小説『食生活の哲学』
最終更新日:2008年2月20日
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カフェインと肉を進んで摂取するのはやめにしようと思い立った初日。朝はコーヒーショップによる。いつもならレタスドッグとアイスカフェラテを頼むところだが、今日はトーストとアイス豆乳ラテを頼む。トーストにはバターをつけないし、豆乳ラテに入れるシロップも控えめにする。
昼食は上天丼と冷奴。油っぽいのが気になる。食後同僚とカフェによる。いつもならアイスカフェラテを頼むところだが、乳製品もカフェインも避けたいので、アイスティーを頼み、レモンを入れて飲む。
仕事中アイスのブラックコーヒーのペットボトルをもらうが、鞄にしまい、飲まずに済ます。
夕方はエビシーフードのサンドイッチとアイスハーブティー。砂糖は入れない。いつもならここでもアイスカフェラテを頼むところだ。
以前の自分なら今日は朝食、昼食、差し入れ、夜食で四回もコーヒー飲料を飲むところだった。結局コーヒーの摂取は一回で済ますことができた。肉も食べずに済んだし、砂糖の摂取も少なく済ませた。
体は前日ヨガをたっぷりしたせいか、すこぶる好調。精神状態も安定している。朝は仕事が快調。周囲の様子を客観的に観察しつつ、オフィスの静寂に耳をすます余裕もある。
昼過ぎから案件がたまりすぎの状態になる。以前なら依頼が重なりすぎた場合、いらいらしてきて、肩と眼が痛くなって、眠くなってきて、関節の節々も痛くなるのだが、今日は心に余裕があった。夜になっても関節のところどころが痛いだけで、疲れはそれほどない。何よりずっと重かった頭が軽いし、気分が前向きだ。食を変えたおかげで、体の中の化学物質が澄んできたのだろう。
2
ホリスティック・プログラム導入二日目。朝はファストフードの店に入り、サラダとアイスピーチティーを頼む。サラダのドレッシングとガーリックマヨネーズさえ油っぽく感じるようになっている。昼は仕出し弁当。おかずの肉を食べるだけで、体に悪いことをしている気持ちになってくる。同時に肉にも何か申し訳ないことをしている気持ちになる。最初は肉を食べるだけで悪いことをしていると感じることは、調理された肉、というか殺された鳥を侮蔑することになるのではないかと思ったが、よく考えれば、食べるために殺してしまって申し訳ありませんという感謝の気持ちに転じる。気づけば、こんなに一口一口ゆっくりと肉をかみしめるのは久々だ。食べられるために生きて、殺された動物に申し訳ないと思いながら肉を食べる。食物にわびて、感謝する。これもホリスティックプログラムの成果かもしれない。
夜はイタリアン。以前なら牛肉のデミグラスソースを頼んでいるところだが、今日はツナとトウガラシのトマトソースを注文する。少し油っぽいと感じる。仕事中ものすごく疲労していたので、コンビニで野菜ジュースとオレンジジュースを買う。今日は結局コーヒーを飲まずに済ますことができた。ただ、野菜ジュースを飲んでも眼と体の疲労はとれなかった。雑事がたまりすぎているせいだ。心が圧迫されている。食事を制限しても仕事の疲れまではなかなかとれないようだ。
夜は眠たいため、テレビを見ながらすぐに眠る。
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ホリスティック・プログラム三日目。前日久々に午前零時前後から眠ったおかげか、午前中から体が軽い。仕事が終わって家に帰るのが二十三時前後の生活が続いたせいか、夜眠るのも午前一時半頃となっていた。睡眠と休息が必要だ。
朝はコーヒーショップにより、ハム野菜サンドとアイス豆乳ラテを飲む。ハム野菜サンドに入っているドレッシングにも油っぽさを感じる。病的な潔癖症になっているのではないかという反発が起きてくるが、ここは昔に戻らないよう自己を制御する必要がある。
昨日やたら疲れたのは、心が弱かったせいだと思い、コーチングの薄い本を読む。食事だけではだめだ。メンタルも鍛えないと。
昼はまた会社の仕出し弁当。ここでも肉が入っている。油のたっぷりのったフライは避ける。飲み物は野菜ジュースと麦茶。コーヒーは飲まない。
夜は昨日と同じくパスタ。今日は牛肉のデミグラスソースを頼む。これは妥協だ。ぺペロンチーノにすればよかったと後悔しながら油の強そうなデミグラスソースを食べる。牛肉を食べる時は自然と口がゆっくりした動きになる。硬いからだろう。今まで早く食べ過ぎていた。
午前中は快調だったが、午後は怒りの電話をもらい、心が乱れたし、仕事も遅くなった。他の人の怒りや愚痴に触れても、自分の気分は乱さないよう制御力を高める必要がある。不動の強く柔らかな心が必要だ。
食生活を変えて、主だった成果はまだ実感できない。関節の痛みはおさまってきたように思う。以前は自分の部屋のドアノブに触れただけで、手のひらに強い感触が残った。冷蔵庫を開けようとしてもそうだった。身体的、精神的疲労が蓄積しすぎて、軽いリウマチの症状が出ていたのだと思うが、今日は感覚が弱まった。後は姿勢をしっかりして、首と肩の緊張をもっととりたい。
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ホリスティック・プログラム四日目。今朝は目覚めが不調。朝はちゃんと指示通り入浴したい。仕事があると思うと起きるのが辛いし、起きていても体がひどく重たい。おきて楽しい自分にならないと。
昨日気づいたけれど、三日間の記録とも、ネガティブなことを書き連ねている。例えば、油をとりすぎたとか、肉を食べてしまったとか、コーヒーを飲んでしまったとか。自分の心の中に、あれをやってしまったという言葉が多すぎる。もっと生活のポジティブな面に眼を向けたい。
朝食はコーヒーショップでミックスサンドとアイス豆乳ラテ。コーヒーは今日も一日これだけ。以前はコーヒーを飲んだ後すぐ体がだるくなって疲れるのに、コーヒーを飲み続けていた。カフェインを摂取しすぎていたのだろう。今は体が軽い。
昼食は仕出し弁当。野菜だけでも食べることができた。昼休みに足のつぼを叩いたら体がずいぶん軽くなった。明日からも昼休みは昼寝せず、足つぼを叩くことにする。夜は忙しくて食事を取る機会を持てず、家に帰ってから、十一時頃そうめんを食べた。
最近怒ってくれる人がめっきり減った。怒ってくれる存在は貴重だ。こちらの振る舞いに何か非があるから怒るのだ。ちょっとでも余計なことがあったり、何かが足りなかったりするから怒られる。それだけだ。自分を成長させるよい機会だ。何故怒られなくちゃならないんだといって、こちらも怒っていては人間的成長がない。何故なのかきちんと理由を考えて、自己をこころみること。
こうしてホリスティック・プログラムを続けていると、小説を書く気が起きてこない。小説はどうも心を否定的にする。批判的にする。今僕の心は一般的に考えられている小説的な世界観とは違う世界で生きてみたいと思っている。
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ホリスティックプログラム五日目。朝食はハム野菜サンドとアイス豆乳ラテ。朝は体が重い。明日は朝に入浴することにする。昼は仕出し弁当。夜は納豆と海藻を入れた蕎麦とポテトサラダを食べる。
プログラムを実施してから、お金の消費が少なくなった。カフェによってコーヒーを飲むこともなくなった。外食する機会も減った。読み終わっていない本がたくさんあるのに、本を買いこむこともなくなった。本屋に行くといつもトイレに行きたくなっていた。読書は消化と関係があるように思う。今まで過食、あるいは消化不良気味だったが、適切な量の食事をとっているため、お金の浪費も、本の買いだめもなくなったのだろう。
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ホリスティックプログラム六日目。今日から夏休み。新潟に帰る。起床は九時半。十一時頃、東京駅の中華料理店で食事。以前なら迷わず肉の入っているランチを注文するところだが、かに玉を選ぶ。卵を食べているだけで生まれてすぐ亡くなった命に対して申し訳ない気分になってくる。プログラム実施中はやはり動物の命を食することをできる限り控えた方がいいのかもしれないが、動物性の栄養をとると、食事文化について深く考えるきっかけになる。
卵は母親の体から外に出てきたが、まだ外界の空気を知らないうちに料理された命だ。これを取り入れることに罪を感じるが、食べなくては僕も生きていけない。動物の命をいただくことに申し訳なさを感じるが、僕は植物もたくさん食べている。みんな命だ。動物には脳がある。殺される時植物も痛みを感じるが、動物は発達した脳でより多くの痛みを感じるだろう。僕は過労による関節痛を感じながら、かに玉のランチを食べた。
東京駅の新幹線ホームで四十分近く電車を待ったが、とても暑い。後で知ったが今日の東京の気温は三十六度近いという。
新潟に着いたら涼しかった。新潟の普通電車の中では誰も本を読んでいない。これは前々から気づいていた。今日は、僕以外誰もアイポッドなどのヘッドフォンをしていないことを知った。携帯電話を操っていたり、ゲームをしている人はいたが、本を読む人、音楽を聴いている人はいない。都内の満員電車内では、多くの人が読書しているし、音楽を聴いている。たくさん情報が溢れているのに、それでもたくさんの情報を詰めこもうとしている。
三時頃みかんジュースを飲む。5時頃家についてすいかを食べる。腹が減っていたし、肉とコーヒーを避けてきたせいか、すいかの甘みを存分に感じることができた。
コーヒーを避け出して気づいたことだが、小説でも、テレビドラマでも、コーヒーを飲むシーンがよく出てくる。映画の登場人物がかっこよく煙草を吸ったり、お酒を飲むから、若者の喫煙や飲酒が広まるのだとしたら、カリスマ的登場人物がコーヒーを飲む場面を見るドラマのファンが、憧れの人物の真似をしてコーヒーを飲むようにもなるだろう。商品を以下にかっこよく見せるかが広告だとしたら、映画、小説、ドラマは嗜好品の広告たりうる。
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ホリスティックプログラム七日目。朝は刺身。昼はそば。午後父親と海岸をドライブ。車に乗るまでは眠たくてしょうがなかったが、車の運転を始めた途端、眼が冴えてきた。アクセルとブレーキを踏む足の加減によって、人を殺すことができる。自動車を運転している一秒一秒に、助手席に乗っている父親の命と、歩行者や対向車の命がかかっていることに気づいた。プログラムのおかげで、命の尊さに敏感になっているのだろう。
海岸通りからの帰り道、ドライブインによって、アイスコーヒーを注文する。自動車の運転で神経が高ぶっているところに、コーヒーを入れると、さらに神経が高まる。家に帰ってからも、神経の高ぶりが続く。胃腸も食事を求めて震えている。
コーヒーを摂取したことによって生じる体の化学変化を感じることができた。どんな飲食物を摂取しても、体は必ず反応を示す。取り入れる食物が人体と心にどのような影響を与えるのか、観察しながら生きていくことにする。
夜は枝豆、サラダ、焼き鮭、焼き鳥、ビール、うな丼。
僕が肉に手をつけず、ビールもそんなに飲まないので、父母が不思議がるが、プログラムを実施していることは話さない。本当なら肉、魚、アルコールなど抜きにして食事をすべきところだが、出された食べ物はきちんといただくことにする。ただし、食物一つ一つが食事となる前、どのように生きていたのか、想像しながら食べることにする。うなぎに口をつける前は、彼が水辺を這っていた頃の姿を想像してみる。鮭もそうだ。
魚介類は生前の姿を想像するのが容易だが、ケーキとなると難しい。そういえば、昨晩書き忘れていたが、チョコレートケーキを食べていた。ケーキはきれいに調理され、元の食物が何か連想させることを難しくしている。そういう加工法こそ人間文化の営為かもしれないが、ケーキの元は小麦粉と卵だ。ケーキにも小鳥の命が宿っている。ケーキを食べる多くの人は、美しく彩られた外見にだまされて、小鳥の命が一つ犠牲になっていることまで想像できない。食物の哲学者たろうとしている僕は、ケーキの最初の姿にまで想いをはせて、小鳥の犠牲に感謝しながら、ケーキを食べる。
食品の広告は、食品そのものをおいしそうにみせることに必死だ。食事は性欲と等しい人間の根源的欲求だ。必要以上に食品が溢れている現在、食品の広告はその他の商品広告と同じように、食品を生活ステータスの一種としてみせるよう工夫されている。人気の芸能人が食事をおいしそうに食べてみせる。かっこよく食べてみせる。消費者は、その食品を購入することで、ある一定の文化的ステータスを手にすることができると思う。
僕は消費を促す広告と逆の方向をたどる。文化によって加工された食品を、加工前の原材料に全て戻してみる。さらには、食品の原材料が生きていた頃の状態にまで、食品を分解してみる。すると食品も生命の一つだということがわかるし、命を犠牲にして今日の僕の命が続いたことがわかってくる。当然、食品を取り入れたことによって、自分心身にどのような変化が起きるかまで心を配ってみる。
さて、食事についての記述が多くなったが、食事はプログラムの三角形の一部にすぎない。肉体、精神、食事の三つを変革することによって、僕は心身にたまった疲労を一掃しようとしている。今日からは肉体と精神の変化についても書いていこう。
新潟に帰ってから時間の流れがゆったりになった。やることがない。近くに書店も飲食店もないから、家の中でじっと過ごす時間が長い。新中野に住んでいる頃はやることだらけで心がいっぱいだったが、今は心身ともに軽い。体は今、研ぎ澄まされている。自動車に乗った時生じた神経の高ぶりが数時間たっても続いている。腰のあたりが痛いので、この後ヨガをしよう。
仕事のプレッシャーがないからか、心も軽い。ただ僕は、書くことを仕事にしようとしているのだから、少しでも余裕があったら書くことに集中していたい。
作家になって生活していくことは夢だが、ブログに文章を発表することなら今でもできる。作家となることは所詮エゴに基づく夢にすぎない。エゴに基づかない夢は何だろう。よい文章発表すること。よいという価値判断は人によって多種多様だが、少なくとも自分自身よいと思う文章を、押し付けでなく、発表し続けていこう。それが仕事だ。
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ホリスティック・プログラム八日目。朝食は卵焼きと白米。昼食は野菜の煮付け、白米、味噌汁。午後から中条の親戚の家へ自動車で向かう。夕食は親戚の家でかにしゃぶ、刺身、まつたけご飯、ビール。田舎のご馳走な故に相当量飲み食いした。今日は肉もコーヒーも摂取することがなかったのでよかった。
体は相変わらず肩が痛い。腰も痛む。精神面では眠気がすごい。休みの日はいつもこうだ。ストレッチをしたり、つぼを押してみるが、疲れがとれない。NHK教育の健康番組で仕事によるうつ病がとりあげられていた。午前中はやる気がなく、午後四時過ぎから集中力が増してくる(故に残業しやすい)、肩が痛い、頭が重い、細かい雑事をめんどくさく感じる、以前はできた単純作業がはかどらない、などなど、自分に当てはまる項目が多数ある。眠気がひどいし、軽いうつ病だろう。こうした自己治療の記録をつけ続けることは、幼稚な自己愛の顕われではないかと思っていたが、治癒が必要なほど体は弱っているのだ。自分の心身を大切に扱うことをやましいこと、情けないことと思ってしまう習慣をやめてみる。
親戚の家に犬が二匹いた。小さな体を抱くと、心臓が小刻みに震えているのがわかる。彼らの体は温かい。僕が食品を手にしていると、僕の足元に二匹集まってくる。食品を口に運ぶ僕の動きをつぶらな瞳でじっと見つめている。彼らは食事が欲しくてたまらないのだ。ものほしげな瞳がとても可愛らしいが、彼らに人間が食べている食品を与えると、健康を害するという。人間より体が小さいためだろうか、消化器官が違うためだろうか。犬は栄養のあるドッグフードを食べる。人間も栄養溢れる健康食品を毎日食べていれば、健康になるのだろうが、文化が生み出した、摂取しすぎれば健康を害する食品を毎日食べている。
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ホリスティックプログラム九日目。親戚の家で朝食。焼き鮭、野菜の煮物、まつたけご飯。親戚が運転する自動車に乗って父親の実家に向かう。ドライブの途中親戚が、耳が聞こえにくくなる病気は、聞きたくないことがあると起こるのだという仮説を説く。僕の耳はよく聞こえるが、眼が悪い。パソコンのディスプレイを見つめすぎなことが視力弱化の最大要因だが、眼をそらしたいことがたくさんあるというのも、近視の原因だろう。その仮説を聞いたからか、午後から肩の痛みが不思議となくなった。あるいは、親戚の年輩の人たちの物を運んだり、墓参りをしたり、若い者の勤めをこなせたから、体にたまっていた因縁がとれたのかもしれない。
昼は実家に帰ってそうめんと魚の天ぷら。魚、アルコール、カフェイン等ホリスティック・プログラム中は避けるべき食事をたくさんとっているが、肉とカフェインの摂取量が激減したので、そろそろ内臓が浄化されているだろう。
午後から父母と花札で遊ぶ。うつ病の人はやりたいことがない。というか、やってみようと思って動き出す行動力までない。花札をしたら体全体が楽しくなってきた。遊んでもよいのだ。人生を楽しむこと。面白いと思うことに向けて割く時間を持ってよい。真面目すぎず、深刻すぎず。
夜は野菜の煮付け、いかの煮物、枝豆、サラダ、ビール、焼き鮭、白米、ビール。今日は夜でも肩の痛みがない。
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ホリスティックプログラム十日目。朝は卵焼きと白飯。昼食は外食。野菜炒め定食。夜は大根の煮物、焼き鮭、白米、ビール。最近毎日ビールを飲んでいる。卵も食べている。東京に戻ったら注意。
フランクリンのようにキリストを模範として、生きてみようと思う。人生の一日一日の行動にキリストを意識してみる。
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ホリスティックプログラム十一日目。朝は卵焼きと白飯。東京に帰る。昼は中野のファミリーレストランでハンバーグランチセットを注文した。肉の誘惑に負けた。食べたら後悔の念が持ち上がってきた。一時の欲望に負けないよう気を引き締める。夕食はナンとオレンジジュース。夜は会社のみんなとフェリーに乗る。生ビールをたくさん飲む。肉は食べない。よく考えると毎日アルコールを摂取している。注意。
肩の痛みはとれない。よく考えると腰というか座っていると尻が痛い。長時間座り仕事をしすぎたせいだろう。ストレッチ等気を配る。心は疲れで疲労しがち。楽しいことに取り組む時間をもっともってもよいと思う。
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ホリスティック・プログラム十二日目。朝はロイヤルホストでパンケーキとオレンジジュース。昨日ハンバーグを注文したせいか、気がゆるんでいる。またパンケーキなど注文してしまった。食して後悔する。
昼食はきのこと玄米のリゾット。こういう食事で十分である。
夜は友人と居酒屋で食事。またたくさん生ビールを飲む。油物は注文せず。今後酒は徹底的に避けること。
子供の仕事は遊ぶこと。大人の仕事は人生というゲームを楽しむこと。自分は生真面目すぎる。人生を楽しむこと。享楽でなく、生きる喜びを子どものように満喫すること。ストイックな気持ちが体を硬くさせる。本来ストイックとは瞑想的な精神で生きることである。
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ホリスティック・プログラム十三日目。今日は土曜日。朝はコンビニで買った梅きしめんと野菜ジュース。昼はコーヒーショップでサンドイッチとアイス豆乳ラテのMサイズを食べる。いつもSサイズを注文しているのにMサイズを頼んだせいか、一時間後くらい後からお腹が減るようになった。カフェインを摂取した後特有の空腹症状。お腹が減っており、気力もわかない。全身だるい。
十六時過ぎにドラッグストアで買った生めんたいこパスタを食べる。十九時過ぎにはスーパーで買った寿司を食べる。
肉を食べてはいないが、コーヒー、魚、卵等プログラム対象外の食事をたくさん摂取しているので気をつけたい。以前は動物の肉を食べる時は、申し訳ない気持ちや、彼らが殺される姿が頭に浮かんできていたが、今は何の感覚もなく食事として魚や卵を摂取している。せめて動物性の栄養を摂取する時は、生命に対する感謝の気持ちを持ちたいものだ。明日からは気をつける。
新約聖書には、口に入れるものに気をつけるより、口から出るものに気をつけなさいと書かれている。口からは無限に汚い言葉が出るからである。書くという行為、ブログで発表する文章にも無限に毒を宿すことができる。食べ物について神経質に気をつけるのはやめにして、ただ感謝の気持ちを持って、生命をいただくこと。むしろ言葉に気をつける。
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ホリスティック・プログラム十四日目。朝はいつも通り七時過ぎに目が覚めたのに、日曜だから十時まで寝てしまう。朝食はコーヒーショップでえびとツナのサンドとアイスコーヒー。中野駅前と新宿に買い物に行く。クッションカバーを買いに行く途中で、目に付いたシャワーヘッドを購入した。健康器具も欲しくなったので、健康用品売り場に行った。骨盤矯正ベルトと姿勢矯正ベルトを購入する。大学時代ヨガをしていた頃は姿勢がよくなっていたが、今は忙しくヨガをする時間がなかなかとれない。座りっぱなしの仕事であるし、仕事中は骨盤をベルトで支えようと思う。
新宿では知人への贈呈品を購入。紀伊国屋書店に寄って新書二冊、文庫本一冊、単行本一冊を購入する。出費が激しくなったが、体と心に必要なものだ。予備費を当てることにする。
紀伊国屋書店地下の蕎麦屋で十五時前に天ざるうどんを食べる。丸の内線に乗って新中野に帰る。マンションに荷物を置いて本だけ持ってコーヒーショップにより、アイス豆乳ラテを注文。飲みながら本を読む。鍵山秀三郎の本を読むと、言葉が心に響いてくる。
昼の仕事は、作家になるまでの、生活費を稼ぐための仕事だと思いながら、今まで働いていた。生活のためとか、自分のために働くと、仕事はつまらなくなる。取引先の役に立つことを願って、これも社会奉仕と思って働く。企業は利益を捻出することを目的に活動しているが、企業活動を通して人の役に立つこともできる。どんな仕事でも、自分の心がけ次第で、天に仕える仕事となすことができる。
食品が商品になってはいけない。ただ消費していては心がすさんでくるし、体が弱くなる。どんな食事も命の犠牲であるし、誰か調理してくれた人がいるのだ。機械に調理されたものもある。その場合は機械を発明した知性と労働に敬意を払おう。
自分は人が調理した食事ばかりをいただいていたことに気づいた。米はあるのだから、今後は時間があれば、無駄を惜しまず料理すること。
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毎日ホリスティック・プログラムの経過を書いてきたけれど、1日怠るとすぐ続かなくなる。日記を書くことは中断したけれど、プログラムは続いている。カフェインと動物肉の摂取をおさえ、水をよく飲み、体を休ませ、精神を統一させる。
日本は異常気象で暑いが、ニューヨークは最高気温が15度で寒いという。地球にもホリスティックプログラムの処方が必要だ。
終章
実践していた日々の半年後の今、終章を書くことにした。
今日何を食べたかについて記録するのをやめたら、自然とホリスティック・プログラムも終了した。以前みたいに砂糖、カフェイン、肉、脂ものをよく取りこむようになった。書いて記録することは意識化にも役立つということが、この失敗でよくわかった。
自分は今、糖尿病の疑いをかけられている。血糖値検査の結果報告待ちだが、末梢神経が痛いし、内臓脂肪は多いし、高血糖なことは確かだろう。糖尿病者への食事療法プログラムの内容を見たら、ホリスティック・プログラムの内容と変わらなかった。健康に通じるものはみな同じだ。半年前は善意からホリスティック・プログラムをやっていたが、今は命に対する義務から、食に気を配っている。
(2007年8月連作)
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