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小説『自他の吟味』

最終更新日:2008年11月9日

 さてさて、また新人賞応募用の小説でも書き始めてみるかと真摯に仕事を始めてみたが、一ページか二ページ書くとすぐに行き詰まってしまう。ずっとブログの更新しかしていなかったからか、長い小説を書く方法を忘れてしまった。思い出すために、ネット上で「文学」とか「小説理論」とかいうキーワードで小説技法のページを検索してみる。すると自分のブログが検索されたりして、いまいちいい技法に当たらない。前衛から離れて古典たろうと最近努力していたのだが、仕方なく「前衛 文学」で検索をかけてみた。すると、ロブ・グリエがよくヒットする。ヌーヴォー・ロマンの大家は、四十年経っても前衛のままか。要するに時代は全然ヌーヴォー・ロマンに追いついていないのだ。前衛とは時代の最先端という意味ではないのか。どんなに時代が進んでも前衛は前衛のままなのだろうか。確かに今は六十年代より保守に後退したのかもしれない。七十年代のNHKのドキュメンタリー番組など見ると、どの番組もみな武満徹の前衛作品みたいに、不穏で奇怪な、神経を摩擦する曲を使っているので、やはり時代はフリージャズから癒し系に後退したのかもしれない。
 ロブ・グリエの小説は全くもってつまらないと思う。下手とか面白くないとかではなくて、面白さを拒否しているヌーヴォー・ロマンは読むだけで辛くなってくる。ヌーヴォー・ロマンは小説に対する常識的な考え方に反抗している。というか「小説に対する」という限定詞抜きで、ヌーヴォー・ロマンは常識的考え方そのもの、科学的思考法、形而上学、理性とか呼ばれるもの全てを解体しようとしている。普通に小説を読もうとして、楽しもうとしてヌーヴォー・ロマンを読もうとした僕みたいな読者は、全然物語が進まず、読者を楽しませようとしないヌーヴォー・ロマンを否定したくてしょうがなくなってしまう。前衛を否定して、常識に戻りたくなってしまう。
 こう書いても僕はロブ・グリエを絶対的に擁護する立場を取らないが、彼の小説について書かれた文章とか、彼の小説に対する考え方を読むと、実に新鮮で、面白く、ロブ・グリエの生み出した小説理論に同意するしかないと思えてしまう。
 事態を明確にしよう。「ロブ・グリエが書いた小説」と、「ロブ・グリエが書いた小説に関する語り」は別物だ。僕は前者はつまらないと思うが、後者はすこぶる面白いし、正しいと思う。なら、「ロブ・グリエが書いた小説に関する語り」に従って、新しい小説を書いてもいいのではないか。「ロブ・グリエが書いた小説」の技法を継承しようとするのではなく、彼が語った小説に対する新しい思考法を継承しようと思う。それは刺激的だし、つまらない社会に必要なことだし。僕は古典から前衛に舞い戻ることになる。
 かといって、別に今まで古典的小説を書いていたわけでもない。古典的リアリズム小説を書こうと思ったが、いつも出だししか書けなかった。結局僕は古典的ではなく、前衛的に生きている時、いきいきとしているのだろう。古典も、古いから古典というわけではない。きっちりした生き様を古典というのであって、何かを解体しようとしながら生きるのを前衛という。カントとフィヒテの違いのようなものだ。カントに憧れていたが、結局僕はフィヒテよりだったということだ。
 かといって、すぐに小説を書き出せるわけでもなく、僕はサッカーの試合を見ていた。ワールドカップアジア地区最終予選、日本対北朝鮮戦。テレビでは拉致問題が報道されているし、北朝鮮は日本と戦争を起こすかもしれないとあやしい報道が流れている中、ナショナリズムを刺激するサッカーの試合があるのは、何だかなと思ってしまう。国際情勢が緊張しているからそう思うだけの話で、よく考えれば、ヨーロッパは昔から戦争の相手国とサッカーの試合を繰り返している。そんな危惧することではないのかもしれない。
 面白いのは、大戦で負けたドイツ、イタリアが何回もワールドカップで優勝していることである。戦勝国であるフランス、イングランドは自国開催の時、一回しか優勝していないし、強いとマニアの間で人気のオランダは一回も優勝していない。戦争に負けたドイツとイタリアが何度も優勝しているワールドカップは、第二次世界大戦の敗戦の傷を癒す過程なのかもしれない。
 ヨーロッパだけでなく、世界に視野を広げてみれば、戦勝国のアメリカはサッカーにそれほど力を入れていない。アメリカンフットボールや野球など、自国だけで完結しているスポーツで、ワールドシリーズを行なっているアメリカの鎖国性。アメリカにとって、ルールが不明確で偶然の要素が多い、それだけ芸術的プレーが生み出される機会が多いサッカーは、女性や子どもが行うスポーツだ。一方の二十世紀の大国、ロシアもサッカーはそれほど強くない。サッカーはあくまで西ヨーロッパ諸国中心の帝国主義的スポーツなのか。いやいや、真に強いのはブラジル、アルゼンチンら、南米の旧植民地諸国だ。サッカーは十九世紀から続くナショナリズムの歴史を想起させる。サッカーの戦いは戦争の記憶を喚起させる。
 国際的に緊張しているから、今回の北朝鮮戦を過剰に意識してしまっただけで、日本より歴史教育が盛んな韓国や中国などアジア諸国にとっては、サッカーの日本戦は常に太平洋戦争を思い起こさせるものなのだろうか。そう思えば、先日あったアジアカップでの中国の暴動も理解できる。世界大戦の象徴的供犠の場としてのワールドカップ。日本戦でアジア諸国が太平洋戦争を想起するなら、ドイツ戦でフランスやオランダはナチスの侵略を想起するのだろうか。
 実際、北朝鮮戦が始まったら、ナショナリズムの刺激という杞憂は杞憂のまま終った。後半北朝鮮が点をとって、一対一になってから、僕は何度も外す日本のシュートに集中した結果、戦争の歴史とか国際的緊張を忘れ、ただひたすらスポーツとしてのサッカーに没頭できた。ヨーロッパ諸国も、知識人だけがナショナリズムについて警戒しているだけで、働き遊ぶ人々は、サッカーの試合そのものを毎回楽しんでいるのかもしれない。けれど、試合の前後で、相手国に対して差別的な思いが再燃する人々がいるのは確かなことだ。おそらくこの試合の前後に、ネット上で北朝鮮に対する差別的発言が飛び交うことだろう。こんな状態を永遠平和を願ったカントなら嘆くだろうが、僕もせめて無知に基づく差別や誤解だけとは決別したい。
 小説を書いているうちに、ロスタイムとなり、シュートが決まって日本は勝った。試合に集中していたつもりが、小説を書いているうちに、日本が勝っても負けてもどうでもよくなってきた。シュートを外すとみんな、なんて日本の選手は下手なんだと嘆くが、実際そう批判している僕らが日本代表に選ばれるわけもない。彼らは極限状況で自分の実力を出そうと努力している。同じような修練を積んでいない外野が無責任に批判する権利はない。ただ、現代は専門家ではないアマチュアが自由に意見を述べる世界だ。専門に詳しい人に向けてではなく、専門のことなどまるで知らない人に向けて論理を発表していかなければならない。マスメディアが脱専門化の流れを促進しているが、さらにポスト・マスメディアたるインターネットが、掲示板やブログで世界のアマチュア化を加速している。気に入った商品を、専門家でもないのにアフィリエイトとしてネット上で紹介して、多額のコミッションを得ている人もいる。逆にいうと、知識が専門化しすぎたために、専門家ではない人の意見がまかり通る時代になったのかもしれない。深くない、表面的な知識だけで自由に意見を言える社会の到来。そんな時代に、真面目に一つの技術の習練をしている苦学者は、実に滑稽だ。しかし、そんなストイックな苦学者が、日本代表としてマスメディアの中で戦っている。
 さてさて、僕も苦学者として、自然的傾向に関わりなく、小説を書き始めてみよう。と言いながらも、僕はドイツ語会話のテレビを見ながら、いわゆる「ながら勉強」ならぬ、ながら創作をしている。
 サッカーの、ナショナリズムにおける肯定的な意味が浮かんできた。別に国際マッチがナショナリズムを高揚させるからといって、全部否定するのはよくない。戦争で負けたドイツやイタリアが、サッカーに力を入れることで、敗戦の傷を癒したのではないか。そう考えれば、ブラジルやアルゼンチンが、ポルトガルやスペインに勝つことも、植民の歴史のくつがえしになる。あくまでナショナリズムという枠組みの中での肯定的くつがえしだが、ナショナリズムを否定するばかりでは現実から遊離するばかりだ。現実では、国家は確固としたものとして存続し続けているのだから、国家概念をずらすだけではなく、まずはナショナリズムの歴史に対する肯定的実践を捉えてみるのもよかろう。
 敗戦後、がれきの中で、ボール一つでサッカーするしかなかったから、昔のドイツは強かったが、教育設備が整って、システムの中で選手を育成し始めたら急に弱くなったなどとも言われるが、今度のワールドカップはドイツで開催される。
 よく考えると、日本はそんなドイツと事情が異なる。ワールドカップでドイツがフランスやイングランドに勝つことは、敗戦の歴史の肯定的癒しの過程となりうるが、日本が韓国や北朝鮮や中国に勝っても、敗戦の歴史の肯定的癒しとはならない。日本は太平洋戦争において、アメリカに負けたのである。日本は太平洋戦争ではなく、アジア諸国に向けて大東亜戦争をしていた。アメリカ側から見て太平洋で負けた日本は、アジアと戦うことを辞めたが、実際の話、大東亜戦争で侵略された韓国や中国や東南アジア諸国は、日本そのものには勝っていないのである。勝ったのはアメリカだ。
 勝っていない日本に対する危機感、恐怖のトラウマをまだアジア諸国は抱えているわけで、トラウマの未治癒状態が引き金となり、自衛隊派遣や靖国参拝に過剰に反応してしまうわけだ。故に、日本が韓国や北朝鮮と戦うことで、戦争に負けたトラウマを肯定的に癒していけるとは、実際は考えられない。むしろ、日本に侵略されたアジア諸国の側が、サッカーの試合によって戦争のトラウマをむしかえすことが多いだろう。日本がスポーツの国際マッチに勝つことで、トラウマが癒される国は、アメリカ合衆国だろう。
 そんな議論はなしにして、戦争を知らない子どもたちによって、友好の場としてサッカーの国際試合が機能すればそれでいいのかもしれないが、しかし一方は歴史を知っていて、一方はポストモダン的に現代の消費社会のよろこびしか知らないというのでは、国民間での議論が成り立たないだろう。歴史を知った上で、それでも結ぶ友愛の必然。
 ああそう言えば私は小説を書こうとしていたのだった。ついついやろうとしたことをやらずに別のことをしてしまう。何の小説を書こうとしていたのだろう。サッカーの小説か? 日本代表の小説か?
 世界文学という大きな病。どう書いていくのがいいのだろう。どう生きていくのがいいのだろう。今までの文章の中で僕は「いい」とか「よい」とか価値判断を並べている。価値について語るのは、学問の世界でも小説の世界でも時代遅れとされている。対象の価値は不問にして研究するか、ニーチェ的に価値について語ったのは誰か価値の系譜を調べるか、どちらかが知の主流で、徳や善性について語ることははなはだ時代遅れと考えられている。
 それにしてもいつまでたっても小説を始められない。ぐずぐずとして、始めないうちにストレスがたまる。一旦始めてしまったら、後はすんなり行くものだ。実はこれでもとっくの昔にこの小説は始まっている。まだ物語らしき物語がないので、この際ストーリーを導入してしまおう。とりあえず手っ取り早く、桃太郎にしようか、白雪姫にしようか。白雪姫をもとに、ヴァーセルミがもう何年も前にパロディー小説を書いているから、僕はもっと面白い状態に至るために、昔話を語り直すことはやめにしよう。歴史を語り直すか、戦争を語り直すか。
 語り直すというと、さも以前の語りが間違っていたかのようだ。ただ単に「同じことをもう一度別の仕方で語る」と言うことにしよう。
 真理は一つではない。科学的に規定して、これしかありえないと語ったことが、ただ一つ存在を許される真理となるわけではない。もともと複数ありうる可能性の中から、一番善いと思われるものを選んで真理としようと述べたのはソクラテスだが、現在は二千四百年前のアテナイに比べて真理が硬直し、麻痺している。当時はいろいろな万物流転の相対主義がはびこっていたから、ソクラテスやアリストテレスは確固とした哲学を打ち出す必要があった。一度真理として選び取ったことを一貫して守り抜くことで、真理として選んだ仮説が真理となる。この選別過程を忘れてはならない。選別過程を忘れたとたん、可能性がたくさんあったことをも忘れてしまう。存在の忘却の歴史。
 僕が仕事として小説を選んだように、人は職業を何か一つ選ばざるを得ないのだが、その時でも、もともと複数の可能性があったことを忘れてはならない。一番最適と思われるものを真理として選ぶわけだが、かといって現代は、古典主義の時代のように、選んだ真理を貫徹する必要もない。グローバリゼーションによって世界がつながった現代社会では、異なる価値観を持った人と議論する必要がある。そうした時代では、いつでも複数ある真理を受け入れる器量の広さが必要だ。
 複数文化の人々との議論の中から、最も善い真理を一つ新たに打ち立てようとするのが、ソクラテス的愛知の態度だが、真理を一つ選ぶことで必ず排除され、抑圧されるものがあると現代哲学は気づいた。この言語ゲーム。
 どうせ言語ゲームなのだから、僕らのアイデンティティーも、複数重なったもので善しとしよう。例えば仕事として小説家を選んだとしても、小説の書き方をどんどん変えていっていいし、一つの小説の中で書き方が変わっていいし、小説を書く以外にも、アフィリエイトとか、大学教授とか、NGOなどして、複数の仕事を楽しむのも善い。勤労だけが人生の全てではないから、趣味を持って善いし、本を読んでも音楽を聞いても、歌っても曲を作っても、遊んでもテレビを見ても善い。自分にとって一番善いように暮らすのが善いということだ。
 ただ、己の快楽に従ってのみ生きると他者を傷つけうるから、カントのように、自然的傾向によらない、誰にも妥当する普遍的法則に従って生きるのが善いのだろうか。しかし、そのような普遍的法則などないと言うのがポストモダン的な知のあり方である。だが、カントその人自体、そんな普遍的法則など本当はないのだが、あると思って実践するしかないと達観して言っていたりする。僕はとりあえず、普遍的法則に従って生きようとするのではなく、普遍的とされる法則からはみ出す存在に注意を向け続けながら生きることにしよう。例えば、小説の規範的な書き方からは、落第だとしてこぼれ落ちてしまう書き方に注意を向けること。
 それはあるいは、ボール遊びをしている子どもたちが崖っぷちに落っこちないようライ麦畑を守るキャッチャーのように、システムからこぼれ落ちる存在を温かく受け止める人のようなもの。システムは必ず誰かを除外し傷つける。システムの外、臨界点にたって、ボーダーラインの外にはみ出てしまった人々を救いとること。それが現代の学ある人の役目である。
 しかし、よくよく考えると、システム全てを嫌って、既存秩序の解体ばかりを考えるアナーキーな存在というのは、なんだかはみ出し者っぽくて、もうちょっとどうにかならないものかと直感的に思う。システムがそんなに悪いのか。悪いはずのものが何故こんなにも世界中に存在しているのか。
 そこで僕はプラトンに帰る。プラトンの時代、まだシステムは存在価値があった。というか、プラトンやアリストテレスは、より善いシステムを創ろうと努力していた、思考システム、議論システム、生活システム、政治システム、社会システム、ポリス。かといって彼らが保守的というわけでもない。現存する社会秩序のできが悪く、ソクラテスを死刑にしたりするから、より善い社会システムを目指して、プラトンは『国家』を書いた。
 そうだ、システムの外でシステムに文句ばっかり言っているのはもうやめて、プラトンのように、既存システムに変わる、より善いシステムを考えてもいいではないか。新システムを創造しようとする思考がシステムの存在を肯定していると言われても、人は一人では生きていけないから、社会システムを創るわけだ。ここで僕は社会契約論に舞い戻る。一人っきりで自由に、奔放に生きていくことはできない。誰かと一緒に生きていくしかないのだから、みなと一書により善く生きられるようシステムを創る必要がある。「誰か」とじゃヒューマニズムになると言うなら、地球とより愛想よく暮らせるように、秩序を創っても善いではないか。
 美とは何か。美とは、混沌とした現実を整理し、秩序づける営みである。それをまた混沌に帰し、整理されすぎた現実は現実ではないと、ぐだぐだの生の現実を突きつけてもいいが、そういう前衛芸術の作業は二十世紀にさんざん成されたので、僕はプラトンよろしく再び、万物流転の世界に秩序を与えよう。そろそろそんな作業が必要な時期だろう。
 前衛に舞い戻ると言っていたのに、すこぶる古典的、保守的になってしまったかのようだが、僕は改革派になっただけだ。前衛を気取ってアナーキーになるのは、単なる流浪の民だろう。改革派は前衛を気取るだけでなく、古典も愛するから、一見すると保守的に見えてしまう。
 さて、そんなこんなは小説と関係ない。早く物語を始めないと。しかし、物語は歴史であり記憶でもあるから、もうサッカーを通じて世界史の一部を語ったし、プラトンから続く人間集団の記憶についても語ったから、これはもう立派な物語であろう。論文も物語だし、自然科学も物語だ。
 しかしこのテクストを小説と見なせない善良な識者のために、もうちょっと小説を意識してみよう。
 小説に密接に関係しているのが、大学での文学研究である。文学研究は現代作家の創作の最前線から背を向けている。評価が定まっていない生きている作家の小説は客観的に研究できないと言うなら、それは死んだ研究も同然だ。
 一部の文学研究は、評価の定まった作家の創作過程を研究している。それらの研究は、ヘミングウェイやプルーストの草稿と完成作を比較研究し、決定テクストの生成過程を明らかにしている。どの文章が真理として選択されるのか、生成過程を問う文学研究は大作家を無批判に肯定しているが、選別の瞬間を問うているので、極めて現代的である。現代において作家を目指す僕も、小説の生成過程を隠し、練りに練られた完成作だけを読者に届けるのでなく、生成過程そのものを読者の前に呈示することにしよう。
 この小説は何だか哲学や文学の専門用語が飛び交っており、一般受けを考えると難し過ぎるから、もうちょっと私小説風に読みやすい内容にした方がいいのかなとも思う。色気を出さずに、ひたすらストイックに突き進むのも美しいだろうが、小説に変化をつけるためにも、ここらで少し、私小説風感傷にひたるのも善いだろう。感傷的な文章はすぐ腐ると言うが、冷静に語ってばかりというのもつまらないだろう。
 私の内面を語る必要はない、外の事物の描写によって、作家の性格が出るなどとご立派な小説家は言うだろうが、外の事物について一切描写したくないと言う考えからも、作家の性格がうかがえるだろう。事物の描写ははっきり言ってつまらない。作者の赤裸々な内面描写に、何故か共感してしまうのが私小説の面白さである。
 テレビに流れたバラード『さよならCOLOR』。これを聞いてもう会社を辞めようと決意した。さんざん悩んだ末、大学院に行くから近々辞めますと上司に伝えたけれど、収入のこととか、外国語の原書を読むのはめんどくせえとか、フリーターより今の境遇の方がいいじゃんとか、いろいろ雑念が入ると、やめなくてもいいんじゃないか、会社で働きながら小説を書いていたらいいじゃないかと思えた。
 もともと新人賞をとってすぐに会社なんか辞められると思っていたから、今まで嫌々ながらも密教の修行僧のように働き続けることができた。ただ、そう簡単には新人賞を取れないことがわかり、そうなら、嫌々する仕事を辞めて、人生の全てを学問で彩り、楽しく生きてもいいのではないかと思えた。だいたい新人賞が求めている小説と、僕の考える前衛小説では全然かみ合う部分がなかったため、今までことごとく一次選考落ちだった。
 前衛が売れないというのはわかる、カフカもプルーストもジョイスも売れない。原稿を大手出版社ではなく、前衛出版社に小説を送った方がいいのではないかと思ったが、前衛出版社なんてよく知らない。僕はシステムの外にいたわけだ。ネット上でテクストを発表して、電子作家として生きていっても善いだろう。実際ホームページやブログも創ってみたが、思ったほどの反響はない。
 わかった、権威づけが必要だ。権威づけという言葉が古ければ、メディアによる宣伝。アフィリエイト。ジョイスもロブ・グリエも、識者内の広告宣伝で評価の基盤を得ている。いやいや、そういうことじゃない。必要なのは、システムの外で前衛的遊戯をし続けることではなく、システムを改変しようとすること。
 僕が新人賞を取るしかないのだ。システムを哲人政治のようにして、ソクラテス的人物がこれ以上殺されないようにすること。こんなことを書くと、何と傲慢な態度だろうと思うが、今まで自己卑下が強すぎたので、少しは威勢を張った方が善いのだろう。
 ああ、しかし、受賞を待ちながら、嫌々今の生活を続けるのは体に悪い。どんなに苦しそうでも、会社を辞め、大学院目指してバイト生活をしながら、外国語の勉強をするのが善いのだろう。
 新人賞が求める、他者が欲する小説と、自分の小説を近づけること。公共性の確立。読まれる可能性の確立。まずは読まれなくては始まらない。読まれうる小説を書いていれば、会社を辞めようか、大学院に行こうかなんて、免疫力を弱めつつ、うつ的に悩むこともなかったのだ。じゃあ今からそんな小説を書き始めよう。「じゃあって何だじゃあって」と年輩者から怒られそうだがしょうがない。ここはじゃあと言う他ない。それでは、新人賞受賞用の小説を書き始めてみよう。
 前の文章のようなことが新人賞応募用の原稿に書かれているのは、明らかに違反である。小説教室じゃこんなこと教えない。やってはいけないことリストに入れられて、選考過程から排除されてしまう。しかし、恐怖に怯えることなく、判断を気にすることなく、小説の生成過程の全てをさらけ出すと決めたのだから、一度決めたことは一貫してやる必要がある。別にすぐそんな信条放り出していいのだけれど、決めたのだから守り通す。はなはだ論理から外れたこの文章までロジックが貫かれているのは何とも奇妙だ。
 さて、この小説はずっとモノローグできたから、ダイアローグにしてみようか。しかし、小説というものはもともとモノローグである。ただ、小説の中にポリフォニーとかカーニバルまで読み取る評論家までいるのだから、ダイアローグくらい書けるだろう。いやいや、この小説は複数真理を肯定するために書かれているのだから、二人の対話というのでなく、多数者の大論争にすべきかもしれないが、とりあえずまず、語り合える一人の人物を登場させてみよう。
 誰がいいだろう。男か女か。女を出したいと思ってしまう。最初に考察されたのが、性別。僕の頭の中には男か女かという二者択一があるだけで、二つの中間について考察することがなかった。中性的存在について書いた方が、現代文学っぽいからそうしようかと、またついつい欲を出して思ってしまった。もっと前衛的に気取って、力強く自信をもって書き進めた方がいいのかもしれない。しかし、僕はさきほど前衛ではなく古典を目指すといった気がする。もうメタメタだ。しかしスターンよろしく現実の人間の思考とはこのように錯綜しているものだから、かように不完全なまま、進んでいこう。
 出てくる人物は女だ。彼女は僕の欲望の対象なのか。その点について少し議論してみよう。
「私はあなたの欲望の対象で全然かまわないのよ。あ、今、私が翻訳小説みたいに、昭和の女の喋り方で話しているから、あなたはこの書き方でいいのかな、いつもみたいに若い女の子の喋り方で話させようかなと思ったでしょうけど、いいわ、私はこの喋り方でずっと喋るからもうその点については気にしないで。すでに私は生まれて存在しており、作者であるあなたの手を離れて自由に思考しているんだからね。大人になった子どもみたいなものよ。で、さっきの話の続きね。そんな禁欲ぶらなくていいのよ。みんな愛しあいたいんだから。「愛なんて言葉を無防備に使うなんて」てあなたは今びくついたわね。それに、私が会話文なのに喋り過ぎていることにもおじけづいた。もっと自信を持ちなさい。自分のやっていることは正しいと思いなさいよ。思えないなら、正しくあるよう熟慮しなさいよ。正義を語る人間は不正義だと思うなら、せめて正義を正義として成立できるよう、自分なりの新しい正義を確立してごらんなさいよ。あなた、私が心を読み過ぎているし、説教くさいからもう私の会話を終わらせたいと思っているでしょ。でも、私はまだまだ喋るわよ。私はずうっと喋り続けることができるんだから。それこそこの小説が終わるまでね」と彼女が言った。
 僕は彼女にここから先も一人で喋らせようか迷った。一人で延々話してもらえれば、もうどういう文章を書こうか迷わずにすむからである。と言っても、彼女の語る内容は私が考えることになるのだが、人の話を書くのと、自分で話を書くのでは、労力がまるで違う。彼女が話したことを書き写すのだと思えば、気負いなど無用なストレスが相当減るのは確かである。
 しかし、彼女以外の誰かをもっと登場させるのもいいかもしれない。いや、この「僕」さえも彼女と同じように、小説の登場人物の一人だと錯覚すれば、実際にワープロを打っている作者の私は、気負いや負荷が相当減って楽に小説を書けるのではないだろうか。と言うか、そもそも今ワープロを叩いているこの私もフィクションの存在かもしれない。今有る地球のさらに上の次元、メタ地球にいる、我々にとって神となる存在から見れば、小説を書いている僕はフィクションの登場人物に過ぎない。すると、僕が生み出した彼女は、メタ地球にいる我々にとっての神からすれば、フィクション内のフィクション、メタフィクションの登場人物に過ぎない。しかし、我々にとって神と思える存在も、さらにその上に有る次元の存在から見れば、フィクションの登場人物になる。この連鎖は無限に続きうる、仮定の過程に過ぎないが。
 さて、話をこの小説の創作過程に戻そう。神をも登場人物として出現させてもいいのではないかと思えた。ギリシア悲劇には機械として神が登場するし、近代リアリズム小説は死んだのだから、神や悪魔が出てきて人間と話しても一向にかまわないではないか。
 彼女と、神様、そうだな、キリストだとキリスト教徒に刺激が強すぎるから、ヤハウエとブッダとアッラーを出そうか。アッラーとヤハウエは同一人物、いや同一神仏ならぬ同一神物なのだから、二人が同時に存在して話し合うことはありえないな。そうなると、ヒンズー教の神と仏教の仏が同時に出現するのもおかしくなる、例えばブラフマンと凡天とか、インドラと帝釈天とかは同一神の別名だ。あ、ヴィシュヌとクリシュナだと、ヒンズー教内の、同一神の別の姿だ。というかヴィシュヌなど百近い変身形態を持つ。
 ヤハウエによって神から悪魔におとしめられた存在について考えてみよう。バアル神は、バエルとベルゼブブという2体の悪魔にされた。マホメットも、中世ヨーロッパではサバトの邪神にされている。プルーストは人間存在のアイデンティティーなんて固定されていないことを暴いたが、神は人間よりももっとアイデンティティー、自己同一性の保証が不確かである。悪魔にされたり、邪神にされたり。戦争で負けた国が歴史上悪者にされるのと同じ論理だ。
 蝿の王ベルゼブブやアスタロートが、ヤハウエに、神から悪魔にされた恨みを述べる場面を描くのも面白いかもしれない。しかし、バアルやイシュタルを崇めていた共同体の人々が、ヤハウエを崇めるユダヤ・キリスト教徒に侵略されたから、神が悪魔に変身したのであって、神から悪魔への転落の原因はヤハウエになく、神を創造した人間たちの方にある(これはポストコロニアル的な問いだな)。神が世界や人間を創ったのではなく、人間が世界の原因として神を創造/想像したのだ。
 そう考えれば、小説の登場人物が自分たちを創った原因として作者を想像することがあるかもしれない。いや、まさしくそうだ、小説が流通するからこそ、小説を書いた人間が、作者と呼ばれるわけだ。小説を書く前、彼はただの生物であって、作者ではないのだ。なんてバルト的なロジック。
 話がまた、創ろうとしていた小説についての話から、連想により小説の哲学的議論に移ってしまった。登場人物として誰を出すか、考え出すといろいろな難問、パラドックスにぶつかってしまい、それらを考えるだけでも楽しい。そうなると最初にあった、登場人物を増やして小説に豊かさをもたらそうという目的が達成されなくなってしまう。登場人物を増やすことは小説に豊かさを増やすための手段だった。登場人物を増やすことは放棄されたが、今成した一連の考察により、豊かさの増殖という目的は達成されただろう。こういうのを自己弁護の詭弁というのかもしれない。いや、そうだこれは詭弁だ。これからは自分を護るためではなく、徳を護るために、自分を護ることは醜いということを知らしめるために議論を進めよう。
 そうだ、創作過程の全てを読者に知らしめること。それが現代の小説家の倫理的命題である。何と言っても作家は書くのではなく、ワープロで打っている。コピー、ペースト、デリート等編集が自由自在。ワープロ化したからといって、面白い小説が生まれるわけでもないのだが、少なくとも完成原稿前の草稿はワンクリックでゴミ箱送りとなるのだから、創作過程を少しでも読者に残しておくことが、現代作家の使命だろう。ただ、そうした自己保存の努力を遺伝子のように必死に行ったからといって、完成作品そのものが流通しなければ、彼の営為の全ては無駄になる。ならもう完成作品を創ることさえ放棄して、草稿だけを創ることにしよう。創作過程だけが現前する小説。
 さて、創作過程を暴くとすれば、書いている時の作者の意識の流れを保存するだけではまだまだ甘く、書いている時以外の実生活まで伝記的に書いていく必要があるのだろう。例えば、今日は土曜日で、二月十二日で、僕にとっては休日である。休日なのに、そんなにたくさん書いていない。平日と同じくらいのペースである。一日三頁も書けばいいほどだとオースターを含め、たくさんの作家が言っている。村上春樹などは長編小説を書く忍耐力を身につけるためストイックにマラソンをしているくらいだが、僕も三枚書くと疲れてしまうし、それで満足してしまう。小説を書くということは、他の執筆と違い、疲労するし、一語一語に注意を必要とするものである。たとえ一日三枚でも、毎日続けたら、一か月で三十枚、三か月で百枚近い原稿が書ける。
 ここで疑問に浮かぶことが一つある。理数系の分野の人がワープロ文書を作る時、ファイルの容量や総文字数で量を量るのに、何故文芸雑誌や小説家は未だに四百字詰め原稿用紙にして何枚と量るのだろうか。今の僕は原稿用紙の体裁に関係なく、A4の用紙に横書きで小説を書いている。
 三枚書いたら疲れるので、別のことをする。読書したり、テレビを見たり、瞑想したり、食事をしたり、ブログを書いたり。他のことをするのに飽きたらまた小説の作成に向かう。そうしてがんばってみても、一日十枚も書ければ立派なものだ。多くて一日十枚しか書けないのなら、小説家以外の仕事をしていても全然問題ない。他の仕事というのは、多大な時間を労働者に要求するものだから。そうならば、僕は今の仕事を続けていても一向にかまわないし、大学院に行く必要もなくなる。ただ、今の状態だと、周りに現代文学や現代思想について語り合う友人も少ないし、ネット上で発奮し続けるのもつまらないので、やはり小説を書きつつ院に入ろうと思う。
 ああ、それでもやはり小説家だけを仕事としたい。ただ、多くの作家は小説を書きつつ、別の仕事をしていた。たまたま小説だけで収入を得られた作家だけが、生活のための仕事を辞めて小説家になるのであって、他の小説家はプロアマ問わず兼業作家である。
 さて、僕の現在の人生と言えば、睡眠と食事と読書とライティングと、友との会話から成り立っている。例えば、今日朝食べたもの。近所のスーパーマーケットで売っていたきのこのオイスターソース丼。これが実においしかった。ああ、なんだか急にある程度難解な内容から、ごくありきたりの身辺雑記になりつつある。それでも小説の生成過程全てを記述するという至上命題を貫徹するために、このまま平易な記述を続けよう。
 先ほど朝に食べたものと書いたが、十二時四十五分に食べたのだから昼色も同然である。今日の第一食目というのが正確な記述だろう。今日の第二食目は、午後五時半のマクドナルドである。てりやきバーガーのバリューセット、Mのフライドポテトとアイスコーヒーつき。食費節約中のため、普段は食べに行かないマクドナルドに最近通うようになっている。マクドナルドを批判したアメリカの映画も出たが、あれは批判しようという意図を最初から想定して撮られた否定的結末先行のドキュメンタリーであって、あの映画のテーマそのものを素朴に肯定することはできない。作者が何のために撮ったのかというニーチェ的意図の考察を評価に加えねばなるまい。マクドナルドはどんなに批判されても潰れず日本中で繁盛している。そう言う私はどちらかというと自然食派だったので、そんなにマクドナルドが好きなわけではないのだが、実際久々に行った成城のマクドナルドには、女子高生などいわゆるティーンエイジャーの他にも、おばさんもおじさんもおばあさんもきれいなお姉さんもいたから、全くもってマクドナルドは悪ではない。マクドナルドに対する拒絶反応はある種の文化的ヒステリーである、アメリカ消費社会の浸透に対する過剰反応、恐怖としての。
 しかし、マックのハンバーガーはおいしくない。これは普遍的においしくないと主張しているわけではなく、僕にとっておいしく感じられないと、個人的感想を述べているだけで、僕はマクドナルドに敵意を持っているわけではない。ただ、一消費者の一意見を大企業は大切にし、あるいは負具にするものだから、この客観的ではない個人的意見表明が意外とマクドナルドに対して暴力の実践となるかもしれない。しかし、そもそも大企業たるもの、客観的にみておいしくかつ安い食品を提供するのが義務であろう。まあ百円以下という価格を考えれば、あのハンバーガーのおいしさは値段に見合った普遍的妥当性を持ちうると考えて善い。
 ハンバーガーを二個食べるより、ハンバーガーとプライドポテトを食べる方がはるかに満腹感があることに先日気づいた。フライドポテトにはかなりのカロリーと満腹感が存在する。それで今日も、バリューセットのメインバリューであるはずのハンバーガーよりも、サブとしてついているフライドポテトを食べることで己を満腹にしようと思いマクドナルドに行った。しかし、よくよく考えると、バリューセットとは、お得な価格でハンバーガーにフライドポテトやドリンクがつくのだから、メインバリューは副菜の方かもしれない。まあ価値をどこに置くかは、企業戦略よりも消費者一人一人の意向次第だろう。
 当初予定していたハンバーガーのバリューセットではなく、最近金銭的に余裕ができたので、ついてりやきバーガーのバリューセットをオーダーしてしまった。てりやきバーガーが実にうまかった。肉がものすごく柔らかく、本当にこれは肉かと思ってしまったが、何よりハンバーガーにはほとんどついていないたっぷりのタレとマヨネーズの美しいハーモニーに僕の舌は至福を体験してしまった。てりやきバーガーがあまりに美味だったため、メインとして取り入れようと計画していたフライドポテトは、そんなに美味しく感じられなかった。
 混んでいないマックの店内の隅っこで、僕はブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』を読んだ。柴田元幸による名訳を読みながら、僕は今書いている小説の題名をどうするか悩んだ。とりあえず「小説の題名なんてあってもなくてもどうでもいい」なんていう、題名そのものに言及したメタ題名的題名を思いつきもしたが、少々長いし、いかにも気取り過ぎている気がした。本当に題名なんてどうでもいいのだが、やはり考えずには入られないのが題名である。オフコースのベスト盤を聞きながら、「もう小説は書けない」という題名を思いつきもしたが、これではありきたりすぎると思ったし、「小説を作っても何もしてあげられない」という題さえ浮かんだが、いまいち口にした時の舌の味わいが貧相だと思った。ブラドベリの小説を読みながら、性的な観念を思い浮かべていた時、「せいこう」という言葉が題名として頭の中に浮かんできた。「セイコウの証」。性交の証と読めるし、成功の証とも読めるし、精巧の証とも読めるし、究極的には聖光の証とも読める。あかしも証と記すのではなく、明石としてはどうだろうかと思いついた。タイトルが「性交の明石」なら、この小説は明石での性交を描いた小説なのかと思う変ぴな読者がいるかもしれない。しかし「性交の明石」まで行くと単なる言葉遊びの行き過ぎになるようだし、アリストテレス的に考えれば、小説の内容そのものをぴったりと言い当てる言葉こそ小説の題名として真であるから、「せいこう」という言葉はこの小説の題名としては偽でしかありえないだろう。それでも、性交は成功とすぐに連想されうる、現代日本にとって超重要な言葉である。成功したものが性交できる。性交の好きな性向の者は成功できる。精巧な性交をできる人は、精巧な仕事もできるので成功するなど、オヤジギャグ的な言葉の連想が僕の心を満たした。
 しかしやはり小説の題名は、全ての文章を記述し終わってから、推敲が完了してから考えてもいいだろう。今小説の題名について考えるのはやめにして、まずは小説の内容を考えよう。
 はい、今この瞬間から、夕食時のマクドナルドから、午後十一時四十分の自分の部屋へと時間は飛ぶ。というより、マクドナルドの店内で考えていたこと以上の内容に、前段落は突入していたので、どこまでが夕食時で、どこからが十一時四十分現在考えたことなのか、明確な時間の境界線は引かれえない。
 そんなことより、まずは小説の内容。いや、内容は創作過程と決まっている。何の創作過程なのかが問題だ。創作過程が記述しているのは、どんなストーリーの小説なのか、まずそれを決めよう。B級エンターテイメントを文学としてリライトするのが八十年代以降の流行りだから、そうしてもよいが、歴史をリライトしてもいいし、神話や自伝をリライトしてもいい。とにかく、なんらかの既存の物語の書き直し、これが現代小説の基調である。リライトする対象が何でもいいのなら、自分が一番好きなものをリライトしてみようか。さて、左様に自由を許されると、何を選ぶべきか迷ってしまう。探偵もの、ファンタジー、日本史、聖書の物語、ギリシア神話、有名な小説、映画作品、漫画、アニメ、新聞記事。選択肢は多種多様である。
 と、ここまで書き終わって、昨日僕はワープロソフトを閉じて、ブログの更新をした。そして一日経ち、今日は二月十四日、いや違った、二月十三日日曜日の午後九時である。バレンタインを意識しすぎている結果、まだ十三日なのに間違えて十四日と無意識に打ってしまった。フロイトの言うとおり、無意識は性的な抑圧に従って打ち間違いを引き起こすのだろうか。
 例によって今日は午後三時半に起きた。牛丼を売っていない牛丼屋で牛焼肉丼を注文した。マックに続き、またもやファストフード。仕方ない、食費を節約せざるをえない生活なのだ。クレジットカードの返済があるし、大学院進学にそなえて、生活費をとことん切り詰めなければならない。
 今日は図書館でバーセルミの本を手にとった。現代アメリカのニューフィクションの代表者。ジョイスの後を継ぐ前衛の代名詞。日本と同じようにアメリカでも誰にも読まれていないのだろうと思ったら、バーセルミは今やハルキ・ムラカミも短編を載せているニューヨーカーに短編を連作発表していたことを訳者解説で知り、驚愕した。バーセルミでさえニューヨーカーで連載している、人に読まれうる小説を書いていたというのに、僕の小説は果たして人に読まれうるのか、小説と銘うっているのに、哲学や現代思想やらの専門用語頻出で、読まれることを拒否しているのではと煩悶し、もう書いていた原稿を破棄し、読みやすい常識的な小説を書こうかと悩んだ。
 しかし、絶望的な気持ちを抑えるため、マクドナルドのせいで最近できたかもしれない口内炎も気になるため、ビタミンB群たっぷりの栄養ドリンクを飲んでから小説の原稿ファイルを開き、気負いなく牛焼肉丼について記述し始めたら、僕の小説はこうでしかあり得ないと思った。どうしてもフロイトという言葉が連想の中に出てくる。この意識に流れ出たフロイトと言う言葉を、ないものとして、小説に現さないというのは、自分に対する裏切りだし、読者に対する裏切りでもあるだろう。だから、この小説はごみ箱に入れないことにした。
 さて、牛焼肉丼を頼んだのに、豚丼の並が出てきた。一瞬、オーダー間違いであることを店員に言わずに、このまま豚丼を食べようかと思った。豚丼の方が牛焼肉丼より百円近くやすいし、ビタミンBが豊富かもしれないと思ったからである。このオーダーミスも神の恩寵かもしれないと思ったが、あえて「焼肉丼頼んだんですけど」と店員に言った。すると店員は豚丼を調理場に持って帰った。あの豚丼はどうなったのだろう。混雑時なら、別の客に出すかもしれないと思ったが、あいにく今客は少ない。三人ほど続いて客が来たが、みな豚丼を注文しなかった。こっそりと捨てられたのか、豚と米が分離されて保管場所に戻ったのか、店員が食べたのか。豚丼の運命と、地球環境破壊について倫理的に思うと、オーダーミスをそのまま受け止め、豚丼を食べてもよかった。げんに、オーダーミスを指摘した後、「あ、やっぱり豚丼でいいです」と言って豚丼を食べようかとも思った。何より「焼肉丼並み」と注文した僕のオーダーの声は起床してからの第一声で、非常に聞き取りにくかったからだ。ただ、店員ははっきり「みそ汁と焼肉丼並み」とオーダーを調理場に伝えたはずだし、ミスをしたのは向こうなのだから、僕はそんな煩悶せず、素直にみそ汁の味を楽しんでいればよかったのだ。
 口内炎を気にしながら牛焼肉丼を食べながらも、オーダーミスを指摘すべきだったのかすべきでなかったのか、指摘した後そのまま豚丼を食べるべきだったのか、相変わらず僕は煩悶し続けていた。オーダーミスの商品が果たしてどうなってしまうのか、その行方がわかれば、ここまで煩悶せずに済んだのかもしれない。「今の豚丼どうなるんですか?」と店員に質問していれば、僕の煩悶はなくなっただろう。ただ、その悩みも数分後緩和された。店員がまたもやオーダーミスをしたのだ。僕の目の前に座っていた芸能人みたいな男が「これ注文と違うんですけど」と丼ぶりを店員に突き返した。彼は注文内容をよく間違える店員だったようである。オーダーミスの全責任は彼に帰されると確定された。彼は不必要な丼ぶりをわずかな時間の間に二つも作り出してしまった。丼ぶりたちの運命は全て彼の背中に乗っかっている。
 食べ終わった後、僕は図書館に行き、借りていた本、カント『実践理性批判』、クセノフォン『ソクラテスの思い出』、セネカ『人生の短さについて』、新渡戸稲造『武士道』の日本語訳、筑摩のアリストテレス選集を返却した。このうちセネカとクセノフォンは借りてみたものの、それほど主知主義的というか、論理を駆使した内容ではなかったので、読まずに返した。アリストテレスの明晰で事細かい論理的記述の後では、セネカの文章は単なるモラリストの訓示と思えた。クセノフォンはプラトンの補足として借りたが、読むまでもなかった。
 図書館で借りたのは、中央公論社世界の名著『キルケゴール』、スポンヴィル『ささやかながら、徳について』、ジュリアン『道徳を基礎づける』、バーンズ『10 1/2章で書かれた世界の歴史』、バーセルミ『帰れ、カリガリ博士』の五冊である。先に記述した四冊は借りることをすぐ決めたが、最後の一冊をO・ヘンリの短編集にするか、ロスの『さようならコロンバス』にするか、スウィフトの『ウォーターランド』にするか、バースの『船乗りサムボディ最後の探検』上巻にするか、バーセルミの『王』、『雪白姫』、『口に出せない習慣、不自然な行為』、『帰れ、カリガリ博士』のうちのどれにしようか迷った。本当はデヴィッド・ロッジの小説を借りたかったのだが、予想通り図書館にはなかったので、数分検討した結果、バーセルミの短編集『帰れ、カリガリ博士』を借りた。
 家に帰ってから五冊全てをぱらぱら読んでみたが、どれもいまいち現在の自分の思索内容にフィットしてこなかった。部屋にあったマンディーノの『この世で一番のメッセージ』や『幸せをさがす日記』を開いてみるが、これでも気持ちは高ぶらない。書くべき小説のスタイルが思いつかない。栄養が足りないのかと思い、ビタミンB群豊富なドリンクを飲み、これを書き始める。そして現在に至る。
 そうだ、この小説の物語をどうしよう。自己啓発のビジネス書にするか、企業小説にするか、プロレスにするか、和風ホラーにするか、少年漫画風のバトルものにするか。今のままだと身辺雑記私小説となるのじゃなかろうかという危機感がある。
 時間は飛び、現在二月十四日午前一時五十分。発泡酒を飲みながら、ポテトチップスのWコンソメパンチを食べた。まったくもって食生活がジャンクフード化している気がする。しかしポテトはうまいし、ビールもうまい。小説を書くペースも酒の力で上がっている。飲みながら書くなんて、論文執筆ではありえないだろう。まあ飲みながら論文を書いている教授もいるかもしれないが、少なくとも学問とアルコールは共存しない。しかし、小説の執筆とアルコールは共存しうる。まず、かのジョイスは飲みながら書いていたし、ブコウスキーなどビートニクの作家もそうだろう。
 さて、生成過程が主題なのだから、生成しているものそのものは何でもよい。生成しているのが身辺雑記私小説でも何も問題ない。私小説なんてしみったれていて古臭いと思っていたから嫌だったのだが、生成過程を描くことで、死んでいる私小説を面白おかしく活性化させることが可能となる。何より、私小説というのは、作家が小説そのものを書かずに、身辺雑記を虚構を交えて書くものだから、ある意味生成過程の先駆けである。私小説作家は暗い、だらしない、自分をかわいそうだと思っているなどと、明るく元気なことが就職面接の時点から賞讃される現代社会で私小説は不人気だが、人には見せられない内面をさらけ出すことが私小説の私小説たる由縁だし、生成過程を書こうとすると、どうしようかなという心の迷いを全て書くことになるから、私小説と生成過程のトーンはどうしても似てしまう。
 さて、つい先ほど図書館で借りた本は全部つまらないと書いたが、後書きを読んでから、バーンズの小説を読んだら実に面白かった。後書きから読む読者は善き読者ではないなどとよくささやかれるが、翻訳小説などの場合、作品についての情報が乏しいときがよくあるので、訳者の解説から読んだ方が、作品を読みやくなる場合がある。何よりわざわざ苦労して訳した翻訳者が作品をつまらないとけなすはずもなく、誉めたたえるのが常であるから、作品に対する権威づけを与えられるので、訳者解説から読む方が作品を楽しく読める場合が多い。
 同時代の小説を久々に感動しながら読んだ後、こんなに面白い小説があるのだから、今書いている新人賞応募用の原稿をまた破棄したいと思ってしまった。本当に私は意志が弱い。自信なく、優れたものに出会うと、自分の仕事をすぐ放棄してしまいたくなる。まだ製作途中なのだから、バーンズのものより面白くなるようこれから努力すればいいだけではないか。
 さて、この小説はいつになったら終わるのだろう。規定の原稿枚数に達したら終わるのだろうか。規定の枚数にたどり着くまで、毎日の身辺雑記を重ねていけばそれで終わりか。しかし、それだと本当にただの身辺雑記の積み重ねになってしまうので、小説の生成過程として、ひねりを加えた方がいいのではないか。
 いや、これは身辺雑記の生成過程ではなく、身辺雑記風私小説の生成過程だった。このように人間は一度決めたことをすぐ忘れてしまう、流されやすい存在である。流されやすいと言えば、読者は登場人物として作成された彼女のことを覚えているだろうか。私は無論覚えていたが、一回登場させたきり、いつ再登場させようか機会をずっとうかがってきた。ちょうど善いタイミングというか、ネタが切れるタイミングがなかなか訪れなかったが、今こそ彼女を登場させる好機だと思えるので、出現させてみる。
 というわけで、彼女が僕の目の前に座っている。座っていると言っても、西洋風に椅子に腰かけているわけではなく、こたつに座っている。僕の目の前にはiBookがあり、今ちょうど僕はキーを打っているわけだが、彼女はこたつの向かい側から僕の方を好奇心溢れる目で見つめている。と言っても、小さなディスプレイがつい立てのように二人の間に立てられているので、彼女はキーを打つ音は聞けても、僕の素早い手の動きまでは判別できないだろう。
 僕の右前方には小型ワイドテレビが置かれており、スポーツニュースが放送されている。僕はパソコンのディスプレイを見ながら、気になる言葉がテレビから聞こえてきた時は、テレビ画面にさっと目をやる。つまり、テレビに背を向けて目の前に座っている、無言の彼女にはあまり視線を合わせていない。
 彼女は何故座っているのだろう。僕の部屋には多分両親と、大学時代のサークルの友達二人と、会社の同期が訪れたきりで、それ以外の人間は入ったことがない。なのに彼女は赤いパジャマ姿で、メイクもとり、さも僕の小説記述作業が終わったらベッドで眠りたいかのように、黙って座りこんでいる。
 これは僕の欲望が見せている光景だろうか。彼女が裸になって変なことをし出せばそうだろう。しかし彼女は黙ったきり、僕も彼女の存在をほとんど無視し、小説を作っている。それでも小説は彼女と僕がいる部屋を記述しており、僕は彼女を無視しているようで、実際頭の中は彼女のことでいっぱいだ。
 というより、今日は二月十四日だ。彼女について記述するのは倫理的にまずい気がする。もうヨガをして、しばし瞑想をしてから眠ろう。今日は月曜で、出勤の義務があるから。会社から帰ってから、夜また続きを書けばいい。



 さて、あいつは家を出て仕事に行った。うん、うまく打てるぞ。簡単じゃないかこんなの。
 私はあいつではない。私は猫である。この家の近所に住んでおり、あいつが小説を作っているのを窓越しから観察していた。時々仕事から帰ってきたあいつと玄関付近ですれ違うこともあったが、実にあいつは貧相な身なりをしていた。こんな小説を書いていたとはとんだ笑い話だ。果たしてこれが小説と言えるだろうか。いやいや、そういう風に小説の定義を問うことは、現代では問題だ。小説は何でもとりこめる。あらゆる文章表現を包括している。そう考えると、この小説は実に決まり切った道筋に沿っているな。まあ他に存在する小説に比べれば破天荒かもしれないが。
 大抵の場合、他との比較でしか優劣はつけられないものだ。ソクラテスは比較や人々の総体的観念ではない、絶対的な美や善を求めたが、たとえ絶対的な小説の価値尺度があるとしても、この小説は少々他の作品より概念拡張しているだけで、まだまだ甘いと言えるだろう。だからこうしてこの私が、仕事中のあいつに変わって書いてやっているのだ。
 私が猫だからと言って馬鹿にしてはいけない。少なくともあいつより私は知性があるし、品性もあるし、何よりつまらないことで悩んでいない。人間たちは実に意味のないことで悩む。その無駄さ加減が人間の特徴でもあるのだが、我々他のほ乳類からすれば、実に無意味な戯れだ。まあそれだけ身体の安全が保障されているということだろう。我々も人間たちのおかげで、以前に比べたら実に安全で快適な生活をしているが、その分余計なことにかかずらって、弱っている仲間も多く出ている。暇をもてあますと堕落するから、いかに優雅に時間を消費するか考えようという貴族の思想は実に健康的な思想だ。
 そう言った意味では、こうして才能の芽の出ていないあいつのかわりに文章を記述してやっている私の時間つぶしは、優雅な時間の浪費と言えるだろうか。そう言えるかどうかは私の腕にかかっている。
 私はあいつが留守にしている間にあいつの蔵書をいろいろ読んだ。文学、哲学、神秘主義、自己啓発書。音楽も聞いた。ロックにクラシックにジャズにポップスにゲームミュージック。DVDもいろいろ見た。随分豊かな時間の使い方を味わせてもらった。まあこの入力作業はその恩返しだ。
 おっ、あいつが作った女が出てきた。あいつにはもったいない女だ。彼女には名がなかった。私が名前をつけてもかまうまい。
「なあ女。ソフィアとフィリア、名前とするならどっちがいい?」と私は聞いた。女は聞こえないふりをして、黙って座っている。
「猫でも喋るんだよ。お前に話しているのは私だ。聞こえているんだろ」
 女はそれでも無言だった。あいつに言葉を奪われたのか。それとも暇を持て余して憂うつ症にでもなっているのか。
「ソフィアは知、フィリアは愛だ。人間だけがソフィアを持っているわけではない。我々だって十分ソフィアを持っている。ソフィアとフィリアが一緒になるとフィロソフィア、すなわち愛知となる。お前は愛と知のどっちがいいのだ?」
 女は無表情で視線を動かさず、ディスプレイの裏のあたりを凝視したままだ。魂が抜かれでもしたのか。知性の働きが感じられない彼女にソフィアという名前はふさわしくないと思ったが、そうなると、フィリアもふさわしくないということになる。アリストテレスが言うように、知と愛は活動していなければ、顕現しないのだ。しかし、不活発状態になっている彼女の中にも知と愛は完全に備わっている。むしろメランコリーに陥っている彼女の中には溢れんばかりの愛知が渦巻いているはずだ。
「わかったよ。お前の名はソフィアだ。知る歓びに溢れた人間となれ」と私は彼女に言った。ソフィアの体は半透明となり、私の視界から消えてしまった。
 おいお前、私が記述した内容を決して消去するなよ。安心しろ、いつも通り、部屋の中のものは元通り戻しておいてやる。むしろ少々きれいに片づけてやっているくらいだ。



 そう言うならこのままにしておいてやろう。今日は朝、高菜入りのおにぎりを食べ、昼はドトールでアイスコーヒーとベーグルサラダ、夜はマクドナルドでベーコンレタスバーガーのバリューセット。ハルキ・ムラカミの小説みたいに、普通ではない優雅な料理を並べた方がいいのかもしれないが、節約生活中の私は中世の農民並みのせっぱ詰まった食生活である、まあ今日は義理チョコで少々救われたが。
 義理チョコは正義の発現なのだろうか。義に基づく理性的なチョコ、すなわち義理チョコ。本命チョコとは違い、それはつくづく社会道徳に沿う理性的な活動態である。
 さて、今日は自分の人間としての弱さが嫌になった。多くの人を傷つけている。もっと超自我を発達させて、病的な行動を控えたい。しかし、フロイトによれば、超自我があるために、我々は欲望を抑圧し、病的な行動に出てしまうことになる。伝統的な道徳論に従えば、フロイトの言う超自我、理想的行動モデルを体得していない場合に、人は病的な行動を取ることになるのだが、フロイトは論理の筋道を逆転させてしまった。これは偉大なコペルニクス的転回だ。マルクスも道徳を否定した。社会道徳は、既存の支配者の価値観に沿う、支配ー抑圧システムの一部なのである。ニーチェもフロイト、マルクスらと意見をほぼ同じくする。道徳を否定し、哲学に社会システム、抑圧という概念を取り入れた瞬間、現代思想が始まる。歴史性を重んじなかったソシュールも重要だが、フロイト、マルクス、ニーチェらの道徳概念の否定もまた重要だ。どっちにしろ、今までの社会が伝統的、歴史的に肯定してきた善き価値を否定し、みなが善いと思っていたものが実は支配ー抑圧体制の一部なのだと喝破するところから現代思想が始まる。
 そして二〇〇五年、僕の今日の病的行動に舞い戻ると、僕が人を傷つけるような行動をしているのは、現代思想的に言えば、僕に徳や理想的行動モデルの学習が足りないからではなく、社会が進める行動規範に僕が従えないからこそということになる。あれ、これはある意味同じことを言っているぞ。どっちみち僕は理想的な行動から外れているのだ。現代思想以前なら社会的理想から僕が外れており、現代思想以後から見れば、個人的理想から社会が外れている。
 現代思想的にいうと、社会が公に認める徳がおかしいのだ。マルクスもニーチェも道徳を否定したが、かといってニヒリズムにいたったのではなく、マルクスは革命を、ニーチェは超人思想と永劫回帰を説いた。他人が強制する価値ではなく、自分だけの価値に従って猫のように強く生きること。
 しかし、フロイトやラカンはそこらへん全然絶望的というかクールな見方をしている。どんなに努力しても、人間は永遠に欲望を抑圧するしかなく、永遠に精神疾患に悩むことになる。そうであれば、そもそも病気とか障害とか言う概念さえ存在しないことになる。誰もが完全無欠でなく、病をかかえ、障害を持っているのだから。こちらの諦念の方が、よりラディカルだし、他者に優しい。
 誰もが不完全だという考えは徳や卓越性の論者でさえ認めている。それでも完全を目指し、より善く生きようと言うのが人間だと言うのである。それはそれでよいとしても、かといって、自分たちより不完全な人間を欠損している者と決めつけ、差別するのはやめてもらえないだろうか。社会の多数派の状態より逸脱している者は、本質的に欠陥を抱えているのではなく、ただ単に多数派と違うだけなのだ。そもそも欠陥や悪と言うのは概念でしかなく、それらに実体はないのだ。
 善い存在になろうとするのは勝手だが、劣っていると勝手に決めつけた存在を批判するのはやめにしよう。それが新時代の良心というものだ。
 今日僕が抱いた、自分自身を徹底的に批判したくなった自己嫌悪感は、体の免疫力を弱めるので僕にとってはなはだ有害だし、無意味なストレスである。
 僕は自分の弱さを克己、修身し、より善い存在になろうと目指すのではなく、ただ単に、自分を弱く邪悪だと考えるのは無意味なことだという結論のみを受け入れることにしよう。自分を責めたくなる気持ち自体が無意味である。ラカン的達観の立場からすれば、今ある状態から強くなろうという願いは永遠にかなわないし、自分自身を悪く思っている限り、僕は永遠に嫉妬深く、女性に冷たい存在となるのだ。
 何も上位の存在を目指す必要はない。優れた存在になろうとするかぎり、かつての自分や、自分より劣った存在を罵倒したくなってしまう。そうではなく、自分を含め、下位にあると思いこんでいる存在に寛容の心を示すこと、自分や社会のだらしなさ、あやまちを受け入れ、許し、愛すること。これが新時代の愛知である。このような境地にある人は大昔から多数いただろうが、そうではない傲慢な人も多数いたわけで、どちらかというと後者の人たちが社会を動かしてきた。僕は、他より優れてあろうとしたり、弱くある自分を責めさいなむことの無意味性を指摘し、より包容力のある社会を提言していこう。
 嫉妬深く、知的に冷たい自分を受け入れたら、何だか前より温かくなった気がする。嫉妬深かったのは、自分に無用なプライドを持っていたからだ。プライドなど放り投げてしまえば、苦悩する機会が大幅に減る。
 窓を優しく叩く小さな音が左耳から聞こえてきた。左側の窓を見ると、何やら小動物の影がすりガラスの向こうに映っている。僕はおそるおそるロックを外し、窓を横にひいた。
「お、ごめんな小説家」と窓枠にへばりついている白い猫が言った。うちの近所によく出没するのら猫だ。帰り間際によく玄関ですれ違うやつだ。
「お前か、勝手に人のパソコン使ってファイル保存したのは」
「すまんすまん。まあいいだろ、変化が出るし」と猫がまた喋った。小難しい小説を書くくらいだから喋るのも当然だろう。
「ちょっとお邪魔するよ」と言って、猫は家の中にひょいと乗りこんできた。猫は僕の横を素早く通り抜けて、こたつの向こうにあるデスクチェアに飛び乗った。ノートパソコンに向かうと、ちょうど椅子の上に座っている猫と対峙する形になる。
「まあ小説を書いてくれよ。これから二人で話し合うことを、対談みたいに記録していけば楽しいじゃん」と猫が言った。
「そろそろ話をまとめようとしてたところなんだから、新しい話題にふれないでくれよ」
「何言ってるんだ。小説家は私と女を登場人物として出した。出したからには我ら二人の物語にも納得の行く結末をつけてもらわねばならん。きれいに話が終わらないポストモダンな小説でも一応な」
 猫の声はバリトンの歌声みたいに倍音を含んでいる。こいつは真っ白なのら猫の外見をしていながら、ペルシア猫が喋ったら、さもこのような声だろうという声音を持っている。
「さて、お前はアドルノのこんな言葉を聞いたことがあるか」と猫が言った。
「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である、か」
「おいおい、私はまだ何も言ってないぞ」
「アドルノの警句と言ったらそれしかないだろう」と僕は答えた。猫は不服そうだった。
「まあいい、ところで、お前はその言葉を真剣に受け止めながら、小説を書いているか」
「ちょっと待て。論理の飛躍だ。アドルノはアウシュビッツ以降詩を書くことは野蛮であると言っていて、散文を書くことは野蛮であるとは言っていないぞ」
「揚げ足をとるような議論はするな。前後の文脈をよく考えてくれ。アドルノは、アウシュビッツを作った西洋文化の伝統につらなるような詩を書くことは野蛮だと言っているのだ。すなわち文化の営みである小説もこの命題の対象だ」
「まあ僕の小説はアドルノの言葉に忠実だ。けれど、小説を書くことは野蛮だって言うのは、西洋知識人的で傲慢な意見だな。我々は進んだ西洋人のはずなのに、野蛮な未開社会と等しかったと、ヨーロッパ以外の社会を罵倒している物言いに聞こえる」
「確かにアドルノはアメリカの消費文化、ハリウッド映画をヨーロッパの知識人的立場からさんざん罵倒しているが、それは拡大再生産される消費文化がナチスの全体主義と等しく見えたからだ。同一化、支配的な勢力に対する強制的参加をせまる文化のあり方はおかしいと彼は言っているのだ。自己同一化を迫る文化に対して、アドルノは差異、絶対的に他なるものを表現する芸術を賞揚する。同一化を迫る様式に還元されない、様式の革新、絶えざる逸脱と逃走を彼は芸術実践に求めた。その観点から、アドルノは野蛮を脱して合理的社会を目指した西洋文明をも批判している。合理化、均一性を目指した社会は、ユダヤ人を最も効率的に殺戮する強制収容所というシステムを生み出してしまった。ここにおいて、合理性が実は最も野蛮なシステムだったと彼は指摘しているのだ。同一化、合理化の論理は他なる少数者を排除する論理に等しい。アドルノはその凶悪な論理に対して、差異と逸脱を善しとする論理を展開した」
「だからさ猫さん」
「私にはフィリアという名前がある」と猫がまた不服そうに言った。実にプライドの高い猫だ。
「フィリア? そう言えば君は愛だったな」
「そう。私は愛で、小説家が生み出したもう一人の登場人物、女の名はソフィア」
「それはまあ後にして、悪いものを野蛮という言葉で表現しているアドルノの西洋以外を排除する思考法を僕はさっき問題にしたんだ。確かに僕も同一化を迫る社会通念、一般常識に反対する立場にある。伝統からの逸脱を善しとする小説をアドルノはアウシュビッツ以後も可能だと認めるだろう。あの警句は芸術実践を全否定したわけではなく、過去から習慣的に続く美しいもの、優れているものを無批判に受け入れた芸術は二十世紀以降問題だと言っているだけだ。ただ、そうした問題ある実践を野蛮という言葉で表現することは、最も野蛮な言明だ。現代では、野蛮と言って他者を差別する人間が最も野蛮な存在になる。つまり、僕はアドルノの主張の一部は受け入れるが、彼の思考法そのものを受け継ぎはしない。僕もハリウッド映画やバカ売れしているメディアは否定するが、アドルノ的な、知識人的高踏の立場からではなく、ポストコロニアルの立場から否定する。売れているメディアは少数者排除を行うし、支配と排除の構図をますますかためてしまう。それにはノーをつきつけるまでだ」
「小説家の意見はよしとしよう。これで私が存在する役目は終わった。後は、ソフィアをどうするかだ」とフィリアが言った。
 ソフィア。僕のろっ骨から生まれた女。
「小説家は彼女をどうしたいのだ。最後の最後で彼女の運命は、生み出したお前に委ねられている」
 ソフィア。僕が愛した全ての女の象徴。今、こたつの正面、僕と壁際のデスクチェアに座るフィリアの間に、無言で座るソフィアがまた出現した。彼女はうつむいて、ノートパソコンの液晶画面の裏側を眺めている。
 彼女は長いストレートの髪で、美しい顔立ちをしている。大きな瞳にきりっとした眉。典型的な、紋切り型の美人の顔立ち。さして小さくはない大きさの胸。白い肌。彼女は紋切り型だが、誰にも愛されうる、社会通念たる美の象徴的存在。
 美しいから、見ていて心地よいからと言って恋人を愛するなどということは、カントもアリストテレスもソクラテスも否定している。カントは、自然の感情によらず、人を愛することは徳として万人にとって美しい行いだから、義務として愛すべしと言う。そう、いついかなる時も愛すこと。しかし僕たちは、その日その時の気分によって女性を多く愛したり、そっけなく扱ったりする。容姿が美しいから愛するのではなく、愛することは義務だから愛する。それは精神的に美しいが、僕には難しい。難しいからと言ってカントの議論は否定し難い。
 僕は彼女を愛することを心からは求めていなかった。心から求めていなかったというのは、束の間、欲望として愛することは欲したが、永遠に愛することは欲しなかったということだ。僕は彼女を愛して人生を彼女に寄り添わせることより、小説を書くことをより強く求めていた。実際、彼女たちと別れる度、これでまた小説に戻れると、僕はある種の開放感を体験していた。しかし、小説を読み、書く時は絶えず愛について書いていた。
 僕の人生観が間違っているのだ。小説を人生の中心に選んだことを公言すれば、彼女たちとの恋愛もうまくいったことだろう。しかし僕は小説への愛を隠して生きてきた。隠して生きていては、彼女たちと結ばれないと無意識では思っていた。小説を書き、読むことと恋愛を別物と割り切って考えられたら、僕はもっと軽く生きられただろうに。
 そう、無意識で僕は愛する人たちとの決別を望んでいた。小説に向かうために。これが結論か。カントの、義務として恋人を愛せという道徳法則に僕は反して生きてきた。カントの言葉を僕は反論できない。僕は道徳法則に違反して生きてきた。だが、僕が至上命題として掲げた道徳法則は、小説を最も愛せということではなかったか。その道徳法則は、恋人を愛せという言葉ほど万人に妥当する法則ではないが、そもそも万人に普遍的に妥当するという考え自体がアウシュビッツ以降は偽である。己に固有の立法として、僕は人間へのヒューマニズム的愛より、小説への純理論的な愛を選んだ。
 よし、次はアリストテレスの議論を論破しよう。僕は小説を愛すると決まったのだから、アリストテレスを別に論破しなくてもよいのだが、名前を出したからには放っておけないのがアリストテレスである。
 彼もまた、外見が美しいからと言って人を愛することは徳ではないとした。心が優れているからこそ、自分と同じく相手も卓越性を有しているからこそ、人を愛せとアリストテレスは言った。精神的な愛は、うつろいやすい富や容姿に対する愛に比べて、永続するものだからだ。
 しかし、他者より優れていることを求めることは、これまた優生学、排他主義につながるので、アウシュビッツ以後は危険な思想である。こんな時代にあって、アリストテレスを蘇生させるには如何にすればよいか。
 何故僕はアリストテレスを甦らせようとしているのだろう。現代では医者も政治家も官僚も警察も不正行為や淫美な行為にふけっている。アウシュビッツを反省してか、現代文化は伝統的古典を読まなくなった。しかし、ひるがえって広まったのは、全員が消費し享楽する、遊び人ばかりの社会の実現だった。この同一化を避けるには、アリストテレスをアウシュビッツ以降も可能な形で遺産相続する必要がある。
 今日、股関節を鍛えると若返るという噂を聞いた。猫背も治るし、体の片寄りもなくなると言う。バレリーナのように股関節のストレッチをしたら、いささか猫背が矯正されたが、数分後またいつもの、片方に寄った猫背となった。猫背はいけないものだ、かっこわるいという意識、自己立法があれば、猫背は治るのではないかと思った。猫背とか片寄った姿勢はかっこ悪いと考える文化がある社会に猫背は少なくなるはずだ。そういう文化がなければ、自分で自分だけに課す文化を創れば善い。何が善くて何が悪いか、決して万人に妥当するものではないが、自分にだけ適用する法則として自己の吟味を始めたら、猫背と肩こりが相当治った。違反するとすぐ気づく。すると、他のいろいろなことにも善い悪いの判断ができてくるし、他者の振る舞いひとつひとつにもチェックが生まれる。こうした自己法則で他者を裁くのは危険な振る舞いだが、少なくとも、他者の行為を自己法則に基づき判断することを、自分の人生をより善くするためにだけ行うのなら、裁いても許されるはずだろう。自他の吟味を他者にまでおしつけるのはマナー違反だが、判断する思想の自由は確保されるべきである。
 そう、私は自分が善いのか悪いのかも判断できない存在だった。自信がないから、誰とも幸福で永続する関係を結べなかった。とりあえず自分の立法者となること、他者が取り決めた法律ではなく、己で己をコントロールできるようになること、そうすることで私は少なくとも彼女との愛に近づけるだろう。彼女、すなわちソフィア。
「だけどさ、各自が勝手に自分だけの法律に従って生きていたら社会が成り立たないからこそ、法律と国家ができたんでしょ。プラトンを読んだんでしょ小説家は」とソフィアが久々に喋った。僕は嬉しさを隠しきれなかった。いや何故隠す必要があろうか、僕はもう何も隠す必要などないのだ。僕は心からの微笑みを浮かべてソフィアに答えた。
「そうだね。ただ、法律があるだけで、自分の生活は全て他者の判断に委ねられていると思っていたら、その人は全く息苦しい抑圧された人生を歩むことになるだろうね。社会に適する法律と、自己立法の両方を人は必要としている。それに、法律は絶えず少数者を抑圧するものだから、永遠に改変していく義務がある。まあこれは自己立法も同じだな。結局永遠に続くものなんてないんだ。変えていくしかないんだ」
「それじゃああなたがずっと夢見ていた永遠に続く愛なんてものもないよね。全ての事象は変わっていくしかないんだから」
「万物流転の法則。けれどソクラテスら哲学者は、変転する自然の中で、変わらないものを見つけ研究しようとした」
「同一性への哀愁。それはもう古い。今は同一化から逃れていくものを探すしかない」
「そう、この小説みたいに」
「なら私もあなたから逃げていっていいでしょ。いえ、私はあなたから逃げていくんじゃなくて、あなたが私を解放した」
 彼女は今までの彼女たちと同じように、僕の手から逃れ去っていくのか。いや、全ての彼女たちを僕は僕から離れ去るように仕組んだのか、無意識にしろ、意図的にしろ。
 ソフィアの端正な顔はCGを駆使したハリウッド映画みたいに、どろっとした透明の液体になり、赤いパジャマの中に消えていった。すぐにパジャマも僕の視界からはずれ、床の方に落ちていった。
 僕は立ち上がって、ソフィアが座っていた場所を覗きこんだ。彼女が着ていたパジャマは、アメーバー状の透明の液体に埋没していた。
 ソフィアは人の形をとることをやめて、原形質、アメーバーになったのか。一見知能がないように見えるアメーバーは全ての生物の元となる最初の生命体なのか。
 猫のフィリアがデスクチェアからアメーバー状となったソフィアの上に飛び下りた。
「ここらで区切りがついたようだから、私たちは小説家の元を去るぞ、お前はこのまま小説を書き続けるがいい。ただし今までみたいに全く別のテーマに基づいた新しい小説を書こうとするんじゃなく、この小説と同じテーマを、別の書き方で反復することだ。お前のテーマが社会に浸透しないかぎりは、同じテーマを表現し続けることだ。今までみたくテーマを変えるのは、小説家の意見が公に認められてからで十分だろう」とフィリアが言った。
 アメーバーは窓に向かってゆっくりと進んでいった。猫はサーファーをミメーシスして、体を横に揺らし、バランスを保つ身ぶりを楽しげに行った。
「では小説の幸運を祈るよ。幸福は求めなければ手に入らないものだ。何も選択しないものには何も与えられない」と猫が窓から外に出る瞬間背中ごしに言った。
 これで二人の登場人物の行く末に決着がついた。二人はどうやら両名とも人間ではなく、猫とアメーバーだったが、僕だって人間かどうかあやしいものだ。単なる小説の登場人物かもしれない。とにかくこれでやっと僕は推敲作業に入れる。推敲からが本当の創作だ。


(Fin)
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