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小説『あなたは国際交流コンプレックスです』

最終更新日:2009年6月28日



一 アンナのピエロ


 僕は一体どれほどの外国人と交流してきただろう。
 カリブの小説家、ナイポールの国際色豊かな小説を読んでみて、ケイは自分が生きている世界の狭さを思い知った。
「狭い、狭すぎる。僕は狭い」
 ケイが低い声で唸り声をあげる。
「何がさ?」
 煙草を吸いながらハンドルを握っているアンナが答える。
 ちなみにケイとは、このテキストを記録している僕のことである。
 アンナとは、僕が記録したテキストに、精神鑑定のまがいものみたいな我流の分析を加えているセラピストのことである。
 アンナ本人は、自分のことをセラピストと言わない。精神科医でも、心療内科医でも、ヒーラーでもないと言う。
「じゃあ何なの」と聞くと、「私は私以外の何者かである」と、象徴派の詩人みたいな答えをする。
「どんなところで治療を受けているんだ」と知り合いに聞かれて、「私以外の何者かであるアンナのところだ」と答えると、話がややこしくなるばかりなので、ケイはアンナのことを便宜的にセラピストと呼んでいる。
 ケイはアンナが運転するスーパーカーの助手席に座っている。この車はスーパーカーと表現するのがふさわしい、ケイが子どもの頃読んだ科学雑誌に載っていた、未来の自動車と同じ容貌をしているのだから。スーパーカーはしかし音速で空を飛ぶわけもなく、ケイとアンナ以外は誰もいない遊園地の敷地内を超低速で回遊している。
「僕の世界は狭い。今までの人生で、外国の人と楽しんだ経験がなかった」
「嘘。太宰治みたいに、現実を悲観的にねじ曲げて認識してるだけだよそんなの。生まれる前からさかのぼって、自分の歴史を語りなおしてみたら、わかるんじゃない? 自分の外交性が」
 アンナは煙まじりの息を吐きながら、抑揚のない声を出している。ケイはアンナの意見に納得いかない。しかし、アンナに反論する気も起きない。
 アンナは一応メンタルクリニックを開業している。無免許無資格、大学で専門の学習を積んだわけでもない。ある日突然神様から「もう神格は不要だ。人格の問題に取り組みなさい」とお告げが来たそうだ。
 一部上場企業の正社員だったケイは、仕事中、突然全身の筋肉に激痛が走り、慢性の筋肉痛に陥った。箸を持つだけで頭のてっぺんまで痛みが走る、働けない体になった。
 医者にみてもらっても原因不明と言われる。占い師にすがりつくと、墓参りをちゃんとしなさいと説教される。自分の人生は、三十歳半ばで終わったのではないかと諦めかけていた時、ケイはアンナに出会った。
 腕はわからないが、型破りなことは確かな、精神科医ともカウンセラーともつかぬ定義不能な女を知っている、会ってみてはどうかと、大学時代の友人に勧められた。いざ会ってみたら、ケイは毎日のように、クリニック「アンナのピエロ」敷地内にあるテーマパークに連れ出された。無人のテーマパークは、アンナの父が用意してくれた治療スペースだという。
 あなたには、遊びが効果的なのよとアンナは言う。何故効果的かはわからないが、ケイは通院の度、メリーゴーランドに乗ったり、ジェットコースターに乗ったり、大観覧車に乗ったりした。今週はずっとスーパーカーに乗って、遊園地内をドライブしている。
 時折、乗り物の陰に、人影を見る。怯えた眼をした彼らは係員というわけでなく、心にしこりを抱えた人のように見えた。
「彼らも患者?」と聞くと、「気にしないで、幻覚よ」とアンナは不吉なことを言う。ケイは、アンナが下手な嘘をついていると思っている。
 長時間助手席に座り続けたせいか、ケイの腰、背中、肩の筋肉が痛み始めた。脳に痛みの神経信号が押し寄せているが、ケイ自身は、外国人と交流してこなかった自分の過去が気になって仕方ない。
「思い返してみたって、僕の人生、周りに日本人しかいなかった。君だって日本人だ」
「何言ってるの? 私は日本人じゃないけれど」
 外見やしゃべり方から判断して、ケイはアンナのことを日本人だと思っていた。
「ごめん。僕の勝手な思いこみだったようだ」
「嘘だよ。私、父も母も日本人」
「何だよ。意味のない嘘つくなよ」
「私の娘はハーフだけどね」
 アンナのことを独身だと思っていたから、ケイは驚いた。いや、結婚してはいないかもしれない。未婚のシングルマザーという可能性はある。死別やけんかで離婚したのかもしれない。経験からの判断を、アンナにあてがうのは難しい。そもそも娘がいるということ自体、嘘の可能性が高確率だが。
「ぐだぐだ逃げの口実考えてないで、過去を真正面から見つめなおしてみて。はい、今日のテキスト決定ね。課題は、あなたの国際交流コンプレックスを振り返ること」
 アンナがアクセルを踏んだ。こんなにスピードが出る乗り物なのかと驚くほど、スーパーカーがスピードを出した。
 遊園地の入り口付近のスーパーカー乗り場に向けて、二人を乗せた車が高速で突き進む。ケイはカーブで吹き飛ばされないよう、手すりを必死でつかんだ。
 アンナの治療はシンプルだ。自分のことを三人称で語るテキストを記録し、通院時提出することが一つ。テキストを提出した後、アンナとケイの二人きりで、遊園地をめぐることが一つ。その二つだけ。
 ケイはまだ治療の効果を実感していない。役に立っているとも思えないが、美人で変人のアンナに会うの楽しいから、通院が続いている。楽しいという感情こそ、生きる支えになるのかもしれないが。


二 生まれる前の昔話


 ケイは田舎者の日本人である。ケイの国際交流コンプレックスを探るために、彼の出生前から記録を掘り返してみよう。
 ケイの母親の実家は、新潟県北部の村にある。新潟県と山形県をつなぐ国道からそれて、田んぼに挟まれた細長い道を進んでいく。竹林の奥に民家が集まった小さな村がある。古びた造りの民家ばかりで、商店はない。スーパーやコンビ二などあるはずもない。
 母の家は、代々神主の家系だった。家系図を遡れば、神武天皇までたどりつくという。新潟に来る以前は、本州中央の野尻湖付近にいた一族だという。神武天皇は神話的存在だし、家系図の正当性は眉唾ものだが、神主はみな天皇家の血筋にあるという風説を信じれば、子どもだましのような家系図の存在も許される。
 母の祖父、ケイの曽祖父は、神主をしつつ、村長の仕事もしていた。戦前の社会では、神主という仕事は、現代よりも影響力が大きかった。
 曽祖父の妻は、ケイの祖父と数名の子を産んで、亡くなった。曽祖父は、新しく若い女を嫁にとった。
 後に祖父の元にも嫁が来た。祖父の嫁は、曽祖父に嫁いで来た女の妹だった。曾祖母と祖母は姉妹で、ケイの母方の実家に嫁いできたのだ。戦前の社会では、よくあることだった。
 母は一九四一年、東条内閣が成立し、ヒトラー率いるドイツ軍がモスクワに総攻撃をかけ、日本が真珠湾に攻撃した年に生まれた。母の祖父は、曽祖父と亡くなった曾祖母の間に生まれた子どもだ。新しい曾祖母と母は、一見血のつながりがないように思えるが、曾祖母と祖母は、姉妹である。母と曾祖母は、遠回りに血のつながりを持っていると言える。
 神主の家で、曽祖父の家族と、祖父の家族が一緒に暮らした。曽祖父の妻と祖父の妻、血を同じくする姉妹の子どもが、時を同じくして産まれていった。幼い子どもたちは、太平洋戦争を挟む暗い時代を、神主の家で過ごした。
 曾祖母にとっては、自分が腹を痛めて産んだ子どもたちと、血のつながっていない息子と妹の間に生まれた子どもたちが、一緒に食卓を囲むことになる。母たちは、曾祖母の子どもたちに比べて、少ない飯を盛られたという。
 母が幼い頃、空が真っ赤に染まったことがあった。新潟市へのアメリカ軍の空襲だった。終戦後、アメリカ軍は、実家近所の村上市にも上陸していた。
 母の弟、ケイにとっての叔父は、終戦後、京都の神社に神主の修業に出された。叔父は、京都で嫁もとったのだが、神主の修行中に失踪した。辛い修業が嫌だったのだろう。叔父は母の家族とも、嫁とも連絡をとらず、行方不明となった。
 跡取り息子のいなくなった神社は、祖父の夜遊びもたたって、借金が膨らんでいった。借金のかたに、昔は広かった屋敷が取り壊され、先祖から伝わる宝物も売りさばかれた。
 当時の文学少女よろしく、トルストイの『戦争と平和』、ブロンテの『嵐が丘』、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』、『千夜一夜物語』の日本語訳を読んでいた母は、他の親戚たち同様、実家を離れ上京した。
 年老いた曽祖父は早くに亡くなったが、祖父と、曾祖母と祖母の姉妹は長生きした。
 ケイは、父方の親戚は従妹までよく知っていたが、母方は実家にいる曾祖母と祖父母の顔しかよく知らなかった。母方の親戚は県外に散らばっており、顔を見たこともない人が多かった。ケイが行方不明の叔父の存在を知ったのは、成人後のことだった。
 父方の親戚の家で、昔のアルバムを見ていたら、白黒写真の中に、母によく似た顔の男がいた。この人は誰かといとこに聞けば、Xであるという。母の親戚には似た名前の人が多くて、ケイは区別がつかなかった。そういう名前の親戚もいたかなと思ったら、写真の男は、ケイの叔父さんだという。その場で初めてケイは、自分が生まれる前から、叔父が行方不明だったことを知った。
 行方不明の叔父がいると、両親から聞いた記憶はなかった。幼い頃に知ってしまえば、他人と違って面白いから、学校の友達に面白おかしく話して聞かせていたかもしれない。ケイは両親が世間体と子どもの自尊心を考慮して、行方不明の叔父のことを秘密にしていたのだろうと思った。


三 殺戮、あるいはショック療法


 アンナはティーカップに揺られながら、ケイが書いたレポートを読んでいる。ケイはティーカップの遊覧を楽しむのでもなく、レポートの続きを書いている。
 はじめの章を読み終わって、アンナは不機嫌な顔になる。アンナは原稿をティーカップのテーブルの上にたたきつけた。
「何これ? あなた自身のこと、ほとんど書いてないじゃない。母親の実家の話ばかり」
「もうすぐ父と母が出会う。僕が生まれるのは二人が結婚して、仕事が一段落ついた後だ。幸せな家族計画って言うだろ」
「早く書きなさい。文章のテーマはあなた自身の国際交流コンプレックスの歴史。お母さんの実家の話じゃないの」
「そうせかすな。君は僕のセラピストだろ。リラックスさせてくれよ」
 まともに出社できなくなったケイは、アンナのもとに来るまでずっとマンションの部屋でテレビゲームをしていた。一つは核戦争後の世界をサバイバルする主人公の人生を追体験するゲーム、一つはアイルランド生まれのギャングとして、アメリカ西海岸の街で自由に暴れるゲームだった。アンナが課した課題で社会復帰の助けとなるのか、ケイには疑問だった。
「私はセラピストなんかじゃない」
「ああ、私は私以外の何者かだ、てやつね」
「とにかく、早く書き終わらないと、今日帰れないんだから。あなた自身のためにも、集中してよね」
 アンナは次回通院時まででなく、今日中にテキストを書き上げるようケイに命じた。
「何故」と聞けば、「それが一番きくのよ」と答えが返ってきた。インフォームド・コンセントなど、アンナとは無縁のようだ。
「他に患者はいないのか」と聞けば、「今日の診察はあなたで最後」だと言われる。
 ケイはアンナの申し出を、心の中では嬉しく思った。ケイ自身はアンナと話すことを喜びとしている。レポートを書き上げないうちは、アンナとテーマパーク内で、ずっとしゃべっていることができる。
 ティーカップはたった二人の客を乗せて、ゆっくりと回っている。ショッキング・ピンクの熊の着ぐるみが寄ってきた。ショッキング・ピンクの熊は、七色の風船を持ちながら、頭を左右に振って、おどけた様子で二人を見ている。
「何あいつ? 君んとこの助手か誰か?」
「観てわかるでしょ。くまさんよ」
「ピンクの熊は、地球に存在しない」
「夢と潤いがないのよ、あなたには」
 子どもが見れば喜ぶのだろう。大人のケイは、着ぐるみの中に入っている男は汗だくなのだろうと想像してしまう。アンナはオレンジ色のサングラス越しに熊を見ながら、冷めた顔つきで煙草を吸っている。
 銃声がした。熊の着ぐるみが持っている虹色の風船が破裂する。遠くの丘の上に、ライフルを構えている軍人姿の男たちがいる。風船わりの曲芸か何かと思っていたら、銃弾は熊の着ぐるみにも命中した。
 熊の着ぐるみから、赤い血が噴き出た。無抵抗の熊に何発も銃弾が当たる。熊の体が蜂の巣状態になる。
 熊の着ぐるみが、血だまりに倒れた。
「おいおい、これ何? 本当に殺されたんじゃないの?」
 ケイはレポートを書く手の動きを止めて、殺戮の光景を見入っていた。軍人たちは、ライフルの構えをほどいて、丘の向こうに走って消えた。
「ショック療法のアトラクションよ。大丈夫、全部トマトケチャップだから」
 ケイとアンナは、熊の着ぐるみの死体を残して、次の乗り物に向かった。


四 誕生、少年時代


 一九六〇年、日米安全保障条約が延長され安保反対闘争が盛り上がった頃、ケイの母は、銀座有楽町にある洋風レストランで働いていた。周りに商店もない田舎の村から、所得倍増計画が発表され、活気づく東京の一等地に出てきた母は、同僚と銀座で映画を見たり、劇場に足を運んだりして、東京都を楽しんだ。
 レストランでケーキを作っているコックの若者が、同じ新潟の出身であると母は知った。本人に話を聞けば、隣の村の生まれであるという。街を歩いても、見知らぬ人とばかりすれ違う東京で、同郷の男と知り合った母は、その男に恋をした。
 新潟出身の男と女は、東京で交際を続けた後、結婚した。
 ケイの父は、一九四〇年、日独伊の三国同盟が締結され、大政翼賛会が結成された年に生まれた。父の実家の周りにも、店は一軒もない。時折雑貨を積んだ軽トラックが行商にやってくるだけで、周りは山と田んぼと畑に囲まれている。
 父の実家は山で木を切り、木材を売って生活していた。父の兄弟は戦時中の貧しさのせいか、九人中五人が幼いうちに亡くなった。末っ子の父を産んだ後、父方の祖母はすぐ他界した。
 日本史の教科書に出てくる大和の豪族の氏「あずみ」と呼ばれる父の出身地は、大和の時代と変わらぬ、水田の原風景を今でもたたえている。小学校が村の近くにあるが、中学も孤高もバスと電車を乗り継がないと、通学できない。大和の時代、あずみ氏が日本全国に水田技術を広めた頃、たどりついた北端が、おそらく父の出身地だろうとケイは推測していた。
 父と母は、横浜で新婚生活を営んだ後、新潟に帰ってきた。父は新潟各地に洋和菓子店をチェーン展開する地元の企業に就職した。
 父は新潟市内にある本社の工場で、県内各地に配送するケーキを作った。
 新潟市内の安アパートで暮らす二人の間に娘ができた。三島由紀夫が割腹自殺し、よど号がハイジャックされ、大阪万博が開催された一九七〇年、ケイの姉が生まれた。
「新潟県最北の村上市に店を出すので、店長にならないか」と社長が工場で働く父に声をかけた。村上は夫婦の実家も近い。父はケーキ作りの仕事を辞めて、知り合いの少ない村上で店を始めることに承諾した。
 村上市のあたりには大化四年(六百四十八年)、蝦夷の侵略に備えて、磐船の柵が築かれたと日本書紀にも残っている。関西から九州に中心勢力を持つ大和朝廷にとって、東北の地は蝦夷の住処であり、中央の文化から離れた辺境だった。
 ケイの両親は、夫婦二人で店に立つことになった。仕事で忙しかったため、娘は村上の隣、中条町にある父の姉の家によくあずけられた。
 店が軌道に乗るまで、ケイの両親は子をもうけるのを控えることにした。日中国交正常化、沖縄復帰、ロッキード事件、日航機ハイジャック事件も過去のものとなり、日本の戦後が形を成し始めた一九七八年、ケイが生まれた。
 一九七八年の五月二十日、新東京国際空港(現成田空港)開港の翌々日、ケイは母の腹から出てきた。ケイが産まれた翌日の五月二十三日には、第一回国連軍縮特別総会が開幕した。時代の変化を告げるニュースも、長男の誕生を喜ぶケイの家族の上を素通りした。
 ケイは週のうち、三、四日、幼い頃姉もあずけられた中条の親戚の家で過ごすことになった。父の姉は専業主婦をしており、子どもの面倒をみる余裕があった。
 ケイが週二、三日しか実家にいないせいか、八つも歳が離れているせいか、ケイと姉は疎遠になった。姉が見たいテレビ番組、音楽やマンガの趣味と、ケイの趣味は異なる。ケイにとって、歳の離れた姉の趣味趣向は、異文化と思われた。
 ケイは村上の幼稚園に入り、小学校、中学校と進学した。小学生の頃まで、外国人との出会いはない。街中で、ごくまれに歩いているアングロサクソン風の男性とすれ違うのみで、外国人の姿は、テレビや映画で見るのが普通のことだった。
 少年時代のケイにとって、ニュース番組に出てくる各国の首相は毎年同じ顔だった。日本は中曽根総理大臣、アメリカはレーガン大統領、イギリスはサッチャー首相、フランスはミッテラン大統領。何年も同じ顔ぶれだ。
 一九八五年、ケイが村上小学校に入学した年に、毎度お馴染みの顔ぶれにゴルバチョフ書記長が加わった。この他、中国がニュースに出てくればケ小平の顔があったし、北朝鮮には金日成がいた。
 こうしたお馴染みの面々の政治が続く中、ケイはテレビにファミコンをつないで遊んだ。


五 ジェットコースター


 十五人掛けのジェットコースターの先頭に座る。乗客はケイとアンナのみ。後ろの座席には誰も座っていない。乗車券を確認したり、乗車時の注意を説明する係員の姿もない。
「何休んでるの。続きを書いてよ」
「え? これジェットコースターだろ。書いたら危ないだろ」
「何常識言ってんのよ。まだ小学生だし、一人も外国の友人出てきてないじゃん。さっさと書いてよ」
「そんな急かすなら、ジェットコースターになんて乗らなきゃよかったのに……」
「急かすために乗ってるんでしょ。あなたには、緊迫感が足りないの! ほら、書いて」
 ジェットコースターがゆっくり運転を始めた。はじめのうちは、スピードもない。この速度のままなら、書き進められそうだ。
 ケイはレポート用紙と万年筆を取り出した。万年筆は「アンナのピエロ」を訪ねた初日に、アンナから与えられたものだ。
「これは私からの無料のプレゼント。しっかりした造りの筆記具で書く余裕が、人生には必要なの。ま、治療が終わったら返してもらうんだけど」
「別れたらプレゼント返せと言っているみたいで、余裕が感じられないな」とケイが皮肉を言うと、「つきあっているわけじゃないんだから、勘違いしないでくれる?」と言い返された。思い返せば、初診の時に、このクリニックの異常さに気づくべきだったと、ケイ は後悔し始めていた。
 坂を下るとともに、ジェットコースターの速度が上がってきた。
「本当に、今この場で書けって言うの?」
「当たり前でしょ。だいたいなんで、生まれた年に起きた出来事なんて語っているの?」
「当時の事件を挿入すれば、僕の家族の国際性のなさを埋めることができるかと思ってね」
「笑わせないでくれる? いい? 私が書いて欲しいのは、あなた自身の外国人との交流。それだけよ、わかった? 書けないからって、別のことを書くあたりなんて、本当国際交流コンプレックス臭くてやな感じ」
 アンナが話している途中から、ジェットコースターが高速で動き始めた。ケイは絶叫したが、アンナは表情一つ変えず、だまったままでいる。
「僕なんて、外国の友は一人もいない」
 宙返りを終えて、スピードがとまったところで、ケイがささやく。
「嘘よ嘘。妄想的にねじ曲げられた認知の歪み。思い出しなさい、迂回ばかり続けてないで」
 アンナが言い終えると共に、ジェットコースターが逆方向に猛スピードで滑車していく。ケイは体が背中の方に強く引っ張られるのを感じつつ、また悲鳴をあげた。
 アンナは声を少しもあげない。
「アンナ、ジェットコースターに乗ろうと言ったのは、君じゃないか。楽しくないのか?」
「何言ってるの? 楽しいわよ」
 そう語るアンナの声も不満げだ。
「ジェットコースターは絶叫して、恐怖を疑似体験するから楽しいんじゃないのか」
「どれだけ恐怖に耐えられるか、自分の忍耐能力を試すためのおもちゃでしょ、これ」
 ジェットコースターが乗車位置まで戻って、動きをとめた。
「楽しかったね。降りましょ」
 アンナが気だるげにシートベルトを外す。
「アンナ、声が楽しげじゃないよ」
「何? 一体私にどうして欲しいの? はしゃいでいれば、楽しく見えるわけ?」
 アンナが手を腰に当てて、ケイを睨んでいる。
「ごめん、少し感情的になりすぎたわ。常識からみたら、私は楽しんでいないように見えるかもしれない。けれど、私個人は心から楽しめているの。つまらなそうに見えても、気にしないで。多分、いつでも楽しんでいるから」
 ケイはアンナに初めて謝ってもらったように感じた。
「ありがとう。アンナの言葉を信頼することにするよ」
「そんなこと言ってるとだまされるよ」
 何なんだこいつは。
 ケイはアンナのようないい加減な相手に治療を頼んだことが、馬鹿らしく思えてきた。今回が最初ではないのだが。
「人を見かけで判断してはいけない。自分の基準と過去の経験から、判断してはいけない。その人の感じ方は、自分とまるで異なるかもしれないんだからね。ほら、次のアトラクション行く途中も、書いて書いて」
 ケイはテキストの記録に追い立てられた。


六 中学、高校時代


 一九八六年、チャールズ皇太子とダイアナ妃が来日すれば、ケイは一般の日本人みたくダイアナ妃の美しさに惹かれた。一九八九年、ケイが小学四年生の冬休み、昭和天皇が崩御した。同じ年にリクルート事件、連続幼女殺害事件が起きた。
 中国で天安門事件が起きても、ルーマニアでチャウチェスクの独裁政権が崩壊しても、アメリカ軍がパナマに侵攻しても、ドラクエとテトリスに夢中な少年のケイにとっては、テレビの向こう側にある外国のニュースに過ぎなかった。
 一九九〇年、ベルリンの壁が崩壊し、アメリカがイラクに侵攻しても、小学六年生のケイにとってはファミコンと、この年発売されたスーパーファミコンの方が重要だった。
 一九九一年、湾岸戦争が勃発して、ソ連がついに崩壊した時、ケイは村上第一中学に入学した。ケイは中学校で初めて、アメリカ人の知り合いを持った。アンダーソン先生である。
 ミスター・アンダーソンは英語の特別講師として、時たま中学校に顔を出した。背が高く、ブロンドのアンダーソンは、青いワイシャツに薄いグレーのスーツを着こんで、いつも笑顔をたたえていた。
 地元村上の方言でしゃべる五十歳近い教師が担当する英語の授業に、アンダーソンが顔を出す日もあった。
 授業中にケイとアンダーソンは何かしら話したのだろうが、ケイは何を話したのか覚えていない。ケイはただ、全校集会の体育館、教師の間に立つ背の高いアンダーソンのスーツ姿だけ覚えていた。
 一九九三年、ケイが中学三年生となった時、自民党の長期政権が終焉し、皇太子が結婚した。皇太子妃となった雅子妃殿下の戸籍は、ケイの地元村上市にあった。ケイのクラスメイトも、皇太子妃の遠い親戚だという。いつも遠くの世界として見ていた全国ニュースに、家から歩いて三分の距離にある見慣れた村上市役所のぼろい建物が映った。ケイは村上市役所がいつになく巨大に見えた。
 担任教師の勧めもあり、ケイは地元の高校に進学せず、全県区の国際交流高校を受験した。国際とは無縁の生活を続けてきたケイだったが、文系だし、女性が多いという話に惹かれて、同校の国際平和科を受験することにした。
 推薦入試には、父の車で向かった。試験会場となる国際交流高校の一階で、父と一緒に待っている時、ケイは隣の親子の会話を聞いて驚いた。
 受験生の息子は、良質のブレザーを着こんで、新聞を広げている。息子が新聞の国際欄に出ている、ボスニア・ヘルツェゴビナで起きた青空市場砲撃事件について論評を加えると、父も事件の背景にあるバルカン半島の歴史について語り出す。
 無言の受験生親子が集まる室内に、二人の時事会話が鳴り響いた。
 「気にするな、あんなのばかりじゃねえぞ」
 トイレに行った時、ケイの気持ちを察した父が小声で元気づけた。この高校の受験生はみな、こんな国際色豊かな人間ばかりなのか、自分が生まれ過ごしてきた環境とは、別世界だとケイはひるんでいた。
 面接会場の教室には、面接官の高校教師が三名並んで座っていた。
「最近どんな本を読みましたか?」と聞かれて、ケイは、国際政治評論家の時事評本を読んで勉強になったと答えた。その本は自分の興味本位から読んだ本でなく、面接対策用に、背伸びして読んだ本だった。
 面接の予行練習の際、中学の技術の教諭に完璧だと褒められた、暗記の回答を読み上げて、ケイはほっとした。
 案の定、ケイは推薦入試の面接試験に落ちた。ケイは筆記試験の普通入試で、国際交流高校国際平和科に合格した。
 学生のうち半分以上が、高校の近くに建つ寮やコーポに下宿した。ケイは県立の寮に住んだ。ケイは推薦面接の日に出会った、青空市場発砲事件について語る少年が入学していないか、確かめた。予想通り、彼らしき同級生の姿はなかった。彼は詐欺師だったかもしれないとケイは思った。
 寮では毎晩、談話室に男女の新入寮生が集まり、王様ゲームが開催された。ケイは男女の社交の場に参加したかったが、教師に禁止されていたので、一人個室で勉強を続けた。
 国際交流、国際平和という看板は建前に過ぎず、高校内では、偏差値の高い大学に合格するテクニックが伝授された。英語の授業が普通科に比べて多かったが、たいてい模擬試験で高得点をとるための技術指導に費やされた。それでも週一回は、近くの国際交流大学に通う留学生と、英会話の授業を行うことができた。
 国際交流大学は、外国人の学生しかおらず、こちらは建前と実際の内容が一致していた。学生と言っても、世界中から集まった留学生たちはみな三十歳近かった。ケイのクラスを受け持ったアンは、短髪で背の高いアメリカ人だった。ケイはアンの快活で自信に溢れた様子に憧れを持った。アンの出ている英会話の小人数授業中、ケイは積極的にスピーチした。アンに気に入ってもらうことが目的だった。
 ディベートを終えて、「あなたは将来きっと国際的に活躍する人材になるわ」とアンにほめてもらった時、ケイは嬉しかったが、自分はアンが言うほど立派な存在にはならないだろうなと想いもした。
 高校一年の春休み、ケイは学内での選抜を経て、アメリカの姉妹校に交換留学生として出発した。留学と言っても、受験勉強の邪魔にならないよう、十日ほどのショートステイである。一年生から選ばれた三十人ほどで成田空港から出発し、シカゴ近くの空港に向かった。
 ケイは弁護士の父を持つ、スコットの家にショートステイをした。


七 阿修羅コンプレックス


「ちょっとお化粧直ししてくるから、そこで続き書いててよ」
 アンナが指さした方向には、お化け屋敷があった。外見はプレハブ小屋。入り口に大きく「お化け屋敷」と書かれている。妖怪と幽霊のステレオタイプな絵も掲げられている。
「お化け屋敷の中で待ってろって言うわけ? それでもあんたは精神科医か」
「精神科医なわけないじゃん」
 アンナが真顔で答える。
「私は何者でもない。あらゆる意味の固定化から逃れ続ける。何の束縛からも自由な存在だよ」
「つまり、誰にも省みられない存在」
「あほ」
 殴られた。
「少なくとも、あなたは私を頼りにしている。頼りにしている人がいれば、気軽に助ける」
「お化け屋敷に行けって言うのか?」
「入り口で待ってろって。ちょっと化粧直してくるから」
 アンナが白衣を翻して、テーマパークの通路を歩いていく。
 ケイはお化け屋敷の前に一人取り残された。列もない。案内役もない。ケイとアンナ以外に人の姿が見えないテーマパークは、存在そのものがお化け屋敷に思える。
「ハグして! ハグして!」お化け屋敷の奥から若い女性の甲高い声が響いてきた。
 お化け屋敷から女性が出てきた。腕が六本ある。顔もよく見ると、正面のほか左右に二つ、余分についている。髪形はお釈迦様のよう。細身の華奢な体に粗末な法衣を身にまとっている。
 阿修羅だ。彼女は、阿修羅の役で、お化け屋敷にいたのだろうか。しかし、お化け屋敷に阿修羅がいるなんて、聞いたことがない。仏教団体から抗議は来ないのだろうか。
「ああ、ハグして! ハグ!」
 阿修羅を演じているアルバイトらしき女の子は、お客さんにハグを求めるよう、アンナに指導されているのだろうか。
 阿修羅がケイの前に迫ってきた。今にも泣きそうな顔をして、六本の手を広げている。六本の手の動き、三つある顔の表情、まるで生き物、というかハリウッドの最新SFX技術を見ているようで、ケイは感心した。
「ハグ!」
 阿修羅の六本の手がケイに絡みつく。六本の腕全てに人肌の感触があり、ケイは驚いた。
「そういうアトラクションなんですか?」
「ああよかった。人がいて…」
 阿修羅の体がケイから離れた。阿修羅は肩で息をしている。
「失礼ですが、あなたもアンナさんの患者ですか?」
 阿修羅の左の顔の口が開き、ケイに質問した。正面の口は、はあはあと呼吸に忙しい。右側の口も動いている形跡がない。三つの顔は、それぞれ意志を持って、話すことができるのだろうか。
「そうです。ちょうど今、治療中です」
「はじめまして。私も患者なんです。アンナさんはどこにいます?」
「化粧直ししてくるって言って、向こうに行ったばかりですけど。あなた、お化け屋敷でバイトしてる学生じゃないんですか」
「ひどい。人を見かけで判断するなんて!」
 阿修羅が泣き出した。三つの顔から同時に涙が溢れてくる。六本の腕がゆるみなく動いて、三つの顔の涙を同時にふく。
「ごめんなさい。じゃあなんでそんな格好してるんですか? コスプレの趣味とか?」
 阿修羅が声をあげて泣き続ける。右の顔だけ怒り顔に変わり、ケイをにらみつけた。
「私も何故こんな体になったのか、わからないんです。恥ずかしくてもう、テーマパークの外に出れません……」
「その、腕とか、顔とか、ある日突然生えてきたんですか?」
「悪夢でしょ。誰かの手のこんだいたずらかと思いましたよ。けどこの余分な腕も顔も、とれないんです。しかも、私の意志で、自由に動かせるんです。動けって思ったら、六本の腕が自由に動くことの悲劇、ケイさんにわかります?」
「ごめん、ちょっとショックが強くて……」
「ケイさんのショックなんて、私のショックに比べたら、たいしたことないんですよ! 顔もね、実はね、こんなことできるんです」
 阿修羅の顔が左回りに回転する。先ほどは右側にあった顔が正面に移動する。続いてすぐ右側にまき戻し。今度は左側にあった顔がケイの正面に移動する。
「ね、すごいでしょ。三面相」
「それってただ単に首ふってるだけですよね。僕でもできると思うけど」
「あなたには顔が一つしかないでしょ! 私には三つもあるんです! 三つよ。やっぱり、誰もが馬鹿にするんです。もう社会復帰できない!」
「まあまあ、落ち着いてください。ところで、あなたもアンナを探してるんでしょ。何日前からほったらかしにされてるんですか?」
「一昨日から会ってないんですけどね。お昼休みでランチだって言われて、お土産売り場に置き去りにされました」
 テーマパークにお土産売り場まであることを知って、ケイは驚いた。
「わかりました。一緒にアンナを探しましょう。ところで、まだ名前を聞いてなかったけど…」
「ごめんなさい。とりあえず、阿修羅って呼んでください。病名は、阿修羅コンプレックスだそうです。あなたは?」
「僕はケイ。病名は、国際交流コンプレックス」
 ケイは阿修羅と一緒に、アンナが歩いていった方向に歩き始めた。


八 アメリカン・ライフ


 ケイがホームステイしたスコットの家は、アメリカのテレビドラマに出てくるような一戸建て住宅だった。家と家の間には、日本では想像できないほどのゆったりしたスペースがある。シカゴ近郊の住宅街には、道路を走る車も少ない。
 ホームステイしたスコットの父はシカゴで弁護士の仕事をしていた。かつて日本人の弁護士もこの家にホームステイしていたという。
 スコットの母親は、教育関係の仕事をしていた。妹のルーシーは、家に帰ればずっと自分の部屋で電話するティーンエイジャーだった。国際交流高校の姉妹校で勉強している高校生のスコットは、大学進学を目指して勉強していた。
 アメリカについて初日のディナーは、ハンバーガーにしようとスコットの父に言われた。スコットの家族と一緒にレストランに行く。ケイはファストフードのハンバーガーをイメージしていたが、出てきたハンバーガーは、特上ステーキ並みの大きさだった。アメリカのハンバーガーはこんなに巨大なんだとケイは驚いた。
 翌朝の食卓には、横幅の広いコカコーラのペットボトルが出てきた。縦は長くないのに、横に図太い。ずんぐりむん胴。アメリカ人は、毎日こんな巨大なものを食べているから、肥満が多いのだろうか。ケイは肥満したペットボトルの形を目に焼きつけた。
 ホームステイの期間中、ケイはスコットと一緒にハイスクールの授業に参加した。ただでさえ日本語の教科書英語と異なる早い英語のスピードについていけないのだから、英語の授業はまるで理解できなかった。
 昼飯は、カフェテリアでも教室でもなく、ハイスクール内のレクリエーションスペースで食べた。家から持ってきたスナック菓子をスコットと一緒に食べる。夕食はビッグサイズだが、昼食は毎日おやつみたいな味気ない食べ物だった。
 ハイスクールには黒人の生徒もたくさんいた。休み時間、黒人は黒人の友人同士でいつもしゃべっている。白人は白人同士でかたまっている。ケイは、休み時間に黒人と白人がしゃべっていないとスコットの父に意見した。スコットの父は、ケイの意見に強く反対した。
「黒人も白人と同じように話す、黒人と白人の話し方に違いはない。ニュース番組に出てくる黒人のキャスターと白人のキャスターは、同じイングリッシュを話している。ケイ、君の意見は大きな誤解だ」
 この時ケイは、何故スコットの父がそこまで熱心にケイの意見を否定するのかわからなかった。
 大学生になってケイは、スコットの父がスピークと繰り返していたことを思い出した。ケイ自身も、ブラックピープルとホワイトピープルは、違うスピークをしていると父親に説明していたことを思い出した。
 自分が見た情景を説明する言葉を間違っていたのだ。スピークではない。トークと表現すべきだったのだ。
 白人と黒人は、違う言葉でスピークしていない。同じイングリッシュをスピークしていると、スコットの父は、説明していた。
 ケイは、白人と黒人が、休み時間に語り合っていないと言いたかったのだ。しかし、スピークとトークを間違えたから、スコットの父に誤解されたのだ。
 父親があまりに真剣だったので、ケイは自分自身がハイスクールで見た情景は間違っていないと思いながらも、父親の意見に同調した。今ならケイは、スコットの父親に、ハイスクールの休み時間、白人と黒人はトークしていなかった、白人は白人同士で集まってトークしていたし、黒人は黒人同士でトークを楽しんでいたと説明できただろう。
 スピークをトークと言い換えた時、スコットの父は、以前と同じようにケイの意見に反対するだろうか。
 スピークとトークでは、まるで違う。ただ英語を話せることと、英語で仲間と語り合う喜びを味わうことは、別の体験だ。
 十日間のショートステイ中、ケイは次第に心を閉ざしていった。日本から一緒に来た高校の友達と会えば喜んで話したが、アメリカ英語のスピードについていけなくて、早く日本に帰りたいと思うようになった。
 授業が終わった後などに、同じクラスにいた生徒から、声をかけられることがあった。
「君はジャパニーズか?」
「何故アメリカに来たんだ?」
「いつまでアメリカにいるんだ?」
 積極的に質問して、トークを楽しむ学生もいれば、遠くからその様子を見て、笑顔を振りまくだけの学生もいた。ケイは、自分に話しかけず、一人教室にたたずむ学生の様子を見て、自分と彼は同じだと思った。
 ケイはアメリカの音楽を聴いたり、映画を見たり、小説を読むのが好きだったが、アメリカ人と積極的にトークするのは、気がひけた。アメリカにもきっと、日本に対してケイと同じ想いを抱いている人がいる。日本文化が好きだけれど、日本語が難しいし、シャイだから、日本人と話すのは気がひける。そんな人とケイは、同じなのだ。
 わざわざ無理をして外国にホームステイしなくてもよい。外国文化に対する友愛の念を抱きながら、遠くで眺めているだけでもいいのではないか。
 そう思いながら、ケイはアメリカから日本に帰った。大学になった時、オーストリアの留学経験が長い後輩に、アメリカは楽しくなかったとケイは語った。
「十日くらいの滞在じゃちょうど、ホームシックにかかりますよ。僕も十日目くらいの時は、外国語を聞き取れないし、うまく話せなくて、日本に帰りたいと思っていました。でも、その先話せるようになって、面白くなってくるんですよ。ケイさんの感じたことは、間違いじゃない。誰もが感じる辛さですよ」
 ケイは、ドイツ語をしゃべるトーンで日本語を話す後輩にそう言われて、後悔が少し和らいだ。


九 アンナの捜索


「阿修羅はなんで阿修羅のコスプレしてるの?」
 前を歩いている阿修羅が振り返る。答えはない。
「だってさ、奈良にある阿修羅の仏像とそっくりだよ。髪型、服、アクセサリー、体型。体型はまあ元々だろうけど、その髪型と服装どうしたの?」
「修羅になったなら、修羅として生きろって、アンナさんが言ってました」
「アンナの仕業か……」
 ケイは納得したのかだまりこんだ。
「ほら見てください、この腕の付け根のところとか…」
 ケイは阿修羅の背中を観察した。腕の付け根の部分、本来なら肩に腕が一本しかないはずなのに、三本生えている。左に三本、右に三本。
「動物の骨格上おかしいな。普通の哺乳類ならこんなふうに腕は生えない。あ、でも昆虫なら、こんなふうに何本も腕が生えることってありえるね」
「ケイさん、人の外見に対して文句を言うのは、大人として恥ずべきことですよ。私は昆虫じゃありません!」
「……ごめん」
 阿修羅とケイは、テーマパーク内にある女子トイレ五箇所を回った。捜索の途中、熊が銃殺されたティーカップ乗り場前も通ったが、熊の着ぐるみも、血だまりも、跡形もなく処理されていた。
 阿修羅が女子トイレを調べている間、ケイは外のベンチに座り、レポートの続きを書いた
「だめです、ここにもいません」
「アンナはトイレに行ったんじゃなくて、お化粧直しに自分ちに帰ったんじゃないかな」
「そんなひどいです。私たち治療中なのに……」
「アンナならやりかねない。ひどいわがままな奴だから」
「人間として最低ですね。途中で仕事放り出すなんて」
「アンナにとっては、放り出すことも仕事のうちなのかもしれない。あいつ、屁理屈言うの天才的だからな」
 ケイと阿修羅は、トイレ脇のベンチに座り、しばらくだまりこんだ。テーマパークの敷地外に建つ高層ビルの間には、夕日が浮かんでいた。
 ケイは「アンナのピエロ」から抜け出して、家に帰ってもよかった。しかし、阿修羅を一人ここにおいていくわけにもいかない。阿修羅は「アンナのピエロ」から出たくないというだろう。
 阿修羅と一緒にテーマパークに泊まろうか。夜になったら、ライトアップされて、パレードでも始まるのだろうかと思っていたら、「ケイさん、お化け屋敷に戻りませんか」と阿修羅が言ってきた。
「お化け屋敷って最初の? 何で?」
「アンナさん、そこに戻ってるかもしれないし。アンナさんと最後に会ったの、お化け屋敷でしたよね」
「そうだね。今頃怒りながら、なんであいついないんだなんて、息巻いてるかもしれないな。後が怖いから、急いで帰ろう」
 ケイとアンナは早足で歩いてきた道を戻った。
「ケイさんは、どんな治療を受けているんですか」
「自由連想形式の日記の記述というか、会う度にレポートを提出している。内容気に入らない時は、書き直しを命じられるけどね」
「今日はどんなレポートを?」
「僕と外国人との交流の歴史」
「なんでまた?」
「僕が書いてみたいと言い出したんだ。僕は外国の人たちと積極的に交流してこなかった。そもそも僕の人生が今こんなふうに息づまっているのは、外国で暮らす同胞たちと交流してこなかったせいではないか。他の医者なら、そんなこと病状の原因になるわけがないと否定するだろうけど、アンナは僕の仮説を受け入れてくれる。だからアンナがどんなに変なやつでも、僕はここに来て、治療を受けてるんだよ」
「アンナさんて、なんか憎めないとこありますよね」
「阿修羅はなんで、アンナのところに?」
「知人の紹介です。腕が六本になって、顔が三個ある人間を治療できるのは、彼女だけだろうって。彼女なら、外科手術で余分な腕や顔をとるんじゃなくて、自然と、君を元の姿に戻してくれるだろうって」
「その言葉、誰が言ったの?」
「私の大切な人です」
 阿修羅はそれ以上しゃべらなかった。阿修羅がこのような異様の形相になったことを、阿修羅にとって大切な人は、阿修羅本人と同じ気持ちで、哀しんでいるのだろうか。
 ケイは、阿修羅のことをうらやましいと思った。阿修羅は目に見えて、症状がわかる。それゆえ、街を歩くこともできないけれど、阿修羅を愛する人は、阿修羅の苦しみがどんなものか、想像しやすい。自分自身腕が六本、顔が三本できたらどんな状況に陥るのか。そう想像すればよいのだから。
 しかし、外見の変化が何もない病気の苦しみは、他人に伝わりにくい。外を歩いていても、ごく普通に見える。普通の人と一見何も変わりないからこそ、心に抱いた苦しみを、他者に伝えるのが難しい。
 ただ怠けているだけじゃないのか。
 体調管理ができてないだけじゃないか。
 そんなふうに誤解されて、終わりだ。
 そう誤解されないためには、病気の症状を多くの人に知ってもらう必要がある。知ってもらうためには、苦しくても、説明する必要がある。
 ケイと阿修羅は、アンナがどこかのアトラクションで遊んでいないか確認しつつ、お化け屋敷に向かった。


十 大学時代


 ショートステイから帰ってきた後、アメリカにいった二十人ばかりの生徒全員が、感想文を書いた。感想文は、文集になって配られた。ケイは、黒人と白人の学生が休み時間、別々に行動していることは書かなかった。黒人と白人が休み時間話し合ってないとスコットの父に言ったら、そんなことはないと強く反論されたことも書かなかった。早く日本に帰りたいと思ったこともあまり書かなかった。
 アメリカの英語は早くて聞き取りにくかったけど、ケイは英語の読み書きはそれなりにできた。リスニングのテストも、大学入試のレベルでは聞き取ることができた。ケイは大学試験を受けて、東京都内の大学に進学した。
 大学には、世界各国からの留学生がたくさんいたし、外国人の教官も多かった。英会話のクラスは、抽選制だった。一年生の間には、どの教官が試験を通りやすいかという情報が流れていた。試験を通りやすい教官は、抽選でも人気となった。ケイは、人気のないマンキューソという教官を選んだ。
 マンキューソは、試験の評価が厳しく、授業中によく怒ると噂されていた。マンキュー最悪と、、上級生みんなが言う。しかしケイは、嫌われ者のマンキューを教官に選んだ。
 実際授業を受けてみると、マンキューソはただ個性が強いだけだと思えた。そんなに学生に無理難題を課すわけでもないし、ジョークをよく言う。ケイは難なくマンキューソの試験を通過した。
 大学では、英語の他に第二外国語の選択もあった。入学前に、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語の中から、第二外国語の希望を選ぶ。ケイは第一希望中国語、第二希望ドイツ語、第三希望フランス語で応募した。抽選の結果、ケイはドイツ語のクラスになった。
 ケイは別にドイツ語を使いこなせるようになりたいと思ったわけでない。ドイツ語を勉強する目的はただ単に、大学を卒業するためだった。
 英語と第二外国語の他に、数学か第三外国語のどちらか四単位を選択する必要があった。外国語も数学も嫌いなケイは、二年生になって仕方なく、第三外国語としてフランス語を勉強することにした。
 二年生冬学期のフランス語のテストは、一夜漬けでの挑戦だった。授業にもあまり出ていない。ケイは解答用紙の最後に、「数学も苦手です。外国語も苦手です。けれど、ここで単位を取らないと三年生に進級できません。お願いします。単位をください」と、願いを書き綴った。しかし、試験結果は落第、ケイは三年生に進級できず、留年した。
 二回目の二年生で、ケイは別の教官のフランス語の授業をとり、必修の単位を満たした。フランス語もドイツ語同様、個人的に学びたくて学んだ言語でなく、卒業するために勉強した言語だった。大学受験の勉強同様、試験に受かるための外国語学習だ。文法や単語は覚えたけれど、試験後すぐほとんど忘れたし、フランス語やドイツ語の会話や文学を楽しめるほどの語学力は身につかなかった。
 三年生から、ゼミナールの選択がある。ケイはあれだけ外国語が苦手なのに、ゼミナールの専攻に文化人類学を選んだ。ケイは個人的に哲学や文学に興味があったけれど、哲学も文学も、ゼミの内容が古臭くて、つまらなそうだった。外国文化の実地調査を重要視する文化人類学の方が、今世界で起きている様々な問題とつきあうには、哲学や文学よりも適していると思えた。
 ケイは、スリランカでの宗教対立を専門とする教官のゼミに応募した。内戦続くスリランカにはそんなに興味がなかったけれど、教官の授業や知識に魅了されたので、応募した。
 ゼミ選考は教官室での面接となる。ケイは就職して働くのが嫌だったので、大学院にすすんで研究者になろうとも思っていた。
「大学院にすすみたいとも考えています」と言うと、教官は、「何を読んでいますか?」と言った。ケイはゼミ選考の参考資料に載っていた、教官の推薦図書であるブルデューとトドロフの本しか読んでいなかった。
 大学院に進学しようと思っている人は、二年生の終わりの時点で、明確な目標を持って生活を組み立てているのではないか。ふわふわした夢や理想など、毎日の勉強の積み重ねに負けてしまうのではないか。教官に質問されて、準備不足を痛感したケイは、簡単に大学院生になる夢をあきらめた。


十一 千手観音とのダイアローグ


 ケイと阿修羅は、お化け屋敷があった場所に戻ってきた。お化け屋敷のプレハブ小屋は消失していた。
 安っぽいお化け屋敷があったはずの場所には、千手観音像が建っていた。千手観音像は金色に輝いている。あぐらをかき、目をつむって、千本の手を扇形に広げている。正面と左右にある三面の顔が、首から上に五段ほど積み重なっている。ケイと阿修羅は巨大ロボットのような千手観音の複数ある顔面を仰ぎ見た。
「これ、元々お化け屋敷の中に入っていたの?」
「いえ、お化け屋敷の中は、ごく普通のお化け屋敷でした。妖怪や魑魅魍魎がたくさんいましたよ」
「そもそもなんで阿修羅は僕と出会った時、お化け屋敷の中にいたの?」
「従業員の休憩室があったんで、そこでくつろいでたんです。従業員なんて誰もいなくて、異形の妖怪ばっかりだったけど」
「アンナのやりたい放題を見かねた千手観音様が現れて、、お化け屋敷を屋敷ごと極楽浄土に送ったのかもね」
「妖怪にとっては、極楽浄土なんて地獄かもしれないですけどね」
 千手観音は、千本の手を広げて瞑想を続けている。動きはないが、彫像ではなく、呼吸を繰り返す命のように感じられる。
「何をしておるのじゃ」
 ケイは、自分の脳内に言葉が響くのを感じ取った。千手観音の複数ある顔は全て目をつむったまま、口も動いていない。
「ケイさん、今何か言いました?」
「いや、何か聞こえた?」
「何をしておるのじゃとかなんとか…」
「同じだ。僕も今聞いたよ、その言葉」
「わたしはそなたらに問いかけた。答えよ」
 ケイの脳内に、先ほどと同じ声が響いた。
「また声が聞こえた。自分自身が心の中で、自分に話しかける時と同じ声だ。けれど、いつもと響きが違う。僕が僕自身に心の中で語りかける時、僕が作り出した別人格はたいてい僕に似た声をしているか、個性のない声をしている。今心に響いている声は、世界に実在する僕とは、完全に別の誰かがしゃべっている声だと思う」
「私もそう思います。この千手観音像が語りかけているのかな? あるいは、そう私たちに錯覚させるよう、別の誰かがどっかで超音波でも流してるのかな」
「例えば、アンナが僕たちに見えない部屋の中で、特殊マイクを使って語りかけているとか?」
 ケイと阿修羅は、千手観音の体を細かく観察した。
「疑うのはよくない。私は千手観音。一切衆生を救済するために、千の手をさしのべる存在」
「また声がした」
「疑うな。まず私の実在を信じて、語りかけてみよ。お主らは何をしているのだ?」
「相手にしないでおくのは、やめにして、遊び半分の気持ちで質問してみましょうか? 本当の千手観音様かもしれないし」
「僕はそういうの、全然信じてないけど、まあ試してみるのもいいかもね」
 阿修羅は、千手観音の前で、六本の手を二本ずつ合わせ、合掌した。
「千手観音様、私、阿修羅と言います。横にいる男はケイ、二人とも病んでいます」
「何を病んでいるのだ?」
「私は体を、ケイは心を病んでいます」
「体のどこが悪い? 心のどこに傷がある?」
「私は腕が六本あり、顔が三つある阿修羅コンプレックスなんです。他の人間はみんな腕が二本で、顔が一つしかないんです。私の異形の体を見たら、みんな私のことを怪物だといってあざ笑うか、哀れみの目で見つめるでしょう」
「自分の状況を否定的に想像する必要はない。私の体を見てみなさい。私には千本の手があり、十五面の顔がある。実際手は一千本もないかもしれない。数えたことがないので、正確な数は知らない。けれど、私は自分の異形の体のことを哀れに感じていない。確かに異形だ。しかし、千ある手を衆生のために役立てることができる。十五の顔で考え、呼吸し、見つめることができる。与えられた体を私は使うのみ。誰が何を言おうと私は気にしない」
「はあ、そんなもんですかな。私はまだそんな境地に行けてないすけどね」
 ケイは、千手観音の姿を借りて、アンナがしゃべっているのではないかと推測した。
「ケイ、そなたは心の何を悩んでいる?」
「僕は自分自身、何を悩んでいるのかよく把握していません。何が悪いのか、何が正しいのかよくわからない。価値を見失って、苦しんでいる。うまい具合に表現できない。外見に何か異常が露骨にあらわれているわけじゃない。けれど毎日疲れているし、なんとなく人生を失敗した感じがする。そんな不安です」
「はっきりしたものが何もない。そういうことか?」
「はっきりしたと思ってみても、結局それは嘘偽りで、確かなものではなかった。自分の人生も社会もはっきりしない。僕は不確かさに苦しんでいるのかもしれません」
「私には十五の面がある。そなたの心の中ににも十五以上の面があるし、この世界にも十五以上の側面がある。どの顔を表に出すか、どの顔を見て話すのかは、自分自身の意志次第だ。十五ある顔のうちどの顔が中心なのか、私は知っている。どれもが中心ではないのかもしれない。全てが分散しているのかもしれない。けれど、私は十五あるうちの一つを自分の顔の中心として意識した。その顔がどんなにみすぼらしく頼りない顔でも、私が中心だと定めた以上、その顔が中心となり、私の生も定まる。そういうものだ」
 千手観音の声がやんだ。
「千手観音様、やっぱりあなたは、アンナさんですか?」
 阿修羅が問いかけても、千手観音は答えない。
「行こう阿修羅。ここにアンナはいない。千手観音ももうしばらくは、話さないだろう」
 ケイは歩き出した。
 夕日が沈み、満月が出てきた。星は地上の光のせいで、見えない。


十二 バンコク


 文化人類学のゼミの同級生に、韓国からの留学生がいた。彼女は、韓国の大学卒業後、韓国のテレビ局で働いた後、日本の大学に留学した。お笑い番組などの制作に携わっていたという。
「テレビ局で働けるなんて素敵じゃない」とゼミテンの女性が言うと、「ずっと忙しいし、そんないいもんじゃないよ」と彼女は答えた。
 文化人類学の専攻だからか、海外経験のある人がたくさんいたし、大学院には留学生も多かった。太平洋の孤島やアフリカ奥地の村に滞在し、近代化されていない現地の文化を調査する文化人類学は、今や廃れていた。帝国から来た人類学者でなく、現地の人自身が自分たちの文化を語るべきだという主張がある一方で、現代社会の文化は、全て西洋文化の影響を受けており、真正で純粋な自国の文化などどこにもないという主張もあった。
 近代的学問体系の黙示録的終焉を目にしたケイは、女性のボディケアを行うベンチャー企業に就職することにした。専門的な文献を読み漁ったり、頭で考え続けるだけでは、体が痛くなる。社会との接点も失われる。大学の専門的な知から離れて、体に関する仕事に就くことをケイは求めた。
 働いて疲労した人たちに癒しを与えるのが仕事かと思っていたら、会社では売上と利益の追求が求められた。癒しの世界は、ビジネスライクな世界に疲れた人たちが集まる場所だと思っていたのに、実際は営業数字が求められるのだった。若くてアルバイト経験も少ないケイは、売上と利益を軽蔑した。
 ある日、ケイが仕事をしていると、会社一番人気のボディ・アーティストが、ケイの肩を冗談めかして揉んでくれた。彼女はささっと二回だけ、ケイの肩を軽くもんだ。ケイは生まれて初めての感触を経験した。
 パソコンで毎日行う売上集計、営業分析の仕事で、ケイの肩はこりかたまっていた。会社一と評価されるボディ・アーティストの手が触れた時、ケイは自分の肩が、柔らかく流動的だと感じた。彼女が二回、リズミカルにささっと肩に触れただけで、肩の表面から体の奥底まで、揉みほぐされたかのようだった。売上と利益の追求をみな口にするけれど、どこにもない技術こそが、サービスの根っこにあるのだとケイは思った。
 就職して二年目の夏休み、ケイは同僚と一緒にタイに旅行した。高校時代のシカゴ以来、二度目の海外旅行だ。
 夜に成田空港を出発する。飛行機の窓から見た東京の夜景は、複雑に入り組んでいたけれど、到着間際に上空から見下ろしたバンコクの夜景は、碁盤目のように規則正しく整理されていた。
 タイの空港は人で混みあっている成田と違って、余分なスペースがたっぷりと用意されていた。空港からはリムジンタクシーで、バンコク市内に向かった。高速道路沿いに並ぶ看板には、日本企業の社名も多かった。
 ケイたちはバンコクの中心部にある、世界展開している高級ホテルに泊まった。日本ならば、一泊三万円以上するが、タイでは日本円にして六千円程度でダブルベッドの部屋がとれる。受付には、白人の観光客も多く、完全に外国からのお客様向けなのだなと思えた。
 ケイは今まで泊まったこともない豪華な作りの部屋に荷物をおき、バンコクの夜を楽しんだ。翌朝、ホテルの最上階近くにある、VIP客専用の休憩スペースで朝食をとった。ケイたち以外のVIP客はみなブロンドの白人だった。午前中は、ホテル屋上にあるプールでくつろいだ。タイ人のウェイターが用意したトロピカルジュースを飲みながらくつろいでいると、プールに白人の家族連れがやってきた。
 タイでは、日本と違い大金持ちのように振舞える。実際、タイ国内でケイたちは、大金持ちと同じほどの金銭力を持っている。日本円とタイのバーツに格差があるためだ。このままタイで暮らしたら、どんなにリッチな生活になるだろうと思ったが、タイに住めばタイの物価で生活することになる。ごくたまにタイに来るから、豪遊することができるのだろうと思えた。
 タイ滞在三日目の午後、ケイたちは、別の高級ホテルにある、リゾートエステを体験しに行った。ホテルに向かう途中の道路には、木で作られた台車の露店があり、タイ現地のおじさんがお菓子を売っていた。日本の下町にもあるような露店の奥に、巨大なホテルのビルがそびえ立っている。ホテルの入り口には、スーツ姿の頑強な警備員がいる。ホテルに乗りつけたタクシーから、中東の大家族が降りてくる。アラブの民族衣装を着た父母と四人の子どもたちは、アラビア語で早口に何かしゃべっている。
 露店とは別世界のグローバルな高級ホテルが、同じ景色の中に同居している。日本でもそのうち、このように圧倒的格差のある建物が並ぶようになるのだろうかと、ケイは不安に思った。
 リゾートエステは、ホテルの離れにあった。ヨーロッパの高級ブランドのショーウインドウが並ぶホテル一階を通り抜けて、一旦屋外に出る。よく手入れされた亜熱帯植物園を抜けると、エステの建物にたどりついた。
 ケイは紙パンツ一枚だけ身につけて、バスローブを羽織り、板間の個室に寝そべった。女性のエステティシャンが、ケイの全身にオイルを塗った後、マッサージを始める。タイに何度も旅行しているケイの友人は、ここは世界一流クラスのエステティックサービスを提供していると言っていた。ケイは初めてマッサージを受けてみて、体中のこり固まりが、ほぐれていくのを感じた。女性エステティシャンは、ケイの股間近くのツボも押した。そんなところも押すのか。痛さと恥ずかしさでケイはうなった。強く、ゆっくりと押される。普段触れない体の急所を無言で押されて、ケイは全身に少年時代の生命力が戻ってくるのを感じた。
 毎日パソコンを使って働いているケイは、体が硬くなっていた。体は日常生活の影響を最も強く受ける場所である。毎日の思考、社会習慣、コミュニケーション、抑圧、不安が、体に緊張とゆがみをもたらす。
 エステが終わり、ハーブティーを飲んでいるケイの体感は、別人だった。今までの自分は死んでおり、今日この瞬間から生き返ったように思えた。ケイの瞳にタイの人は、みな陽気で、限りある人生を楽しんでいるように見える。日本に帰れば、再び体が歪んでくるのだろうか。そう思いつつ、日本に帰ったら、東京都内の電車に乗る日本人はみな、無表情だった。この人たちは、毎日が楽しくないのだろうか。すっかりタイ人気分のケイは、日本人の真面目さが嫌になったのだが、三日もすると、元の日本人的生活に戻ったのだった。


十三 火傷した少女


 お客の姿はケイと阿修羅しか見えないのに、夜のテーマパークにライトが灯る。赤、オレンジ、青、緑、黄色、ピンク。人影のないテーマーパークに照明だけが華やいだ。
「きれいですね、あのメリーゴーラウンド。乗ってみたいな」
 七色に点滅しながら回転するメリーゴーラウンドを見て、阿修羅は目を輝かせた。
「今はアンナを探すのが先だろ」
「やっぱりアンナさん、もう家に帰っちゃったんじゃないですか。探すのは諦めて、このシチュエーションを楽しみましょ」
 阿修羅が甘えた声を出す。
 テーマーパークの真ん中にあるヨーロッパ風の古城の方から、陽気なマーチの音楽が聞こえてきた。
「やった。やっぱり夜のパレードが始まるんだ」
 阿修羅は自分が陥っている迷子の状況を忘れて、六本の腕を広げてはしゃいでいる。
 笛、クラリネット、メロディオン、トランペット、小太鼓、大太鼓が奏でるブラスマーチが、ケイの耳にも届く。
「治療施設なのに、毎日パレードなんてやってるのかな?」
「私初めて見ました。行ってみましょ」
 阿修羅が左側にある三本の手でケイの右腕をつかんだ。ケイは仕方なく、阿修羅と一緒に音楽が聞こえる方へ向かった。
 緑に囲まれた赤レンガの通路に、ライトに彩られた巨大なかぼちゃの戦車を見つけた。かぼちゃの戦車の上では、ピエロが集団になってダンスを踊っている。戦車の後ろにかぼちゃの戦闘機、かぼちゃの巡洋艦、、かぼちゃの空母が続いている。
 巡洋艦のデッキでは、ロココ調のドレスに身を包んだお姫様たちが、ピエロと一緒に踊っている。巡洋艦主砲の三連速射砲からは、かぼちゃが何発も撃ち出されていた。お姫様もピエロも笑い、英語の歌を歌いながら踊っている。
「ハロウィンのパレードですかね。可愛いけど、いかついですねこのパレード」
「アンナの趣味かな」
 かぼちゃの空母のデッキで、ピエロのブラスバンド隊がマーチを演奏していた。指揮者は、ピンク色のねずみの着ぐるみだった。ケイは、昼間銃殺された熊とは別人だろうかとあやしんだ。
「これだけの人たち、趣味で集めたのかな、あの女……阿修羅、ここってメンタルクリニックだよね、確か」
「ささくれた現代社会のオアシスだとか、真正なるコンビニエンスストアだとか、我々の内なる神に出会う場所だとか、アンナさん、毎回違う名前で呼んでましたけどね」
 空母の後ろ、パレードの最後尾にかぼちゃの馬車が一台いた。二匹のしまうまが、オレンジの皮に包まれたかぼちゃの馬車をひいている。御者はいない。しまうまも機械かもしれない。
 馬車の窓が開く。ゴスロリ調の服を着た少女が顔を出す。リボンを巻いている少女の顔は、焼けただれていた。皮膚の表皮がめくれあがっている。眉毛もない。ふりふりのレースに包まれた可愛らしい格好をしているけれど、少女の顔は見ていて痛々しかった。
 阿修羅は小さな悲鳴をあげて、ケイの体にしがみついた。ケイは少女の顔に驚いたが、恐れることなく、少女を見つめた。少女も、ケイと阿修羅のことを観察するように見つめている。少女の顔から、少女が何を考えているかは読みにくい。怒りも悲しみも、顔からは読み取れない。
 しまうまが歩みを止めた。かぼちゃの空母はマーチを奏でながら通路を進んでいく。馬車だけがパレードから取り残された。
 ケイは阿修羅の手を握りながら、馬車に近づいた。しまうまの首に黄金の矢が突き刺さっているのが見えた。矢の刺さる傷口からは、赤い血が溢れている。左右のしまうま両方とも、近くで見ると傷だらけだった。誰かに痛めつけられたのかもしれない。
「君、どうしたの?」
 ケイは馬車に乗る少女に声をかけた。少女は窓を離れ、かぼちゃの中に引っこんだ。
「中に入ってもいいかな?」
 少女は答えない。二頭のしまうまは歩みをとめたままだ。
「嫌がってるんじゃないですか? そっとしておきましょうよ」
「彼女が何故ここにいるか、知りたいんだ。よく話してみたい。アンナによる特殊メイクかもしれない。あるいは、本当に火傷してるのかもしれない。火傷だとしたら、治療が必要だ。少女と話し合わずにここを立ち去るのは、気がひけるよ」
 ケイは馬車の入り口の踏み台に足をかけた。
「ごめん、入るよ。大丈夫かな」
 少女の返事はない。ケイは馬車の奥をのぞいた。少女は薄暗いオレンジ色の馬車の隅っこに座っていた。怯えている様子はない。ケイたちを意識せず、前を向いて座っている。
 ケイは、阿修羅の手をひいて馬車の中に入った。馬車は、かぼちゃの香りに満ちていた。ケイは顔に火傷をおったゴスロリ少女の横に腰かけてから、緊張して痛み始めた肩と脚をマッサージした。


十四 中国、人工生命


 就職して三年目、ケイの部署に中国からの留学生がアルバイトとして配属された。ヤンさんは、日本の私立大学で勉強している。ヤンさんの父親は中国で社長をしており、ケイの会社の会長の親友らしいという噂が広まった。
 ケイははじめて、中国の人と身近に接する機会を得た。ヤンさんは日本語が上手で、早口だった。
「中国にいた頃から、日本のマンガ、アニメ、ゲームが好きでした」とヤンさんが言うのを聞いて、ケイは自分がアメリカに行った時、スコットとスコットの父に、アメリカのロックが好きだと言ったことを思い出した。
 ヤンさんと一緒に仕事している頃、日本対中国のサッカー国際試合を契機に、中国で反日暴動が起きた。仕事帰りにニュースを見ると、中国の人たちが、街を行進し、日本に抗議している様子が映った。
 当時は、日本の首相の靖国参拝に対して、アジア各国から批判が寄せられてもいた。中国での反日運動のニュースを見た翌日、ヤンさんに会っても、ヤンさんはいつも通りの真面目で陽気な同僚だった。ヤンさんから反日的な発言を聞いたことはない。ケイもヤンさんに、最近の中国での暴動ニュースについて、どう思っているか聞こうとは思わなかった。ケイとヤンさんの間で、第二次世界大戦前後の歴史問題が語られることはなかった。政治、宗教の問題については触れないが、マンガとアニメについては語り、一緒にビジネスを続ける。ヤンさんは大学卒業後、四月から正社員になった。
 ケイは就業三年半過ぎた後、人工知能を創るIT企業に転職することにした。ケイは、パソコンも頭脳労働も嫌だった。知識偏重の現代社会から逃避するため、体と癒しの仕事に就業したはずなのに、いざ働いてみれば、毎日売上の数字に追われていた。結局、ビジネスをしている限り、どこも同じなのだ、逃げる場所はないのだとあきらめたケイは、自分が毛嫌いしていた情報技術の仕事に就くことにした。
 転職先の企業でケイは、開発中の人工生命の知能をテストする、テスト専門の仕事についた。設計者がまず、人工生命の各部品を設計する。設計に基づき、プログラマーが、人工生命の一つ一つの動作を決めるプログラムを書いていく。設計もできず、プログラムという外国語も書けないケイは、プログラミングされたデジタルデータの人工生命が、液晶画面の中でどう振舞うのか、テストする役割を与えられた。
 テストのナリオは、シナリオを書く専門のライターが創造する。テストの時、キーボードにどのような命令を打ちこめばよいのか。与えられた命令に対して、人工生命がどう振舞えば、テスト合格なのか。テストシナリオは、シナリオライターから与えられた。ケイは、全て他者が作り上げた枠組みにそって、人工生命に質問し、彼女の回答を記録していくだけだった。
 テストをするケイ自身にプログラミングの専門的な知識は不要だった。頭のいい人間が設計したはずの人工生命は、シナリオ通りの正確な動きをしなかった。人工生命がテスト中、シナリオに反する行動をとった場合、ケイは行動の外面的内容を記録する。後はテスト結果のレポートを元に、設計者とプログラマーがどうにかしてくれる。人工生命が従うプログラム、すなわち人工生命個人の活動法則が書き換えられると、ケイの元に再テストの要請が下りてくる。二度目のテストで、人工生命が、シナリオ通りの動きをすることを確認する。
 想定外の、試験落第の動きが、次の世代になると、新しいスタンダードになる場合もあるのではないか。プログラムミス、誤りと思われた生命の法則逸脱、突然変異が、次の世代の生命にとって、競争優位に働くのではないか。
 歴史には可能性がありすぎる。何が正しいのか、人間は究極的にはわからない。ケイはテストを繰り返すうち、合格と不合格の境界がひどく曖昧で、適当なものだと気づくようになっていた。 


十五 エヴァ・ブラウン


 少女の手の甲にも火傷の跡がある。皮が腫れ、破れ、赤くなっている。少女の皮膚を見つめているだけで、ケイ自身も痛みを感じる。ケイの体は火傷を負っていないのに、脳が痛みの信号を作り出しているのだろうか。火傷を回避するために、他人の火傷を見ただけで、自分自身に想像上の火傷を感じさせる。ケイは生命維持のために働く脳の想像力を呪った。
 馬車がゆっくり動き出した。マーチの音は遠い。かぼちゃの空母は、通路の先に小さく、かすんで見える。
「このパレードは、どこに向かっているの?」阿修羅が左の泣き顔で問いかける。
「ピンクスネークのところ」
 少女がはじめて言葉を口にした。感情のこもっていない、無機質な声だった。
「ピンクスネーク?」
「そう、ピンク色の大きな蛇のところ」
「その火傷、痛い?」
「痛くない。もう慣れたから」
「いつから火傷になった?」
「だいぶ前から。わからない。覚えていない。記憶を持つ前から、私は火傷を負っていた」
 少女はひどく小さな声で話した。ケイも、阿修羅も少女の一語一語に神経を集中した。
「ねえ、アンナって女の人に会った時ある?」
 阿修羅が優しい声で少女に質問した。
「知らない」
「あなたはずっとここにいるの?」
「わからない」
 話したくないのか、少女は首をふる。
 しばらく無言で、馬車が進む。
 テーマパークの隅に山があった。花も草木も人工の山だ。山のふもとに噴水のついた人工の池がある。池の周りにかぼちゃのパレード隊が整列している。馬車が池にたどりつくと、少女が「おりる」と言った。ケイと阿修羅は、少女と一緒に馬車をおりて、池の前に立った。
 空母の上にいるピエロのブラスバンド隊がファンファーレを演奏した。トランペットの高らかな音が鳴り止むと、池の中心から、ピンク色の大きな蛇が顔をあらわした。
 頭だけで、自動車一台ほどの大きさがある。ピンク色に輝く蛇が、ケイたちを見下ろした。パレード隊は蛇の登場を喜んで、楽器をポリリズムでかき鳴らした。
 ピンク色の蛇が口を開く。鋭い牙が見える。舌先が二つに割れたピンク色の舌が伸びる。空母や巡洋艦のデッキに、炎の柱が何本も立っている。お姫様とピエロたちは炎に照らされながら、絶叫しつつ体を振り乱している。楽器のポリリズムが一層大きくなる。上空には、千手観音が飛んでいた。高速移動する千手観音と一緒に、ピンクの熊も飛んでいる。
 蛇の舌の上に、アンナがいた。アンナは白衣を着て脚を組み、蛇の舌に座っている。
「アンナさん?」阿修羅が声をかける。
 蛇の顔がケイたちの前にのめり出してくる。アンナは微笑みをたたえている。
「アンナ? 誰それ?」蛇の舌に乗っている女が、とぼけた声で言う。
「私はエヴァ・ブラウン。人間じゃない。地球の独裁者たる人間に仕えるアンドロイド」
 エヴァ・ブラウンと名乗ったアンドロイドは、どう見てもアンナにしか見えない。ケイは、またアンナが自分たちをからかっているのだろうと思った。
「あなたたちはお客さんですか?」
「何言ってるんですか。私、阿修羅ですよ。アンナさんとぼけてないで、早くカウンセリングしてください」
「カウンセリング? 何のことかよくわからない。プログラミングされていない情報は、エヴァ・ブラウン答えることができない。あやまって人間を攻撃しないように、プログラム外の行動をしないよう、エヴァ・ブラウンは管理統制されている」
「エヴァ、この子の火傷は何なんだ? 手当てが必要だ」
 ケイは、火傷を負った少女の顔を手のひらで指し示した。
「お前は誰だ?」
「ケイだ。知ってるくせに」
「ケイ。その子の心は死んでいる。その子の心はゾンビだ」
「ゾンビ?」
「そうゾンビ。生きているのに死んでいる。死んでいるのに生きている。私たちアンドロイドと同じ、半死半生の曖昧な存在。彼女の心は、永遠の死を意識している」
 少女は、エヴァ・ブラウンを見つめている。
「ケイ、お前はアンナから、レポートを書くように頼まれていただろう。あのレポートは書き終わったのか?」
「さっき、アンナって知らないって言ってなかったっけ?」
「今、メインサーバーから情報が送られてきた。私自身もアンナの情報を今初めてインプットしたところ」
「レポートは途中まで終わっている。まだ、答えは出せていない」
「読んでみて」
「今、この場で? 後で渡すよ」
「いいじゃない。読んでみて。たくさんいるから恥ずかしいの? そんなの関係ない。読み上げたらいい」
 ケイは、カジュアルスーツの内ポケットに入れていたレポート用紙を取り出した。
 ピンクスネークの頭がケイに迫ってくる。大きく開かれた口の中、研ぎ澄まされた牙の間に、白衣のエヴァ・ブラウンが座っている。エヴァ・ブラウンは物欲しそうな顔で手を伸ばし、レポートを掴もうとしている。


十六 国際交流コンプレックス


 一体僕は、どれだけ外国の人と関わってきたのだろう。
 ケイは自分の外交力のなさを呪っていた。外国の小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりするけれど、外国人の友人はいない。そう思っていたけれど、実際レポートに書いてみたら、自分で思いこんでいた以上に外国人との付き合いがあることにケイは驚いた。
 解釈はいつでも歪む。今でもケイは、毎日、外国の人と接していた。コンビ二に行けば、レジを打っているのは、アジア大陸から来た移民労働者だった。どこのコンビ二でも、アジア出身の人たちが働いている。お弁当屋に行ってもそうだ。職場近くの弁当屋では、男性店員も女性店員も、中国系の美男美女だった。アジア出身の人は、顔や身振りでは、日本人と区別がつかない。話し声を聞くと、イントネーションで、日本人ではないと気づく。
 インドカレー屋にいけば、店員はみなインド人だ。日本に来たインドの人が、インドカレーを用意してくれる。ファストフードの牛丼チェーンにも、アジア系の人がいる。客単価の安い外食店やコンビニには、アジア出身の店員が多い。ヨーロッパ系の店員は、あまり見ない。少し値段の高いイタリア料理店に行くと、日本語の上手なイタリア人の店員がいる場合もある。ただし、歌舞伎町などにある安いイタリア料理チェーンに行くと、アジア系の店員がイタリア料理の注文をとる。
 安価な労働に、外国人の労働者が就いている。ヨーロッパ人がファストフード店で働いていないのは何故か。ヨーロッパが日本から遠いせいだろう。日本がヨーロッパのすぐ側にあれば、ヨーロッパからも労働者が大量にやってくるはずだ。
 外食店で移民労働者に接する時、グローバルな労働市場を意識できる。しかし、見えない部分でも、日本の生活は、グローバルな市場に支えられている。大量の商品が、外国で製造されている。日本メーカーの商品が、外国で製造される。輸出と輸入。文化の交流。
 決して自分は一人で生きていないし、日本だけで生きているわけではない。国境を越えたたくさんの交流で自分自身の人生が成り立っていることをケイは意識した。
 何も人に限った話ではない。グローバルの市場には、動物と植物も交じっている。動物も植物も、生きているか死んでいるかは別にして、毎日国境を越えて大量に移動している。
 僕たちの生活は、たくさんの命の移動に支えられている。どこの国にも旅せず、一人自分の部屋で暮らしているだけでも、世界中の人々の生活、労働が、自分自身の人生に流入してくる。たくさんの外国人の労働時間、外国で生まれ育ったたくさんの動植物の命が、世界を旅し、諸外国の人生に混入してくる。自分が毎日生き延びているのは、たくさんの命の助けがあってこその話。
 自分は外国の人と関わっていない。交流を避けてきた。とんだ認識違いだった。日本国内で普通に暮らしているだけで、たくさんの交流がある。避けようとしても避けられない。時代が、旅によって成り立っている。自分の体が旅しなくても、心、食事、商品、情報は、世界中を旅して回る。国際交流コンプレックスなど抱きようがないのだ。
 胃袋の中に外国産の動植物の命が入ってくる。外国産の動植物を日本国内で調理する人の多くも、外国人である。生きている限り、国際交流し続ける。平和か、紛争中かは別にして。


十七 エピローグ


 ケイはパソコンの液晶画面を見ながら、キーボードで文章を打ちこんだ。
「僕の生活は、外国の人たちの生活と複雑に絡まりあっている。僕の毎日の購買活動、何を食べて、何を買って、何を楽しむのか。そうした一つ一つの人生の選択が、外国の人たちの衣食住、外国の動植物の命を左右している。毎日の選択の重要性に、僕は早く気づくべきだった」
 質問文入力欄に文章を打ち込んだ後、ケイは「質問する」ボタンをクリックした。
 画面が展開し、人工生命の答えが表示される。
「文章が長すぎてわかりません。もっとわかりやすい質問を入力してください。そもそも今の文章は質問でしょうか。入力内容をもう一度お確かめください。あなたの知能は人工知能以下です」
 ケイは質問文入力欄の文字をデリートして、テスト仕様書に書かれた質問文を入力しなおした。
 ケイは職場に復帰した。長期休暇をとる前と変わらず、テスト設計者が書いた質問文をパソコンの中にいる人工生命に向けて打ち込んでいく。単調な生活だ。自分自身半死半生のゾンビみたいに感じる。人工生命の方が活き活きとしている。
「アンナのピエロ」があった場所は、高層マンションの建設現場になっていた。テーマパークの跡形もない。広大な敷地に鉄骨の土台が組まれ、重機と作業員でいっぱいだった。
 エヴァ・ブラウンと名乗っていたアンナにレポートを渡した後、ケイの記憶は飛んでいる。気づけばマンションの自室に裸で寝ていた。服を着てコンビ二に朝食を買いにいった帰り、郵便ポストを覗くと、クレジットカードの請求書と一緒に、実家の母親から手紙が届いていた。
 村上中学校の同窓会の招待状だった。同窓会の幹事をしている同級生は、村上市の市議会議員になったのだという。封筒の中には、リウマチに苦しむ母からの手紙と、同窓会の出欠返信用葉書のほかに、五千円札が入っていた。お札に浮かぶ樋口一葉の肖像を見て、ケイは三十歳過ぎにもなって、親から五千円をもらう自分の生き様を恥ずかしく思った。
 真実が何かもわからないけれど、真実の人生を生きていないと思える。真実とは思えないこの場所に、自分は立っている。この場所から別の場所に旅する途中である。どこにでも旅することができる。ならばまず、職場に旅してみよう。ケイはこうして、職場復帰した。
 与えられたテストをこなして、人工生命のバグをあぶりだした後、ケイは定時に退社した。マンションに帰る途中、新宿の紀伊国屋に寄ってブラッドベリの文庫本を立ち読みしていると、女子高生に声をかけられた。
「ケイさんですか?」
 微笑む女子高生の顔には見覚えがあった。阿修羅だった。阿修羅は腕が二本、顔一つの常識的な女の子になっていた。
 ケイは阿修羅を連れて、新宿駅前のコーヒーショップに入った。
「よかったね。体が元に戻って」
「前の方がよかったかも。みんなと同じで、何かつまんない」
「あれだけ嫌がっていたのに、そんなこと言って」
「ケイさんは治ったんですか? 海外交流コンプレックスってやつ」
「国際交流コンプレックス。まあ別に海外交流コンプレックスでも、外交コンプレックスでもいいんだけど、治ったよ多分。治ったというか、治らなくてもよくなったっていうか。病気だと思っていたけど、病気じゃないことに気づいた。脳が勝手に病気だと思いこんで、痛みの信号を作り出していただけで、病気でも何でもなかったんだ」
「よかったですね。私の腕が六本、顔が三個にふくらんでたのも、脳が見せた幻想だったのかも」
 ケイと同様、阿修羅も池の前でアンナに会った後の記憶がないという。気づけば阿修羅は、女子高のプールに全裸で浮かんでいたそうだ。
「私たちは、今いる宇宙に隣接する、別の宇宙に行っていたのかもしれません。この宇宙とよく似た、別次元にあるもう一つの宇宙。そっちの宇宙では、私は阿修羅の姿になっていて、ケイさんは生死に直接関係ない些細な悩みにおちこんでいた」
「死に至らしめる病におかされていなくても、脳が勝手に病気を作り出す場合もある。それに意外と国際交流コンプレックスは、世界中の動物と人間の生死を決定しているんだよ」
「向こうの宇宙には、火傷を負ったゴスロリの少女がいたし、千手観音も実体化していたし、アンナというやぶ医者もいた」
「あの子もアンナもどこに行ったのかな。二人にこっちの宇宙で会えるのかな。アンナはとにかく、火傷を負ったあの子が気になる」
「きっと会えると思いますよ、私たちも会えたんですから」
 二人はフェアトレードのコーヒー豆で煎れたカフェラテを飲んだ後、新宿駅前に出た。
「学校は楽しい?」
「勉強は楽しくないけど、生きているのは楽しい。ケイさんは、仕事楽しい?」
「真面目に生きるのはやめにした」
「何で?」
「今までは正常になるのを目指していたし、国際交流しないのは異常だと思っていた。けれど、正常って誰のための正常だろう。正常っていうのは、社会にとっての正常に過ぎないんじゃないか。もしも、社会自体が異常だったとしたら? 異常な社会が正常を装って、異常な命令を出しているかもしれない。勝利しろ、敵を憎め、敵を罵倒しろ、敵を追い落とせ、こんな命令がおりても従う必要はない」
「難しい話はよくわかんない」
「社会に従う必要なんてないと今さら気づいたんだよ。社会なんて本当はどこにもない。社会は、僕が脳神経の中で勝手に実体化した想像上の構築物だ。つまり、誰の思惑にも従わないで、気楽に生きるようにしたってこと」
「それじゃあ、私と同じってことですね」
 新宿駅構内の通路を歩く阿修羅の姿は、他の女子高生と変わらない。彼女が六本の腕と三個の顔を持つ阿修羅だったとは、誰も想像しない。
「アンナみたいになりたいな。アンナならどうやって行動するか、時々想像してみると、面白いよ」
「アンナさんって思考が宇宙人ですからね」
 阿修羅は小田急線に乗って帰っていった。ケイは阿修羅を見送った後、駅ビル地下の食材売り場に寄った。キムチとアメリカンドッグとドイツビールとタイ米を買い物かごに入れる。フロアの向こうで、可愛らしい少女を連れた白衣の女性が買い物をしていた。ケイは二人の顔をはっきり確認しなかったが、アンナが冗談めかしながら、娘がいると言っていたことを思い出した。
(了)




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