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小説『彼女の無限』

最終更新日:2008年11月9日

   第一章


 一 私と恵麻は、ずっと以前からこの場所に座っている。私たちは、積み重なる時間を肩に背負って生きている。

 二 肩の力を抜いて、そっと。何も背負わなくていいの。どこにも行かなくていいの。

 三 恵麻がすすり泣いている。私は彼女に苛立ち始める。恵麻は、何千年も前からずっと泣き続けている。私は彼女の泣く顔か、涙をこらえる顔しか覚えていない。

 四 誰かの涙を見つけたら、その人の涙に指で触れてみて。優しく彼女の頬に手を置いて、彼女の気持ちをいたわってあげて。
 感じてあげて。彼女が泣く理由を考えて。

 五 私は暇を見つけては、恵麻の涙をもとにして小説を書いていた。私は、一時流れてはすぐに消えてしまう彼女の涙を、小説という永遠に変えようとしていた。恵麻は、私が彼女の涙を小説にするのを黙認していた。

 六 黙認は、彼女の愛情、彼女の優しさ、彼女の容認。彼女はあなたを受容していた。

 七 この部屋に二人で座りこむ前、恵麻はいつも深く、大きく、笑っていた。私への熱情が、彼女の顔から飛び出していた。恵麻の熱は私を魅惑した。
 彼女の笑顔を思い出す度に、私の胸は高鳴り、体全体が火照ってくる。私は恵麻の、今はもう失われた笑顔を愛していた。

 八 高鳴り、火照りこそが愛。彼女の笑顔は失われてなんかいない。何もこの世界からなくならない。失敗、消滅、全て信じなくていいの、あなたの頭が勝手にそう思っているだけだから。愛だけが全てをつなぎとめる。関係性を打ち立てる。
 
 九 私は座りながら、恵麻の笑顔を丁寧に思い返してみた。いくら具体的に思い出してみても、結局は何の慰めにもならなかった。
 忘れられた歌がある。私がその歌を思い出そうとする。細かいフレーズは思い出せないが、歌は私の頭の中で蘇る。恵麻の笑顔を思い出そうとする。ごく細かい点まで、鮮やかに思い出せる。しかし、記憶の中の恵麻の笑顔は、私に何も与えない。

 十 頭の中にある、記憶の彼女を愛そうとするのをやめて。目の前にいる彼女を愛して。慰みものにするために、あなたの愛する人は存在しているんじゃない。あなたが関わって。関わることが愛。自分の頭の中に閉じこもるのをやめて。

 十一 煌煌とした思いを述べるために、この小説は存在する。煌煌とした、ふつふつと湧いてくる主題のために、この小説は書かれる。私は恵麻のもとへと、何回も笑顔の主題を送り返す。
 私はただ一瞬、その状態が回復するのを待っているだけなのだ。
 私は彼女の笑顔が溢れ出す瞬間を掴み取ろうと、常に待ちかまえていた。奇蹟的に復活するであろう彼女の笑みを記録すること、生の現在を永遠のものとすること。
 私は彼女の笑顔が復活することを夢見、この場所に座り続ける。
 私の期待に反して、恵麻の顔には涙が溢れ続けていた。この尽きることなく時間が堆積する空間で、恵麻は泣き続けていた。私は仕方なく、笑顔の代わりに、彼女の涙を小説にしていた。その小説は必然的に、常に悲劇となった。

 十二 たとえ涙が流れていても、悲劇とはならない小説もある。涙は愛情から生じる。彼女は何故泣いているの? あなたのせい? あなたのため? よく考えてみて。理由がわかった時、あなたの小説は喜劇に変わる。

 ∞ ここだ。この場所で私はいつも泣いていた。私にはあいつの傲慢さがわかっていた。私にはあいつのやるせなさもわかっていた。私はあいつの望む私になりきれなかった。あいつにとって、私は謎だった。私にとっても、あいつは謎だった。
 私は弱かった。あいつもまた弱かった。なのに二人は強がり、互いに互いを支え合うことをしなかった。
 あいつが笑いながら私の手を握る。私はあいつの左手を握り返した。あいつは私に微笑み続けていた。ずっとだ、奇妙なほどにずっと。
 あいつは笑っていた。私はよく泣いた。何故泣くのか、私には理由がわからなかった。あいつは涙の理由も尋ねずに、ただ笑っていた。
 彼は優しかった。彼は優しすぎたのだ。
 彼は自分自身で、自分の傷の手当てができた。私は、自分で自分の傷の手当てをすることができなかった。私は時々痛みをこらえるために、涙を流した。彼はそんな私を嘲笑していたのだきっと。
 私は、時に夜を徹して踊った。彼は座りながら、踊る私を心細い目で見つめていた。私は踊る度にどんどん自由になった。彼は座り続けていた。彼は一箇所に縛りつけられたままだった。
 私は彼を憐れんだ。私は、こちらの世界に来いと、彼に手招きした。しかし、彼はたった一歩を踏み出せなかった。私は悲しんだ。
 私は時々彼を見つめながら、彼に歌を捧げた。彼に私の言葉を送った。彼は、ありがたくそれを受け取ったふりをした。私はまた少し哀しく、やるせない気分になった。私は、それでも懸命に笑ってみせた。彼は、少しだけはにかんだ。
 彼は、私についての小説を書いているようだった。彼は一人でそれを書き、私に見せようともしなかった。彼は、私のためでなく、自分自身の満足のために生きていたのだ。私の小説を書いているのに、彼は小説を書いていることを隠そうとした。私は、哀れな彼の小説に気づかないふりをした。






  第二章


 一 僕は笑って駆け出す。世界に向かって、弾んだ足取りで進んでいく。世界は僕の到来を待ち望んでいる。僕はゆっくりと落ちついて進み、世界を愛撫する。

 二 私の前に座って。そう。大きい。あなたは十分大きい。私は私。あなたはあなた。そうでしょ。それで心配ないでしょ。これでいいよ。
 不安が消えた? もう妙なことで悩まなくていい。そう。愛想笑いなんてしなくていい。そう。私みたいに軽く背筋を伸ばしてみて。頬の筋肉を引き上げて。そう。こっちだよ。そう。
 大事にして。私を。あなたを。あなたがあなたを大事にしてくれたら、私もあなたを大事にできる。お腹、心臓、胃腸を大事にいたわって。そう。こっちにきて。

 三 何をそんなに悩んでいるの? 肩が前に縮こまっているよ。どこに自分を押しこもうとしているの? 胸をはって。肩ではなく、腹に力を入れて。
 現実からの声が聞こえる? 違う、それは現実の声じゃない。私が現実だもの。

 四 私の隣に座って下さい。ゆっくりと目を瞑って下さい。私の夢も、あなたの夢も、全部ここに置いていきましょう。そうです、夢を置いていってもかまわないのです。もう気負わなくても大丈夫です。もうぼうっとしながら、ゆったり歩いていきましょう。
 私があなたの代わりに、あなたの夢を運んでいきます。もう一度私にあなたの笑顔を見せて。その笑顔を大事にして下さいね。大丈夫。私を信頼して下さい。あなたはもっとくつろいで生きていける。

 五 僕の声がよく聞こえない。僕の声にはブレーキがかかっていた。いつからだろう? フランスの小説を読み始めた時からか、東京にきた時からか。僕はこれから、ぼうっとしながら生きていく。

 六 思い続ける気持ちが大切だ。思い続けると、はかないものが、いつしか永遠の存在に変わる。ある時、いつかはわからないが、瞬間が、永遠に切り替わる時がやってくる。

 七 僕たちの旅は、永遠に続くのだ。たとえ僕の体が滅んでも、僕たちの旅は永遠に続く。
 
 八 誰でもないあなたへの本。君のかけがえのない人生への贈り物。君の命に実りをもたらすように。それだけを願って、僕は今これを書いている。

 九 大事なことは何だろう? 大事なことはごくわずかだ。君の仕事、それは君の知性から生じる。

 十 もう迷いがないなら、すべての行いを永遠のものにしよう。繰り返しても、恥かしくない行いを心がけよう。生活は永劫回帰するのだ。

 十一 強く、深く、太く。自信に溢れた声で話してみて。明るく、凛とした響きをともして。それは君自身の声だ。君の躍動する体。いたるところに興味を示す大きな眼。強く、深く、太く。朗らかに。

 十二 体が痛い? 肩が痛い? 顔が赤く腫れた? 無理をしているからだ。これからは君の体を、君の心を優しく撫でるように、文を綴っていこう。

 十三 僕の前で笑って。僕の前で泣いて。僕と一緒に立ち上がって。踊って、祈って。泣いて。時の流れは永遠に続く。君の生きている時間を時に落としこんでみて。強く、強く、強く、時に優しく。僕は君の行いを見守っている。君とともに叫ぼう。君とともに歩こう。
 心をいつも優しさで充たして。君に力の流れが溢れてくる。何が起きても怖がる必要はない。恐れが戦いを生む。安心して。安らかにぼうっとしていて。

 十四 私は今、世界中の生きとし生けるものに恋している。私の道はこっちだ。君の道もこっちだ。こんなにも楽に物事は進行するんだよ。大丈夫、これからも君は、普通の人の何倍ものスピードで目標をかなえていく。
 要点だけを話しておこう。君は世界の力だ。それだけだ。「君の力は世界を救う」なんて恥かしくて言えないだろう。君は世界だ。それだけだ。

 十五 お金を感じる。世界中のお金の流れ。無限に流れるお金の連なり。僕もその流れの中にいる。
 不敵な人生が始まる。ここから大胆不敵な人生が始まる。終わりのある道が見える。僕の前に敵はいない。不敵な笑み。強く、強く、強く、時に優しく。無敵の人生への跳躍。

 ∞ 馬鹿馬鹿しい。全てくだらない。もうこんな自己開発セミナーみたいな馬鹿げたことはやめて。自分を慰めることがそんなに楽しいの? これ以上何をしたいと言うの。何を望んでいる? 全く、あなたは見ていて腹が立つことばかりしている。そんなこと、何もする必要なんてないんだよ。ただ私の前に座って、私を愛してくれればいいんだ。
 あなたは逃げている。私を放っておかないで。私はあなたの前にずっと座っているのに。
 私からもう逃げないで。全て逃げです。他人からあなたは逃れようとしている。一番愛すべき人から、あなたは逃げいている。それなのにあなたは、愛を論じている。全く空想的な話ばかり。無益で滑稽だ。
 私はここにいるんだから、こっちにきて私の相手をしなさい。私はこれ以上何もあなたに求めていない。今のあなたで十分なんだ。今のあなたを認めたからこそ、私はあなたの隣に座っているんだよ。成長しなくていい。あなたはもう十分に大人だ。小説を書かなくていい。私は私について十分知っているし、あなたも私をもう知り尽くしているでしょう。ここに座っていて。私からもう離れないで。私について書こうとすればするほど、あなたは私から離れていく。この不条理に早く気づいて。
 あなたは何を恐れているの? 何が不安なの? 見放さないよ私は。あなたを捨てたりしないよ。私はそんなに冷たくない。だから、怯えないで。もっと私の相手をして。ふざけることをもうやめて。







   第三章


 一 何をもってして、人生の指針となすのか、それが彼の最大の悩みだった。指針が見つかれば、彼は軽やかに道を歩み始めることだろう。
 ふとした偶然から、彼は探し求めていた指針を発見した。「人に向かって愛を示すこと。世界に向けて愛を示すこと」なんと素朴で陳腐な標語だろう。では、そのもはや使い古されて、腐り果てている「愛」という言葉の実体は何なのか。彼は再び苦悩に囚われようとしていた。
「愛とは、苦悩の反語であるはずだ。愛があるかぎり、苦悩は訪れないはずだ。一体何を悩んでいるんだろう俺は。悩んでいる時、俺の心に愛はないぞ。愛の想いから生じていない行いの全てを愛で充たしていこう。心に愛だけを思い描いて生きていこう」彼がそう決心した時、彼の苦悩に満ちた人生は、大きく愛の方向にシフトし始めた。
 人々は世界のいたるところで愛を叫ぶ。その叫びは、情熱的であるばかりで、内容のないものばかりだ。彼は愛に深い内実を求めていた。彼にとって愛の内実とは、自己犠牲の精神に基づく奉仕だった。自分を律し、公共社会に対して、利己心からではない、自己の抑制された力を捧げること。彼は己の愛を示す道を見出したのだ。
 彼は早速実践した。彼は己の人生の行い全てを、愛の表現に変換して、他人に向かってあらん限り示した。奉仕という行いは、細心の注意と統制を行為者に要請する。彼は常に集中しながら、あらゆる人々に接した。彼は自分で見出した愛の表現に没頭するうち、かつて恵麻という女性と彼の間に生じた、束の間の恋愛を忘れていった。
 
 二 彼はそのうち己の愛を文章として残そうと考えた。彼は愛の永遠化を企んだのだ。
 彼の存在する地球、ひいては宇宙現象の全てを愛として、散文として記録すること。彼の人生は、愛するこの宇宙を散文詩として記録するために捧げられることになった。
 広すぎる、荒唐無稽だ、馬鹿げている。誰もが彼にそう忠告した。しかし、彼は凡人の苦言などまるで聞かなかった。彼は自分の目的を達するため、自分の残りの人生全てを注ぐ決意を既に果たしていた。宇宙に生じる現象の全てを記述し尽くすというおおいなる目標。しかもたった一人で。彼が生きているうちに達成できる目標ではなかったが、彼は決意してしまったのだ。
 彼だけではない、多くの偉大な先人たちが、彼と同じ決意を抱き、人生を賭けて、長大な散文を綴っていた。まさしく彼ら天才たちは、世界についての百科辞典を作ろうとしていたのだ。彼は単に、偉大な先人たちに続こうとしただけだった。一般人から見れば馬鹿げた発想だが、達成さえすれば、彼は歴史の殿堂に入ることができる。宇宙を愛し、散文として記録し尽くしてしまおうと決意したその時から、彼の人生はまた大きく変わり始めたのだった。
 
 三 何から始めるのか、まずそれが問題だった。彼は愛を描くことから始めた。愛を描く?いや、そもそも、わざわざ彼が愛を描かなくてもいいのではないか?今までの多大な恋愛小説をデータ化し、一枚の光ディスクに収容すればいいことではないか。いや、彼はそのような、楽ができる方向など選択しなかった。彼は先人の偉大なる業績の上に、自分自身の新しい視野を加えることにしたのだ。彼の時代特有の、新しい愛の描写。まず始めに、彼は自分の持てる力全てを使って、己の愛を描写する作業にとりかかった。

 四 私は恵麻を抱きしめた。抱きしめた瞬間、恵麻の柔らかな骨が折れた。私は悲嘆し、顔を歪めた。恵麻は苦痛に身を委ねて微笑んでいた。私は泣いたが、恵麻は淫らに笑い続けた。

 五「愛だと?ちっぽけな私という存在に、世界に溢れる愛の何がわかるというのか?」彼は、一度は愛の核心に触れたのに、またもや遠ざかり、おおいに悩んだ。
「私が私だと思うからいけないのだ。私の中に眠る他人のデータ、システムの全てを総動員して、愛の力を探ること、それしかない」彼はいよいよ、新たなる愛の研究に踏み出す基盤を固めた。

 六 彼は迅速に事態を進めた。目覚めている間は、愛の研究にいそしんだ。彼は全力をもって、若者たちの、老人たちの、世界中の動植物の、愛の様態を研究した。彼はそのうち愛に疲れ果てて、寝こむことが多くなった。彼が執筆の途中で寝こんでしまった時、彼の助手が彼に毛布をかけた。目覚めた時に小さな愛の存在に気づいた彼は、助手に会った時にねぎらいの言葉をかけた。助手は恥かしそうに微笑んだ。彼もまた微笑んだ。

 七 私は小説の作法を変えた。私は今まで小説を書こう書こうと焦っていた。私は追い求めすぎていたのだ。私はただ、福音が向こうから到来するのを待つだけに変えた。ぼけっと座っていれば、必ず福音は私のもとにやってきた。私は、私のもとにふと舞い降りた福音を、そのまま文章として定着させればいいことに気づいた。私の仕事は変化した。悩むことなく、私の文章は自然と増幅したし、私が思っていた以上の速度で、仕事が進むようになった。

 八 時計が鳴っている。世界の時間が渦巻いている。私が目覚めている限り、世界は永遠に続く。私の行いは日が昇る度に永劫回帰する。私の言葉が私の人生を決めていく。
「はじめにことばありき」私の世界は私の言葉によって生成する。私は、自分で意識的に自分の言葉を、世界を操る。

 九 私は言葉を操り、人を操り、世界を操った。私のいるところには必ず私の言葉があった。言葉たちは私に解釈されるのを、話されるのを待っていた。私は言葉のプロティノスだった。

 十 私が呼吸すると、恵麻も息を吸い始める。私が泣くと、彼女も泣く。彼女はいつから私と一緒に生きているのだろう?そう考え始めた時、背中がぞっとした。エマたちのおおいなる存在が私を呼んでいる。エマたちは言葉によって生み出される。言葉によって殺されもする。エマたちが笑っている。夜を闊歩するエマたちは、私たち小説を愛する者たちの守護天使だ。
 私は恵麻と接吻する。恵麻は私に接吻する。接吻が同時に起きる。時間が止まり、私は砂になる。恵麻も砂になる。混ざり合って、交じり合う。
  私が笑うと、恵麻が泣いた。私が泣くと、恵麻が笑った。私が生まれると、恵麻が死んだ。恵麻が死ぬと、私が生まれた。こうして人生は平々凡々に過ぎていく。
 
 ∞ 一体何を言い始めているの?愛という至極単純な言葉を小難しく弄んでどうするの?私は、あなたのわけのわからない考えに利用されているだけみたいだ。私をあなたの言葉で殺さないで。私が死ぬ時、あなたも私と一緒に死に始める。もうわけのわからない言葉の迷宮に入りこむのはやめにして。私をこれ以上悩ませないで。問題の種を作らないでよ。問題を大きくしないで。
 私たちは生まれては死んでいく。これは運命。誰も時間の流れにはさからえない。永遠に憧れるのをやめて。偉大な行為に憧れるのもやめて。自然を受け止めて。愛という言葉はとても単純なの。世界の仕組みをシンプルに捉えるのが、愛という言葉の持つ力なの。みんな生まれては死んでいく。それは愛。愛は死をももたらす。あなたの愛が私を殺す。







   第四章


 一 街を歩く無気力な顔の塊。彼らを人は一般人と呼ぶ。楽しみと喜びをわずかしか味わえない、実り少ない人生を彼らは送っている。彼らは毎朝どこに向かって歩いているのか。

 二 彼は永遠について何も知らないようだった。人生は、同じ動作を永遠に繰り返すということに、なぜあのサラリーマンは気づかないのだろう?誰か、彼にアドバイスする心優しい人はいないのだろうか?

 三 彼は背中をまるめ、歩いていた。彼は無気力な表情をして、満員電車に乗っていた。満員電車の重圧に体をすりきらした後で、彼は会社にたどりつく。汚い職場で実りない一日を過ごし、帰りにまた汚臭に満ちた満員電車に乗って、彼は深夜に帰宅するのだ。彼の乗る電車には、豊かに暮らしている者など一人もおらず、教養ある者など一人もおらず、せいぜい自分はハッピーだと思いこんでいる、能天気な奴が一人二人いるだけだ。彼はそんな身の回りの不幸にも気づかぬふりをして、電車に揺られてアパートへと帰って行くのだ。
 彼のアパートはもう寝るだけの部屋になってしまっていた。彼はアパートに帰ると、すぐにテレビをつける。彼は料理を作る気力も、食べ終った後の食器を洗う気力も残っていなかったので、毎日テレビを見ながら安売りの弁当を食べていた。短い食事と娯楽の時間が終わると、彼はすぐ眠りについた。彼は行きたくもない会社に行くためにかかるストレスから夜何度も目を醒まし、明け方必ず憂鬱な夢を見た。彼は毎朝嫌々起きていた。眠くもないのに眠たくてしょうがない。全身が疲れでだるい。また満員電車に乗るために、彼はしょうがなく体を起こす。朝から疲労しきった顔で会社に行く。彼はそんな永劫回帰をここ十年も、飽きもせずに、それが永遠に回帰する事象だとも知らずに、繰り返していたのだ。永遠をあなどるのはいけない、人生の全ては永遠に続くものばかりなのだから。

 四 彼の中にある日突然、永遠のもたらす影響力、偉大さ、恐ろしさを敏感に感じ取る力、すなわち永遠に対する畏怖心が生じ始めた。きっかけは何ということはない、ただ満員電車の窓から、朝日を反射してきらきら光る川を見つめた時、彼は永遠の偉大さに気づいたのだった。
 鉄橋の架かる川は、日光を反射して、水面にまばら模様の光の鏡を作っていた。電車の動きに合わせて、水面にできる光のかたちも、高速で、様々に可変していた。万華鏡のように美しいその映像は、晴れている日に毎日作られていたのだが、彼は今までまるで気づかないでいたのだった。
 今日は比較的人も少なかった。出入り口の近くに立った彼は、何気なく外の景色を眺めていた。街並みをぼんやりと見つめながら、今日も熱い、嫌な一日になると彼は思っていた。そんな重苦しい雰囲気に包まれている時に、彼はきらきらと光り続ける川の存在に気づいた。彼はその時初めて永遠の存在に気づいたのだった。
 日光の光を超高速で反射しながら、川は彼に何かを訴えかけているかのようだった。「お前の人生は永遠に続くのだ、私が毎日、日光を反射して美しさを醸し出しているように、お前もまた満員電車から永遠を授かっているのだ」と、彼は川が自分に向かって語りかけているような気がした。彼は最初、永遠に圧倒された。はななだ非論理的なメッセージであったため、彼は最初の永遠を理解できなかった。
 彼は自分の隣に立って、何やらビジネス書を読みふけっている女を見つめた。隣の女は、髪をうすく茶色に染めており、背中にしわが二本刻まれているグレーのスーツを着ており、しわの寄った高いハイヒールを履いていた。つまり、彼の隣の女は全く魅力がなかった。
 このような人間が自分のまわりを取り囲んでいる、自分はこれから何万回も、この女と同じような人間たちと接触しながら生きていくのだ、繰り返しなのだ、同じあやまちが永遠に起きるのだということを、彼は即座に理解した。彼の人生には、しわだらけの女たちが刻まれいたのだ。
 ドアが開くと、また大量に何の魅力もない人々が車内に突入してきた。隣の女に彼の体が触れた。触れたというより、隣の女と彼は合体したかのようだった。それほど激しく二人の体は群集の波の中に押しこまれ、激突した。彼は自分が電車の車両そのものになったような気がした。電車の中にいる人間たち全てが肉の塊となって、轟音とともに突き進んで行くのだと彼は思った。彼は惨めな気分になった。「この永遠の電車とともに、私の永遠の人生もあるのだ」それは気づいてはいけないことだった。

 五 私は電車から下りると、空を仰ぎ見た。東京の空は東京とは思えないほどに青く澄み渡り、眩しかった。目を空に向けることなどしばらくなかったから、私は東京の空の青さに大きく心を打たれるとともに、私の目が今までどれほど狭いものしか見ていなかったかということにひどく当惑した。いつから私の視界は狭まってしまったのだろう。これから私は広い世界を見ていく。生まれた頃と同じように、私は世界の美しさに毎日驚嘆しながら生きていく。
  
 六 彼は空に向かって歩き出した。空。東京の驚くほどの空の青さ。仕事中、戯れに空を見てみる彼がいる。彼が笑うと恵麻も笑う。

 ∞ 満員電車で、彼の隣に立っていた女は、私の親友だった。満員電車の中で、彼と合体するほど体が触れ合った女は、皮肉にも私の親友だった。
 私とその女はよく仕事帰りに遊んでいた。一緒においしいものを食べに行く、飲みに行く、カラオケに行く、踊りに行く、映画を観にいく。
 彼女にも深く、はかりしれない無限の心がある。彼女もまた様々な思惑を胸に秘めている。多大なる可能性を持っている。彼女は、彼に罵倒されるような人間ではない。彼は彼女の美点に気づけなかったのだ。彼の視野は狭かった。テレビを見て笑う彼女に幸あれ。







   第五章


 一 ラブラブテレパシック! 宇宙人カモンラブリー ソウラブリー
   カモンウォンチュー ヘイヘヘイ 
   オシエテプリーズ ラブリー!ソウラブリー

 ニ 私は愛を書きとめる。愛とは嘘ではない。愛とは相手の存在をありがたく思う心だ。自分の存在を、相手の存在を、生物に対する感謝の念を書きとめること。

 三 大好きだよ。君のこと。もっと近くにきて。そう。これくらい近くで君の顔を見るのは初めて。君の顔がきらきら光っている。
 笑って笑って。泣きたい時にはたくさん泣いて。怒りたい時にはうんと感情を爆発させて。かっかっかっと燃えあがる君の感情。それは愛情。大好きな君。

 四 私の文章を読む者に幸いあれ、私の文章を読まない者にも幸いあれ。私の文章を読み、けなす者、理解できない者に幸いあれ。全ての読者に幸いあれ。

 五 君のそばで僕が大笑い。あはははは。馬鹿笑い。ひどくひどく。あごが外れるまでね。なんてことはないよ。大丈夫だよ。僕は高笑いが大好きだ。ほら、君も続いて。一緒に馬鹿笑いしよう。

 六 何が起きようとも、心に平安を。何が起きようとも、私は守られている。私は見られている。一人の時に特に、私は見つめられている。

 七 踊る踊る踊る。僕らは踊る。ほらほらほら。座ってないで立ちあがって。軽快にステップを踏んで。体をゆすって。元気になるよ。人生がヒートアップするよ。ね、ね、ね。

 八 私は私が文学になる日を想い、祝福する。私の体が、言葉が、生活そのものが、文学となるのだ。私は私を試すことなく、私を文学となす。
 私が歩く限り、人々は私の歩みを見つめる。
 私が死んだ後でも、人々は私の文章を読み続ける。私は自分の言葉を、世界中の人々の解釈に委ねる。私は自分の言葉を、私の言葉を痛めつけるであろう人々の流れの中に、時代に委ねる。
 私は祈り、仰ぎ見る、彼の背中を、彼女の背中を。後どれくらい進んでいけばいいのかわかりもしないが、私は思い煩うことなく、歩み続ける。

 九 言葉はさして重要ではない。偉大なる先人の言葉をそのまま写し取っても、何も起きはしない。大切なのは、言葉に秘められた想いなのだ。その言葉を綴った先人の想いを読み取った時、君は先人の偉大さを継承することになるだろう。
 私は祈り、見つめ、微笑み、祝福し、食べて、生きる。思い煩う必要のあることなど何もないではないか。私は何も気にすることなく、雄大な気持ちで、空の如く生きる。広大無辺な世界の中心で、私はくつろぎ暮らす。
 私の願いは広がる。私は私自身を見つめ、世界を見つめ、日本を見つめ、アジアを見つめる。

 十 たけりくる情熱から、全ての文学は生じているのだ。胸に秘めた想いのたけを構築するために、知性は存在している。私は知性を操り、情熱を永遠化する。
 
 十一 私は自らを器にする、自らを滋養とする。忌み嫌うのは、平凡という大きな存在だ。私は絶え間ない創造を行う。私は燃えあがり続ける。
 実人生を超越する芸術。実人生は芸術化するために存在している。輝き始めるためにある、惨めな実人生のかけら。

 十二 冷徹なる知恵と燃えさかる感情が結合して、叡智が生まれる。
 私は私の紡ぎ出した言葉を慈しむ。私は私を見つめる。私は深く私の眼を見つめる。私の体は、今まで私の体ではなかった。私は今見つけたのだ、自分自身の透明なもう一つの体を。

 十三 私の言葉が君のもとに届くように強く祈りつつ、私は今、私の細い手を眺めながら、パソコンのキーをうっている。
 私は私の手にできているあざを見つめる。そのあざが今こうして、散文に変わる。今、こんなにはっきりとディスプレイに浮かんだ言葉が見えている。今までにないほどはっきりと言葉が見える。全く違うレンズが僕の中にできた。はっきりと見えるよ。視野が狭まったんだ。君の言葉がこんなに近くに感じられる。僕はどうしてしまったんだろう。
 今度はほら、君の言葉がとても遠くに感じられる。どうしたことだろう、僕は君の言葉をとてもはっきりと感じているよ。君の言葉にダイレクトに飛びこむことができるようになった。君の言葉が憤っている。君の言葉が愛を求めて叫んでいるようだ。僕は君の言葉に近づいていって、君の言葉に接吻する。僕はほら、どんなに遠くても君の言葉を見ている。じっと君の言葉を感じているよ。安心して。君の近くに僕の眼があるから。
 僕は君の言葉に全ての意識を集中しているよ。僕は君の言葉の一言一句を逃さないように聞いている。だから安心して。なんでも言って。僕には君の叫びが聞こえる。心の奥底からの君の叫び声。君は助けを求めている。僕は君に寄り添う。僕は君の力に確実になれる。安心して飛びこんできて。僕には君を援助するだけの力があるよ。飛びこんできて。
 僕は感じたんだ。僕は見つけたんだ。僕はわかったんだ、君が僕のとても傍、ほんのすぐ傍、もう触れる触れないの問題じゃないくらいに傍にいることを。僕のかたわら、僕にとっての骨。君は骨だ。僕の肋骨、君の声が聞こえる、君が哀しくきしむ時、僕は君の痛みを感じる。僕の傍においで。ここに座ってごらん、もっと近くに、寄り添うように。僕らは重なる。僕にはわかる、君の一つ一つの行い全てにおおいなる意味があることを。
 僕が微笑むと、君はもっと大きく笑う。僕は感じる、君の力の全て。僕にとっての君。君にとっての僕。同じことだね。わかるんだ、僕は今全てを同時に感じている。僕は興奮している。僕は君と一緒だ。ずっとずっと一緒。僕は君の鼓動を、君の呼吸を感じている。僕はとてもとても感覚が鋭敏になった。鋭敏すぎてこわいくらいだ。ああ、なんて僕は今まで鈍感だったんだろう。僕はこの部屋に起きていること全てを感じているよ。オーディオの音、こたつの電子音、外を走る車の音、床のわずかなきしみ、キーボードから出る音、パソコンのディスプレイの変化、僕は全てを同時に感じているんだ。僕の周りに起きていること、僕の体の外で起こっていることの全てを僕はとても敏感に感じ取れるようになった、今まで見過ごしていた全ての変化が、今はダイレクトに僕の脳に届いており、僕は変化の全てを見つめられるようになったんだ。おそろしいくらいの世界の変化だ。世界がまるで別物に変わってしまった。これは、僕が僕の内面を非常に綿密に、今までにないほど丹念に見つめ続けた結果だろう。僕はこの僕の新しい意識状態にとても満足している。生まれ変わりと言っていいほどだ。僕はまるっきり新しい世界に舞い出た。いや、生まれたばかりの頃、あるいは学校に行く前の僕はこのように世界の全てを感知していたのかもしれないね。僕はいつのまにかとても鈍感になってしまった。僕はあきれるくらいの馬鹿になり果てたんだ。世間的に認められる大人の予備軍になっていったのに、なんたることか、僕は僕の世界を、世界の美しさを丹念に感じ取る感受性という何より大事なものをどんどん殺していたんだ。感受性が今、蘇ったんだ。僕は全く、自分の外の世界を見失っていた。これは、僕が自分の内なる世界を全くおろそかにしていたことにより、生じてしまった付随現象だ。僕は自分が心の底から何を望んでいたのか、心の叫びを全く無視してずっと生きてきたんだ。周りの人が僕に望むことを、僕は自分自身の望みと勘違いしてしまった。そして、その望みを達成できるようにと、僕は自分自身ではない人生を二十年間も送ってしまったんだ。何たる時間の無駄だろう!いや、僕の周りの人を責めているわけではない。そこのところは誤解しないでほしい。僕は僕のことを無視してしまった。それを悔やんでいるわけでもない。僕はただ、僕の中で押し殺されていた声の存在に気づいただけなんだ。事実をはっきりと認識しただけなんだ。
 それでも僕は、明日も昨日とかわらずに、今まで僕自身でひいてきたレールの上を素直に歩くことだろう。ただし、今までとは全く違った意識をもってして。僕自身の意識が異なるから、外の世界を無理に変えようと努力せずとも、外の世界が自然に、僕の望みに適したように変化していくことだろう。僕は僕自身の望みに気づいたんだ。僕は全ての進行過程を十全に感じながら、これからの人生をしっかりと歩んでいくだろう。
 僕は鏡の僕を見ても、もう批判しないで済む。僕は鏡の僕に向かって、不敵に笑い返すことだろう。僕は僕自身を十全に愛すことに成功したのだ。
 僕は自分の文章を読み返して、なんて馬鹿馬鹿しいものを書いてしまったんだと、自分を批判し、呪い、自分の人生を傷つけることなどもうしなくなるだろう。僕はもはや自分自身の願望がわかってしまった、僕は自分に素直な文章しか歴史に残さないだろう。僕はその文章を何年先になって読み返しても、恥じることなく自分の文章を受け入れることだろう。僕は自分の生活を受け入れたのだ。この体制全てに順応したのだ。自分が納得できない体制であるなら、僕は、僕自身の力で周りを変えていくことができるのだ。僕が望むようにして、僕の周囲は変わっていくのだ。なんという喜びだろう。生きるとは、こういった人生に対する働きかけをいうのだろう。僕はその意味で、二十年間も死んでいたのだ。なんという無駄だったのだろう。ただ、多くの日本の若者は僕と同じように死んだ人生を送っており、自分で自分を殺していることに気づくこともなく、そのまま大人になり、死に続けたまま肉体の滅びにいたるのだから、三十を前にして生き返れた僕はしごく幸福なのだ。幸福とは、他人と比較して見つけ出すものではないけれども、僕は僕の人生を埋もれた砂場の中から掘り起こせたことをとても誇りに思う。僕はこれから、僕以外の、自分の想いに反して生きている大多数の人間たちを幸せにするために生きていこうと強く思った。
 多くの日本人は、文明化された世界の多くの人は、特に都市社会に住む多くの人は、自分を殺して生きている。自分の肉体ではなく、自分の感情、理想を殺して、彼らは生きている。精神を殺すことは、やがて肉体の磨耗にもつながっていく。絶えず現実にすれ違いながら、磨耗して生きている多くの人間たち。中には自分の想いに気づきつつ生きている人たちもいる。小さい頃の自分を捨て去らずにそのまま生きてきた人たち、彼らのみが、子どもの頃の楽園を、大人になっても維持し続けることができる。

 十四 僕は恵麻に笑いかける。僕が微笑むと、恵麻も僕に微笑み返してくれる。なんていう素敵な笑顔だろう。この笑顔を僕は待っていたんだ。ずっと待っていたのはこの笑顔だ。僕の恵麻。今しっかりと僕は恵麻の笑顔を見つけた。後はこれを描くだけだ。いや、描く必要もないだろう。僕は彼女にキスする。彼女の頬笑みを中断して、僕は僕の唇を彼女にプレゼントする。
 
 十五 僕の言葉を世界中の人に、文学に興味のない人にも届けるためにはどうしたらいい?
 
 十六 簡単だ、文学、小説という枠、限界、境界を取り払えばいいのさ。限界を勝手に自分で作ってしまうと、それ以上成長できなくなってしまうよ。一切の境界を取り払って、自分を大きくしていけばいいさ。君の世界は無限に広がるよ。さあ一緒に踊ろう、この新しいが、前と何一つ変わらない世界で。
 
 十七 ねえ、これ以上通勤電車に乗らないようにするにはどうしたらいい?
 
 十八 簡単なことだよ。けれど、よくよく考えたら時間のかかることかもしれないな。ようは君の努力次第なんだけど、早く起きて早い電車に乗ることだ。誰も乗っていない電車に乗ってしまえ。けどさ、そんな努力をするほどの力が君にあるんだったら、君は満員電車でも元気を失わずに、爽快に過ごせることだろう。何も心配することなんてないんだ。君は強いから大丈夫だ。
 
 一九 人生は幸福を感じるためにあるんだ、人生は不満を感じるためにあるんじゃないんだ、幸福こそ君の人生だ。どうせ生きるんだったら、毎日楽しみながら生きよう、苦しみ、悲しみながら生きるより、そっちの方がよっぽど素敵じゃないか、詩的じゃないか。詩的なる人生の始まりだ。この小説は僕の人生と同じように永遠に続くよ。人生よ永遠に。僕の小説も、幸せを感じるために、残すために、記述するために、永遠化するために存在する。
 楽しい小説、ラップ、ソウル、ジャズ、黒人音楽とともに躍動する言葉の連なり。ダンサブルで魅惑的な小説の世界の大展開。エンターテイメントと文学の融合。

 二十 僕の幸せ。僕はずっと幸せだったのに、幸せにまるで気づかずに二十年も生きてきた。ないものねだりの人生だったよ。不服、不服。あるものを十分感じないで不平不満ばかり心に抱いてきたんだ。
 僕のまわりにあるものは何だろう?たくさんたくさん、溢れるくらいに僕のまわりには素敵なものと素敵な心が溢れている。それを全て僕は忘れてしまっていた。覚えているのは、あるはずのものが偶然ない日のことばかりだ。僕の周りにあるはずのものがないと、僕はその偶然を覚えこんでしまう。僕は素晴らしい必然にそぐわない偶然ばかりを記憶して生きてきた。僕は必然を愛していたようでいて、必然がなくなった時の、ほんのわずかしかない偶然ばかりを記憶していたんだ。なんて自己中心的な記憶の仕方だろう。
 僕は幸せだった。呆れるくらいに幸せだったんだ。僕の必然は幸福のサイクルに満ちていた。毎日起きれること、あり余る食べ物、あり余る時間、そして自由。
 自由が欲しい、自由が欲しいと何回思ったことだろう?僕はこんなにも自由だ。こんなにも、なんでもする時間があるって言うのに、何でこの時間の存在に僕は気づけなかったのだろう?ああ、このあり余る時間を僕は愛す。
 楽しみながら生きること。違う、あり余って溢れ返っている楽しい出来事を充分に感じながら生きること。何故あんなにもあった楽しみの存在を僕は忘れ去って、苦しい、哀しい想い出ばかりを記憶してしまったんだろうか。劇的なものばかり僕は思い出してしまう。劇的な出来事は常に悲劇的だ。僕は記憶の中で前面化する劇的な出来事によって、当たり前に存在していた何気ない、幸せの種を捨て去ってしまっていたんだ。僕は僕の人生の中でふるい落してきた幸せの種を今から拾い集める。決して遅くはない。たった二十年だ。

 ∞ それでいいの、それで。やっと私とあなたは通じ合えた。二人で話し会える土台に立てたね。私とあなたの言葉遣いが今重なった。奇妙な言葉のずれがおさまった。再び出会った頃に戻ったんだ。話し合おう、たくさん。あの時のこと、これからのこと。大切な話があるし、あなたからも大切な話を聞きたい。無駄な話を続けたい。終わりなく、至福に充たされながら。







   第八章


 一 土砂ぶりの雨だった。雨がレンガの歩道に当たる音が、あたり一帯に乱反射していた。下水から溢れた水が、道端に何個も水たまりを作っていた。恵麻は道端に座りこみ、雨に打たれ続けていた。彼女の服はびしょぬれになり、腰は水たまりに沈んでいた。雨に打たれながら、ほろけた表情で、夢見る表情で、恵麻は通りの向こうを眺めていた。恵麻の顔に、彼女の濡れた髪の毛がべっとりとはりついていた。

 二 私が最も敬愛する作家は、今までマルセル・プルーストであったが、マルセルを押しのけ、ジュネが最大の地位につくこととなった。今日から、まさしく今日から、ジュネは私の人生の指標となったのだ。
 一九世紀の小説世界に比べて、二十世紀の世界はなんとおぞましく下品で、汚れ、泥だらけなのだろうと、私はついこの前まで思っていた。しかし、ジュネを読むことによって、世界が美しいか美しくないかなどは、小説家の力量にとって、芸術家の創造力にとって、全く関係ないのだということを私は痛感した。芸術家の言葉が魔力を帯びていれば、世界は芸術に生まれ変わる。世界がどんなに曖昧で混沌としていてもかまわないのだ。いや、人間が生まれた時から永遠に世界は汚く、矛盾に満ちていたことだろう。そんな世界を、芸術家は美しい小説に変えてしまったのだ。トルストイ、フローベール、プルースト、フィッツジェラルド、ナボコフが生きていた実際の世界は、彼らの文章の美しさ、気高さに比べて、とことん汚なかった。彼ら自身の言葉が生み出す魔力によって、彼らの小説の中で、世界は美しく生まれ変わっていたのだ。
 彼らの小説を読んだ後、私は、私の周りの世界に比べて、昔はなんと美しい世界だったのだろうと思い、彼らと同時代に生まれえなかった不幸を悔やんだ。しかし、事情はまるで違っていたのだ。彼らの生きていた昔も、現在も、世界はまるで変わっておらず、永遠に汚れたままなのだった。彼らの天才が、世界を美しく記述し直したのだ。
 ボードレールが説いた現代性とは、ランボーが説いた言葉の錬金術とは、芸術家のそのような魔力を指しているのだろう。「芸術家は絶対に現代的でなければならない」というランボーの至上命題を、私も遵守する。汚らわしい世界を、私の言葉の錬金術によって黄金に変えるのだ。
 ジュネは自分の周りの世界に、小市民的な仮面や化粧を施すことなく、ありのままの現実を描いた。一切の社会的な美化を省いたにもかかわらず、ジュネの描く汚れた世界は限りなく美しい。そう、社会の美と芸術家の考える美は根本的に異なる。社会が夢想する美は、常識的で、卑俗で、時代に流されるものだ。社会の美は、人に自分をよく見せようとするあさはかな傲慢さ、利己心から生じる汚れた美だ。それに対して、芸術家は無心に、ただありのままの現実に表れている美を描こうとする。常識に囚われている大衆が見落としている、広大な美の世界を芸術家は感知する。人間の眼には見えない、隠れてしまっている美の世界を見つけ出す者たちこそ芸術家なのだ。社会の手に汚れていない美を見つける能力を持つ者たちは、マスメディアが汚らしく、意味がなく、価値がないと考えているものに秘められている美をあぶり出し、神聖化するのだ。
 そう、この汚れた二十一世紀の世界にも、いたるところに美の断片はあるのだ。何気なく暮らしてしまっていては、かき消されてしまう美の断片を丹念に拾い集めること、それこそ芸術家の系譜に連なる、異様な眼を持つ者たちの使命なのである。

 三 恵麻は雨に打たれ続けていた。彼は道路の向こう側で、傘をさし、まっすぐ立っていた。彼の目は大きく見開かれ、道路の向こう側で座っている恵麻をまっすぐ見据えていた。まばたきの回数も少なく、雨に溶けていきそうな恵麻を彼はじっと凝視していた。恵麻は彼に見られていることにも気づかずに、雨空をほろけた顔で眺めていた。やや開いている恵麻の口から、雨が絶え間なく彼女の胃袋に流れこんでいた。
 濡れた服から、恵麻の着けている下着がうっすらと浮かび上がっていた。彼は恵麻の様子を観察し続けていた。通りには他に誰もいなかった。時折、車が水しぶきをあげながら通った。車がはねあげた水が、二人の体にかかることもあったが、二人とも一切反応せずに、体を水に浸した。
 
 四 ぜひとも、私はジュネになりたい。欲求からくる行動は私を常に破滅させてきた。それでも、ジュネのような文章を書きたいという衝動が私の中に荒々しく沸き起こった。これは、いつもと同じように私を破滅させる欲求にすぎない。しかし、誰かと同じような文章を書きたいと、私は今まで一度も想ったことがなかったのだ。
 小説家の文章そのものに私は一度も憧れなかった。そう、小説の中に出てくる登場人物や、小説家の生き様自体に憧れたことは今まで何度もあった。トルストイが描いたキチィ、プルーストが描いた貴族たち、ナボコフ、クンデラの存在そのものに憧れたことはあったが、彼らの文体に憧れることなど今まで一度もなかった。しかし、ジュネの小説を読んだ今に限って、私はジュネの文章そのものに強く惹かれたのだ。ジュネの小説の登場人物にも、作者であるジュネ自身にも、私はまるで憧れることはなかった。魅了されることさえなかった。だが、今までで初めて、私は小説家の文章そのものに強く魅了され、誘惑され、たぶらかされ、惹き込まれてしまったのだ。
 文章を読む喜びを私はおおいに味わった。このような文章が後ずっと続くと思うと、ジュネの小説を読むことが、とても幸せに感じられた。そしてまた、私もジュネと同じような、魔術的に美しい文章を書き連ねたいと強く思った。このようなことは、何度も繰り返すが、今まで一度もなかった。
 私は小説家になりたいと望みながら、小説がまるで書けずにずっと苦しんでいた。続かないのだ、バルザックやプルーストのように文章が長くならないのだ。だが、それも今想えば当然だった、文章を長く続けることが、私にとっての幸福の源泉となっていなかったのだ。
 文章を長く引き伸ばすことは苦痛でしかなかった。ジュネの文章に出会い、私は美しい文章を読み続けることの、書き続けることの醸し出す、何事にもかえがたい快楽をやっと発見したのだった。
 そうだ。私の小説家になりたいという欲求は、名声を得たいだの、歴史に残りたいだの、楽をして生きたい、金持ちになりたいだのと言った、まるっきり不純な動機から生じた欲求だったのだ。小説家としてのステータスを求めて、私は小説を書こうとしていた。そんな今までの私にとって、長い文章を書く行為は当然苦痛の源泉となった。欲求そのものとは、まるでかけ離れた作業を続けなければならないのだから、小説を書く行為は私にとって不幸の原因となるばかりであった。しかし、今の私は違う。小説を少しでも長く書くことが、私の幸福の源泉となっているのだ。書くこと、読むことが第一の目的であって、そこからえられる名声であるとか、賞であるとか、歴史に残ること、印税を稼ぐことは、付随現象にすぎなくなってしまった。私は人々の賞賛を求めて、苦しみながら小説を書くことなどしないだろう。私は純粋に小説を楽しむのだ。もしかしたら、多くの小説の愛読者は、そのような生粋の気持ちで小説を楽しんでいるのかもしれない。私の人生の指針は今までくるっていたのだ。
 欲求が行為そのものと同化すれば、人生は至福に満ち溢れることになる。私の欲求と、私が自分から起こす主体的な行為は、今の今までまるっきり乖離していた。私は、私の行為を見て反応する、他人の賞賛を強く求めていた。私は、他人の顔色を伺い続けて、ひどく窮屈な人生を送り続けるはめになるところだった。これからの私は、他人の、その場限りの感嘆のためにではなく、自分の快楽のために生きていくのだ。自分の織り成す行為を私は愛していくことだろう。私は自ら選び取った行為を愛し、味わい、その行為が無限に続くことを強く願うことだろう。私は、自ら愛する行為を息長く、深く続けることに喜びを見出すのだ。

 五 彼が立ち止まり、恵麻を見つめ始めてから三十分ほど経った頃だろうか、彼は遂に歩いて車道を横断し、恵麻のすぐ傍までにじり寄った。彼は傘をたたみ、恵麻の脇に静かに置いた。雨はやむどころか、ますます激しさを増していた。
 彼は恵麻の青白い顔をごく近くから見つめた。恵麻は、既に死んでいるとしか思えないなかった。しかし、あまりにもその雨に打たれる姿が美しすぎるから、彼女は生きているとしか思えなかった。もはや彼女はずぶ濡れで、生気を失っていた。それでも何故か、これまでにないほど美しかった。彼は、生死も定かでないが、最も美しく輝いている恵麻を見つめた。

 ∞ 違う!違う!あなたはジュネではない。あなたはあなただ。あなたの言葉遣いに戻って。あなたの言葉遣いがまた私からかけ離れてしまった。私の心から、命から、あなたが離れていってしまう。二人で話せなくなってしまう。あなたは死にゆく私を見つめるだけだ。美しいからという理由で、私を愛さないで。愛の理由に美をもってこないで。話ができない、心が通い合わない。私を崇拝する限り、あなたは私と通じ合えない。せっかく見つけたのに、何故あの言葉遣いを、他人の言葉遣いにまたすり替えてしまったの?憧れたからといって、その人の真似をしないで。あなただけの、心からくる言葉を使わなければ、私にあなたの言葉は届かない。もう私の耳に、あなたの言葉が届かなくなってしまった。私はもう死ぬしかない。今までの全てのエマと同じように、私もあなたの美意識によって、殺されるはめになる。死んで永遠になるなんて嘘。美女が死ぬことこそ美しい?とんだ思い違いだ。私にも意見を言わせてよ。私はあなたたちと話し合いたいんだ。







   第九章


 一 ここに落ちつきたいと思ったことはある?どう?触ってみて。
 そこ。心の一番奥底で、腫れ物のように膨らんでいるあなたの傷。膿みが出て止まらないね。痛みに痛んで、どうしようもないんだ。あなたの感覚はもうずっと前、小さい頃に麻痺してしまっている。あなたはこの赤く腫れている傷が痛み続けているのに気づかないでいた。
 気づいて。見つめて。感じて、痛みの全てを。この痛みを味わったら、あなたの中の最強の、最良の部分が姿を表すことになるでしょう。そこから新しい世界が始まるはず。

 二 暗い部屋。奥の奥。君は泣き続けている。僕は君がいくら泣いていてもかまわない。僕は君の泣き顔にキスする。僕はやっと君を見つけた。君は小さくて小さくて、消え入りそうだった。これから君は僕と一緒に大きくなる。僕は君を凝視し続けた。君は怯えることなく、僕を激しく見つめ返した。生命力でたけだけしく、研ぎ澄まされた目線が交差する。僕らはただ純粋に見つめあっていた。僕は何も考えていなかったよ。ただ君のその大きな目を見つめることに僕は集中していたんだ。

 三 僕が本当にやりたいことってなんだろう?僕はまた、僕の周りで起きていることの全てを感じ始めた。あの覚醒した意識状態に突入したのだ。これから何事を成すにも、僕はこの意識状態に突入するようにしよう。冴え渡る僕の頭は、この小説を終わらせるために必要な答えをすぐに見つけ出した。自分で終えてしまえばいいのだ。勝手にね。
 永遠とは、終わらないはずのものである。なのに、何故人生は終わってしまうのか。志し半ばで、中途半端に人生の全ては終わってしまう。永続化できない平凡な人生の堆積。僕はそれを嫌悪する。終わろうとしてはいけないのだ。常に人は、自分の行いを終わらせようとしてしまう。中途半端にだ。飽きがきたらそれで終わりだ。終わらせないように、終わらせないように、伸ばしに伸ばす努力、忍耐力、統制力が必要だ。終わりを求めてはいけない。続くことのみを求めること。続くならば、全ては素晴らしいことこのうえない。
 この小説も簡単に終わらせないで、どこまでも続いていかせるさ。僕の回りにできる穴という穴にひきこまれないように、僕は続けていくことだろう。
 僕が何よりも大切にするのは、自分の心の奥深くを見つめ続けることだ。決して一時も油断してはならない。僕は僕の胎の中心に、何をする時にも意識を集中する。心の目で、何故だかわからないが、胎の中心を見つめ続ける。それは監視という言葉では呼べそうにもない力強く優しい行為だ。僕は胎を見つめようと意識することで、強大な集中力を維持し続けることができるようになった。僕は絶えず興奮している。僕は絶えず好戦的に、挑戦的に、世界に立ち向かう。僕をだめにしようと、僕を傷つけようとする世界の全てに対して、僕は自分自身の胎を守るために戦うのだ。
 僕の胎の中に、もう一人の僕とも言える、美しい女が住んでいた。彼女こそ恵麻だったのだ。僕は恵麻を見つめ、恵麻に話しかける。僕は恵麻に、謎の答えを求める。

 四 そう、続くこと。連綿と続くことが大事なんだ。断片化された、続いていない続き物は、続き物じゃない。始まりがあり、終わりがあること。始まりから終わりまで、全ての言葉が必然的に結ばれて、堅固な建築物のようになっている、壮大な物語を打ち立てること。それこそ近代文学だった。
 ばらばらに傷つきながらも、絶えず生きていこうとする物語の語り手が一方にはいる。物語。まさしく、物について語ること。物の定義を語ること。この語り手は、傷つきながらも、必死に、僕たちにある一つの物を伝えようと語り続けていたんだ。物語の断片化も恐れずに、ぐしゃぐしゃに骨折しながらも、何回も立ちあがって、一体彼は何を僕たちに伝えようとしていたんだろうか。どうでもいいことだったよそれは。とるにたりないこと。何の重要性も見出せないものだったんだそれは。物語の語り手が必死になって僕たちに伝えようとしていたのは、ある一人の女性の、単に笑っている顔だった。
 ただの、一人の女の、どうでもいい笑顔。それを残すためにだけ、この語り手は無心に物語を語り続けたんだ。彼にとってはおそらく非常に重要なものなんだろう。いや、彼自身にとってもたいして重要じゃないのかもしれない。ただ、恵麻という女性の笑顔を、もはや見ることさえ不可能なその笑顔を記憶として残すこと、建立することがこの物語の語り手の願いだったんだ。
 彼は必死になって恵麻の笑顔を定式化しようと務めた。ばらばらに断片化されながらも、彼は連続性から何回見放されても、それでも必死になって、物語を続けようとしたんだ。信じられるかい?そんな無益な努力の果てに、彼は一体何を手にすると思う?何も手に入れはしない。残るのは自分が書いた物語だけさ。
 彼が恵麻の笑顔を不朽のものにできたと確信した時、彼は物語を語る行為をやめることだろう。しかし、彼の物語は残念ながら、彼が生きている限り続きそうだ。彼は無限に断片化された物語を語り続けることだろう。何故なら、恵麻の笑顔を定式化した後で、彼はとても重要なことに気づくからだ。そう、恵麻と話したいんだ彼は。話すためには、物語では足りなかった。ただ、彼はもう物語を作ることしかできなくなってしまっていた。体がもうぼろぼろなんだ。
 
 五 僕は願い、書く。僕の願いはとてももろく、はかないものだ。はかないからこそ願いと言うんだろう。実現したとしても、実現したとは思えないような、途方もない願いを僕は抱いてしまったんだ。彼女の笑顔を残すこと。どうやって?いかにして?私は彼女の笑顔を掴みそこなった。いくら待っていても、彼女の笑顔はやってこない。
 思い出した。ただ、待つだけ。待ち続けていたら、いつか彼女の笑顔が舞い戻ってくるんだろう。そう期待することからして無謀なのだろうか。僕は待ちぼうけて、一人で帰るはめになるのだろうか。僕が探し求めていた彼女の笑顔は、しかし、僕の心の奥深くに潜んでいるものだ。僕はそこに触れようと手を伸ばす。やっと掴んだと思うと、彼女は恥かしげに逃げ去っていく。僕は別に彼女を囚えているんじゃない。それでも彼女は常に僕から逃げ去ってしまう。

 ∞ 私は別に逃げているわけじゃないの。いつもあなたを追いかけていたのは私の方だ。むしろ私から逃げていたのはあなたの方だ。何故あなたは私の笑顔ばかりを求めようとしているの?私の目をまっすぐに見つめて。見つめることができないんだね。できないからあなたは、私の目線が和らげられた笑顔ばかりを求める、私は笑顔だけの人間ではないのに。何故、あなたは私に笑顔ばかりを求めるのだろう?私も泣く。私も怒る。私も普通の人間なのだよ。私を美化しないで。私はあなたと同じ汚い生物なんだから。あなたは私を受け止めようとはしていなかったのだよ。私は大きいんだよ、あなたが思っているよりずっと。あなたは小さいんだよ、あなたが思っているよりずっと。二人は同じくらいの感情を持っているんだよ。私が泣いても気にしないでよ、すっとするんだから、おさまるんだから、感情の高ぶりが。どこでどうして、どういう理由で、私をいつも非難する権利があなたにあるの?私はもっと強いんだから。泣くからといって弱いわけではないんだから。もう誤解しないで。
 私をほったらかしにして何を一体書いていたの?私の真剣な目を、強い眼差しをもっと真摯に受け止めて。私の強さから逃げないで。あなたはか弱い。私はあなたの力になれるのだから、私の笑顔ばかりを求めて、私を骨抜きにしないで。

 六 僕は初めて、恵麻の声に気づく。恵麻の足元にノートがある。僕と同じノートだ。彼女ももしかして、僕と同じように小説を作っていたのか。僕はノートを取り上げ、読み始める。それは彼女の僕の小説に対する感想だった、批評だった、応答だった、ファンレターだった、否定だった、肯定だった、返答だった。読んでいたのだ彼女は、僕は急に恥かしくなった。続いてすぐに嬉しくなった。彼女の書いた文章を丹念に僕は読んだ。僕の想像と、彼女の考えはまるで違っていた。いつもそうだ。誤解につぐ誤解。最も理解しえない人を僕は選んでしまったのではないか。僕は彼女の考えに圧倒され、僕の無力を悔やみ、彼女の素晴らしさに微笑んだ。僕は笑って彼女を見た。彼女も笑っていた。僕は彼女に話しかけることにした。勇気のいる行為だ。何せ、もう何万年と、一言も会話もせずに、僕らは隣に座りあっていたのだから。文章の交換に引き続いて、すぐに会話の交換となるのか。
 しかし、僕が口を開くと、彼女は消えてしまった。突然だ、全く突然の消失だ。思えば僕は、あくびをする時以外、ずっと口を閉じ続けていた。何万年ぶりに意志をもって口を開けたら、彼女は消えてしまった。
 僕はすぐに口を閉じた。彼女がまたその場に現われた。どうなっているんだ。なんだかよくわからないが、僕らは話し合えないのではないかと、僕は直観的に思った。
 やっぱりそうだ。彼女が僕に話しかけようとして口を開くと、僕の周りが突然真っ白になる。彼女はどこに行ったんだ。僕は探し始める。彼女はいない。しばらくすると、僕の周りの世界が回復し始めた。彼女は口を閉じて、僕を見つめていた。僕はそんな彼女を見て微笑んだ。彼女もまた微笑んだ。彼女はノートに何かメモを書きつけ、僕に見せた。「さよなら」と書いてあった。彼女は彼女のノートを僕に渡した。そして彼女は僕のノートを取り上げ、もらってもいいかとジェスチャーで僕に聞いてきた。僕はうなずいた。彼女は僕のノートを抱えて、部屋の外へと歩いて行った。部屋には彼女のノートと僕だけが残された。しょうがないから、僕も外の世界に出ることにした。彼女のノートは部屋に置いておいた。
 部屋の外で、僕は恵麻に再会することがあるかもしれない。その時、二人はきっと笑顔で再会し、昔話と近況を語り合うことだろう。そして、何万年もこの部屋に閉じこもっていたことについて、苦笑を交えながら話すことだろう。
 とりあえず僕は、本屋にいって、僕が部屋に閉じこもっている間に、面白い小説が発表されたかどうか、調べてみることにした。

 七 本屋に行くと、偶然恵麻と再会した。恵麻は友達の女と一緒だった。恵麻の友達をどこかで見たような気がした。まあどうでもいい。僕は恵麻に軽く会釈した。恵麻は僕より驚いている様子だった。もしかして、会話できるのではないか、二人ともそう思った。しかし、口を開いたら、またどちらかが消滅してしまうではないかということを恐れて、結局二人とも口を閉じたまま、すれ違った。僕は急いで小説売り場に移った。恵麻は友達と一緒に本屋をすぐに出たようだった。また外で鉢合わせするとまずい。しばらく僕は本屋で、知らない作家の小説をぱらぱらと眺めて過ごすことにした。
 結局僕は『ボヴァリー夫人』を買った。本屋の近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、フローベールの皮肉を味あうことにしたのだ。喫茶店に行ってアイスカフェ・ラテを頼んだ。禁煙席に向かったら、何と恵麻と友達が座ってコーヒーを飲んでいるのを見つけた。二人の机の上には、僕のノートらしきものが広げてあった。恵麻はまだこちらに気づいていなかった。びっくりして口をあけられては大変なので、僕は気づかれないようにして、喫煙席に移った。煙草の煙に取り囲まれながら、僕は『ボヴァリー夫人』を開いた。恵麻のことが気になって読書に集中できなかった。僕はカフェ・ラテを飲み干すと、恵麻たちに気づかれないように注意しながら、喫茶店を後にした。もっと本屋から離れた場所に何故すぐ行かなかったんだろうと恵麻たちを非難したくなった。僕のノートを二人で読んで、笑い合うつもりだったのではないかとも思った。
「全くあいつら、しょうがないな」僕は苦笑しながら駅に向かって歩いた。切符を買う時になって、重大なことに気づいた。『ボヴァリー夫人』がない。喫茶店に置き忘れてきたようだ。取りに行こうかと一瞬降り返ったら、恵麻と恵麻の友達がこちらに歩いてくるのを見つけた。また逃げようとしたがもうだめだった。恵麻と目が真っ直ぐ合ってしまった。恵麻が口を開いた。僕は突然

 八 もうよろしい。ここからは人に見せるためでなく、自分自身に聴かせるために書きなさい。信じなさい君の力を。君の中に全てを変える、大きな大きな、巨大でたくましい力が眠っている。安心しろ、今その力を起こしてやったぞ。体中が火照ってきただろう。興奮してきただろう。これだ。これを生きる感覚というのだ。どうだ。どんどん文字を入力するスピードが上がってきただろう。一気にこの勢いで書いてしまえ、お前が望んでいる全てのことについて、このスピード、情熱で書いてしまえ。今、君の心は煮えたぎっているぞ。熱い情熱の塊と化しているぞ。もう何も怖いものはない。怖いのはお前の心だけだ。君の心は熱で火照っている。君の心に触る者は、君の熱を体に叩きこまれて、大変なことになるだろう。おおいなる変化だ。
 お前の人生を教えてやる。お前は誰にもない人生を歩む。お前は大きい。お前に触れる者みながお前の熱に驚嘆することだろう。お前は炎になる。お前はそら恐ろしい。お前はどうにかなるようで、どうにもならない。お前はもう世界だ。お前はもう世界だ。お前はもう既にして世界そのものだ。そうだこの小説はお前の世界だ、お前が自由にできるお前だけの庭だ。違うのだ、お前の読者もまたこの小説を自由にできる。実はお前はお前が現実に生きている世界の全てを自由に弄び、改変する権利を持っているのだぞ。お前の力でお前の世界を変えてしまえ。いやこれもまた違う、お前は常にお前の世界をお前の考えで変えてきたのだ。前々から世界はお前の思うように可変していたのだ。無意識に行っていた行為を、これからは意識的に行うがいい。
 気づきもしなかった新しい事実を教わる時、人は興奮する。この世界がこんなにもどきどきする世界だと気づいていたか。熱に浮かされる世界だとわかっていたか。お前の人生を変えてやる、喜びに報いよ。愛するのだ。さあ。

 九 その女は笑って僕を見ていた。恵麻は見当たらなくなっていた。きっとまた僕の世界から消えてしまったのだろう。その女は僕の書いた小説を、僕の方に突き出した。
「ねえ返すよこれ。ちょっと読ませてもらっちゃった。面白かったよ、いろいろね。だけどさ、一つ気になることってない?あなたと恵麻はどこにいたの?何故何万年も同じ部屋にいたの?教えてよ?わからないの?誰かにつかまったわけ?あなたたちが何かミスをおかしたから、罰としてあの部屋に閉じこめられたの?」
「そんなことわかんないよ。理由なんてないよ」
「ふうん、おかしいね」
「あの部屋に関する全てのことは、まだ科学的に解明されてないの」
「ふうん、そうなの。それとさ、もう一つ質問なんだけど、私はいつから恵麻の友達なの?辻褄があわなくない?あなたたちはあの部屋から何万年もたった後に出てきたのに、私はずっと変わらずに生きてるんだよ。教えなよ、教えてよ」
「そんなこと俺にもわかんねえよ。永劫回帰なんじゃん?」
「永劫回帰って、便利すぎんだよねその言葉。何でもそれで説明つくじゃん」
「うるせえな。ニーチェにケチつける気かよ。いい加減にしろ」
「それはこっちの台詞だよ。どういうことだよ。なんて口のきき方してんだよ。ちゃんと説明しろよ早くよ」
「うるせえこのやろう。僕は僕だ。それだけだ。説明終わり。お前になんか関係ないね」
「だいたいさ、恵麻って誰なわけ?私の友達で、あんたの恋人の恵麻のこと?それとも、あんたの中にいる何かなの?どっちなのさ、はっきりしろよ。わけわかんねえよ、馬鹿」
「うるせえアホ女。どっちでもあるし、どっちでもないんだよ。いい加減にしろよお前、殴るぞこら」僕はその女に飛びかかった。

 十 愛して、許して。僕を許して。僕の暴虐を許して。この粗暴さは一体どこから生まれたの。やり直せるものなら最初から全部やり直してしまいたいよ、小説を書き直すようにして。けれど、実際の人生はまるでやり直しがきかないんだ。僕は今日死んで、明日の朝生まれ変わり、また次の人生を始めることにしたんだ。
 僕の前でたくさんの女が泣いている。僕も泣いている。僕は笑い始めた。笑い続けると、顔の筋肉がひきつってくる。素晴らしい。僕の笑顔はひきつり始める。僕は隣に目を移す。隣では恵麻が泣いている。何故だ?何故また泣いているんだ?そしてここはまたあの部屋だ。恵麻がまた泣いている。僕は憤り、また叫ぶ。
 何度努力してみても、絶えずこの部屋に僕は引き戻されてしまう。この部屋では、恵麻が泣いている。僕はもうどうしようもなく途方にくれて、空に向かって叫び声をあげる。
今の僕にはこれが限界だ。いや、限界などないのだ。それでも僕はここまでしか歩けない。何故だろう。また自分で自分にブレーキをかけてしまったのだろうか。何故僕は自分にブレーキをかけ始めたのだろう。全く自分でブレーキをかけようと意識的に思っていなくとも、僕は気づかぬうちに、自分で自分にブレーキをかけてしまっていた。そんなふうにして、行きつ戻りつ、アクセルを踏んではブレーキを踏むことを繰り返して、僕の人生はたどたどしく進んでいるのだ。みんな同じだ。みんなこのようにして、屈折した道路を進んでいる。僕はそれでも、なんだか得体の知れない崇高なものを目指して、この道路を進んでいく。







   第十章


 一 僕の前に一人の男が立っている。僕は思いっきり車のアクセルを踏んだ。その男は僕の車に激突する寸前、姿を消してしまった。その男は二十代後半のサラリーマンといった容貌だった。
 僕は自分の胸に手を置いてみる。僕の胸は小さい。僕は何故こうも行きつ戻りつして、進展しないのか自分に尋ねてみた。
「いや、進展しているよ」びっくりした。後部座席にさっきの男がスーツ姿で座っている。ひきつった笑いを浮かべながら、その男は弱々しい声でそう言った。
 車は人のいない林道を進んでいく。
「自分自身では、自分が進んでいるのかどうか確認できないんだよ。進んだと思っても、ほんの一瞬の油断で、スタート地点に戻ってしまうことがある。だから、本当に気が抜けないんだ。何故すぐに元のだめな自分に戻ってしまうのか、わかるかな?君は素の自分をあまり評価していないんだ。君は生まれてきたばかりの頃の自分を信頼していない」そのサラリーマンは僕に説教を垂れ出した。
「見てごらんこの子を」バックミラーでサラリーマンを見ると、彼はいつのまにか赤ん坊を手に抱えていた。「ほら、触ってごらんよこの子に」僕はブレーキを踏んで、車を道路の脇にとめた。僕はそっとその赤ん坊に手を差出し、赤ん坊の柔らかい肌に触れてみた。温かい。ぽしゃぽしゃしている。
「どうだい、完璧だろう。感じるかい、君の心臓の鼓動、熱、夢、胸の高鳴り、期待、愛、人生。完璧だったんだ。君の全身は完璧だった。君はこの気づきを明日の朝になればまた忘れるだろう、記憶できないだろう。自分の頭の中だけで、言葉を巡らせている限り、君は明日の朝になればまた自分を否定することになるよ。君の中で日々誕生している新しい自分を、誰でもいいんだ、偉くなくても、美しくなくても、君と親しくなくてもいい、見ず知らずの、通りすがりの誰かと共有しないかぎり、新しく価値づけられた君は、一日とたたないうちにまた滅び去ってしまうだろう」そのサラリーマンは赤ん坊を抱えながらそう言い続けた。気がつくと、助手席には恵麻が座っていた。

 二 僕は誰でもいい誰かに僕の人生を明渡すために、同時に支えてもらうために、恵麻の涙について書いた小説を発表することにした。その小説は公の場に登場しないかもしれない。しかし、かまわないのだ。たった一人の人でいい、見ず知らずの誰かに読んでもらえれば、僕の人生は完成するのだ。そして、その誰かの中に眠る力、協力によって、僕の人生は更なる広がりをえる。一人の人に読んでもらったことをきっかけにして、自信をつけた僕は、周りの人全てに僕の存在を訴え始めることだろう。僕はくっきりとした笑顔を宿しながら、僕の存在を他人に勧める。僕らとともに、恵麻とともに。

 三 気がつくと、車は出発していた。恵麻は、さっきの赤ん坊を抱えていた。
「チャイルドシートにしなよ」
「いいよ。まだ生まれたばっかだしさ。私が持ってる」恵麻が笑う。気がつくと、後部座席にいたサラリーマンは消えていた。後部座席の上には、代わりといってはなんだが、僕と恵麻が書いた二冊のノートが置かれていた。

 四 そうなのだ、僕は僕の存在の奥深くにある傷を、恵麻を、たくさんの人々に知らしめない限り、永遠にいったりきたりの生活を繰り返すことだろう。僕の中で疼いている傷が、力が、外の世界に出ることを欲しているのだ。僕は今日からでも、僕の中に眠る、あり余りすぎている、踊りまくっている力たちを外に解き放つことができる。そうだ、今日この日から、僕は外の世界に向けて、僕の無限の力たちを解き放つ。溢れる力を指先から放射するのだ、この瞬間から。
 僕の中に眠る力が外に顔を出す時、僕の中に眠る力がその巨大な目を外に向ける時、僕は活性化する。僕の中に眠る力が僕の奥深くに隠れる時、僕はまたひどく退屈な生を始めてしまう。力を体中に流し続けること。僕が関わる全ての出来事において、僕の力を溢れ出させること。僕は僕の中に窮屈に閉じこもっている、外に出たくてうずうずしているエマたちを、絶えず外の世界に送り出す、遊ばせる、自由に行動させる。彼女たちは恐れていたのだ、失敗を、嘲笑を、批判を。そんなものはなんでもない、何度失敗してもいいのだ。失敗は常に成功なのだ。世の中に失敗などないのだ。ただ自由に遊ぶこと。多くの人の笑いものになること。自分で自分を楽しむこと。
 僕は僕自身を笑い飛ばす。同時に僕は、世界の全ての滑稽さをも笑い飛ばすのだ。
 僕は冷静に、ぼうっとしながら、世界中に力強い彼女たちを送り出す。彼女たちはおおいなる笑いと涙の世界にを顕現させる。僕も彼女や、世界中の滑稽な自由人たちと一緒におおいに笑い、泣き叫ぶのだ。

 五 自動車は道を進む。赤ん坊が泣き出した。
「うわ、どっかトイレないかな」恵麻が焦った声で僕に聞く。
「ないよ、どっかでしなよ。いいじゃん、他の車も通らないし」
「うわ、やっちゃった」ミラー越しにちらっと見ると、赤ん坊の下半身は黄金に輝いていた。黄金。黄金の尿?恵麻は慌てて赤ん坊の服を脱がし始めた。
「すごおい、赤ん坊の中からもう一人誕生だよ」
「何言ってんの」僕は、今度は直接助手席の方を見てみた。赤ん坊は、また赤ん坊を産んでいた。黄金に輝く新たな、小さな赤ん坊。
「何、こいつもう、そんなことしちゃったわけ?」よく見ると、赤ん坊を産んだ大きな赤ん坊は、僕に顔が似ていた。大きな赤ん坊から新しく生まれてきた、黄金に輝く小さな赤ん坊は、恵麻に少しだけ顔が似ていた。その思いつきを恵麻に言ってみた。恵麻は僕と反対の意見だと言って微笑んだ。二人の赤ん坊はぎゃあぎゃあと、車内に大きな泣き声を響かせていた。

(了)
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