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小説『内観法‐僕とお母さんとの関係』

最終更新日:2008年1月28日

育ての親、中条のおばちゃんについて


僕の育ての親ともいえる中条のおばちゃんについて、内観してみました。内観とは「してもらったこと」「してあげたこと」「迷惑をかけたこと」の3つを、お母さん、お父さん、兄弟について考えるセラピー技法です。
最初はお母さんからすべきなのですが、僕にとって一番愛してもらった存在は親戚の中条のおばちゃんだと思うので、おばちゃんから内観をはじめます。
 僕は生まれた時から、中条のおばちゃんのお世話になりました。両親が共働きだったので、週のうち三、四日は親戚のおばちゃんの家に僕は預けられました。親戚の子どもを我が子のように育ててくれるというのはとてもありがたいことです。おばちゃんは僕の姉や、その他の親戚も子どもも預かって育てた、心根のとても優しい人でした。そんなおばちゃんに、僕もほとんど母親同然に、赤ん坊の頃からお世話になりました。
 毎日毎日おばちゃんが僕においしい料理を作ってくれました。ふとんの準備や、お風呂の準備もしてもらったし、おやつもたくさん頂きました。
 おばちゃんは父の姉にあたる人です。おばちゃんの旦那さんのことを僕ら家族は「中条のパパ」と呼んでいました。まさしく、中条の家は僕にとってもう一つの家だったのです。大工の頭領をしているパパを初め、中条の家には、実家以上にと言えるほど、優しく、愛情をこめて面倒を見ていただきました。
 幼稚園に入ってからは、夏休みや冬休みなど長期休暇の度に、おばちゃんの家に一週間近く泊まりに行きました。
 僕はただおばちゃんの家にいるとみんな優しくしてくれるし、おばちゃん特製のハンバーグなど豪華でおいしい料理が出るし、お小遣いももらえるし、おばちゃんの息子で、僕より十二歳上のお兄ちゃんとも遊べるしと、自分に都合のいい理由ばかりを並べて、おばちゃんの家に休みの度に行きたがっていました。
 小さい頃ずっとお世話になったのに、そのことに感謝もせず、中学生の頃まで、毎年学校が休みになるとおばちゃんの家に泊まりに行っていたのです。もちろんおばちゃんたちは僕が遊びに行く度、我が子が帰ってきたかのように喜んで迎えてくれました。最高のもてなしをしてくれました。
 また、僕の両親が共働きで旅行に行けないからと、僕を旅行に何度も誘ってくれました。僕は中条の兄ちゃんが運転する車に乗って、山形や富山などいろいろなところにドライブに連れていってもらいました。僕は旅行の費用をもちろん負担していません。うちの親がおばちゃんたちにお金を出したり、お礼の品を送ったりしたかもしれませんが、子どもの僕はそんなことに考えも及ばず、当たり前に、ただで旅行に行けると思っていました。
「おばちゃんありがとう一緒に連れていってくれて」とお礼の言葉も思いつきませんでした。今思えば大変ありがたいことです。自分がいかほどに己の喜びばかり考えていて、おばちゃんたちの好意に感謝の念を持っていなかったか、恥ずかしくてたまりません。
 僕がおばちゃんにしてあげたことと言えば思い浮かぶのは一つくらいです。おばちゃんは後年目が悪くなり、夜暗いと外を一人で歩けないほどになっていたので、車から降りた時など、手をつないで、階段に気をつけながら案内することくらいが僕のおばちゃんに対する恩返しでした。
 ただその時僕は、中条の兄ちゃんから
「おばちゃん暗くて目見えねから、手つないでくれ」
と頼まれて、手をつないだだけでした。
 おばちゃんのために案内しようという優しい気持ちも少しはありましたが、「普段からこんなにお世話になってありがとう」という感謝の気持ちが溢れ出ての恩返しは、今まで何も行っていませんでした。
 おばちゃんは僕が大学に受かった時や、就職が決まった時、わがことのように喜んでくれました。本当におばちゃんは僕のことを愛してくれ、今でもずっとかわいがってくれているのだと痛感します。
 迷惑をかけたことと言えば、おこづかいをたくさんもらったこと、毎日毎日非常にお世話になったのに、儀礼的なお礼しか述べなかったこと、おばちゃんの愛、優しさを当然のことのように受け止め、心の底から感謝しなかったことなどです。おばちゃんの家に行けば、自分の家同然に僕はくつろいですごしました。それをおばちゃんたちは喜んで迎えてくれましたが、本当にありがたいことです。これから恩返しをしていきたいと思います。
 おばちゃんは「彼女を連れてきてくれ、結婚式に呼んでくれ、早くお前の子どもがみたい」とよく言ってくれます。これもまた、僕個人の喜びを、わがことのように祝おうというおばちゃんの真心です。結婚式を挙げる機会があったら、ぜひおばちゃんたち一家を招待し、生まれた頃より今まで大変お世話になったことを感謝したいと思います。子どもでもないのに我が子のようにかわいがっていただけたのですから。


僕が小学校低学年の頃のお母さんについて

初めに、お母さんについてお世話になったことはあまりないから、親戚のおばちゃんについて書くなどと述べましたが、考えたらそれはとんでもない誤解で、お母さんには本当に毎日毎日お世話になりっぱなしだったと気づきました。
 僕はお母さんの愛情を当然のことと思って、感謝の対象だとさえ気づけなかったのですが、それはとんでもなく失礼なことでした。
僕が小学校低学年の頃のお母さんについて。
 僕が最初に小学校に行く時、お母さんが一緒についてきてくれました。一番最初に幼稚園に行く時も、お母さんがつきそって下さいました。毎日仕事で忙しいのに、時間をとって僕につき添っていただきました。
 僕が良い成績をとると、お母さんは喜んでくれました。よい成績をとれたのは、お母さんやお父さんが僕の質問にいつも答えてくれていたからです。他の子より真摯に育てていただいたのに、それに対する感謝の気持ちもなく、成績がいいのはただ自分が賢いからだと天狗になっていました。
 僕はお手伝いをほぼ全くしませんでした。お母さんが僕の朝食、夕食を毎日作ってくれました。仕事のあいまをぬって、お母さんが食事を作ってくれたのに、僕はそれを当然のこととして受けとめていました。
 せっかくお母さんが作ってくれた料理を、僕はよく残していました。肉料理はおいしいからよく食べましたが、魚や野菜はそんなにおいしくないからと残しました。また、冷たいジュースが好きだったので、みそ汁もほとんど飲みませんでした。
 ケーキ屋の息子として、毎日毎日店のケーキやシューアイスを僕はおやつとして食べさせてもらっていました。お金のかかる商品をただで食べさせてもらっていたのに、僕はそれをケーキ屋の息子の当然の権利として受けとめて、まったくありがたいことだと思っていませんでした。むしろ、近所の居酒屋のせがれだったら、毎日好きなジュースが飲めるのにと、感謝なく、他の家にあこがれるような情けない状態でした。
 誕生日にも、クリスマスにも、デコレーションケーキを食べました。高いケーキを用意していただたいたのに、それを当然のことと思って、デコレーションケーキより普通のケーキの方がおいしいのになんて不平を心の中では思っていました。全く恥ずかしいかぎりです。
 小学校一年の時、お母さんに迷惑をかけたことは、まだあまり思い出せません。こんな子どもですから、きっと数限りない迷惑をかけたことと思いますが、何も思いつきません。思い出せないこと自体恥ずかしく、お母さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 僕はお母さんの愛情をあまり感じていなかったのだな、そばにいて、世話をしてくれるのが当然のことだと思って、育てていただいた感謝の気持ちなく暮らしてきたのだと痛感しました。
 むしろ、中条のおばちゃんの方が料理もおいしいし、優しい感じがすると、お母さんのことを低く思っていました。本当はお母さんこそ毎日毎日僕のそばでいろいろなお世話をしてくれたのに、それに何の感謝の念も抱けず、不満とないものねだりばかりで、本当にご迷惑をおかけしていました。
 忘恩どころか、お母さんにしていただいたことを恩と感じる情緒さえ僕にはなかったのだから恥ずかしい話です。
 仕事のことで、お母さんは店長であるお父さんによく怒られていました。そんな姿を僕は毎日傍観するばかりで、また怒られているくらいしか思っていませんでした。
 怒られた後のお母さんをかわいそうに思ったり、愛情ある言葉をかけたり、少しはお手伝いをしようという気持ちがまるで起きなかったことがたまらなく恥ずかしいです。むしろこんなことを言っては大変失礼なのですが、お母さんはドジなんだなと思ってしまっていました。まるで僕にはお母さんに対する愛情がありませんでした。

小学校には入る前のお母さんとの関係

 話は前後しますが、僕が小学校に入る前、お母さんとどういう関係にあったか、内観してみます。
 お母さんにしていただいたことは、まず、僕を産んでもらったことです。
 お母さんは働きながら、お腹を痛めて、僕を産んで下さいました。三十五歳を超える高齢の出産で、体に相当無理をかけたことと思います。両親とも働き盛りだったので、僕は裕福に、めいっぱい愛されて育てられました。
 店で働きながら、ひどく手間のかかる子育てをお母さんにしていただきました。特に僕が赤ん坊の頃は、朝から深夜まで、面倒を見るのが大変だったろうと思います。
 おまるで大便をする時など、お母さんにおまるを用意していただきました。
 大変恥ずかしいのですが、部屋でおしっこをもらしたのを覚えています。夕方五時か六時頃でした。僕はトイレでおしっこをしたくてしょうがなかったのですが、お母さんは店でお客様の相手をしていて、こちらに来られませんでした。一人でトイレに行けばよかったものの、僕は多分お母さんの接客が終わって、一緒にトイレについて来てくれるのをまっていたため、結局待ちきれなくて、畳の部屋の壁におしっこをもらしてしまいました。
 汚れた服の洗濯や、新しいパンツの用意や、はっきり覚えていませんが、壁のふき掃除もお母さんがして下さったはずです。僕はそれにお礼も言わず、おしっこがもれて困ったとしか思っていませんでした。
 僕がお母さんにしたことは、ほとんど思い出せません。僕がいることでお母さんは楽しく人生をすごせたと思いますが、僕自身はすすんで何もしておらず、ただお母さんが僕の存在を愛しく受け止めて下さったのだと思います。僕は愛されるのが当然のように、末っ子の甘えとわがままを押し通していました。
 お母さんに迷惑をかけたことと言えば、姉とあまり仲がよくなかったことでしょう。
 僕は姉といてもほとんど喋らず、一緒に黙ってテレビを見ているだけでした。姉とは喋っていない記憶しかないのですが、ごく小さい頃の写真を見ると、二人でにっこりして映っていたり、海を仲良く泳いでいる写真もあるので、僕の記憶のないところで、姉とは仲よく遊んでいたのかもしれません。ただ、覚えている限りでは、むすっとして、姉弟仲が悪いというより、仲がない状態だったので、お母さんに申し訳なかったと思います。せっかくの子ども二人が一緒に話もせずに、テレビばかりじっと見ていては、お母さんもやるせなかったことと思います。
 他にも、働いている最中に、あれしてこれしてと、いろいろせがんでいたことでしょう。自分は当時それを迷惑とも考えず、当然のように仕事中のお母さんを呼びつけていたのです。

小学校高学年の頃のお母さんとの関係


 僕が小学校高学年の頃、お母さんにお世話になったことと言えば、相も変わらず毎日食事を作っていただいたし、着る洋服の用意や、学費、生活費の工面などいろいろしていただきました。何よりお母さんは当時正月しか休むことなく、毎日毎日店で働いていました。僕を養うお金を稼ぐために、遊び、楽しむ時間を削って働いてくれました。それなのに僕は、店長のお父さんにはお金をたくさんもらったが、お母さんからは食事や洋服など身の周りの世話をしてもらっただけと思っていたのです。
 僕にお小遣いをくれるのはいつもお父さんからだったので、子どもながらにお父さんはお金をたくさんくれる人と思ってしまったのですが、そんなのはとんでもない誤解で、実際お母さんは毎日毎日店で働いていたし、僕らのために食事や洗濯など家事全般もやっていたのでした。僕はお母さんの苦労も知らず、感謝もせず、食事が出るのは当然、店で働いているのも当然と、まるでお母さんの行いのありがたさに対して無関心にすごしていました。
 僕は時々台所の冷蔵庫の上においてあった、お母さんの財布から、小銭や千円札をぬきとって、ファミコンの本やマンガを買うお金として使っていました。
 小学校五年と六年の時、八つ上の姉が短大に通うため上京したので、学校から帰ってくれば、家の中は僕一人という時が多くなりました。そこで僕はあさましくも店にお客さんが来ているのを、居間のドアの窓から確認して、お母さんの財布からちょっとずつお金をとっていたのでした。
 そのうちお金を盗んでいることがばれましたが、お母さんからは笑いながら、軽く注意を受けただけで、厳しく怒られることも、泣かれることもありませんでした。僕は注意された後も、反省のいろなく、こっそりお金をとることを続けていました。普段は忘れていましたが、今ひどいことをしていたと思い出しました。
 お母さんだからいいやと、お母さんを侮辱して、僕はお金を盗んでいたのです。ちょっとの額でもお母さんに悪いことをしたのだから、とんでもない罰です。誰も怒ってくれる人もいないし、公に話したこともなかったので、すまないことをしたと猛省し、少しでもお金を稼いでお母さんに恩返しをしたいと思います。
 思えばお母さんにはたくさんのものを買ってもらったし、面倒をみていただいたのに、プレゼントの一つも買ったことがなかったので、お返しをしたいです。いつか作家になったら大きな恩返しをすると思っていたのですが、作家としてお母さんに詫びる文章を書くことこそ大きな恩返しだと気づきました。そんな文章を書く気持ちで、これからもずっと書いて生きたいと思います。
 僕がお母さんにしたことは、ちょっとした料理の手伝いです。と言っても、それもお父さんかお姉さんに言われてからしたことで、自分から進んで、「いつもご苦労様」とお母さんをいたわって手伝ったわけではありません。
 料理の手伝いと言ってもしたのは、料理を台所から居間のテーブルに運ぶことくらいです。小学校住んでいた店と続いている家の台所は本当にとても狭く、人一人がやっと入れるくらいの、台所というより階段と居間の間のすきまみたいな場所でした。
 お母さんが午後六時頃、お客さんとお客さんの合間を利用して作った料理を配膳台においてくれるので、僕とお姉さんはその料理を座ったままで、テーブルの上に置き換えるだけでした。
 そのお手伝いが始まったのも、お父さんの帰りがいつもより遅くなったからです。お父さんは夕方から駅前にある別の店に働きにいくのですが、その店をしめて帰る時間が普段より遅くなり、お父さんを待っていると子どもの僕らが食事をする時間が夜の七時半過ぎと遅くなってしまうので、お姉ちゃんと僕だけは六時五十分頃から、仕事の合間をぬってお母さんが用意してくれた料理を、二人で食べ始めいていたのでした。
 自分たちが早く食べるために食事の準備は手伝ったのですが、後片づけはお母さんにまかせっきりで、しかもよく僕はサラダなど嫌いな料理をのこしていました。
 料理を作る手伝いをしたのは、野菜を切ったの一回きりだったと思います。それも、お父さんか誰かに、ちょっとやってみるかと言われて、やったまででした。その時に包丁で親指を切ってしまい、ばんそうこうの用意までお母さんにしていただきました。
 クリスマスの、ケーキ屋が最も忙しい時期にアルバイトがてら店の手伝いを一度だけしたことがあります。それも自発的にではなく、お父さんに、やってみるかと言われて、お金がもらえるからとやったまでです。
 配達の手伝いや、たくさんある予約済みケーキの仕分けや、接客を少し手伝いましたが、お母さんとお父さんはこうした仕事を毎日一生懸命にやっているのだと痛感する気持ちもなく、遊びがてらお手伝いをしただけでした。むしろ両親の仕事に対しては、僕は否定的な見方をしていました。中にいる人間しかわからない仕事の辛さとか、お母さんがお父さんに怒られている場面をたくさん見たせいかもしれませんが、両親の仕事を尊敬する気持ちがほとんど起きませんでした。
 自分はもっと華やかな仕事がしたいと思っていました。ケーキ屋と言えば、世間から見れば十分華やかな仕事だし、毎日毎日お店のケーキを食べさせてもらっていたのに、僕はお母さんたちの仕事を、そんなに尊敬の目をもって眺めていませんでした。毎日毎日休まずにご苦労様と思う気持ちもなく、自分たちは家族で旅行に行けないと、泣いて他の家をうらやましがったりしていました。わがままだったと思います。
 お母さんに迷惑をかけたことと言えば、お姉さんがいなくなってから、僕はすぐ反抗期になって、いろいろと汚い言葉をお母さんになげかけたことです。
 お姉さんがいる時は、僕は従順に、おとなしく暮らしていたので、いなくなった途端に僕に反抗期が訪れたのだと思います。
 それまでおとなしくしていたうっぷんをはらすように、僕はテレビのチャンネルを好きなようにしたし、ファミコンも一階のテレビでやり放題で、チャンネルは俺のものだと、お母さんたちの見たい番組をはねつけて、バラエティーばかりを見させていました。お母さんが見たい演歌の放送があると、お母さんは二階の部屋にいってテレビを見たりしていました。
 また、ビデオの使い方がわからないお母さんが、僕に演歌の番組をビデオにとっておいてと頼まれた時は、僕は喜んでお母さんのためにビデオをとらず、めんどくさいと思いながら、いやいやビデオの予約をしていました。
 思えばビデオを購入してくれたのはお父さんとお母さんです。それなのに、お姉さんと僕でビデオをほぼ独占して使っていました。
 小学校三年から中学三年まで、僕は土曜日の午後、習字に通っていました。そこでは二時間の稽古の最後に孝経という中国の古典を音読します。毎週毎週読んだのでもう覚えいているので、少し書いてみますと
「孝経。孝は徳のもとなり。教えのよって生ずるところなり。身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世にあげて、もって父母をあらわすは孝の終りなり。子のたまわく、親を愛する者は、あえて人をにくまず。親を敬する者は、あえて人をあなどらず」
 中国の古典に通じた習字の先生に、細かい内容まで教えていただき、親孝行の大切さを毎回説いていただいたのですが、頭では理解しているつもりが、人生の中で、その教えがまるで深く心に響いておらず、行動に全くつながっていませんでした。

中学生の時のお母さんとの関係

 まず、お母さんにお世話になったことを内観します。僕が中学に入って秋に、商店街の真ん中にある家から、住宅街にある新しい家に引っ越しました。
 僕はずっと、新しい家はお父さんが働いてためたお金と、足りない分は借金を使って建てた家だと思っていました。しかし実際は、お父さんとお母さんの二人が毎日毎日働いてためたお金で、子どもたちが暮らしやすいようにと新築の家を建ててくれたのでした。僕の人生における大きな思い違いでした。
 お母さんが僕に、
「お父さんは借金をしてまでがんばって働いて、家を建てたんだよ」と教えてくれたのを鵜呑みにしていましたが、実際はお母さんの毎日の努力があってこそのことだと気づきました。
 家が離れたので、僕は毎晩姉がいる時は二人で、中学二年に姉が結婚してからは一人で、お母さんが仕事のあいまに作ってくれたご飯を食べていました。せっかくお母さんがサラダやみそ汁や野菜料理を用意してくれても、僕は肉ばっかりを食べて、好きでないものには箸をつけませんでした。皿や料理の準備は自分でしましたが、食べたらテーブルの上にそのままで、後片づけは一切しませんでした。
 お母さんは僕が食べるためにケーキを毎日のように用意してくれました。友達が遊びに来た時は、人数分のケーキやアイスを用意してくれました。
 僕があるアイスを好きだと言えば、僕が言ったアイスを用意してくれましたし、プリンや新作のケーキなど本当にいろいろなものを持ってきていただきました。
 僕がお母さんにしてあげたことは、学校でよい成績をとること、運動会や文化祭で目立った活躍をすることなどでした。しかしこれらは僕の自己満足をお母さんがわがことのように喜んでくれたことにすぎず、お母さんが僕の喜びを祝ってくれた、お母さんの愛情を示す行為です。
 一時期お母さんは僕が中学校で真面目に勉強しているのかと不安になっていました。授業参観の時、僕はお母さんの不安を払拭するため、積極的に発言し、クラスの注目を集めました。実は、僕は授業参観の時に目立つため、普段は教科書の予習などしないのに、理科の教科書を前日読んでいました。ですから、先生の質問に教科書の正しい答えでどんどん答えられたわけです。一見頭がよさそうで、積極的に授業に参加している僕を見て、お母さんは喜んでくれたと思いますが、普段の僕はお母さんが心配された通り、ぐうたらしていました。イベントがある時にだけいつもより努力して、お母さんの心配をあざむいたのでした。
 運動会で、僕は三年連続でクラスの応援リーダーをしました。皆の前にたって、面白い踊りや演出をするのが僕は好きでした。運動会を見に来られたお母さんが、学年中の爆笑をかっている僕をごらんになって満足されたのは、ありがたいことです。ただ、家にいる時や普段はあんなに大人しいのに、こういう時だけはしゃぐのもおかしいと思われたのではないでしょうか。
 僕は目立つのが好きでした。注目をあびる動きをすると、みんな誉めてくれるし、認めてくれるし、得意な気分になっていました。しかし、これは誰か人のためにでた行動ではなく、みんなの注目を集めたい、もっと愛されたいという、僕のあさましい欲望から出た行為だったと思います。
 人の幸せを無心に願って、自分のことはかえりみずに働いたというよりは、「どうだ俺はすごいだろう、もっとほめてくれ」といばりくさって、自分は行動してきたと気づきました。
 そんな自分の行動から得られるみんなの賞賛は、その場かぎりのものにすぎません。
 また、僕はそうして人より目立つことは、自分自身の手柄だ、才能だと思うばかりで、人のおかげだと思うことはほとんどありませんでした。周囲の人からいろいろ面倒をみてもらって、いろいろ素晴らしいことを教わったから、僕は人前で生きていけるんだという感謝の気持ちが僕にはありませんでした。
 他の人は僕にとって、僕の才能を認めてくれる存在で、僕は人より優れていると馬鹿馬鹿しくも思いこんでいたのでした。すげない僕の馬鹿騒ぎを温かく迎えてくれる周りの優しい人たちの存在に、感謝する気持ちが僕にはありませんでした。
 話が普遍的になりすぎたので、お母さんの話に戻すと、まさしく、僕が常日頃からお世話を受け、温かく迎え入れてもらった存在こそお母さんなのでした。
 自分は本当に「ありがとう」というお礼の言葉を言うのが少ないし、人に言われたからではなく、真心から行動することが本当にないと気づきました。
 こうすると人から誉められるからとか、こうするのが社会的に正しいし、受け入れられるからと思って人生の岐路を選択するのではなく、真心からこうしたいからと、不意にはっと出る愛によって動き出す男になろうと思います。
 さて、お母さんにご迷惑をかけたことと言えば、塾に通わせていただいたり、通信教育を受けたり、テレビゲームやCDを沢山買ってもらったりとご恩がたくさんあるのに、まるでそれをありがたく思っていないことが、申し訳なくてしょうがないです。
 たいていお金の出所はお父さんからだったので、お母さんは「あげすぎではないか」とお父さんをさとす立場にありました。そのせいで、お母さんはけちだなんて思っていましたが、お父さんとお母さんが二人で働いてためたお金を、お金のありがたさをよくわからない僕が湯水のように使っているのだから、そう言われて当然です。

高校生の頃のお母さんとの関係


 僕は全県区の、できたばかりの進学校に進みました。高校三年間ずっと寮生活でした。せっかく新築の家をたてていただいたのに、すぐに息子が寮に入ったし、お姉さんは結婚して家を出たので、お母さんとお父さんを二人きりにしてしまいました。子ども想いの親だっただけに寂しい想いをさせたと思います。
 月に一回の土日の連休を利用して僕が帰った時は、本当にあたたかくむかえていただきました。帰る度にすき焼きやしゃぶしゃぶなど僕の好きな肉料理をお母さんに用意していただきました。
「肉はおまえが全部食べていいぞ」
と、僕だけが肉を食べ、お母さんとお父さんはあまった野菜を食べていました。
 親元を離れた高校で、寮費や学費、月一回の交通費など、普通よりお金が相当かかったと思うし、どうしているだろうと心配されたことと思います。
 勉強を真面目にして期待に答えるのが僕の務めですが、嫌いな数学は勉強をするのが嫌でしたし、寮の友達と夜遅くまで遊ぶこともありました。遠い高校に通わせていただいているというありがたさに気づくこともなかったし、感謝する気持ちが芽生えないわがままな子どもでした。
 時々ケーキやみかんなどをお母さんが寮に送ってくださいました。寮の友達が食べる分までたくさんのケーキを送ってくれたのに、僕はお母さんにお礼も言わず、寮の友達から「ごちそうさま、とってもおいしかった」とお礼の言葉をもらっても、それをお母さんに伝えることもしませんでした。
 僕がお母さんにしたことと言えば、期待に答えて勉強することくらいです。しかし勉強の動機は自分がいい大学に入って、いい人生を歩むためでした。
 成績がよいとお母さんは喜んでくれました。本当にお世話になったお母さんのためにがんばるぞと思って努力してとった成績でなく、他の人よりいい成績をとろう、いい大学に入って人生を楽しもうと、僕の欲求ばかりが先にたってとった、ひとりよがりの成績でしたが、お母さんは「よくがんばっている」と誉めて、認めてくれました。
 迷惑をかけたことと言えば、お母さんから電話が寮にかかってきたとき、僕の対応がつめたかったことです。
 親から電話がかかってくると、寮の管理人さんが、放送で「〜さん、お母さんより電話です」と呼び出してくれます。僕は呼ばれると、いやいや電話のところにいって、無愛想に出ていました。
 親にこちらから電話をかける時も、愛情のこもった声でかけるのでなく、無愛想な声でめんどくさそうにかけていました。
 そもそも僕が親の愛情に気づいていなかったのだから、愛情のある声が出るはずもありません。お母さんからこんなによくしていただいたのに、それをまるで当然の権利として受け取り、感謝の気持ちがまるで芽生えていませんでした。
 愛をたくさんそそいでいただいたのに、それを感じ取る器もなく、反抗を繰り返していました。今こうして振り返ると、こんなに面倒をみてもらったのに、何故慈愛に気づかずに生きてきたのだろうと不思議でしょうがありません。自分は恵まれすぎているほど愛を受けてきたのに、それを感じ取ることもできず、愛が欲しいと不満ばかりをのべて生きていました。そんな状態ともこれでお別れです。


大学生の時のお母さんとの関係


 まず大学に入る時、入学金や学費の工面、一人暮らしの準備などお母さん、お父さんには金銭的な援助を大変受けました。僕はたくさんお金をいただいたのに、湯水のようにゲームを買って、しかもろくに遊びもしないで中古に売っていました。僕はお金のありがたさをまるで理解していませんでした。
 入学祝としてお母さんから五〇万円を振り込んでもらいました。お父さんから聞いたのですが、お母さんは僕が大学に入った時のお祝い金として、僕が小さい頃からずっとお金を貯金していたそうです。大変ありがたいことでしたのに、たしか僕はろくすっぽ感謝の言葉も述べずにお金を受け取りました。
 お父さんからは毎月お小遣いをもらっていましたが、お母さんからお金を渡されたことはほとんどありませんでした。お父さんが長年毎月僕に渡したお金と同じほどの、五〇万円という大金をお母さんは貯金してくれていたのです。僕へのとっておきのプレゼントだったのに、僕はお母さんにまるでお返しもしませんでした。本当に無礼な人間です。
 僕は結局二回留年したので、六年分の家賃と学費を両親からいただいていました。アルバイトは疲れるからと、ほとんどバイトをせず、親のすねをかじって遊んでいました。
 六年間生活費だけで一千万以上のお金をいただいている計算になります。学費もろもろを含めると、六年間ろくに感謝もしない人間が、一千五百万以上のお金を無償でいただいていたのです。本当にありがたいことです。大学六年間だけでこれだけいただいたのですから、今まで通算すると相当の額のお世話を受けていたことになります。とてもはかりきれない量の愛情だし、これから自分はどうやったらそのご恩に報いられるのか途方もありません。
 精一杯立派に生きるだけなら、自分の喜びのために生きているだけです。常に育てていただいた親に感謝しながら、恩返しのつもりでこれからの人生を生きよう、自分の家族のために仕事をしよう、お父さんとお母さんが僕を愛してくれたのと同じように僕も身の回りの人を愛そう、と誓います。
 人生の選択の根源に常に親に対する感謝の気持ちを入れて、行動していきたいです。自分は恵まれすぎているほど愛されて、幸せに生きてきたこと、なのにその慈愛に気づく感受性をもっていなくて、人生の半分をもったいなくしてしまったことを反省し、これから生きていきます。
 大学の頃の話に戻すと、お母さんからはよく果物やケーキの贈り物をいただきました。なのに「いっぱい入れ過ぎだ、食べたくないものまで送ってきている」などと、自分の都合ばかりを優先して、相手の愛情を反故にする考えを僕はずっと持っていました。
 内観をして気づいたことがあります。僕の心は、自分の満足ばかりを考えていて、人にどれだけ愛されているのか感知することができないでいました。愛されていることに気づいても、それに決して満足せず、もっと愛してくれとせがむばかりでした。僕はもはや何の文句も言う必要がないほど人に愛されて生きてきました。なのにまた多分いつもの調子で、明日もまた僕はもっと愛してということでしょう。
 そんな不平、欠乏感が出そうになったら、僕は今持っているものに目を向けます。次から次に新しいものを欲するのではなく、自分が持っているものを大切に大切に扱い、心安らかに生きる人になりたいです。
 さて、大学時代僕がお母さんにしたことは、恐ろしいことに全くありません。帰省の時、お土産を買ってもいないし、お母さんに何もプレゼントすることをしませんでした。大学の友達の女性たちが、母の日やお母さんの誕生日にプレゼントしているという話を聞いて、素敵だなと思いはしましたが、自分ではめんどくさいと思い、実行しませんでした。
 大学の成績もよくありませんでした。よい成績をとっても、人との競争がないし、みんなから誉められることもないと思い、テストで高得点をとる意欲をまるでなくしていました。しっかり勉強するという意欲もなく、適当に勉強して、そこそこの成績で卒業しようと思っていました。
 お母さんにご迷惑をかけたことをこのまま書き綴ります。まず、たくさんのお金をいただいたのに、当然のようにもらい、返す気持ちもなく、感謝しなかったこと。二度留年し、心配と迷惑をかけたこと。
 一度目の留年は僕が嫌いな数学を勉強しなかったことが原因でした。語学の勉強もめんどくさく感じていたので、ぎりぎりの点で単位をもらえればいいと気をぬいていました。そうしたら、見事に単位をおとし、大学二年生の時に留年しました。
 お母さんには恥をかかせてしまったことだろうし、ひどく怒られるのではとおびえていましたが、まるで怒られず、拍子抜けしました。いい子で突っ走ることで人から愛されると思いこんでいたのですが、留年してもほとんどの人の対応が変わらず、馬鹿にされもせず、愛されたままだったので、そこは非常に勉強になりました。
 また、就職活動一年目の時、就職したくない思いがあり、会社勤めをしたくもなかったのに就職活動をしたため、当然のようにどこからも内定をいただけませんでした。五月の終り、自転車にのっていたら、車にはねられ、それで顔にけがを負ったのも契機となり、就職活動をやめることにしました。
 僕の心の中では、自由で独立した作家になろうと大学五年目の五月に決意したのですが、それと同時に、作家となるまでは親にも友にも口外しないとも決意したので、親には「来年また就職活動をする」と言いました。
 お父さんは僕に昔から公務員になれと言い続けており、その時も公務員の勉強をするようにすすめられました。お父さんは、収入も安定しているし、週五日、決められた時間だけ働けばよく、社会的な地位もあるから、公務員をすすめたのですが、子どもの僕としては、公務員は変化が少なく真面目でつまらなそうと思っていたので、ずっと拒否し続けていました。
 思えば、変化せずに、真面目で、刺激もないことをたんたんとやることこそ、日々の仕事としてすばらしいと気づきました。僕は若く、刺激を求めてお父さんの要求を拒否していました。
 それなのに、僕は一年留年できるからと、公務員を目指すと親にうそをついて、留年を許してもらいました。
 お父さんのすすめで、立川にある公務員の学校の生徒になりました。そこの学費がたしか五〇万以上したと思います。
 大学一年分の学費と、生活費とあわせて、予想外の出費となったはずですが、お父さんは公務員になるのならと、愛と希望を僕にたくして、もう不況で貧しくなった中、嘘つきの僕にお金を用意してくれたのでした。
 心の中では、いつか作家になってこの恩は返すと誓っていたのですが、それでも僕はまだ作家でなく、お父さんとお母さんをだまし続けています。
 最初の頃は週3日くらい、公務員の学校に行っていました。そこでビデオを使った授業をテレビで見ながら、テキストを使って公務員試験の勉強をしていましたが、めんどくさく感じていたし、やる気がなかったので、そのうちほとんど公務員の勉強をしなくなりました。
 公務員の勉強の時でも数学の勉強をするのが嫌いでした。数式を解いたり、問題を考えるのがめんどくさく、嫌でした。自分の怠惰が原因で、数学や経済学の勉強を好きになることはできませんでした。
 ここで内観に関係なく、ふと気づいたことがあります。僕は数学をずっと嫌いだと思っていたのですが、実際は問題を解くために考える時間が嫌いなのでした。
 社会や国語は物語があるから好きだが、数学は数字ばかりで物語がないから嫌いだと思っていたのですが、実際は、社会や国語だと考えてすぐ答えが出るけれど、数学の思考問題は長く考えないと答えが出ないから嫌いなのでした。
 学校の頃の思い出から、「数字を扱う仕事はしたくない、嫌だ」と思っていたのですが、仕事で数字を扱う時は、売上の計算など単純作業ばかりで、高度な数学の問題を解く思考作業とは無縁ですから、それだったら嫌いでもなんでもないと気づきました。この気づきだけで、だいぶこれからの数字を集計する仕事が楽になると思います。
 結局公務員の勉強にほとんど身を入れないまま、東京都と新潟県の公務員試験を受けました。申し訳ない程度に全教科を勉強しましたが、当然のように答えの分からない問題ばかりで、マークシートを直観で塗りつぶしていきました。
 開始何分かで、退出可能になるのですが、僕は退出できる時間が来ると、すぐに席をたって、公務員試験を終えました。
 試験を受けに行った時は、公務員試験を受けにきている人は、就職活動中の学生に比べて、ださい格好をしているし、暗そうな人が多いなと、批判的な目で一生懸命勉強している人たちを馬鹿にしていました。みんなが必死に問題を解いている中、気楽に会場に来て、すぐに帰った僕は本当に失礼きわまりない存在でした。
 当然のように公務員試験には東京も新潟も落ちました。結果を電話で連絡した時、父は非常に落ちこんでいました。それでも私に怒ることなく、ただただ落ちこむだけで、非常に申し訳ない気持ちがしました。
 受かった企業が一つあるからそこに行くと伝えました。父はもう一年勉強して、また来年公務員試験を受けてみるかと言いましたが、僕は恥ずかしくも公務員の勉強をする気が全くなかったので、断りました。
 就職活動と公務員試験の勉強の期間、全く両方に力を入れず、アカペラサークルで歌を歌う活動に取り組んでいました。まわりの四年生が精一杯就職活動している中、僕は楽しいからという理由で、サークルの新入生歓迎活動にいそしんでいました。プロの歌手になる気もなかったので、本当なら夢に描いた作家となるため、小説を次々書くべきでしたが、その頃はまだ一つも作品を書けず、暇な時間に小説を読むくらいでした。
 公務員試験を受けている頃、お母さんからは宅急便の差し入れや、励ましのファックスをいただいたりしました。
 僕は両親に公務員になるために勉強すると嘘をつき、さらに、作家になりたいという夢をも隠し続けています。
 作家になることだけを考えて毎日文筆に励んでいるわけではなく、適当に好きな小説を読んでいるだけだし、小説を書く日があっても、一日三枚ほど書くだけです。普段の意識はいろいろな楽しいことや、辛いことを考えているばかりで、親に嘘をついてまでしてお金と時間をもらったのに、僕は本気で作家になろうと努力していないのです。
 大学六年目の秋から、ぽつりぽつりと小説を書いては、新人賞に応募するようにはなりました。当初は応募すればすぐに作家になれる、最低でも社会人一年目で作家になれると非常に甘く考えていました。しかし実際は、一次選考で全て落とされ、まるで小説の世界から相手にされませんでした。
 親や友達をだましているのは、自分自身に、作家になれるという自信がないし、作家になりたいという心から溢れる強い願いもないからかもしれません。
 まだ自分自身に決意がなく、曖昧でいるので、新人賞にも何回も落ちているのでしょう。

社会人になってからのお母さんとの関係

 引っ越す時、お母さんとお父さんに手伝っていただきました。
 僕が大学時代住んでいた国立駅から、引っ越し先の小田急線祖師谷大蔵駅に着くと、お父さんとお母さんが改札で待っていてくれました。僕が二人より早く引っ越し先に着く予定が、鍵の引き渡し作業などが遅れ、両親を待たせてしまいました。
「待ってもらってごめん」
 と会ってすぐに言うべきところで、僕は田舎からやってきた両親はもう本当に年おいたんだなあと嘆息してしまいました。
 お昼前で、腹が減ったから三人でご飯でも食べに行こうという話になりました。両親とも駅前の吉野屋で牛丼が食べたいと言いました。僕はいつも牛丼を食べているし、せっかく親子が集まったのだから、もっといい店に行こうと言い張りました。両親はせっかく東京に来て、田舎にはない牛丼を息子と記念に食べたがったのに、僕が意志を押し通し、結局三人でパスタランチを食べました。
 引っ越し先についてから、僕は体を動かすことが好きではなかったので、年とった両親に率先して動いていただきました。お父さんには荷ほどきをしてもらい、お母さんには部屋の掃除をしてもらいました。
 二つとも僕が嫌いな作業でした。僕はこれから社会人になるというのに、反抗期のわがまま息子のように自ら動こうとせず、お父さんの荷物の置き方が悪いと文句ばかりを言っていました。
 引っ越してから足りないものを近くの大型スーパーや電気店、家具店などに買いに行き増した。かなりの金額になる家具類を、お父さんに買っていただきました。
 不況で、従業員に払うお金を用意するため、自分達の給料をカットしていると言っていたのに、以前と違う苦しい経済状況のはずなのに大金を払っていただきました。
 お父さんと僕で買い物に行っている間、お母さんは家で留守番をしながら掃除をしていただきました。
 その日の夜の食事も駅前で、中華を親におごっていただきました。
 食後三人で交互に風呂に入ったのですが、僕は一番最初に入らせていただきました。
 引っ越しがめんどくさいというストレスで、僕の体は今までありえないほど全身湿疹になっていました。風呂上がりも真っ赤な体をぼりぼりかいている僕を見て、お父さんとお母さんはショックを受けたと思います。
 引っ越し二日目も、疲れた疲れたと二人とも言っていたのに、また買い物や部屋の整理を手伝っていただきました。
 その日も朝食、昼食ともに両親のお金で食べさせていただきました。
 僕はたくさんたくさん経済的な援助を受けてきたのに、親がもっと裕福だったらよかったとか、もう貧乏になったから遺産や結婚資金をもらえないだろうと親を非難していました。感謝の心が足りず、気持ちを言葉で言い表すこともありませんでした。
 親は新潟で、学校の先生か公務員になって欲しかったのに、僕は東京で民間企業に就職しました。家を新築したのにすぐに二人の子どもとも出てしまい、姉は新潟市内に家を建て、息子は東京に就職したので、両親とも非常に寂しがったと思います。
 社会人になってからも、お母さんから、米や果物やあさげの仕送りをしてもらいました。僕は宅急便が届いても特にお礼の言葉も述べず、米を送ってくれと電話するのに、届いたらほったらかしにしていました。米だけ送ればいいのに余計なものまで送りやがってと、まるで感謝の気持ちがありませんでした。
 初給料をもらった時、上司からはお父さんやお母さんに何か買ってあげたらと言われたのですが、僕は結局何も買いませんでした。給料明細だけでも送ったらとも言われたのですが、恥ずかしいし、そんなことした時もないし、めんどくさいしと思い、結局何もしませんでした。
 ネクタイやお菓子くらい買って送ろうかと思ったのですが、給料は少ないし、作家になったら恩返しはするが、この給料ではまだ恩返しできないと僕は勝手に自分に制限をかけていました。
 作家になるのなら毎日毎日原稿を書くべきなのに、僕はたまにしか小説を書かなかったし、心底賞をとるために原稿を書かなかったし、読者をばかにした高踏な内容の小説みたいなものばかりをだらだら書いていました。
 結局僕は小説を心底愛することができないでいたから、小説家になれないのでした。熱狂的に好きになることはあっても、その熱はいつもすぐにさめてしまうのでした。僕は永く何かを愛することができる人間になりたいです。僕は小説を愛します。小説はお母さんと同じほど、僕にたくさんの愛を送ってくれました。僕にとって小説とは言わば、もう一つのお母さんなのです。どきどきしたし、勇気や希望をもらったし、成長の糧となりました。村上春樹、村上龍、プルースト、トルストイ、ジョイスら偉大な作家たちによって僕は学校では教わらないことを教わりました。僕は彼らみたいになりたいと思い、小説家になろうと志したはずです。しかし、僕は小説からお母さんと同じようにたくさんの恩恵を受けたことを時々忘れ、酒とか、お金を得るための仕事とか、女性とか別のものに熱狂してきました。僕はお母さんから受けた恩恵を忘れず、絶えず感謝するのと同じようにして、小説を愛し、小説を書きます。小説を書くことこそ最大の恩返しでしょう。お母さんにとっての最大の恩返しとは、僕が最愛の人をお母さんに紹介することでしょう。僕はお母さんが僕を愛し育ててくれたのと同じようにして、僕の目の前にいる素敵な女性を愛し、大切にするでしょう。僕が僕の恋人を愛することをお母さんはきっとまたわがことのように喜んでくれるでしょう。そして、お母さんは僕の恋人を僕と同じように愛してくれることでしょう。



(自伝)
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