現代文化、社会について領域横断的に思索するホームページ

小説

未完成草稿


ホーム > 小説・詩 > 小説 >

小説『仮眠の後で愛撫した物語』

最終更新日:2008年11月9日


 1

 存在について。
 僕の中から、一人の存在者が立ち現れる。夢を見る。終わりのない夢だ。それは現在だ。
 こうして、僕の物語が始まった。黒い塊が、僕の目の前を通り過ぎる。あきれるような大きさ。この世の終わりの暗示。その塊を掴み取った。口に入れてみる。おいしい。もう一回手を前に伸ばした。今度は、目の前に女の顔が立ち現れる。どこかで見た顔だ。ロザンナ。終わりに位置する女。始まりの始まり。終焉だ。
 ロザンナが笑う。口が開く。歯が見える。ロザンナの髪の毛が伸びる。黄金が降りる。すると彼女の目が見えなくなる。ロザンナの口から花が舞い出る。彼女からの花束を受け取った。ラベンダーの花。終わりの始まりの花。花は、次から次へと舞い出る。今強烈に意識される彼女の口元。始まりの口。どうして開いているのかわからない。これから閉じられる口。命の紡がれる口。キスしたい。
 僕は彼女の手を探した。彼女は顔しかなかった。剥き出しの顔。どこからか届いた贈り物。ラベンダーの花束。夢が終わる。それは過去になる。収蔵されてゆく時間。次の始まりを待って、僕は眠りにつく。深い昏睡状態。
 いつからこうなってしまったのだろう。僕の人生。もう一度掴み取りたいセイの領域。黒い塊と白い塊の和合。命の羽根が背中から伸びてゆく。僕は何に対する「信頼」を失ったのだろう。細切れになる言葉。意識が遠のいてゆく。この続きは続かない。終われない。伝えることの全ては終われない。命の破片たち。散り散りになってゆく。


 2
 
 暗い香りが、辺りにたちこめていた。あのラベンダーの香り。続くものが続いたようだ。
 ここはどこだろう。僕の部屋だ。住み慣れた部屋。安住の地。くつろげるのはベッドの上だけ。眠っている僕。脇にありそうなラベンダー。たちこめる重たい香り。はねのけるようにして、眼を開く。
 ベッドの脇に真文が座っていた。ひどく笑っている。奇妙に歪んだ笑いだ。真文の手が、僕の方に伸びる。右腕を掴まれる。冷たい、真文の感触が、右腕に伝わる。不気味。ゆっくりと持ち上げられる。振り回される。
 何をする気だ。これ以上、これ以上、もうこれ以上。語れない。僕は怖いんだ真文が。何故僕の腕を取るんだ。何故僕の目を見つめて笑うんだ。何をせがんでいるんだ。
 何もせがんではいないのか。ほっとする。真文も僕の右腕を手放した。
 彼女の顔が凍りつく。部屋も寒くなってくる。命の水が欲しい。夢をもう一度みたい。ロザンナの夢。目の前にいるこの女よりよっぽどいい。いいだろうロザンナの存在。本当はいないのに、僕にとって重力のあるロザンナ。
 さっき腕が振り回されたせいで、ラベンダーの花が、床に落ちこんでいた。花びらの散乱。花粉の散乱。真文の錯乱。僕の錯乱。もう一度だけ、真文に正しく笑って欲しい。あの笑顔を見てみたい。健全な顔をしていた真文。今はもう錯乱。この地球の終わり。
 窓の外では、飛行機が飛び回っている。僕の部屋では、蚊が飛び回っている。
 気がつけば、どんどん真文が白くなっている。漆黒だった長い髪まで白くなってゆく。白いベッドのシーツと同化してゆく彼女の存在。壁の白に溶けこんでゆく彼女の存在。希薄化現象。
 今度は、僕が彼女の細い腕を掴む。やはりいなくなっては困る存在。僕の方に戻ってきてくれ。取り戻してくれ、君の色を。地球も色を失ってしまいそう。宇宙との同化現象。
 叫ばれる僕の声。部屋いっぱいに拡散する振動音。共鳴しそうなラベンダーたち。真文の服が溶解してゆく。露わになる白い肌。か細い線。
 ふと、枕とふとんの間に、ペンを挟んでおいたことに気づく。枕の下の柔らかい部分に指を這わせる。探られる深遠。見つかる青いペン。ペン先を外す。純白に変質してゆく真文の体にインクをぶちまけた。腹の上に飛び散る青い液体。世界の動揺が収まってゆく。天井まで舞い上がっていたラベンダーも、らせんを描いて、床に落ちてゆく。
 蚊はいつのまにか、何かに潰されていた。窓の外を見れば、飛行機も海に墜落していた。音もなく、振動もなく落ちていた。海洋へ、そっと吸いこまれていた。
 真文の体をきれいにしないといけない。トイレに行って、ボケットティッシュを持ってくる。真文は立ちつくしたままだ。目は不動。凍った笑いもはりついたままだ。彼女の肌の上に広がった青い染みをティッシュで優しく撫でた。全て拭き取ってしまわないように気をつける。真っ白になったら、また真文が錯乱する気がしたから。
 薄く肌に伸ばされてゆく青色。もう水色。
 突然真文の体が床に沈みはじめた。彼女の立っている足場が泡立っている。ぶくぶくと湧き立つ白い泡。ラベンダーも、蚊の死骸も、白い泡の中に吸いこまれてゆく。僕はベッドの上に身を引く。すっぽりと床の中に消えてゆく彼女。音のない彼女の笑い。響くのは泡の音。そして音の消失。真文は帰っていった。あるのはもう僕だけ。
 ベッドの上にも、少し青い液体が飛び散っていることに気づいた。ティッシュで染みをこする。強く。強く。染みは取れない。必ず死ぬのだ僕らは。このベッドシーツも滅び去るのだ。染み取りを放棄する。光を反射する青いインクのかけら。インクのなくなったペンは枕の脇にある。ペン先も、真文と一緒に消えてしまったのか、見当たらない。
 涙がこみあげてくる。いつ真文と再会できるのだろうか。会えたとしても、真文はもう話さない。話せない。笑えない。


 3

 ここは世界の果て。人生の果て。命の終わりの場所。苦しみと、楽しみを巡り合わせる場所。究極の高みに私はいる。時空を超越した、誰にも見えない高みだ。
 見下ろされる世界には、他の生物たちにまじって、人間たちが暮らしている。地球もまた、生存している。星々も、毎日苦しみ、楽しんでいる。
 私の目の前にある小さな泉。大きな水たまり。そこに、私以外の全ての存在が、はかなく映し出される。
 泉を覗く。水面が揺れている。ぼやけた映像が映る。今、焦点が合うのは、ある男の存在。小さな、小さな国にいる男。小さな都。頽廃の都。楽しみが、苦しみと等しい街。その男もまた、喘いで生きている。
 時々私は感じるのだ。彼のうめきを。何事かを成そうとして、何も成せない男の苦しみ。破裂する内臓。腸は腐り果て、口からは悪臭が漏れる。
 男は異界につながる女と戯れていた。女は錯乱した。ばらばらに断片化される女。男の脳も、柔らかく溶けてゆく。
 私は、今まで何万回も、こうした光景を眺めてきた。彼らの苦悩に耳を傾けてきた。今回の苦悩は軽い、今までのセイの苦しみと比べたら。しかし、男にはそれがわからない。自分の苦しみの深さを嘆くだけだ。
 男の映っていた泉に何か球体が落ちる。私の視界が突然改変される。私の右眼が落ちたのだ。私もまた崩れてゆく。際限なく断片化される。この場所の溶解とともに、私は純白になってゆく。


 4

 もう一度眠ろうか。そうすれば、ロザンナと出会えるだろう。花束を僕におくるロザンナ。違う。欲しいのは花ではない。言葉が欲しいのだ。語り合いたいのだ、人々と。ロザンナは、話せるだろうか。
 わからない。わかれない。顔しかないロザンナ。のどはあるのか。眠れない。
 突然、窓に二本の光線が立ち現われる。細く小さい光線群。一瞬光って、すぐに消える。
 ほぼ同時に、小さな球体が、天井のあたりに立ち現われる。ゆっくりと、真っ直ぐに降りてくる、小さな球体。
 よく見ると、それは眼球だ。目と目が合う。眼球が回転して、視線の衝突が終わる。一回りして、また目が合う。今度は、僕が目をそらす。怖い。視線がぶつからないように、眼球の回りの空白を眺めるようにして見る。柔らかなまなざしを送る。うっすらと、眼球の回りが光っていることに気づく。光とは言えないほどの、暖かい光。
 眼球は、音もなく床に収まる。そこはちょうど真文が立っていた場所だ。
 黒目が下になっている。血のにじむ白い球体。色の消失。
 おそるおそる右手を伸ばしてみる。手が近づくにつれ、何かを感じる。命のすごみが襲ってくる。
 突然、眼球が回転して、黒目が上ってくる。黒目が、僕の全体を睨みつける。僕の手のひらに向かって、黒目だけが飛びかかってくる。伸びきる黒い液体。黒いものが、右手の手のひらに当たる。しかし、黒が当たった感覚などない。慌てて手のひらを見てみるが、手には何の変化も見られない。体にも、心にも違和感がない。
 白目だけになって、充血している眼球。黒の抜けた白。鋭さの欠如。
 眼球が、ぱっと一瞬淡く光る。球の表面が泡立つ。地球の泡立ち。濁った白色が、床の上に液状に広がる。伸びきる眼。白までが、床に染みこみ、消失してゆく。
 黒は、僕の中に滞留している。何の違和感もないことの奇妙さ。
 こんなところにいてもしょうがない。次々と異様なものに襲われるだけだ。外に出よう。人々を求めて。帰っていった真文を探しにゆこう。
 ペン先のないペンをポケットに入れる。紙を持つ必要などない。
 扉の前に立つ。だめだ、鍵がかかっている。いや、忘れていた。この扉は今まで一度も開いたことがなかった。無駄だ。
 窓の前に立つ。外に広がっているのは腐った街並み。肌がどろどろにただれた人々がのっそり歩いている。口をだらしなく開けて、目はうつろ。なんだこれが人間なのか。彼らに真文の居場所を聞き出すために、この部屋を廃棄しないといけない。
 窓の鍵に手をかける。だめだ、これも閉まっている。枕を手に取り、思いっきり窓に投げつけた。音もなく、ガラスが砕ける。
 僕は飛び出した。ところどころ、体を傷つけながら、外へ。痛みは襲ってこない。真文の喪失の痛みに比べたら、体の痛みなどどうでもいい。感情による感覚の喪失。
 大地に投げ出された。大地というよりはアスファルト。より固い大地。
 振り返ると、住んでいたアパートが消えていた。何もない空白。ただあるのは、ラベンダーの花畑。地平線の彼方まで、花畑が続いている。匂い立つ重たい香り。自然にもれる笑み。花畑の中で、人々が談笑しながら、花を摘んでいる。心が和む情景。穏やかな午後の光。
 頭を正面に戻す。こちらは死界。花畑には気づかずに、早足で歩く人々。怒りの形相。もう一度、首を回す。畑はある。地平線の先まで、限界まで続いている。
 頭を正面に戻す。死界に歩き出そう。花畑の方に真文はいない気がする。
 道に立つ。
 仮面の男たち。より大きな仮面をつけた女たち。見当たらないのは子どもたち。男が一人、僕の立つ場所に接近してくる。素早く、地面を滑るようにして。
 般若の面。鬼の面。悪魔払い。
「さらばだ」
「はっ?」
 男は、一言はっしたまま動かない。僕を睨んでいる。睨みの形相。仮面の仮面。
 ここは本当に現実の世界なのか。夢と変わらない世界。
 気がつくと、大勢に回りを取り囲まれた。様々な仮面。「裸に仮面」もいる。仮面をつけていない者の顔は、腐敗している。骨が、ところどころ露わになっている顔。しかし、その顔は優しい面もちだ。他の仮面たちに比べたら、よっぽど。
 三六〇度が人。部屋に帰りたい。あの、安住の地へ帰りたい。思い出した。部屋はもうない。かわりにあるのは、ラベンダーの花畑。あっちへ戻ってもだめだ。何もないんだ、本当は。
「もう一度告げよう。さらばだ、虫けらよ」般若が言う。
「さらばだ」皆が一緒に言う。だがばらばら。正確には重ならない声。かすれ声。もだえる声。あえぎ声。大声。
「さらばだ、あの地へ帰れ」また不器用に重なる声。一歩ずつ、つめ寄られる。僕はひるむ。いや、ひるめない。
「おまえらには、わからないだろう、僕のいる意味なんて」
「何を突然言い出すのだ、虫けらの分際で」
 僕は、般若に体を当てた。彼の体が傾く。ゆるむ。両隣の人間が、般若を支える。かまわずに押しきる。三人が、揃って地面に倒れこむ。何だ、もろいではないか。
 僕は、般若の仮面を踏み台にして、走り出した。追ってくるのか。追ってこない。
「さらばだ、虫けらよ」後ろで響く声。重なるようで、重ならない。
 道を走る。追ってこないのだから、走らなくてもいいか。ゆっくり、歩いてみる。もう、花畑からは、だいぶ離れてしまった。戻る場所など、ない。
 落ち着くと、道に沿って、建物があることに気づけた。巨大な建築物。無機質な塔たち。中に、何も収められそうにない塔たち。連なり続ける墓石群。命の眠る墓の群れ。
 そうだ、話さないと。真文のことを尋ねないと。道に人はいない。もしかして、あの塔の中に。
 そびえる塔。灰色の墓石。太陽を反射して、光る嘆きの壁。
 上空を仰ぎ見る。灰色の太陽。鈍い光が、目に突き刺さる。空はぼやけている。細かく寸断された雲。祈りの形式を誘う空。何かに誘われて。僕は太陽に頭を垂れた。これからも続く、彷徨の無事を願って。命と話せるように、交われるように、一緒に踊れるように。
 水平方向に頭を定める。塔の入り口。深淵の入り口。嘆きの壁に刻まれた扉。
 自然に扉が広がってゆく。墓の中に入る。冷たい風が、塔の中に滞留している。がらんとした空間。文字を探す。何かを指し示す、文字を探す。
 「受け付け」。見つかった。
 「受け付け」の下に微笑む二つの仮面。おたふく。巫女。神おろしのイタコたち。
「すいません、真文という人を知りませんか?探しているんです、さっきから」
「はっ?」おたふくが呟く。
「大変申し訳ありませんが、どちら様ですか?」巫女は微笑む。
「真文です」
「いや、だからねあなた…」おたふくは当惑している。巫女は落ち着き払っている。こちらを理解している。
「マフミ様ですね。すぐにコンピューターで調べましょう。少々お待ち下さい」
 巫女の手が、素早く動く。印が結ばれる。おたふくが、どこかに電話する。疑念に溢れた顔。囁かれる声。巫女もまた、印を結びながら、何かを囁いている。
「よく見えてきませんね。よかったらここに、あなたの字で、その人の名前を書いてもらえませんか?」巫女が、古びた黄色い札を差し出した。
「彼女の苗字はわからないんですけど、いいですか?」
「ええ、かまいませんよ。あなたの書いた字が、記憶を呼び覚ましてくれるのですから」
ポケットからペンを取り出す。そうだ、ペン先はなかったのだ。
「すいません、ペンを貸してもらえませんか?」
「筆しかありませんけど。それに、墨をすらなければいけないので、しばらく時間がかかりますが・・・」一瞬迷う。他の人に聞いた方が、よくないだろうか。しかし、この人なら、何かを指し示してくれる気がする。
「大丈夫です。待ちます」巫女が微笑む。
 塔の奥から現われた、二人のいかつい男がこちらに向かってくる。警備員だ。おたふくの面が揺れる。大きな男と小さな男。二人は警棒を持っている。顔が半分溶けている大男。股間を濡らした小男。
 どうしよう。そうだ、ペン先はないが、インクはまだ少しだけある。ペンの先を拳で叩き潰す。手に青が滲む。指先に、青インクをたっぷりつけて、「真文」と札に記した。
「すいません、急いで調べてもらえますか?」
「わかりました。意志が強いのですね」
 おたふくが急ぐように警備員を促す。しかし男たちの足取りは、遅々として進まない。意地悪く笑って、光景を楽しんでいる。
「見えてきましたよ。細い女の人です。黒くて長い髪ですね。しかし、これは、痩せすぎではないですか?」
「はい。真文です。どこにいるんですか?彼女は」
「焦らないで下さい。焦ると、視界が曇ります」
「だってあなた、こんな状況で。焦って当然じゃないですか」
「待つことです、ひたすら。彼女をいくら探しても、あなたは、どこにもたどり着けません。進むことさえできません。彼女は、あなたが思っているような存在ではないのです」
「何を言うんだ、偉そうに。教えてくれ、居場所を」
 にっこりと巫女が微笑む。「待つことです」
 警備員がもうすぐ「受け付け」に着きそうだ。どうしようもない。ここから立ち去ろう。ペンはどうすべきか。どうでもいい、壊れたペンなんて。
 走って塔の扉に戻った。扉は開かない。扉を叩く。音がこだまするだけだ。空しい。全てが空しい。全空虚の場所。僕の存在が稀薄化する。
 警備員に取り囲まれる。「ここにずっといろ」「観念するなよ。経験もするな」彼らの話を聞いていると、気力が損なわれてゆく。床に腰を下ろす。体が溶けてゆきそうだ。巫女がやってくる。白い衣の裾が床を這う。埃が宙を舞う。「ここで七年待ちなさい。そうすれば、貴方は三十歳を過ぎるでしょう。その間、ずっと見続けるのです、自分の心の襞を。世界の分裂の襞を、注視し続けるのです」
「こんな墓の中でか?自分の心はまだしも、世界が見えるわけがないだろう」
「あなたの右の手のひらを覗いて御覧なさい」僕は右手を見つめる。しわが見える。細かい線群。走り去る群れ。
「じっとですよ。七年間」
巫女の身体が後ろに退いてゆく。僕の心が右手と同化する。寂しい手だ。細い指だ。筆まめが浮き上がる。
 覇気がない。指の先が、だらんと内側に曲がりこんでいる、己を抱えこむ様にして。
 時間が止まった。全ての進行が止まった。僕は死せるものとなった。
 床に左足の膝がついている。右足は尻と足裏を底辺に、膝を頂点にした二等辺三角形となっている。右手をみつめる頭は下に垂れ、身体は曲がりこんで、縮みつくしている。自分を抱えこむ、子宮の中の胎児のよう。あるいは、今にも走り出そうとしている陸上選手のよう。
 前へ、前へと進んできたのだ、ひたすら。身体は、心は、何をそんなに急いでいるのか。
 無鉄砲に前進してきたようでいて、実は自分を丸めこむだけだったのか。本当はどこにも進みたくなかったのか。自分で自分を抱きしめて、何をしようというのだ、僕は。
 真文を探すのを、止めてみようか。前へ進むことが間違っているなら、どこにも行かずに、ここにいようか。僕は、進みながらも、運動を食い止めるように、自分を後ろに抱えこんでいた。
 いや、真文に出会えたら、彼女に抱きしめてもらえるだろう。やはり、前進した方がいいのかもしれない。急いで走ってきたようでいて、実は、はじまりの地点に留まり続けていただけなのかもしれない。スタートの鉄砲が鳴るのを、待っていただけなのかもしれない。
 出会えたら、抱きしめてもらえるだと?論理の飛躍だ。真文は錯乱している。可能性があるにすぎない。ごく小さな可能性の萌芽。自分で芽を育てないと。果てしない働きかけのおなはし。大人はみんな当たり前に働き、働きかけている。今までは、可能性の芽を潰しているようにしか見えなかったが。
 だめだ、考えこむことでは何も進まない。見つめる?考えずに熟視すること。心と世界を。一切働きかけようとせず。向こうの思うがままに、溢れさせること。遊ばせること。聴き続けること。叫びを。祈りを。悲嘆を。歓談を。
 眼を閉じる。真っ黒な画面。時々、光が生まれては、消えてゆく画面。真文という文字を思い浮かべる。正確に。鮮明に。
 白く浮かぶ漢字。真文、マフミ、まふみ、いや違う、「眞文」だ。そうだ、彼女の名前は、眞文だ。真文ではない。いつからか、僕の頭は、眞文のことを、真文と書き換えていたのだ。なぜだ?いつからだ?わからない。進まない。考えても思い出せない。眞文という字を見つめるだけ。
 眞文の頃の眞文は、丸かった。曙の感じだった。どんな場面だ?具体的な描写を探してみても、映像は心の中に一切留まっていない。全て流れ去ってしまったのか。わかるのは、笑っている眞文の丸い顔。丸い手のひら。丸い口唇。鮮明に浮かぶ、上の赤と下の赤。合わさる。開かれる。紡がれる言葉。あの頃の眞文は、喋っていた気がする。
 眞文の、丸い話し声。どんどんと記憶が息を吹き戻してゆく。二人の間で交わされる、吐息の交換。あそこは図書館。街の図書館。全ての書物が集蔵されているという、アカシアの図書館のはず。

 七年前。これは、七回生まれ変わった蛇のおはなし。僕がまだ、計算して言葉を紡ぎ出していた頃のおはなし。
 図書館には、世界中の本が収められていた。あらゆる時間と場所を貫いて、全てが記録されている、地球の図書館。アカシアの図書館。入り口は子ども一人が、やっと通れるくらいの広さしかなかった。館内は、地下室のような暗さだった。入り口の小さなホールには、巨木がそびえ立っていた。巨木の枝と葉が、吹き抜けの天井いっぱいに、窮屈そうに広がっていた。床には、枯葉がまばらに積もっていた。ところどころに、本も落ちていた。
 カウンターには、ブランドものの、薄手の黄色いセーターを着ている、若い女の司書が一人いた。彼女は、肩肘をついて、薄い文庫本を読みふけっていた。僕が図書館に入ってきたことなど、一切気にしていなかった。
 奥の方を見やると、はるか先まで本棚が続いていた。やはり、本棚の床にも、枯葉と本が散らばっていた。棚にある本も、秩序だって置かれていないようだ。閲覧者は僕の他には誰もいない。地球の全てが詰まっている場所なのに、何も知らない司書と僕しかいないようだ。破壊的な無秩序が、静寂によって包まれていた。




 5

「ここの図書館には、今までに発行された、全ての本があると聞いたのですが」
「ええ、そうです。本だけではありません。走り書きのメモも、声の記録も、全人類の記録が、完全に収められているんですよ」
「声の記録とは,どんなものですか?」
「話したこと、会話だけでなく、心の中で思ったことも、一瞬一瞬全ての連なりが、あらゆる人々の生の一切が、記録されて,収められているのです」
「壮大だが、何か恐ろしい話ですね」
「悪用されることはありません。徹底した秘密主義です。それに、誰もどこに何が置かれているのか、もうわかりませんから」
「人間のものだけなのですか?そんな記録技術があるなら、他の存在も全て収められていそうだが」
「その通りです。地球上の全ての存在、動物・植物・虫けら・細菌・無機物、それら全ての生きた痕跡が、ここでは記録されているのです。今この瞬間も刻々とね」
「何か不思議だな。そんなことを一体誰が、何のためにはじめたのですか?」
「今から二千年くらい前にはじまったそうです。地球上の全ての記録を集積して、その中で最も素晴らしいもの、美しいもののみを選別し、保存するために、この図書館は作られたそうです。選別された最高のものを、タイムカプセルの中に残すつもりか、宇宙船にでも乗せるつもりだったのでしょうね」
「何か発想が馬鹿げていますね。誰が選べるというのですか?どれが優れているか、選ぶ権利を持つものなんて、誰もいないでしょう」
「最初は真剣に、数人の博識者によって、選別が行われていました。けれどそのうちに、この試みの尊大さに、皆が気づいたのです」
「美しいもの、真実の存在なんて、誰にも決められないと」
「前の世代に選別された保存品が、次の時代にはすぐ拒否されるという事態が、何回も起きたのです。所詮主観による決定なので、客観的には決めようがないとわかってしまったのです」
「そもそも、その選別過程が権力的だな。選んで、固定して、崇拝の対象とさせる」
「まだ高校生みたいなのに、随分アカデミックなのね、あなた。それはそうと、あなたはなぜここに来たの?この図書館の成立事情を聞きに来ただけじゃないんでしょう?」
「そうです。一体これだけ歴史が堆積しているのに、僕は一体何を書けばいいのか、もう全て書きつくされているのではないかと不安になって、ここの本をできるだけ読みに来たのです。まだ書かれていない領域、こんなに書かれているのに、それでも書くべき領域がないものか見つけるために」
「まず、美しい文章なんて書こうとしないことね。美しいものは所詮主観であるし、美を美として呈示することは全て暴力的よ。それ以外の存在を疎外することになるのだから」
「崇高なものを書くというのはどうですか?人間の目では捉えられない、呈示不可能なものを、それでも書こうという試みは」
「社会的に認められていないもの、抑圧されているものの疎外状態を告発し、社会規範に抵抗するために書くということが、今の時代には流行っているけどね」
「しかし、それもどうも、権力過程の一部でしかない気が僕にはしますね。結局、認められたいという自我の欲望の反映ではないですか。もちろん、徹底的に暴力に屈している人たちの現状を告発することは必要ですが、僕の仕事は、それではない気がする」
「民主主義は、絶えず人権の拡大を続けてきたと言いたいんでしょう?人権を拡大しても拡大しても、歴史は何ら変わっておらず、悲劇的な権利闘争の永劫回帰をしているように、あなたの眼には見える」
「権力を問うという方法が違う気がする。もっと根本的に問題がある気がする」
「地球の悲鳴について書いてみる?アカシアの図書館には、人間以外の声も全て収録されているから、彼らを読んだら、何かのきっかけになるかもしれないわよ」
「いえ、結局世界を滅ぼしてゆくのは、人間の権力の営みです。そこをうたないで、動植物や地球環境に向かっても、問題は何も変わらない気がする。もちろんそれらの研究をすることの大切さは、いくら強調しても足りないくらいですが」
「価値を得たいという欲望、権力の過程を何とかして改変したいわけね。全ての人々が、あなたには権力闘争の過程にあるように見える」
「そうです。堅固な建築物なんです、社会全体がそう見える」
「完全な平等なんてないのよ。競争がなくなったら、マルクスの楽園のようになってしまう。もう人間は楽園から追放されたのだから、諦めて死んでゆくしかないんじゃない?」
「諦めるか・・・そうだ、みんな諦めていないんだ。自分が空虚な存在だと思いたくないんだ。弱く空しい自分の存在を認めたくないから、より強くなろうとしている。みんなが、自分が実は無力で、世界に対して何の意味もないことに気づきたくないから、より安全に、より幸せになろうとして、他と闘っている」
「闘うから、際限ない断片化が行われる。自のまわりに壁がどんどんできてゆく。分裂・分裂・分裂・・・」
「そう、僕は自分の弱さを認める。己の存在の虚無を認めるんだ。世界的弱者の状況を告発するのではなく、世界中の存在が、実は限りなく無に近い最弱の存在であることを知らしめるんだ」
「そこから強さの獲得に向けて、上昇の道を進んでゆくのではなく、弱いまま留まり続ける。虚無を責任として引き受けて、奈落の底で声を聞く」
「そう、全ての虚無たちの声を。地獄の底の声を」


 6
 
「燃やしてしまいましょうか、ここの本を全部」
「もう必要ないですしね」模倣の模倣はしたくなかった。絶え間なく落ちこんでゆきたかったのだ、僕は。
「ちょうど今日あたり、いっそ燃やしつくそうかと思っていたところなのよ。もう誰も訪ねてこなかったし。誰か新しい人が来たら、その人にここの最後を看取ってもらおうって、ずっと考えていたのよ」彼女は僕と話している間、ずっと手に持っていた文庫をカウンターの上に置いた。文庫は、ツェランの原書だった。
「その前に一人、女の子を連れ出さないと」カウンターにあるコンピューターのキーボードを打ち鳴らす彼女の細長い指に見とれる。
「眞文ちゃんて言うの。あなたが連れて行きなさいよ。彼女はもう何千年も誤解されてきたのだから、あなたが食べさせてあげてね」しばらくすると、本棚の奥から、囚人服のようなみすぼらしい服を着こんだ、小学生くらいの女の子がやってきた。顔に泥汚れがついている。頬には、ニ本の爪で引っ掻かれたような傷跡もあった。それでも、彼女は全体に丸く膨らんだ肌を保っており、僕たちに向かって微笑んでいる。作り笑いではない、子どもの笑いだ。
「眞文ちゃん、この図書館はなくなっちゃうの。このお兄ちゃんと一緒に、お外に出てね」
「お姉ちゃんはどうするの?」
「大丈夫。お姉ちゃんのことは気にしないで」司書が眞文の前にしゃがみこんで、眞文を抱きしめた。司書の目は、赤く緩んでいた。
「よろしくね」眞文の手を取ろうとしたが、眞文は笑いながら走って、入り口から外へ出てしまった。出る時に慌てたためか、体中をぶつけていた。僕は後を追おうとしたが、司書に聞きたいことがあった。「あなたは、図書館と一緒に燃えてしまうんじゃないですか?」
「あなたが望んだとおり、私は虚無になるのよ。余計なセンチメンタルは抱かないことよ」
「違う。僕のいう虚無はそういうことじゃないんだ。一緒に三人で外に出ようよ」
「私は燃えてもまたカミに戻るだけよ。あなたたちとは違うのだから」
「わかった。なら、あなたとここが燃える場面を見ていてもいい?」
「・・・うん」僕は、彼女の手を握った。彼女も、僕の手を握り返した。二人の間で触感が膨らむ。ただそれだけ。短いお別れ。
「巨木に火が移ったら、すぐに逃げなさいよ」
 彼女は、マッチに火をつけた。マッチから、青白い炎が浮き上がる。枯葉の上に、そっとマッチが置かれた。ゆっくりと、火が四方に広がってゆく。僕らは、火の昇り上がる動きをじっと見つめていた。本が焼かれてゆく。声が焼かれてゆく。元の場所に戻ってゆく。本当は保存されないで消えてゆくはずだった存在たち。燃え立つ匂いが鼻を襲う。どこかラベンダーの香りと似ている。
 巨木に火がつく。炎が幹を昇ってゆく。緑の葉が、黒く焦がれて泡立つ。彼女が、僕の方を流し目で見る。僕は、一瞬、微笑んだ。
「あなたの名前を聞かせて下さい」
「名前?あなたにもないんでしょ。私も忘れたわよ」
「それじゃあ今この場でつけるよ。君は、ロザンナだ」
「ロザンナ?陳腐ね。でもいい、大事にもらっておくわ」
 ロザンナの黄色いセーターが、炎を反映して金色に変色する。
「さあ、早く行かないと、あなたも灰に変わってしまうわ。急いで出て」僕はしばらくそこを動かなかった。太い枝が落ちてくる。煙で息もできなくなってくる。
「大丈夫。私はね、本当は、あの女の子と同じなの。あの子のことを、大事に見守ってあげて。そうしてくれれば、私も助かるから」 
 彼女の手をもう一度握る。限界まで優しく。右手と右手が重なる。終わる記憶。炎の渦。


 7

 最初に見た眞文の記憶。ロザンナと眞文が重なっていた記憶。あれから七年。いや、ついさっき右手を見つめはじめてから、もう七年経ったのかもしれない。体を丸めこんでいた体制を、ゆっくり可変させる。立ち上がる。視線を張り巡らす。
 今まで気づかなかった。黒く燃えあがった巨木の残骸が目の前にある。散らかる黒い木片群。爆撃を受けた後の廃墟。ここはアカシアの図書館だ。いや、だった場所だ。世界の全てが集まっていた場所。今は解放された場所。開かれたパンドラの箱。
 奥の方を見やる。本棚があった場所は、ラベンダーの花畑になっている。花畑の方に入ってゆく。踏みしめられる赤い土。体いっぱいに、ラベンダーの重たい香りが広がる。締めつけられていた頭蓋骨の拘束が、ふんわり解けてゆく。自然に笑みがもれる。
 巫女が花畑の中にしゃがんで、花を摘んでいる。僕を見つけて、顔を上げる。安らぎに満ちた顔だ。「お帰りなさい。眞文さんも奥にいますよ」僕はひとしきり笑った後、また歩を進める。
「忠告したり、元気づけたりしても、彼女の不安を増大させるだけですから・・・」
「わかっています」何も語りかけずに、側に寄りそうだけだ。いくら努力しても無力。ただ瞬間瞬間を感じきれる様に、鋭敏に見守るのみ。
 しばらく進むと、花畑の平原が緩やかな斜面に変わり、体も下降してゆく。坂の上を一歩一歩、慎重に下りてゆく。空気が重さで沈んでゆく。奥の奥に眞文がいた。ラベンダーの花いっぱいに、眞文の体は包まれている。下半身は、地面に埋められている。彼女の顔に表情はない。真っ白だ。坂の斜面に焦点のない眼を向けて、口をわずかに開けている。僕は、彼女の場所に駆け寄り、土を手で掘りまくった。せわしなく動く手の運動を、眞文が楽しそうに見つめている。
 彼女のパジャマから、土をできるだけ払い落とす。靴はない。裸足だ。彼女の体を背中にしょいこみ、坂を上がってゆく。一歩歩くたびに眞文の重みが心臓に伝わる。
「どこに行こうか?もう僕の部屋はないけど」
「飛行機が落ちたところ。あそこに行ってみたい」
「そういえば、飛行機が海に落ちていたね。行ってみようか」
「きっと、海の中にお友達がたくさんいるよ」
「急がなくてもいいかい?」笑いながら問いかける。眞文の返事はない。
 僕の判断で、ゆっくりと歩く。一歩動く度に、おぶった彼女の体が揺れて、僕のあちこちを叩く。彼女の体にまとわりついた土も、少しずつこぼれてゆく。大地からの離陸。僕たちが向かうのは、飛行機の墜落地点。水の中には、残骸と死骸が散乱していることだろう。
 図書館のカウンターの前まで来る。おたふくだけが座っている。おたふくが仮面を取る。ロザンナの顔が立ち現われた。眞文と同じ顔だ。眞文とロザンナが微笑みを与え合う。
「いい?眞文はあなたの子どもを産めないでしょう。だから、あなたは代わりに営み続けなさい」
「虚無を」
「そう、二人の子どもの代わりになるもの。終わりの終わりの場所を」虚無はニヒリズムではない。他者と共有できる「イデオロギー」にはなりえないのだ、僕が見出した虚無は。

 図書館の外に出た。太陽は力をなくしている。それでも空は、空の色を保っていた。
「降りるよ」眞文が、僕の耳元で呟く。ロザンナの声かもしれない。
「歩けるの?足は大丈夫?」
「わからない。だけど、歩いてみるね」
「それに、裸足だろ。いいよ」
「裸足でも平気だよ。もう何年も歩いていなかったから、歩きたいの」
 眞文がアスファルトの上に立った。当然、少しよろけた。自信なさげに笑っている。僕も靴と靴下を脱いで、裸足で歩くことにした。アスファルトを踏むと、痛かった。二人で一緒に踏み出したから、痛みはあまり関係なかった。三人で一緒だったのかもしれないが。
 海の香りも、潮の音も届かない。ここは機械だ。海に落ちた飛行機が見てみたい。



(了)
COPYRIGHT (C) 2003 HAL HILL. All RIGHTS RESERVED