小説『マルテのブログ』(2004/09 - 2007/08)
最終更新日:2008年2月20日
2004年9月29日
「今日の反省」
自分のからだを醜いと思ったこと。腕に生えている毛を見て、自分に嫌悪感をもったこと。夜から疲れたこと。後輩がトイレにうずくまっていたのに、彼女の異変に気づかなかったこと。肩をいからせながら生きていること。
自分の顔をとても醜いと思ったこと。自分のことを悲しく思ったこと。小説が進まなかったこと。生きているのが苦しいと思ったこと。何故自分だけ明日出勤なのかと休みをとるまわりに嫉妬したこと。人の利己心をあざわらってしまったこと。ひたすら嫉妬深いこと。
もう自分を見るのが嫌なこと。顔を見るのも嫌なこと。助けをもとめるばかりで、心がみたされていないこと。とにかく愛情に飢えて自分を攻撃し続けていること。
2004年9月30日
「厳しい観察」
今日の反省。仕事中眠たくなったこと。無理をして高いカレーを食べたこと。その後お金もないのにコーヒーを買ったこと。午後に先輩からまたコーヒーをおごってもらったこと。
そんなほのぼのとした反省はもういい。自分の存在の根源に関わる省察をなせ。
愛されていないことを悔やんで、夜泣きそうになったこと。
醜い人を軽蔑しているから、自分は愛を感じられないのだ。僕は自分の醜ささえ軽蔑している。理想的なまでに美しい人を求めているから、ある程度素敵な人は拒絶しているから、僕はいつも非難がましく不平を言っているのだ。
自分の顔の醜さを受け入れること。器を大きくすること。緊張をほぐし寛大になること。
同時に、厳しく生きること。
ただひたすら、いつも厳しく生きること。優しい存在になろうとせず、愛を求めず、人を愛さず、ひたすら厳しく生きること。文章を書いて生きていくために成せることは全て成すこと。
若さは敵だ。
2005年1月13日
「ラカン、デリダとジョイスをつなぐ、他なるものの思考」
昨夜、私はポスト構造主義とは手を切って、精神的他者依存を抜け出し、自分で自分の人生を決める自由を手に入れると書いたが、ベッドの中で、すぐにラカンの「無意識とは大文字の他者のディスクールである」という言葉を思い出した。
ただ、主体は他者の掟によって規定されると言っても、ラカンは主体の全てを否定したわけではない。主体とは、存在しておらず、ランガージュの外に外在している、他者のシニフィアンの代理表象にすぎないのだが、それでも完全に虚無なわけではない。げんに、主体の消失は、主体の死として、精神病として語られるのだから。象徴界から転落する時、他者とコミュニケーションするコードを発揮できなくなる瞬間から、主体は精神病の兆候を示し出す。そうした意味では、私は現に精神病の兆候を示しつつあった。ゆえに、芸術として言葉を鍛え直そうとする私の試みは、主体の死からの脱出過程であったと言える。今ある周囲とのコミュニケーションの可能性を喪失しそうになった私は、前衛的かつ古典的なテクストの育成を通して、外界との新たな意志疎通をはかろうとしていたのだ。
主体は他者の存在からなるという事実はラカン以後、否定しようもない。今日あまりに眼の痛みがひどかったから、タッピングセラピーとか、つぼセラピーの解説を読んだが、彼らは、心身の病の根源は、自分を受け入れられない心の拒否状態にあると見ている。「私は私を受け入れます」「たとえ私が〜でも、私は完全に私を受け入れます」などといった自己受容の言葉を発することで、治療過程が始まるとされる。しかし、自分を完全に受け入れている人間などまれだろう。ある種の潔癖性のため、私は自分の落ち度を極度に責めすぎ、心の病におちいってしまう。現実にはたくさんの人間が寂しがっているし、他者に依存したがっているし、愛を求めてやまないのに、私はそんな自分を情けなく感じてしまう。受け入れられない。
NHKの放送で、性同一障害に悩む人が、労働差別に合い、自殺したくなったという経験を語った時、拒絶によって死にたくなるほど辛くなることは誰でもありうること、特にラカンが言う通り、自分が所属していると思っていた象徴界たる社会から拒絶された時、死にたくなるほど辛い思いを味わうことが想像された。この状態からの治癒は、自分自身を受け入れることより、社会という他者に受け入れてもらう体制作りに向けられるだろう。
どうも主体は他者からなるというラカンの言説と、他者に依存しすぎることで弱い自分を責めている自分の言説は違うことを言っている気がする。今の私は、他者の助力を求めている。他者に依存したいという欲望を持っている。欲望が目指している目標よりも、欲望の原因となる対象aを見つけてみよう。
「主体は一般にこの対象aを求めれば求めるほどそれを避けるということ、あたかも主体にとって最も備給されているものに到達することは主体自身を消失させることになるかのように、主体は対象aを避けるということが気づかれることになるだろう。(…)また、次のように言うこともできるだろう、真に終結へと導かれた分析は、主体が、自身が諦めなければならなかったこの対象、つまり「譲渡可能」なこの対象は結局自身の存在の全てが占めている場にあるということに気づくことができるようなものでなくてはならないと。』(精神分析事典、項目「治療の方向性」より、弘文社)
この対象aとは何なのか。それは存在の欠如であり、部品にすぎず、主体を根拠づけるものだが、言葉では定義不能なものである。対象aとは結局名づけえないものであり、私はこの対象aを自分の存在の中にもっている。私が他者を求める欲望は、対象aから発する。しかし、対象aは私の中にあるのだから、私は中にあるものを外に求めていただけだ。何が何だかよく分からない者もいるかもしれないが、とりあえず私の枯渇はいささかなおった。どうも私が求めていたものは、幼児の頃より自分の中に欠如としてだが存在していたようである。
さて、他者依存を振り払おうとした私の振る舞いは、ラカンを通過してどうなったか。私の主体は、他者の言語の掟によって成り立っているのは確かだ。ただ、強い他者に依存しようとする私の弱さ、甘えは、対象aを私の中に見出したことで、いささか弱まった。
では、自由の概念はどうか。他者の支配からの絶対的自由は求めうるのか。デリダの言葉を見てみよう。デリダは自由という言葉を使うことに警戒する、というかこの哲学者はあらゆる哲学的概念を素朴に使うことに対して、厳しい警戒のまなざしを向けているのだが。デリダによれば、自由の概念は、主体の形而上学を想起させる。
『そうした形而上学的前提は、衝動や計算やエコノミーや機械などからの主権的独立を、主観や意識ーー換言すれば、自我論的主体ーーに付与します。(…)主体の自由とか人間の自由とか言うのは避けた方がよいと思われるのです。』(デリダ、ルディネスコ『来たるべき世界のために』藤本一勇・金澤忠信訳、岩波書店、2003より)
では、支配的、一元的主体を蘇らせない、自由の概念はありうるのか。
『「自由」という語ないし概念にポスト脱構築的効力を取り戻させることは、とりわけ、政治的なるものの別の概念に釣り合う仕方での再ー政治化や、国際法の現在進行中の変容や、別の倫理といったものの名において、来たるもの、来たるであろうものを迎え入れ生じさせるために、しばしば必要不可欠なことのように思われます。』
自由とは、「計算不可能なもの、予測不可能なもの、決定不可能なもの、出来事、到来するもの、他なるもの」などの、形而上学の理解ー支配の形式からとりこぼれおちる、全ての他者の名である。
ここに主体と他者の価値の転換がある。ヘーゲルの時代では、他者をとりこみ、主体を確立することが哲学の課題だった。ラカンの時代では、主体とは何ら独立したものではなく、他者によって規定されていることを明らかにするのが哲学の課題だった。80年以降のデリダにとっては、主体の理解ー支配過程から逃れる、理解不能なものとして、かつ主体の条件としての他者を語ることが、哲学の課題となる。
この自由概念は他者に、弱者に極めて優しい。ジョイスやナボコフやフローベールの俗物批判は、他者の俗物性を裁くことで、芸術家としての自己を確立したのだが、デリダは、言葉の中にとりこみえないまったき他者の存立可能性を歓待する。しかし、このまったき他者の考えは、ジョイスの「ユリシーズ」の、モリーの独白、yesからも始まりうる。
デリダは「フィネガンズウェイク」を高く評価し、何度も読んだと言っている。デリダ自身、まったき他者について語りながらも、あくまで主体を重視する哲学の中に留まり、決して学問の営みを放棄していないのだから、私も読者という他者を招き入れようと理解しやすい言葉で書こうなどと思わないようにしよう、理解できないところからしか、他者は現れてこないのだから。
さて、昨日見出した、ディーダラス的、誰にも依存しない絶対自由を私は追い続けるべきだろうか。デリダ的、レヴィナス的視点から、スティーヴン・ディーダラスを再解釈してみよう。彼は、アイルランドの規範、ナショナリズム、宗教、家族、それら理解しやすいもの全てを拒否し、外に飛翔しようとする。それは、通常の見方では、共同体から排除されてしまう、他者を招来するあり方である。彼は他者を求めていたのか。
こう書くと、あんなに俗物批判していた非情の男が他者なんて求めていないだろうと誤解されそうだから、他者という言葉を哲学的に捉え直してみよう。彼は計算不可能なもの、決定不可能なもの、予測不可能なもの、出来事、到来するもの、他なるものを求めていたのだろうか。ああ、これなら当然だ、意識の流れとはまさしく規範が排除する他なるものをテクストの中に招き入れる試みだ、ディーダラスおよびジョイスは他なるものを求めていたし、フローベールもナボコフも、現実には見出しえない、他なるものを求め、作品化していた。
私はもう他者という言葉を使わず、他なるものという言葉で、人間をもさすことにしよう。まさしく人間とは、私にとって計算不能で、決定不能で、予測不能な、偶然出会うだけの出来事であり、私は彼らを支配、教育できない。また私も彼らからすれば絶対的に他なる存在だから、他であろうとし続けることで、私は彼らの支配、合一化から免れうるだろう。
私は他なる読者に理解をもとめない、理解とは取り込みである。私は読者に他なる、自由なテクストを贈与するだけにする。読者からも、絶対的に他なる贈与だけを求めよう。それはすばらしく優しい歓待の往復運動だ。これで、ラカンとデリダとジョイスと私が見事につながった。他なるものを思考すること、これが文学の営みである。
2005年5月25日
「できちゃった文章」
今日私は再び自由の境地に舞い戻った。ここは自由。何の制限もない世界。つかれていてもよいし、明るくふるまっていてもよい。誰も何も言ってこない。
電車に乗っている人の顔はみんな無表情で冷たい。友達同士で乗っている人の顔は楽しげ。他人と一緒にいるから、無表情を装うのか。理解に苦しむ。
タイの人はみんな笑っていた。日本に帰って来て、まず最初に電車に乗る人の顔が無表情なことに気づいた。この人たちは人生楽しんでいない。仕事がつまらないんだろうとあわれに思った。俺はずっと笑顔でいようと思った。その決意もむなしく、三日後くらいには私はもとに戻っていた。みなと同じくさめた表情。
今、また君に向けて書いている。
君は美しい。君は心も体も実に美しい。何も欠けたところがない。何も欠けたところがないのに、毎日あがいている。毎日あがいているのに、毎日楽しく生きている。
どうしてだろう。どうしてどっちつかずなのだろう。それが人間? そんな単純に納得していいのか。シンプルに思考し、シンプルに考えることがいいことなのか。シンプルに考えると君はとるにたらない存在。そんな自分が歌っている。歌っているけど、歌声は誰にも届かない。
昨日も今日も毎日人間が死んでいる。その一方で、僕の同級生の誰かが妊娠したり、子どもを産んだりしているだろう。もう子どもを小学校にやっている同級生もいるだろう。僕は本当に子どもを産めるまでに成長しただろうか。昔の方がよかったのではないか。
行き着く先に結婚や子どもが待っているかはわからない。わからないけれど、小学生の頃はそうなることを期待していた。今またわからなくなってきた。多くの友達が結婚していく。まあだいたいできちゃった結婚が多いんだけれど。
歩いても歩いても日本から出られない。ここはアメリカやリバプールではない。小学校時代の同級生が幸せな家庭を築いている日本だ。
こうして毎日毎日パソコンに文章をうち続けて、僕は歳をとっていくのだろうか。そうして歳月が過ぎていくと、どんどん同級生が結婚していき、子どもを産み、子どもの家庭参観日に行き、運動会で子どもをビデオに撮り、DVDにしたりするんだろう。書いてみると馬鹿らしいが、本人が楽しければそれでいい。他人事だから馬鹿らしくなるのであって、自分のことなら全て幸せだろう。そうだ全て幸せだ。
こうしてまた明日が来る。するとまた僕は一つ人生の道をすすめ、同級生の誰かが受精することだろう。
2005年9月28日
「君が性欲と無縁の生活を送ろうとすると」
君が性欲と無縁の生活を送ろうとすると
生真面目な君の姿に感染して 周りも途端に押し黙る
浮かれ遊んでいた頃に比べれば 元気がない印象を発散する
性欲は元気のもとか ならば元気も必要ないだろう
君はヒトのそばに寄る ヒトの体を近くから見ると
君は抱きしめたくなってしまう
君を襲う激しい性欲 一瞬で溢れかえって
君の理想に向かう決意をくつがえそうとする性欲
君は己のいた観測地点に戻っても 性欲の刺激を感じ続ける
みなが結婚していくのに 結婚を毛嫌いして 性欲まで否定して
気難しい顔で ほくそ笑んでいていいのかと君は苦悩する
ほらまた性欲のせいで君は苦しんでいる
己の場所に戻った君 遠くからヒトの振る舞いを眺めていると
実に滑稽で 君はついさっき性欲を感じたことを恥じてしまう
ヒトから遠く離れていれば 性欲とは無縁でいられる
ヒトに近づいた途端 君は性欲の罠にはまる
君は性欲でなく 愛について語れ
性欲の虜になり あやまちをおかしそうだと感じたなら 愛のみを語り始めろ
ヒトは君に性欲を感じていない いつも感じ続けているのは 君の方ばかり
君はまず愛を語れ 性欲のことは忘れてしまえ
2005年九月二十九日
「感情移入を拒否する話はもう書かない」
帰りの電車で40前後のおばさんの体を斜め後ろから眺める。私はその3時間ほど前、20代の女性の体を同じように斜め後ろから眺め、断ち切ろうとしていた性欲を呼び起こしてしまっていた。
20代で恋をして、同年代の女性と結婚したとしても、数年で美しい妻はこのおばさんのようになるのだろうか、そうしたら自分は性欲をもう感じなくなるだろうと思えた。どんなに周りが次々と結婚していこうとも、深い恋におちるのはやめて、せめて遊びで済ませておこうと思った。そしてすぐに、遊びで済ませるだけなら、性欲なんてない方がいいと思った。異性との精神的な交流を求めなければ、後は性欲さえつぶしておけば、恋愛する必要などなさそうである。
恋愛の結果結婚したとして、性的魅力に恋した女性が10年後老いさらばえて性的魅力を摩滅させるなら、恋愛なんかしなくて結構だと思えた。そしてすぐまた、しかし性欲に基づかない結婚もありえると思えた。本当に精神的な、誠実な友愛の気持ちから結婚するということも有り得るだろう。己の欲望に惑わされずに結婚できるなら、それは幸福な家庭を築けるに違いない。しかし、性欲と無縁の、純粋な愛情から生じる結婚など有り得るのだろうか。去勢されていないなら妻を持つべきだという電車内で読んでいたトルストイの、宗教論内の聖書からの引用を思い出した。何にしても私は、結婚して性欲と愛情に支えを与える必要性を払拭しきれずにいた。
2005年10月3日
「心の結婚」
結婚についての覚書
私が出会う全ての女性と結婚していると思うこと。精神的に。
するとさびしさ、独占欲、嫉妬心がなくなる。
個人の外面的美しさによって人に優劣をつけぬこと。
私が出会う全ての男とも結婚しているように接すること。精神的に。
私の精神的な結婚相手の女性が、他の男と親しげに話していても
嫉妬する必要はない。肉体関係を求めなければ、嫉妬はなくなる。
精神的結婚相手が他と肉体関係を持っていても、いなくても、
自分が肉欲に煩わされなければ、嫉妬することもない。
拘束、独占もなくなる。
みながみな愛し合う関係。寂しさ、すなわち愛の枯渇がない状態にする。
結婚は社会的制度にすぎず、人はいつでも結婚できる。
2005年10月七日
「絶望」
こんなところで、個人的な、卑劣な感情に基づく問題について悩み続けていることが、人生の無駄のように感じる。たいてい脳細胞が萎縮しているように感じるほど思いつめている時というのは、視界も狭まり、世界が見えていないものである。たった一人のことについて何時間もずっと思考の迷宮をさまよっているとき、道を歩いている人の顔は見えなくなる。通行人は生命を奪われ、ただの物になってしまう。
自分の本当の人生を歩んでいない、本当の交友関係を結んでいないという結論が、トルストイ的に突き詰めて考えると出てくる。心から望んでいる本当の世界に自分を移行できるよう毎日努力していれば、偽物だと思っている今の世界での体験について悩むことはなくなるだろう。思考はいつもこれから自分が関わっていく新しい世界との関係を見つめるはずで、今ある世界で絶望することもなくなるだろう。
しかし自分は以前、何も望まないことを決意したのだった。何も求めなければ、失望することも嫉妬することも、征服することもなくなる。なのに自分は今、安心を求めて、得られず苦悩し、果てには別の世界に脱出しようと望んでいる。一切の望みを絶って、ひたむきに生きていれば、思い煩うこともなくなるだろう。
絶望が自分に訪れる契機を外に与えるのでなく、自分自らの手で絶望を招き寄せること。するともう絶望せずに、静かに生きていける。
2005年10月19日
「覚書」
生きる充足感
個人の思考パターン、魂をまるごと受け入れる。
牧師の気持ちで生きる。
人生とは愛を学び習う過程。
楽しく仕事するのでなく、仕事自体を楽しむ。
仕事中楽しみを求めることは甘え。
仕事に喜びを覚えることは、人生を受け入れている人。
2005年11月14日
「外面的価値の無意味さ、精神活動の永続」
昨日の夜気づいたこと。
外面的、対社会的に小説家として認められる必要はないと気づいた。職業としての小説家でなくとも、心の内面ではいつでも、24時間精神的な活動を続けることができる。大事なのは、対外的な作家という肩書きではなく、私個人の内面で精神的な活動が永続することだと気づいた。
これは夜眠りながら気づいたことである。ノヴァーリスが「青い花」で、実務家と詩人の違いを論じていた。実務よりも意義がある創作ができれば、社会的にも小説家として認められる。小説家として認められない限り、実務を続けなければならないと思っていたが、社会的に小説家と認められている人間でも、快楽と金銭のために仕事をしている堕落した怠け者も多いから、社会的承認と精神的活動力はまるで関係ないことに気づいた。たとえ現在は実務家でも、精神的には常にトルストイやロランの心意気で生きていけばいい、対外的な承認は何の意味もなさない、ただ己だけが自分を律することができる。
外での成功、栄誉はまるで必要ない。むしろ成功は人を傲慢にし、怠け者にもする。ただひたすらいつまでも精神的な活動を続けること。世界のために人生をはたらかせること。これがロランから読み取った小説家の生き方だった。
小説を発表することで金銭の獲得を目指すと、どこまでも通俗に堕落していく。ただひたすら精神的に活動すること。むしろ、小説を書くこと以外の収入で暮らしている、すなわち媚びない小説を書ける現在の状態は、幸福の実現ではないだろうかとまで思えた。それでも私はさらに精神的な活動を強めて、人類の罪を償う小説を書いていく必要がある、運命にある。
今朝、トルストイとロランの往復書簡の内容を読んで、外面的価値は無意味だという確信はさらに高まった。気晴らしや利益のために小説を作るのでなく、労働と同じ道徳的義務にせきたてられて、小説を作ること。世界が死んでいくかぎり、文章を書き続ける必要がある。
自分にとって本当に大切なことは何か。自分は何をするために生まれてきたのか。自分とは、自らを分け与えられた存在だ。私は何故、自らを分け与えられたのか。君と話すためだ。君と心から分かり合うためだ。君と深い心の交流をするためだ。それが肉体の交流を伴う場合もある。けれど、私たちはよくお互いを理解しあうためにこの世界に自らの持ち分を分け与えられてきた。私たちが使わされた理由は、お互いを理解しあうことだ。それはどんなビジネスや名誉や欲得にも勝って、きわめて明瞭に必要とされる行為だ。お互いをよく理解しあうことは人生の養分となる。
私は君に向かって語りかける。何よりも大切なことに向かって自分の人生を一歩踏み出すことを私は切に願っている。君の人生の助けになればいいと思っているが、誰も君を助けることなどできないこともまたわかっている。それでも深く知りたいと思う。知ろうとしてもたどりつけないものだ。たどりつけないなら、待つばかりだ。
時間の経過は何故あるのか、待つためだ。私はいつまでも待っている。何を。時が満ちるのを。
深い交わりを目的として、私は温和な文章を書き連ねる。新しいことを書き足すのが目的ではない。君の人生の芯が整うのを助けるために、私はこうして毎日書いている。毎日毎日整えている。いつも整理している。現実を。事象を。
2006年10月31日
「朝の表参道、エスカレーターを歩く人たち」
朝の通勤電車
乗り換えは表参道
歩く人はみな早足
サラリーマンがいる
女子高生がいる
若いのがいる
おじさんがいる
みな早足で無表情
朝から機嫌が悪そう
僕も早足
少しでも早く会社につきたい
ぎりぎりの出社時間
エスカレーターでも右側を歩く
なぜこうみなせかせかしているんだろう
朝はもっと余裕があっていいのに
そう思ったら力が抜けた
エスカレーターでは左側にいてもいいと思った
左側にいる人はエスカレーターに乗っている間
時間が止まっている
彼らは一瞬せかせかした表参道駅から消える
彼らはエスカレーターからおりた後も、
他の喧噪からはなれて、ゆっくり生きているのかもしれない
大半の人がせかせかしているからといって、
自分までせかせかする必要はない
エスカーレーターを歩く人は、機械とうまくつきあえていない
2007年1月31日
「自分が理想とする仕事をして尊厳を保つこと」
働いていても何も面白くない。笑い話を楽しむことはあるが、仕事そのものに喜びはない。働いていて楽しいというキャリアウーマンの人生がよくわからない。これも創作を仕事としたいのに、仕事にできていないせいだ。つまらないなら、早くやりたい仕事をできるように徹底的に書きまくればいいのに、疲れたといってブログを書いて終わってしまう。
このままでは、小説家になっても、仕事がつまらないとぼやき続けるのではないかと思えた。なんだかやらされている感がある。何のために仕事をやらされているのか? 生活費を稼ぐためだ。お金のためだ。幸せに暮らすには、そんなにお金もいらないのに、必要以上の金を得るために必要以上に働いている。
やらされてる感をなくそうと思った。自分で仕事をコントロールしてみる。いわれたからやるのでなく、やりたいからやってみる。要求以上の作業を行う。自分が理想とする作品を作り出してみる。こうした資料を作る方が理想的ではないかとプラトンみたいに考えながら仕事をしてみると、何故か体から筋肉疲労が消えて、心も燃え上がった。理想目指して必要以上の美しい仕事をしていると、自尊心が満たされる気がした。
それは自己満足ではないのか? 自己満足を嫌う謙虚な気持ちが、仕事で充実することは「悪」ではないかとささやく。そうではないのだ。要求された以上の理想的な美しい仕事をこなして、自尊心をふくらませることは、何も悪いことではないのだ。げんに体も心も弾んでいる。人からも喜ばれる。
常に自分が理想とする仕事をなすこと。くだらない仕事中に発見したこの精神を小説を書くという別の種類の仕事にも今後適用しようと思う。
いろいろなことができるが、持っている技術を全てぶちこむ必要などないのだ。理想の仕事に必要な分だけ技術を注ぎこめばよいのだ。必要最小限の技術をもりこんだ方が、創作物は美しくなる。
自尊心という言葉が嫌いだ。自尊心のためでなく、人間の尊厳のために働いているのだと思うことにしてみる。生命の尊厳のために働く。働きながら自分の尊厳を台無しにしている労働者のなんと多いことか。つまらなそうに、いやいや働いている人ばかりだ。多くの人が尊厳を捨てて、金のために働いている。お金よりも何よりも、自己の尊厳の方が大切だ。金のために自分を卑下する必要はない。尊厳を高めることで、むしろ富は自分についてくる。
お金のために働くことはもうやめだ。小説を書くときも、金のことなど一切考えない! 生活費を稼ぐための仕事でもそうだ。金銭は交換のための材料にすぎない。尊厳まで交換してしまったら人は生きながら死んでしまう。尊厳を高めるために働く。尊厳を傷つけられている人を小説の主題にする。
2007年4月4日
「未来の教養、まとめ」
未来の教養について考える。7代後の孫へも伝わるように、要点を簡潔にまとめてみます。
未来の教養
どんな人とも分け隔てなく接すること。
人種差別のないこと。
性による差別のないこと。
容姿による差別のないこと。
体重、身長、髪型、化粧、皮膚の色によって人を差別しないこと。
生まれ、職業の差別のないこと。
住んでいる地域によって人を偏見の目で見ないこと。
病にある人に優しく接すること。子どもと老人を愛すること。
知恵を誇らないこと。学を顕示しないこと。
体を大切にすること。家族を大切にすること。友とのつながりを大切にすること。
戦いよりも平和を愛すること。
人を攻撃することによって生じる喜びはむなしいものであると気づくこと。
いかに自分が多くの人々を傷つけてきたか反省すること。
歴史のあやまちに多くを学ぶこと。
自己中心的にふるまわないこと。
他人の機嫌ばかりをうかがっていないこと。
富や名声を強く求めないこと。
情熱と楽しみの心とともに働くこと。
などなど、伝えていくべき知恵はたくさんあります。今後このブログでは、というか私は仕事として、このような知識について繰り返し繰り返し書いていきます。
2007年4月16日
「文学形式の存在理由」
先週、私は戦争映画のテレビ放送を見た。見終わった後、アマゾンで該当作品のカスタマーレビューを見たら、批判的な意見が連続していた。戦争を体験している者の目から見たら、戦争を美化しすぎているというのが概ねの批判意見だったが、その中で何回か、大岡昇平の『俘虜記』が話題に出ていた。私は早速本棚の中に六年ほど眠っている『俘虜記』を手に取った。
戦争を体験した作家が、戦後まもなく自身の戦争体験を書き記し、世に問い、世界的な評価を得た作品。
現代では、以前なら人に向けて文書を発表したことがないような人でも、毎日ブログを更新している。本を読む人は少なくなったかもしれないが、メールなりブログなりで、文章を書いている人は呆れるほど多い。彼らはキーボードで文章を打っているだけで、文章を書いているわけではないし、文章を創っているとも言えないかもしれない。ただし、どんなに独創的な作家でも、過去から存在するテクスト空間から言葉を取り出して文章を創っているだけだから、ブログのにわか作家を必要以上におとしめることは文学の傲慢かもしれない。それでも、多くの人は幾度も疑問と不信の思いに囚われたことだろう。これだけ多くの人が毎日日記を書き、公共空間に発表しているのだから、文学が読まれなくなって当然ではないか。文学者がえらぶって書き綴る言葉は、ネットの地べたを沿う言葉遣いとかけ離れたものであり、そんな前時代の遺物を社会は不要としたのではないか、と。
そのような疑問も、『俘虜記』を読んでいたらうすれてきた。戦争を体験した人はたくさんいる。戦争の記録もたくさんある。個人の手記、回想録、インタビュー記事、研究、評論、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。それこそ大量にある中で、一体自分が戦争文学を残す意味などあるのか。こんなことで自問する必要などないのだ。何を迷う必要があろう。とある時代に自分が体験したことは、どんなことでも書き残しておくべきなのだ。たとえ多くの人が同じ一つの体験を共有していたとしても、感じ方、物事の捉え方は一人一人異なる。文学者は後世のためにも、今この場で体験したことを書き留める責任、義務を負っている。
太平洋戦争が終結して五十年たった後でも、私は『俘虜記』を手に取る。当時の人が何を考えていたのか、知るために。文学者が感じたことは、他の多くの人が戦争に触れて感じたこととはかけ離れているかもしれないと思うのは億劫だ。そうやって「高尚な」文学を敬遠する人は、実際に作品を手にしたらいいのだ。そこには誰もが気づいていないことについての優れた洞察が散見されるだろう。
2007年5月25日
「仕事の意義」
仕事の量が一定の限界を超えると、あるとき突然辛さが消えて、楽しさばかりとなる。転換が訪れる。自分だけにしかできない仕事をしているという実感をもてるかどうかが重要だ。他の人にはできない仕事をすることだ。すると仕事に意義を見出すことができる。時間を忘れて仕事に没頭できる。
仕事を変更する必要はない。その仕事に意義を見出せるかどうかは自分自身の創意工夫にかかっている。注目すること。他のつかれきっている人たちとは同じように働かないこと。一人孤高を保つこと。
この社会は病んでいる。僕も病みきっている。もう誰の目も気にせず生きてみよう。僕自身の人生なんか関係ない。
2007年6月13日
「ミッドタウンタワーの失墜」
夜、六本木のミッドタウンに行ってきた。ちなみに世間で話題のグッドウィルグループの本社はミッドタウン内のタワーにある。コムスンの本社は六本木ヒルズの中にある。
ミッドタウンの中は整然としており、建物のデザインが歩道まで統一されている。汚れを排除した潔癖の美的空間。それが六本木の街中に入ると、きわめてブレードランナー的な無国籍の歓楽街が開けてくる。歩道にはゴミ袋が並んでおり、看板はけばけばしく、宣伝の騒音が耳に痛い。横断歩道の前に白髪の太っちょのおばちゃんが眠っていた。ホームレスだろう。
翌日の朝、再びミッドタウンに行く用があって、同じ道を通ったら、昨晩道端で寝ていた太っちょのおばちゃんは、同じ場所に座って朝日を眺めていた。
完全に統制された美しい街並みと、隠蔽しきれない現実の同居、葛藤。老人のホームレスを排除した美しいミッドタウンタワーの中では、利益をむさぼるために善意を塗りたくった経営戦略が画策されている。六本木のどこに幸せがあるのだろう。
2007年7月15日
「アフリカを伝えるドキュメンタリーにて―4人に連続でレイプされて、夫まで撃ち殺されて」
夜テレビをつけると、あいもかわらずアフリカについてのドキュメンタリーをやっていてくれる。
今日はベッドに横たわっている女性が話している。政府軍と反政府勢力の抗争の合間に暴行された人たち。
彼女は言う。兵士が入ってきました。4人の兵士に立て続けにレイプされました。5人目が私に向かってきた時、夫が「これ以上やったら妻が死んでしまう」と言いました。すると夫は銃で撃ち殺されました。
なんなのだろうこの語りは。ラテンアメリカの文学で描かれた暴力の横溢は現実にも起きている。もちろん日本でもニュースになることがないレイプ事件は多数起きているけれど、4人に襲われて、しかもすぐ側に彼女の夫がいて、5人目にレイプされそうになった妻を見て、夫が声をあげたら、銃で撃ち殺される。こんな光景。生々しい。劇を超える現実。
政府軍の妻は反政府軍の兵士におかされ、反政府軍の妻は政府軍の兵士におかされるという。また、どちらの兵士におかされたのかわからない人もいるという。暴力と性欲の加速的並行稼動。コンゴで起きたこと。
2007年7月31日
「小説『夜間残業』」
今日は仕事を、今の人生を否定するのはやめようと思いながら生きてみた。それでもせわしなく、自分の現状を否定したくなる。電話が鳴る。忙しいのに電話対応で仕事が中断される。電話はいらつきの元だったが、今日は何故か愛情深い声で彼女たちと話すことができた。誠意を示しながら働くこと。愚痴を言わないこと。「むかつく」とか汚い言葉遣いを仕事中にしないこと。高潔な心を持って仕事に望むと、何故だか声に優しさが宿る。
人と話している時が一番安らぐ。パソコンの画面を見つめ続けていると疲れる。何故パソコンに向かって仕事をするのか。多くの人の喜びとなるためである。
忙しく立ち回っている人が、川辺で気持ちよく安らいでいる漁夫を見て、何故働かないかと注意する。漁夫は、何故そんなに働いているのかと彼に尋ね返す。彼は答える、ゆっくりと休むためだ、幸せになるためだ、心の平安を得るためだと。漁夫はすでに安らぎを得ている。本末転倒だ。東洋の昔話。
電話によって仕事が中断することは喜ばしいことなのだ。仕事は彼女たちの喜びのためにあるのだから。私は仕事をすることで、忙しくなることを望んでいたわけではないのだ。仕事をすることで、心の安寧を得ることを望んでいたのだ。仕事を提供される側にも同じことが言える。彼女たちは私の仕事を受け取ることで、喜び、安らぎたいのだ。電話の呼びかけに答えることは仕事の本義なのだ。
忙しいと思った時は、つとめて人に優しく語りかけること。何故働いているのか。忙しさを感じるためか。違う。愛の残滓を胸から開くためだ。ビジネスの場では手ひどく扱われている愛の大切さを伝えるために会社に通っている。家にこもっていては自己愛ばかりが肥大してしまう。
2007年8月1日
「ホリスティックに生きる」
体が辛く、心も仕事のストレスでずっと圧迫されていた。心を整えようといろいろ努力してみたが、すぐに外圧に屈してしまう。しかし、栄養ドリンクを飲んだら、体が実に軽くなった。一本の栄養ドリンクが時にどんな素晴らしい教えよりも体に役立つ時がある。マウスの使いすぎで手が痛くなったと思っていたが、手のしびれまで消えてしまった。栄養が足りなかった、あるいは変な食事をとりすぎていたかもしれない。体によいものを食べようと思う。肉を食べず、魚も食べず、カフェインを抜き、白砂糖も食べず、小麦も食べず、牛乳、乳製品を口に入れず。では何を食べて生きるのかと一瞬思う人もいるかもしれないが、これらを除いても世界には食品が溢れている。
トータリズムでなく、ホリスティックに生きてみる。全てのバランスをとって、心と体を調和させて、無理をせず、怒らず、物と人身を欲せず、己に落ち着いて、力を漏らさず、ゆっくりと生きる。何にも煩わされず、自分の意志を確かめて、歩いていく。
2007年8月5日
「孤独を確保するために必要な自己規律」
保険雑誌にあったストレスチェックをしてみたら、自分のストレス危険度は上から二番目のグループに入っていた。確かに体中痛いし、やることが盛りだくさんで、仕事を進める気力もなかった。それでも仕事は続く。
翌日、家にホリスティック・プログラムの本が届いていた。食物に関する記事を読んだだけで、体が随分軽くなった。ここ最近毎日カフェインを摂取していた。学生の頃はまるでコーヒーなど口をつけなかったのに、毎日二杯以上はコーヒーを飲んでいる。今日からコーヒーは避けようと思う。代わりに自分を認識する時間を持つこと。己の疲労感と向き合うこと。休養時間がまるでなかった。
サン・テグジュペリの『夜間飛行』を読みつつ、眼が痛いのでブルーベリージュースを飲む。肩が痛いし、姿勢も悪い。否定的な言葉ばかり書き連ねるのはもうやめにしよう。体を鍛えて、休めれば、すぐに元のよい状態の戻すことができるはずだ。そしてまたカンパニーでの仕事もはかどるはずだ。かつ、書くという、極めてプライベートでかつパブリックな仕事にも時間を多く与えることができるはずだ。これらの改善は全て可能なことだ。自分に意志があれば貫徹できる。
やり遂げようという意志をすぐに曲げてしまうのを、僕は今まで消費社会のせいにしてきた。商品が次々と生み出される。広告に踊らされて、周囲の話題にのせられて、僕は自分の純粋な意志を何度も放棄してきた。欲望の対象が次々と変わって、小説を書くことさえままならなかった。カンパニーの仕事は、組織だっているから、僕の心が浮ついても、規則正しく進んでいく。書く仕事は、孤独な作業だから、自分で仕事を律する必要がある。自由は自己規律と等しい。
2007年8月5日
「小説を書くことはどんなことよりも」
美術品の鑑定には、構図とか、配色センスとか、未だに近代絵画的価値観に基づいた鑑定が行われている。本来芸術作品とは、今までには無かった新しい価値観を打ち立てるものであったはずだ。そうした新しさの追求もまた、近代的価値観の範疇にあるわけだが、少なくとも今までの評価基準では評価することが不可能な、おぞましい作品の制作が望まれるだろう。
しかし、小説はまた別物である。芸術家になりたいという野心はエゴにすぎない。名文を書こうとする野心は個人的欲望にすぎない。僕はもう芸術家になろうとする大時代的な振る舞いはとらないことにした。何を書くのか。それはこの言葉たちが証明していくことだろう。一言では断定できない。
これは芸術制作ではない。仕事だ。そもそも芸術制作とはどんな仕事よりも過酷で、美以外に見返りの期待できない仕事ではなかったか。そうなら僕は芸術制作に励むだろう。あらゆる仕事の中で最も厳しい仕事としてこの道を選び取るだろう。
常日頃の僕ならば今なした決意を、明日の夜にはもう放り出しているのだが、この決意を心にとどめおいて、放棄することなく生きるためには何が必要か。
諦めることだ。他の全てを。
2007年8月6日
「書くこと、数、詩人」
書くことで多くの読者を獲得することを考えるよりも、書くことで、より多くの人の生に影響を与えることを考えることだ。ひたすら数の拡大を目指す人はビジネスの人である。数を考えた出した途端、詩人は詩人であることをやめる。どれほどの言葉をつむぎ出すことができるか。数ではない。誠実さだ。目覚めた言葉だ。
「今日の反省」
自分のからだを醜いと思ったこと。腕に生えている毛を見て、自分に嫌悪感をもったこと。夜から疲れたこと。後輩がトイレにうずくまっていたのに、彼女の異変に気づかなかったこと。肩をいからせながら生きていること。
自分の顔をとても醜いと思ったこと。自分のことを悲しく思ったこと。小説が進まなかったこと。生きているのが苦しいと思ったこと。何故自分だけ明日出勤なのかと休みをとるまわりに嫉妬したこと。人の利己心をあざわらってしまったこと。ひたすら嫉妬深いこと。
もう自分を見るのが嫌なこと。顔を見るのも嫌なこと。助けをもとめるばかりで、心がみたされていないこと。とにかく愛情に飢えて自分を攻撃し続けていること。
2004年9月30日
「厳しい観察」
今日の反省。仕事中眠たくなったこと。無理をして高いカレーを食べたこと。その後お金もないのにコーヒーを買ったこと。午後に先輩からまたコーヒーをおごってもらったこと。
そんなほのぼのとした反省はもういい。自分の存在の根源に関わる省察をなせ。
愛されていないことを悔やんで、夜泣きそうになったこと。
醜い人を軽蔑しているから、自分は愛を感じられないのだ。僕は自分の醜ささえ軽蔑している。理想的なまでに美しい人を求めているから、ある程度素敵な人は拒絶しているから、僕はいつも非難がましく不平を言っているのだ。
自分の顔の醜さを受け入れること。器を大きくすること。緊張をほぐし寛大になること。
同時に、厳しく生きること。
ただひたすら、いつも厳しく生きること。優しい存在になろうとせず、愛を求めず、人を愛さず、ひたすら厳しく生きること。文章を書いて生きていくために成せることは全て成すこと。
若さは敵だ。
2005年1月13日
「ラカン、デリダとジョイスをつなぐ、他なるものの思考」
昨夜、私はポスト構造主義とは手を切って、精神的他者依存を抜け出し、自分で自分の人生を決める自由を手に入れると書いたが、ベッドの中で、すぐにラカンの「無意識とは大文字の他者のディスクールである」という言葉を思い出した。
ただ、主体は他者の掟によって規定されると言っても、ラカンは主体の全てを否定したわけではない。主体とは、存在しておらず、ランガージュの外に外在している、他者のシニフィアンの代理表象にすぎないのだが、それでも完全に虚無なわけではない。げんに、主体の消失は、主体の死として、精神病として語られるのだから。象徴界から転落する時、他者とコミュニケーションするコードを発揮できなくなる瞬間から、主体は精神病の兆候を示し出す。そうした意味では、私は現に精神病の兆候を示しつつあった。ゆえに、芸術として言葉を鍛え直そうとする私の試みは、主体の死からの脱出過程であったと言える。今ある周囲とのコミュニケーションの可能性を喪失しそうになった私は、前衛的かつ古典的なテクストの育成を通して、外界との新たな意志疎通をはかろうとしていたのだ。
主体は他者の存在からなるという事実はラカン以後、否定しようもない。今日あまりに眼の痛みがひどかったから、タッピングセラピーとか、つぼセラピーの解説を読んだが、彼らは、心身の病の根源は、自分を受け入れられない心の拒否状態にあると見ている。「私は私を受け入れます」「たとえ私が〜でも、私は完全に私を受け入れます」などといった自己受容の言葉を発することで、治療過程が始まるとされる。しかし、自分を完全に受け入れている人間などまれだろう。ある種の潔癖性のため、私は自分の落ち度を極度に責めすぎ、心の病におちいってしまう。現実にはたくさんの人間が寂しがっているし、他者に依存したがっているし、愛を求めてやまないのに、私はそんな自分を情けなく感じてしまう。受け入れられない。
NHKの放送で、性同一障害に悩む人が、労働差別に合い、自殺したくなったという経験を語った時、拒絶によって死にたくなるほど辛くなることは誰でもありうること、特にラカンが言う通り、自分が所属していると思っていた象徴界たる社会から拒絶された時、死にたくなるほど辛い思いを味わうことが想像された。この状態からの治癒は、自分自身を受け入れることより、社会という他者に受け入れてもらう体制作りに向けられるだろう。
どうも主体は他者からなるというラカンの言説と、他者に依存しすぎることで弱い自分を責めている自分の言説は違うことを言っている気がする。今の私は、他者の助力を求めている。他者に依存したいという欲望を持っている。欲望が目指している目標よりも、欲望の原因となる対象aを見つけてみよう。
「主体は一般にこの対象aを求めれば求めるほどそれを避けるということ、あたかも主体にとって最も備給されているものに到達することは主体自身を消失させることになるかのように、主体は対象aを避けるということが気づかれることになるだろう。(…)また、次のように言うこともできるだろう、真に終結へと導かれた分析は、主体が、自身が諦めなければならなかったこの対象、つまり「譲渡可能」なこの対象は結局自身の存在の全てが占めている場にあるということに気づくことができるようなものでなくてはならないと。』(精神分析事典、項目「治療の方向性」より、弘文社)
この対象aとは何なのか。それは存在の欠如であり、部品にすぎず、主体を根拠づけるものだが、言葉では定義不能なものである。対象aとは結局名づけえないものであり、私はこの対象aを自分の存在の中にもっている。私が他者を求める欲望は、対象aから発する。しかし、対象aは私の中にあるのだから、私は中にあるものを外に求めていただけだ。何が何だかよく分からない者もいるかもしれないが、とりあえず私の枯渇はいささかなおった。どうも私が求めていたものは、幼児の頃より自分の中に欠如としてだが存在していたようである。
さて、他者依存を振り払おうとした私の振る舞いは、ラカンを通過してどうなったか。私の主体は、他者の言語の掟によって成り立っているのは確かだ。ただ、強い他者に依存しようとする私の弱さ、甘えは、対象aを私の中に見出したことで、いささか弱まった。
では、自由の概念はどうか。他者の支配からの絶対的自由は求めうるのか。デリダの言葉を見てみよう。デリダは自由という言葉を使うことに警戒する、というかこの哲学者はあらゆる哲学的概念を素朴に使うことに対して、厳しい警戒のまなざしを向けているのだが。デリダによれば、自由の概念は、主体の形而上学を想起させる。
『そうした形而上学的前提は、衝動や計算やエコノミーや機械などからの主権的独立を、主観や意識ーー換言すれば、自我論的主体ーーに付与します。(…)主体の自由とか人間の自由とか言うのは避けた方がよいと思われるのです。』(デリダ、ルディネスコ『来たるべき世界のために』藤本一勇・金澤忠信訳、岩波書店、2003より)
では、支配的、一元的主体を蘇らせない、自由の概念はありうるのか。
『「自由」という語ないし概念にポスト脱構築的効力を取り戻させることは、とりわけ、政治的なるものの別の概念に釣り合う仕方での再ー政治化や、国際法の現在進行中の変容や、別の倫理といったものの名において、来たるもの、来たるであろうものを迎え入れ生じさせるために、しばしば必要不可欠なことのように思われます。』
自由とは、「計算不可能なもの、予測不可能なもの、決定不可能なもの、出来事、到来するもの、他なるもの」などの、形而上学の理解ー支配の形式からとりこぼれおちる、全ての他者の名である。
ここに主体と他者の価値の転換がある。ヘーゲルの時代では、他者をとりこみ、主体を確立することが哲学の課題だった。ラカンの時代では、主体とは何ら独立したものではなく、他者によって規定されていることを明らかにするのが哲学の課題だった。80年以降のデリダにとっては、主体の理解ー支配過程から逃れる、理解不能なものとして、かつ主体の条件としての他者を語ることが、哲学の課題となる。
この自由概念は他者に、弱者に極めて優しい。ジョイスやナボコフやフローベールの俗物批判は、他者の俗物性を裁くことで、芸術家としての自己を確立したのだが、デリダは、言葉の中にとりこみえないまったき他者の存立可能性を歓待する。しかし、このまったき他者の考えは、ジョイスの「ユリシーズ」の、モリーの独白、yesからも始まりうる。
デリダは「フィネガンズウェイク」を高く評価し、何度も読んだと言っている。デリダ自身、まったき他者について語りながらも、あくまで主体を重視する哲学の中に留まり、決して学問の営みを放棄していないのだから、私も読者という他者を招き入れようと理解しやすい言葉で書こうなどと思わないようにしよう、理解できないところからしか、他者は現れてこないのだから。
さて、昨日見出した、ディーダラス的、誰にも依存しない絶対自由を私は追い続けるべきだろうか。デリダ的、レヴィナス的視点から、スティーヴン・ディーダラスを再解釈してみよう。彼は、アイルランドの規範、ナショナリズム、宗教、家族、それら理解しやすいもの全てを拒否し、外に飛翔しようとする。それは、通常の見方では、共同体から排除されてしまう、他者を招来するあり方である。彼は他者を求めていたのか。
こう書くと、あんなに俗物批判していた非情の男が他者なんて求めていないだろうと誤解されそうだから、他者という言葉を哲学的に捉え直してみよう。彼は計算不可能なもの、決定不可能なもの、予測不可能なもの、出来事、到来するもの、他なるものを求めていたのだろうか。ああ、これなら当然だ、意識の流れとはまさしく規範が排除する他なるものをテクストの中に招き入れる試みだ、ディーダラスおよびジョイスは他なるものを求めていたし、フローベールもナボコフも、現実には見出しえない、他なるものを求め、作品化していた。
私はもう他者という言葉を使わず、他なるものという言葉で、人間をもさすことにしよう。まさしく人間とは、私にとって計算不能で、決定不能で、予測不能な、偶然出会うだけの出来事であり、私は彼らを支配、教育できない。また私も彼らからすれば絶対的に他なる存在だから、他であろうとし続けることで、私は彼らの支配、合一化から免れうるだろう。
私は他なる読者に理解をもとめない、理解とは取り込みである。私は読者に他なる、自由なテクストを贈与するだけにする。読者からも、絶対的に他なる贈与だけを求めよう。それはすばらしく優しい歓待の往復運動だ。これで、ラカンとデリダとジョイスと私が見事につながった。他なるものを思考すること、これが文学の営みである。
2005年5月25日
「できちゃった文章」
今日私は再び自由の境地に舞い戻った。ここは自由。何の制限もない世界。つかれていてもよいし、明るくふるまっていてもよい。誰も何も言ってこない。
電車に乗っている人の顔はみんな無表情で冷たい。友達同士で乗っている人の顔は楽しげ。他人と一緒にいるから、無表情を装うのか。理解に苦しむ。
タイの人はみんな笑っていた。日本に帰って来て、まず最初に電車に乗る人の顔が無表情なことに気づいた。この人たちは人生楽しんでいない。仕事がつまらないんだろうとあわれに思った。俺はずっと笑顔でいようと思った。その決意もむなしく、三日後くらいには私はもとに戻っていた。みなと同じくさめた表情。
今、また君に向けて書いている。
君は美しい。君は心も体も実に美しい。何も欠けたところがない。何も欠けたところがないのに、毎日あがいている。毎日あがいているのに、毎日楽しく生きている。
どうしてだろう。どうしてどっちつかずなのだろう。それが人間? そんな単純に納得していいのか。シンプルに思考し、シンプルに考えることがいいことなのか。シンプルに考えると君はとるにたらない存在。そんな自分が歌っている。歌っているけど、歌声は誰にも届かない。
昨日も今日も毎日人間が死んでいる。その一方で、僕の同級生の誰かが妊娠したり、子どもを産んだりしているだろう。もう子どもを小学校にやっている同級生もいるだろう。僕は本当に子どもを産めるまでに成長しただろうか。昔の方がよかったのではないか。
行き着く先に結婚や子どもが待っているかはわからない。わからないけれど、小学生の頃はそうなることを期待していた。今またわからなくなってきた。多くの友達が結婚していく。まあだいたいできちゃった結婚が多いんだけれど。
歩いても歩いても日本から出られない。ここはアメリカやリバプールではない。小学校時代の同級生が幸せな家庭を築いている日本だ。
こうして毎日毎日パソコンに文章をうち続けて、僕は歳をとっていくのだろうか。そうして歳月が過ぎていくと、どんどん同級生が結婚していき、子どもを産み、子どもの家庭参観日に行き、運動会で子どもをビデオに撮り、DVDにしたりするんだろう。書いてみると馬鹿らしいが、本人が楽しければそれでいい。他人事だから馬鹿らしくなるのであって、自分のことなら全て幸せだろう。そうだ全て幸せだ。
こうしてまた明日が来る。するとまた僕は一つ人生の道をすすめ、同級生の誰かが受精することだろう。
2005年9月28日
「君が性欲と無縁の生活を送ろうとすると」
君が性欲と無縁の生活を送ろうとすると
生真面目な君の姿に感染して 周りも途端に押し黙る
浮かれ遊んでいた頃に比べれば 元気がない印象を発散する
性欲は元気のもとか ならば元気も必要ないだろう
君はヒトのそばに寄る ヒトの体を近くから見ると
君は抱きしめたくなってしまう
君を襲う激しい性欲 一瞬で溢れかえって
君の理想に向かう決意をくつがえそうとする性欲
君は己のいた観測地点に戻っても 性欲の刺激を感じ続ける
みなが結婚していくのに 結婚を毛嫌いして 性欲まで否定して
気難しい顔で ほくそ笑んでいていいのかと君は苦悩する
ほらまた性欲のせいで君は苦しんでいる
己の場所に戻った君 遠くからヒトの振る舞いを眺めていると
実に滑稽で 君はついさっき性欲を感じたことを恥じてしまう
ヒトから遠く離れていれば 性欲とは無縁でいられる
ヒトに近づいた途端 君は性欲の罠にはまる
君は性欲でなく 愛について語れ
性欲の虜になり あやまちをおかしそうだと感じたなら 愛のみを語り始めろ
ヒトは君に性欲を感じていない いつも感じ続けているのは 君の方ばかり
君はまず愛を語れ 性欲のことは忘れてしまえ
2005年九月二十九日
「感情移入を拒否する話はもう書かない」
帰りの電車で40前後のおばさんの体を斜め後ろから眺める。私はその3時間ほど前、20代の女性の体を同じように斜め後ろから眺め、断ち切ろうとしていた性欲を呼び起こしてしまっていた。
20代で恋をして、同年代の女性と結婚したとしても、数年で美しい妻はこのおばさんのようになるのだろうか、そうしたら自分は性欲をもう感じなくなるだろうと思えた。どんなに周りが次々と結婚していこうとも、深い恋におちるのはやめて、せめて遊びで済ませておこうと思った。そしてすぐに、遊びで済ませるだけなら、性欲なんてない方がいいと思った。異性との精神的な交流を求めなければ、後は性欲さえつぶしておけば、恋愛する必要などなさそうである。
恋愛の結果結婚したとして、性的魅力に恋した女性が10年後老いさらばえて性的魅力を摩滅させるなら、恋愛なんかしなくて結構だと思えた。そしてすぐまた、しかし性欲に基づかない結婚もありえると思えた。本当に精神的な、誠実な友愛の気持ちから結婚するということも有り得るだろう。己の欲望に惑わされずに結婚できるなら、それは幸福な家庭を築けるに違いない。しかし、性欲と無縁の、純粋な愛情から生じる結婚など有り得るのだろうか。去勢されていないなら妻を持つべきだという電車内で読んでいたトルストイの、宗教論内の聖書からの引用を思い出した。何にしても私は、結婚して性欲と愛情に支えを与える必要性を払拭しきれずにいた。
2005年10月3日
「心の結婚」
結婚についての覚書
私が出会う全ての女性と結婚していると思うこと。精神的に。
するとさびしさ、独占欲、嫉妬心がなくなる。
個人の外面的美しさによって人に優劣をつけぬこと。
私が出会う全ての男とも結婚しているように接すること。精神的に。
私の精神的な結婚相手の女性が、他の男と親しげに話していても
嫉妬する必要はない。肉体関係を求めなければ、嫉妬はなくなる。
精神的結婚相手が他と肉体関係を持っていても、いなくても、
自分が肉欲に煩わされなければ、嫉妬することもない。
拘束、独占もなくなる。
みながみな愛し合う関係。寂しさ、すなわち愛の枯渇がない状態にする。
結婚は社会的制度にすぎず、人はいつでも結婚できる。
2005年10月七日
「絶望」
こんなところで、個人的な、卑劣な感情に基づく問題について悩み続けていることが、人生の無駄のように感じる。たいてい脳細胞が萎縮しているように感じるほど思いつめている時というのは、視界も狭まり、世界が見えていないものである。たった一人のことについて何時間もずっと思考の迷宮をさまよっているとき、道を歩いている人の顔は見えなくなる。通行人は生命を奪われ、ただの物になってしまう。
自分の本当の人生を歩んでいない、本当の交友関係を結んでいないという結論が、トルストイ的に突き詰めて考えると出てくる。心から望んでいる本当の世界に自分を移行できるよう毎日努力していれば、偽物だと思っている今の世界での体験について悩むことはなくなるだろう。思考はいつもこれから自分が関わっていく新しい世界との関係を見つめるはずで、今ある世界で絶望することもなくなるだろう。
しかし自分は以前、何も望まないことを決意したのだった。何も求めなければ、失望することも嫉妬することも、征服することもなくなる。なのに自分は今、安心を求めて、得られず苦悩し、果てには別の世界に脱出しようと望んでいる。一切の望みを絶って、ひたむきに生きていれば、思い煩うこともなくなるだろう。
絶望が自分に訪れる契機を外に与えるのでなく、自分自らの手で絶望を招き寄せること。するともう絶望せずに、静かに生きていける。
2005年10月19日
「覚書」
生きる充足感
個人の思考パターン、魂をまるごと受け入れる。
牧師の気持ちで生きる。
人生とは愛を学び習う過程。
楽しく仕事するのでなく、仕事自体を楽しむ。
仕事中楽しみを求めることは甘え。
仕事に喜びを覚えることは、人生を受け入れている人。
2005年11月14日
「外面的価値の無意味さ、精神活動の永続」
昨日の夜気づいたこと。
外面的、対社会的に小説家として認められる必要はないと気づいた。職業としての小説家でなくとも、心の内面ではいつでも、24時間精神的な活動を続けることができる。大事なのは、対外的な作家という肩書きではなく、私個人の内面で精神的な活動が永続することだと気づいた。
これは夜眠りながら気づいたことである。ノヴァーリスが「青い花」で、実務家と詩人の違いを論じていた。実務よりも意義がある創作ができれば、社会的にも小説家として認められる。小説家として認められない限り、実務を続けなければならないと思っていたが、社会的に小説家と認められている人間でも、快楽と金銭のために仕事をしている堕落した怠け者も多いから、社会的承認と精神的活動力はまるで関係ないことに気づいた。たとえ現在は実務家でも、精神的には常にトルストイやロランの心意気で生きていけばいい、対外的な承認は何の意味もなさない、ただ己だけが自分を律することができる。
外での成功、栄誉はまるで必要ない。むしろ成功は人を傲慢にし、怠け者にもする。ただひたすらいつまでも精神的な活動を続けること。世界のために人生をはたらかせること。これがロランから読み取った小説家の生き方だった。
小説を発表することで金銭の獲得を目指すと、どこまでも通俗に堕落していく。ただひたすら精神的に活動すること。むしろ、小説を書くこと以外の収入で暮らしている、すなわち媚びない小説を書ける現在の状態は、幸福の実現ではないだろうかとまで思えた。それでも私はさらに精神的な活動を強めて、人類の罪を償う小説を書いていく必要がある、運命にある。
今朝、トルストイとロランの往復書簡の内容を読んで、外面的価値は無意味だという確信はさらに高まった。気晴らしや利益のために小説を作るのでなく、労働と同じ道徳的義務にせきたてられて、小説を作ること。世界が死んでいくかぎり、文章を書き続ける必要がある。
自分にとって本当に大切なことは何か。自分は何をするために生まれてきたのか。自分とは、自らを分け与えられた存在だ。私は何故、自らを分け与えられたのか。君と話すためだ。君と心から分かり合うためだ。君と深い心の交流をするためだ。それが肉体の交流を伴う場合もある。けれど、私たちはよくお互いを理解しあうためにこの世界に自らの持ち分を分け与えられてきた。私たちが使わされた理由は、お互いを理解しあうことだ。それはどんなビジネスや名誉や欲得にも勝って、きわめて明瞭に必要とされる行為だ。お互いをよく理解しあうことは人生の養分となる。
私は君に向かって語りかける。何よりも大切なことに向かって自分の人生を一歩踏み出すことを私は切に願っている。君の人生の助けになればいいと思っているが、誰も君を助けることなどできないこともまたわかっている。それでも深く知りたいと思う。知ろうとしてもたどりつけないものだ。たどりつけないなら、待つばかりだ。
時間の経過は何故あるのか、待つためだ。私はいつまでも待っている。何を。時が満ちるのを。
深い交わりを目的として、私は温和な文章を書き連ねる。新しいことを書き足すのが目的ではない。君の人生の芯が整うのを助けるために、私はこうして毎日書いている。毎日毎日整えている。いつも整理している。現実を。事象を。
2006年10月31日
「朝の表参道、エスカレーターを歩く人たち」
朝の通勤電車
乗り換えは表参道
歩く人はみな早足
サラリーマンがいる
女子高生がいる
若いのがいる
おじさんがいる
みな早足で無表情
朝から機嫌が悪そう
僕も早足
少しでも早く会社につきたい
ぎりぎりの出社時間
エスカレーターでも右側を歩く
なぜこうみなせかせかしているんだろう
朝はもっと余裕があっていいのに
そう思ったら力が抜けた
エスカレーターでは左側にいてもいいと思った
左側にいる人はエスカレーターに乗っている間
時間が止まっている
彼らは一瞬せかせかした表参道駅から消える
彼らはエスカレーターからおりた後も、
他の喧噪からはなれて、ゆっくり生きているのかもしれない
大半の人がせかせかしているからといって、
自分までせかせかする必要はない
エスカーレーターを歩く人は、機械とうまくつきあえていない
2007年1月31日
「自分が理想とする仕事をして尊厳を保つこと」
働いていても何も面白くない。笑い話を楽しむことはあるが、仕事そのものに喜びはない。働いていて楽しいというキャリアウーマンの人生がよくわからない。これも創作を仕事としたいのに、仕事にできていないせいだ。つまらないなら、早くやりたい仕事をできるように徹底的に書きまくればいいのに、疲れたといってブログを書いて終わってしまう。
このままでは、小説家になっても、仕事がつまらないとぼやき続けるのではないかと思えた。なんだかやらされている感がある。何のために仕事をやらされているのか? 生活費を稼ぐためだ。お金のためだ。幸せに暮らすには、そんなにお金もいらないのに、必要以上の金を得るために必要以上に働いている。
やらされてる感をなくそうと思った。自分で仕事をコントロールしてみる。いわれたからやるのでなく、やりたいからやってみる。要求以上の作業を行う。自分が理想とする作品を作り出してみる。こうした資料を作る方が理想的ではないかとプラトンみたいに考えながら仕事をしてみると、何故か体から筋肉疲労が消えて、心も燃え上がった。理想目指して必要以上の美しい仕事をしていると、自尊心が満たされる気がした。
それは自己満足ではないのか? 自己満足を嫌う謙虚な気持ちが、仕事で充実することは「悪」ではないかとささやく。そうではないのだ。要求された以上の理想的な美しい仕事をこなして、自尊心をふくらませることは、何も悪いことではないのだ。げんに体も心も弾んでいる。人からも喜ばれる。
常に自分が理想とする仕事をなすこと。くだらない仕事中に発見したこの精神を小説を書くという別の種類の仕事にも今後適用しようと思う。
いろいろなことができるが、持っている技術を全てぶちこむ必要などないのだ。理想の仕事に必要な分だけ技術を注ぎこめばよいのだ。必要最小限の技術をもりこんだ方が、創作物は美しくなる。
自尊心という言葉が嫌いだ。自尊心のためでなく、人間の尊厳のために働いているのだと思うことにしてみる。生命の尊厳のために働く。働きながら自分の尊厳を台無しにしている労働者のなんと多いことか。つまらなそうに、いやいや働いている人ばかりだ。多くの人が尊厳を捨てて、金のために働いている。お金よりも何よりも、自己の尊厳の方が大切だ。金のために自分を卑下する必要はない。尊厳を高めることで、むしろ富は自分についてくる。
お金のために働くことはもうやめだ。小説を書くときも、金のことなど一切考えない! 生活費を稼ぐための仕事でもそうだ。金銭は交換のための材料にすぎない。尊厳まで交換してしまったら人は生きながら死んでしまう。尊厳を高めるために働く。尊厳を傷つけられている人を小説の主題にする。
2007年4月4日
「未来の教養、まとめ」
未来の教養について考える。7代後の孫へも伝わるように、要点を簡潔にまとめてみます。
未来の教養
どんな人とも分け隔てなく接すること。
人種差別のないこと。
性による差別のないこと。
容姿による差別のないこと。
体重、身長、髪型、化粧、皮膚の色によって人を差別しないこと。
生まれ、職業の差別のないこと。
住んでいる地域によって人を偏見の目で見ないこと。
病にある人に優しく接すること。子どもと老人を愛すること。
知恵を誇らないこと。学を顕示しないこと。
体を大切にすること。家族を大切にすること。友とのつながりを大切にすること。
戦いよりも平和を愛すること。
人を攻撃することによって生じる喜びはむなしいものであると気づくこと。
いかに自分が多くの人々を傷つけてきたか反省すること。
歴史のあやまちに多くを学ぶこと。
自己中心的にふるまわないこと。
他人の機嫌ばかりをうかがっていないこと。
富や名声を強く求めないこと。
情熱と楽しみの心とともに働くこと。
などなど、伝えていくべき知恵はたくさんあります。今後このブログでは、というか私は仕事として、このような知識について繰り返し繰り返し書いていきます。
2007年4月16日
「文学形式の存在理由」
先週、私は戦争映画のテレビ放送を見た。見終わった後、アマゾンで該当作品のカスタマーレビューを見たら、批判的な意見が連続していた。戦争を体験している者の目から見たら、戦争を美化しすぎているというのが概ねの批判意見だったが、その中で何回か、大岡昇平の『俘虜記』が話題に出ていた。私は早速本棚の中に六年ほど眠っている『俘虜記』を手に取った。
戦争を体験した作家が、戦後まもなく自身の戦争体験を書き記し、世に問い、世界的な評価を得た作品。
現代では、以前なら人に向けて文書を発表したことがないような人でも、毎日ブログを更新している。本を読む人は少なくなったかもしれないが、メールなりブログなりで、文章を書いている人は呆れるほど多い。彼らはキーボードで文章を打っているだけで、文章を書いているわけではないし、文章を創っているとも言えないかもしれない。ただし、どんなに独創的な作家でも、過去から存在するテクスト空間から言葉を取り出して文章を創っているだけだから、ブログのにわか作家を必要以上におとしめることは文学の傲慢かもしれない。それでも、多くの人は幾度も疑問と不信の思いに囚われたことだろう。これだけ多くの人が毎日日記を書き、公共空間に発表しているのだから、文学が読まれなくなって当然ではないか。文学者がえらぶって書き綴る言葉は、ネットの地べたを沿う言葉遣いとかけ離れたものであり、そんな前時代の遺物を社会は不要としたのではないか、と。
そのような疑問も、『俘虜記』を読んでいたらうすれてきた。戦争を体験した人はたくさんいる。戦争の記録もたくさんある。個人の手記、回想録、インタビュー記事、研究、評論、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。それこそ大量にある中で、一体自分が戦争文学を残す意味などあるのか。こんなことで自問する必要などないのだ。何を迷う必要があろう。とある時代に自分が体験したことは、どんなことでも書き残しておくべきなのだ。たとえ多くの人が同じ一つの体験を共有していたとしても、感じ方、物事の捉え方は一人一人異なる。文学者は後世のためにも、今この場で体験したことを書き留める責任、義務を負っている。
太平洋戦争が終結して五十年たった後でも、私は『俘虜記』を手に取る。当時の人が何を考えていたのか、知るために。文学者が感じたことは、他の多くの人が戦争に触れて感じたこととはかけ離れているかもしれないと思うのは億劫だ。そうやって「高尚な」文学を敬遠する人は、実際に作品を手にしたらいいのだ。そこには誰もが気づいていないことについての優れた洞察が散見されるだろう。
2007年5月25日
「仕事の意義」
仕事の量が一定の限界を超えると、あるとき突然辛さが消えて、楽しさばかりとなる。転換が訪れる。自分だけにしかできない仕事をしているという実感をもてるかどうかが重要だ。他の人にはできない仕事をすることだ。すると仕事に意義を見出すことができる。時間を忘れて仕事に没頭できる。
仕事を変更する必要はない。その仕事に意義を見出せるかどうかは自分自身の創意工夫にかかっている。注目すること。他のつかれきっている人たちとは同じように働かないこと。一人孤高を保つこと。
この社会は病んでいる。僕も病みきっている。もう誰の目も気にせず生きてみよう。僕自身の人生なんか関係ない。
2007年6月13日
「ミッドタウンタワーの失墜」
夜、六本木のミッドタウンに行ってきた。ちなみに世間で話題のグッドウィルグループの本社はミッドタウン内のタワーにある。コムスンの本社は六本木ヒルズの中にある。
ミッドタウンの中は整然としており、建物のデザインが歩道まで統一されている。汚れを排除した潔癖の美的空間。それが六本木の街中に入ると、きわめてブレードランナー的な無国籍の歓楽街が開けてくる。歩道にはゴミ袋が並んでおり、看板はけばけばしく、宣伝の騒音が耳に痛い。横断歩道の前に白髪の太っちょのおばちゃんが眠っていた。ホームレスだろう。
翌日の朝、再びミッドタウンに行く用があって、同じ道を通ったら、昨晩道端で寝ていた太っちょのおばちゃんは、同じ場所に座って朝日を眺めていた。
完全に統制された美しい街並みと、隠蔽しきれない現実の同居、葛藤。老人のホームレスを排除した美しいミッドタウンタワーの中では、利益をむさぼるために善意を塗りたくった経営戦略が画策されている。六本木のどこに幸せがあるのだろう。
2007年7月15日
「アフリカを伝えるドキュメンタリーにて―4人に連続でレイプされて、夫まで撃ち殺されて」
夜テレビをつけると、あいもかわらずアフリカについてのドキュメンタリーをやっていてくれる。
今日はベッドに横たわっている女性が話している。政府軍と反政府勢力の抗争の合間に暴行された人たち。
彼女は言う。兵士が入ってきました。4人の兵士に立て続けにレイプされました。5人目が私に向かってきた時、夫が「これ以上やったら妻が死んでしまう」と言いました。すると夫は銃で撃ち殺されました。
なんなのだろうこの語りは。ラテンアメリカの文学で描かれた暴力の横溢は現実にも起きている。もちろん日本でもニュースになることがないレイプ事件は多数起きているけれど、4人に襲われて、しかもすぐ側に彼女の夫がいて、5人目にレイプされそうになった妻を見て、夫が声をあげたら、銃で撃ち殺される。こんな光景。生々しい。劇を超える現実。
政府軍の妻は反政府軍の兵士におかされ、反政府軍の妻は政府軍の兵士におかされるという。また、どちらの兵士におかされたのかわからない人もいるという。暴力と性欲の加速的並行稼動。コンゴで起きたこと。
2007年7月31日
「小説『夜間残業』」
今日は仕事を、今の人生を否定するのはやめようと思いながら生きてみた。それでもせわしなく、自分の現状を否定したくなる。電話が鳴る。忙しいのに電話対応で仕事が中断される。電話はいらつきの元だったが、今日は何故か愛情深い声で彼女たちと話すことができた。誠意を示しながら働くこと。愚痴を言わないこと。「むかつく」とか汚い言葉遣いを仕事中にしないこと。高潔な心を持って仕事に望むと、何故だか声に優しさが宿る。
人と話している時が一番安らぐ。パソコンの画面を見つめ続けていると疲れる。何故パソコンに向かって仕事をするのか。多くの人の喜びとなるためである。
忙しく立ち回っている人が、川辺で気持ちよく安らいでいる漁夫を見て、何故働かないかと注意する。漁夫は、何故そんなに働いているのかと彼に尋ね返す。彼は答える、ゆっくりと休むためだ、幸せになるためだ、心の平安を得るためだと。漁夫はすでに安らぎを得ている。本末転倒だ。東洋の昔話。
電話によって仕事が中断することは喜ばしいことなのだ。仕事は彼女たちの喜びのためにあるのだから。私は仕事をすることで、忙しくなることを望んでいたわけではないのだ。仕事をすることで、心の安寧を得ることを望んでいたのだ。仕事を提供される側にも同じことが言える。彼女たちは私の仕事を受け取ることで、喜び、安らぎたいのだ。電話の呼びかけに答えることは仕事の本義なのだ。
忙しいと思った時は、つとめて人に優しく語りかけること。何故働いているのか。忙しさを感じるためか。違う。愛の残滓を胸から開くためだ。ビジネスの場では手ひどく扱われている愛の大切さを伝えるために会社に通っている。家にこもっていては自己愛ばかりが肥大してしまう。
2007年8月1日
「ホリスティックに生きる」
体が辛く、心も仕事のストレスでずっと圧迫されていた。心を整えようといろいろ努力してみたが、すぐに外圧に屈してしまう。しかし、栄養ドリンクを飲んだら、体が実に軽くなった。一本の栄養ドリンクが時にどんな素晴らしい教えよりも体に役立つ時がある。マウスの使いすぎで手が痛くなったと思っていたが、手のしびれまで消えてしまった。栄養が足りなかった、あるいは変な食事をとりすぎていたかもしれない。体によいものを食べようと思う。肉を食べず、魚も食べず、カフェインを抜き、白砂糖も食べず、小麦も食べず、牛乳、乳製品を口に入れず。では何を食べて生きるのかと一瞬思う人もいるかもしれないが、これらを除いても世界には食品が溢れている。
トータリズムでなく、ホリスティックに生きてみる。全てのバランスをとって、心と体を調和させて、無理をせず、怒らず、物と人身を欲せず、己に落ち着いて、力を漏らさず、ゆっくりと生きる。何にも煩わされず、自分の意志を確かめて、歩いていく。
2007年8月5日
「孤独を確保するために必要な自己規律」
保険雑誌にあったストレスチェックをしてみたら、自分のストレス危険度は上から二番目のグループに入っていた。確かに体中痛いし、やることが盛りだくさんで、仕事を進める気力もなかった。それでも仕事は続く。
翌日、家にホリスティック・プログラムの本が届いていた。食物に関する記事を読んだだけで、体が随分軽くなった。ここ最近毎日カフェインを摂取していた。学生の頃はまるでコーヒーなど口をつけなかったのに、毎日二杯以上はコーヒーを飲んでいる。今日からコーヒーは避けようと思う。代わりに自分を認識する時間を持つこと。己の疲労感と向き合うこと。休養時間がまるでなかった。
サン・テグジュペリの『夜間飛行』を読みつつ、眼が痛いのでブルーベリージュースを飲む。肩が痛いし、姿勢も悪い。否定的な言葉ばかり書き連ねるのはもうやめにしよう。体を鍛えて、休めれば、すぐに元のよい状態の戻すことができるはずだ。そしてまたカンパニーでの仕事もはかどるはずだ。かつ、書くという、極めてプライベートでかつパブリックな仕事にも時間を多く与えることができるはずだ。これらの改善は全て可能なことだ。自分に意志があれば貫徹できる。
やり遂げようという意志をすぐに曲げてしまうのを、僕は今まで消費社会のせいにしてきた。商品が次々と生み出される。広告に踊らされて、周囲の話題にのせられて、僕は自分の純粋な意志を何度も放棄してきた。欲望の対象が次々と変わって、小説を書くことさえままならなかった。カンパニーの仕事は、組織だっているから、僕の心が浮ついても、規則正しく進んでいく。書く仕事は、孤独な作業だから、自分で仕事を律する必要がある。自由は自己規律と等しい。
2007年8月5日
「小説を書くことはどんなことよりも」
美術品の鑑定には、構図とか、配色センスとか、未だに近代絵画的価値観に基づいた鑑定が行われている。本来芸術作品とは、今までには無かった新しい価値観を打ち立てるものであったはずだ。そうした新しさの追求もまた、近代的価値観の範疇にあるわけだが、少なくとも今までの評価基準では評価することが不可能な、おぞましい作品の制作が望まれるだろう。
しかし、小説はまた別物である。芸術家になりたいという野心はエゴにすぎない。名文を書こうとする野心は個人的欲望にすぎない。僕はもう芸術家になろうとする大時代的な振る舞いはとらないことにした。何を書くのか。それはこの言葉たちが証明していくことだろう。一言では断定できない。
これは芸術制作ではない。仕事だ。そもそも芸術制作とはどんな仕事よりも過酷で、美以外に見返りの期待できない仕事ではなかったか。そうなら僕は芸術制作に励むだろう。あらゆる仕事の中で最も厳しい仕事としてこの道を選び取るだろう。
常日頃の僕ならば今なした決意を、明日の夜にはもう放り出しているのだが、この決意を心にとどめおいて、放棄することなく生きるためには何が必要か。
諦めることだ。他の全てを。
2007年8月6日
「書くこと、数、詩人」
書くことで多くの読者を獲得することを考えるよりも、書くことで、より多くの人の生に影響を与えることを考えることだ。ひたすら数の拡大を目指す人はビジネスの人である。数を考えた出した途端、詩人は詩人であることをやめる。どれほどの言葉をつむぎ出すことができるか。数ではない。誠実さだ。目覚めた言葉だ。
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