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小説『ありがとうと言える幸せを感じたことがあったろうか』

最終更新日:2009年6月28日






 今日から僕は、他の生命に対する責任を毎日書いていくことにした。
 二十一世紀初頭の日本で生きている、僕が持つべき責任とはなんだろう。
「持つべき」という表現は、適切ではないかもしれない。責任は、誰にも等しく割り当てられている。
 ともに生きていく上で、協力すること、他者の権利を侵害しないこと。こうした責任を、みんなよく忘れる。
 責任を忘れたとしても、一日単位で見てみれば、たいしたことはない。他の存在を無視した振る舞いに、周囲の人が嫌気を感じるだけだ。
 しかし、無責任な行動が、幾日も積み重なったとしたらどうだろう。
 日常の何気ない行動が他者を傷つけるものばかりになる。
 自分勝手な人ばかりになって、社会というか地球の存続まで危うくなってくる。
 生きているのは自分一人ではない。
 僕の他にも、生きている生命体がいる。僕以外の生命はみな、彼ら自身が価値を感じていることを実現したいと思っている。
 彼らの生活を侵害することは、ルール違反だ。
 命のルールを意識すること。
 これこそ、僕が持つ責任ではないだろうか。
 他の生命に対する責任を持っていたとしても、その責任を忘れてしまう。
 忘れないためには、自分が他の生命を傷つけていないか、毎日観察し続けることが必要だ。


二 


 生きていくためには、他の生命を犠牲にする必要がある。
 他の生命を口にして、エネルギーを得なければ、僕の命は尽きてしまう。
 栄養を得るための殺傷行為は、必要最低限であれば許されるだろう。問題は不必要に、他の生命を犠牲にすることだ。
 食べもしない食事を作ること、これは責任放棄の行動だ。
 食べなかったものを捨てること、命に対する敬意の欠如はいただけない。
 お金持ちの食卓にはあり余るほど食糧があるのに、経済的に困窮していく国々の人は、日々の食事にさえありつけない。こうした偏りもまた、ともに生きる仲間への責任放棄だ。
 他人の振る舞いを非難していても、空しさがつのるだけだ。
 まずは、世界にとっては小さな僕の食事を見つめてみよう。
 日曜日の朝、僕は九時頃起きて、かぼちゃのリゾットを食べた。近所のドラッグストアで買ったインスタント食品だ。
 かぼちゃのリゾットの上には、納豆を乗せた。納豆には付属の醤油とからしを入れて、いりごまも混ぜた。
 食事中は、二リットル入りのペットボトルに入った冷たい麦茶を飲んだ。リゾットと納豆は全部食べたが、ステンレス製のマグカップに入れた麦茶は、飲み残した。
 昼にはカレーのチェーンストアに行って、トマトとアスパラの入ったカレーを食べた。カレーにはテーブル備え付けのつけものと激辛スパイスを入れた。氷の入っている水も飲んだ。
 食後、カレー屋の向かいにあるカフェによって、アイス・ヘーゼルナッツ・ラテを飲んだ。牛乳とアイスコーヒーの中に、ヘーゼルナッツの成分を入れた飲み物だ。グラスの中には氷が入っていたし、クリームや砂糖も入っていたことだろう。
 夕方には、コンビ二で買ったあさりのパスタを食べた。食事中はまたペットボトル入りの麦茶を飲んだ。
 夜二十二時過ぎには、鶏肉入りのクリームドリアを食べた。朝食のリゾットと同じく、近所のドラッグストアで買ったインスタント食品だ。
 さて、僕の今日一日の食事は、どれほどの命を犠牲にしただろうか。
 かぼちゃ、米、豆、麦、トマト、アスパラガス、ヘーゼルナッツ、コーヒー豆、あさり、小麦、鶏、水。
 僕は食事中、これらの生命を犠牲にしたとは思っていなかった。僕に食べられる命に対して感謝の気持ちもなく、お腹が減ったから、習慣的に食事をしただけだ。
 インスタント食品を作ってくれた人、カレーやラテを用意してくれた店員さん、ドラッグストアやコンビ二でレジを売ってくれた店員さんにも、僕は感謝することはなかった。
お金を払って、食料を買いこんで、食事しただけだ。
 義務と惰性。
 今日、僕はともに生きる仲間たちに対する責任を放棄していたのだろうか。
せめて、感謝すること。
今日、誰かの命や貴重な時間を犠牲にして、僕の命を永らえさせたことに感謝しよう。
 生きさせてもらった分、僕に何ができるのか、考えてみよう。





 自分に強くあること。人にも強くあること。誇りと優しさを忘れないこと。マルクス・アウレリウスの心で生きること。媚を売らないこと。
 自分を安くしないこと。拝金主義を退けること。高潔な人格を目指すこと。周りに流されないこと。自己の目的を忘れないこと。最後の日を目指して。
 今、僕は、毎日文章を刻みつけている。この試みを、マルクス・アウレリウスの『自省録』やリルケの『マルテの手記』に続くものにしたい。確かな言葉で、命に対する責任を刻みつけていくこと。命を無駄にしないこと。





 必要なことは、衣食住に満ち足りることだ。
 身につけるものがあり、食べるものがあり、住む場所があれば、他には何もいらない。
 こうした悠々自適の気持ちがあれば、ストレスがたまることはないし、競争する必要もない。何故競争するのか。衣食住に満ちたりること以上のことを求めるからだ。
 競争して得る喜びよりも苦しみの方が多いなら、何も競争しない方がいい。





 いつも食糧を買っている店員さんに、感謝の言葉をかけたことがあっただろうか。店員さんはいつも僕に「ありがとうございます」と言う。僕は店員さんから食糧をもらったのに、感謝の言葉を述べない。お金を支払うばかりだ。それは傲慢だろう。
 店員さんに文句を言うお客さんが最近多いという。クレーマーというそうだ。
 クレーマーは、お客さんの方が店員さんより偉いと思っている。店員さんは、お客さんのどんな要望にも仕える絶対的奴隷だと思っている。
 そうだ、クレーマーにとって、店員さんは奴隷でしかない。
 お客さんも店員さんも、客、店員という関係を超えて、同じ社会に暮らす人間として、対等なはずだ。
 それが忘れられているとしたら、悲しい社会です。
 そういう僕も、食糧をコンビ二、ドラッグストア、スーパーで買う時、店員さんにお礼を言わない。お金を払うだけで無感情だ。
 時に機械的に「ありがとうございます」と繰り返すだけの店員さんもいるけれど、明日からは、どんな少しの買い物でも、店員さんに感謝の言葉を述べることにしよう。義務としてではなく、心からの祝福として。
 ありがとう。今日も僕に食糧を与えてくれてありがとう。こんな遅い時間まで、店を開いていてくれてありがとう。こんな遅い時間でも、新鮮な食料を備えてくれてありがとう。
「化学調味料まみれの食品をおかないで下さい。消費期限切れの食品をおかないで下さい」そういうクレームを言う前に、まず、こんなにも長時間働いて、食品を用意してくれる、店員さんに感謝の言葉を述べよう。
 棚に並ぶ食糧には、店員さんのほかにも、たくさんの人の協力が寄りそっている。
 食糧を育てた人、工場で食糧を詰めた人、トラックで運んでくれた人、全ての人に感謝の言葉を述べよう。
「ありがとう、僕はあなたたちのおかげで生きています。おいしくいただきます」
 このような感謝の気持ちが、人と人とのつながりが、マニュアル化された社会から消えていく。
 つなげよう、店員さんはロボットではない。僕らと同じ社会に暮らす、大切でかけがえのない人間だ。





 今朝もいつものように、会社近くのコーヒーショップで食事をした。かぼちゃコロッケのサンドイッチにアイスコーヒーだ。
 アイスコーヒーを用意し、冷蔵庫にサンドイッチを入れておいてくれた店員さんに感謝しようと思ったけれど、自分が思うようにはできなかった。
 納得いく形で感謝できなかったけれど、自分を責めるのはやめにして、感謝しようとした気持ちを大切にすることにした。今までは思いつきもしなかったのだから。
 毎日僕の朝食を用意してくれるコーヒーショップの店員さんに感謝の気持ちを表すことは、今までお客様ぶって接していた分、恥ずかしいけれど、大事な行為だ。
 
 いただきます。
 毎日食事を用意してくれてありがとう。
 感謝して食べます。

 レジカウンターに立つ店員さんの奥には、見えない人たちの仕事がたくさん控えている。
 かぼちゃを育ててくれた人、コーヒー豆を育ててくれた人、コロッケの油を作ってくれた人、パン生地の小麦を育ててくれた人……
 食事の原材料を育ててくれた人たちは、世界中に散らばっていることだろう。
 その人たちに感謝の気持ちを述べよう。朝食を食べている時は、よく思いつかなかったから。
 かぼちゃをコロッケにしてくれた人、コロッケをパンに挟んでくれた人、コーヒー豆を焙煎してくれた人。
 工場で機械が作業していたとしてもいい。機械を設計した人、組み立てた人、管理している人たちに感謝できる。
 サンドイッチとアイスコーヒーを店まで運んでくれた人、運送トラックの手配をしてくれた人。
 僕が朝、コーヒーショップでかぼちゃコロッケのサンドイッチとアイスコーヒーを食べるまでの間に、無数の人の仕事と愛情が介在している。

 これら全ての仕事に感謝します。食事をおいしくいただきました。ありがとうございます。

 昼は、別の喫茶店で、卵の入ったサンドイッチと、アイスロイヤルミルクティーを飲んだ。
 喫茶店でアイスロイヤルミルクティーを注文する人はあまりいないのか、若い女性店員さんは、アイスロイヤルミルクティーの作り方がわからなくて、少し手間取っていた。
 店長の立場らしい年輩の男性店員さんは、僕の後ろに列ができている様子を心配してか、ちょっと乱暴な口調で、若い女性店員さんに作り方を指示していた。
「アイスロイヤルミルクティーなんて、注文してしまって、すいません。忙しい時間帯にご迷惑をおかけしました」
 僕はそうあやまりもせず、店員さんが飲み物を用意してくれる様子を見つめていた。
 飲み物を用意し終わって、レジを打つ店員さんは、とても晴れやかな顔をしていた。
 卵入りのサンドイッチは、店長らしい年輩の店員さんが手早く用意してくれた。
「昼時で忙しい中、用意してくれてありがとうございます。少ない人員で、後輩の面倒も見てお疲れ様です。お店の売上アップに貢献できるよう、毎日食べさせてもらっています」
 食べている最中は、自分が思うほどには感謝の念を持って食事できなかったから、今ここで感謝の気持ちを書いておくことにしよう。
 接客なれてしていないアルバイトの人たちが、少しでも気持ちよく接客を行えますように。

 夜は天丼屋で天丼を食べた。
 女性店員さんは、中国か東南アジア出身のようだった。
 店は混んでおり、料理の出が遅れていた。僕は厨房近くのカウンターに座り、店員さんたちが忙しく働く様子を見ていた。
 おかみさんらしき立場の人は、厳しく、手慣れた手つきで厨房から出された料理をさばいている。
 アジア出身の女性店員さんは、まだ手早い仕事になれていないようで、おかみさんの仕事ぶりに追いつこうとして、がんばって仕事している様子が感じられた。
 僕が注文した天丼も、調理が済んでから、ちょっとの間があいてから、運ばれてきた。
 以前の僕なら、少しでも料理の運びが遅いと気分悪くなっていた。しかしまあ、こんな些細な遅れで、気分を害する必要があるだろうか。食事をいただけるだけでもありがたいことではないか。
 僕は悲惨な事件で亡くなった子どもたちの代わりに、天丼をおいしくいただこうと思った。もう天丼を食べる事ができない子どもたちの代わりに、一口一口、おいしく天丼をいただいた。
 寒い十二月の夜に、食事にありつけない大人も子どもも、たくさんいるだろう。天丼をいただける僕は、実に幸福な存在なのだ。

 今生きて、天丼を食べて暮らしていけることに、最大限の感謝を捧げます。

 こうして感謝しながら食事することは、単なる自己満足に終わるのだろうか。
 ここから始めていけばいいのだろう。
 心をとげとげしくせず、食事をいただけることに感謝しながら、自分の仕事を続けていこう。
 
 天丼を食べ終わって、レジに行った時、中国人らしい女性店員さんがレジを打ってくれた。
 少し年輩の店員さんの声はとても柔らかく、優しく、愛情深かった。僕は店員さんの故郷の人々が幸せになることを願った。
 お母さんたち、お父さんたち。娘さんは遠い日本でがんばっていますよ。娘さんが出してくれた天丼をおいしくいただきました。娘さんは優しい言葉遣いで働いていますよ。

 天丼を食べ終わって仕事場に帰る前、百円ショップに寄って、ウーロン茶を買った。
 百円ショップのレジには、高校生っぽい若々しい女性店員さんがいた。彼女は機械的に、手早くレジ打ちをこなした。商品をビニール袋に入れる手つきも実に手馴れたものだった。
 マニュアル化された、機械的な対応から、心の通いあいを見つけることは難しかったけれど、普通は百五十円で売っているウーロン茶のペットボトルを百五円で売ってくれたのだ。感謝する点はたくさん見つかる。
「安い価格でウーロン茶を売ってくれてありがとう。たくさんの人がこの百円ショップで買い物をし、お店が繁盛するようお祈りします」
 帰る途中、いつも寄らない雑貨屋さんの店内をのぞいた。コンビ二、スーパー、ドラッグストアなど競合店が多い中、二十年前の店のような、古い雑貨屋さんの店構えだ。
 店の入り口に、コンビ二でよく見るような肉まん、あんまんが入っている透明のボックスが見えた。
 肉まんがとてもおいしそうだ。今日は天丼なんて豪華なものを食べず、肉まんだけでもよかったかなと反省した。
 百円で十分満足できる食事にありつける。
 肉まんを売ってくれる雑貨屋のおじさん、肉まんを運んでくれたトラックの運転手さん、肉まんを用意してくれた工場のおばさん、工場の機械を造ってくれた人、工場を建ててくれた人、そして肉まんの具になった動物や植物たち。
 これらかけがえのない存在みんなに感謝しながら、食事をすれば、ジャンクフードとも呼べるほんの少しの食事からも十分に、愛情を感じることができる。
 だいたいハンバーガーをジャンクフードって呼ぶことって、ハンバーガーの具になった牛に失礼ではないか。





 毎日毎食に感謝しながら食事することは自己満足に終わらない。
 食事に感謝しながら食べることが、何故自己満足と批判されるのだろう。食事に感謝することは、当たり前のことではないか。
「いただきます」
 他の生命の命をいただくのだ。
「ごちそうさまでした」
 食事を作ってくれた人に感謝するのだ。
 そう思いながら、夜、ベッドに入った。
 僕の体を包む毛布、羽毛ぶとん、枕、ベッド、これら全ては、誰かが作ってくれたものなんだと気づいた。
 僕が住んでいるマンションのこの部屋も、誰か職人さんが建ててくれたものだ。
 部屋に毎日供給される電気も、誰かが手配してくれているものだ。
 テレビ、電話、パソコン、冷暖房、こたつ、ステレオコンポ、風呂、トイレ、キッチン、冷蔵庫、電子レンジ。
 全て誰かの手が通ってできたかけがえなのないものだ。僕には作ることができないものだ。
「実にありがたいことです。今までこうして自分が恵まれていた事を忘れていました。ごめんなさい。自分の傲慢さを反省し、明日からは、恵みに感謝しながら生きていきます」心にそう思った。
 翌朝、ニュースを見ると、工場を解雇され、住む場所さえなくした派遣社員さんのニュースが出てきた。
 世界には貧しい人がたくさんいるし、僕たちは浪費する生活を続けている。なのに僕は感謝さえせず、今ある幸福を当たり前に存在するものとして享受してきた。もっと欲しいとさえ思っていた。
 その分僕は疲れていた。
 他人と比較してどうこうという問題じゃない。僕個人が、感謝できるかどうかの問題だ。
 恵まれてあること、見ず知らずの大勢の人に助けられながら生きていることに気づけるかどうかの問題だ。多くの動植物の命を犠牲にして、食事し、生き続けていることの意味を見出せるかどうかなのだ。
 いやいや、もう一度ゆっくり考えてみよう。
「生きていくことの意味を見出せるかどうか」なんて、僕の胃袋に入るかわりに、死んでいった仲間たちに対して、実に失礼な言葉ではないか。
 生きていること自体が、実にありがたい。大切なことを忘れていた。

 僕はスーツの上にコートを羽織って、電車に乗って出社した。
 朝、通勤ラッシュの時間帯の混雑した電車は嫌だなと思っていたけれど、この地下鉄さえ、大勢の人の仕事でできている。
 いや、「この地下鉄さえ」なんて、「さえ」をつけて表現することもおこがましい。東京の地下に電車を通すことに、どれだけの人々の人生が費やされたのか。
 地下の穴を掘ってくれた人のおかげで、僕は毎日通勤することができる。そのありがたさを忘れて、満員電車が息苦しいと、文句ばかり言っていた。
 朝食は、会社近くの牛丼・うどんチェーンで食べた。
 自動券売機で納豆定食を注文した。
 店員さんに注文の声をあげることなく、機械にお金を入れて、ボタンを押して、注文する。
 この機械を作ってくれた人に感謝することができる。何も機械だからって、感謝の対象から外すのは、もったいないことだ。
 昼は定食屋で焼肉定食を注文した。
 ここの店でも注文には券売機が使われていた。
 券売機によって店員さんが注文伝票を書くという手間が減ったのだ、券売機を発明してくれた人に感謝しよう。
「今日も店員さんの手間を減らしてくれてありがとうございます。毎日毎日たくさんの人の注文をとってくれて、ありがとうございます」
 機械に感謝の想いを抱くことは滑稽だろうか。券売機のボタンを押して、食事を注文した後、まだ食事は来ないのかとイラついていることの方が、滑稽ではないのか。
 券売機のある店だと、店員さんに感謝する機会がなかなかない。店員さんは始終「ありがとうございます」と口にしているけれど、東京に暮らすお客さんの顔はいつも冷たい。
 お客様は神様で、店員さんは奴隷なのだろうか。お客様は何故みんなあんな冷たく、不服そうな顔つきで一人カウンターに座っているのだろうか。
 夜はモダンな内装の中華料理店に行って、ジャージャー麺と半ライスを注文した。
 昨日食事したお店の店員さんが中国人ぽかったように、このお店の店員さんも東アジア諸国から日本に来た人のようだった。
 遠い国からはるばる日本にようこそ、おいしい食事をいただきます。
 いつもこのお店に行くと、一人でも水の入ったポットを用意してくれるのだが、今日はポットがなくて少々寂しかった。
 僕が食べ終わりそうになった頃、店員さんが水のたっぷり入ったポットをおいてくれた。
 店員さんがテーブルにポットを置いた時、大きな音がしたので、少しむっとしたけれど、すぐに「こんな小さなことで怒って一体何になるのだろう。店員さんのためにも、自分のためにもよくないことだ。まだ日本に来て日が浅くて、日本の文化に慣れないのかな。店員さんが成長することを心から願おう」と思った。

 外資系の会社に勤める僕の友人は、店員さんにクレームをつけることが大事だという。
 西洋文化では、はっきり文句を言うことでお互いの成長を促進しあうことが喜ばれるのだろう。けれど僕は性質的にか何なのか、小さなことに感謝しながら生きる方が、心地よかった。
 今、自分が享受している生活に、どれだけ多くの人の支えがあるのか、多くの人は忘れている。
 便利な機械に囲まれて生活していると、たくさんの人に支えられて生きていることのありがたさを忘れてしまう。自分が授かったものに対する想像力が奪われてしまうのだ。
 自分がこうして食べているジャージャー麺にどれだけの人の愛情がこめられているのか。
 ジャージャー麺になった動植物たちが、かつて僕と同じように生きていたことまで忘れてしまう。
 便利なようになったようで、つながりは希薄だ。
 たくさんのものとつながりすぎているからこそ、一つ一つのつながりに感謝できなくなったようだ。
 少ないつながりでもいい、大切なつながりに感謝してみよう。
 食べ終えて、レジの前に立ったら、前のお客さんが宴会か何かの予約をしているのか、だいぶ待たされた。
 コンビ二やスーパーのレジの速さに慣れているせいか、少しでも待たされるといらいらしてしまう。
 これも「お客様」の悪いくせだ。
 時間はたっぷりあるのに、ほんの一、二分待ったところでいらつく必要など全くないではないか。
 そのわずかな時間を楽しい想像に使えばいいではないか。





 今日は朝、いつもとは違うカフェで朝食を食べた。
 チーズ&ベーコンクロワッサンにアイスのカフェラテ。
 ここのお店のカフェラテは独特の旨さがある。
 カフェラテを飲んでいるというより、とても美味しい飲み物を飲んでいるという気持ちになる。
 こうして朝、仕事前にカフェで食事をしながら、読書できる喜びを感謝しよう。
 店員さんは笑顔いっぱいにお客さんを迎えてくれる。
 お客さんが入る前、朝早くから店の準備をし、眠たい様子も見せずに働いてくれる店員さんに感謝しながら、食事をおいしくいただいた。
 昼はいつもより遅い時間に食べた。別のカフェで、野菜の入ったサンドイッチとアイス・カフェラテを注文した。
 仕事で忙しく、感謝する気持ちを忘れていたからか、食べてすぐにお腹が減ったので、帰りのコンビ二で肉まんを買って食べた。
 その時もまた、肉まんに感謝する気持ちを忘れていた。
 ただお腹が減ったから、疲れをとるために食糧摂取しただけだった。
 せっかくこうして食べ物に感謝する気持ちを記録しているのに、忙しかったりすると、以前の何も感謝しない習慣に戻ってしまう。
 レジで少しでも待たされれば、ストレスをつのらせる。食事の原料となった生命に感謝することもなく、空腹を満たすためだけに食事を口に入れる。感謝するわずかな時間的余裕がないと、忙しさの中に食事が埋もれてしまう。
 派遣社員が大量に解雇される時代だ。
 仕事があるということだけで感謝すべきところだ。
 僕が感謝する気持ちを忘れた原因を、忙しさに求めることは、間違いだろう。
 自分自身の忙しさを批判する前に、忙しいほど仕事があることにまず、感謝しよう。
 忙しい仕事から給料がもらえる。僕の仕事を喜んで待っていてくれる人がいる。大変ありがたいことではないか。

 夜はカレーのチェーン店で食事をした。
 肉じゃがコロッケにチーズと納豆をミックスしたカレーを食べた。三つの食材がカレーの中で混ざり合って、とても贅沢な食事をした気分になる。
 料理のオーダーをとってくれた女性店員さんがとても親切で、愛想がよく、感激した。
 僕がメニューを見終えて、注文しようとした時、店員さんは、僕の次に店に入ったお客さんに、水を運ぼうとしていた。
 僕は店員さんが水を運び終えるのを待つことにした。メニューを閉じて元の場所に戻していたら、トレイに水を持ったまま、店員さんが「お決まりでしょうか?」と僕のところに笑顔で来てくれた。
 僕は「肉じゃがカレーに、チーズと納豆」と注文した。
 いつもなら店員さんは、注文内容を手持ちの機械に入力するのだが、トレイに水を持っていたせいで、入力できなかった。
 店員さんは「肉じゃが、チーズ、納豆ミックスカレー」とカウンター奥のキッチンに向けて言った。
 キッチン奥で忙しく料理を作っていた店員さんが、僕の注文内容を復唱してくれた。
 注文内容が通ったことを確認しつつ、店員さんは別のお客さんのテーブルに「お待たせしました」と水を置いた。
 忙しい中、気のきく店員さんだなと感激した。
 水を運んでいるのに気づいて、注文を控えた僕の動作を、店員さんは見逃さなかった。「このお客さんは注文したいんだな」と気づいた店員さんの気づきの心に感謝した。
 注文をとってくれた店員さんが、レジも打ってくれた。
 レジを打つ時も、店員さんは元気な声と振舞いで、お客である僕を迎えてくれた。実に気持ちがいい接客だった。
 このように素晴らしい接客や料理だけを褒めると、他の店員さんやお店に悪い気がする。
 現代は、誰もが消費者になる時代だ。
 お店のレビューがインターネット上のいたるところに存在している。評論家だけでなく、一般のお客さんが、店員さんやお店の評価をネット上に書く。
 駄目な接客や下手な料理は批判される。
 評価を始めると、競争が始まる。
 インターネットが始まる前の時代は、不便だったけれど、ここまで店舗間の生き残り競争が過酷ではなかった。特徴のない料理店でも、十分生活を維持できるほどに繁盛していた。
 今の時代は、評価を下す人がたくさんいるから、創意工夫を続けていないと、お客さんが来なくなる。
 僕はなるべく個々のお店や料理を評価せず、全ての食事に感謝したいと思った。なぜなら、全ての食事は、何らかの生命の犠牲だからだ。
 料理を作ってくれた人にも、等しく感謝の心を表したい。見知らぬ他人の僕に料理を作ってくれただけで、実にありがたいことなのだから。
 森の中で、ひっそりと聖者のように暮らすことはたやすい。
 慌しく競争の激しい都心部で、静かで穏やかな心を維持するのは難しいけれど、やってみる価値はある。
 都会にいながら、満員電車に揺られながら、森の奥でゆったりと生活するような心を維持すること。『森の生活』の心境を、都心に暮らす間も維持すること。
 生きていること、食事をいただいていることへの感謝の気持ちを忘れないこと。
 忘れそうになったら、思い出せるように、日記をつけておくこと。
 日記をつけることで、感謝の思い、気づきをより深くすることができる。
 今まで気づかなかった、日常の何気ない気遣いに、感謝すること。
 今日も生きていた。
 仕事ができた。
 食事について書くことができた。
 実にありがたいことだ。





 金曜日の朝は、友達の家に泊まる予定があったため、ボストンバックを持って会社に向かった。明日がゴルフで朝が早いため、友達の家に泊まるのだ。
 朝は会社近くのカフェでアイス・カフェラテとアマンド・クロワッサンを食べた。
 レジを打ってくれた店員さんは、接客経験が浅いのか、ぎこちなく感じられた。仕事の仕方もまだよくわからず、怯えながら作業をしている店員さんを温かく見守った。
 昼は定食チェーンですき焼き定食を食べた。
 一人のお客さん用のカウンターに並ぶと、隣に年輩の男性が腰掛けた。
 工事の作業員のような服装をした彼の席と、僕の席の間には、わずかな隙間しかなかった。
 僕は左利きだから、注文した料理が揃ったら、右利きだろう隣のお客さんと腕が当たるだろうなと不安に思った。
 スペースが狭いので、何となく不快に想い、もう少し左にずれてくれないだろうかといらいらした。
 すき焼き定食を食べる間もいらいらは続いた。そこで僕は、隣のお客さんも仕事の合間をぬって、定食屋にくつろぎに来たこと、僕より年輩である隣のお客さんを、邪魔だ、わずらわしいと責めるのは、間違っていると考えた。
 僕は隣のお客さんにいらつく代わりに、隣のお客さんの心が安らぐことを願った。すると、隣のお客さんとの身体の近さが苦でなくなった。
 些細なことでいらいらしていたのが、実にバカらしく思えてきた。
 夜は会社の同僚三人で電車に乗り、埼玉にある友人の家に向かった。
 途中、上野駅前の中華料理屋に入り、たんたんつけ麺と角煮丼のセットを食べた。泊めさせてもらう友人の代金は、僕ともう一人で、おごることにした。
 友人と一緒に食べたということもあるのだが、食事に対する感謝の念は沸き起こってこなかった。食事とお茶がとても美味しいということだけが、記憶に残った。
 注意しないとすぐ感謝の心を忘れて、楽しいこと、気持ちいいことに浮かれる自分がいる。
 楽しいこと、気持ちいいことを感受できることのありがたさを忘れないでおこうと思った。
 
 上野駅から三人で快速特急のグリーン車に乗り、埼玉県の北部に向かった。
 グリーン料金は、みんなスイカかパスモで支払う仕組になっていた。僕は電車に乗る前、ホームにある機械を利用して、パスモでグリーン車の料金を支払った。
 グリーン車の席についた後は、席の上にある赤色の読み取りランプにパスモをかざした。グリーン車料金支払い済の信号を読み取り終えると、赤いランプは緑のランプに代わった。
 友人によると、グリーン料金が切れる手前の駅につくと、ランプが教えてくれるという。乗ってくる人みんながスイカやパスモをかざしてから、席についていた。僕はこういうグリーン車の仕組みを初めて知り、機械文明の進化に驚いた。
 グリーン車に座っていると、きれいな乗務員さんが切符の確認に回ってきた。切符の確認というより、スイカかパスモで料金支払いを済ませていないお客さんのところに行って、現金でお金をもらうようにしていた。
 乗務員さんは、料金確認用の機械を手に持ちつつ、腰まわりにはお茶のペットボトルやらお菓子を詰めたかごを巻いていた。お客さんが「お茶」と注文すれば、お茶を売ってくれる。
 僕の席近くのお客さんが、ミネラルウォーターを注文した。
「今持っておりませんので、すぐに持ってまいります」と言って、乗務員さんがグリーン車の外に出た。
 乗務員さんは本当にすぐ、ミネラルウォーターのペットボトルを持って戻ってきた。
「飲食物の車内販売と、料金確認を一人で兼ねられて、ご苦労様です。人員効率の流れで大変でしょうが、お体に気をつけて頑張って下さい」
 僕は心の中で、彼女の幸福を願った。
 友人の家近くの駅についてからは、友人の車に乗って温泉に行った。
 ずっと背中から肩から痛かったのだが、ジェットバスに入ったら、身体中の疲れがとれた。小学生の頃みたく、元気になった。
 埼玉は緑が多く、広い駐車場を持つファミレスやコンビ二がたくさんあった。
 中野や新宿にある緑は、都会の中に、人為的に確保された自然だったけれど、埼玉の自然は、それこそ「ごく自然」に、目の前に広がっていた。人間が無理して用意した自然ではなかった。
 コンビ二の壁が薄茶のレンガ色だということもよくわかった。
 中野や新宿近辺のコンビ二はどこも、周囲を隣の店の壁に囲まれていて、入り口以外の壁が何色になっているかなど、わからなかった。
 コンビ二の壁を珍しいものとして眺めていたら、子どもと一緒に暮らすなら、東京都心部よりも埼玉だなと思えてきた。埼玉には、僕が子どもの頃暮らした田舎と同じ、自然の空気があったし、何より時間がゆったりと流れていた。
 友人の車に乗っている最中、僕らが学生の頃聞いていた音楽が流れた。
 僕は音楽の歴史的意義とか、時代の変遷に注意しながら、批評家的に音楽を聴いていたけれど、友人たちはみな、好きだから、いい曲だからという理由で、音楽を聴いていた。
 確かに僕も大学生の頃まではそうだった。多くの音楽愛好者は、単純に好みと感性で音楽を楽しんでいるだろう。
 自分は頭で考えすぎるようになっている。単純に、すばらしい音楽を享受できる環境に感謝することにしよう。
 友人の家は、周りに店も無く、道路周りに広大な自然の風景が広がっており、とても落ち着ける場所にあった。
 僕らは深夜零時になるまで、コンビ二で買ったお酒とスナック菓子を食べながら、語りあった。
 こうして友人の家に泊まるのも久々のことだった。友の家に泊まることができるという、当たり前の喜びを味わった。


十 


 日曜日は、午前五時半に友人の家を出て、友人の運転する車で茨城のゴルフ場に向かった。
 前日コンビ二で買っておいたおにぎり二つを車の中で食べた。
 ゴルフ場には七時前に到着した。
 自分がゴルフをやるなど予想もしなかったが、みんな同僚がやるので、友のすすめもあってやることにした。
 運動不足の自分にとっては、スポーツの機会として貴重な体験になった。
 ゴルフ場には、自然が広がっており、景色を眺めているだけで大変ありがたい気持ちになった。
 こうしてゴルフをできるだけでも幸せなのだ。生きていることの奇跡に感謝したい。
 昼はゴルフ場の食堂で、なすと鶏肉のチーズオーブン焼き定食を食べた。大変おいしくいただいた。一緒に生ビールも飲んだ。
 自分が今回のコンペの幹事だったので、ゴルフ場の係員の方々の接客がすばらしかったことを嬉しく思った。
 幹事としてよいゴルフ場を選べてよかった。ゴルフ場の人たちが、不況の中でも、幸せに暮らすのに十分な収入を得ることを願った。ゴルフ場と言うと、自然をお金持ちのための遊び場に加工している、自然破壊の空間だというイメージがあったが、ゴルフ場にも、働いている人がたくさんいるのだ。受付で働く人、売店で働く人、コースを整備する人、キャディーさん、レストランで働く人、風呂を用意してくれる人、たくさんの人が、ゴルフ場を支え、ゴルフ場の仕事から生活の糧を得ていた。
 僕はゴルフ場の害悪について語るよりも、ゴルフ場で働く人々の幸せを願う方を選びたい。げんにゴルフ場には、働いて、生活を維持している人たちがいるのだから。
 ゴルフ場からは、別の友人の運転で、家まで送ってもらった。
 家についてから、僕はすぐに地下鉄に向かい、新宿駅へ行った。昨日埼玉で入った温泉のジェットバスが大変気持ちよかったから、マッサージ機械を買いたくなったのだ。
 電気店に向かう前に、新宿駅前のラーメン店によって、たんたんつけ麺を食べた。このお店でも、働いているのは、中国系らしい女性店員さんだった。
 彼女に十分な収入が行き、祖国の家族も安心して暮らせることを願いつつ、たんたんつけ麺をおいしくいただいた。
 電気店を何軒も回った後、ドンキホーテでハンディ・マッサージ器とEMSの機械を購入した。
 どちらも二千円程度のものだ。
 ハンディ・マッサージ器は、腰や背中に当てると、大変心地よかった。
 現代社会では長時間の技術労働が求められる。働きすぎると、身体を壊すが、緊張の後には、リラックスが必要だ。
 意識的にリラックスする時間を持たないと、すぐに疲労で倒れてしまう。
 僕は自分から積極的に、自分と周囲を癒す機会を持つことにした。そうした時間は、自分から積極的に確保しないと、日常生活から逃げ去ってしまう。
 機械的な都市で暮らしながらも、心と体を安らげる時間は確保できる。
 機械の技術は、人間を痛めつけるだけでなく、人間の苦しみを和らげる力も持つ。機械が悪いわけではないのだ。
 僕はマッサージ器を作ってくれた設計者、技術者、このマッサージ器を組み立ててくれた人、店まで運んでくれた人、店にディスプレイしてくれた店員さん、レジを打ってくれた店員さんたちに感謝の気持ちを述べた。
 彼ら全員の家族まで、末永く幸せに暮らしていくことも願いながら、マッサージ器を背中に当てて、背中のこりをほぐした。


十一


 月曜の朝は、コーヒーショップでトーストとアイスカフェラテを食べた。
 昼はカフェでチーズ&ハムクロワッサンとアイスカフェラテを食べた。
 夜はとんかつで有名なお店で、ソースかつ重を食べた。
 そのお店のご主人と奥さんは実に気さくで、お客さんとも親密な様子でいつも話されていた。
 今までの僕は、親密に関わってくる店員さんたちと、一線をひいて応対していた。
 今日は一緒に食べた仲間たちと同じように、ご主人と奥さんのことを自然に受け入れ、一緒になって微笑むことができた。
 これも一緒に生きている人たちに対して、感謝することを心がけたおかげだろう。日々の記録をつけることで、目に見えた成果物はないけれど、自分の心の中で、大きな成長と喜びを感じた。
 生きることの醍醐味は、出会った人に感謝することではないだろうか。共に生きる人と喜びの感情を分かち合うことが、今までの間どれだけできてきただろう。


十二


 今日は朝、月見そばを食べた後、ホットのカフェラテを飲んだ。料理を作ってくれた店員さんたちに対しても、自然と愛情の念が表に出てきた。
 昼はカフェで、チキンサンドイッチとアイスのカフェラテを注文した。この時、美味しいと思うだけで、食事と店員さんに感謝する気持ちを忘れていた。
 この食事を誰が作ってくれたのか、この食事の元になった生命はどういう生活をしていたのか、想像力がめぐらないと、感謝の気持ちを述べることができない。
 忙しさにかまけていると、感謝するのに必要な想像力が奪われてしまう。
 ただ、以前も確かめたように、忙しく働けることは、大変ありがたいことだ。
 不平や後悔の気持ちを述べる時間があったら、真面目に、人のために働こうと思った。
 夜は、インドカレーの店で、後輩と二人で二人前のスペシャルセットを注文した。
 インド人の店員さんが用意してくれたカレーとチーズナンはとても美味しかった。鶏肉、玉子、トマトサラダ、コーヒーなど食事の原料になった生命たちに感謝しよう。
 明日は会社の健康診断がある。今日食べたカレーの力を使って、明日は健康であることを診断してもらおう。


十三


 水曜日の午前中、会社の健康診断で、新宿駅前のビル内にあるクリニックに寄った。
 朝は小雨が降っていた。一昨年の健康診断では、自分はこんなに心労で苦しんでいるし、身体のあちこちも痛いのに、西洋医学では健康と判断されてしまう、西洋医学は僕の苦痛を汲み取ってくれないと、ひがみっぽいことを思ってしまった。
 それが災いしたのか、去年の健康診断では、尿検査と肺のレントゲンでひっかかり、二次検査を受診した。二次検査の結果、糖尿病は問題なしと結果が出た。肺については、一次検査の頃肺炎だったが、今は治っていると言われた。
 今年は健康診断でよい結果が出るように十分体調に気をつけて、検査に望んだ。
 それでも、検査中、検査後と、身体中の筋肉やら神経が痛かったのは、去年や一昨年と同じだった。しかし、検査は順調に進んだ。
 今までは健康診断するくらいなら、ヨガ教室に行きたいというほど、西洋医学嫌いだったけれど、今年は、西洋医学の元で働く看護婦さんやら医師の人々と、感謝の気持ちを持ちながら接触することができた。
「検査をしてくれてありがとうございます。毎日毎日たくさんの患者さん、健康診断で訪れる働く人たちの健康を気遣ってくれて、本当にありがとうございます」このような気持ちで、西洋医学に従事する人たちと接することができるとは、思っていなかった。
 今まで自分は西洋医学のことを、人間の健康を管理するシステムとしか思っていなかったが、今年は、心のこもった、生命の感触あふれる技術だと思えた。
 これは大きな心の変化だった。
 東洋医学であろうが、西洋医学であろうが関係ない。医術に従事する人の心は同じだ。
 医術を尊ぶことができるかどうかは、僕の心にかかっていた。
 東洋も西洋も、自然も技術も関係ない。日々生きている人々に感謝の気持ちを表現していくこと。この記録を続けていこう。それが僕にとっての生だろうから。


十四


 木曜日の朝、テレビを見ていたら、「繊維筋痛症」という病気がニュースで取り上げられていた。
 繊維筋痛症とは、全身に激しい痛みが出る病気で、原因は不明である。
 自分は毎日筋肉の痛みを感じている。神経から痛むと思える。コーヒーを運ぶトレイを手に持っただけで、手から腕、肩へと痛みが走る。
 過労、睡眠不足、運動不足、姿勢の悪さ、仕事のストレスなどの要因が重なって痛いのかと思っていたが、どうも自分は、「繊維筋痛症」かもしれないと思い直した。
 いとこが数年前、原因不明で体中痛くなり、仕事もできず、入院していた。最後まで原因不明だったそうだが、僕はとにかく、いとこの症状は、繊維筋痛症だろうと思えた。
「お前も気をつけた方がいい」といとこに言われていたが、まさしく僕が今体験している痛みや症状は、いとこの症状に近いと思えた。
 しょっちゅう身体をマッサージしているが、痛みが引かない。
 テレビに出てきた繊維筋痛症の女性も、毎日身体中が痛く、「幸福」を体験できないと言っていた。
 何かを手に持つと、身体に痛みが走るため、料理することもできないと嘆く彼女の痛み、辛さを僕も感じることができた。人間としての基本的幸福を奪われること、生活さえ営めなくなるほど、筋肉が痛むのは、実に辛いことだ。
 僕は彼女の痛みがひくように祈ったが、自分自身の痛みさえどうすることもできなかった。
 仕事中も、家でもパソコン作業しすぎだから、筋肉や神経が痛いのかと思ってもいたが、繊維筋痛症の患者さんは、日本全国で数百万人といるらしい。繊維筋痛症は、現代ようやく認知されるようになった、人類的な病気かもしれない。
 大学生の頃はこんな痛みはなかった。
 今の僕は時間がないのだろう。
 感謝する時間を増やそう。
 やすらぐ時間を増やそう。
 この痛みは必ずとれる。
 そう思って、安心しながら、日々を過ごすことにしよう。


十五


 金曜日の夜は、曙橋の商店街で食事をとることにした。
 中華、天丼、定食と店が並ぶ。
 入る店を迷いながら歩いていたら、商店街の一番奥まで進んでしまった。
 人通りも少なく、灯りもない。道の向こうには住宅街が続いている。
 そんな寂しい商店街のはずれに、インドカレーのお店があった。
 お客さんが誰もいなかったので、店に入った。
 店内奥の小さなブラウン管のテレビに、インドのテレビ番組が映っていた。テレビの音はない。店内には音楽も流れておらず、とても静かだった。
 学生風のインド人の男性店員さんが、メニューを持ってきてくれた。
 九百円のディナーセットを注文した。
 店員さんによく聞き取れない日本語で、カレーは何にするか質問された。僕はチキンカレーを選んだ。
 ナンとチキンカレーが運ばれてきた。僕は静かな店内でゆっくり食事をした。
 食事中に他の客が入ってくることもない。 あまり繁盛していないのだろう。僕がお客さんになることによって、ここで働くインド人の店員さんたちのお金が増えることを願った。
 商店街のはずれに店を構えたから、お客さんが来ないのだろうか。立地がまずくても、美味しいお店は評判になって、お客さんが集まるのかもしれない。しかし、このお店は、これからもお客さんが増えることはないように思えた。
 市場競争は厳しいものだ。だからこそ、僕はこのお店が繁盛することを願った。
 店員さんたちに別に落ち度はない。美味しい料理を出してくれる。繁盛して行列ができるお店で食事するより、僕はこうしたお店で食事をしていこうと思った。
 繁盛するお店には、わざわざ僕が行かなくても、お客さんが集まる。
 こうしたお店が、不況によって潰れるのは心もとない。
 インドからはるばる日本に来てくれたインド人の店員さんたちが、幸せになるように願いながら、僕は食事をした。


十六


 昨日午前零時前に眠りについたおかげか、根強くあった腰の痛みがとれた。
 久々に身体に痛みを感じず、休日を過ごすことができた。
 最近は、食事ばかりに感謝の祈りをささげてきた。命をなくす存在に感謝してから、食事することは、飽食の時代にあってとても大切なことだが、お金を使う瞬間全てに、感謝の祈りを捧げてみようと思った。僕がお金を使うことで、誰かが幸福になるのだから。
 お金だけではない。僕が世界に働きかけることで、誰かが幸せになる。
 働きとは、本来そういうものだろう。
 誰かを不幸にするような働きはしたくない。できることなら、見ず知らずの誰かを幸せにする働きをなしたい。
 僕の仕事に直接触れる人以外にも、僕は幸せを分け与えることができる。
 お金を使うことで、僕がお金を支払ったお店の店員さんが幸せになる。
 誰もがごく普通に買い物をしているが、お客さんがその店にやってくるということは、店員さんにとって実は、とてつもない奇跡なのだ。
 僕は店員さんたちを幸せにするために、これからの人生、買い物を続けることにした。
 朝は昨日ドラッグストアで購入したリゾットを食べた。
 昼は牛しゃぶしゃぶ定食を食べて、カラオケに寄った。
 夜は中華料理屋で白ゴマたんたんつけ麺を食べた。
 僕が今日立ち寄ったお店の店員さんたち全員が幸せになることを願おう。僕の支払ったお金で、世界が少しでも幸福になることを願おう。
 僕もお金を支払うことで、幸せを分けてもらっていた。
 お金に罪はない。お金に意味をつけているのは、僕らの心だ。
 財布に入れておいたお金を使う機会を得たことに感謝した。
 
 自己満足だろうか。いや、必要なことなのだ。
 お金を使う時に必要なことを怠っていたのだ。
 こうした行為を自己満足と呼んで、さけずむ風潮こそ、自分の身体を傷つけるものだと感じた。
 
 夜眠る時、自分はひょっとして、幸せではないのかと思えてきた。
 そうだ、幸せなのだ。幸せだったのだ。
 自分は結婚したり、家族を持ったり、あるいは文章を書く仕事で大成しなければ、幸せにはなれないと思っていた。どれも達成できていなかったから、僕は自分自身のことを、失敗した存在であると責め続けていた。
 違ったのだ。
 そうして自分を否定することは、僕が身体を横たえているこのベッドに失礼な気がした。
 このベッドを構成している枕、ベッド、ふとん、毛布、シーツを僕は購入した。
 このベッドという構成物を僕に与えてくれた人々に、僕は今まで大変失礼なことをしていた。
 生きてこうしてベッドに身体を横たえているだけで、大変に幸福な、奇跡的なことなのだ。
 僕は部屋にあって僕を取り囲んでいる家具やら本に感謝しつつ、眠りについた。
 自己否定、自己に対する攻撃はもうやめた方がいい。
 自己否定は、自分に与えられたものをも否定することにつながる。自分の身の回りにある商品、道具を製作した人々の仕事を、否定することにもつながる。
 商品が毎日大量に生産されているから、作ってくれた人への感謝の気持ちが起きにくい。
 目の前にある商品の向こうに、何が存在していたのか想像することだ。想像せずに、消費ばかり続けていると、人とのつながりが見えなくなる。
 今消費しているこの商品にも、たくさんの人の手が通っていることをよく想像してみること。


十七 覚え書き


 感謝する気持ちをよく忘れてしまうので、いつも心に保持したいことを、定型化することにした。

○食事をする際の注意点

・食事の原材料は何か想像してみる。
・食事の原材料となった動植物に感謝する。
・原材料の餌となった動植物にも感謝する。
・原材料を育ててくれた人に感謝する。
・原材料から料理を作ってくれた人に感謝する。
・食糧を運んでくれた人に感謝する。
・店員さんに感謝する。
・それら全ての人の家族まで幸せになるよう感謝する。

 ここまで思いながら、食事をいただければ、十分だ。
 今日もたくさんの人の協力のおかげで、食事をすることができた。
 感謝します。


○お金を使う際の注意点

・お金が財布にあることに感謝する。
・お金を支払える余裕があることに感謝する。
・お金を支払ったことでお店が幸せになることを感謝する。
・お金によって商品が手に入ったという当たり前のことのありがたさに感謝する。
・自己満足ではない、これは当たり前のことだと観念する。

○働く際の注意点
・社会に労働として認められていることだけが、仕事ではないと注意する。
・生きて世界に働きかけること、その全てが働きなのだと注意する。
・どうせ働くならば、より多くの人の幸せのために働こうと意識する。
・僕が生きていることで、多くの人の喜びとなるよう、働き、生きていく。
・呼吸するだけで、地球のためになっていると思い、自分を必要以上に責めることはやめにする。

 常識にとらわれていては、感謝することができず、朽ち果てていくことになる。
 心をいつでも、ともに生きている人に向けていこう。

 今日、父親から電話がかかってきた。
 正月休み、何日に帰るのか聞かれたので、三十日と答えた。
 自分も大変お世話になった親戚のおじさんが、胃がんの手術をしたが、二十九日に退院するという。手術を終えた親戚のおじさんに会うのが楽しみになってきた。
 去年まで、親と電話する時、何もいらつく必要などないのに、いらついていたのを思い出した。
 今日、電話した時は、まるで心がいらつかなかった。
 自分の中の何かが取れたのだろう。


十八


 本気で取り組むことだ。
 逃げないことだ。
 欲望に溺れないことだ。
 
 やりたいことをやりなさい。
 
 この言葉は、嘘かもしれない。
 自分がやりたいと思っていること。
 これは現実逃避のための口実かもしれない。
 
 本当に必要だが、達成困難なことが目の前にあるとする。
 達成するためには、様々な障害があるとする。
 実現が難しいため、僕は逃げてしまう。
 僕は他にやりたいことを無理矢理見つけ出す。
 自分が心からやりたいと思っていることは、現実から逃げる口実かもしれない。

 現実を正しく見つめてみよう。
 自分がやりたいことが、逃避なのか、本物なのか、よく見つめてみよう。
 そこから生活がようやく始まる。
 
 受け入れることだ。
 今の自分を受け入れたくないから、自分で自分を攻撃していしまう。自己否定するのはやめよう。
 攻撃するかわりに、変えてみよう。自分で変えることができる。
 不変でわずらわしいと思える、組織、企業、社会、国家、地球というものさえ、自分の力で変えることができる。
 自分は社会に属し、社会を構成しているけれど、社会を変えることができる。社会は不変じゃない。まず、今の社会を受け入れることだ。
 不況と格差を受け入れることだ。攻撃するのはやめにしよう。受け入れた後、いくらでも変えられるはずだ。

 真面目に生きることだ。仕事で疲れるのは、不真面目にしているせいだ。
 転職する前、僕は毎日仕事で疲れていた。
 転職してすぐは、疲れなかった。メリハリがあったからだ。
 ちゃんと働いて、評価してもらおうと思っていれば、忙しくても疲れることはない。
 未来に希望を持つことだ。すると疲れはなくなる。
 今の僕は、転職前みたいに毎日疲れきっている。絶望しているためだ。
 精一杯社会人としての勤めを果たしながら、文章も書き上げよう。絶望する必要はない。昼の仕事と、夜と休日文章を書く仕事、自分の仕事の現状を受け入れよう。自分に対する攻撃はやめにしよう。

 この記録は哲学だ。宗教ではない。自己啓発でもない。自己批判でもない。どう生きていくかの指針、哲学だ。
 ギリシアの時代、知るとは物事の本質を知ることだった。
 現代において、知るとは、自分の命が、たくさんの人の働きに支えられていることを知ることだろう。
 コンビ二やスーパーに並べられている食品には、世界中の人の働きが携わっている。
 それを想像する自由を僕たちは失ってしまったのではないだろうか。
 忙しすぎるのが原因だろうか。
 知るとは、哲学するとは、自分が食べる食品の原材料を知ることだ。食品の製造に、たくさんの人々の手が加わっていることを知り、大勢の人の働きに感謝することだ。
 
「犠牲になった動植物に感謝します。自分の時間を、僕の食事を作るために犠牲にしてくれた労働者さんたちに感謝します。僕はあなたたちにお金を支払って、命をいただきます。この命を糧にして、僕も世界に貢献できるよう、文章を書きます。文章が世界に認められないうちは、昼間働いて、自分のだらしなさを埋め合わせることにします。僕は自分の状況を受け入れます」

 こうして生きていることが、奇跡であると知ること。
 大勢の人の愛と働きによって、自分が生かされていることを知ること。
 目の前にある事物の先を想像すること。現実を想像で補うこと。これは哲学だ。


十九


 祝日で休みとなった火曜日の朝、牛丼チェーンでキムチ牛丼を食べた。
 狂牛病問題で、牛丼チェーンは大打撃を受けたことだろう。狂牛病騒動が起きた時、「俺は焼肉食べる」と言っていた、会計士になった理知的な友人のことを思い出した。
 牛を食べることは悪いことだろうか。
 ベジタリアンだけに正義があるのだろうか。
 そうした狭い考えは、牛丼屋で働く店員さんの幸せを奪ってしまうのではないか。
 政治的主張は抜きにして、僕は牛丼屋で働く店員さん一人一人の幸福を願うことにした。
 僕が牛丼を食べることで、店員さんたちに給料が支給されますように。
 僕の食事代が店員さんたちの給料になるとは、合理的には考えられない。しかし、店員さんたちの給料も結局、キムチ牛丼代490円の積み重ねなのだ。
 夜は、近所の中華料理店で、マーボー丼を注文した。前々から店の場所を知っていたが、今日はじめて訪れた。
 店は表通りから少し奥まったところにある。店の前に人通りはない。
 牛丼チェーンなどが並ぶ表通りに、このお店の看板が出ている。そうでもしないとお客さんが来ないのだろう。
 どこで食べようか迷いながら、表通りを歩いていたら、中華料理屋の看板を若者が見ていたので、僕も気になった。
 結局その若者は、中華料理店に行かなかった。
 僕が入った時、店にお客さんはいなかった。
 僕が店を出るまで、お客さんは入ってこなかった。
 店が裏通りにあるせいだろうか。
 料理は、ごく普通だった。好立地にあれば、人が集まってもおかしくない。人気が出れば、料理も一緒においしくなっていくことだろう。けれど、このお店にお客さんはいなかった。
 注文をとるおかみさんと厨房にいる料理人さんは、夫婦であると思えた。二人が会話する時は、中国語らしい言葉で話しあっていた。
 僕はこの店が繁盛することを願いつつ、マーボー丼を食べた。
 このお店にたくさんのお客さんがきますように。
 お二人の家族、祖国の人々もみな、幸せに、すこやかに暮らせますように。
 おかみさんが途中、僕が座っているテーブルの側によってきた。「すいません」と言いながら、おかみさんは調味料などの備品を補充した。
 食事中の僕に気を遣ってくれたのだろう。
 けれど、「すいません」なんて、お客である僕に謝る必要などないのにと、僕は思った。
 店のテレビには、うなぎの産地偽装を暴くドキュメンタリー番組が映っていた。中国産のうなぎが、日本産とうたわれ、高額で販売されているという。うなぎ養殖企業の経営者さんは、報道記者さんに批判されても、しらをきっていた。
 日本はどうしてこうなってしまったのだろう。
 以前からこういう騙しあいはあったのかもしれない。ネットが広まって、情報公開が活発になった結果、こうした不正が表に出てきただけかもしれない。
 僕には、お客さんと店員さんが、他人行儀になってしまったことが、一番の原因だと思える。
 社会の共同性が希薄になったとよく言われる。都会で道を歩く人のほとんどは見知らぬ他人だ。僕はせめて、外国から来て中華料理店を開いてくれた、このお店の人たちに、「食事を用意してくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えることにした。
 コンビ二、スーパー、ドラッグストア、チェーン店の店員さんたちに対しても、感謝の気持ちを伝えることができる。
 店員さんたちは機械的に、レジを打ち、商品をビニール袋につめることもあるだろうけれど、ともに同じ社会で暮らす人間として、店員さんたちと接することは可能だ。
 昔はよかったと回顧するのも過ちだろう。昔の封建的な社会には、今の社会から見ればおかしいと思える風習がたくさんあった。
 大切なのは、人に、人として接するという、当たり前のことなのだ。
 昔だって当然、人を奴隷のように扱う風習はたくさんあった。
 現代でもそういう風習は変わらずある。
 昔に生きるとしても、今に生きるとしても、人には人の接し方をしよう。
 動植物に対しても、同じことが言える。生きている動物、植物の命を尊び、慈しむことにしよう。


二十


 今日はクリスマスイブだ。
 マリア様とサンタクロースに幸せを祈ろう。

 夜、仕事場近くのお弁当屋さんに、弁当を買いにいった。
 今日もお弁当屋さんには、中国かどこかアジア系の外国人の人が店番をしていた。
 男の店員さんも、とてもきれいな女性の店員さんも、二人とも、外国からはるばる日本に働きに来てくれた人だ。
 彼と彼女にも幸せなクリスマスが訪れることを願おう。
 僕がチキン南蛮弁当を注文することで、二人に豊かで幸せな時間が訪れることを願おう。
 チキン南蛮弁当を持ちつつ、お弁当屋さんの向かいにあるコンビ二に行った。黒ウーロン茶のペットボトルを買った。
 ここでもレジを打ってくれたのは、中国かどこかアジア系の男性店員さんだった。
 彼がレジを打っている最中、店の奥からもう一人若い店員さんが出てきた。
 声のトーンを聞いて、こちらの店員さんも、外国からの店員さんだと気づいた。
 はるばる外国から来て、コンビ二でレジを打ってくれて、どうもありがとうございます。お二人と、お二人の家族や恋人が幸せになることを願います。

 コンビ二、スーパー、飲食店でアジア系の店員さんを見ることは、東京都内では当たり前になった。よくよく考えると、ヨーロッパ系やアフリカ系の店員さんは、各国料理専門店でしか見たことがないなと気づいた。
 日本が活力を持つには、外国の人たちの力が必要だ。僕らは助け合って生きている。外国からはるばる日本に働きに来てくれた店員さんたちに感謝しよう。あなたたちの旅のおかげで、僕たちの食事が賄われています。
 僕が今晩食べたチキン南蛮弁当も、黒ウーロン茶も、よく考えれば純和風の飲食物ではない。原料も、外国産のものが使われているだろう。
 僕は外国の人々の仕事にたくさん助けられて、生きている幸せを感じた。
 外国の人で日本好きな人は、親日派と呼ばれる。外国の人が日本の悪口を言っていたら、気分が悪くなる。僕はせめて外国の人々に偏見を持たず、差別せずに、親しみをこめて接していきたいと思った。
 自分自身外国に対して親しく接することができなくて、外国の人に親密さを求めることは傲慢だろう。
 戦争は偏見と想像力のなさから生まれる。
 
 お金を使う度に「使いすぎだ」、「浪費したんじゃないか」、「貯金もないのにまた使ってしまった」と嘆いていたが、そんなふうに落ちこむ必要はない。
 十分な量のお金に満ち足りていると思って、お金を使っていくと、とても幸せな気分になる。お金を使うことに後悔は不要だ。満ち足りた気分でお金を使っていれば、自然と無駄遣いがなくなる。倹約した生活になる。
 あれも欲しい、これも欲しいという商品に対する渇望は、我慢から生じる。不必要なものまで買うから、お金が足りなくなる。
 満ち足りていると思えば、必要なものだけ買うだけにすれば、お金や欲望で悩むこともなくなる。
 これはお金に限った話ではない。仕事でもそうだ。本当に、社会にとって、歴史にとって、人々にとって必要な仕事に集中すること。
 世界にはたくさんの仕事がある。本当は、一秒の時間も無駄にできない。たくさんの人が、働きを待っている。一秒も無駄にすることなく、自分の仕事を人々のために役立てることだ。
 
 今日もお金を使うことができた。
 今日も外国から日本に来てくれた人々に役立つことができた。
 ありがとう。


二十一


 他の小説家と競争することを目標にして、文章を書くのはやめにしよう。
 より多くの人に僕の本を買ってもらえることを目標として、文章を書こう。
 僕の本を買ってくれた人が幸せになりますように。
 笑顔が生まれますように。
 健康に、快活になりますように。
 
 何故文章を書いているのか。
 競争に勝つためではない。多くの人に存在を届けるためだ。
 僕は世界に投げ出された。世界中に、僕と同じように投げ出された人がいる。みんなが世界に向けて、メッセージを投げかけている。僕はメッセージの一部を受け取る。受け取ってばかりでは、申し訳ない。僕からも、世界に向けて、返信すること。
 世界の歴史に、社会に、政治に、子どもたちに向けて、返信すること。
 生まれてきたのは、メッセージの往復に応えるためだ。


二十二


 今日は会社の忘年会があった。
 新宿のふぐ料理専門店で、ふぐの刺身、あぶり焼き、鍋などを食べながら、お酒を飲んで、みんなで盛り上がった。経済不況と言われる中でも、年末最後の金曜日のふぐ料理屋さんは、お客さんでいっぱいだった。
「こうしてふぐ料理屋で食事できることを喜びます。大勢の人に幸せが訪れるよう、お祈りします」
 不況で苦しむ人が世界中にたくさんいるのに、会社の忘年会として、ふぐを食べていていいものだろうか。そう反省されるなら、この境遇に感謝し、より精一杯働くことだ。会社での仕事だけでなく、社会に生きる庶民としての務めも、十分に果たしていこう。
 そう、僕の書く仕事は、庶民としての務めを果たしていくことだろう。
 市民ではしっくりこない、国民でもしっくりこない、世界市民、あるいは国際人なんてたいそうな言葉も似合わない。庶民として、書いていくこと。それが僕に与えられた仕事だ。
 
 二次会はカラオケに行った。
 カラオケでは歌って、踊って大変盛り上がった。
 新宿駅南口で近所に住む先輩と一緒にタクシーに乗り、中野まで帰った。
 こうして歌い、踊り、お酒を飲めるのもみな、恵まれているおかげです。今日も無事仕事をし、みなと楽しく過ごすことができました。感謝いたします。


二十三


 生まれた時からずっと、満ち足りていると思って生活すること。
 本当は、生まれた時からじゃないんだ。
 生まれる前から、父と母が愛し合っていた頃から、僕たちはずっと、満ち足りていたのだ。
 満ち足りていると頭の中で思っていれば、自然と生活に喜びと恵みが満ちてくる。
 満ち足りていると思っていたからこそ、僕はこの時代に投げ出されたのだ。
「欲しいものは今まで全て手に入ってきたし、これからも全て手に入る。なぜなら、自分は多くの人の仕事に支えられているから。大勢の人が、いつでも僕を守ってくれている。僕は彼らの助けに答えるため、彼らを助ける」このように思いながら、生きて返信を書いていくことにしよう。
 書くことは全て、呼びかけに対する返信だ。
「書くよう呼びかけられている」と思うことに絞って、書いていくこと。常識から離れていてもかまわない。常識の方が間違っているかもしれない。世界に投げ出されたのだから、応えていこう。
 解答はないかもしれないが、問いかけに応えることはできる。


二十四


 最近、僕が口にする食べ物の命に感謝する行を忘れていた。
 気をつけていないとすぐに忘れる。
 テレビ、仕事、ネット、いろいろな場所から新しい情報が僕のもとにやってくる。それらの情報のほとんどは、素通りしてもよいものだ。立ち止まってよく考えるべき情報が、膨大な量の無意味な情報に押し流されてしまう。
 昨日の夜、ベッドで横になりながら、反省しているうち急に、夜食べたラーメン屋店内の映像が頭の中に浮かんできた。
 僕は店員のお姉さんが出してくれた白ゴマたんたん麺を食べた。
 大変ありがたいことだったのに、何の感謝もしていなかった。ただ美味しいと思って食べただけだった。
 あのお姉さんに何の感謝もしなかったことを激しく後悔し始めた。
 実にありがたいことだ。
 何故あの店員さんは、僕にあんなにも美味しい白ゴマたんたん麺を作ってくれたのだろう。
 僕があのお店のお客さんだったからだろうか。
 僕がお金を支払ったからだろうか。
 僕がお金も出さず、彼女が店員でもなかったら、彼女があんなにもおいしいたんたん麺を僕に出してくれることは、ないだろう。
 お金もない、お客でもない僕に彼女があの白ゴマたんたん麺を無償で作ってくれたら、それこそ奇跡だろう。
 けれど、僕がお客さんだとして、お金を店に支払ったからだとして、たんたん麺を食べることができたこともまた、奇跡なのだ。
 人生においてかけがえのない、一回きりの大変ありがたいことなのだ。
 僕は食べている最中に感謝しなかったことを後悔しつつ、これからはきちんと感謝を重ねていこうと思った。
 
 同時にまた、お金もない、お客でもない人々に美味しい料理を提供する人が、世界中にたくさんいることを想像しよう。
 彼ら、彼女たちは、お金の支払いがなくても、毎日料理を作っている。
 何故だろう。
 愛があるからだろうか。
 僕も毎日美味しい料理を作る気持ちで、文章の記録を続けていこう。


二十五


 心が満たされている。
 生活も満たされている。
 何もかも満たされている。
 何も欲するものはない。
 全てを手にしているからだ。
 今まで全てを手にしてきた。
 生まれる前から、全てを手にしていた。
 生まれること自体が、奇跡だった。
 
 苦しむ必要はなかった。
 生まれた瞬間から喜びに包まれていたのだから。
 こうして文章を書いている今もまた、報われている。
 本当は以前からずっと、世界は応え続けてくれていた。世界が与えてくれた応答に、僕自身気づけなかっただけだ。
 求める必要があるものなど何もない。全て、僕が求める前から、僕のところに到来し続けている。

 どこにも束縛されず、自由でいるためには、人の評価を求めないことだ。評価を求めるかわりに、感謝するだけだ。
 自分を認めてくれる人がいなくていい。
 感謝する相手がいれば、それでいい。
 だから慌てなくていい。
 いつでも落ち着いていこう。
 心を研ぎ澄まし、究めよう。研究ということに終わりはない。
 僕は今まで、自分自身信じることができない人に、言葉を送り届けていた。
 自分自身信じられないし、人のことも信じられない。それでは言葉が無力になって当たり前だ。
 信頼した人たちに、言葉を送り届けていこう。
 おそれることはない。押し黙って、眠りに逃げる必要はない。


二十六


 今日風邪の人に話しかけられた。
 一瞬、風邪をうつされたら嫌だなと思った。
 すぐに、彼の風邪が早く治りますようにと祈った。
 すると風邪をうつされたら嫌だという不安感が綺麗になくなり、あたたかい気持ちになった。
 中国では、あひるを調理した女性が鳥インフルエンザに感染したという。
 人間の間でインフルエンザが猛威をふるうパンデミックの恐怖が、マスコミを中心に煽られているけれど、こんなのも言ってみれば、人々の不安につけこむ情報操作だ。
 不安を煽って売上を伸ばすよりも、インフルエンザにかかった全ての人が早くよくなることを願おう。


二十七


 少しでも多くの人に、僕が考え、感じたことを読んでもらいたい。わかりやすい言葉で語りかけたい。
 昼に、ハンバーガーショップで食事をした。
 何のことはない、普通のハンバーガーショップだ。
 男性の店員さんが二人おり、お客さんも六人ほどいた。
 僕の右には、娘さんを連れた外国人のお母さんがいた。
 食事中、このお店にいる人全員に夢や希望があるんだなと思った。
 ハンバーガーを作ってくれた若い店員さんにも夢があり、お母さんにも夢があり、まだ幼い娘さんにも夢があるはずだ。
 けれど、ハンバーガーショップで普通にハンバーガーを食べていては、そうした事実が頭に浮かんでこない。
 同じ店にいる人は、お互い無関心な他人でしかない。
 関心があっても、無関心なふりをしていることが、店の中ではマナーだったりする。
 けれど、ここにいる人たち全員に夢があり、希望があると想像してみることにしよう。
 心が少し落ち着いた。
 外国から日本に来て暮らすお母さん、その娘さん、店員さん、みんなが幸せな人生を送ることができたらいいと思った。


二十八


 ありがとうと言える幸せを感じたことがあっただろうか。

「ありがとう」

何気なく言うけれど、「ありがとう」と言えるということは、実に幸せなことだ。ありがたいことだ。

 ありがたいことだから、まれなことだから、「ありがとう」と言うのだ。

「ありがとう」と言う時は、感謝の気持ちを捧げる奇跡とのめぐりあわせを喜ぼう。

 今日も一つ、ありがとうと、言うことができた。ありがとうと、書くことができた。
 ありがとうと言えて、書けるこの幸せは、当たり前のものではない。誰にでも与えられている現実ではない。この言葉を心においておこう。


二十九


 人類はいつまでたっても争いを続けている。どんなに科学技術が進化し、歴史や知性が発展しても、争いは解決しないのだろうか。
 それは生存競争と呼ばれる、生命にとって必要な紛争なのだろうか。
 せめて自分だけは、競争の結果に執着することなく、勝者にも敗者にも優しく接することができる人格になりたい。
 変えることができるのは、社会ではなく、自分だ。
 他人を変えることはできない。
 誰かの力で変えられてしまった他人は、マインドコントロールされた人だと言える。
 僕にできるのは、僕が接する人の変化を助けることだけだ。
 
 テレビのニュースで連日伝えられるほどには、不況を実感していない。最近唯一不況を実感することといえば、家から駅に向かうまでの歩道に、ホームレスの女性がいることだ。
 時々いない時もいるが、彼女の荷物が、歩道に積まれている。海外旅行に出る時使うような大きなスーツケースと、バッグが二、三個。ビニール傘が三本ほど、ペットボトルや弁当が入って膨れたビニール袋が、複数まとめられている。
 彼女の荷物は新宿側の歩道にあったり、杉並側の歩道にあったりする。
 朝の通勤時や夜の帰り道で、彼女の荷物と、彼女に出会う時がある。彼女はぼさぼさで、白髪交じりの長い髪で、顔に化粧気もなく、背は低い。化学繊維性のコートを羽織っており、スカートではなくパンツ姿だ。
 彼女は荷物の側に立っていたり、うずくまったりしている。最近は彼女の姿を見かけないことの方が多い。荷物だけを歩道において、どこかで眠ったり、食物や求人口を探しているのだろうか。
 僕は彼女に話しかけたことがなかった。道を歩く、家を確保している誰もが彼女に話しかけないでいる。
 みんな見捨てているのだろうか。
 関わらない方がいいと判断しているのだろうか。
 自分自身でもわからない。ただみなが彼女と話さないから、僕も話さないのかもしれない。
 よく考えてみれば、道を歩く他人と話したことがなかった。道を聞かれた時に口を開くくらいだ。そういう社会に僕は今、生きているのだ。
 
 僕は彼女に声をかけるべきではなかったろうか。
 彼女にけむたがられても、声をかけるべきではなかったか。結局僕が書いていることは、行動の伴わない、偽善だったろうか。
 自分を偽善者にしないためにはどうすればいいだろう。
 自分は何を成し遂げることができるだろう。
 職にあぶれて、衣食住にままならない人が出ないよう、社会の最低限の安全を保障することができるよう、よりよい社会の建設に向けて、仕事をしていこう。
「よりよい社会」のイメージは、一人一人異なる。価値基準の多様な時代だ。それでも「よさ」をめぐって、対話したり、書いていくことができる。
 歩道に暮らす彼女に、誰も声をかけず通り過ぎていく社会は、いかがなものだろう。僕の見ていない場所で、誰かが彼女に声をかけているのかもしれない。僕が彼女の存在に触れる時間は、一日のうちごくわずかなものだ。毎日何を食べて過ごしているのだろう。
 寒い夜、雨の降った日、どうやって過ごしているのだろう。
 僕は、偽善者だろうか。現実を前にして、何ができるだろうか。


三十


 僕の心に、歩道に荷物を置く彼女の存在が居座っている。
 きれいごとでなく、偽善でなく、彼女たちのために自分に何ができるだろうか。
 何の心も痛めず、競争の結果として、現実を受け入れている人がいる一方で、支援に動いている人もたくさんいる。
 僕にできることと言えば、書いていくことだけだろうか。
 何のために。問題を知らしめるために。
 人にはそれぞれの役割がある。
 自分の無力や、心の弱さを罰しすぎることもよくない。
 自分の仕事に足りない部分があると思ったら、自己批判を続けずに、何ができるか、考えることだ。考える事に行き詰ったら、まず行動してみることだ。
 世界に生み出された僕らの中には、幸福を感じながら生きている人もいれば、不幸を感じながら生きている人もいる。
 幸福を独占している人は、幸福とはいえない。競争の勝利者は、敗者を打ち負かすために勝利するわけじゃない。
 他の多くの人の喜びのために勝利し続けること。
 勝利とは、自分個人の幸福のためでなく、泣いている人々の幸福のためにあるだろう。
 時代の流れを自分で変えることができる。
 世界に向けて、発信を続けること。
 ありがとうと言える幸せを感じたことがあったろうか、と。
 今日も僕は三食、食事をして、麦茶とウーロン茶をたくさん飲んだ。会社の休みだったが、ずっとパソコンで文章を打っていたので、肩と首がこっている。コンビ二で肩こりが和らぐというドリンクを買って飲んでみた。まだ痛みが続くから、風呂にゆっくり入って、ベッドに入る前にこりをほぐそう。今日も一日、平和に終わる。
 こうして生きて、感じたことを書ける自由に感謝しよう。やるべき仕事をやっていないと思えたら、できるように、変えていこう。世界も歴史も永遠不変ではない。何もかも、個人一人一人の選択に寄っている。
 自己責任と言って、敗者に問題を押し付けるのは、はしたない振る舞いだ。自分自身勝利したと思うことができるなら、勝利の責任を果たすことだ。
 戦いとは、誰かを打ち負かすことを目的とするものではないだろう。打ち負かされている誰かの力になること。世界中に紛争が溢れている。助けを必要とする人は、世界に無数にいる。
 何も英雄ぶる必要もない。どんな仕事でも、誰かの助けになるのだから。自分を卑下することなく、働きを続けていこう。  (了)


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