言って、タヌキヌタが押し黙った。僕も自然と自分の席に戻ることができた。美少女キャラオタクのミレニアム・フォックスのことを、いい奴だと久しぶりに思った。
 タヌキヌタは定時にあがった。僕は阿修羅コンプレックスの情報収集を一通りやっていい加減飽きた後、学園祭の準備に励んだ。
 夜、トイレでミレニアム・フォックスと二人きりになった。
「フォックス、今日はありがとう」
 フォックスは洗面器の前で、手を入念に洗っている。
「礼には及ばないよ。顧問の気まぐれをとがめたまでだ」
「僕はフォックスみたいに強くタヌキオヤジに意見できないよ。だって名誉顧問だぜ。すごいな、やっぱりフォックスは」
「地位や年齢は関係ない。タヌキヌタ個人の思いつきが、事業目的や経営理念と合致するか、見定めて話したまでだ。重要なのは、個人の意見が採用されるかより、事業目的が継続されるかどうかだからな」
「フォックスってなんか毎日遊んでいるようでいて、ちゃんと考えてるんだね。偉いなあ」
 フォックスは手をふってトイレを出て行った。
 名誉顧問の意見を却下してまで守るべき事業理念というのが、パソコン内で歌を歌う美少女と美少年の学園祭とはいかがなものか、とまでは言わなかった。


ペルソナ14 別の宇宙にいるシュレーディンガーの猫


「お帰り。どうだった? ちゃんとサイト見てくれた?」
 マンションに帰ると、早速みかるが尋ねてきた。
「ああ。仕事中だったから、お偉いさんに注意されそうになったけどね」
「これ見て、地図だよ」
 みかるが、A4縦一枚のプリンタ用紙を差し出した。ネット上で拾ってきたのだろう、秋葉原の地図が印刷されている。大通りからそれた脇道に赤いボールペンで星印がつけられている。
「場所わかったんだ」
「うん。エヴァとハンナが調べてくれたの」
 ノートPCの液晶画面には、マイクを持って踊りながら歌うエヴァとハンナの姿が映っている。ビキニの水着みたいなステージ衣装をつけている。心なしかスタイルがよくなったように感じられる。スリーサイズのパラメーターはいじっていないから、彼女たち自身のトレーニングで、体型を魅力的なものに変化させたのだろう。
「彼女たち、ネットで検索もできるんだね」
「グーグルの検索結果全件から調べ出してくれたの。だいたい私たちって、グーグルの検索結果出てきても、最初の二、三ページしか見ないじゃん。エヴァとハンナは全件きれいに調べ出してくれるんだよね」
「検索エンジンの検索結果にさらに検索をかけるフリーソフトみたいな連中だな」
「今度一緒に行ってみよ。シュレーディンガーの猫に」
「そのクリニックって、市丸電子とか各界の有名人じゃないと出入りできないVIP専用、秘密のクリニックなんんだろ」
「住所わかったから、行ってみるだけ行ってみようよ」
 みかるには全然深刻そうな様子はない。ある日突然発症した阿修羅コンプレックスを治療できるかもしれない唯一の場所、シュレーディンガーの猫に行くことは、みかるにとって嬉しくて仕方ないことだろうか。それとも、楽しげな様子を装っているだけか。
「お金とかどれくらいかかるんだろうね」
 お金の問題じゃない。言った後にすぐ気づいた。
「わかんない。まあ貯金切り崩せばなんとかなるでしょ」
 阿修羅コンプレックスの治療を求めて、世界の名医を旅して周る人もいるというが、みかるは特別な治療を受けていない。阿修羅コンプレックスの症状といえば、顔と腕が増えるだけ。とりわけ病状が出るわけではない。
 もちろん日常生活を送る上で、周囲からの偏見の目、差別、ストレスなど様々な支障があるから、メンタルケアを受けている人は多い。役所に申請すれば、阿修羅コンプレックス特別手当も支給される。
 腕と顔が増えたせいで、首こり肩こりになる人も多い。阿修羅コンプレックスは、人間を死に至らしめる不治の病ではないけれど、いろいろ問題があるから、アイドルも営業活動を停止する。
「探しに行くだけ行ってみようよ。何もしないで後で悔やむより、無謀でもやってしまった方が、すっきりするでしょ」
 阿修羅にせがまれて、僕はしぶしぶ承諾した。
 翌朝の明け方見た夢に、猫が一匹出てきた。
 上品そうで、高級そうなペルシャ猫が、真っ赤な部屋に一匹いる。僕と猫以外には、家具も何もない。
 猫が僕の脳に語りかける。
「忙しい。やることだらけ。疲れる。時間がないと思えるのは、無駄なことをたくさんやっているから。時間は主観的現象に過ぎない。時間がたっぷりあると思えるかどうかは、君自身の心にかかっている。心。脳でも身体でもなく、神経でもなく、君の体のどこかで、発生している奇妙な化学現象、心。君の体の外、ちょっと浮いた部分に心があるのかもしれないけれど、君の心が、君の時間感覚を支配している」
 猫が、僕の瞳を覗きこんでいる。
「客観的時間でなく、主観的時間。人はみな主観的時間を生きている。呼吸を深くし、注意力と観察力を研ぎ澄ませば、主観的時間は永遠に増大する。最近、東京で暮らす多くの人は忙しいというけれど、主観的時間は無限化可能だ」
「お前は誰だ? シュレーディンガーの猫ってやつか? 僕の夢の中に出てきて何をするつもりだ」
「君は、これが夢だということを理解できるのか?」
 僕はうなずいた。
「普通の人は、夢の中にいて、これが夢だとは気づかない。今体験した現実を夢だと気づくのは、夢が終わって、目覚めた後だ。けれど僕は、何度も変な夢を見てきたから、今体験していることは、現実に起きていることでなく、夢の中で起きている虚構だと気づけるようになった」
「面白い。人は時間がないと言う。無駄なことをやっているせいだろうか。無駄なことを繰り返しているせいだろうか。できることをやらずに、他のことに時間をとらわれているせいだろうか」
「お前は、シュレーディンガーの猫か」
「そうではないし、そうでもある。確率からして、君が出会うシュレーディンガーの猫は、僕ではないだろう。けれどいい。みかるを連れて、君の属する宇宙にいる、シュレーディンガーの猫に会いに行くんだ。貨幣の心配は無用だ。貨幣とは、市場に出回るあらゆるものと交換可能な客観的価値である。しかし、シュレーディンガーの猫は市場に出回っていない非売品だ。マクスウェルの悪魔もそうだ。僕たちの存在は、どんな国の貨幣とも交換できない。まあそれは君も同じだけれど」
「僕は自分の時間を売って給料を得ている。お前も阿修羅コンプレックスの治療を仕事にしているんじゃないのか」
「時間あたりの能力を売って貨幣を得ることと、生命である君自身の価値は別物だ。あらゆる生命は市場で売買不能だ。それに、シュレーディンガーの猫の仕事は、阿修羅コンプレックスの治療ではない」
「じゃあ、お前のところに行ってもみかるの阿修羅コンプレックスは治らないのか?」
「来て、門を叩けば開く。足を運ばなければ、宇宙は閉じたままだ」
 赤い部屋が空間ごと歪み始める。空間の隙間、真っ黒な点から、フラスコの瓶の口が顔を出す。猫の体が小さくなり、フラスコの中に吸いこまれていく。
「夢の時間に隣り合う宇宙が接する。夢の時間が終われば、宇宙が一つ、消失する」
 猫の下半身が、ぐるぐる巻きになって、フラスコの中におさまる。シュレーディンガーの猫は、瓶の口から顔だけ出して、僕を見つめている。
「待ってくれ。僕が以前見た警察官になった夢とか、学校の女教師になった夢とか、全部お前の仕業か」
「シュレーディンガーの猫の干渉により、君が夢を見ているわけではない。君は別個の力の干渉により、夢を見ている。その力は、君のすぐ側にあって、君を観察し、干渉している」
 猫の頭が瓶の中に吸いこまれた。僕の体も瓶に吸いこまれる。強力な重力。体がスピンし、二つに分かれてしまいそうだ。
 そこで夢は終わり、また現実が始まる。


ペルソナ15 秋葉原で会う黄金どくろ


 有休をとって、みかると同じ日に仕事を休んだ。十時に中野を出発して、秋葉原に向かう。久々の秋葉原だ。駅につくと、オタク風の人がたくさんいる。歩道にはメイドがたくさん立っていて、ご主人様たちにびらを配っている。
「すごいねメイド」
 みかるは全然緊張せず、秋葉原を楽しんでいる。僕はいささか緊張している。
「もうメイドの姿を見てもびっくりしないな。秋葉原の光景に溶けこんでるよ」
「あ、阿修羅のメイドいるよ、ほらそこ」
 みかるが三本の人差し指を向けた先に、半袖のメイド服を着た女の子がいる。腕は六本、顔は三つだ。
「あのメイドさんにも、シュレーディンガーの猫のこと、教えてあげよっか」
「極秘の組織だろ。あんまり口に出さない方がいいよ」
「意外とみんな知ってたりして」
 みかるは地図も出さず、店や人を眺めて秋葉原の雰囲気を楽しんでいる。
「ちょっと、そろそろ目的地付近じゃないの?」
「そうだね。ここらへんの路地にあるはずだね」
 みかるがハンドバッグから携帯電話を取り出して、地図サイトを確認した。
「こっちみたい」
 みかると一緒に路地に入る。パソコンのパーツショップが並んでいる。パーツショップの上の階には、パソコンショップやらDVD屋が入っている。
「どのビルか場所知ってんの?」
「わかんない。この辺らしい」
「入ってるビルの名前とか目印とか、ヒントみたいなものもないのか」
「このあたりなんだけどね……」
「しょうがない。一つずつ当たって確かめてみるか」
 この細い通りであっているなら、全部のビルを調べ上げても、時間はかかりそうにない。
「めんどくさいよ」
「じゃあどうすんだよ」
「ちょっと遊んでこ」
「遊ぶのは普通、目的を果たしてからだろ」
 確かに僕は行きの電車で、フィギュアを見たいとか、中古のCDを漁りたいとかいろいろ言っていたけど、ショッピングは、シュレーディンガーの猫を訪ねた後だと思っていた。
「いいじゃん。時間たっぷりあることだし」
「ビル総当り調査なんてすぐにすむよ」
「じゃあ、大我一人でやってて。私買い物に行く」
「しょうがないな、買い物つきあうよ」
 シュレーディンガーの猫に行きたいと言い出したのはみかるだし、治療を受けるのはみかるだ。僕ではない。みかるが先に買い物だと言うのだからしょうがない。順番が違うような気がするけど、僕はそれ以上くよくよ考えず開き直って、久々の秋葉原ショッピングを楽しむことにした。
 みかると一緒にフィギュアの店を回った。エヴァとアンナを育て始めるまで、みかるは美少女フィギュアに興味がない感じだったが、今やネットで特注ものを漁るほどのフィギュアファンである。
 フィギュアショップには、マニアックな格好の人がたくさんいたけど、普通に格好よい男とか、きれいな女の子も歩いていた。知らない人たちと一緒に、露出過多な美少女立体フィギュアのディスプレイを眺めていると、恥ずかしくなってくる。
 隣のみかるは、恥ずかしがる様子もなく、「すごい」とか「きれいだね、これだけ精魂こめて作られてると、完全に芸術だね。魂入ってるよ」と言ってはしゃいでいる。
「うわ、すごい気合の入ったコスプレしてる人いるよ」
 みかるが僕を小突いた。店の奥、際どいポーズをとった露出過多の美少女天使フィギュアが並ぶ一角に、黄金色に光り輝く骸骨が立っていた。骸骨は、黒い半袖のポロシャツにジーンズをはいている。金のしゃれこうべからは金髪も垂れている。
「あのコスプレすごいね。本物の骸骨にしか見えないなあ」
 確かに秋葉原の歩道には、人気アニメキャラクターのコスプレをした人が、当たり前に歩いているけれど、黄金に輝く骸骨はいない。
「あれって、どくろコンプレックスってやつじゃ……」
「何それ? 阿修羅コンプレックスの亜種みたいなもの?」
「僕の知り合いかもしれない」
 僕は黄金に輝く骸骨の方に歩み寄った。骸骨は腰をかがめて、フロアの中でも一番大きな美少女天使を眺めていた。ピンク色のロングヘア美少女は、体をくねらせて、恍惚の表情を浮かべている。顔はアニメ絵だけれど、そういえばルネッサンス時代のイタリア彫刻に同じようなのがあったなと思い出す。
「ヌースか?」
 黄金のどくろは体をびくっと震わせてから、僕を仰ぎ見た。黄金色になっても、ヌースだとわかる。顔に皮膚も眼球も毛もなくても、見慣れたしゃれこうべの形でわかる。こいつはヌースだ。
「偶然もあるものだな。何故ここにいる?」
「休日のレジャーといったところだ。お前、何で黄金になったんだ?」
「休みの日はいつも黄金にしている。会社だと目立つから、白く塗ってるがな。元は黄金の骨なんだ」
 ヌースの頭蓋骨が動く。ヌースには眼球がないけれど、骨の動きだけで、みかるを見たのだと推測できた。
「大我、この人知り合い?」
「ああ、会社の同僚でヌースってやつ」
「はじめまして。私、みかるって言います」
「こちらこそ初めまして。大我さんにはいつもお世話になってます」
「すごいですね。コスプレには見えないですよ。本物の骸骨みたい」
「コスプレではありません。阿修羅コンプレックスのみかるさんにこう言っては失礼ですが、私はどくろコンプレックスなんです」
「え? コスプレしてるわけじゃなくって、体がどくろになっちゃったってこと?」
「まあそんな感じです」
 みかるは初めて見たヌースのどくろコンプレックスっぷりに圧倒されている。
「そいつの言うこと信じちゃだめだよ。人をだまして遊んでるだけかもしれない」僕は釘をさした。
「人の言うことをまず疑ってみるという姿勢は、科学の発見にとっては重要ですが、社交上は信じる優しさも必要ですよ。僕がどくろコンプレックスであったとしても、みかるさんには一切害がない。むしろ面白くなる」
 ヌースがまたわけのわからないことを言う。
「ヌースさんは、どくろコンプレックスの自分をその、病気だとは思ってないんですか」
「ええ、個性だと思ってますよ。他の誰でもない個性。まあ世界のどこかを探せば、私以外にもどくろコンプレックスの人間がいるかもしれません。いろいろ偏見や誤解の目があるけれど、そんなマイナスのことよりも、はるかに私は、自分自身がどくろの姿でいることにプラスの喜びを感じている。黄金どくろの自分に誇りを感じている。これはかけがえのない、天から与えられたアイデンティティーであると感じています」
「何が天から与えられだよ。大げさなんだよな、いっつも」
 みかるがヌースの話に聞き入っているので、ツッコミを入れてみた。
「どくろでも、人格だ。骨しかなくても、生きているのだ」
「なんかよくわかんないですけど、ヌースさんて面白い人ですね」みかるはヌースのことを気に入ったようだ。
「ええ、見かけも面白いですが、話でも楽しませてあげられますよ。メイド喫茶で一緒にお茶でもいかかですか?」
「どくろでもナンパするのか」とまたツッコんでみる。
「どくろがナンパして何が悪い? どくろが阿修羅コンプレックスの女性をお茶に誘って悪いと考える思考の癖は、差別意識だぞ大我」
 僕ら三人は、一緒にフィギュアショップを出て、ヌース行きつけのメイド喫茶に入った。
「お帰りなさいませ! ご主人様」
 猫耳をつけているメイドが、笑顔とアニメ声で迎えてくれた。看板には「アニマルコスプレメイド喫茶」と書かれている。猫耳のメイドの他には、うさぎ、パンダ、黒豹の耳やしっぽの飾りをつけたメイドが、店内を歩き回っていた。
「本当にご主人様って言うんだね」
 僕はヌースやバイオスと何度かメイド喫茶に行ったことがあったが、みかるはメイド初体験で興奮した。
 ヌース行き着けの店のようで、メイドたちはヌースが来たら「黄金どくろ様だにゃん」とか「わん」とか「ガオー」とか「ふんがー」とかはしゃいで喜んでいる。
「ご注文は何にするにゃ?」
 猫耳のメイドがスカートから生えているしっぽを振りながらメニューを出した。
「ビクビクビタミン三つ」
 ヌースがメニューを見ずに答える。
「かしこまりましたにゃん……ご主人様からご注文いただきました。ビクビクビタミン三つ!」
 猫耳メイドが店中に響き渡る声で宣言した。
「ビクビクビタミン三つ」と店内のメイドがアニメ声で唱和する。
「ビクビクビタミンって何だよ。危ない名前だな」
「おいしいぞ。この店の人気商品だ」
 ヌースは自慢げに答えた後、トイレに立って席を外した。
「なあ、そろそろシュレーディンガーの猫の場所探さないとまずいんじゃない?」
 化粧直しを始めたみかるに確認した。
「まだ時間あるでしょ。このお店出たら、ヌースさんと別れて探せばいいよ」
「秋葉原に来た目的を忘れたんじゃないだろうな。いつもみたく遊びに来たんじゃないんだよ。阿修羅コンプレックスの治療に来たんだから」
「わかってるって。そう焦んなくていいじゃん」
 ヌースがトイレから帰ってきた。
「何の話で盛り上がってたの?」
「メイド喫茶初めてで興奮しちゃって」
「初めての時も楽しいけれど、気に入れば、何回ここに来ても楽しめるよ」
「そうなんだ。ヌースって意外とオタクなんだね」
「オタクカルチャーは諸外国にない日本独自の方式で、進化発展したすばらしい文化だよ。みんな自分を卑下するのをやめて、もっとオタクカルチャーの素晴らしさと独自性をアピールする必要があると思うな」
 いつのまにか、二人はため口で話し合っている。なんか嫌な感じがするが、嫉妬するのも馬鹿らしい。みかると僕の間の絆を信頼していれば、不安に怯える必要もない。
「ところでさ、みかるちゃんは、シュレーディンガーの猫って知ってる?」
 不意の質問に驚いた。ヌースのやつ、何のつもりだ。
「現代物理学の有名な謎かけ話でしょ」
 みかるがはぐらかす。
「すごいな。みかるちゃん理系なんだ」
「違うよ。文系。エステティシャンだし、数学も物理学も嫌い」
「じゃあなんでシュレーディンガーの猫なんて、マニアックな用語知ってるの?」
「今日は、シュレーディンガーの猫に会いに来たの」
 ああ、言ってしまった。大丈夫かと思っていたのに。
「そうなんだ」
 ヌースは落ち着いている。ヌースは、阿修羅コンプレックスの闇クリニック、シュレーディンガーの猫の存在を知っているのだろうか。
「お待たせしましたご主人様。ビクビクビタミン三つだにゃ」
 猫耳メイドが茶色のビンに入ったドリンクをテーブルに三つ並べた。「疲れた神経組織に刺激挿入、みんなのビクビクビクビクビタミン!」なんてわけわからんコピーがまっ黄色のラベルに書かれている。
「それじゃ、みんなの神の経路に乾杯」
 ヌースがビンを持ち上げた。
「ビクビクビタミーン!」
 みかるがはしゃいで乾杯の声を上げる。僕も仕方なくビクビクビタミンを口につけてみた。
 かなり濃い目の炭酸だ。口の中にまむしっっぽい味が残る。
「すごい強烈だなこれ」
「飲んでおいた方がいいぞ。現代人は不要な情報を大量に摂取しすぎているせいで、神経が磨耗しているからな」ヌースが一気飲みする。
「ビクビクくるねこいつ本当に」
 みかるは楽しげだ。
「なんでシュレーディンガーの猫の話なんてふったんだ?」ヌースに聞いてみた。
「秋葉原にあることを知ってるかなと思ってね。みかるちゃん阿修羅だし」
「ヌース、お前、詳しいのか」
「俺はヌースだ。不可知のものはない」
 ヌースがしゃれこうべのあごをまげて、微笑の表情を作った。
「ヌースは、シュレーディンガーの猫がいる場所知ってる? グーグルで調べたんだけど、見つかんなくて、困ってたとこなの」
「時空のねじれだ」
「ねじれ?」
「ねじれているから、入り口が毎回変わるんだよ」
「そうなんだ。場所はここらへんっていう地図を手に入れたけど、やっぱり無意味だったね」
「無意味でもないよ。探そうと思った心が、入り口を呼び出す場合もあるさ」
「なんかオカルトっぽいよヌース」
「ごめんごめん。行きたいんだろシュレーディンガーの猫に。探すの手伝うよ」
 ヌースの笑い声が僕の耳に届く。笑い声は本来、笑った人の体の中で共鳴した音波が、周囲に伝わることで、笑い声として聞こえるはずだ。ヌースは他の人間と違って、骨だけなのに、何故か話し声も、笑い声も、皮膚と臓器を持つ人間と同じように聞こえる。やっぱり、ヌースの骸骨の姿は幻像に過ぎず、ヌース本体は人間そのものなのだろうか。
 そんなことを思索しているうちに、ヌースのおごりで支払いがすんだ。僕ら三人は、みかるの先導で、ヌースと会ったフィギュア店付近にある路地に戻った。
「ネットで探した地図だと、このあたりなんだけどね」
 みかるが携帯の液晶画面をヌースに見せる。
「二手に分かれて探してみようか」
「そうだね、せっかく三人いることだし」
 ヌースの提案にみかるが嬉しげな様子で同意する。
「じゃあ、私とみかるちゃんとで一緒に探すから、大我はそっちを頼む」
「よろしくね」
 ヌースとみかるが一緒に手を振って、歩き出した。僕は不服だったが、多数決に従うことにした。


ペルソナ16 黒市丸電子


 シュレーディンガーの猫を探しながら、大通りまで戻った。店の目印がどんなものかは、さっぱりしらない。「シュレーディンガーの猫」と書かれた看板が出ているとも思えない。きっと何の札もない雑居ビルの個室が、シュレーディンガーの猫なのだろう。
 誰かの紹介がないと入れないビップ御用達の会員制クリニック。後もう少しだ。時間を惜しまず心をこめて探せば、秘密のクリニックにたどりつけるだろうか。
 細い路地がある度に路地の中に入った。ワンフロアずつビルの中を回って、シュレーディンガーの猫がないか確認する。個人のマンションみたいなビルにも、不法侵入覚悟で入ってみる。
 歩いても歩いても、シュレーディンガーの猫は見当たらない。疲れ果てて、路地裏の歩道に座りこんだ。目の前に自動販売機がある。おでんの缶と一緒にさっき飲んだビクビクビタミンが百五十円で売っていた。僕は今日二本目のビクビクビタミンを飲みながら、歩道の端に座って腰を指圧した。
 ピンク色をした可愛らしいねずみの着ぐるみが歩いてきた。剥製みたいなミレニアム・フォックスのキツネの皮膚ほどには精巧さがない。タヌキヌタの狸のコスプレほどにはよくできてもいない。見た目は、量販店で売っているような大量生産のぬいぐるみだ。
 ねずみの着ぐるみは、ビルとビルの間にある細い隙間に入った。がさごそと音がする。休憩時間に少しの間でも着ぐるみを脱いで、気晴らしでもするつもりだろうか。
 癖になりそうなビクビクビタミンを飲みながら、ねずみが入った隙間を見ていたら、女の子の顔が出てきた。三つ顔がある。着ぐるみに入っていたバイトの女の子は、阿修羅コンプレックスだったのだ。
 ん? バイトなんかじゃない。三つあるうち、正面の顔は、テレビでよく見た市丸電子の顔だった。市丸電子の右には、ハンナそっくりの女の子の顔がついていた。
 市丸電子の正面の顔は、僕を見つけて、驚きの表情を浮かべた。僕も驚いた。ニュースで見た時、多角的阿修羅コンプレックスにかかっていた市丸電子は、髭面のおっさんとラテン系おばさんの顔をつけていたはずなのに、顔が変わったのだろうか。しかも、僕が飼っているハンナの顔って、何故だろう。
 市丸電子が歩道に出てきた。やっぱり腕は六本ある。上半身は阿修羅コンプレックス患者用のTシャツ(左右三つずつ枝わかれてしているから、T字型のシャツじゃないけど)、下半身はピンクのねずみの着ぐるみだった。ちらっと見えた左の顔は、エヴァそっくりだった。
 やっぱりそうだ。エヴァとハンナが、市丸電子の顔に張りついている。
「見たね」
 市丸電子が怒った顔で僕をにらむ。テレビでは見ない顔と、きつい声だ。
「ごめんなさい」
 あやまった。特に悪いことをしたわけじゃないけれど、自然に。何かまずいものを見てしまった気がした。
「秘密にできんの?」
 脅迫口調だ。
「左の顔と右の顔、僕の知り合いの女の子です」
 僕は話題をそらした。
「知り合いというか、僕が仕事で育てている、人工生命の女の子の顔なんです」
 市丸電子は不服そうな表情をしている。
「人工生命?」
「そう。僕らの会社が開発した、美少女萌えキャラ型の人工生命の顔です。僕が家で育てていて、観察もしてました」
 今日だってエヴァとハンナの顔を見てきた。何故二人が、市丸電子の顔に張りついているのだろう。
 そうだ、市丸電子にシュレーディンガーの猫の場所を聞いてみよう。エヴァとハンナの謎は、後で確認すればいい。
「市丸さん、て呼べばいいのかな? つかぬことをお伺いしますが、シュレーディンガーの猫の場所って知ってます?」
「どこでその名前知ったの?」
 市丸電子は何を言っても、常に不満そうだ。テレビで見る姿が白市丸電子としたら、目の前にいる彼女は、黒市丸電子だ。
「僕が一緒に暮らしている女性も、阿修羅コンプレックスを発症しているんです。あなたが通っているという秘密のクリニックが秋葉原にあるってネットで調べて、今日探しにやってきたんです」
「私もこれから行くところだけど、一緒に来る?」
 言葉だけは誘ってるようだけれど、口調は拒否している。
「本当ですか。嬉しいな。場所がわかんなくて、困っていたとこなんですよ。助かります」
 市丸電子が鼻で笑う。どうしたのだろう。多角的阿修羅コンプレックスが発症してから、こういう性格になってしまったのか、それとも元々こういう性格で、テレビの白市丸電子は、彼女本体のペルソナに過ぎなかったのか。
「急ぐよ。他の人に見つかるとまずいから」
 市丸電子が周囲を見回した。等身大の顔になった、エヴァとハンナの顔を近くで見た。やっぱり二人とも、僕が一緒に暮らしているエヴァとハンナだ。アニメキャラが、実写になったら、こんな顔だろうなっていう顔をしている。二人とも優しい微笑をたたえている。言葉も話せないだろうが、「お兄さま」という声が聞こえてきそうな気もする。
「ところで、シュレーディンガーの猫ってどこにあるんですか?」
「ここよ、このビルん中」
 市丸電子がめんどくさそうに、向かいのビルを指さした。一階はシャッターが下りており、看板も何も出ていない。建設後何年も経った古い雑居ビルだ。
「ちょっと待ってください。阿修羅コンプレックスの連れを呼んでみます」
 みかるの携帯に電話をかけてみた。留守電になったので、ヌースの携帯にも電話してみる。呼び出してすぐ、留守電メッセージに切り替わる。どちらも間が悪い。
「急いでくれる? もうすぐ予約の時間なんだけど」
「わかりました。後で向こうから連絡来ると思うんで、先に行きましょう」
 僕は市丸電子について、ビルの裏口から建物の中に入った。そのうちみかるかヌースから、メールか電話してくるだろう。
 シュレーディンガーの猫は、ビルの三階にあった。看板、表札、目印になるものは何もない。おんぼろの雑居ビルの中の一室だ。
 市丸電子が埃の積もった赤いドアを三回ノックした。ノックしている市丸電子の側面についているエヴァが、僕の顔を見つめている。くりっとしたエヴァの瞳が一瞬大きくなって、口元には笑顔が広がった。
「はーいお待たせ。いらっしゃーい」
 ドアがぎしぎし音を出しながら開く。黒のスクール水着に白衣を着た女性が、眠たげな声を出して出てきた。赤いめがねは、ちょっと曲がってずれている。
「市丸ちゃん、今日もかわいいねえ。あれ、この男の子誰? 新しい恋人?」
 水着の女医が僕の顔をのぞきこむ。女医のの吐息が僕の顔にかかった。ラベンダーの香りがする。
「違います、ここに来たいって、言ってて。いいですか? 一緒でも」
「市丸ちゃんの知り合い?」
「ファンです」
 ファンをぞんざいに扱う口調で黒市丸電子が答える。僕は彼女のファンだと言ってないのに、ファンにされてしまった。
「あなた、阿修羅コンプレックスに見えないけど、新しい症例? 透明な腕と顔が増えちゃったとか? まさかねえ」
「こいつの彼女が阿修羅コンプレックスなんだそうです」
「ふーん、そうなんだ。残念」
 何が残念かよくわからないが、女医が僕の顔と体をじろじろ眺めた。
「すいません。なんで白衣の下に水着を着てるんですか?」
「何着ててもいいじゃない。あなたも着てみたいの?」
「いえ結構です」
 いらん質問をしてしまった。
「ちょっと待っててね。マクスウェルの悪魔に聞いてくるから」
 女医が入り口のドアを閉めた。マクスウェルの悪魔? 確かこの間夢の中で、シュレーディンガーの猫もマクスウェルの悪魔と言っていたはずだ。
「大丈夫かな? 突然の来訪者で。ここ、会員制の闇クリニックなんですよね?」
「入れるか入れないかは、あなた次第だよ。そう言えばまだ名前聞いてなかったね。なんて言うの?」
 名前なんて興味ないというそっけない様子で聞かれる。市丸電子は、自分の本心を人に知られたくないのだろうか。
「大我って言います」
「大我か。現実から隠された大いなる我。我は一人でなく、縁起から生じる」
 僕の名前が気に入ったのか、市丸電子がさっきまでの冷たく怒った表情を崩して微笑んだ。
「はーいお待たせ。入ってもいいんだって。なんか君が来るの、わかってたみたいだよ」
 女医が僕に微笑みながら、ドアを全開にした。
 待合室には、昔小学校で見かけたような安っぽいベンチがおいてあった。奥に扉がある。ベンチの手前におかれている小さな液晶テレビには、アキバ系の美少女キャラが歌って踊る、アニメソングのビデオクリップが映っている。
「あなたの彼女、まだ来ないんだよね?」
「すいません、ちょっと連絡つかなくて…」
「あなただけでも診断できるみたいだから大丈夫だよ」
 スクール水着に白衣を着たこの女性は、やっぱりシュレーディンガーの猫の主治医でなく、案内役のようだ。奥の診察室には、猫が一匹待っているのだろうか。
「僕だけで診断ですか? 僕は阿修羅コンプレックスにかかってませんよ」
「あなた、彼女の人生に深く関わってるんでしょ。患者本人のみ、治療を受ける必要があると考えるのは、単なる思いこみに過ぎないんじゃないかな? 原因は、患者本人の体の中にあるわけじゃなく、彼女の周囲の世界に偏在しているかもしれないでしょ?」
 女医が笑うと、赤いめがねがずれ落ちた。
 市丸電子がベンチに腰かけた。背筋がたって、凛としている。ブラウン管を通して多くのファンを持つ、アイドルの面影を感じた。
「じゃ、しばらくお待ちくださいね」
 女医が奥の部屋に入った。市丸電子と二人きりの個室に、アニメソングが鳴り響く。
「本当すいません。市丸電子さんのおかげで、ここに来ることができました」
「私の力じゃない。大我に会った後、いつもみたく逃げようと思ったら、体が動かなくなった。残り二つの顔に引っ張られたみたいだった」
「そいつらのせいですか」
 市丸電子の方を向くと、側面にあるハンナの顔が見える。してやったりという自慢げな表情をしている。
「さっき、私についてる顔のこと、知ってるって言ってたよね」
「僕らの会社で開発している人工の美少女です。」
「なんでそんなのが、私の体に出てきたんだろ」
 市丸電子が小さな声で呟いた。テレビには、別のビデオクリップが出てきた。今度は、時代劇のお姫様の格好をしたアニメキャラが、ドラムンベースの入った演歌を歌いだした。


ペルソナ18 マクスウェルの悪魔


「案内役の女医さんが、マクスウェルの悪魔って言ってましたよね。シュレーディンガーの猫の他にマクスウェルの悪魔もいるんですか?」
 マクスウェルの悪魔も、シュレーディンガーの猫も、物理学に出てくる有名な思考実験の題名だ。マクスウェルの悪魔は、マクスウェルという学者が考案した、物理法則を超越する悪魔だし、シュレーディンガーの猫は、シュレーディンガーというちょっといっちゃってる量子力学者が考案した、観察者が観察することによって、生死が決定される可哀想な猫のことをさす。
「マクスウェルの悪魔がいる門を通らないと、シュレーディンガーの猫のとこまでいけないんだよ」
「は?」
「この奥の部屋に二つの門がある。門の上には、マクスウェルの悪魔が座っている。一方は茨で覆われた門、一方は天使に覆われた門。どちらの門を選ぶかは、あなた次第。治療の度に、毎回門をくぐることになるの」
「どちらの門をくぐるのが正解ですか?」
「それは誰にも分からない。多分マクスウェルの悪魔も知らない。正しい門をくぐり抜けないと、シュレーディンガーの猫に会えないんだ。そして私は、この場所に三回来て、まだ一度もシュレーディンガーの猫に会えてない」
「それで治療費取られるんですか?」
「まあね」
 ここの料金システムを聞いていなかったことを思い出して、少し心細くなった。
「三回目の時は、マクスウェルの悪魔にひどいことを言われた。一回目の訪問で、シュレーディンガーの猫に会えなかった人は、何回繰り返しても、どちらの門を選ぼうとも、シュレーディンガーの猫に絶対会えないんだって。やんなっちゃうよね」
「それじゃ、最初の選択で、シュレーディンガーの猫に会えた人は、後、何回門を選んでも、必ずシュレーディンガーの猫に会えるってことですよね」
「まあそうなるよね」
「じゃ、がんばろ」
 市丸電子がだまった。僕は時代劇のお姫様が着物を振り乱して歌うテレビ画面を見つめた。
「はーい。お待たせ。じゃ、市丸ちゃんからね」
 市丸電子が女医と一緒に奥の部屋に入っていった。市丸電子の去り際、エヴァとハンナが僕を見下ろしたように思えた。
 携帯電話を取り出して、着信履歴を確認した。みかるからもヌースからも、連絡は着ていない。二人に電話をかけなおしてみるが、すぐ留守電になる。二人一緒にシュレーディンガーの猫のことなんて忘れて、遊びに出かけたのだろうか。
「はーい。お待たせ。次、あなた様どうぞ」
 さっき市丸電子が入ったばかりなのに、女医に呼ばれた。早すぎる。市丸電子はまた、シュレーディンガーの猫に会えない門を選択してしまったのだろうか。
 奥の部屋に女医と一緒に入った。正面の壁に扉が二つある。左の扉には、茨が絡まりついている。右の扉には、天使の羽を生やした美少女が縁取られている。
 二つの門の上空に悪魔が漂っていた。
 等身大の青い悪魔が、空中に浮かぶ便器に座って、僕を見下ろしている。二本の角を生やした悪魔は全裸だから、ズボンも下着もおろす必要はない。
 悪魔の皮膚は青く発光している。体や顔をよく見ると、幻でも生物でもなく、フィギュアに見える。
「ようこそ。待っていたぞ。お前がやってくるのを」
 悪魔の声が、僕の脳の中に響く。
「二つの門から、お前が望む方を選べ。どちらかの門が、シュレーディンガーの猫が待つ小部屋に通じている。もう一方の門は、地獄に通じている。しかし、片方が地獄だからといって、シュレーディンガーの猫に通じる門が、天国につながっているわけでもない。苦しさで言ったら、シュレーディンガーの猫に通じる門の方が上だ。その苦痛に耐え抜くことができるかどうかは、全てお前自身の知恵と力量にかかっている。さあ選べ、お前はどちらの門を通るのか?」
 僕は二つの門を見比べた。トゲがたくさんついている、茨の枝が絡みついた左の門。小さな美少女天使に囲まれた右の門。よく見つめてみると、天使は幻でもなく、実在しているわけでもなく、フィギュアだった。茨も植物でなく、造花に見えてきた。
 背中の方から、はあはあ喘ぎ声が聞こえてきた。振り返ると、女医が両手をあげて、腰を振り乱して踊っている。
「ちょっと。人生の大事な選択の場面なのに、何踊ってるんですか?」
「彼女はお前の選択を祝福しようとしているのだ」
 悪魔が便器から身を乗り出して、女医の踊りを眺めている。
「一見意味がないように思える踊りでも、踊り続けていれば意味が出てくる。スクール水着の上に白衣を着ているのは、大きな間違いのようだが、そのうちその格好に、選択ミスとは別種の意味が生じてくる。宇宙に意味を作るのはお前自身だ。お前自身が、お前の行為に意味があると思い定めれば、お前が存在する宇宙とお前自身に意味が生じる。一体何の意味があるのかと疑問に思い続けている限り、お前にも宇宙にも存在する意味はなくなる。さあ、お前はどの門に入るのだ?」
 悪魔が語る間も、女医の踊りはどんどん激しくなる。脱いだ白衣を手でつかんで、踊りながら白衣を振り回している。このまま僕が選択せずにいたら、彼女はダンス中に限界点に達し、水着姿で気絶してしまうのではないか。
 どちらの門から入るか、踊る彼女のためにも、急いで選択すべきか。これは悪魔の誘惑か。
 焦るな。ゆっくり考えてみよう。
 茨の門と美女に囲まれた門の二つが現れた時、美女に囲まれた門を選んだ者は、厳しい道に落ちる。茨の門を選んだ者は、やがて天国に到達する。大学時代に読んだ黒魔術の本に書かれていた。古代から伝わるヘルメスの教えに従って、茨の門を選ぶべきだろうか。
 考えている僕を、トイレの便器に座る悪魔が見下ろしている。悪魔はフィギュアだけれど、便器は本物っぽい。
「いい加減決めろ。迷っていても、お前の道はすでに決まっているのだろう」
「ああ、決まったよ」
 僕は悪魔の方に歩み出た。悪魔が用意した枠組に従う必要はない。選択の意味は、自分自身で作り出すものだとマクスウェルの悪魔自身が言っていた。
「この門から入ることに決めた」
 僕はジャンプして悪魔の体に手をかけた。見た目通り、マクスウェルの悪魔はソフトビニール樹脂でできていた。
 悪魔のボディーをつかんで、後ろに吹っ飛ばした。
「ギャ!」
 女医の悲鳴が聞こえた。悪魔のフィギュアが当たったのだろう。
 僕は便器の中を覗きこんだ。便器の中に青い水が入っている。便器の底は見えない。
「ここが第三の狭き門だ!」
 僕は水泳の飛びこみの姿勢をとって、便器の中に頭からつっこんだ。


ペルソナ18 こちらの宇宙にいるシュレーディンガーの猫 


 便器の水の中に入り込む。悪臭はないし、汚物もない。足をばたつかせて、手をかいて、奥に進む。
 目を開くと、はるか先に、女の子が暮らしていそうな部屋が見える。ベッド、デスク、パソコン、クローゼット、液晶テレビが見える。あの部屋が目的地だろうか。
 水の膜を突き破って、部屋の中に飛び出た。僕はシングルベッドの上に落ちた。体は濡れていなかった。
「誰?」
 デスクの方から女の子の声がする。デスクの上においてあるデスクトップパソコンには、RPGゲームのフィールド画面らしき光景が広がっている。
 椅子に黒猫が座っていた。黒猫はパソコンのキーボードに手をかけつつ、体を反転させて、僕を見つめた。
「もしかして、患者さん? でも、あなた、阿修羅じゃないよね?」
 猫が話している。高校生くらいの女の子の声。毛並みの様子からして、黒猫はマクスウェルの悪魔みたいなフィギュアではない。本物の哺乳類に見える。
「何? やっぱり患者なの?」
「僕の連れが患者です」
「そうなんだ。じゃ、ちょっと安心だね」
 何が安心なんだ。
「まったくさ、最近患者さん全然来なくてさあ、ひまでネトゲーやってたわけよずっと。僕人間じゃないからね、二十四時間とかぶっ通しで仮想現実の世界に入り浸れるわけ。ああ、そう言えば僕って、阿修羅の人の治療の仕事してたんだなあって、今思い出したよ。ありがと。なんか僕、廃人みたいじゃんね」
 黒猫が僕にお構いなく、喋り続ける。どうやらこの黒猫が、シュレーディンガーの猫のようだ。夢で以前話し合ったシュレーディンガーの猫とは、随分印象が違う。
「受付の女医さんから、患者本人が来なくても、治療になるって言われて来たんですけど」
「ああ、あの子女医のコスプレしてるだけだから、資格も何にも持ってないよ。ま、僕も資格とか全然持ってない、アングラ業者なんだけどね。しかも仕事なくてネトゲーばっかやってるし」
 なんだろこのテンションは。救いを求めてここまで来たのが、馬鹿らしくなってきた。
 正解にたどりついたと思ったけれど、やっぱり外れだったのだろうか。
「じゃ、治療しよっか。ああ、久しぶりだな。できるかな。緊張しちゃうよ」
 黒猫が椅子の上で体をくねらせる。頼りないことこの上ない。
「阿修羅コンプレックスを治療できるんですか?」
「治療ねえ。治療……そう治療かな。やっぱり違うかな……ああ! よくわかんないや。でもやっぱ治療できるよ、うん」
 黒猫が僕の顔色を伺いながら、言葉を選んでいく。新手の詐欺か何かにだまされたのだろうか。阿修羅コンプレックスの患者を狙った詐欺は多いというし……
「どしたの? なんか気になることでもある?」
「本当に治療できるんですか? ここに来たのが間違いだったかって思えてきました。やっぱり掲示板の情報は信頼しない方がいいのかな」
「僕のことを信頼できるかどうかは、君の心にかかっているよ。どんなに不誠実でいい加減に見える猫でも、信じて、愛そうと思えば、信頼することができる。君の信頼しようと思う心が、僕の性格を作り出すんだ。僕の性格は、君の神経網の鏡に過ぎない。僕に会う前から、君は僕のことを信頼できないと思っていた。だから今、僕は君の前でこんな風にしか振舞えないんだよねえ」
「じゃあ、あなたが頼りなくてだらしなく見えるのは、僕がそう予測したせいだって言うんですか?」
「そうそう。前提を持って人を見ちゃいけないよね。人の振る舞いは、観察者の予見に従って、解釈されちゃう。お前はこういうやつだって言われているうちに、ああ、やっぱり僕ってそういう人間なのかなあって思い始めちゃって、相手の言うような性格になってくことってないかい? だから君は、僕の力を信じた方がいいよ」
「心の持ちよう一つで世界が変わるって、新興宗教みたいで胡散臭いな。もっと科学的な原因で、阿修羅コンプレックスは広まっているんじゃないですか?」
「そうそう。阿修羅コンプレックスの原因を人間は知りえないよね。僕も教えちゃだめってきつく言われてるし。でもさ、科学で心は変えれるよ。科学は世界を変えようとしてきた。心も、脳の働きも、人間の体も変えようとしてきたわけよ。科学って結局さ、現代社会最大の宗教だよね。強力で、野蛮で、アンモラルで、世界最強に理不尽で選民思想な科学の力を信頼してるならさ、君は科学教の信者だよ」
「僕はそこまで科学を信頼してません」
「じゃあ、何を信頼してんのかな」
 僕は何を信頼しているのだろう。
「信頼ってさ、人の言葉に頼って、人の言葉によりそって、その人と一緒に生きていこうって決めることじゃない? ただ、誠実でありなさい。誠実であれば、君は人類全体の阿修羅コンプレックスに、最終解決をもたらすことができるであろう」
「最終解決って、また大げさな」
「もちろん阿修羅コンプレックスが過ぎ去った後も、科学教が滅びた後も、人類はまた重大な危機に直面するよ。それはまた未来の話。とりあえず君は誰に対しても、誠実に振舞ったらいいと思うよ」
「そんなお説教で問題はぐらかされても、納得いきません」
「誠実とは、言を成して、実りあるものにすることだよ。君は自分の言葉が実現するよう、日々生きているのかな? 意志や思考が実りあるものになるよう、毎日誠実に生きているかな?」
 シュレーディンガーの猫の青い目が輝く。
「人間ってさ、自分自身の頭の中で鳴り響く言葉通りの人生を生きていくんだよね。人類もさ、人類自身の頭の中で鳴っている言葉に従って、歴史を作ってるって思うんだよね。歴史が実りあるものになるためには、何を成せばいいのかな」
「たまに夢を見るくらいです」
「みんなが他人事だと思って夢の世界に生きていたら、夢は空想で終わっちゃうよね。誠実な夢を見ることだよ。周りの人たちに実りをもたらす夢を見たらいいと思うけどねえ」
 黒猫が室内を駆け回った。飛び跳ねる猫の足が、フローリングの床の上におかれていたフラスコ瓶にぶつかった。瓶の中に入っていた緑色の液体が床に広がる。泡立った液体から、灰色のスモッグが生じてきた。
「はい、これで一回目の治療終わりね。よかったら今度本物の阿修羅、連れてきてよ。僕、まだ本物の阿修羅に会ったことないんだよね」
 なんだ、やっぱりこの猫、偽物じゃないのか。本物のシュレーディンガーの猫は、この宇宙とは別の宇宙にいるんじゃないか。
「そうそう、一つ大切なこと伝えるの忘れてたよ。君は、元いた世界に帰れないよ。僕を見て、僕と話した君は、もうそれまで存在していた君とは別の情報体になったんだよ。僕から注入された情報を元に、君の量子の配分は、一から組みかえられた。プラスはマイナスに、マイナスはプラスに。わかるかな、わかんないだろうねえ。これからの君は、反転した世界を体験するだろうけど、どっちが表の宇宙でどっちが裏の宇宙かなんて、本当はないんだ。ただ人間の解釈によって、人間が作った法によって、表か裏かが決まっているだけなんだよね。話が難しくなっちゃったね。ごめんごめん、じゃ、またいつか、遊びにきてよ。その時は一緒に遊ぼうよ」
 黒猫の体が、濃いスモッグに包まれて峰なくなった。
 スモッグが目に入ってくる。僕は目をつむった。


ペルソナ19 等身大フィギュアのスペース


 スモッグが晴れると、僕は先ほどまでの部屋とは別の個室にいた。壁に黒板がある。小さな部屋の真ん中にある机に、市丸電子が学生服を着て座っていた。紺のブレザーに水色のチェックのスカート。人工生命高校の女子生徒用に、プロのアニメーターが作った制服と同じデザインだ。
 学生服を着た市丸電子は顔一つ、腕二本の姿になっていた。
「何か文句ある?」
 市丸電子を見つめたまま、僕がだまっていたせいか、怒られた。
 窓の下にはグラウンドが広がっている。ここは人工生命高校の二階にある狭い個室のようだ。
「ここ、学校かな?」
「そうみたいだね。あんたも制服着てるし」
 市丸電子に言われて気づいた、僕は紺のブレザーとギンガム柄のパンツをはいて、赤いストライプのネクタイをしめている。こちらはミレニアム・フォックスがペイントソフトで制作した人工生命高校男子生徒用の学生服だった。
「大我、どこ行ってたの?」
「市丸さんは? 腕と顔が元に戻ったってことは、シュレーディンガーの猫に会えた?」
「また会えなかった。今まで茨に囲まれた門を選んでたけど、今日は天使の門を選んでみた。そしたらここの部屋に来たってわけ。腕と顔は元に戻っていたけど」
「よかったね。シュレーディンガーの猫に会えなくてもよかったかもしれない」
「大我は? シュレーディンガーの猫に会えた?」
「会えたよ」
「本当に? どうだった?」
「んー、まあ想像していた猫とはまるで別物だった」
 会いたい想いを募らせている市丸電子の頭の中には、シュレーディンガーの猫の理想像ができあがっているだろう。僕はあの黒猫について、市丸電子に詳細を語るのはやめにしようと思った。ネトゲーしてたとか、阿修羅コンプレックスの人に会ったことがないと言っていたとか、真相を伝えて彼女のイメージを壊したくない。
「大我がシュレーディンガーの猫に会えたから、私の体が元に戻ったのかもしれないね。ありがと。感謝してあげるわ」
 いい加減むかついたから、市丸電子とは、ずっとため口で話すことにしよう。
「ずっとそこに座ってたのか?」
「ドアを開けたら、真っ暗な空間だった。窓から飛び降りて外に出ようかとも思ったけど、窓も開かないんだよね」
 僕は黒板の横にあるドアをひいてみた、ドアの向こうには学校の廊下が広がっている。
「真っ暗じゃないじゃん」
 廊下にいる生徒何人かと目があった。彼女たちは人間じゃなく、等身大のフィギュアに見えた。
「さっきまでドアの向こうはブラックホールみたいに真っ暗だったのに。大我が来たせい?」
 市丸電子がドアから顔を出して、廊下を見回した。
「一つ気になることがある。僕と君が着ている服は、僕の会社でデザインした制服だ」
「大我の会社は、学生服販売してるわけ?」
「違うよ。パソコンの中で生きる人工生命を創造したり、歴史のIFを思考実験したりしている。大きく言えば、情報技術、IT関係の職場だ」
「パソコンのグラフィックソフトでデザインした洋服を中国の工場で製造して、ネット販売してるとか」
「違う」
「もったいぶってないで、さっさと説明しなさいよ」
 ああ、こわいこわい。そうやってマネージャーとか共演者を困らせてきたんじゃないだろうか。
「この制服は、僕らが育成している人工生命の高校生たちが通う高校の制服なんだ。廊下にいる彼女たちの顔にも見覚えがある。ここは、僕らが仮想空間内に構築した人工生命高校かもしれない」
「は? 人工生命って何?」
「人工的に作られた情報集積体だよ。自分自身の頭脳で考えて、判断して、生きていくことができる。死ぬし、繁殖もする。パソコンの中で命を送る、人工の情報生命体だ。君の顔に張りついていたエヴァとハンナも人工生命だよ」
「とにかくこの部屋を出ましょうよ」
 二人で廊下を歩いた。学校の中は騒がしい。吹奏楽の演奏、ロックバンドの演奏、とんかちを叩く音。机と椅子を教室の後ろに集めて、黒板の前で演劇の練習をしているクラスがあった。焼きそばひとつ三百円の看板が教室の入り口の前に掲げられていたり、メイド姿の女子高生が、ダンボール箱を持って廊下を歩いていたり。ただしみんな十代の人間じゃなく、等身大のフィギュアに見える。
「学園祭の一日前って雰囲気だね」
「僕が会社で作っている人工生命の学校でも、ちょうどもうすぐ学園祭なんだよ。やぱりここは、バーチャルリアルの情報空間だ」
「私たちが、コンピューターのハードディスクの中にある情報の一部になったって言うわけ?」
「生徒たちの体を見てみなよ。人間には見えないだろ」
「そうだけど、私と大我の体は人間に見えるでしょ」
「市丸さんの阿修羅の顔に、僕が監察していた美少女キャラ二人の顔が出てきた。バーチャルリアルの世界のキャラクターが、現実の人間の体に憑依することがあるんだから、現実世界の人格が、バーチャルリアルの世界に移動してもおかしくないんじゃないか」
「ありえないわ」
「とにかく、誰かに話を聞いてみよう」
 僕らはアイドルソングが鳴り響く体育館の中に入った。よく聞いた歌だ。ステージで踊っている体操着姿の女子高生二人は、エヴァとハンナだった。
 ステージ上の二人のパフォーマンスより、体育館に寝そべっている巨大ロボットに目がいった。白塗りのロボットが、広い体育館いっぱいに体を横たえている。
「ちょっとすいません。このロボットなんですか?」
 ロボットのメンテナンス部品を持って走っている体操着姿の女の子に声をかけた。
「ヨハネの黙示録ですよ。あなたたち、うちの高校の生徒なのに、ヨハネの黙示録のこと知らないんですか?」
 ツインテールで丸いめがねをかけた女の子が、僕と市丸電子の顔を覗きこんだ。
 そうだ、僕と市丸電子は高校の制服を着ている。自分たちと同じ人工生命高校の生徒だと、めがねっこの等身大フィギュアに判断されてもおかしくない。
「ごめんなさい。こいつ、昨日転校してきたばっかりで、何も知らないんです」
 市丸電子がテレビでしゃべる時のような猫なで声で、ヘルプしてくれた。
「ヨハネの黙示録は、明日の学園祭最大の出し物ですよ」
 めがねっこの声は、アニメの声優っぽいはっきりしたトーンである。
「ヨハネの黙示録ってロボットですか?」
「そうです。下半身と、胴と、上半身の三体のパーツにわかれるんですよ。胴にコクピットがあって、戦闘機にもなるんです。明日は生徒会長のアドルフが、パイロットとして乗りこむ予定です」
 アドルフ。ミレニアム・フォックスが所有している人工生命の美男子か。
「これ、誰が作ったんですか?」
「もちろん私たちロボット研究会ですよ」
 めがねっこが自慢げに胸を張る。
 僕らは礼を言って、ツインテールのめがねっこと別れた。
「おかしいな。ロボット研究会なんてサークル知らないし、学園祭のメインイベントにロボットが出るなんて話、聞いてないぞ」
「あんな以外の社員が、企画してたんじゃないの?」
「企画があれば、必ず社内ミーティングの席で話題になる。僕は学園祭全体のスケジュール管理にも関わっていたんだ。体育館で巨大ロボット建造なんて知ってなきゃまずいし、ヨハネの黙示録なんて初耳だ」
「開発者の人間たちに内緒で、人工生命たちが勝手に巨大ロボットを開発したんじゃない」
「そんなはずはない。人工生命たちは、人間に内緒では何もできないよう、プログラムで制限されているんだ」
「そのプログラムを人工生命たちが外したとしたら?」
 市丸電子が微笑む。人工生命の少年少女たちは体操着姿で、体育館に横たわる巨大ロボットの整備を続けている。ステージではエヴァとハンナのライブ練習が続いている。
「よくわかんないけどさ、人工生命って自分たちで知能を持つようプログラムされてるんでしょ。人間に内緒で、自分たち自身で進化発展できてもおかしくないじゃない」
「ああ、けれど彼らの成長は、僕らが定めたプログラムの範囲内に限定されている」
「だからその、自分たちを制限するプログラム自体を書き換えることもできるんじゃないの? 私たち近代人と神様の関係を思い出してみたらいいじゃない。バイオテクノロジーを発展させた人間ば、遺伝子を操作できるようになったし、人工授精、クローン技術、ES細胞、いろんなバイオテクノロジーを仕えるようになったでしょ。それこそ今まで神の領域だと考えられてきたレベルまで、人類は科学の力で踏みこむようになった。知識を創造発展させるようプログラムされた人工生命は、創造主である人間の想定外のレベルまで、自分たちの知性を発展させるかもしれない。人間に隠れたところで、人間を滅ぼす技術を開発するかもしれない」
「人工生命は僕たちの監視の目から逃れることはできない。僕たちは、いついかなる時でも、彼らの行動を監視しているんだ」
「じゃあ、ヨハネの黙示録って何? 大我は知らなかったんでしょ。その終末を予感させる計画の名前を。人工生命に隠されたんじゃない?」
「僕が知らないだけで、人工生命チームの中心にいるマネージャーとかは知っているのかもしれない。一般社員には内緒で、役職者たちが、サプライズ企画を進行させていたのかもしれない」
「そうだといいけどね。私は誰も知らないところで、人工生命が人間を追いやる計画をしてると思うけど」
 ミレニアム・フォックス、ヌース、バイオスなど、才能のある人間たちが開発した人工生命だ。大丈夫、人工生命たちは開発者のコントロール下におかれているはずだと信じたい。
 僕と市丸電子がステージの下に来たところで、音楽が止まった。ダンスを終えたエヴァとハンナに、ディレクターらしき人間が指示を出している。
 僕とハンナの目があった。ハンナの顔に驚きの表情が広がる。
「お兄さまじゃないですか」
 ハンナが叫ぶ。
「お兄様、どうしてここに?」
 エヴァとハンナがステージをおりて、僕らのところにやってきた。二人とも、僕の顔を覚えてくれていたようだ。
 エヴァもハンナもパソコン上で見慣れた電子美少女キャラの姿のまま、等身大サイズになっていた。
「こいつら、私の顔に出ていた二つの顔にそっくりだ」
 市丸電子がエヴァとハンナの顔を見比べる。
「だから言ったろ」
 市丸電子の顔に張りついていたエヴァとハンナの顔は、人間ぽかったけど、今目の前にいる二人は、等身大フィギュアに見える。全体の雰囲気は、市丸電子の顔に現れていた時と共通している。
「お兄さま、ようこそ我が校へ」
「ああ、偶然来てしまったよ。エヴァとハンナは、この女の子のこと知ってる?」
「ええ、知ってます。市丸電子さんですよね。お兄さまとお姉さまと一緒に見ていたテレビに、よく出ていたアイドルさんですよね」ハンナが答える。
「多角的阿修羅コンプレックスにかかって、芸能活動休止中でしたよね」エヴァが冷めた声でつけ加える。
「彼女の顔についさっきまで、エヴァとハンナの顔がついていたんだよ。それは初耳?」
「そうなんですか。知りませんでした。でもよかったですね。阿修羅コンプレックスが治ったみたいで」
「エヴァとハンナに記憶はないようだけど、二人の顔は時空を超えて、市丸電子の阿修羅の二面になったんだ。僕らが現実からこっちのスペースに移行しても、やっぱり不思議じゃないな」
「そうですね。前例もありますし」ハンナがそう言うと、エヴァもうなずいた。
「え? 前例があるの?」
「はい。前に一名だけ」
「現実からこっちのヴァーチャルリアルのサイバースペースに?」
「その方は、こちらの宇宙はヴァーチャルリアルでなく、現実のスペースとなんら変わらない、もう一つの宇宙だと言っていました」とハンナ。
「人間たちは、自分たちが住む宇宙をリアルのスペースだと解釈しています。同じように、私たちは自分たちが暮らすこの宇宙をリアルのスペースだと感じています。私たちにとっては、みなさんが暮らしている世界の方が、仮想現実空間だったんですよ。どっちがリアル、どっちがバーチャルリアルということじゃなくて、両方ともリアル。どちらも並び立つ別々の宇宙です」とエヴァ。 


ペルソナ20 親子丼との対話


「ちょっと二人とも。練習再開しないと。時間は限られてるんだから」
 ステージ練習終了後、エヴァとハンナに指示を出していた男子生徒が近寄ってきた。近くに来てみて、彼がヌースの飼っているマルティンだと気づいた。そういえば、マルティンは、自分自身アドルフと一緒に歌う予定があるけど、エヴァとハンナの演出監督も担当していたんだった。
「ごめんなさい。つい盛り上がっちゃって」
 ハンナが頭を下げる。
「すいません。しばらくお話していたいんですが、他の団体のステージ予約も入っているものですから、いったん歌の練習に戻ります」
「時間をとらせて悪かったね。最後に一つ質問。僕たちより前に、僕らのいた宇宙からこっちの宇宙にやってきた人間には、どこに行けば会えるかな?」
「校長室です」
 校長室? この高校には校長や教頭もいるはずだが、かわいい生徒たちに気を奪われていたせいか、校長がどんな人か記憶になかった。
「ありがとう。会いにいってみるよ」
 巨大ロボットヨハネの黙示録のことなど、エヴァとハンナに聞きたいことはたくさんあったけれど、僕と市丸電子は校長室に向かった。
 体育館を出て、一年生の教室前を通る。校長室は、階段を上って二階にある教務員室の向かい側だ。この学校の作りは、僕の頭の中にしっかり記憶されている。パソコン画面で見ていた高校の中を、歩くことになるとは思っていなかったが。
 階段を上って折り返し地点にきたら、2階からサッカーボールほどの丸い物体が転がってきた。転がってきたというか、丸い物体が階段を飛び跳ねて下りてきたのだ。
「痛い!」
 市丸電子と丸い物体が当たった。
「ちょっと危ないじゃないですか」
 声を出したのは、丸い物体の方だった。
 注意してみると、そいつはどんぶりの器だった。
 ふたのついたどんぶりの器に、目と口がついている。目と口の形からして、どんぶりの器が怒っているように見える。
「まったくもう。もう少しで具が落ちるとこでしたよ」
「大我、こいつ何?」
「知らない」
 聞かれても困る。
「知らないって本当ひどいなあ。僕は、親子丼ですよ」
 どんぶりが頭を下げた。どんぶりのふたが少し宙に浮く。
 どんぶりの中に、玉子焼きに包まれた鶏肉が見えた。湯気がたっている。匂いもこうばしい。おいしそうな親子丼だ。
「あなたたちがよく食べている親子丼じゃないですか。まったくもう、どういう神経してるんですか」
「親子丼って、こいつも誰かが作ったプログラムなわけ?」
 市丸電子が後ずさりする。階段でぶつかったのが親子丼で、親子丼にきれられたら、そりゃひくだろう。
「僕はプログラムじゃありませんよ。生きている親子丼ですからね」
「生きているって、もう調理されちゃったんでしょ」
「そう、確かに僕は親子丼になる前、卵と鳥と、米とねぎに別れて楽しい生活を送っていました。けれど、料理されちゃった後、僕は親子丼として、別の新しい生命を得たんですよ。誰かの口の中に入って、食べられて、その人の生命維持に利用されるまで、僕は立派な親子丼です」
 親子丼が誇らしげに自分自身の、親子丼としてのアイデンティティーを語った。
「子ども向けのアニメで、鍋とかフライパンとか、パンとかごはんとかがしゃべるのあるけど、あなたもそんな感じなのね」
「まあそんなところですよ」
「しゃべっているあなたの目と口は、親子丼の食べ物の方じゃなくて、器の方についているけど」
「器もまた親子丼という料理の一部ですからね。器もね、こうして器になる前は、土や鉱物でした。器になる過程で、職人の魂が入って、器としての命を得たんですよ。その後、米とか鳥の命が足されて、僕は今ある親子丼の姿になったんですねえ」
「見た目からすると、職人が精魂込めて作ったっていうより、工場で大量生産された器っぽいけど」
「工場で作られていたとしても、器には作った人の魂が入りますよ。機械が作ったとしても、機械の設計者の魂が、機械を通して入ってきますからね」
「今しゃべっている器のあなたは、食べられないんじゃないの?」
「食事が終わった後、器の方の僕は洗われて、別のどんぶりに生まれ変わるんですよ。今度は牛丼かもしれないし、豚キムチ丼かもしれません。器は、ぼろぼろになるまで、別の生命の命を運び続けるんですよ」
「で、その親子丼が、階段を下りてどこに行こうとしてるんだ? 普通の親子丼は、そんな雄弁にしゃべらないもんだぞ」
 僕が親子丼の語りを止めた。おかしい。この人工生命高校の中では、現生人類に類似した人工生命のみ培養されているはずなのに、親子丼がしゃべりだすとは、バグだろうか。
「僕は今から、ヨハネの黙示録に参加するため、校内飛び回ってます」
「ヨハネの黙示録って、あの体育館にある巨大ロボットの?」
「そうです。一つの宇宙に滅びが訪れる。僕らは宇宙の滅亡に参加するのです」
「滅亡? あのロボットって、世界を破滅させるパワーでも持ってるわけ?」
 市丸電子が頭をかきながら質問した。親子丼の話を本気だと思っていない。
「そうです。一つの世界に終焉がきます。誰も避けられません。この黙示録的状況はですね、みなさん人類の選択によるものです」
「ヨハネの黙示録を企画したのは、校長なのか?」と僕。
「ええ、これは教育委員会にも内緒で進められている、わが校独自の極秘計画なんです。て、あなたたち、うちの高校の生徒じゃないんですか」
「ごめんね。こいつ、昨日転校してきたばかりなの」
 僕らをあやしみ始めた親子丼をおいて、階段を上り、校長室に向かった。


ペルソナ21 ミツメ量子


 教務員室前は、他の区域の喧騒に比べて、静かだった。
「親子丼の言った教育委員会というのが、僕たち開発者の側をさすなら、教育委員会に内緒でヨハネの黙示録開発を進めたという校長先生が、勝手に人工生命のプログラムを改竄してるかもしれないな」
「校長がヨハネの黙示録を使って滅ぼそうとしているのが、この高校がある宇宙だったらいいけどね。もう一つの、私たちが暮らしていた宇宙の方なら、大変なことになるよ」
 僕たちが暮らす宇宙からただ一人、こちらの宇宙にやってきたという校長先生。彼のところに僕らが抱えているいろんな問題が集積しているのかもしれない。
 僕と市丸電子は、教務員室の向かい側にある校長室の前に立った。ドアの上に「校長室」と白い筆文字で書かれている。
「いくよ」
 市丸電子がドアをノックする。
 返事はない。市丸電子が勢いよくドアをひいた。
 校長室の中には、生徒用の机と椅子がおかれていた。人工生命高校の学生服を着た女生徒が座っている。黒板もある。ソファーとか書棚とか、校長室っぽいものはおいていない。
 女生徒が僕らの方を向いた。彼女は腕が六本、顔が三つあった。阿修羅コンプレックスだ。
「何これ?」市丸電子がボソッと言った。
 机に座る女生徒の正面の顔は、市丸電子だった。左側にはエヴァの顔が、右にはハンナの顔がついている。僕らを見つけた阿修羅コンプレックスの市丸電子の方も、驚いている。
「そっくりさんじゃないよね?」
 校長室の天井近くにブラックホールのような穴があいた。高校の制服を着た男が落下してくる。
 僕だった。僕は六本腕を生やし、三つの顔を持っていた。左の顔はアドルフ、右はマルティンだ。
 校長室の床に落下した僕は、僕らと、机に座る阿修羅姿の市丸電子を確認して、挙動不審になっている。自分の体に腕が六本、顔が三つあることに気づいたもう一人の僕は、意識を失い倒れた。
「ちょっと大我、何ここ、校長室とか言って、私たちが最初にいた部屋と同じじゃない」
「時空がねじれてるのか、校長の策略か」
「もう一人の私とあんたに、阿修羅コンプレックスが発症しているのはどういうわけ?」
「この部屋は、僕らが暮らしていた宇宙でもなく、人工生命が生きる宇宙でもなく、三つ目の、別の宇宙かもしれない。僕がシュレーディンガーの猫に会えない選択をした場合、たどりついていただろう第三の宇宙」
「その宇宙に私たち、足を踏みこんじゃったってわけ? どうにかしてよ」
 僕にどうにかしろって言ったって、どうもできないだろ。
「とりあえず校長室から出よう。じゃ、もう一人の市丸さん、お元気で」
 僕と市丸電子は、阿修羅コンプレックスを発症しているもう一人の僕と市丸電子を部屋に残して、校長室から出た。
 廊下は部屋に入る前と変わらない職員室前の廊下だった。校長室のドアをしめる。
「どうやったら校長に会えるんだろう」
「もう一回、ドアを開けてみたらいいんじゃない? 今度は別の宇宙につながるかもよ」
「そんな危なっかしいことできないだろ」
「この高校から出て、元にいた世界に戻らないといけないでしょ。危険でもいいから、猛一度校長室のドアを開けようよ」
「そう言ってもな……」
 階段で出会った親子丼の言っていたことが本当だとすると、明日学園祭の当日、巨大ロボットヨハネの黙示録によって、僕らが暮らしていた宇宙が滅亡することになる。宇宙が滅亡するというのは、宇宙の存在自体がなくなるということだろうか。人間から見ればネットワーク上のサイバースペースに暮らす人工生命たちは、自分たちの創造主が消滅した後も、自律進化を続けるのだろうか。
「ちょっと失礼。部屋に入らせてもらえますか?」
 スーツを着た若い女性の等身大フィギュアが、廊下に立ち止まっている。ロングヘアーで、背筋もぴんとしている。彼女の体は、塗料スプレーを噴射されたかのように、服も含めてムラなく真っ赤だった。真ん中からわけられた彼女の額には、三つ目の瞳があった。
「もしかして、あんたが校長?」
「そうです。私が校長のミツメ量子です」
 彼女が微笑むと、額にある三つ目の瞳が、円を描いて回転した。
「この部屋は校長室じゃなくて、別の宇宙になってるよ。」
「かまいません。入りましょう」
 ミツメ校長がドアを開いた。校長室の中には、広いデスクと黒革のソファーがおかれている。黒板も生徒用の机はない。先程まで部屋の中にいた多角的阿修羅コンプレックスの僕も市丸電子もいない。
「さっきまでと違う」
「ここはあなたたちが暮らしていた宇宙よりも、自由になる部分が多い、カオティックナな宇宙だということをご了解ください。私に話があるのでしょう。さあ、お入りください」
 僕と市丸電子は革張りのソファーに腰掛けた。校長は内線電話でコーヒーの用意を頼んだ後、向かいのソファーに腰掛けた。
「ようこそ。わが校へ。これもマクスウェルの悪魔と、シュレーディンガーの猫の導きです」
 校長が微笑むと三つの瞳が同じタイミングで柔らかに動く。
「ミツメ校長先生、あんたなんで全身真っ赤なわけ? 凶悪な不良生徒にいたずらされちゃったとか」
「今日はたまたまです。いつもこうではありませんから」
「たまたまでも、人間の世界でそんな格好してる人はいないけどね。やっぱりここ、変だよ」
 ミツメ量子が微笑んだ。
「校長、あなたはそんな格好しているけど、人工生命じゃないんですよね? 僕らと同じ宇宙から、こっちの宇宙にやってきた、人間なんですよね」
「私は人間ではありません。O―157です」
「Oー157って、一昔前ニュースでやってた大腸菌のひどいやつ?」
「いえ、私の番号です」
「番号?」
「そうです。私は人間に、番号で呼ばれていました」
「あなたは、人間じゃなくて、プログラムか何かですか?」
「プログラムではありません。生命体です。もちろん生命もプログラムや情報と表現できますけれど、通俗的な意味では、私は生命体でした」
 ジャージ姿の美人の女先生がコーヒーを運んできた。
「うちの高校の近くで栽培した豆を使っています。どうぞ、召し上がってください」
 人工生命の世界で初めて飲食物を口に入れた。
「どうですか? お味は」
「僕らの世界で飲むコーヒーよりおいしいくですね」
「こちらの宇宙は、あなたたちの宇宙から見れば、デジタル情報の世界でしかない。しかし、高校が存在するこのあたりのプログラムのみ、書き換えています。高校の生徒たちは、近所の農場で栽培飼育された飲食物を口にしています」
「人工生命高校の自然環境は、日本の関東地域の環境に近似させて設計していますが、おいしいコーヒー豆を栽培できるんですか? 何かバイオテクノロジーを使ったりしてるんですか?」
「コーヒーを栽培するビニールハウス内の環境を調整しています。私たちは大量生産をしないし、大量廃棄もしない。高度な科学技術、バイオテクノロジーを持っているけれど、環境を破壊しないように技術を使っている。そこがこちらの宇宙と、あなたたちが暮らしていた宇宙との最大の違いでしょうね」
「僕らの会社がプログラムしている以外のことを、別に制御している人がいたなんて、知りませんでした。校長からたくさんのことを教わりたい」
「そんな話は後にしてよ。今はこいつが誰かってことと、何を企んでるのかってこと、それに、私たちが元いた場所に帰れるかどうかが重要でしょ」
 市丸電子がコーヒーカップ片手に声を張り上げる。
「そうだったな。ごめん。まず一つ、あなたは何の生命体なのか?」
「これを見てください」
 ミツメ校長が手をかざした。真っ赤な手のひらの中心に目があらわれる。目から光が放たれ、空中にスクリーンが浮かび上がる。
 スクリーンの表面に個室が映っている。部屋の中には、美少女フィギュアやプラモデルがたくさんおいてある。ミレニアム・フォックスが部屋に入ってきた。鞄をマンガ雑誌の上においたミレニアム・フォックスが、服を脱ぎ始める。
「大我、何このキツネ男?」
「ミレニアム・フォックス。人工生命プロジェクトの中心人物だ」
 裸になったミレニアム・フォックスが、自分の表皮に手をかけた。キツネの皮がはがれていく。皮の下から、光り輝く別の皮膚が現れる。女性だ。今目の前にいる、ミツメ校長の光り輝く全裸が、スクリーンにあらわれた。
「ミツメ校長は、ミレニアム・フォックスだったってことですか?」
「そうでもあるし、そうでもないです」
 ミレニアム・フォックスは、入社当初からキツネの姿だったはずだ。キツネの皮の中に入っている人間、いや、生命体が、ミツメ校長なのか。運動会や学園祭を企画しておいて、裏では内緒で巨大ロボットを作っていたのだろうか。
 映像が別の部屋に切り替わる。今度の部屋には、ヨーロッパ映画のポスターが張られており、インテリアは北欧の家具でまとめられている。部屋の中にスーツを着たどくろが入ってきた。どくろがスーツを脱ぐ。
「この気持ち悪いがいこつ何?」
「ヌース。通称どくろコンプレックスの男。今は、みかると一緒にシュレーディンガーの猫を探して、秋葉原をうろついてるはずだ」
 そういえば、みかるからも、ヌースからも連絡がない。二人は僕をおいてどこに遊びに行っているのだろう。
 全裸というか全身どくろになったヌースの体が黄金色に光り始める。光る骸骨に臓器が浮かび上がってくる。臓器の周りに、真っ赤な筋肉の膜がおおいかぶさる。続いて皮膚、髪の毛も浮かび上がってくる。どくろのヌースが、黄金に輝くミツメ校長の全裸に変わった。額には、三つ目の目が開いた。
「あなたは、ヌースでもあるんですか?」
「どくろの姿は、見せかけです」
 続いて映像は居酒屋の一室にきりかわる。上司のバイオスと、バイオスの友人インドラと一緒に、たぬきが酒を飲んでいる。
「今度は何? たぬき出てきたけど」
 市丸電子はあきれている。
「タヌキヌタ。たぬきのコスプレをしているうちの会社の名誉顧問だ」
 バイオスとインドラが、タヌキヌタを社内接待しているようだ。タヌキヌタは両腕に二人を抱えて、高笑いしている。
「あんたの会社は、キツネにたぬきにがいこつに、妖怪ごっこでもやってるわけ?」
 タヌキヌタが席を立つ。えろ化けたぬきがいなくなった途端、バイオスとインドラは険悪な顔になって、口早に文句を言い始めた。 
 映像が切り替わった。トイレに向かうタヌキヌタをカメラが追いかける。
 女性トイレの個室に入ったタヌキヌタが、スーツを脱ぎ、たぬきの皮もとった。たぬきのコスプレの中から、黄金色に輝く全裸の女性の姿が出てくる。これまたミツメ校長だ。
「あなたは、タヌキヌタでもあった?」
「そうです。狸のコスプレは、仮の姿」
「つまり、向こうの宇宙では、三つの別々の人格だってこと? それがこっちの宇宙では、一つの人格に融合している?」
「こちらの宇宙で私は今、一人であるかのように喋っていますが、本当のところはそうではありません」
「今のあなたは、複数人格の集合体か何か?」
「人格ではありません。私はヒトではなく、別の種ですから」
「ミツメ校長。あなたの目的はなんだ?」
「ヨハネの黙示録」
 ミツメ校長がデジタルコーヒーに口をつけた。


ペルソナ22 キメラ、あるいはマジカルSFアイデンティティー


 先程コーヒーを持ってきてくれたジャージ姿の美人先生が、どんぶりを三つ運んできた。
「はい、できたてのどんぶりでーす」
 テーブルに大きなどんぶりが並ぶ。
「牛カルビ丼と親子丼と豚角煮丼があります。よかったら、お好きなものを召し上がってください」
「ちょっと待って。この中にさっき階段でぶつかったあの親子丼がいるんじゃないの?」
 市丸電子が嫌そうな顔をする。
「ミツメ校長。僕らはここに来る途中で、親子丼と話してきました。僕らの世界で親子丼が人格を持っているかのように振舞うことはないけど、階段ですれ違った親子丼は、個体としての意思を持ち、僕らに自己のアイデンティティーを主張してきました」
「こちらの宇宙では、全ての物質、情報がアイデンティティーを持っています。今は私以外、みんなだまっていますけど、テーブルもソファーも、私たちと語り合うことができるんですよ」
「なんだかここに座っているのが、気持ち悪くなってくる話ですね」
「人類は自由意思を持たない存在と付き合うのはそこそこ得意だけれど、自由意思を持たない存在は無碍に扱う傾向がありますからね。さ、冷めないうちに好きなものを選んでください」
「私、豚角煮丼」
 市丸電子がコラーゲンたっぷりに見える豚角煮丼を手に取った。僕は牛カルビ丼の器を取った。ミツメ校長が残った親子丼をひきよせて、両手をあわせた。
「いただきます」
 深く響く厳正な祈りの声。このどんぶりもデジタル情報だろうけど、本当に、食物の恵みに感謝している言葉の重みがあった。
 僕と市丸電子も手を合わせて、「いただきます」と償いの祈りを捧げた。
 箸にとっていざ口をつけると、牛カルビ丼はとてもうまい。
 ミツメ校長が、一口一口丁寧に親子丼を食べていく。全身真っ赤に塗装された等身大のフィギュアが親子丼を食べている様子は、傍から見てあやういけど、全身から厳粛な気が漂っている。親子丼を食べる時間に、こんなに真剣になっている人、いや生命体を初めて見た。
「いただきますとは、これから口にする命に感謝の祈りを捧げることです。自分以外の命を犠牲にして、生き延びている。犠牲にしてきたものに対する責任の心を忘れた時、人は暴力的になります」
 ミツメ校長にそう諭されながら、食事をすると、牛カルビ丼が大変ありがたいものに思えてくる。この牛カルビは、人工生命高校近くの牧場で飼育され、大きく育った牛が元なのだろう。
「食事が終わった後も、ごちそうさまと犠牲にした命に祈りを捧げる。動植物の命を糧に、毎日生きていることを忘れないようにしましょう」
 僕ら三人は食事後、両手をあわせて、「ごちそうさまでした」と唱和した。
「ごちそうさま。お説教はわかったわ。あんたはヨハネの黙示録を使って、人類というか人類が暮らす宇宙を滅ぼそうって考えてんの? 怒らないからはっきり言いなさい」
 市丸電子が体を前にのめらせて、ミツメ校長に挑みかかった。
「黙示録的状況は、すでに実現しつつあります。私が手をくださなくても、世界は終末を迎えるかもしれない」
「何言ってるかぜんぜんわかんないよ。噛み砕いて説明しなさい。あんたは、宇宙を一つ滅ぼそうとしてんの?」
「宇宙は毎日万秒何万個と誕生しては、すぐに消えています。宇宙とは不変の客観的存在物ではない。釈迦の手の平の上で泡立っては消えていくバブルに過ぎません。たまたまバブルが続いているから、宇宙が不変のように見えるだけ」
 ミツメ校長が両手を頭上に広げた。真っ赤な左右の手のひらの中心に目が浮かび上がる。顔にある三つの目と、手のひらに浮かんだ二つの目が光り輝く。五つの目が光る直線で結ばれ、五芒星の形が浮かび上がってくる。
 星形が強く光った後、ミツメ校長の赤い服が破け、真紅に染まっていた体は肌色になった。ソフトビニール樹脂製の等身大フィギュアに見えた全身は、人間の肌の触感に見えるようになった。
 手は何百本にも増殖し、四方八方に広がった。千手観音なみの手の数だ。
 正面の顔は、牛の顔になった。額に三つ目の瞳がある牛の顔のまわりに、キツネの顔、タヌキの顔、骸骨の顔他、何個も顔が、重なってくっついている。よく見ると、バイオス、インドラ、エヴァ、ハンナ、アドルフ、マルティン、みかる、市丸電子、僕の顔もついている。千手観音の牛女。
「化け物かよ」
 横に座る市丸電子の方を見た。市丸電子の体は、等身大のフィギュアに変わっていた。まさかと思って、僕の体を見たら、僕の体もソフトビニール樹脂に変わっていた。
「何が起きたんだ?」
 大きな声を張り上げてみた。体を動かす感覚は、フィギュアになる前と変わらない。
「あなたたちの体を黙示録化した元の宇宙に返してあげます」
 牛の顔になったミツメ量子がしゃべる。牛の顔を見ていたら、以前夢で、牛男のテロリスト集団と会ったことを思い出した。
「ミツメ量子、お前は牛なのか?」
「言ったでしょう。私は実験番号O―157。牛の体に人間の脳を移植された、人造のキメラです」
「何言ってんのあんた。全然わかんない」
 市丸電子が強気の声を出したが、声音は恐怖で震えている。そりゃ自分が等身大フィギュアになり、千手観音化した牛女がしゃべっていたら、市丸電子でも怯えるだろう。
「食用の牛に人間のES細胞が移植された。私はあなたたちの宇宙において存在を許されない異形のキメラです。だから、こちらの宇宙に逃げてきた。ヴァーチャルリアルのサイバースペースならば、私のような空想上の怪物の存在も許容される。こちらの宇宙では自由の領域が多いですから」
「お前は、誰に作られたんだ?」
「ヴァリシズム。歴史のIFです」
 ミツメ量子が牛の目に涙を浮かべている。
「ちょっと待ってよ。私たちはどうなっちゃうの? 何の答えにもなってないでしょ」
「答えは、牛と豚と鳥が指し示してくれるもの。命を食べて生きている人たちのIFのペルソナ、IFのキメラ。わたしはアルファであり、オメガである。創造的発展を遂げたアイデンティティーが、黙示録的次元に突入したあなたたちの宇宙に出現するでしょう」
 ミツメ量子の千手観音ばりの手が僕と市丸電子に向けて伸びてくる。
 たくさんの手に、フィギュア化した僕の体をつかまれる。市丸電子は悲鳴をあげる。
 光が体を包みこむ。光の中にたくさんの数字が見える。0、1、0、1、0、1、666、O―157。
 僕と市丸電子は、元の宇宙に戻るのだろうか。戻った後、僕は別次元にあるこちらの宇宙で見聞きした事象を体内の記憶装置に保持できるだろうか。


ペルソナ23 ヨハネの黙示録


 秋葉原にみかると一緒に行った日、フィギュアショップで出会ったヌースのヘルプもむなしく、シュレーディンガーの猫を探し出すことはできなかった。
 その日の夜、人気アイドル市丸電子が、自宅のマンションから飛び降り自殺したというニュースが流れた。
 市丸電子はマンションの屋上から飛び降り、即死した。ネットの巨大掲示板に流れた不確かな情報によると、多角的阿修羅コンプレックスだった市丸電子についていた左右の顔と、四本の腕は、剥ぎ取られていたという。マンションから飛び降りる前に二つの顔と四つの腕を、自分自身で剥ぎ取ったのか、誰かに剥ぎ取られたのか。自殺なのか、他殺なのか、事件の真相は、他の重要な事件と同じように、マスコミに公表されることはないだろうと思えた。
 翌日、人工生命高校で、待望の学園祭が行われた。エヴァとハンナは体育館に設けられた特設ステージでずっと特訓していた歌を披露、アドルフとマルティンのコンビとともに、全校生徒と僕ら開発者集団の人気を集めた。
 学園祭のラスト、ステージに立った生徒会長のアドルフが、最後のプログラムを行うと宣言した。
「これから学園祭のメインイベント、ヨハネの黙示録を起動します」
 ヨハネの黙示録? そんな話、学園祭企画書のどこにも書いていない。特設モニターを見つめる人工生命チームのみんながざわついているうちに、体育館の床が盛り上がってて、地面から巨大ロボットが現れた。
 ロボットは足まで届くパーテイードレスを着て、胸には金色の帯を締めていた。頭と髪の毛は、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は精錬されたメタルのように輝き、声は売れっ子アニメ歌手のとどろきのようだった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようだった。
「誰だ? こんな異形のロボットプログラムしたやつは?」
 ミレニアム・フォックスが叫ぶ。ヌースをはじめ、みんなが押し黙る。
 ラッパの音が鳴り響くと、巨大ロボットが体中からミサイルを発射した。ミサイルが校舎を爆破する。たくさんの死者が出る。僕たちも慌てる。
「何だこれ? タヌキヌタのおっさんの仕業か? こんなひどいことするのは誰だ?」
 みんなで騒然とする中、モニターの画面を突き破ってロボットの体がオフィス内に現れた。ラッパの音が鳴り響くと、ロボットが身につけているパーティードレスの股間から、虹色に光る巨大な蛇が何匹も現れた。
 人くらいの大きさのロボットと蛇がオフィス内を駆け回った後、ロボットと蛇は窓を突き破って空の彼方へ飛んで消えた。
 怪我人も破損もなかたが、会社全体のパソコンがオールシャットダウンした。歴史想像チームのパソコンも含めて、全端末だ。
 電話をかけて、サーバーセンターを呼び出そうとしたが、電話もつながらなかった。携帯電話も全員不通。会社の外のネットワークまでいかれたようだ。
 結局その日、世界中のネットワークが遮断された。携帯、メール、インターネット、ラジオ、テレビ、通信が全てつながらない。飛行機は落下し、カーナビも機能停止した。「大断絶」の事実をニュースで知ったのは、数週間後の話だ。
 通信が途絶えた大断絶の日、僕は歩いてマンションまで帰った。テレビもネットも使えないから、静かな部屋でパワーヨガをしていたら、深夜、みかるが帰ってきた。
 ヴァリシズムで異変が起きたのと同時刻、みかるのエステサロンでも、電話、インターネット等、通信回線が使えなくなったそうだ。サイバーテロというやつだろうか。しかし、事態はそれだけではなかった。
 翌朝、目を覚ますと、僕の体に腕と顔が増えていた。六本の腕、三つの顔、阿修羅コンプレックスの発症だ。ついに、僕の体も阿修羅の体となったのか。通信断絶もあったし、怖くなったので、その日は会社を休むことにした。みかるに食糧の買出しに行ってもらった。通信断絶の影響か、食料品が少なくなった近所のコンビニに入って、みかるは驚いた。レジに並ぶ人、コンビニの店員、全員に阿修羅コンプレックスが発症していたのだ。歩道を歩く人、車を運転する人、全員が阿修羅になっていた。
 数日後、ようやく届いた紙媒体のニュースで、世界中の人たちが、阿修羅の姿となったことを知った。
 世界中の通信ネットワーク網を破壊したサイバーテロの犯人と、阿修羅コンプレックスの人類一斉開花とは、関係しているのだろうか。そもそも、人工生命高校から現実世界に出現し、空に消えたあのロボットが、これらの事件と関係しているのではないか。
 阿修羅コンプレックスは、誰かが仕組んだバイオテロなのだろうか。それとも、大断絶も阿修羅コンプレックスも、人類とは別種の知的生命体が仕組んだ、人類に対する暴力なのだろうか。事件の原因をつきとめるまで、僕は生きていたいと思った。
 通信ネットワークが遮断したことが原因か、阿修羅になってしまったことが原因か、世界中で戦争、紛争、暴動が起きている、らしい。不正確な情報がわずかしか入ってこないから、現代世界の全体像をはっきりつかめないけれど、人類は歴史上最大の危機に直面している、らしい。もともと大きな危機に直面していたのに、気づかず生きていただけかもしれないが。
「はい、親子丼」
 みかるが親子丼を出したのは、大断絶および人類全員阿修羅化から、半年ほど経過した雨の日曜日だった。僕は会社を辞めて、郵便配達人の仕事についていた。みかるは大断絶前と変わらず、エステティシャンの仕事をしていた。
 水と食糧の争奪戦が日常化した当時、親子丼は高級食であり、見るのも久しぶりだった。
「親子丼なんてどこで見つけたんだよ」
「空から降ってきた?」
「空から?」
「うん。空から、多分。ベランダにおいてああったよ」
「そんなあやしい親子丼、食べることできるか」
「せっかくだから食べようよ。きっとおいしいし。もう親子丼なんて食べられないって思ってたし」
 テーブルに親子丼が二つ並ぶ。
「こんなのも一緒においてあった」
 みかるがビクビクビタミンの瓶を二本テーブルにおいた。ビクビクビタミンを見るのも、大断絶の前以来だ。
「あやしいなこれ。毒でも入ってるんじゃないか」
「別に毒を飲んで今死んじゃっても、たいして問題ないでしょ。親子丼食べられるんだから。こうしてみるとさ、親子丼って随分豪勢な料理だよね。ご飯の上に鶏肉と卵のってるんだもん。昔はファストフードのお店で、五百円以下で食べることができたのにさ。昔はすごかったんだね」
「大断絶が起こる前の社会では、大規模工場みたいな農場で鳥が飼育管理されていたしね。食肉工場で鶏肉をさばけたし、運送システムも整っていた。今や江戸時代に逆戻りだ。親子丼なんて高級食、もう食べられないんだろうな。やっぱり食べようか」
 僕とみかるはテーブルの上にのった親子丼を見つめながら、両手をあわせて「いただきます」と言った。
 卵と一緒に、鶏肉を口に含める。久々に食べた卵と鶏肉がおいしい。今や親子丼は、高級食であり、貴重な資源である。昔から親子丼はかけがえのない恵みだったのかもしれないけど、恵みだと思えなかった。世界中の情報と断絶した今は、恵みがわかる。何故だろう。
 大断絶が起きてから、みかると話す機会が増えた。以前は情報量に圧倒されていて、二人とも忙しく、ぎすぎすしていたが、今は二人とも時間に余裕があり、たっぷり話し合うことができる。ネットも携帯もテレビも使えない分、一緒に暮らす人たちと話す機会が増えた。
 世界中で今も戦争、紛争、テロが続いている、らしい。ネットもテレビもラジオも使えないと、信頼できる情報源はわずかだ。
 人類は阿修羅の姿になった自分たちの存在を受容できないのだろうか。全員が阿修羅なのだから、もう人類は、阿修羅なのではないか。
 今、人類はひょっとして、試されているのだろうか。異形の阿修羅の姿になったとしても、慌てず、騒がず、自分たちを受容できるのかどうか。通信手段を奪われても、混乱することなく、文化的生活を続けることができるかどうか。
「おいしいね、この親子丼」
「ああ、誰が届けてくれたんだろうね」
「わからないけど、ごちそうさまですって伝えておこうか」
 僕とみかるは食事後、ビクビクビタミンを飲み干してから、両手をあわせて、「ごちそうさまです」と祈った。
 大断絶が起きる前は、ごちそうさまですと言う時間もないほど、仕事と情報に追われていた。今は「ごちそうさまです」と言う余裕がある。
 親子丼と漬物の器を洗って、ベランダに出た。
「久しぶり」
 狭いベランダにピンクのねずみの着ぐるみが立っている。声は、きつそうな女の子の声音だ。
「誰だ?」
「答えは、牛と豚と鳥が指し示してくれるもの。覚えてないわけ?」
 僕は身構えた。変質者が親子丼を利用して、無差別殺人を企んでいるのだろうか。
「誰かいるの?」
 キッチンからみかるが顔を出した。
「ああ、彼女があなたの連れね。はじめまして」
 みかるが、ねずみの着ぐるみを見て、目をぱちくりさせている。
「みかるには手を出すな」
「やっぱり忘れちゃったか。そうだよね」
 ねずみの着ぐるみが、ねずみの顔に手をかけた。
 ねずみの顔の下には、髪の毛、顔、首まで真っ青に塗った女の子の顔があった。この様子だと、全身真っ青に塗っていそうだ。
 顔の質感は、人間というより、ソフトビニール樹脂のフィギュアに見える。
「思い出した?」
 彼女の顔は大断絶前、謎の死を遂げたアイドル、市丸電子だった。
「市丸……電子?」
「そう、市丸電子。断絶した向こうの宇宙と、接触を回復するには、大我、あなたの力が必要なの。二つの宇宙は切り離された。けれど、また隣接させることは可能なはず」
「みかる、どうする? 変な人がやってきた。警察呼ぼうか」
 電話もないから、警察まで走って呼びにいくしかない。警察官に頼るより、近所の武道家に頼った方が手っ取り早い。
 近くで銃声がした。市丸電子の着ぐるみに銃弾が当たる。やばい。いよいよ警察か武道家を探しに行った方がいい。
「来ちゃったね。ごめん、部屋にあがるよ」
 許可もしていないのに、市丸電子が部屋に足を踏み入れた。
「すまないが出てってくれ。僕はいいけど、みかるを危ない事件に巻きこみたくない」
「私の体を観測した以上、あなたたちも狙われる。一緒に逃げましょう」
 市丸電子がねずみの着ぐるみを脱いだ。やはり彼女の体は、身につけている下着を含めて、塗料で塗りつぶしたように真っ青で、等身大のフィギュアのようだった。
(了)


<付録1:『マジカルSFアイデンティティー』あらすじ>
大我は株式会社ヴァリスの人工生命チームで働く社員。大我と同棲しているエステティシャンのみかるは、阿修羅コンプレックスという腕六本、顔三つになる病気にかかっている。大我は上司のバイオス、どくろ姿のヌース、キツネの格好をしているミレニアム・フォックスらと一緒に、人工生命の美少女を育成する仕事をしつつ、奇妙な夢を見つつ、食事に対する感謝の気持ちを持とうとしていた。

大我とみかるは、阿修羅コンプレックスを治療可能という闇クリニック「シュレーディンガーの猫」に向かう。シュレーディンガーの猫に会った後、大我は阿修羅コンプレックスのアイドル市丸電子と一緒に、ネット上にある人工生命の高校に飛ばされる。大我たちは、人工生命高校の校長をしているミツメ量子に会う。彼女は牛に人間のES細胞を移植して生まれたキメラだった。ミツメ量子は、「ヨハネの黙示録」という人類滅亡計画を企んでいた。

現実世界に戻ってきた大我は、ネットの世界にいた頃の記憶をなくしていた。人工生命高校の学園祭を行っている最中に、世界中のネットワークがダウンする大断絶が起きる。大断絶の翌日、人類全員に阿修羅コンプレックスが発症する。大段絶後、みかると一緒に暮らす大我の前に、死亡ニュースが流れた市丸電子が現れたところで、物語が終わる。



<付録2:『マジカルSFアイデンティティー』推敲の過程でカットした箇所>
(草稿1)
 僕自身に、権力は感じられない。僕の周りには、みかる、ヌース、バイオスなど強力な存在がたくさんいる。しかし、アリにとって僕は、強力でおそろしい権力者ではないか。僕はアリをふみつぶすことができる。たたきつぶすことができる。僕はアリにとって、凶悪で暴力的な生物、破壊者であり、神だ。
 力をコントロールすること。よい方向にコントロールすること。
 アリのために、アリの命を思って生活する必要など、実生活上、ない。アリのためを思わず毎日暮らしても、僕の命は平穏安泰だ。しかしそれは僕個人の命に限っての話であり、何百何千年という長期の時間軸で考えれば、僕という人間が、アリという別の種の幸せを願うことは、とっても必要なことではないか。
 何故か。
 考え始めるとまた長くなる。考えこむのはほどほどにして、生きているアリの姿をイメージしてみよう。僕の目の前にアリが生きて、さまよっているイメージを持ってみる。アリなんて、中野に住んでいるとなかなか見ないけれど、視界にアリのイメージを再現してみよう。僕がかつて体験した、アリのイメージ。小学生の頃、友達と一緒に見た、グラウンドを歩きまわるアリ。僕はアリを何気なく指でつぶす。一つの命が死に絶える。そこから僕の現在まで、膨大な時間が経過した。僕が小学生の頃、指でつぶしたアリの命について、何かできることがないだろうか。祈るだけだろうか。忘れないように記憶しておくことだけだろうか。
 失った命はもう取り戻せない。今。目の前にいる命にせめて、信愛の心を持って接すること。
 玄関の鍵が開く。みかるが帰ってきた。
 みかるに仕えよう。愛する命に仕えるために、今僕は、他の命を毎日摂取しながら、生きている。

(草稿2)
 昨日、東京都の都議会選挙があった。地球上最も文明的、文化的なグローバル都市で行われた選挙の結果、与党が大敗した。僕は投票しなかった。投票の案内もこなかった。来たかもしれないが、見ずに捨てていたかもしれない。以前は、僕一人投票したところで、何も変わらないと思っていた。マスコミがどんなに与党を批判しても、与党は大勝していた。何を言っても変わらないのだ。そうあきらめていた。昨日は、僕が投票せずとも、野党が勝つだろうと思っていた。僕一人投票するしないに関わらず、時代の大きなうねりの中で、政権交代が起きていく。きっとそうだ。僕やマスコミがどうこう騒いだところで、無力であり、平家物語のように政権交代の栄枯盛衰がなされていく。
 政治に対する絶望。無力感。願いが実現する時でさえも、ニヒルであり、離れたところで観察を続ける。そんな観察者の立場はもううんざりだ。僕が時代状況を観察しているだけで、政治に干渉している。
 世界に起きているあらゆる事象は、観察者の干渉から逃れることはできない。観察者は、観察対象との混合から逃れることができない。
 これもまたヌースが語った言葉だ。僕は博学のヌースの影響を受けすぎている。自分で考える習慣を身につけよう。他者の思考によりそっていては、ヌースのコピーでしかない。完全なるオリジナルなんて、この地球生命のプールの中で、誰一人としていないだろうけれど、自分はかけがえのないオリジナルな情報なのだと、ひとりよがりに誤解して、人生という情報を価値あるものに変換することはできる。

(草稿3)
「人間は何故、殺戮ばかり繰り返すんだろう。十九世紀の人間は、天然自然の資源がもっと豊富にあると思っていた。もし地球上で自然の資源が尽きても、宇宙空間に旅に出て、別の惑星に移民すれば、人類は無限に発展できると思っていた。けれど、所詮それは夢物語だったのだ。人類は地球の外で長期生存できない。科学技術は地球の外で人類が生きる方法をいまだ見出していない。地球という惑星の環境がどれほど素晴らしい、恵まれたものなのか、我々人類はようやく気づきつつある。人間は、地球の外に地球を作れないのだよ。地球と同じ環境の惑星を見つけられてもいない。十九世紀の人間が理想的に考えたよりも、人類はよっぽど知的でなかったということだ」
「科学技術を磨く代わりに、戦争、殺し合いばかりしてきた」
「そうでもない。平和で愛に満ちた活動もたくさんあった。けれど、地球人はいまだに殺し合いを続けている。国連も何もこの争いをとめることができず、右往左往している」
「僕たちは無力なのか。力も知恵も足りないのか」
「力もありすぎる。知恵もありすぎた。自分たちの種を破滅させかねない科学技術を生み出したが、それを扱いかねている」
「倫理的知識が足りない?」


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