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小説『目覚まし時計は二度嘘をつく』

最終更新日:2008年2月3日


 午後の渋谷は私の庭だった。と言っても、私は渋谷で遊ぶのが好きなわけではないし、渋谷を崇拝しているわけでもない。休日の午後、たまたま渋谷を散策していただけだった。
 別に新宿でも、代官山でも、三軒茶屋でもよかった。しかし、新宿御苑や井の頭公園ではいけなかったし、鎌倉や浅草でもいけなかった。私が散策する場所は、いつも決まって都心の中心部だった。
 アイポッドで『カインド・オブ・ブルー』のバラード曲『ブルー・イン・グリーン』を聴きながら、私は渋谷の街を歩いていた。渋谷に来た目的は目覚まし時計を買うことだったが、歩いている途中、小説のモチーフとなる美人と巡り合うことを私は期待していた。
 期待していたと言っても、別に美女との出会いを懇願していたわけではない。私は何も待っていないかのように、渋谷をただ無心に歩いていた。目に飛びこんでくるもの全てが小説の題材となりうる可能性を持っていたが、私は自分の記憶の中にそれらの印象を残さないまま歩き続けた。耳の中ではビル・エヴァンスが奏でるピアノの音が響いていた。
 道玄坂を登ったところにあるデパートの、建物の大きさに比べたらいささか狭すぎる入り口で、髪の長い細身の美女に出会った。出会ったと言う表現が、お互いに認識し合うことをさすのなら、先ほどの表現は適切ではない。渋谷を歩く他の女性とは異なる彼女を認識したのは私の方だけで、彼女は私が見つめていることさえ気づいていなかっただろうから。
 彼女はデパートの入り口脇を、うつむき加減に歩いていた。正面でも裏でもなく、本当に入り口の脇だったので、彼女がデパートから出てきたのか、ただ脇道を通っているだけなのか、私には判別できなかった。
 ボディーラインを強調する黒のスリムセーターと、同じく黒のロングスカート。細身のスカートはつま先付近で控えめに広がっている。彼女の髪は濃い茶色で、肩にかかる先端部だけに軽くウエーブがかかっていた。
 うつむいている顔からも、彼女の瞳は、アンネ・フランクやハンナ・アーレントのような、くっきりとした輪郭を持っていることが想像された。
 ひねりもない、近代文学において典型的な細身の美人。そんな小説的存在が、渋谷のデパートの入り口脇を歩いていることが嬉しかった。
 渋谷という街は、どちらかというとあけっ広げで、屈託のない街だ。彼女は渋谷に溶けこんでいる他の美女たちとは違い、享楽や笑いとは無縁のようだった。つつましく大人のたしなみを持っているが、内には情熱と強い意志を持っている女。騒然とした渋谷の街にあって、彼女だけは、いつでもない時代の、どこでもない場所を歩いていた。
 彼女は私の視界からすぐに消え去った。私と彼女が再び出会うことはないだろう。たとえ何年経とうと、私が彼女と再びめぐり合う確率は少ない。後日街ですれ違ったとしても、かつて一度すれ違っていたことにお互い気づかないだろうし、ひょんな縁で、仕事や個人のつきあいを持つことになったとしても、依然渋谷の街ですれ違っていたことなど確信できないだろう。
 これは人生における一瞬の出会いなのだ。だからこそ、私は彼女の姿を脳裏にとどめた。私は彼女のイメージを、小説のモチーフとすることに決めたのだった。
 これだけ個人情報が保護される時代だ。隣人をモデルにして、小説を書くだけでも犯罪になりうる。現代では、通りすがりの人間を小説化することが望ましい。そうすれば、本人の許可なくモデルにしただろうと憤慨する知人と争うこともない。偶然のすれ違いを大事に温めると、些細な問題を後々起こさない小説が生まれるだろう。
 彼女がどんな男とつきあおうが、どんな性癖を持っていようが、私には関係ない。私は彼女にまつわる嫉妬や悩みを一切放棄している。彼女にとっては、私もまた同様の存在である。これから私は、お互いの人生にとって影でしかない存在を小説のモチーフにする。
 新人賞に応募される原稿のほとんどが、小説の体裁をなしていないと多くの皮肉屋が言う。私もまた彼らのアイロニーに同意する。応募者の大半は小説を出版社に送っていない。
 彼や彼女は、ただひたすら、他から見れば矮小極まりない、自分の小さな世界にとって大切なことを文章にしているのだ。それは無防備な自意識の露呈であるし、精神的マスターベーションともヘアヌードともとれる、稚拙であやうい言葉の戯れである。
 出版社主催の新人賞だけではない、インターネットに発表されている、日記やらエッセイやら疑似小説のほとんどは、そんなきわめて個人的な日常のヌードなのだ。
 私は通りすがりの彼女を文章にする。果てしない人生の中で、たった三秒だけ、一方的に見つめた彼女をモチーフにして、私は作品を組み立てる。
 私は自分の作品が多くの人に読まれないものだということを構想の段階で知っている。文学を愛好する「よき読者」の間でだけ、私の作品は読まれうるだろう。
 多くの作家志望者は、製作中の自作を、世界中の人全てに受け入れられる傑作だと思いこんでいる。彼らは、幼く無防備な自分のエゴを、公に向けて書かれるべき小説作品の中にまき散らす。結局彼らの書いた文章は、新人賞の下読みの人とか、彼らの自作ホームページを訪れる身内の人間にしか読まれえない習作にすぎない。
 自分の精神を刻印した小説が、社会にとって必要ない、無意味ながらくただとわかった時、作者である彼や彼女はひどく傷つく。彼らは絶対誰にも否定されないことを望みながら小説を書いていたのだから、その挫折感は、人生最高の痛みを伴うものとなる。
 私は作品が、顔もはっきり見えない読者に否定されても落ちこまないし、不特定多数から寄せられる否定の言辞など何とも思わない。小説家は多くの批評家やら、見ず知らずの他人やら、後代の人間たちから、自分の作品を批判されうる。批判されることを前提に書かれた、反証可能性を含んでいる文章こそが、豊かな小説となりうるのだ。
反証可能性の内包こそ、小説が小説になるために必要な公理である。この公理を忘れた作品は、決して否定されないという信念のもと作成された一世一代の大傑作となってしまう。
 多くの作家志望者は、小説が小説になるためには反証可能性が必要だという公理を知ってはいるが、自分の作品だけは、世界中の読者に歓迎されるものだと勝手に思いこむ。彼らは自分の作品が否定されれば、誰も私の天性の才能を理解してくれないと嘆き、読者はみんな馬鹿だと思いこむ。作品の持つ限界、微力さを前提として受け入れていない作品は、すべからく誇大妄想的マスターベーションとなるにも関わらず。
 かといって私は、自己陶酔的な心情の吐露を否定しはしない。多くの現代アートはマスターベーション的な孤独を伴うものであるのだから。
 問題は、マスターベーションが他者の鑑賞に堪えうる美なり精神性なりを持っているかどうかなのだ。中年の男のマスターベーションなどよっぽどの精神的深みがなければ見るに耐えないものだが、鑑賞に堪えうる、読者に新しい発見をもたらすマスターベーションというものが、確かに存在する。
 例えばそれは、恋人に先立たれた女が彼を想って行う自慰であろうし、独裁政府に監禁された男が自己を感じるためにする自慰であるかもしれない。私的マスターベーションがいかにして読者の共感を呼ぶ芸術作品へと昇華するのか。セックスレスが蔓延した冷戦後の現代において、相手が不在のセックスを描くことこそ、今世紀の小説に与えられた重要な使命の一つであろう。
 私は目覚まし時計を買うことを諦めて、小説の構想を記述するのに最適な、くつろげる場所を探すことにした。
これだけ店があるのだから、どこの店に入っても、ノートくらいはとれるだろうが、できればお喋りの少ない、静かな店に入りたかった。
 坂道を歩き回った末、私は繁華街から離れた通りにあるオープンカフェに入った。オープンテラスに座っている女性たちが見るからに上品で、好感を持てたことが、その店を選んだ理由だった。
 私はエスプレッソを注文し、店内一番奥の席に座った。昼時だったが、ランチプレートは注文しなかった。食事は渋谷を訪れ時毎回通っているロハス志向のバーガーショップでとることに決めていた。 
 私はエスプレッソを一度口に含んでから、ベージュの小さなリュックと上着を向かいの席におき、創作用のスケッチブックをテーブルの上に広げた。私は一度だけ目にした彼女の印象を、言葉としてノートの上に固定することにした。





 二週間ほど前、テレビの上から目覚まし時計が落ちた。その時に加わった衝撃のせいか、秒針が三十一秒を指したまま動かなくなってしまった。
 時針と分針は正常に機能し続けたし、タイマーをセットすれば、アラームも正確な時刻になった。ただ秒針だけが、カチカチという作動音はしても、一向に前に進まなくなった。
 時計というものは、常に秒針の方が時針と分針を追い越していくものだが、テレビから落下した目覚まし時計の秒針は、三十一秒と三十二秒の間を行きつ戻りつしていた。狭い場所で揺れ続ける秒針は、常に他の二つの針に追い越されてしまうのだった。
 目覚まし時計を使っていて、今何秒かわからずに困ってしまうということはなかなかない。秒単位でアラームをセットできる精密な目覚まし時計なら話は別だが、秒針だけが壊れたところで実生活上何の問題もなかった。
 私は時計として機能し続ける強靭な目覚まし時計に尊敬の念を抱き始めていたが、美的に考えると、秒針が三十一秒をさしたまま、痙攣しているのはいささか問題があった。神経質な痙攣を美として楽しむのもまた楽しいことだろうが、中学の頃から使い続けてきたものだし、これを機会に買い換えることにしようと思い立った。
「今日はこれから遊びに行かれるんですか?」
 二週間前、カットの最中に下北沢の美容師にそう聞かれた。美容師はカットが終わりそうになると、決まって私の予定を聞いてくる。休日の午前一番にいつも予約を入れているので、午後には予定があるのだろうと思って彼は聞いてくるのだろうが、私の休日には読書の予定くらいしかなかった。
 ただ単に午前中を有効に使うために朝一番の時間帯に予約を入れているだけで、私は休日遊びまわるタイプではない。ただし、この日だけは予定があった。
「目覚まし時計を買いに行こうと思ってるんです」
「目覚まし時計が壊れたら死活問題ですもんね」
 店員は予定があることを我が事のように喜びながらそう言った。別に目覚ましは鳴るし、時刻も正確なのだから、私にとって故障は死活問題ではないのだが、いちいち訂正するのもわずらわしかったので、私は適当にうなずき微笑んだ。
 結局、その日のうちに買いに行く必要はなかったため、美容室を出た私はいつも通り下り電車に乗って、マンションに帰ったのだった。
 今日は朝からすぐ、ただ目覚まし時計を買うことを目的として、渋谷のデパートによる決意ができていた。買うからには部屋の装飾と雰囲気にあった最新モードのものを買おうと私は思っていた。
 渋谷に向かう前、鞄に入れる本をプルーストの小説にしようか、ブロンテの詩集にしようか迷った。エミリー・ブロンテの詩集は成城の図書館から借りてきたもので、電車の中で読みたかったのだが、いかんせん分厚く重たいハードカバーだったため、持って行くのは諦めた。かわりに、分厚いが文庫版であることが救いの『失われた時を求めて』の最終巻を持っていくことにした。
 『見出された時』を読みながら電車に揺られて、渋谷駅にたどり着いた。人でごった返している駅を降りると、プルーストの世界とはまるで異なる喧騒と人の渦が続いていた。私は規則正しい呼吸を繰り返しながら、目的のデパート目指して歩いていった。
 道玄坂を登り、雑貨専門のデパートに寄ってみたのだが、私の心を満足させる美しい目覚まし時計とは出会えなかった。私は足早に狭い入り口を出て、坂を下りたところにある、デザイン商品を揃えたもう一つのデパートに向かうことにした。休日の渋谷はいつもの倍の人通りで、歩くだけで何人もの通行人と肩が触れた。
 歩く途中ふと顔を上げてみると、少年アイドルグループの宣伝写真が目に入った。彼らは海辺に並び、全員ジェームス・ディーンのような気取った表情をしていた。彼らがテレビで披露しているお笑いタレントのようなおどけた態度と、写真上の感傷的な様子はあまりにも異なっていた。ファンたちはこうした落差をおかしく思わず、逆に恋をつのらせるものなのだろうか。私は、看板上の悲愴な彼らは素敵だと思えたが、テレビの芸能人たる彼らには魅惑を覚えなかった。
 渋谷を歩く若者たちは、笑顔で喋り続けながら歩いていた。みな土曜午後の買い物を楽しんでいた。私はアイポッドのイヤフォンを耳につけ、チェリビダッケの演奏によるブラームスの第一交響曲を聴くことにした。
 アイポッドのホイールボタンを押すと、感傷的ではない適度な悲愴さを持った和音が、ゆったりしたテンポで鳴り響いた。
ブラームスもチェリビダッケも、まさか街を歩いている人が、小さなイヤフォンで自分の音楽を聴くことになるとは思いもしなかっただろう。そのような聴き方は、芸術の矮小化だと嘆くことだろう。しかし、私は雑踏の中にいるからこそ、彼らが創り出す静謐な音楽を必要としていた。十九世紀末のクラシック音楽が放つ重厚な響きは、周りの雰囲気に飲みこまれてしまいそうだった私の精神に力強さをもたらした。
 渋谷の雑踏にはロックやポップスの響きの方がふさわしかっただろう。それでも私はクラシックを聴いた。
別に私はロックやポップスが嫌いなわけではないし、クラシックの価値を絶対化したいわけでもない。クラシック音楽を好きな人間とは、文学や哲学についても会話できるだろうと私は勝手に思いこんでいた。ロックやポップスが好きな人は私の周りにたくさんいたが、クラシックやジャズを愛好する人の割合は少なかった。大学時代の私の友人の間には、マニアすぎるほどクラシックに詳しい者もいたが、社会人になった今では、批評精神なく、快楽趣味としてクラシックを聴く人間しかいなくなった。
 クラシックは最早滅びる運命にあると思う。ただ、滅びゆくクラシックを愛好している者がいることを、私は一人でも多くの者に知らせたかった。クラシックが天然記念物のように貴重なものとなり、音楽文化の中心から排除されつつあるからこそ、私はクラシックを聴いている。私の聴き方は、モーツァルトを聴くと頭がよくなるとか、右脳が活性化するとか、そういう功利目的の聴き方とは異なるものだ。
 文化の帝国主義が叫ばれる昨今では、クラシックが好きだというだけでは、前衛芸術家連中に文化の帝国主義者だと思われても仕方がない。ナチスがワーグナーを絶賛し、フルトベングラーが戦時中のベルリンでベートーヴェンの交響曲を演奏した第二時世界大戦以降、全てのクラシック愛好者は、何故自分はそんな野蛮なクラシックを聴くのかという説明責任を負っているだろう。
 かといって、職場の同僚たちに対して、「私は別にエリート文化を崇拝しつつ、大衆文化を馬鹿にしているわけでもないし、クラシック以外の音楽など音楽ではないと思っているわけでもなく、内省の導き手としてクラシックを好んで聴いているだけです」などと、くどくど説明したところで、「どうした? 誰かお前の趣味に文句でもつけたのか」と思われるだけあろう。
 社会人と呼ばれる人たちの多くは、無意識に自分の生活文化にあう音楽を聞いているだけだから、私もクラシック趣味の理由を説明する必要などない。そんな説明を必要とするのは、スノッブ連中の間だけの話である。
 そんなことを考えているうちに、私はデザイン雑貨を専門に扱っているデパートの中に入った。
 店内は、歩道とほぼ変わらぬ風態の若者たちで満ちていた。みな友達や恋人と一緒に買い物を楽しんでおり、私みたいにイヤフォンをしながら一人で歩いている人間は少なかった。通行人の顔には、消費を楽しむ無害な笑みが溢れていた。その無害さは、六十年代ポップアートがシミュレートしたアメリカの広告に出てくる、幸福な家庭の笑顔とよく似ていた。
 エスカレーターを昇っていたら、私の前に、黒の皮ジャンに色の落ちた水色のジーンズをはいた男が乗ってきた。短い皮ジャンの裾からは、淡いピンク色のTシャツがはみ出ていた。彼は金髪を短く刈りこんでおり、一見してパンクスなのだが、エスカレーターに乗りこむ物腰は、現代のどんな女性よりも女性的に柔らかだった。
 下の方から後ろ姿を見上げる限り、彼はしんなりと体をそらせてエスカレーターにつかまっていたし、細身だし、ゲイではないかと思えてきた。あるいは、彼の性は本当のところ女で、私が勝手に男と決めつけているだけかもしれなかった。
 階と階の間でエスカレーターが交差する。私はその隙間を狙って、彼の性を確認することにした。
 一瞬正面から見えた彼の顔つきは、やはり中年の男だった。彼は恥ずかしそうに顔をうつむけたまま、次の階に向けて上昇するエスカレーターに乗りこんだ。私の好奇心に溢れた視線に気づき、彼は下を向いてしまったのだろうか。ひょっとしたら派手な格好をしている彼は、常にそうした好奇の視線にさらされて、苦悩しているのかもしれなかった。
 とにかく彼は女ではなかった。いや、やはり女かもしれないが、私の目には大方男に見える。私は好奇心から彼の休日を覗きこんでしまったことに罪悪感を持ち始めていた。
 彼がエスカレーターで降りた階は、目覚まし時計がおいてあるフロアだった。私も彼に続いてエスカレーターを降りたが、彼を追わず、真っ直ぐ目覚まし時計売り場に向けて歩いた。彼は私の視界から消えていった。
 額縁や掛け時計が並べてある棚のすぐ側に、目覚まし時計がおいてあった。デジタルのもの、古風なベル式のもの、ウッド製かつモード調の洗練された時計、シルバーのボディーに赤く光る文字盤の、未来派風デジタル時計など、様々な目覚まし時計が棚に並べられていた。
 朝、アラームによって寝ている人を起こすという本来の機能ではなく、デザインの美によって、目覚まし時計たちは商品価値を顕示していた。商品の陳列間隔はゆったりとしており、値札も小さく、売り場の並べ方自体が、機能よりも美に注目するよう促していた。
 これが安売り電気店だったら、ヨーロッパ産のスタイリッシュな商品はほとんどおいていなかっただろう。日本の電機メーカーが作った高機能の量産品が、何%オフという派手な割引表示とともに、所狭しと並べてあったことだろう。
 私は、針も文字盤表示も小さい、木製の時計を買おうかと思った。手のひらより小さいその時計からは、持ち主の目を覚ますためのけたたましいアラームが出てくるとは思えなかった。値札に書かれている機能説明や、細かいデティールを近くに寄って眺めたら、時計の針に蛍光塗料が塗られていないことがわかった。
 夕方や冬の朝早く、暗い部屋で今何時か確認したい時、目覚まし時計の針についている蛍光塗料は大変便利なものである。夜、蛍のように光ることがないその目覚まし時計は諦め、針に蛍光がついている時計を改めて探してみた。しかし、小柄で美しいシックな目覚まし時計にはすべからく、蛍光という功利的機能などついていなかった。
 困ってしまった。蛍光を諦めれば、いくらでも美しい時計を買えるのだが、どうしても蛍光つきの目覚まし時計を買いたかった。ぼんやりと目覚め、半分眠りながらも目覚まし時計の時刻を確認し、まだ三十分はベッドの上で休めると安堵した後、二度寝を楽しむためには、時計の針に暗闇でも光る蛍光塗料が必要だった。
 私の怠惰が美の購入を邪魔していた。目覚めとともに起床する規則正しく美しい生活が私に身についていたら、目覚まし時計の針に蛍光などいらなかった。機械が高性能になればなるほど、人間は堕落するが、機械が美しくなればなるほど、それを所有する人間も美しくなっていくしかないのだろう。
 クロック売り場で逡巡していたら、隣の写真フレーム売り場に、先ほど観察した中年の男がいることに気づいた。彼の瞳の様子を確認したい欲望にかられた。
 たいてい私は瞳の様子でその人の性格を判断していた。エスカレーターの彼はうつむいて瞳をふせていたから、彼がぱっちりとした目を持っているのか、眠ったような目を持っているのか、冷酷なまなざしを持っているのかをはっきりさせたかった。
 観察のまなざしを再び向けると、木製の小さな額縁に目をやる彼の瞳は憂いに濡れていた。彼は上司に怒鳴られたら、すぐに泣き出してしまいそうな、弱々しい目つきをしていた。瞳からは生まれた瞬間から染みついていたかのような根源的寂しさと、他者からの愛と承認を求めているのに、それが得られない嘆きが発せられていた。
 何故こんなカップルで溢れる、休日の渋谷のデパートで、今にも泣き出しそうな顔つきで商品を見ているのか、彼の憂いが理解できなかった。欲しかったザインのフレームがなくて、途方にくれているにしては、彼の表情はあまりに湿っていた。目当ての商品があってもなくとも、彼はずっとこの表情のまま、渋谷を歩き、生きていくのだと想像できた。
 彼の表情は、私にショパンの肖像を思い起こさせた。肖像画に描かれたショパンもまた彼のような憂いに満ちた顔つきをしていた。ショパンが作曲した曲には、肖像の顔そのままの繊細さが溢れていたので、目の前にいる彼にも、繊細な感受性が宿っているかもしれないと思えてきた。
 私は彼の瞳を頭の中に写し取った後、下りのエスカレーターに向かった。欲しい形の目覚まし時計がなかったし、これ以上彼を見ることもしのびなかったので、階を降りることにした。目覚まし時計はまた今度、別の店で探すことにしよう。今すぐ目覚まし時計が欲しいわけではないのだから、ゆっくり探せばいいと自分自身を説得した。
 アイポッドで聴いていたブラームスの交響曲はフィナーレに近づいていた。第四楽章には、無批判で感動的な大団円的高揚が訪れていた。このようなひたすら無邪気な盛り上がり方は、十九世紀の交響曲に特有のものだし、今の私の気分にそぐわなかったので、別の曲を聴くことにした。
 後期のレッド・ツエッペリンにしようか、エイフェックス・ツインにしようか、ポリーニの弾くシェーンベルクにしようか、曲の選択に迷った。結局私は最近発表された、日本の人気ロックバンドのニューアルバムを聴くことにした。
 私のアイポッドにはおそらく三千曲近い曲が収録されている。今みたいに聴きたい曲を思いあぐねた時は、シャッフル機能を使って無作為に抽出された曲を聴くことにしている。シャッフル機能を使うと、日本のヒットチャートの上位に入る人気アーティストの曲の後に、ポール・オースターのインタビュー録音がきて、その後にはカーメン・マクレエのモダン・ジャズ・ボーカル、次にはショパンの夜想曲が続いたりする。私のアイポッドの中は、上も下もない、全てが並列な、ポストモダンの文化状況を体現していた。
 デパートを出た後、センター街を通り、道玄坂にある大型書店に向かうことにした。通りにはまた、無邪気な笑顔で会話しながら歩く男女が増えていた。彼らの顔つきは、物憂かったデパートの彼とは全く異なっていた。彼らは生きることを自分で肯定し、周囲の人からも肯定されているようだった。その笑顔には自信と、消費の享楽に対する開放感が溢れていた。
 一方、一人きりで歩いている人間の表情はみな、冷たくこわばっており、誰ともコミュニケーションする気などないかのようだった。雑誌のモデルと同じような格好をした女性たちもたくさん歩いていたし、時々は時代遅れの服装をしたオタク風の男が、同じくオタク風の男と話しながらこそこそ歩いてもいた。
 イタリアン、韓国料理、インド料理、中華、ファストフード、どれもよく似たマーケティング戦略によるコーヒーショップ、量販電機店、道路に音楽を撒き散らす洋服屋、乱雑に商品がつまれたディスカウントショップ。渋谷を歩くと、それらの雑多な店の看板が次々と現れては消えていった。黒服を着た金髪の男や、だぶついたアメリカンカジュアルを着た外国人が路の真ん中に立って、派手な服装の若い女に勧誘の声をかけてもいた。
 私はそれらの喧騒から離れ、売上ランキングの上位に入りながらも内省的、哲学的な詩をもつロックミュージックを聴きながら、書店目指して直進していた。
 ビルの一階から六階まで本で埋め尽くされている書店ビルに入っても、混雑は続いていた。一階にはお決まり通り新刊書、話題の本、ベストセラーが平積みされていた。私はそれらを視界に入れただけで、特に題名なども気にすることなく、文芸誌売り場に向かった。
 他の雑誌売り場には渋谷風の若者で溢れているのに、文芸誌売り場には大学教授風のセミフォーマルな格好をした白髪の男と、帽子をかぶり青いスタジャンを着た中年太りの男しかいなかった。私は彼らの間に入り、新刊の文芸誌を一通り眺めた。場違いな私が間に割って入ったせいか、二人とも読んでいた雑誌を戻して、逃げるように売り場から離れていった。
 新人賞の選評が載っている雑誌を一冊手にとって眺めていると、陰気そうな大学生風の男が私と同じ雑誌を手にとった。彼は銀フレームの眼鏡越しに雑誌を数秒めくった後、ページを閉じて雑誌を抱え、売り場から立ち去っていった。
 新人賞の選評と受賞者の言葉、受賞作品はいつも通りの構造に収まっていた。文学の常識を超える新しい作品を求むという宣伝文につられて、超現実の実験的作品を送っても、一次選考で落とされるのがおちだろう。シュールレアリスムやヌーヴォー・ロマンの意志を引き継いだ、読解不能な前衛作品を創ったところで、それは前世紀に流行した手法の反復に過ぎず、出版社が求めている革新性とは異なるのだろうと想像できた。そもそもシュールレアリスムとは、難解で理解不能な現実ではなく、現実よりも体感強度の高い現実であるはずなのに、前衛を気取る芸術家の多くは、超現実の意味を履き違えていると思えた。
 私は雑誌を元に戻し、上の階にある文芸書フロアに行こうか迷った。部屋には衝動買いしたのに読んでいないモリスン、パワーズ、アジェンデの単行本があるし、図書館から借りたデリーロの短編集やブロンテの詩集もある。
 私には目についた本を軽く手にとり買ってしまう癖があり、部屋には他にも未読の文庫本が山のように積んであった。文芸書のおいてあるフロアに行けば、衝動にかられて、また本を買ってしまうのが目に見えていた。たまには他のジャンルの本でも探そうと、私は一階の雑誌コーナーを回ることにした。
 まずは文芸雑誌の近くにあった映画雑誌を見てみた。どの雑誌も、人気俳優のアップの写真を表紙に使っていた。中には、女優二人が裸で抱き合っているショッキングなものもあった。よく見れば、他にも裸に近い、肌の露出が多い女優の表紙がたくさんあった。
 俳優たちは誰もが美しかった。しかし、私の隣で映画雑誌を読んでいる二十代らしき女性の横顔も、彼女たちに劣らず美しかった。自分自身の美しさに気づき、細心の注意を払って美を保とうとしているのが感じられる、立ち読み中の彼女が、もし芸能人となったら、すぐにも人気が出るだろうと思えた。
 渋谷の街には並みの芸能人よりも美しい女性がたくさんいる。雑誌の表紙を飾っている女優たちは、ただ単に広告戦略にのって、誇大になった自我をまきちらしているように見えた。美しい心とたしなみを持った都会の美女たちは、メディアの喧騒を横目で眺めながら、自分自身の平穏な生活を紡いでいるのだろう。
 結局、映画雑誌は一つも手にとらず、音楽雑誌の売り場に移ることにした。もともと映画はあまり好きではなかったし、これだけスター先行の雑誌ばかりが並んでいると、批評中心の雑誌を探し出す気が起きてこなかった。
 私はクラシックの雑誌を読みたかったのだが、音楽雑誌売り場には、ロックやポップスの雑誌ばかりが並んでいた。一部だけ立てかけてあったクラシックの雑誌は、新発売のCDや海外の人気演奏家の特集をしていた。私は現代音楽の紹介や、哲学的・現代思想的なクラシックの批評を読みたかったのだが、やはりそのような雑誌は、すぐ手に取れるようには陳列されていなかった。
 音楽雑誌売り場で途方にくれていると、デザイン雑誌の控えめで美しい装丁の並びが見えたので、デザイン・アートコーナーに行ってみた。デザインの雑誌はどれも大型で、品のよい、自己主張の少ない表紙をしていた。
一つ手にとって、中の頁を読み飛ばしてみたが、頁をめくる度に、控えめな外見のモダン建築や、シンプルかつカラフルなインテリアが現れた。雑誌を立ち読みしているだけで私は心地よい美的快感に浸れたのだが、それらはよく見なれた、おさまりのよい美しさであった。
 雑誌の中に現れるインテリアの写真は、私の購買意欲を刺激しはするのだが、そう簡単に消費の快楽におぼれまいとする、スノッブな決意が、デザインに対する私の表面的な欲望を抑制するのだった。
 デザイン誌を元に戻して、隣の棚に体を移した。アートのコーナーにも、映画のコーナーと同じように、ヌードが表紙の雑誌がたくさんおいてあった。ただ、そのヌードはまるでエロティックでなく、ただむき出しの裸であり、モデルは裸でいることを純粋に楽しんでいる、子どものような愉楽の表情を浮かべていた。
 アンダーヘアーまで露出している表紙の雑誌を手にとるのはしのびなかったので、私は当たり障りのない、アートの歴史紹介本を手にとった。おそらく雑誌の特別編集号として編まれたそれには、ヨーロッパの絵画が、古代から二十一世紀のものまで、歴史順に綴られていた。
 私は何を見るにしても、対象を小説と関連させてしまう癖がある。クラシック音楽の閉塞的な現状に、現代文学を取り巻く状況との親近性を感じるし、現代アートの実験的動向には、前衛文学との共振作用を感じていた。
 現代美術史おきまりの、ピカソのキュビズム、デシャンのレディメイド、ウォーホールのポップアートを眺めた後、私は雑誌を棚に戻した。他にも二、三手にとりたい雑誌があったのだが、私は急に渋谷で開催している美術展に行きたくなった。本当は哲学・思想系の雑誌コーナーも覗きたかったのだが、私は現代絵画を生で見たい衝動の方が強かった。通俗的デザインの別の美術誌を手にとり、すぐ近くの美術館で二十世紀美術の展覧会が行われているのを確認すると、私は書店を離れた。
 美術館に寄る前に、私は軽い食事を済ませておきたかった。目にとまった交差点向こうのバーガーショップで、久々にハンバーガーでも食べてみたくなった。もちろんバーガーショップと言っても、テレビでコマーシャルをやっているような有名店ではなく、首都圏の中心ターミナルにしかない、マイナーでモードな店に私は入った。
 私はフレッシュバーガーと、フライドポテトと、アイスのカフェラテを注文した。一階の席が埋まっていたので、プレートを持って狭い階段を昇った。すでに午後二時半を回っていたが、二階の席もほとんど埋まっており、賑やかだった。窓際のカウンターにある三席全てが幸運にもあいていたので、私は緑のプレートを窓際の木製テーブルにおいた。
 窓からは、ビルと、スクランブル交差点の前で交通整理をしている警備員と、信号の切り替わりを待つ、大量の若者と自動車の列が見えるだけだった。
 渋谷に訪れる前、スクランブル交差点とはどんなものなのか非常に興味があった。大学に入学した後、初めてハチ公前の巨大なスクランブル交差点を渡った時は、今渡っているのがスクランブル交差点だとは気づかなかった。何度か渋谷を訪れた後、西武前の小さなスクランブル交差点で信号待ちをしていた時、私は目の前にあるこれが、スクランブル交差点なのかもしれないと思った。
 高校の頃、実物を目にするのをあんなに待ち望んでいたのに、実際スクランブル交差点の存在を発見した時には既に、巨大なスクランブル交差点を何度も渡っていたのである。
 そのうち、街中いたるところにスクランブル交差点があることに気づいた。今私が見下ろしているこの小さな交差点もスクランブル交差点だった。警備員がせわしなく交通整理しているそれは、何の魅力もなかった。
 プリンスのブラック・アルバムを聴きながら、下のスクランブル交差点の様子を眺めつつ、フレッシュバーガーと太目のフライドポテトを口に入れた。私は毎日のように繰り返している自分の人生計画に対する後悔を反芻しながら、心なくフレッシュバーガーを食べた。
 私はアカデミズムの現場に閉塞感を感じたから、社会に辟易していた友人たちのように大学院には進まず、一般企業で働くことにした。研究者になりたいというほど勉強熱心なわけではなかったし、ますます矮小化し、社会に対する影響力をなくしている大学に希望も持てなかった。
 かといって企業で働くことに希望があったわけでもない。実際のところは単に、大学当時つきあっていたスノッブなインテリたちとはこれ以上つきあいきれないと思ったことが、就職することにした決定的理由かもしれなかった。
 現代思想やポストコロニアリズムにかぶれているスノッブたちの全てが、研究者の卵になったり、写真家や映画監督を目指して、厳しい道に突き進んだわけではなかった。スノッブ仲間の半数は私のように、一般企業に、しかも社会的に知名度のある一部上場企業に就職していった。
 私はポストモダンの旗手、ドゥルーズの「逃走しろ」という言葉を信じ、アカデミズムのこり固まった制度や、インテリたちのジャーゴンに満ちた会話や、自分自身の怠惰から逃走したのだ。逃走した結果、たどり着いたのが、嫌悪すべきはずの凡庸な社会人というのは、皮肉な話である。
 当初私は大学で、フーコー、バルト、ゴダール、ピンチョンといった偏屈な思想に触れていたから、就職してもすぐ仕事が嫌になって、ニートかフリーターになるだろうと思っていたし、友人たちもみな、私が正社員として働くことなどできないと考え、私の心身の健康を心配してくれていた。しかし、私は月日が経つごとに、どんどん順調に仕事をこなせるようになっていった。
 大学など、監視者や評価者がいない自由な体制では、私は勉強しない人間となる。私は他人からの賞賛がなければ、無軌道に遊ぶ人間で、教室に縛りつけられるよりも、図書館で好きな本を読んで自由に学習する方を好んでいた。たとえ企業に就職するとしても、私は大学時代に学んだアウトサイダーの位置を取り続ける心意気でいたのだが、就職後の私は、怠惰な同僚たちよりも真面目に仕事をこなし、上司からかわいがられる社内の中心的人材になっていった。
 企業の職場は高校までの教室と同じように機能していた。私は上司や同僚や顧客から常に監視され、評価を下されていた。さらに私は、私と同じ地位にある同僚たちの成果を意識せずにはいられなかった。大学時代の私なら、同じ立場にある学生の成績など意識しなかったことだろう。私の大学の講師は、学生を比較し、優れた学生を誉めたたえるという、学生間に競争意識を芽生えさせる行いを決してしなかったからである。
 一方、企業という組織では、高校までの学級組織と同じように、社員は他の同僚と競争関係にあり、上司からの評価を希求する立場に自己を固定せざるを得なかった。私は仕事自体の意義、楽しさ、充足感などを追い求めることを放棄し、怠けがちな同僚たちより勤勉に働くことで、上司や顧客からの賞賛を得ることに喜びを見出すようになっていった。
 もちろん会社内でも、上の人間の評価などおかまいなく、大学での私のように、はぐれ者として振舞っている者はいた。私は彼らのように自由気ままに振る舞いたかったのだが、監視者が常にいる環境にあると、私は行儀よく、優等生的にふるまってしまう嫌な癖を持っていた。
 欺瞞に満ちた大学制度から逃走し、自由な領域にやってきたはずなのに、何故か過去と同じ、従順な羊のような振る舞いを私は毎日こなしていた。羊として生きている限り、仕事自体から生じる喜びを体験することはできず、他人から与えられる給料と賞賛だけが喜びの源泉となっていた。
 働いている現在、私は哲学や文学について語り合う友を持たず、煩悶している。私はスノッブたちからも逃走すべきではなかった。実は逃げたかったスノッブを一番求めていたのは、私だったのかもしれない。私はスノッブたちの中にいて、どんなスノッブよりもスノビズムに満ちた奇怪な警句を発して、彼らを幻惑させるべきだったのだろう。
 そんなことをとりとめもなく考えているうちに、私の隣に、二十代後半らしき短髪の男が腰かけてきた。彼は偶然にも私と全く同じメニュー、フレッシュバーガーとフライドポテトと、アイスのカフェラテを注文していた。
 まあよくある普通の取り揃えだ。取り立てて気にすることでもないと思ったが、彼がベージュの小さなリュックから取り出した文庫本を見て、私は偶然のいたずらを感じた。文庫にしては異様なまでの分厚さと装丁を見てすぐにわかった、その本は私自身最も愛読している、プルーストの『失われた時を求めて』だった。
 プルーストといっても、彼が手にしているのが、『失われた時を求めて』の第一巻、『スワン家の方』なら、彼に対する尊敬は幻滅に変わっただろう。どんな作品でも、一巻だけ読んで続きの巻を読まない者は多い。図書館でも、上巻だけとか、一巻だけがずっと貸し出し中の場合がある。
 彼がテーブルの上に置いた文庫の背表紙を見たら、それは『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』であった。
 いくらかほっとしたが、『失われた時』では、一巻と最終巻だけをまず読むという読み方もある。起点と終点の円環構造の間の、多種多様な細部の膨大な積み重ねを楽しむことこそ、『失われた時』を通読する醍醐味である。もし彼が一巻を読み終わった後、他を飛ばして最終巻を読んでいるのならば、一巻からずっと読み進めて、最終巻に至った場合と比べて尊敬の度合いは大きく異なる。
 もちろん、この他にも多様な読み方がありうる。最終巻からいきなり読み始める者もいれば、すでに一回通読していて、好きな巻だけ読んでいる者、研究者として論文を書くため最終巻を入念に読んでいる者(まあ研究者なら訳書でなく原書にあたっているだろうが)、小説家志望で、最終巻にある芸術論議を読みたくて何度も読んでいる者など、読みの可能性は無限にありうる。
 彼が『失われた時』に対してどんな段階にいるのか、一目見ただけでは分かりようがなかった。ただ、濃い茶色のトレンチコートや、ベージュの細身のパンツ、よく磨かれた本革の靴など、彼が身につけているものを見ると、どうも彼はじっくりと、何年もかけて『失われた時』と取り組んでいるのではないかという気がした。
 私はテーブルの上においてある彼の『見出された時』を気にしながら、随分氷が溶けて水っぽくなっているカフェラテを飲んだ。私のカバンの中にも、彼のものと全く同じ『見出された時』が入っている。ただ、二つの同じ本は、二人に全く別の意味を投げかけているだろう。
 私にとって『失われた時を求めて』は、文学と人生の全てであり、一生愛読していく対象だった。スノビズムに距離をおくことを教えてくれたのは、他ならぬプルーストだったし、何度読んでも尽きせぬ魅力を放ち続けることはわかりきっていた。
 隣の彼は席についてから、食事をするでもなく、プルーストを読むでもなく、テーブルの上に広げたノートに何か熱心に書き続けていた。しばらくして彼はペンをテーブルの上に置いた。食事を始めるかと思ったら、今度はプルーストを読み始めた。私は食事が冷めてしまうことよりも、カフェラテの氷が溶けて、味がうすまってしまうことを心配した。
彼は本の真ん中あたりの頁を読んでいる。
 プルーストを読む彼の姿は絵画のように静謐だった。プルーストを読む人は誰でも静かになる。読書中うるさい人間はそういないが、プルーストを読む人間は、体中から静けさを発散するようになる。『失われた時』を読んでいる時間ほど日常がうるさく感じられることはない。私は彼をアール・ヌーヴォーのフランスにそっとおいてやりたくなった。
 腕時計を見ると、午後三時を過ぎていた。早目に美術館の鑑賞を終わらせ、夕方前には帰りの電車に乗りたかったので、一向に食事を始めない彼の観察はあきらめ、プレートを近くの店員に渡して一階に下りた。あれほど混んでいたのに、店の一階にはもう客がいなかった。
 小さなスクランブル交差点では、大量の人が赤信号を前にしてたまっていた。私は信号を待つ列の一番後ろに立って、アイポッドを操作し、ベル・アンド・セバスチャンを聴くことにした。『天使のため息』にしようか『わたしの中の悪魔』にしようか迷った末、『天使のため息』を聴くことにした。
 美術館に向かおうとしたのだが、目的の美術館がどこにあるのかはっきり覚えていなかったので、とりあえず気ままに歩いてみた。
 無鉄砲に進むと、繁華街の風景が終わり、閑静な住宅街が広がってきた。静けさ、人の密度、建物の様子全てが渋谷ではないようだった。
 渋谷の外に出てしまったかと思いながら住宅街を歩いていたら、目の前に突然クラシックホールが現れた。ホール沿いに坂になっている歩道を下りていくと、今度はオープンカフェが現れた。カフェもまた通行量の少ない静かな道路に面していた。日光の下でくつろぐ男女を横目にして、そのまま歩道沿いに進むと、小さな演劇ホールが現れた。
 いつになったら美術館にたどりつくのか、道を間違えたかと思ったが、戻ることなくそのまま進むと、喧騒と高層ビルが乱立する風景が目の前に復活してきた。私は混雑にいささか安堵を覚えた。
 歩道脇のショースペースに、ミニシアターで上映されている映画のポスターが何枚か貼られていた。イタリア映画のポスターの間に、目的とする美術展のポスターを発見することができた。
 秋冬の美術展として、その美術館ではアメリカを中心としたポップアートの展覧会をやっていた。私はポップアートよりも、象徴派や印象派、さらにはフェルメール、モディリアニなどの神秘的な作品の方が好きなのだが、ポップアートは消費社会のコピー神話を描いているのだし、一度全てを見てみる必要があると思ったので、作品を鑑賞することにした。
 一階に小さな書店とカフェのあるビルの地下に降りると、小奇麗なホールの外れに美術館の入り口があった。入り口に立つ制服姿の女性が、私を美術展目的の客だと気づいたのだろう、商業用のこりかたまった笑みを送ってきた。私は彼女の脇を素通りして、料金所で大人一人分の入場料を払った。
 あいているコインロッカーを見つけてから、私はスカートのバックポケットからアイポッドを取り出した。アイポッドを丁寧にしまいこんだ鞄をコインロッカーの中にそっとおいて、ロッカーに鍵をかけた。
 会場の中は休日のせいか、観客が作品の前で列を作っていた。私はいつも通り、全ての作品を入念に、順番通りに見ずに、見たい作品だけを選んで鑑賞することにした。作品の前に人が多く集まっていても、たとえ有名な作品でも、興味がなければ素通りした。
 今回はポップアートの展示だから、特に私の好みの作品は少なかった。ウォーホール、デュシャン、リキテンシュタインといった大御所の作品と解説文はとりあえず一通り眺めてみた。展覧会に行く予定は当初なく、眼鏡を持っていなかったため、字の細かい解説文の判読に手こずったが、読み応えのある解説文もいくつかあった。
 美術館をめぐっていて気になるのは、いつも決まって、楽しそうに会話している鑑賞客である。こちらは静かに落ち着いて鑑賞したいのに、会話しながら絵を見ている男女を見ると、嫉妬と不快感がまじりあっていつも私を苦しめた。
 一方、絵の前にじっと立ち止まって、何分も見つめている人や、絵を見ながら熱心にノートを取っている人を見ると、私の心は安堵の気持ちに満たされるのだった。ノートを取っている青年は美大の学生か何かで、レポートのために義務としてメモを取っているのかもしれないし、あるいは画家を夢見るヒッピーで、名作のデッサンを取っているのかもしれなかった。
 時折おばさんの集団が、この絵はどういう絵の具を使っているなど薀蓄語りをしながら作品の前にたむろしていることがあったが、なかなか動かない彼女たちに困らされることは、若い男女のじゃれあいに邪魔されるよりも楽しいことだった。
 展示品の中に、裸の男女が横になって絡み合っている彫像があった。私の前にいた女性も、隠れている性器を覗きこむように見ていたので、私も真面目な顔をしながら性器結合部を確認してみた。男女の性器とも実にリアルに再現されていたが、感情のない無機質な描写で、何の色気もなかった。私は興奮することなくその場を去った。
 逆に、崖から飛びこむ場面など、象徴的な光景を何個か組み合わせて性の営みを表現している絵画には、激しく魅了された。
 今回の展覧会ではヨーロッパのポップアートもたくさんあった。ヨーロッパのポップアートにはアメリカのものよりも、より観念的、寓意的な表現の作品が多く、私の好みに添っていた。
 一通り美術展を見終わった後、出口にあるミュージアムショップに立ち寄った。並んでいる絵葉書を確認したが、いつも通り印象派とピカソの絵葉書が多く、欲しいものはなかった。今までそれほど興味がなかった現代美術への興味が湧いてきたので、私はミュージアムショップの奥に陳列されている現代アート作品集のうちから、一つ小さいのを選んで購入することにした。
 美術展に立ち寄ると、展覧会そのものより、絵を見た興奮を伴いつつの買い物の方が面白いものである。私は青い表紙の現代アート作品集を購入し、コインロッカーに戻った。
 鞄の中から早速アイポッドを取り出すと、私はグレン・グールドが演奏する、バッハ生誕前のイギリスで書かれたピアノ曲を聴くことにした。
 建物の外に出ると、もう日が暮れようとしていた。私は家に帰って、買った作品集を読み、まだ知らない素晴らしい作品、作家、コンセプトと出会えることを楽しみに思った。同時に、部屋においてきたブロンテの詩集を含めた本たちのことも思い出されたので、喜びは倍だった。
 美術を鑑賞することで性欲を刺激されたからか、あるいはプルーストを読む男と偶然席が一緒になったせいか、私は久々に小説でも書いてみようかという想いにもかられた。
 試しに、今日の渋谷の散歩でも小説にしてみようかと思いついた。何も刺激的な事件はなかったが、今日体験し、考えたことは、静かにすすむ小説のよい題材になると思えた。
 私は、ハンバーガーショップでプルーストを読んでいた彼を、小説の重要なモチーフにしようと考えた。スノッブな彼を語り手として、渋谷の街の芸術的側面を描いた小説。古典的なスノッブたる私は、プルーストが動き回る映画を嫌い、不動の絵画と小説を愛したように、映画があまり好きではないのだが、小説のモチーフたる彼には渋谷のミニシアターでたくさん映画を観てもらうことにしようと思った。
 私は渋谷駅に向かいながら、小難しい映画作品を、意味もわからないままに見て一人気取る主人公のスノッブ加減を想像して、悦楽に浸るのだった。


三 


 小説のモチーフとして選んだ彼女がどのような行動をとるのか、どのようにして小説は終わるのか、私は小説のスケッチをノートに描いていった。
 マダム・ボヴァリーが作者であるフローベールの分身であるように、彼女の精神は作者である私の分身となるだろう。
 小説の方針の確認を終えてから、私は店を出て、いつものバーガーショップに寄ることにした。
 フレッシュバーガーを注文したが、食欲はさほどなく、私は小説のスケッチをまた描いた。さすがにもう午後三時近いし、食事をしようかと思ったが、カフェラテを飲む気分にもなれなかった。私はノートを閉じて少しの時間文庫本を読むことにした。
 精神的には高揚していたが、体はだるく、関節のふしぶしが痛かった。ひょっとすると風邪でもひいたかもしれない。いざ小説を書こうとするといつも風邪をひいてしまうのだ。読書にのれないまま、フライドポテトを食べても、体の疲れは取れなかった。
 私はインターネットで見つけた新宿のマッサージサロンに寄って、疲れた体に恢復の機会を与えてから、家に帰ろうと思った。
 食べかけのフレッシュバーガーをテーブルの上において、私は店を後にした。陽が落ちてきた外は肌寒く、人ごみをよけて歩くだけでも、足の関節が痛くなってきた。
 土曜夕方の山手線は空いていた。山手線と言えばプロイラーの飼育場のようにぎゅうぎゅう詰めのイメージしかなかったので、人がまばらな車内にいると、不自然な感じがした。
 徒歩でもよかったのではないかと思える程の短い電車の旅を終えて、新宿駅に到着した。電車から降りるとまた渋谷並みに人がたくさんいる。よくこれだけの人がいながら、ぶつからずに歩けるものだと、並の人間が持つ頭脳の高度制御機能に関心しながら、私はマッサージサロン目指してひたすら歩き続けた。アイポッドの音楽はベル・アンド・セバスチャンの『わたしの中の悪魔』にした。
 男も普通に施術を受けることができるが、内装は女性向けで清潔感があり、若い女性客に人気がある店をインターネットで検索して見つけたのが、今向かっている店だった。
 ネットで一度見ただけの、地図の記憶を頼りに東口を歩き回った。紙に印刷された地図もなく目的の場所を探すとなると、心の緊張が増してくる。地図に記してあった目印となる交差点、銀行を見つけると、心にいくらか落ち着きが戻ってきた。
 新宿駅から離れるほど暗くなってくる歩道を歩いている途中、小さなビルの三階当たり、上品すぎて目立たない看板に、店の名前を発見した。
 雑居ビルのエレベーターで三階に上がると、真っ白な内装のサロンが待っていた。フロントには北欧風のテーブルとソファがおいてあり、受付の女性店員の笑顔と挨拶の声もまろやかで好印象だった。
 受付でリュックの中に入れていた体験チケットを渡すと、すぐロッカールームに案内された。用意されたバスローブに着替えながら、私は受付の女性のような、可愛らしく人当たりのよい人にマッサージしてもらえたら、嬉しいだろうなとよこしまに考えた。
 深い青色のバスローブに着替えた後、案内された個室に入ると、照明は落とされており、ニューエイジ調の穏やかなバックミュージックが流れていた。私はベッドに腰かけて、男が来るのか女が来るのかもわからなかったが、優しい美人の到来を期待した。
 胸を高鳴らせながら控えていると、ドアをノックする音が二度室内に響いた。控えめなノックの音にこれは女性かと思いながら、返事をした。
「失礼いたします」
 上品な声が聞こえて、現れたのは細身の美女だった。
 彼女は部屋に入ってくると、改めてゆっくりと深いお辞儀をして、挨拶の言葉を述べた。彼女の瞳はくっきりとした二重で、引き締められた口元からは意志の強さが感じられた。淡い緑の制服を着ており、髪は後ろに束ねられていたが、私は彼女を見てすぐ既視感を得た。
 今日、私は渋谷で彼女とすれ違っている。デパートの入り口脇で見かけたシックな装いの美女こそ彼女ではなかったか。彼女を主人公にした小説を書こうと思い立った、まさしくそのきっかけとなった女性こそ、目の前に立っている店員だった。私はすれ違いの彼女と二度と会わないだろうと思っていたのに、同じ日に、体と心が触れ合う場で、また出会ってしまった。
 私は彼女と出会っていたか、確認したい想いにかられたが、彼女に質問したところでどうなるものでもない。彼女は私に一瞬見られただけですぐ立ち去ったのだ。私の視線など感じもしなかっただろう。
 彼女は私が示した不意の驚きを察して、瞳を広げ、何か不都合でもありますかというメッセージを送ってきた。
「今日お会いしませんでしたか」と言えるはずもなく、私は驚きを察せられまいと、顔を無表情に戻して、押し黙った。
 彼女は私が示した不可解な行動を奇妙に思っただろうが、私がそれについて話題にすることを拒んだからか、事務的にマッサージオイルの準備を始めた。
 私は肌触りのよいスリッパを脱ぎ、ベッドの上に足を上げた。
「うつぶせになってお待ち下さい」と言われたので、私は、胸をベッドシーツの上にかぶせた。薄い羽毛枕の上で腕を組み、両手の間にあごを乗せると、肩から背中にかけて、筋肉が強張っているのがよくわかった。
 私にとってみれば、小説の中心にすえようと思った女性にこれから施術を受けるわけだから、興奮は高まるばかりだった。私は気分の高揚を隠すことに必死だった。しかし体は正直で、心臓が高鳴り、息まで上がっていることが感じられた。
「今日はお買い物でもされていました?」
 夜パーティーで出会った時の挨拶のような柔らかいトーンで、彼女が私に声をかけてきた。もちろん彼女にしてみれば、当たり障りのない問いかけをしたつもりだろうから、すぐに返事を返すべきなのだが、「あなたは渋谷で買い物でもされていませんでしたか」と問い返すわけにもいかず、私はどう返答しようか悩んでしまった。
 結局、「ええ」とだけ、短く答えた。どちらかと言えば私はこの短い時間のうちに、彼女と親密になりたかったが、店員に会話を求められた時いつもするように、相手を敬遠する答えを返してしまった。
「今日はお天気でしたしね」
 彼女はあくまで当たりさわりのない会話を続けようとしていた。私はそのような心の探りあいを一気に飛び越えて、彼女との出会いの喜びを語りたい気持ちにかられた。
 マッサージの準備が整い、彼女のオイルで濡れた手が、私の首にそっと乗せられた。彼女の手のひらは温かかった。いつも緊張して硬くなっている私の首の肉は、彼女の指によって優しく揉みほぐされていった。そのようにさすられると、あまり人が触れてこない場所でもあるので、心の襞までが揉みほぐされているように感じられた。
「ずいぶんこっていますね。座りのお仕事をされていますか」
「ええ」
 今回もまた私は短い答えをするだけに終わった。午後の間ずっと、彼女をどう小説とするか考えていたから、首がこったのだとは言い出せなかった。
 彼女の指は首に続いて、絶えざる緊張で石のように重くなっている私の肩をも優しく揉みしだいた。彼女の指先がゆっくりと肩の肉を押すと、上体全体にこもっていた力が、空気中に溶け出していくように感じられた。
「こんなになるまでほっておいては駄目ですよ。今日だけで、なんとかこりの中心がとれるようにしますね」
 彼女の手に力みはなかった。自分で揉む時はもっと力いっぱいに押していたので、彼女ほどの、触れるか触れないかくらいの微弱な力でさする方が、愛を感じることができると知り、私は嬉しくなった。
 自分が一番痛んでいる部分を彼女に慰めてもらったことで、いささか親密さと愛情が増したことを契機に、私は思い切って質問の言葉を発してみた。
「土曜日も一日働いているんですか」
「今日はお客様が最初なんですよ」
 彼女は照れくさそうに笑い声を含ませながら答えた。
「仕事が始まるまでは買い物でも?」
 いつもなら恥ずかしくて切り出せないような質問でも、緊張がほぐれた今なら、次々と問いただせていける気がした。
「ええ、目覚まし時計を買おうと思って。結局これといったものがなくて、買わなかったけれど」
 小説の構想同様、実在の彼女もまた目覚まし時計を買おうとしていたことを知り、私は神のいたずらを感じた。
「目覚まし時計の他にはそうですね、何か本でも買おうかと考えていたけれど、結局買いませんでした。そうそう、美術館にも寄りました。ポップアートの美術展です」
 偶然が不要なほど重なったことで、私の肩は再び緊張し始めた。肩を揉む彼女の手にも力が入ってきたように感じた。
「美術館に寄る前にはね、バーガーショップで食事をしたの。その時隣でプルーストを読んでいた男のことが気になって、小説でも書き出してみようかなと思いもしたし」
 これくらい重なると、最早それは偶然ではなく、まして必然でもなく、誰かの悪巧みとしか考えられなくなった。小説でもありえないような、やりすぎの一致に私は何者かの意図的な策略を感じた。
「プルーストを読んでいた男の様子が、大学の時一緒だったスノッブたちの雰囲気と一緒だったの。その男を主人公にして、スノッブを批評する小説を書いてみたくなったわけ。フランス文学とフランス映画好きの典型的なスノッブ。彼はいつかプルーストやナボコフみたいな偉大な作家になりたいと思っている。けれど野心ばかりがつのって、自分が理想とする小説が書けずに苦しんでいる。いい小説が書けたと思ったら、物語の最後にはヒロインの女性に殺される、現代の魔術的リアリズム」
 彼女は喋りながら、私の肩の肉を指でつまみあげていた。鋭い痛みが走ったが、筋肉の緊張が極点まで達したことで、痛みの感覚自体が崩壊していくように感じられた。
「今あなたは痛みを感じている。でもね、私の力であなたの体から痛みを消し去ってあげることもできるの。マジックみたいな話でしょう。けれどこの魔法はすぐに実現する。なぜなら、あなたは私が書いた小説だから」
 彼女は私の首を両手でもろ掴みにし、厳しく締め上げた。私は鋭い痛みと呼吸困難に耐えかねて、顔を真っ赤にして苦しもうと思ったのだが、息は自然にできたし、何の苦しさもなかった。
「あなたが人間なら今頃死んでいるでしょう。あなたは私が現実を模倣してこしらえた紙の上の存在にすぎないから、痛みを感じることもできない」
 私は彼女の言葉をよく飲みこめなかったが、苦しみを感じることができないのは確かだった。首をしめられて苦しくない場合、どう振舞えばいいのかわからず、私は困惑した。
「あなたが今までいろんな痛みを感じたり、希望に燃えたり、野心を膨らませたりすることができたのは、私があなたにそうして欲しいと望んだから。今はぜんぜん痛くないでしょう。死ぬべき場面なのに、死ねないでしょう」
 私は首をひねって、彼女の顔を見ようとした。首はあらぬ角度まで回転していき、うつぶせのはずなのに、私の顔は彼女を真正面から見据える位置にまで達した。
「ほら、そんな妖怪みたいな格好をしておかしいじゃない」
 彼女は私を見下して嘲笑していた。私などはペットにすぎないと思われているようだった。
「違う、僕の方が君を小説にしたんだ」
 私は抵抗した。
「何を言ってるの。私が本物。あなたは現実の模造品」
「神にでもなったつもりか。お前の思い通りになんてならないぞ」
 たとえ私が彼女の小説の登場人物だとしても、彼女が現実のどこかで暮らしている本物の私をコピーして、紙の上に模造品を作ったのだとしても、製作者たる彼女は私の全てを知っているわけではないのだ。私が作者たる彼女のことをよく知らないのと同様に、彼女もまた創り出した私の全てを把握しているわけではない。
「そんなの当たり前じゃない。あなたみたいな人のことが理解できないから、理解しようとして、小説を書いているんじゃないの」
 彼女の答えは至極まっとうに思われた。私もまた彼女のことがよくわからないから、憧れの心を持って、本来は作者たるべき彼女のことを小説にしようとしていたのかもしれない。
「もうおしまい。殺すのでも消すのでもなく、これでおしまい」
 私の視界から彼女が消えた。
 彼女だけでなく、小さく鳴っていた音楽は聞こえなくなり、薄暗い間接照明も、壁もベッドも消え去ってしまった。
 首を異常な角度で曲げていた私の体も重さを感じることができなくなった。私の意識だけが残ったが、この意識もまもなく、この世界にいる意味をなくしてしまうだろう。
 模造品の製作者が飽きたからといって、簡単に捨てられてしまってはたまらない。現にデシャンのレディメイドである「噴水」は、オリジナルの便器がどこにあるかわからなくなった後でも、依然美術館に存在し続けている。コピーがオリジナルを超える日は必ずくるのだ。





 買い物から一週間後の休日、私は再び渋谷の時計売り場に行き、丸く小さなクリーム色の目覚まし時計を購入した。
 金属製の銀色のベルが頭部についてはいるが、それはあくまで昔懐かしい目覚まし時計の雰囲気を出すための装飾であり、実際は電子アラームが鳴るのだった。
 文字盤の数字もモード調でロマンチックな形だったが、時針と分針にはしっかりと蛍光塗料が塗ってあった。しかし、秒針が壊れた手持ちの目覚まし時計に比べると、アラームの音はか弱いし、針も小さすぎて、遠くからは見えにくかった。
 私は前の目覚まし時計をごみにしようかと思っていたのだが、外見は美しいが実用性に乏しいこの目覚まし時計一つでは、朝起きられるか不安だと感じたので、壊れた目覚まし時計はテレビの上に置いたままにした。
 テレビの上にあると、ベッドで横になった時や、朝早く起きすぎた時、時刻の確認が容易となる。新しい目覚まし時計は、ベッドの脇にあるワイドテレビの上においても、今何時かよくわからないほど針が小さかった。
 新品はリビングのデスクの上におき、時刻を見るためでなく、装飾のために使用することにした。ただ、毎朝八時のアラームは、新しい方の目覚まし時計にセットすることにした。デスクの上にある目覚ましのアラームを止めようとすると、ベッドから起き出して歩く必要がある。二度寝防止に効果があるかもしれないと思ったのだが、実際は目覚まし時計が数歩離れたところにあるからといって、寝起きの悪さが治ることはなかった。
 古い目覚まし時計は新品が居座っても、不満の声をあげるでもなく、秒針が壊れたまま正確に時を刻み続けた。目覚まし時計なのにアラーム機能を使わないのは可哀想でもあったので、新品のタイマーと時間を十分ほどずらして、二度寝予防に利用しようかと思いもしたが、アラーム機能は音の小さな新品に完全に任せることにした。
 二台の目覚まし時計は仲良く同じ時間を指し示し続けたが、数日経つと、一分ほどのずれが目につくようになった。時を間違えているのは、針の壊れた古い方でなく、全ての機能が正確なはずの新入りの方だったりした。
 私は渋谷で見かけた彼を主人公とした小説の第一草稿を書き上げた。仕事が終わって、夜の十一時頃家についてから、毎晩眠るまでの時間を利用して、規則正しく言葉を積み上げていった。
 小説を書くのに疲れたら、レンタルショップから借りてきたゴダールやヴィスコンティらの映画を鑑賞して、疲れを紛らわせた。普段は映画をあまり観ない私だが、小説の主人公となる彼はゴダールの映画が好きなスノッブなので、彼の気持ちになりきるため、映画を借りたのだった。
 大学以来久々に観たゴダールの映画が私に与える印象は、大学の頃得た印象とはまるで異なるものだった。当時は『勝手にしやがれ』だけが面白いと思っていたのだが、今では『中国女』も『ワンプラスワン』も刺激的だと思えた。特に、大学時代は観てもよさがさっぱりわからなかった『気狂いピエロ』を観た時は、前後の作品をたくさん観たおかげか、映画史上最高にスノッブな作品だと思えるほど深い感銘を受けた。
 DVDの鮮明なカラー画像で見るゴダールの愛人アンナ・カリーナは、アナログ放送の画面に映る現代のどの女優よりも、現代的で可愛らしいと思えた。意志の強さを象徴する丸い瞳を持った美女が、気だるい表情でジャン・ポール・ベルモンドと哲学的な対話を繰り広げる。これは恋に飢えたスノッブたちの永遠の憧れとなりうるはずだと思えた。
 薄い盤面に刻印されたアンナ・カリーナの可愛らしさに心打たれながら、私は渋谷で同席した彼を主人公にした小説を書き終えた。第一草稿の最後は、ペトロの手紙の引用で終えた。
 私は理想的な愛のかたちについて語るペトロの言葉と、スノッブたる彼の未成熟な恋愛感情を比較して、彼の過去を徹底的に批判する言葉を書き連ねた。今になって冷静に振り返ると、誰もペトロの言葉通りに理想的な恋愛を行なえる者などおらず、あの崇高な愛の教えを読んだ皆が、自分の過去犯した恋愛のあやまちを罪として自覚してしまうのではないかと思えるのだった。
 クリスチャンでもないくせに何故小説に聖書の引用をしたかというと、文学作品からの引用では、著作権に触れてしまうのではないかと怯えたからだった。聖書なら誰もが引用しているし、気安かろうと思って引いたのだが、今ではそれは安易な逃げだと思えた。私は聖職者の言葉を小説に引用することを諦め、小説全体をリアリズム作品からメタフィクションに変更した。
 宗教の説教も、共産主義の言説も、理想を述べる言説は、どれも現実の人間の愚かさと齟齬を起こしてしまうと、そう確信したのは、小説を書いている最中傍らにおいていた、国文社の中岡洋訳によるブロンテ詩集を読んだおかげだった。

まず青春の希望が 潰えさり
次いで空想の虹が またたく間に消えて
それから経験が わたしに教えてくれた
真実は人間の胸のなかには 決して育ちはしないと
人はみなうつろで 卑屈で 不誠実だと
考えるのは まったく悲しいことだった
しかし わたし自身のこころを信じながら
そこに同じ堕落を見出すのは なおさらに悲しかった

 ブロンテの詩は徹底的に暗く、孤独の哀しみに彩られている。このような悲哀の内的独白こそ文学独自の表現である。エミリー・ブロンテは文学少女の哀しみを一身に背負って体現しているかのようだった。
 ブロンテの示す人間不信の絶望感に照らし出せば、宗教的説教や左翼のアジテーションは、ひどく誠実すぎて、理論的に完璧すぎて、歴史上今までずっと不誠実で卑屈だった人類にとっては、決して成就できない理論のように思えるのだった。げんにキリスト教徒の植民地侵略と共産党の独裁政治、オウムと連合赤軍という歴史の悲惨を見ると、宗教や哲学が撒き散らす理性的な言説より、ブロンテが表現した嘆きの方が、誠実に思えるのだった。
 新しい理論、教条を打ち立てるのが真面目な哲学・宗教の役目だとすれば、言葉にしてしまっては不届き者! と一喝されるような、言い難き嘆きを歴史に書き加えることが、文学の重要な役割の一つであると感じられた。
 絶望を嘆くブロンテが敬虔なキリスト教徒であるわけもなく、彼女が残した唯一の小説『嵐が丘』の中では、熱心に聖書について説教する使用人のジョウゼフは、あらん限り風刺の対象として滑稽に描かれている。キリスト教の倫理的教えがもはや何の権力も持ち得ないような現代日本にいる私からすれば、ペトロの残した文章はひどく立派なものに思えるのだが、国教会という制度のもとに、興味もない国民全員にキリスト教がおしつけられていたヨークシャーのブロンテからすれば、ペトロの言葉はおしつけがましい説教にしか聞こえなかったのだろう。
 『嵐が丘』ではまた、全てを見通す一つの視点などあり得ないと嘲笑するかのように、様々な視点から物語が語られている。ある人物が小説で示す極悪さは、登場人物の一人である語り手の偏見に基づくものかもしれず、実際の彼はもっとましな人間かもしれないと読者は推測できるのだった。
 複数の価値観がひしめき合い、決定的真実を見出すことができない『嵐が丘』の真実らしい世界観では、キリスト教の教えが絶対的に正しいと言い切れるはずはないだろうし、あらゆる理論、主張は、別の立場からしたら嘲笑と軽蔑の対象になりうるのだった。
 私はブロンテやプルーストについての論考と一緒に、執筆中の草稿を自分のブログに掲載していた。パソコンで小説を書き上げ、一度推敲したら、適当な分量で切り分け、ブログに連載した。読者の反応を期待したのだが、名もなく、宣伝活動にも熱心でない私のブログを訪れる人はごく少数のスノッブに限られており、コメントやトラックバックがつくのも稀だった。
 昨晩、小説を最後まで書き上げてから、メールソフトを確認したら、多数の迷惑メールに混じって、ある男性からブログの感想を記したメールが送られていた。私はブログに自分が住んでいる街を記していたのだが、その男はメールの中で、自分も同じ街に住んでいる、よければ日曜日にでもお会いしたいと書いていた。
 いきなりの誘いに私は戸惑ったが、彼がぜひ会わねばならぬと書く理由が、私の心を強く弾きつけた。
 私が書いているブログは、彼が書いたものだと言うのだ。彼は私に盗作疑惑をかけているわけではなかった。彼いわく、私は彼によって創り出されたメタフィクションの登場人物であるが、架空の人物ではなくリアルに存在する人間だと思いこんでしまっており、彼になりかわって小説の作者になろうと企んでいる最中だというのだ。
「現実の女性からコピーされたフィクションの存在であるはずなのに、あなたは自分のことを現存在だと思い始めました。あなたは毎秒呼吸し、食事をし、排泄し、性欲を感じ、睡眠する、愚かな人間の一人だと思いこんでいますが、あなたが生きていられるのは僕の頭の中と、紙の上と、さらに付け加えればウェブ上の仮想空間に限られています。今あなたが暮らしている東京は、本当の東京だけれど、あなた自身は偽者なのです。いくら言葉で説明したところで、わからないでしょうから(言葉こそ偽りを作り出す張本人ですからね)、ぜひお会いして説明したいと思います。生きている私の姿を見れば、あなたは私の言っていることが偽りでなく、現実だとわかるでしょう」
 彼は極度のスノッブであり、このような謎めいたメールを送ることで、私を誘っているのだと思えた。私は彼の言葉を難解好きのスノッブ特有の冗談であると判定し、私が虚構の存在であるという指摘は受け入れないことにした。
 それでも、とりあえず会ってみようという気にはなった。このような不可解な語彙が入り混じった言葉で話すスノッブは、きっとヌーヴォー・ロマンやプルーストのことが好きなはずだから、話が合うと思えたのだ。
 結局スノッブが嫌いだという私自身が最大のスノッブなのだ。スノッブの特徴は、知識をむやみやたらに快楽のために使う点である。相手をはぐらかす詩的な言葉づかいばかりするスノッブたちは、旧時代の遺物にしか思えず、私は嫌でたまらなかったのだが、そういう私自身も、スノッブではない人々からすれば、スノッブとしか映らないだろう。
 どんなにスノッブを嫌悪して、テレビに出てくるような日本人の幸福な消費生活を送ろうとしても、私が好きなのはスノッブ的な趣味の音楽、小説、映画なのだった。
 スノッブの傍らには、彼らがなりたくてもなれないもの、インテレクチュアルズなり研究者がいる。私は大学で真面目に研究する人生に魅力を感じなかったから、一旦世俗に出て働くことにしたのだが、真面目な研究を嫌う態度こそ、スノッブ特有の遊戯的態度から生じるものだったのだ。働きながら気ままに小説を書いて、いつかは小説家になろうという企みもまた、きわめてスノッブ的な、虚栄心に満ちた人生設計だと思えた。
 仕事の休みを利用して書いた小説が、メタフィクションの構造を持っていることもまた、スノッブ趣味の具現であった。十九世紀的な写実主義を信じないスノッブは、メタフィクションを偏愛する。本来メタフィクションは、世界は統一的視点で割り切れるものではないという思想を表明するために、リアリズムの限界を打破するために考えられた手法であるはずだが、スノッブたちはメタフィクションが最初に持っていたコンセプトなど忘れ、ただ世界文学の流行だからとか、知的洗練を感じるとか、そうした無批判な理由をもとに、メタフィクションを愛するのだった。手法選択の必然性を考えず、知的モードだからという理由でメタフィクションを選択している私もまた、スノッブの典型だった。
 私が会いたいと思う彼もまた妄想を偏愛しているスノッブである。いかにしてスノッブから脱するかといえば、方法は簡単だ。スノッブ的な遊戯、他人の賞賛を追い求める欲望から離れ、真摯に一つの物事に没頭すればいいだけだ。スノッブは溢れんばかりの知識を持っているが、彼らは知識を特権の維持に利用するだけだから、サイードが言うところのインテレクチュアルズには決してなれないのだ。
 私は彼との待ち合わせ場所に駅前のコーヒーショップを指定し、メールを返した。返信し終えると、すぐに彼から了承のメールが返ってきたのも気持ち悪かった。
 私は早く起きて、彼との面会前に成城の書店に行き、デシャンの本を買うつもりでいた。
 デシャンの本の発見は、まったくの偶然によるものだった。『失われた時を求めて』をアマゾンで検索すると、検索結果ページの末尾に、アマゾン利用者によるおすすめ商品のリストが出てくる。プルーストの愛好者たちが作成したマイリストをクリックすると、文学が好きな者なら必読書となるべき文学・思想関係の本がたくさん並んでいた。
 販売者や評論家が作る推薦書のリストよりも、こうした名もなき読書家たちが作る推薦書のリストの方が、趣味が同じ人間たちが作っている分、本選びに役立つものである。言わばアマゾンという仮想空間上に、各自のマイリストを通じて、文学サロン、教養の交換所ができあがっていたのだった。現実に文学を語り合える友や交流の場がなくとも、ネット上でいくらでも知識を交換し、作品を発表しあえる場があるからこそ、私はしがらみに満ちた大学を離れる決意をしたのだった。
 数日前、プルースト愛好者のリストを気軽にたどっていったら、ウォーホールの日記とめぐり合った。中古品のため二百円という低価格がついていたので、私は早速購入しようとしたのだが、その時は夜遅かったせいかシステムエラーが出てしまい、購入決済ページに進めなかった。これも運命かと思い、エラーがおさまるまで執拗にクリックし続けるという愚行は避けたのだが、昨日の夜、再びウォーホールの日記を読みたいと思い、アマゾンを探し回った。ウォーホールで商品検索をかけても日記にヒットしなかったし、元々私に日記の存在を教えてくれたリストを探しても、見当たらなかった。しかし、以前見たその優れたリストを探している過程で、私はデシャンのインタビュー本を紹介している別のリストを見つけたのだった。
 デシャンと言えばレディメイドの作家であり、便器を美術品とした現代美術の最重要作家である。当時の伝統的美術に浸るスノッブたちをデシャンは批判したのだが、その後、彼の前衛的態度を模倣する多数の前衛スノッブたちが現れたのは皮肉である。
 本の紹介文によると、有名になった後のデシャンは美術界から距離をとり、作品も造らず、隠遁生活を送ったとあった。私はデシャンにそれほどの興味も、重要性も見出していなかったのだが、デシャンのスノビズムに対する距離のとり方を読みたいと思い、その本を購入することにした。
 アマゾンに注文すると、宅配便が家にやってくるのを待つ必要があって億劫なため、私は彼と面会する前に、成城の大きな書店によって、デシャンの本を買うことに決めた。
 翌日曜日、新しい目覚まし時計の微弱なアラームを聞いて目覚めた。自転車で成城に向かい、開店と同時に書店に入ると、案の定デシャンの本はおいてあった。本当に買う価値があるか、試しに数ページ読んでみると、十分に刺激的な本であるということがわかった。
 目的の本が見つかったことに満足しながら、私は自転車を飛ばして待ち合わせの駅前に戻ってきた。彼との待ち合わせ時間までまだ間があったので、私は駅前の古本屋によって、現代美術関係の本を引き続き購入することにした。
 古本屋にはデシャンなど前衛芸術家の本はなく、ルノアールやレンブラントなど定番作家の本がおかれていた。複数の美術雑誌をめくる過程で、私は憧れの現代美術界にも、文学の分野と変わらぬ状況が出現していることを知った。
 今まで現代アートと言えば、規制の美の概念を打破する実験的作風のものばかりだと思いこんでいた。最早美を信じていない美術に比べて、文学はモダニズムに退化したのではないかとずっと悩んでいた。美術に対するそうした嫉妬の念も、美術雑誌をめくる過程で解消した。いわゆる現代アートを扱っている雑誌もあれば、現代作家の手による近代美術風の作品ばかりを並べている雑誌もあった。美術も文学も混在状況は同じなのだ。
 めくった雑誌の中に、写実主義の特集があり、表現技術のあまりの微細さに驚いた。西洋絵画の技術を極限まで推し進めた細密描写で描かれる裸婦の肖像画は、写真よりも細やかに見えた。写真や映画の技術が発達した現代においては、現実の模写を目指したリアリズムの絵画も小説も不要になるだろうと思っていたが、そんなことは全くなく、どこまで写真や映像の技術が発達しても、絵画や小説の写実主義には、他の媒体では表現できない独特の美しさがあることを感じた。
 ピカソやデシャンの革命を全く無視したかのようなそのテクニックの顕示は、メッセージ性や社会性など全くなくとも、芸術が成り立つことを証明していた。裸婦は徹底的に微細なタッチで描かれており、どんな写真家でも彼女をこのように撮影することは不可能であると思えた。この絵を前にしては、フェミニストや前衛芸術家の軽々しい近代美術批判など崩壊するように思われた。前衛芸術と写実芸術はどこまでも共存していくことが可能なのだと確信できた。
 ゴダールの映画に出てくるアンナ・カリーナを美しいと感じる自分は、スノッブ的ではないかと思っていたのだが、彼女の挑発的な顔を見て美しいと思うことは許されると知り安堵した。そもそも何を見て美しいと思うか、いちいち他人の評価を気にするのがスノッブ的なのだ。
 写実主義の技法で描かれている絵画が多数載っている中古雑誌を購入してから、私は駅前のコーヒーショップに入った。店内には年輩の女性客がたくさんいた。世田谷の住宅街に住む若奥様たちが、夫や子供を家に残して、仲間内でおしゃべりを楽しんでいるのだろう。たいていどの女性も婦人誌に出てきそうな上品な服装をしており、彼女らの夫は残業時間の多い一流企業で働いているのだろうと想像された。
 店の中を見渡したが、二十代の男性客はいなかった。私はアイスのカフェ・ティラミスを注文して、一番奥のソファに座り、写真よりも精密な筆遣いで幻想的な情景を描いているナランホのハイパーリアリズムを楽しんだ。
 幻想的な異世界を描く時に、戯画的な筆使いをせず、近代絵画の写実手法を使っているナランホの絵画は、私の心を写真やコンピューターグラフィックとは全く異なる絵画独特の芸術世界に誘った。
 口の中で甘さが広がるカフェ・ティラミスを飲みつつ、私は時折視線を入り口の自動ドアに向け、待ち合わせの男が来ないかと伺った。
 彼は「生きている私の姿を見れば、あなたは私の言っていることが偽りでなく、現実だとわかるでしょう」と言っていたのだから、自動ドアが開き、彼の姿が現れれば、すぐにでもそれと気づけるのだろうと思った。
 彼の宣言が本当なら、私は彼を見た途端にこの世界から消え去ってしまうかもしれない。いや、消え去るか残り続けるかは、彼の意思に従っているのだろう。彼は私のドッペルゲンガーではなかろうか。小説の作者はたいてい登場人物に自分の心の一破片を与えるものだが、おそらく私は彼の嫌な部分を持っていることだろう。
 ドアが開き、男が現れた。濃い茶色のトレンチコート、ベージュの細身のパンツ、本革の靴、小さなベージュのリュック。彼だった。
 彼は渋谷のバーガーショップで、私と全く同じフレッシュバーガーのセットを注文し、私と同じくプルーストを読み、私が自分の小説の主人公にしようと思い立ったあの彼だった。
 私は小説を書き始めるきっかけとなった出来事を、自分の小説にも反映させていた。小説の語り手たる彼に、街で偶然出会った女性を主人公にした小説を書かせていたのだ。彼が描く女の考え方、価値基準は、当然のごとく彼を生み出した私の哲学と重なっていた。 
 私が書いた小説の最後で彼は、小説のモデルにした女と別の場所で、再度出会っていた。彼が憧れた彼女は、小説の本当の作者だったことが明らかになり、登場人物なのに作者だと思いこんでいる彼は、本当の作者たる彼女に消されてしまうのだった。
 今私の目の前に、小説のモデルとした実人物の彼がいる。私が小説の中で書いた展開と同じだ。私の小説の中で、作者と思いこんでいた彼が消されてしまったように、今度は私が消される番が来たのだろうか。
 最早どちらが本当の作者なのか、どちらが虚構の創作物なのかということなど問題ではなくなった。自分こそは偽りの人生を送っていると考えた方が虚構となるだけなのだ。
 彼が先日メールをよこした男なら、今日私を殺すためにやって来たのだろう。作者だったはずの彼は自分の現実感を取り戻し、再び作者の立場に戻るために、私のもとへやって来たのだ。
 いや、これは彼の側からみた世界観である。私の側から見れば、彼は小説の登場人物に過ぎない。しかし彼は自身を小説の作者と思いこみ、登場人物の一人に作者の座を乗っ取られたという被害妄想まで抱いている。私は彼の世界観を崩壊させる決意をし、コーヒーを注文している彼をにらみつけた。
 案の定彼は私の真正面ではなく、隣のソファに浅く腰かけた。彼が注文したドリンクには、クリームが乗っており、全体も淡い茶色になっていた。おそらく彼は私と同じカフェ・ティラミスでも注文したのだろう。つくづく人の神経を逆撫でする厭味な奴だと思った。
 彼は私と待ち合わせなどしていないかのように、私には目もくれず、リュックの中から雑誌を取り出し読み始めた。読んでいるのは、私と同じ、写実主義の美術誌だった。
 彼は私の方から話しかけてくるのを待っているのだろう。話しかけた途端に、ひょっとしたら写実性をはぎ取られてしまうかもしれないと思えたから、私は彼の様子を探りながら、彼と同じ雑誌を読み続けた。
 実際は三分くらいだったろうが、当の本人にしてみれば十分以上の持久戦と感じられた無言の神経戦が終わり、彼が椅子から立ち上がった。
 なんだ、やはり単なる偶然の一致で、彼は私のことなど知らないのだと思ったのも束の間、彼はリュックから綴じ紐で結ばれた書類と、私の部屋にあるはずの秒針が壊れた目覚まし時計を取り出した。私のテーブルの上に二つの品を並べると、彼は私の方には目もくれず、自動ドアの向こうに消えた。
 目覚まし時計の秒針はやはり三十秒と三十一秒の間で痙攣していたが、その他の針はいまだ正確に進んでいるようだった。私は目覚まし時計を鞄の中にしまいこんでから、彼が残した書類を手に取った。
一番上のページには、私が考えた、ヴィスコンティの映画から引用した小説の題名が印字されていた。二ページ目からはきっと、私か彼のどちらかが書いただろう小説が印刷されているのだろう。
 ページの下に記されている、私についての記述にめぐり合った瞬間、自我が崩壊してしまうかもしれないと恐れながらも、私は表題の書かれた一ページ目を手でめくり、小説を読み始めることにした。
 ページをめくった瞬間、鞄の中から目覚まし時計のアラーム音が聞こえてきた。私は公衆の場で騒音を立てたことを恥ずかしく思いながら、機械の後部にあるスイッチを押し、アラームを切った。
テーブルの上に視線を戻すと、アラームがなる前は文字が記されていたはずのそこに、私の顔が現れていた。
 平面のページに私の顔が盛り上がっている。鏡で観る左右反対の顔と違い、現実の顔とそっくりそのままに、立体的で肉感的な私の顔は、自身の目の前に同じ顔があるのを発見して、軽蔑のまなざしを放ち始めたのだった。
 私は冷めきった瞳に怒りを覚え、鞄の中から先ほどの目覚まし時計を取り出そうとした。鞄の中を探ってみて驚いた。壊れた目覚まし時計だけでなく、部屋のデスクの上においているはずの、新品も入っていたのだ。
 私は一瞬迷ったが、秒針が壊れていない新品を手に取った。腕を振り上げて、ページから盛り上がっているもう一つの私の顔をにらみつけたら、彼女はにっこりと笑った。私はその笑顔めがけて、目覚まし時計を力一杯叩きつけた。
 テーブルが振動し、まわりから悲鳴が上がった。店内の会話がきれいに途絶えた。店員と客の顔全てが、血のついている私の顔を見つめていた。スイッチを切ったはずなのに、古い目覚まし時計のアラームが、鞄の中で鳴り響いていた。


 了

(2006年12月制作)
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