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小説『アダルト芸術の巨匠』

最終更新日:2008年11月9日
1 真琴篇

 

 

 

 

  神話空間1

 

 

 燃え立つ匂いのかけらが何万回も彼を焼き殺した。

 彼は焼き殺される度に生き返った。

 炎の匂いが彼を覚醒させる。

 時々彼は感じる。水が液体になれない時間を。

 

 

  自然空間1

 

 

 森はもう森ではなかった。それは、それは悪魔だ。

 ぼくは何回も森に散歩に出かけていた。黒い森、白い森、時々燃える森。ぼくの父親は森で死んだ。ぼくの母親は森で生まれた。

 

 森を走り回る。緑の匂いが鼻につく。時々死体が転がっている。死体の腐臭が鼻にまで来る。時々宇宙が堕ちてくる。だからこそ森に行く。

 

 その日も森は、いつものようにくるくると圧縮されていた。

 森のど真ん中に、真っ黒な石がある。歩き疲れると、僕はいつもこの石の上に座って、待っている。待っていれば、何かが舞いこんでくるものだ。たまたまその日は赤いベルトが落ちてきた。ところどころくすんでいる、ぼろぼろのベルト。

 ベルトに手を差し伸べる。ぼくの手のひらの上にベルトが舞い降りる。ベルトを舐めてみた。舌が焼ける。

 ぼくはベルトを目の前の木に向かって放り投げた。木にベルトがぶち当たる。奇妙なことに、ベルトが木に吸いこまれた。僕は木に駆け寄り、ベルトが当たったあたりを凝視した。木にはもうベルトの痕跡がない。一発木をぶっ叩いてみる。ごつんと木が発狂する。

 こんなふうだから、こんなふうだから、森に留まり続けることを人間は放棄したみたい。

 

 真っ黒い石から、西に九十五歩進んだところに泉がある。小さな泉だ。泉にたどり着くと、ぼくはいつも裸になり、水に体を浸す。

 濁った緑の水がぼくの体についた汚れを洗い流す。泉の表面に仰向けになって浮かんで、空を眺める。また何か落ちてきそうな予感がする。

 じっと待ってみたが、何も落ちてこない。さらにじっと、じっと待つ。お腹はいっぱいだったから、時間などもう問題じゃない。

 日が沈む。昼の鳥の声から夜の鳥の声に音空間が変貌する。ぼくの体もいい加減寒さに耐えられない時間となった。今日は諦めて家に帰ろう。爺が作ってくれる料理を食べて、眠ってしまおう。また明日、この泉にくれば、そうすれば・・・

 

 ぼくは泉に直立した。腹のあたりくらいまでしか水位がない。首を右にひねると、水辺にある岩が視界に入った。切り立った岩の上に見なれない人が一人座っている。江戸時代から抜け出してきたような格好をしている。袴を着て、ざんぎり頭。男か女かもよく分からない。どっちでもないようだ。

 そいつはぼくのことには気づいていないようだ。何しろ、その人の目は死んでいる。

 その人の体が真っ二つに割れた。中から和製の人形が飛び出した。赤い着物をつけたお姫様のお人形だ。姫がくるくる回転して、ぼくの方に進んでくる。

 ゆっくりとしたスパイラル運動の果てに、ぼくの左肩の上に姫がとまった。二つに割れた人の体は、もう蒸発している。

「こんにちは」人形の口でも動いているのだろうか。耳元で音が振動する。

「ああ、こんにちは」

「ばか。もう夜だよ」

 

 

  神話空間2

 

 

寂しい。ひとりぼっちの時には、いつもこうして耳にマイクをあてて、誰かの叫びを聞こうとするの。当然何も聞こえないの。だって、マイクだもの、口にあてるべき機械だもの。

 イヤホンがないから、マイクしかないから、マイクから声が聞こえてくるような気がしたの。お兄ちゃんはそんな気分の時ってないの?

ないよ。お兄ちゃんは人ではないんだもう。お前が生きてくれ。

お兄ちゃんはお兄ちゃんではなくなってしまったのかしら?お兄ちゃんも苦しい時があったら、このマイクに向かって喋ってくれればいいのに。そうすれば、私の耳にお兄ちゃんの声が聞こえてくるのに。だってそうでしょう、私はいつもひとりでこの部屋にいて、ずっと本を読んでいるでしょ。だから、はやくお兄ちゃん、喋ってごらんよ。

俺はお前の兄ではなくてね、お前のお姉さんなんだよ。分かるか、お前。お前も俺の妹ではなくて、俺の弟なんだぞ。

喉が乾いた時には、何を飲めばいいかわかる?お兄ちゃんには絶対わからないでしょう、私の趣味なんて。こうやって、こうやって、こうやって飲むのよ私はいつも液体を。お兄ちゃんは時々どこか遠くのおうちへ行くんでしょ?そうして、私が夜一人でいる時に何を飲んでいるかなんて、まるで興味がないんでしょ?

もう少しだけここにいてもいいかい?妹のお前に読んであげたい本があるんだ。聞かせたい音楽があるんだ。これから後何年お前が生きているか俺にはさっぱり見当もつかないよ。だからはやく酒を飲んでくれ。お姉さんのところにお酒とお花を添えてくれ。

お兄ちゃんお兄ちゃんって、なんべん呼んでみても誰も返事をしないようだから、私やっぱりマイクを耳にあてるのやめてみようかな?お兄ちゃんには素敵な人がいたでしょ?その人お兄ちゃんが死んでから一体何年生きたと思う?そんな何年も生きてるわけないじゃない。すぐ死んじゃったよ。すぐに。お兄ちゃんの体が焼き尽くされてからすぐにね。後追い自殺ってでも呼べるような感じで。

その人は俺の恋人じゃないよ。俺自身だよ。お前はずっと勘違いしていたんだ。ただそれだけだよ問題は。そんなことはもう思い出したくもないから、さあ、早くお兄ちゃんの声をよく聞いてごらんよ。

マイク マイク マイクスタンドオン 電源オン 誰か電源 オン オフ 誰か電源 オフ

 

 

  社会空間1

 

 

「マイクのスイッチ入ってる?」

「うん、なんとなく。入ってんじゃん?」彼女の体が横にずれる。僕はその横にずれる彼女の体の線を優しく追っていく。

「もうちょっとこっちな。そこだと音が入んないから」

「わかってる。わかってるけどさ、やっぱりこっちの方に一回ずれてみないと、そっちに行けないみたいなの」僕はゆっくりと彼女の体の動きを確認する。そうだ、そっちの方だ。その動きなら確かにOKだ。

「ねえ、少し疲れたから休憩していい?」

「ああ。みんな、五分休憩な」僕は筆を下ろす。スタッフたちも四方に散っていく。

「はい」

「ありがとう」アシスタントの女の子は彼女にバスローブを渡す。僕は彼女にコーヒーを渡す。

「もう何年になるんだろうな?こうしてお前をうつしだしてから」

「うー、腰イタ。ちょっとここ揉んでくれる?」

「いいよ」僕はもう何年間も彼女の腰を揉んできた。違った揉み方を毎年試してきた。手をあてる。押しつける。線を指でなぞる。彼女の肌に僕の人差し指が沈む。

「もうさ、こういう仕事、私、ほんとはやめたいんだよね」

「酒飲むたびにそう言ってんじゃん」

「わかんないんだよね。一体なんでこんな歳になってまで、こういうことしてるのかが。普通こういう仕事って、二十歳になったばかりの女の子がするもんでしょ?」

「もういいかな?」

「うん。ありがと。だいぶよくなった」

「すいません。そろそろ再開してもいいですか?この場所とってる時間、そんな長くないんで・・・」アシスタントの女の子が小声で言う。

「うん。それじゃ、また動いて」僕は彼女の体から離れる。僕はまた目を開く。

 彼女はバスローブを羽織るまもなく、またあの石の上に寝そべる。僕はまた筆をしっかり持ち直す。僕の足は水にずっと浸かっている。ほとんどのスタッフたちの足も泉の水に浸かっている。大勢の足が泉の中でうごめく。水しぶきがいたるところであがる。ただそれだけだ。

「スタート」

 彼女の体が横にずれていく。僕も筆をゆっくり走らせる。この位置だ。この位置からなら視界もいいし、森の全体像に彼女の体が調和している映像がはっきりとれる。

 僕はそこで動くのをやめた。彼女も感じて動きをやめた。

 僕はさらにすばやく筆を動かした。肌の輪郭を丹念に塗りこめる。これだ。このかたちだ。このかたちがあるからこそ、彼女はこの仕事をこんなに長い間続けることができたのだ。

 満月が空のてっぺんで光っていた。太陽みたいな強い光だ。最後に彼女の髪の毛を正確に描いてから、僕は筆を納めた。

「おつかれさまでした!」様子をみてとると、アシスタントの女の子がすぐバスローブを持って走ってきた。裸で横たわる彼女は、あまりに横になって動きすぎたので、意識が朦朧としているようだ。描きおわった僕は、後のことは女の子たちに任せて、車の方に向かう。明日にでもこのかたちを清書しないといけないから。

 

 

  鏡像段階1

 

 

「先生は、寂しくなってくんでしょ?いっつも」

 私の目の前には三つ机があり、三人子供が座っています。彼らのいつもの突飛な質問がおかしくて、つい笑ってしまいました。

「早くお家に帰りたいな」

「先生、こんなふうに思ったことない?どこかにちっちゃい島があったらさ、燃やしてみたいなとか」

 子供たちはいつもこんなことを私の前で呟くのです。だから、私の授業は一向に進まないのです。夏休みなんて、この子たちにあげられるわけがないじゃないですか。

「もちろん無人島だよ、無人島。誰も住んでないとこだよ」

「人形がいっぱい住んでたりして」真ん中の席の子がそういうと、両脇の子がひくひく笑い出しました。私の目を見て、笑っています。

「いいですか皆さん。そろそろ授業を始めますよ。教科書の四十二ページを開いてください」

「持ってないよ、教科書なんて」

「すいませーん、お母さんが昨日食べちゃいました」教室にまた子供たちの意地汚い笑いが起こりました。私は気にしないで授業を進めることにしました。何しろ他のクラスの三十倍も私たちのクラスは遅れているのですから、強引に進めないと行けません。

 授業が終わりました。子供たちはチャイムが鳴る三十分前に教室から出て行きました。

 私は誰もいない教室で、教科書に載っていたランボーの詩を朗読していました。詩はこのように何回も味わうようにして読まないとわかりませんからね。

 

 

  社会空間2

 

 

 車でくつろいでいたら、小雨が降ってきた。彼女の体が心配になってきた。夜と雨の寒さに、今の彼女の意識状態で耐えられるだろうか。

 アシスタントの女の子が走って戻ってきた。古い日本人形を手に持っている。

「おつかれさま。その人形、どうしたの?」

「池の中に落ちてたんですよ」笑いながら人形を僕に差し出す。女の人形だ。人形は水に濡れて湿っている。赤い服も、黒い髪の毛も濡れていて、何だか不気味だ。水に浸されていたことで人形が生命を持ったかのようだ。この人形を見ているうちに、彼女の体への心配が、僕の心から消えてしまった。

「後ろに乗りなよ。ずっと水に浸かってたから、寒いでしょ」人形を股間の上に置いて、僕はアシスタントの女の子にそう告げた。

「ありがとうございます」後ろのドアが開く。バックミラーには何故か女の子の顔がよく映らない。女の子は車の中に入ったのだろうか?それとも通りぬけてどこかに行ってしまったのだろうか?

「ごめんね、なんていう名前だったっけ?」

「真琴です」

「真琴ちゃんはいつからこの仕事、始めたの」

「私の名前はハルカっていいます」

「え?さっき真琴って言ったじゃん」

「やだなあ。その人形の名前ですよ」何を言い出すんだこの娘は?後ろを振り返る。ハルカと名乗った女はいない。

 いや、いた。後部座席に横になって眠っている。疲れきって死んだような顔つきだ。シャツもジーンズもべっとりと湿っている。

 

 彼女が歩いて戻ってきた。寒さと疲労で疲れきって、足元をふらつかせながらゆっくりとこちらに向かってくる。幽霊みたいな動きだ。彼女は白いバスローブを羽織っているだけで、足には茶色のサンダルを履いている。バスローブの表面についている水滴がほのかに光っていて妙に色っぽい。

「おつかれさま」僕の横に彼女が座った。力のない声だ。僕は車のエンジンを入れ、アクセルを弱々しく踏んだ。

「今日は何だか古臭い映画をとってるみたいな気分だった」ぼそぼそと、かすれた低音が彼女の唇から漏れる。車はゆっくりと進み出す。

 他のスタッフたちはまだ後片づけをしているのか、泉の方から帰ってこない。はやく街に戻りたいので気にしないで車を進める。

「なあ、お前の名前、何だったっけ?」

「は?何?新しいゲーム?」こちらに彼女の冷めた視線が来る。僕の股間にある真琴に彼女の目が一瞬飛んだ。

「お前の名前って、もしかして真琴か?」

「それで、どうしようっていうの?そこから何か始まるの?」狭い砂利道を車は走っていく。道の周りにはうっそうと長い草が生い茂っており、小動物でも飛び出してきそうな雰囲気だ。

「質問に答えろよ」

「はい、真琴です。そうだよ私は真琴だよ」

「真琴は、俺のこと好きか?」

「人形が感情持ってるわけないじゃん」

「いや、俺は人形の名前を聞いたんじゃなくて、お前の名前を聞いたんだよ」

答えがない。横をみると、彼女は首を窓の方に傾け、眠っていた。後ろにいるハルカもまた死んだように眠りこけている。

 

 

  鏡像段階2

 

 

 私は教材を抱えて教務室に戻りました。休み時間に廊下を歩いていると、元気に走りまわる子供とばかりすれ違います。注意しなくてはならないのですが、その時の私には注意する気力もなかったので、そのまま見過ごしました。

 教務室に戻ると、私の机の上に、サイコロが三個散らばっていました。誰が置いたのかな?青いサイコロ。六の目と、三の目と、五の目。足して、十四。

 計算して、何かの暗示がないのか調べようとしましたが、特に意味はないようです。十四という数字に思い当たることは全くありません。十三でなくてよかったとほっとしただけです。

 二十分ある休み時間のうちに、新聞でもちょっと読んでみようかと思い立ち、鞄に入れていた今日の新聞を取り出しました。特に目立ったニュースはないようです。いつものくだらない事件ばかり。「猫が三匹発狂」とか「森の泉に子供の水死体」とか「自殺者過去最高」とか。

「先生、算数のことで質問してもいいですか?」振り向くと、黒い髪の毛の、おかっぱ頭の女の子が笑って立っています。細い目に小さな鼻、薄い唇。古風な顔つきをしていて、昔のお人形さんのようです。この子を学校で見かけたことはありません。

「いいですよ」

「先生は今何歳ですか?」子供はぶしつけな質問をするものです。

「二十四よ」まだごまかさなくてもよい若さだったので、子供のように素直に答えました。

「私はいくつだと思います?」

「ちょっと待って。あなたはたしか、算数の質問をしにきたんでしょ?」

「はい。算数です。今世界中の数学者が注目している問題を出してるんですよ」彼女がそう言う、チャイムが鳴りました。二十分休みだから、こんなに早く鳴るはずはないのに。とにかく早く教室に戻って授業を始めないと。

「ごめんね。すぐ戻らないと。あなたも早く自分の教室に戻りなさい」

「私、先生と同じ教室です」

「そうなの。嬉しいわ。ちょうど男の子ばっかり三人しかいなくて、困っていたところだから」

 私はその子と一緒に廊下を走りました。できるだけ音をたてないようにして。でも、その子は足音も何もひっそりとしていて、まるで宙を滑っているようです。

「ごめんなさいね。あなた、名前は何ていうの?」

「真琴です」

 

 

  社会空間3

 

 

 二人の女が僕の隣と後ろで眠っている。車は砂利道を進む。小石をタイヤが踏みしめる音が連続する。雨が強くなってきた。視界が悪い。どこまで行ったらこの森から抜けられるのだろうか。

 股間の上に置いていた人形を彼女の膝の上に移した。人形の湿りが移ったのか、僕の股間も濡れている。しかし、こんなに水がうつるものだろうか。どことなく粘ついているようにも感じる。

 後ろで物音がする。ハルカが目を覚ましたようだ。ハルカがゆっくり起きあがる様子がバックミラーに映る。よかった。

「ごめんなさい。ちょっと寝ちゃいました」

「大丈夫?風邪ひいてない?暖房少し入れておいたけど」

「ありがとうございます」そう答えるハルカの声はいつもと少し違い、くぐもって聞こえる。寝起きのせいかもしれない。

「あのお、今日作ってた作品って、いつごろ売りに出すんですか?」

「うーん、そうだね、だいたい二ヶ月くらい後かな。これから、あそこにもっと筆を重ねていかないといけないんだ」

「やっぱり大変なんですね。それする時って、また美紗緒さんに動いてもらうんですか?」

「いや、今日とったのでだいたい原型はできたから、そこから先は別の子を使う場合がほとんどなんだけど」

「やっぱり美紗緒さんを使いたい?」

「まあそうだね」

「監督って、美紗緒さん、お気に入りですもんね」彼女が微笑む。僕も一緒に愛想笑いをする。

 道に迷ってしまったのだろうか。地図で確認した方がいいかもしれない。こんな森の地図などないのだが。

「ところでさ、この人形が落ちてたのってどんな場所だった?」

「あの泉ん中にあったんですよ」

「周りに何か変なものなかった?」

「中学生くらいの男の子が使ってそうなトランクスが真琴さんにまとまわりついてました」

「また、よりによって変なのついてたね」だめだ、完全に道に迷ってしまった。入ってきた時はこんなに広い森だとは思わなかったのに、出口が見つからない。

 

 彼女は眠ったままだ。彼女の芸名は美紗緒という。本名は僕も知らない。歳はもう三十くらいだろうか。五年ほど前、何かを目撃して、僕らの仕事場にやってきた。それから、動き出した。

 彼女の動きは他の人間には見られない動きだった。彼女独特のゆったりとした動きは、見る人の心を催眠状態にした。その動きを絵にうつしてみても、できた絵には、彼女の悩ましい動きの痕跡が残っていた。

 僕らの仕事場に来てから、彼女は僕らの世界でずっと現役だ。今はもう第一線からは退いているが、長年の根強いファンを多数持っている。僕もまた彼女のファンの一人だ。巨匠もまた彼女の体を愛してやまない。

 車を動かしてから、もう二時間ほど経過した。車の時計を見たら、ちょうど午前三時と表示されている。運転するのにも疲れてきた。ハルカは一時間ほど前からずっと、人形をもてあそんで時間をつぶしている。時間をつぶしているというよりは、人形に没頭していると言った方がいい、身も心も真琴にさらわれいているようだ、ずっと真琴を抱いて笑ったり、悲しんだり。美紗緒はよほど疲れたのか、眠り続けている。美紗緒は、姿勢も何もまるで変化していない。

 日が昇るまで待った方がいいだろうか。運転に疲れてきた。少しエンジンを止めてみる。

「どうしたの?進まないの」美紗緒が目を醒ます。前からずっと醒めていたのかも知れない。

「進んでも進んでも、森から抜けられないんだ。夜が明けるまで、ちょっと休憩な」

「ハルカちゃんさ、免許持ってたんじゃない?」

「持ってますよ」ハルカは逆さにした人形を股間に挟みこんで、喜悦の笑みを浮かべている。

「何だよ、持ってたなら、早く言ってよ」

「ごめんなさい、真琴さんに夢中で」ハルカが照れくさそうに言う。人形の体全体が小刻みに動いている。

「監督、代わりますよ」

「でも、道わかんないでしょ」

「やだなあ、私たちに任せてくださいよ」ハルカは「私たち」と言った。人形とハルカだろうか。人形とハルカと美紗緒だろうか。人形とハルカと美紗緒とトランクスだけを残して消えた少年だろうか。

 僕はハルカのいた後部座席にうつった。ハルカの座っていた場所の布は湿っており、緑色に変色していた。

 運転席にはハルカが座っている。助手席には美紗緒が座っている。人形はどこにも座っていない。ハルカは後ろから前へ移動するときに人形を持っていったはずだが、人形の姿は、ここからは見えない。ハルカの膝の間におさまっているのだろうか。

 ハルカの髪の毛は短く、茶色に染められている。美紗緒の髪の毛は肩にかかるほどの長さで、今は後ろでまとめられている。映像を創り出すときは、束ねたものがほどかれ、横に広がる。そして美紗緒も横に動いていく。

 僕は、とりとめもなく会話している二人の後ろ姿をじっと見つめながら、眠りを待っていた。眠ってしまえば、目覚めた頃にはこの森を抜け出ているはずだ。急いで仕事場に戻って作業の続きをしないと。昼頃には巨匠が仕事場に訪ねてくるはずだ。昼前に戻れたらいいが。

 

 

  神話空間3

 

 

 虚空の菩薩の懺悔の場所。

 眠っているかい?炎たちは。何も終わっちゃいないんだ。無がそこに来たら、性が始まる。黒いものと白いものがぶつかりあって、灰色の獣が何回も門を叩くのだよ。ぐつぐつと煮込んでいた熊汁が、ひっくり返って、二人にぶっかかり、二人は大火傷だ。

 もうわかるだろう?お前よう。命は、始まった瞬間から、終わりに向かって飛びこんでいくんだよ。無になだれこんでいくんだよ。いやいや、爺さん、始めからそれはよ、無だったんだよ。とろとろ煮込んだ汁はおいしいだろう。この煮込んだ汁をあそこにぶっかけるんだな。そうすればいいさ、そうすればいいさ。命なんてそうやっていつも始まるんだよ。

お兄ちゃん、怖い。緒にいちゃん、怖い。

そうだよ。俺は「緒」兄ちゃんだよお前の。そして本当は「緒」姉ちゃんだよ。

 

 

 

  鏡像段階3

 

 

 真琴さんと一緒に教室に入りました。机は三つ、子供たちは二人。真ん中に座っていた赤毛のタカシ君がいません。もう、しょうがないな。

「タカシ君がどこに行ったか、知っている人はいませんか?」

「知らねえよ」

「窓から飛び降りでもしたんじゃん?」うすら笑いが漏れます。子供のうすら笑いというのは、時々恐ろしい残忍さをおびるものです。大人には信じられないような陰険さを、子供は時々見せるものです。

「それよりさ、その女の子、誰?」

「俺知ってるぜ、真琴ちゃんだよ」

「そうですよ。よく知っていたわね?」

「前一緒にサッカーしたときあるもん」右の男の子が笑います。真琴さんも笑いました。というより、真琴さんは今までずっと微笑んでいました、お人形さんみたいに。

「うちのクラスに転入してきた真琴さんです。真琴さん、とりあえず、タカシ君が座っていた席に座ってもらえるかしら?」

「ええ、喜んで。もともと私の席のようなものですから」

 真琴さんは二人の男の子に挟まれて、それでも微笑んでいます。男の子たちも笑い始めました。笑い声は高笑いに変わっていき、下品な笑いに変わっていき、そのうち笑いすぎたのか、男の子たち二人は机に顔を埋めこんで泣き始めました。真琴さんだけが上唇と下唇を合わせて、微笑んでいます。

「ようやく静かになったわね。それでは、社会の授業を始めます。教科書の三十八ページを開いて下さい」真琴さんだけが机から教科書を取り出します。多分タカシ君の教科書でしょう。他の二人はまだ泣いています。タカシ君がいなくなったことに後悔でもしているのでしょうか。人間的な、あまりに人間的な感情でも取り戻したのでしょうか。

「今日は、日本の戦後史について学びましょう」

「先生、教科書が白紙です」そういって、真琴さんが三十八ページを私の方に開いて見せてくれました。確かに何も書かれていません。男の子たちはまだすすり泣いています。女の子は私の前に現れたときから、ずっと優しく微笑んでいます。

「おかしいわね。私の教科書は白紙じゃないんだけどな。どうしましょう?」確かに私の教科書には文字がびっしりと並んでいます。

「いいよ、俺の教科書、真琴ちゃんに貸すよ」左の男の子が顔を腕に埋めたままそう言うと、彼は顔をあげて、机から教科書を取り出し、乱暴に真琴ちゃんに渡しました。男の子の目は赤く腫れあがっています。目だけでなくまぶたも腫れあがり、お岩さんのようです。

「ありがとう。でも遠慮しておくわ。私は現代史になんて興味ないの。昔の人だから」真琴ちゃんはそう言って、右の男の子の机からも教科書を取り出すと、三冊まとめて廊下に放り投げてしまいました。

「先生、先生の代わりに私が授業をしてもいいですか?」

「面白そうね。いいわよ」男の子たちの顔が恐怖で歪み始めました。左の唇と右の唇がずれていきます。顎もわれそうです。

「私は残りの時間、タカシ君を探すことにするわ。じゃあ、真琴ちゃん、よろしくね」

 教務用具を壇上に残して、教室を去ろうとすると、男の子たちが必死に私に視線を送ってきます。私は背中に死の危険に怯えた、助けを求める四つの目を感じながら、教室を後にしました。生きていることがはっきりしている子供たちよりも、生きているかどうかあやふやなタカシ君を助けないと。

 

 

  社会空間4

 

 

 疲れきっていたので、夢も一切見ずに僕は熟睡した。いつもは、僕は目覚める前に、毎回悪い夢ばかり見ていた。夢には、小学生の頃の友達がいつも出てきた。僕は彼らと夢の中で理不尽な争いばかりしていた。決まって、僕はいつも男友達とばかり争っていた。女子は出てこなかった。今回はそんな争いもなく、何の憂いもなく、覚醒することができた。

 太陽の強い光が目に突き刺さって、とても眩しい。ようやく夜が明けたようだ。車の窓から外を眺めると、白い田園風景が広がっている。田んぼの上に重なっている白いものは雪だろうか。まだ、10月だというのに雪が降るものだろうか。昨日はまだ雪も降っておらず、あんなに暖かかったのに。

「監督、起きたみたいですよ」ハルカがバックミラーでも見たのか僕の目覚めに気づき、美紗緒にそう告げた。そうだ、作品をとった後、僕らは森から抜けられず、夜中の間ずっとあの小さな森をさまよっていたのだった。

「おはよう」前方を見たまま美紗緒が言う。ハルカの声はいつも力強く、元気がみなぎっている感じがするが、美紗緒の声はいつも力がない。弾みのない低音だ。演技するときもそうだ、普通の演技者は激しく躍動するのに、美紗緒は何の躍動感もなく、のっそりと動いていく。それが美紗緒の味となる。

「おはよう、森を抜けたのか。それにしても、外、真っ白だな。雪でも降ったの?」

「一体何日寝てれば目が醒めるんだろって、ずっとハルカと話してたんだよ」

「何日?俺、そんな長い間、ずっと寝てたの?」

「そうですよ。もう監督が眠り始めてから、1ヶ月以上たったんじゃないですか」

「一ヶ月?今日って一体何月何日?」

「十一月二十一日」美紗緒がぼそっと言う。車は田んぼ道を五十キロほどのスピードで進んでいく。

「撮影の日が十月十四日ですから、今日でちょうど三十八日目ですね」

「随分計算早いんだね、ハルカ」

「昔そろばんやってたんですよ。全国大会にも出たことあるんですよ」二人が談笑する。そんな馬鹿みたいな話があるだろうか。

「待てよ。俺が寝てからどうなったんだ?森はいつ抜けたの?いま走ってるのどこ?」

「つい昨日あの森から抜け出たばかりです。この道も、来るときにタカシさんの運転で通った道ですよ」

「一ヶ月も森の中をさまよってたのか」

「わりと楽しかったよ。ねえ。真琴と一緒だったから」そう言って、美紗緒は手に持っていたあの人形を僕に見えるように掲げた。

「食べ物とか、睡眠とか、どうやってしのいだんだよ」

「全部真琴がいたから大丈夫だったよ、気にしなくていいよタカシは」

「そうですよ監督。すぐ事務所まで戻りますから、安心してくつろいでて下さいね」

 そうだ。きっと全部あの人形のせいだ。あの人形がいたから、こんな変なことになったに違いない。仕事のことが気になる。巨匠に謝らないと。

「仕事のことなら心配ないよ」心を読まれでもしたのか、美紗緒が落ち着いた声でそう言う。彼女の低音はよく考えてみると、催眠術師が語りかけてくるときのような、柔らかく落ち着いた響きを持っていて、彼女にそう言われてしまうと、心から不思議と不安が消えてしまう。

「さっき電話で巨匠に事情説明しといたから」

「森の中だと電波が届かなくて、どこにも通じなかったんですけどね」

「他のスタッフは撮影後すぐにスタジオに戻ったんだって。私たちを捜索するかどうか迷ったみたいだけど、ほら、警察に言うとやばい仕事してるわけだから、こっそりね、自分たちだけで探しに来たりしたんだって。巨匠は今ちょうど、あの一連の作品作ってたところだから、一切私たちのことには関わんなかったんだって」

「何ていうか、巨匠らしいですよね」

「『見つかったのか、まあ見つかると思ってたよ。お前たちのことだからいい薬になっただろ』なんて言ったりして」

 巨匠がどうしただの、スタッフたちが心配しただのということは、やはりどうでもいいことだった。目の前のあの日本人形をどうにかしないと。あれを見ていると僕の心は激しく歪みだす。胸のあたりにある内臓がぐるぐる体中を駆け回る感じだ。

「ねえ、その人形ちょっと貸してよ」

「だめですよ美紗緒さん、監督の言うこと聞いちゃ。きっと何か悪いこと企んでるんですよ、いつもみたいに」ハルカが冗談めかして言う。彼女はなぜいつもあんなに楽しそうなのだろう。この仕事が面白いのか。僕らと一緒にいられることが面白いのか。いや、違う、やはりあの人形のせいだ。あの人形がハルカを面白がらせているに違いない。きっとそうだ。

「そうだよね。タカシは真琴のこと絶対わかってないよね。だって、真琴のこと、まだ名前で呼んでないもんね」

「そうですよ。恥ずかしいんですよ多分」ふとバックミラーを見て気づいたが、さすがに一ヶ月も寝ていたせいか、僕の顔はやつれ、髭も髪もぼうぼうだ。まぶたも寝すぎたせいか腫れあがっている。目に力もない。みじめだ。

「こんな仕事してて、本当はタカシって女嫌いなんだよね。大きなコンプレックスでもなきゃ、こんな仕事選ばないよね」

「お前だって、じゃあなぜ、こんな仕事してるんだよ?ハルカちゃんだってそうだ。俺には理解できないよ、人前で裸になるような羞恥心のなさが」空気が悪くなった。人形のせいだ、こんなことになったのは。

 二人は黙りこんでしまった。僕もしばらく黙って、窓の景色を眺めていた。裸になることを軽蔑するようなら、僕が本当にはっきりとそう言えるような良識者だったなら、僕はこんな仕事を選びはしなかっただろう。心の底では軽蔑する心があるかもしれないが、僕はやはり、そういう行動を取る彼女たちの存在を美しいと思う。そんな、はっきり断定して生きていけないのだ僕は。

 何か二人に申し訳ないことをしてしまった、そういう気持ちが起こってきたが、謝るきっかけがない。車は道を進み、市内に入った。まだまだ仕事場までは距離がある。

「あと何時間くらいで戻れると思う?」気まずいが聞いてみることにした。こういうときは、何気ない一言から、物語が始まり直すものだ。

「あと4時間くらいだと思います。もうすぐ高速に乗れますし。高速が混んでなきゃ、もっと早く着けますよ」いくらか声のトーンは低いが、ハルカが明るい感情を表現しながら答えてくれた。ハルカもこの状態を打開しようと思ってくれたのかもしれない。が、美紗緒は黙ったままだ。ある程度のプライドがないと、彼女のするような仕事は続けられないものだ。

 美紗緒はしっかり人形を抱えている。ハルカはそんな美紗緒をうらやましく感じているように思われる。運転しながらも、信号などで止まると、人形を時々眺めて、もの欲しそうにしている。

 僕はまた目を閉じて眠ることにした。一ヶ月も寝たのに、寝すぎた気がしない。食欲もない、性欲もない。もっと眠って眠って眠りつくしたい。自分の存在が消えるまで。

 いや、待て。大切なことを聞き忘れていた。

「ねえ、一ヶ月も森の中を走ってたって、ガソリンはどうしたんだよ?それもあの人形のおかげで大丈夫だったの?」

「そうですよ」ハルカが屈託なく答える。

「体は洗ってたの?」

「はい。時々泉を見つけたので」

「服はどうしたの?下着を替えなくていいの?美紗緒なんてずっとバスローブ一枚で一ヶ月過ごしたのか?普通の格好に着替えてもいいじゃないか。何でバスローブのままで座ってるわけ?」

「大丈夫なの。私たちには真琴がついてるから」美紗緒が、何をわかりきったことを聞いてるのかとあきれた声で答える。少しおどけた調子が入っている。直前の口喧嘩にあった語気の鋭さはない。いつもの落ち着いた低音だ。

「そんな人形によって全ての解決が与えられるなんて、とんでもない話だよ。都合がよすぎる。絶対おかしい」

「タカシは毎日都合の悪い世界で生きてきたんじゃない?すいすいと物事が進む生活をしてる人だって、いっぱいいるんだよ」美紗緒はくすくす笑いながら、僕を哀れむようにそう言った。

「まだまだ謎だらけだよ。他にも不条理なことばかりだ。こんなずっと車の座性に座っていたら、体が痛くなるだろう?街に帰ったら整体にでも行ったらいいさ。それに、そもそもあの森は、そんな一ヶ月もさまよえるほどの大きさなんかじゃなかったはずだ」

「私たちはずっと真琴に守られていたの。一ヶ月間私たちはゆっくり森の中をドライブする必要があったんだよ。落ち着いたよほんと」

「監督は仕事のしすぎだったんですよ。一ヶ月眠りつづけるのも楽しいじゃないですか」

「私たち、真琴と一緒にいて、楽になった。考え方が変わったものね」

「だいたい僕の職業って一体何なんだ?アダルトビデオの監督なのか、もっとアートっぽいことをやってる芸術家なのか、よくわからないよ俺は。お前は何なんだ?AV女優なのか?ヌードモデルなのか?」

「タカシ、実を言うとね、私、今回の作品を最後に、この仕事、辞めようと思ってるの」

 車はついに街中に入った。家々の屋根にも雪が積もっている。所々で溶け始めていた雪が液体状になり、道路へと垂れていた。もうすぐで高速になる。

 

 

  自然空間2

 

 

「じゃあ、こんばんは」肩の上にいる人形に、聞こえるだけの最小限の音量で声を出す。

「こんばんは。あなた、一体何人?」

「人に質問するときは、自分から言うべきだよ」

「子供なのに変なこと言うのね」

「人形にそんなこと言われたくないな」

「私は、この島国で生まれた」

「僕も日本人だよ」

「そう。やっぱりまた日本だったか。どこか大陸に行きたかったのに」人形がぼくの肩から飛んだ。真っ二つに割れた人がいた岩の上に人形が立つ。

「君が出てきた人は誰なの?どうしちゃったの?」

「あれは、私を作ってくれた人よ」人形の声はささやき声のようなのに、ぼくの方にまではっきりと聞こえてきた。むしろぼくの頭の中に直接人形の声が聞こえてくるようだ。抑えた調子の、古風な言葉遣い。婆がきっと若い頃、こう喋っていたと思われるような言葉遣い。

「あなた何歳?」

「だからね、質問するときはそっちから・・・」

「そうだったわねごめん。私は・・・おっと、私は何歳でしょう?」

「その前にぼくの質問に答えてごらんよ。ぼくは何歳でしょう?」

「十四歳でしょう」

「当たり。じゃあねえ・・・きみは四十八億歳だ」

「正解。ねえ、あなた『燃え立つ匂いのかけらが何万回も彼を焼き殺した。彼は焼き殺される度に生き返った。炎の匂いが彼を覚醒させる。時々彼は感じる。水が液体になれない時間を』っていうなぞなぞ、聞いたこと、ある?」

「ない。それ、なぞなぞって言えるの?質問形式になってないじゃん」

「聞いたことがなくても、あなたなら謎を解けるかもしれないわね、私の年齢を当てたのだから」

「待って待って。きみがなぞなぞをかけたいなら、その前に、ぼくのなぞなぞにまず答えてごらんよ」

「いいわよ。何でも解いてあげるから、かけてごらんなさい」

「じゃあ、いくよ。『見つかったものが見つからなくなることって何だ?』」

「それ、論理的におかしくない?」

「だからなぞなぞなんだよ。謎がさらに謎になるでしょ」

「待って、ちょっと時間をちょうだい。あなた、まだここにいるの?」

「もうお腹がすいたから、帰ろうかと思ってるんだけど」

「少し待ってて。答えを探しに行くついでに、ごはんも持って来てあげるから」

「まあいいや。じゃあちょっとだけね」人形は空の空の空の方へと飛んでいった。ぼくはまた体を水面に浮かべる。不思議だ。この泉の水は死海の水のように、人間の体を浮かべてしまう。水の上に浮かんで、月の表面に浮かぶ斑点を眺めながら、いろいろ月世界の生態を空想したりして、人形の帰りを待つことにした。

 

 

  社会空間5

 

 

 高速に乗る前に、街で食事でもしようという話になった。その前に美紗緒の服を買ったらどうかと提案したが、美紗緒はバスローブのままで一向に構わないと言う。

 高速インター近くのファミレスで昼食を取ることにした。そう、いまは十一月二十一日の正午ごろ。三時前には仕事場に戻れるだろうか。

 車を駐車し、ファミレスの入り口まで歩く間、美紗緒の左手は人形の左手を握り、ハルカの右手は人形の右手を握っていた。つまり、二人は人形を間に挟んで、並んで歩いていた。二人が歩くと人形が上下左右に揺れる。とても楽しそげな様子で談笑しながら二人は歩いていく。僕はその後ろを、とぼとぼと頭を垂れて歩いていった。

 さっき美紗緒は、これを最後に仕事を辞めると言っていた。普通の女性なら二十代の初めにほんの数ヶ月やって辞める仕事だ。それを彼女は五年近くもやってきたのだから、誰も引き止めはしないだろう。しかし、今回の場合は話が別だ。絶対あの人形が美紗緒の決定に絡んでいる。

 

 ファミレスの店内のど真ん中に池があり、海賊船の大きな模型が置いてある。白い帆がはられ、大砲が何本も取りつけられている。海賊船を囲むようにしてテーブルが並んでいる。

 僕の座った場所は、ちょうど海賊船の室内が見える位置にあった。海賊船の中は厨房になっていて、奴隷姿のコックたちが料理を作っていた。

僕の正面には美紗緒が座り、美紗緒の左隣にハルカが座っている。二人の間に人形が置いてある。手はつながれたままだ。

 海賊船の中から海賊の格好をしたウェイトレスが出てきた。下っ端の女海賊だ。眼帯をしており、スキンヘッドだが、とても精悍としていて、オリンピックに出る陸上の選手のようだ。鍛えあげた筋肉で水を運んできた。

「いらっしゃいませ。こちらがメニューになります」それでも声はマニュアル通りのウェイトレスの声だった。

 皆でランチコースを頼んだ。しかし、四つもだ。

「セットドリンクは何になさいますか?」

「ワインを四つください」美紗緒が礼儀正しい調子で言う。

「ちょっと待てよ。運転はどうするの?」

「大丈夫ですよ。車はもうすぐ盗まれますから」ハルカがあっけらかんと言う。

「ランチとワイン四つですね。ありがとうございます」ウェイトレスはただ暗記して走って帰っていった。

「盗まれるっていうのも人形が指し示してくれたの?」

「そうですよ。後、四分くらいもすれば盗まれちゃいますよ。私が鍵持ってますけど、常識では意味不明な仕方で盗まれちゃうみたいです」

「させない、そんなこと」

「止めようとしても無理だよ。いいじゃない。ワインでも飲んで気楽にしてれば」

「だいたい車の中には俺の筆と、森でうつした作品があるんだ。それだけでも取りに行く」

「なくなってもたいしたことないじゃん。そんな小さなこと、気にしない方が気が楽だよ」

「美紗緒たちは人形があるからいいかもしれないけど、車の中には俺の大切な仕事道具があるんだ」赤ワインの入った四つのグラスを別の女海賊が運んできた。美紗緒とハルカがまず軽く口をつける。

「また新しい筆、作ればいいじゃん」

「俺の筆はそんな存在じゃないんだよ。それに、美紗緒はもう仕事辞めるんだろ。あれが最後の作品だって言ってたじゃないか。その作品が消えてしまうんだよ」

「あ、ちょうど今盗まれたみたいです。四分じゃなくて、五〇秒くらいでしたね」振り返って窓を見ると、確かに僕たちの車が、駐車場から出て行った。運転席には黒いスーツを着た男が乗っていた。すごい目つきをしていた。今にも自殺しそうな目つきだった。

「よかったじゃん。ほら、タカシもワイン飲みなよ。おいしいよ」窓から目を離して、正面を見ると、人形の前にあったワインは消えていた。

「これで一つ監督も肩の荷がおりましたね」ハルカに言われると本当に肩の荷がおりて、楽になった気がするから怖い。

 ワインを口に入れる。僕は酒に弱いので、一口飲んだだけで、すぐ頭がぼんわりと気持ちよくなってくる。視界も曇ってくる。店内を動き回る海賊たちが裸に見える。ハルカも美紗緒も裸だ。僕も裸になっている。脱いだ服はどこにもない。服を身にまとっているのは、人形と他のお客たちだけだ。

「おまたせしました。本日のランチです」最初に水を持ってきたスキンヘッドの海賊が、四つのランチを持って現れた。鍛えぬかれた裸は美しく引き締まっている。一切無駄がない。胸もぴんとはっている。乳首の色が健康的だ。今度彼女を僕の筆で描いてみたい。

「おいしそうだねこれ」皿の上には二つの突起した胸が置かれている。こんもりと中心が盛り上がっており、食欲を誘う、甘く、強い香りがする。

「よかったですね、ここにきて。いただきます」

スプーンを胸の方へおとしていく。スプーンの表面が胸の表面に触れる。僕の左手に胸の柔らかさが振動となって伝わってくる。

「タカシもだんだんくつろいできたみたいだね」

「よかったですね。ゆっくり帰りましょうよ監督」

しばらくこの感触を楽しんでいたいが、スプーンを胸の中に埋めてみる。左の胸の中心の突起部分をスプーンで掬い取る。ゆっくりと口に運ぶ。温かい温度と香りが鼻に漂ってくる。分断された胸の突起物はぷるぷる震えていて、気をつけないとスプーンから落ちてしまいそうだ。慎重に口に運ぶ。口にそれを近づける。ゆっくりと口を開くと、口の中にそれから出る湯気が侵入してくる。

「おいしいね」

「うんおいしい。何か美紗緒さんの、私のより量が多いな」

 そのままスプーンを口の中に入れて、胸の先端をかみしめる。舌の上でそれは溶けていく。口の中いっぱいに液状になったそれが広がっていく。甘酸っぱい味がする。海賊は料理がう上手いようだ。

「ちょっとあげるよ」

「ありがとうございます。なんか私のより美紗緒さんの方が、味濃くておいしいですね」

「そうかな?ハルカちゃんのもちょっと食べさせて」

「どうぞ」

 よく柔らかいものを噛んでから、喉の中に押しこむ。まだ生温かいそれがゆっくり喉を通っていく。胸のあたりが温かくなる。はっきりと食道をそれが通過しているのがわかる。

「ハルカちゃんのもさっぱりしてて、おいしいよ」

「うん、でも私は美紗緒さんの方のが、味つけがこってりしてて好きかな」

「じゃあ、交換する?」

「わあ!、ありがとうございます」

 今度は右の方の胸にスプーンを伸ばす。両方の胸を交互に、ゆっくりと味わって食べることにした。

 

 

  鏡像段階4

 

 

 教室の外に出て、タカシ君を探すことにしたものの、どこへ行こうか悩みましたが、とりあえず監視室に行くことにしました。うちの学校にはあらゆるところに監視カメラが設置されています。一個人としてはどうかなあと思うのですが、お給料をもらっているので何とも言えません。子どもたちにも、親にも知らされていません。巧妙にわからないように隠されて設置されています。私も今まで一度しかカメラを見つけたことがありません。

 監視室に入ると、教頭先生が監視なさっていました。タバコを吸いながら、ツェランの詩集を原書で読んでいらっしゃいます。

 教頭先生は別にモニターをみているわけでもなく、ただここにいるだけといった感じです。機械に異常が起こらないか管理しているだけです。映像は逐一他の場所にも転送されていて、そちらの方で入念なチェックが行われているそうです。

「桐生先生じゃないですか」

「おつかれさまです」

「どうかしましたか?私に用でも?」先生は詩集にしおりを挟んで閉じると、私ににっこりと微笑まれました。御歳を相当めされております。そろそろ校長にならないと、もう教頭どまりだろうなどと噂されている方です。私は敬愛しております。

「いえ。実は、うちのクラスの児童が一人行方不明になりましたので、こちらに手がかりが映っていないかと思いまして」

「そうですか。わかりました。すぐあちらへ連絡いたしましょう」教頭先生は一瞬びっくりされましたが、すぐに落ち着いて私に笑顔をくださると、受話器をお取りになりました。

「あ、どうも教頭です。いつもお世話になっております。一つお願いしたいことがあるんですが、よろしいですか。・・・はい、はい、そうです。巨匠をお願いします」室内中にモニターがびっしりと並んでいます。この部屋で機器の操作を行えるのは、校長先生と教頭先生と、教務主任の田村先生くらいなものです。

「こんにちは、巨匠お久しぶりです。・・・はい、ぜひまたあそこの店に行きましょうね。・・・はっはっはっ・・・実はですね、四年四組の児童が一人行方不明になったそうなのです。桐生先生、その子の名前は何と言ったかな」

「牧村タカシといいます」

「牧村タカシという児童です。はい、はい、よろしくお願いします。ご足労おかけします。はい。失礼します」教頭先生は受話器を置くと煙草を左手に持って、こちらに笑いかけて下さいました。

「巨匠が調べてくれるそうですから、先生は教室に戻って授業を続けて下さい」

「お手間お取りしてしまい申し訳ございません」

「いえいえ、お礼ならお父さまに言ってください。行方が分かり次第お父さまの組織から連絡がくるそうだから。そうしたら私が知らせますので」

「本当にすみません」私は監視室を後にすることにしました。少し真琴さんの授業風景を覗いてみたい気になったのです。教頭はまた座り心地のよさそうな北欧製の椅子に座り、ツェランの詩集を読み始めました。

 

 

  自然空間3

 

 

しばらくぼけっとしていたら、人形がまた空から降ってきた。一緒に何か西洋料理っぽいものも降ってきた。ぼくはいつも爺か婆の作ってくれる料理しか食べたことがないので、街中の料理は知らない。

「お待たせ。ご飯よ。お気に召すかどうか分からないけど」

「ありがとう。すごいなきみ」ぼくはそのよく分からない料理を手で取って食べた。普段食べていない味だったので、あまりおいしく感じない。

「おいしいよ。腹が減ってたし」

「そう。よかったわ。ところで、なぞなぞなんだけど、ヒントみたいなもの、あるかしら?」

「ヒント?何だ、なぞなぞの方は解けなかったのか」

「ごめんね。時間大丈夫?」

「いいよ。いつもわりと夜遅くまでここで遊んでるから、爺ちゃんたち心配しないと思うし」

「よかった。で、ヒントはある?何度考えてみても頭がこんがらがるだけで、行き詰まってしまうの」

「じゃあさあ、先にきみが出したあのなぞなぞのヒントちょうだい」

「そうね、ここではそうだったのね。ところで、私の出したなぞなぞそのものは覚えているかしら?」

「馬鹿にしないでよ。『燃え立つ匂いのかけらが何万回も彼を焼き殺した。彼は焼き殺される度に生き返った。炎の匂いが彼を覚醒させる。時々彼は感じる。水が液体になれない必要性を』でしょ。」

「惜しい。最後が違うわ。『水が液体になれない時間を』よ」

「おっしい。でもこれ本当わけわかんないよ。どこが謎なわけ?どこをどうやって解けばいいの?」

「『彼』というのが誰か分かればいいのよ」

「そっか。よしがんばるぞ」

「ヒントはこれで終わり」

「えー!?ケチ」

「ごめんね。世界の終わりに関わる謎だから。それより、はやくそっちのなぞなぞのヒント頂戴」

「見つかったものが見つからなくなるとは、一度外部からとりこんで自と同化させたはずだと思っていたものが、実は他のままだったと気づくことである」

「何それ?ヒントというより注釈みたい」

「婆が僕の父さんにこのなぞなぞをかけたんだ。それは父さんと母さんの結婚式の日だったんだって。父さんは街からこの森に嫁いできたんだけどね。父さんは五年くらい考えたあげく、さっきぼくが言ったヒントをなぞなぞの答えだと思って婆に言った。父さんの答えは答えじゃなかった。だから父さんはこの泉で、その日のうちに水に潜って死んじゃったんだ」

「何それ?答えられなきゃ私も死んじゃうの?」

「死ぬっていうか、なくなっちゃうんだよ存在が。ぼくもよく知らないけど、答えが出た場合は、なぞなぞをかけたぼくの方が死んじゃうんだ」

「あなた、よくそんななぞなぞをかけてくれたわね、面白いじゃない。私が解いたら何かすごいことでも起きるの?」

「わかんない。ずっと解いた人がいないから、何が起きるかまでは伝わってないんだ」

「私でも本当に死ぬのかしら?その、私は、あなたも分かるとおり、あなたたちとはちょっと違うというか・・・」

「大丈夫だよ。心配することないよ。多分なくなっちゃうと思うよ」

「よかった。じゃ、また答えを探しにちょっと行ってくるわ」

「うん、ぼくもその間そっちのなぞなぞ考えてるよ」

「本当に頼もしい子ね」

 そういうと、人形は前より倍のスピードで空に上昇していった。僕は食べ終わった皿を「ごちそうさまぁ!」と叫びながら、遠くの方へ放り投げた。飛んでいった皿が、木の葉にひっかかる柔らかい音が遠くの方でした。それにしても、あの人形の名は何というのだろう。

 

 

  鏡像段階5

 

 

 四年四組の教室前の廊下を、音をたてないようにして、そっと歩きました。教室の後ろのドアをほんの少しだけ、音をたてないように開けていきます。小人が通れるくらいの隙間を作って、教室を覗くと、黒板に真琴さんがいろいろ書いています。丁寧な楷書で、縦に字が並んでいます。眼が悪いのでここからは何が書いてあるのかよくわかりません。「見」という文字が二つ、その文字だけ大きく書かれているので、ここからでも見えます。

 突然真琴さんはすごい勢いで黒板の文字を全部消してしまいました。私が覗き見していることを気づかれてしまったのでしょうか。黒板を消し終わると、真琴さんは男の子たちの前に詰めより、タカシ君のものだった机をばんと強く叩きました。音が教室にこだまします。私のところまで音圧が届いてきそうです。

「だからね、何回も言ってるでしょ。いい?救済者の系譜をもう一度覚えなさい」真琴さんはかなり怒っているようです。あんなに私のことをみくびっていた子どもたちが、すっかり彼女に怯えきっています。右の男の子は足が小刻みに震えています。止めにいった方がいいでしょうか。しかし、いま教室に入ったら、私まで怒られてしまいそうです。

「真琴ちゃん、そんな顔しないでよ。これは社会の授業でしょ」

「私は真剣にあなたたちに伝えようとしているのよ。熱意を持って接しているのがわからないの?」

「わかるよ。わかるけどさ、そんな熱意があるからっていい教え方だって言えるの?今はもう二十一世紀だよ。理詰めで教えてくれよ」

「もうだめね。あなたたちは魂が抜けている」

「魂なんて、先生がそんなこと、民主教育の授業中に公言していいわけ?」

「いちいち理屈こねてないで、まっすぐ向かってきなさいよ。結局何が怖いの?あなたたちは」

「決まってるだろ。真琴ちゃんだよ」

「違うわ。わたしにあなたたちの恐怖を投影しているだけよ。私は本当はただの作りものだもの。空っぽなのよ本当は。何の価値もないものよ。そんな私に、あなたたちは何を投影しているわけ?自分のことを真剣に考えてごらん」

「うるさいな。小学生にそんなことできるかよ」

「違うわ。あなたたちは小学生なんかじゃない。男でもない。タカシ以外は本当は女よ」

 何を子どもたちは話し合っているんでしょう。やはり止めないと。私はドアを強く開けました。さも、ちょうどいま到着したかのように装って、笑顔で入っていきました。

「何か白熱しているようね」

「あ、先生!」彼らがあんなに嬉しそうな、子どもっぽい表情で私の顔を見たのはこれが初めてでした。真琴さんの顔も和らぎ、元の落ち着きを取り戻しました。

「すみません。つい力が入りすぎてしまって」

「タカシ君は見つかったの?先生」

「他の先生方にも頼んできたから。多分下校する頃までには見つかると思うわ。昼休みまで後十分くらいね。どうしましょうか」

「先生、先生の話をいろいろ聞きたいな。先生はどんな経緯で教職に就かれたのですか?」真琴さんが大人の言葉を話します。そう言えば、彼女は一体どこからこの教室に舞いこんできたのでしょうか。

「ほんのちょっとしか時間ないけど、少し話してみようかな」

「ありがとうございます。楽しみだな」真琴ちゃんがタカシ君の席に着きます。話しましょう、私が教師になった理由を。そして、少しだけ、私の父親である巨匠のことも。

 

 

  神話空間4

 

 

お兄ちゃん、やっぱりお兄ちゃんには恋人がいたでしょ。その恋人とお兄ちゃんがまぐわってる場面、私何度も見たのよ。ひどいじゃないお兄ちゃん。妹がそんな場面見たらトラウマになっちゃうじゃない。やっぱりお兄ちゃん、恋人がいた。お兄ちゃんと違って、明るい女の人。元気な、私より若い女の人。

妹よ。いや、弟よ。前も言っただろう。それは俺の恋人じゃない。俺自身だ。俺は一人だけれど二人なんだ。そして二人とも女だ。お前は俺が自慰しているところを覗いただけだ。お前もそれを見ながら、やっていたんだろう。

いや、いや、お兄ちゃんもうやめて。死にそう。そんな話をされると死にそう。

生きろ。お前はせめて死ぬな。謎を解け。時間なんて気にするな。お前には関係ない。俺たちは時空を飛び越えて自由に振舞える。そういうはかない存在だ。

だめ、お兄ちゃんのいるところに行きたい。そこは静かなんでしょ。炎が燃えたりしていないんでしょ。水ばかりなんでしょ。

違う。ここにも炎はある。水もある。お前のいるところにも水はあるんだよ。十分快適はなほどに。それを飲むんだ。飲み干すんだ。誰もお前から水を奪ったりしないよ。

ああ、お兄ちゃんの声がまた遠くなる。マイクはどこ?マイクはどこ?マイクで集音して、倍増して、狂った音圧をあたりにぶちまけるの。そしたら、どこかから、またあの大きな体の人がきっとやってくる。その人はお兄ちゃんのかわりなんでしょ。きっと、私の身内になってくれるんでしょ。マイク一体どこ?

マイクはもうない。捨てた棄てた。お前のためにならない。マイクはだめだ。そこに声を吹きかけるな。手で別のものを握ろ。掴み取るんだ。

お兄ちゃん、また生まれた頃のお家に戻りたいね。お母さんとお父さんもいて、お爺ちゃんもお婆ちゃんもいて、人形をお爺ちゃんが作ってる家。お父さんも作っている家。お母さんが毎晩モデルになっている家。結局みんな人形の家。

戻ろうとするな。歩け。体に悪いぞ、タカシ。

 

 

  自然空間4

 

 

 また人形が空から舞い戻ってきた。今度は何も持ち帰ってきてくれない。

「お帰り。随分遅かったね」

「うーん。全くもって何も分からないわ。『見つかったものが見つからなくなることって何だ?』そんなの結局どうとでも答えられるじゃないの」

「これが問題だったら、問題に対する答えはたくさんあるかもしれない。でも、これはなぞなぞなんだよ。なぞなぞはたった一つの解き方しかないんだよ」

「このなぞなぞに制限時間ってあるのかしら?」

「どうせなら、後一分ってことにしちゃおうか」

「一分!?」

「うん。スリルがあって面白いでしょ」

「私が答えたらあなたは死ぬし、答えられなかったら私が死んじゃうのよ」

「だから答えるんじゃなくて、解けって言ってるでしょ?はい、後五十秒」

「待ちなさいよ。先に私のなぞなぞに答えて。どちらかが死んでしまう前にその答えが聞きたい」

「きみのもなぞなぞだから、答えなんてないの。解き方だけがあるの。後四十秒」

「ちょっといま本当に十秒も経過したわけ?ちゃんと正確に計ってる?」

「逃げちゃだめだ。後三十五秒」

「ごめんごめん!本当はわたしの出したなぞなぞに答えなんてないのよ。解いたら世界が終わるなんて言ったのは嘘よ。なぞなぞ文が長すぎるから、いま言ってる時間はないんだけど、あのなぞなぞに答えなんてありません。世界は人間がいなくなっても続きます」

「ぼくの出したなぞなぞとは一切関係ありませんよ。後二十秒」

「だから、あなたのなぞなぞも本当は解けないんでしょ」

「正解じゃ」ん?

「婆!」婆が木の影から現れた。にっこり微笑んでいる。

「お人形さん正解。よって、タカシはここで死にます」婆があっさり言う。

「死ぬって本当だったの?」人形が驚いて言う。声は驚いているが、彼女の顔はずっとおすまし顔のままだ。

 ぼくの意識が遠のいていく。婆と人形が何か話しあっている。ぼくにははっきり彼女たちの声が聞こえない。泉の水と僕の下半身が同化していく。感覚が麻痺していくというか、地球と同化していくというか、自分がなくなると同時に、大きなものと同化していく感じがする。とても気持ち悪いような、気持ちいいような雰囲気の中で、何もかもがどうでもよくなってくる。もう続けられない・・・

 

 

  社会空間6

 

 

 三人で歩くことにした。車はもうない。とりあえずは駅まで行ってみよう。僕ら三人は手をつなぎながら歩いている。僕の左手には美紗緒の右手が、僕の右手にはハルカの左手が連なっている。真琴と僕は同化してしまった。僕はタカシという名前だったろうか。真琴だった気がする。江戸時代の昔から。

「ちょっと君たちいいかな」目つきの鋭いスーツを着た男が僕らを呼び止めた。もうどうにでもしてくれ。何が起こっても僕らにはもう関係がないんだ。

「君たちは十月十四日の夜から一五日の朝にかけて、マスラの森でアダルト芸術の製作をしていた人たちだね」

「ええ」美紗緒が微笑みながら答える。彼女の瞳は恍惚として濡れている。

「十五日の朝、森の泉で少年の死体が発見されたことについては知っているかな?」

「いえ、知りません。ただ、私たち、多分その泉で撮影していたんですけど、男性のトランクスが泉の中に落ちていたのは覚えています」ハルカが満面の笑みで答える。彼女の見た目は、真琴に出会う以前と以後でほとんど変わっていない。

「実を言うと君たちに少年の殺人容疑がかかっているんだ。署まできて、少し話を聞かせてくれないかな」

「いいですよ。かまいません。もうどうにでもしてください。逮捕したいなら今すぐにでも逮捕してくださいよ」

「もう私たちどうでもいいんですよ。いつでも常に幸せに包まれているんです。たとえ刑務所の中にいようとも」

 僕らは刑事の車に乗りこんだ。そういえば、本当に真琴が見当たらない。僕と真琴はやっぱり同化したんだ。そうとしか思えない。いや、もしかしたら、美紗緒もハルカもそう思っているのかもしれない。いや、三人と同時に真琴は同化したんだ。なら、そのうちこの刑事にも真琴は同化できるはずだ。取りこみたい彼を。どうせ、仕事につかれているんだろうこの男も。

 僕がハルカにバックミラー越しに目くばせすると、ハルカは隣に座って運転している刑事に手を伸ばした。ハルカの指がゆっくり刑事の首筋を撫でる。刑事の後ろに座っていた美紗緒も両腕を刑事の首に絡ませる。二人の顔が刑事に近づく。吐息が漏れる。ハルカの右手が刑事の股間へと伸びる。

 車が向こうから迫ってくる。意識がα波に切り替わった刑事は、間違えて反対車線に行ってしまったのだ。

 美紗緒が後ろから刑事のネクタイをほどいていく。ハルカは別のものをほどいていく。

 刑事はハンドルをきって、すんでのところで対向車を交わした。

 美紗緒は刑事のYシャツのボタンを外す。美紗緒の手が刑事の胸に侵入する。ハルカの手は静かに上下する。

 刑事のハンドルさばきも危うくなる。

 美紗緒の指先が何かをプッシュする。ハルカもプッシュする。

 目の前にはダンプがある。

 押されることが多くなる。何かに運び去られそうだ。刑事のスイッチがついに押され、プッシュされたものがプレッシャーに耐え切れなくなって溢れ出る。バックミラーには刑事と女たちの歓喜に満たされた表情が映る。

 そのまま車はダンプと激突した。僕も刑事と一緒に意識を失った。

 

 

 

 

 

2 巨匠篇

  

 

 

  巨匠のメモ

 

 

人の顔を見るときは、その人の顔を覗きこむように見ることだ。その人の瞳の奥の奥を見るのだ。目からその人の性格を取り出せ。

人と話す時は相手の心臓に語りかけるように話すことだ、何から何までも聞き取れるように。

音楽を聞く時は、魂を聞け。存在の音を聞け。そのものが何を表現しているのかを聞くのだ。

 

 

  巨匠の独白

 

 

 私はいつのまにかアダルト芸術界の巨匠と呼ばれていた。人々が皮肉でそう言っているのか、賞賛の気持ちでそう言っているのかはわからないが、私自身は巨匠と呼ばれることなど全く望んでいなかった。私は名前を持っていなかった。持たなかった。持ちたくなかったのだ名前など。私に名前がないために、巨匠という通称がついてしまった。

 私は何も所有する気がなかった、富も名声も。いや、そのようなすぐ人の目につくものだけではない、およそ人間が所有しているものの全てを私は所有したくなかったのだ。私は乞食の生活を求めていた。家もなく、当然家族もなく、友もなく、恋人もなく、金もなく、本もなく、楽しみもなく、悲しみもなく。何も持たないことによって、私は自由を得たかった。なにものにも拘束されない自由だ。自分の命を一切無駄なことに使いたくなかった。はっきりとこの世界を見れば、人は皆無駄な生活を毎日繰り返していることがわかる。友に対しては、お前の生活のほとんどは無意味だなどとは言えない。しかし、書物の上でこのような思想を述べた人は数多くいた。このような倫理的な命題は二十一世紀には古すぎると言われることであろう。しかし、全ての言葉は倫理的だし、暴力的だろう、人と人との間で言葉が交わされるかぎり。

 倫理的な命題を集団に共通のものとして掲げることは、論理的には間違っている。しかし、自分個人の人生に対して、倫理を掲げることは決して過ちではないはずだ。そうだ、私は無駄な生を送りたくなかったのだ。しかし、無駄とは何だ?結局自分の存在など、この世界にとっては全く必要ないのではないか。

 自分の存在意義を求めて、人は人と交わる。互いに承認を与えあうことを繰り返している。私は承認による存在意義の確立の一切を放棄しようとした。自分を無へ置こうとした。しかし、これは全くの皮肉ではないか。私は自分を無意味な生から引き剥がしたかったのに、普通の生から脱した私は完全な無へと導かれたのだから。

 この無の中で、私は大切なものと出会った。皮肉にもそれは、ありきたりの家族生活であった。私は子どもを一人預かったのだ。預かったというよりは授かった、託された、ある人から。私はその子を本当の娘と思い、愛した。しかし、娘の話は今はどうでもいい。私はあなたに託したいのだ、ただ一つの、私が残したものを。私の営みは無の営みだ。何も生み出しはしない。しかし、生み出された、一つのものが。

 いや、それは一つではないかもしれない。二つとも感じられるし、無限だとも言える。数として数えることなど不可能なものなのだ。すでにお気づきのように、私の言葉は行ったり来たり、論理が錯綜し、曖昧な迷宮に捕らえられているようだ。全くまっすぐに進んでいかない、いけない。なぜか。私は言葉では捕らえることのできないものを貴方に指し示そうとしているから、このように言葉が迷宮に迷いこんでしまうのだ。言葉で捕らえた瞬間、それは死んでしまう。現象学だ。固定化できない。私はその深淵を垣間見た。よって、私は常に、それを携えて生きていくことにした。余暇を利用して製作する時は、ただ単に私は、その何かを写し取るだけにしたのだ。その結果、私はいま、この仕事に就いている。いや、これは仕事とは言えない。人間の営みの中に回収できないのだ、この私が為している何事かは。よって、私は他にもう一つ仕事をこなしている。もう一つの仕事によって、私は娘を養ってきた。

 全ての偶像崇拝を私は拝した。言葉で捉えられないものを、形として捉えることなどできないだろう。何かに希望を投影することは一切やめた。個人的な実情に則して、私はそれに触れようとはしなかった。自分の働きかけを一切放棄して、私はそれに身と心を委ねたのだ。すると、それは私に開示してくれたのだ、自分を。それは決して人格化できないのだが。

 私はそれを感じ、そのなにものかをある一定の宇宙として、人々に提示するようにした。人はそれをアダルト芸術と呼んだ。誰がはじめにそう言ったのかは覚えていない。そんな記憶は私にはどうでもいいのだ。私は、人から、そのものがアダルト芸術と呼ばれることに何の気持ちも感じなかった。名づけることが不可能なのだから、何と呼ばれようと構わないではないか。

 それは決して道徳的な代物ではなかったため、多くの良識的な人から、私とそれは嫌悪された。人の論理や倫理ではとらえられないものを私は投げ出してしまったのだから、そうした人々の反応は当然だった。多くの人から、私は全くもって意味不明のくだらないことをしていると思われた。何の希望も夢も与えられないのだからしょうがない。そこに生じていたのは、ただ生きることの絶望だけだった。

 私は実は、結局、何も作っていなかった。何も。何も。何も。

 

 

 

  社会空間7

 

 

 事故が起きた後、初めて意識を取り戻した時、僕は病院のベッドの上で寝ていた。

 美紗緒とハルカは意識をなくした。いや、正確に言おう、彼女たち二人は、ほとんど人格というものをなくしてしまった。嘘みたいだ全てが。僕も体中に火傷を負っていた。動くこともままならず、ずっとベッドの上で僕は生活している。時々鳥の鳴き声が外から漏れてくる。

 その日は飯塚が見舞いにきた。飯塚は巨匠の一番弟子にあたる存在だ。彼もまた一流の業師として、数々の絵を描いていた。

「元気ないな」当然だ。美紗緒とハルカはいなくなってしまったも同然なのだから。

「巨匠もいなくなってしまったよ」飯塚は一言そう言い残すと、僕の視界から消えていってしまった。今の僕は喋ることさえできない。

 巨匠もいなくなったのか。巨匠は時々、ふっと僕らの世界から消えてしまうことがよくあった。消えてからしばらくすると、また巨匠は仕事場へと姿を現す。帰ってきたとき、巨匠は必ず新しい作品を持ってきたものだった。

 今回の巨匠の失踪は、しかしながら、もう永遠の失踪のように感じられた。巨匠が僕らの業界に舞い戻ってくることはないと思う。僕らが事故にあう前に作っていた作品こそ巨匠の最後の作品となるだろう。それは、未完成の作品かもしれない。巨匠が製作していた作品が完成したのかどうか、飯塚に聞いておくべきだった。

 

 ある日突然、彼女は僕の部屋にやってきた。名前を真琴と言った。どこかで聞いた名前だ。けれど、思い出すことができない。真琴という名前の響きは、とても重要であるように感じられた。けれど、その名からは何の印象も湧いてこない。

 真琴は、時々僕の部屋にやってきては、僕の体のいろいろな部分に手を当ててくれた。一種の治療法のようなものなのだろうか。真琴の手が触れると、その部分の僕の細胞が甦ってくるかのような錯覚を覚えた。真琴は僕の傷口に手を当てながら、涙を流すこともあった。表面のつるっとした白い頬に彼女の涙がゆっくり下りていくのを見ると、不可思議にも僕の傷は癒された。

 真琴の手のおかげか、現代医学のおかげか、僕はそのうちベッドを離れて、車椅子に乗って病院内を散策することができるようになった。まだ手はしびれて動かなかったので、看護婦さんに車を押してもらいながら、僕は緑の中を散策した。美紗緒やハルカの病室に行きたくもなったが、医者からまだ会わないほうがいいと止められていたので、無理に会おうとはしなかった。よほど彼女たちの体も傷だらけになっているのだろうか。それでも僕は一向にかまわないのだが、医者がそういうのだから会うのはやめておこうと考えた。

 僕ら三人の他に、事故当時の車にはもう一人男が乗っていたそうだ。運転していたその男は、事故で全身黒焦げとなり、死んでしまったという。その男の身元は一切不明だそうだ。その話を聞いた時、前の座席に座っていたハルカのことが気になった。僕と美紗緒は後ろに座っていたから怪我もこんなものだが、ハルカは果たしてどんな傷を負ったのだろうか。

 再び飯塚がやってきた。その頃には僕も少しは喋れるようになっていた。

「なあ、巨匠が作っていたものは完成したのか?未完成のままか?」

「おしまいだよ。巨匠はあの作品を燃やしてしまった。灰になったんだよ」

「その灰はとっておいたのか?」

「いや。灰はもう空気の中にまぎれているだろうさ」

 

 

  自然空間5

 

 

 水。水。水。あたりいっぱいが水だ。ぼくは水に同化してしまったのか。水の中にずっといるのか。

「ここはどこ?」何のあてもなく、ふと頭の中で考えをめぐらす。

「水だよ」どこからともなく、懐かしい響きを持った声がしてくる。

「あなたがいた泉の中ではないですよ。もっと深い、はるかに温かい、大きな水の中ですよ」そう言えば、ここはどうも母さんのお腹の中と感じが似ているかもしれない。

「母さん!」叫んでみた。口の中からではなく、心の中から。だめだ、返事はない。

 ぼくは、ぼくの輪郭を掴みかえそうとした。裸のぼくの体が水の中に存在することに気づけた。僕は水から分離した。

 

 

  社会空間8

 

 

 傷はだいぶおさまってきた。真琴の手当てのおかげだと思う。手当て、そう、まさしく彼女は僕の傷口に手を当ててくれる。真琴は何も喋らない。喋れないのかもしれない。

 

 僕は軽く口も動かせるようになったし、車椅子に乗って一人で動けるようにもなった。

 

 美紗緒の部屋に行くことにした。ゆっくりと車椅子を動かして、廊下を進む。まだ手を動かす度に痛みが走る。

 美紗緒の病室にはドアがなかった。ベッドに寝ている美紗緒の姿が入り口から見える。僕はベッドの脇までそっと車椅子を進めた。布団からはみ出している美紗緒の肩も、首も、顔も、全て包帯に覆われている。この包帯の下には、どんな色の皮膚があるのだろうか。

 彼女を起こさないでおこう。

 部屋を出た。美紗緒であの様子だと、ハルカはもっと重傷を負っていることだろう。僕は庭に行くことにした。エレベーターに乗って、一階まで下りる。

 途中すれ違う人たちから、時々好奇の眼差しが僕に差し向けられた。僕の体もまた包帯だらけだ。顔にはガーゼやテープが何枚も巻きついている。鏡で顔をよく見たことはない。まだあまり見たくない。

 一人で外に出るのは初めてだ。玄関を出て、駐車場の隅をゆっくり移動していく。お婆さんやお爺さんとよくすれ違う。この病院は、玄関から正門までの間に広大な庭を持っている。小さな森といった感じだ。

 緑に沿って作られた赤煉瓦の歩道を進む。車椅子が動く度に煉瓦と車輪のこすれる音が響く。太陽は雲に隠れており、少々肌寒い。普段の歩くスピードの何倍も遅いスピードで移動しているので、風景がまるで違って見えるし、印象も異なる。こんな世界を見るのは、子どもの時以来だ。出会うもの全てが新鮮なきらめきを伴って僕に迫ってくる。植物の枝や葉の細かい筋まではっきりとわかる。

 今の僕の状態の救いのなさを、それらの植物たちが慰めてくれた。これから先どうやって生きていくか、そんなことなど、もうどうでもよくなってきた。あの生活を続けていたなら、こんなに新鮮な世界を感受できなかったことだろう。別の生き方の途上に僕はある。美紗緒やハルカにもきっと希望があるはずだ。

 自分の部屋に戻ってきた。散策の疲れはない。むしろ元気が出てきた。ベッドに入り、窓に映る外の景色を眺めることにした。

 黒塗りの車が一台駐車場に入ってきた。ドアが開くと、運転席から黒ずくめの男が出てきた。あの男をどこかで見たような気がする。顔を上げた男の視線と、見下ろす僕の視線がぶつかった。男が少し微笑む。この部屋に来る予感がする。しかし、あまり不安や恐怖心は起こらない。妙な落ち着きが今の僕にはある。

 予想通り黒いスーツの男が僕の部屋に入ってきた。手に小さな鞄を持っている。目つきは鋭いが賢そうだ。暴力的な印象はない。

「こんにちは。牧村タカシさんですね?私が誰かわかりますか?」

「いえ、存じません。どこかでお会いしましたっけ?」

「それならいい。気にしないで下さい」男は丁重な様子で微笑むと、奥から椅子を取り出し、僕のベッドの枕元に座った。

「ご容態はどうですか?以前に比べるといささか元気そうだが」この男は僕と事故の後、既に会っているのだろうか。

「だいぶ楽になりました。他の二人が心配ですけど」

「今は、あまり彼女たちのことは気にしない方がいいですよ」やはり美紗緒とハルカのことも知っているのか。

「お見舞いにフルーツを持ってきました。そうだ、もう食事は大丈夫なんですか?」

「はい、柔らかいものなら何とか。ありがとうございます」男は鞄から大きな袋を取りだして、暖房の上に置いた。

「それと、あなたの筆です」男は青い筆入れに包まれた僕の筆を鞄から取り出して、僕に差し出した。

「ありがとうございます。おしつけがましいようですが、森で僕がとっていた作品の下書きはないんですか?」

「あれについては、もうしばらく待ってもらえますか?後で、必ずお返しします」男は椅子から立ちあがった。背筋がすっと立っていて、まるで隙がない。

「では、私はこれで。どうかお大事に」

「待って下さい、最後に一つ、真琴のことはご存知ですか?」男の眼球が一瞬右上に移動した。眼球が正面に戻って僕を見据えると、男は笑顔を一つ残して部屋からゆっくり去っていった。僕は筆入れから筆を取りだして、久々に見る僕の筆をよく眺めてみた。これは間違いなく僕の筆だ。

 また、作ってみるか。筆を持っていると意欲が湧いてくる。

 

 

  巨匠の日記

 

 

 私は若い頃、老年になったら密教の修行僧にでもなろうと考えたものだった。年老いたら、修行僧となり、山々をかけめぐり、経を何日もかけてあげ、神仏と一体化してしまおうと考えていた。出家するまでは、富と名誉をとことんまで追い求めてしまおうなどと煩悩を膨らませたものだ。いざとなったら出家するという覚悟と、今やっていることの全ては実に空しいことなのだという理解があったなら、仕事を楽しくこなせるのではないか昔私は考えていた。それもほんの一時思っただけで、何ら持続性を持つ思想ではなかったが。

 しかし、今の状況を考えると、若い時分に考えていた妄想が、実現してしまったかもしれない。修行僧とは呼べないが、それに似たようなものに、今の私はなっているのだから。

 

 

  社会空間9

 

 

 再び朝が来た。毎朝規則正しく起きる生活なんて何年ぶりだろう。起きると、まず、体がものすごく痛い。最初の日は、痛すぎるし、体が動かないし、起きても誰もいないし、ものすごい寂しさに襲われて泣きそうになった。こんな孤独感を味わったことはなかった。老年になって死の病に着いた時、真に自分の面倒をみてくれるパートナーを見つけた方がいいと思った。

 あらためて美紗緒の部屋に行った。美紗緒の部屋には、僕とも面識がある看護婦がいた。看護婦は美紗緒の管を交換していた。美紗緒はまだはっきりと覚醒していない様子だったが、僕の来訪には気づいたようだった。

「おはよう、ひさしぶりだね」かすかに、そのような言葉を紡ごうとして、美紗緒の唇が動いたように思う。看護婦は管を交換すると、無言で部屋から出ていった。美紗緒は上半身だけ起こしている。彼女の上半身は無地の青白いパジャマにで覆われていたが、それよりもパジャマの下にあり、彼女の全身を覆っているはずの包帯の存在が気になる。彼女の顔はまだ包帯でぐるぐる巻きだった。目と口と鼻だけが露出していた。

 僕は美紗緒の顔に僕の顔を近づけて、小さな声で、優しく話しかけてみた。

「わかるかい、僕が?タカシだよ」美紗緒が少し笑った。わかっているようだ。美紗緒の口が動く。僕は彼女の口に耳をできるだけ近づけて、彼女の言葉を聞き取ろうとした。

「私、もう、駄目だ、外に出れない」ゆっくりと言葉が立ち現れる。今度は、彼女の耳に僕の口を近づけ、感情を抑えて言葉を紡いだ。

「大丈夫だ、すぐよくなるよ」そんなありふれた言葉しか思いつかなかった。むしろこういう時は、言葉など無用なのか。抱きしめて、存在を抱擁する方が慰みになるのかもしれない。しかし、僕は彼女の体に触れることができなかった。触れると、仕事のことを思い出してしまいそうで、できなかった。

「ハルカは、どうなの?」

「わからない。まだ会ってないんだ」美紗緒の顔が少しだけ震えていた。揺れる頬に指で触れてみた。震えは収まった。

 僕は部屋を後にした。まだ行くのが早すぎた。しかし、美紗緒に少しでも喜びを与えられたようだったから、それはそれでよかった。あまり反省的にならないようにしよう。反省しすぎると卑屈になってしまう。卑屈になると自分の殻に閉じこもるだけで、人と触れあえなくなる。

 

 

 巨匠のインタビュー

 

 

「巨匠は作品にどのようなメッセージをこめているのですか?」

「こめるメッセージなど何もありません。作ってしまった以上は、私のものではなくなりますし。そんなものにメッセージをこめる必要がありますか」

「巨匠は何のために作っているのですか?」

「何のためでもありません。しかし、それは無用の用という美徳を掲げるためではなく、本当に何のためでもないのです。私は何も願っていません」

「ニヒリズムですか?」

「ニヒリズムとは少し違います。そもそも、イズムとはなりえないのです。主義主張をしているわけではないですから。極めて個人的なことですし、誰とも共有できませんし、誰にも教えることはできません」

「人の行いは、全てイデオロギーに基づくという見解もありますが」

「そう思えばそうでしょう」

「誰とも共有できないというのも、極めてイデオロギー的ですね」

「いや、だから、言葉に出して説明できないんですよ、私のことについては。言葉にするから、全てそう説明されていってしまう」

「それでは、この対話自体成立しなくなるのではないですか?」

「違う。話しあうことはできる。議論するのではなく、一緒に見つめましょう、ものの成り行きを。真剣に見ていかないと掴めません」

 

 

  社会空間10

 

 

 日が経った。寒さが増してきた。足の傷が収まってきたので、僕は杖を使って歩けるようになった。そろそろ美紗緒も話せるようになっただろうと思い、僕はたどたどしく歩いて美紗緒の部屋に向かった。一歩ずつ安定感を確かめながら、廊下を進んでいく。杖が床を叩いたり、こすったりする音が、誰もいない廊下に響く。

 美紗緒は、ベッドで、また上半身だけを起こして雑誌を読んでいた。

「おはよう。元気そうじゃないか」

「おはよう。そんな元気かな?」しばらくの沈黙。

「やっぱり無理だよ。もう私、顔が変わってしまったから」美紗緒はそう言って、力なく笑った。その顔には依然として包帯が巻かれたままだ。

「ちょうどいいよでも。仕事辞めようと思っていたところだし」美紗緒は無理をしている。その顔で踏み出す新しい人生を何に向けようとしているのか。

 しばらくあたりさわりのない話をした後で、その話は突然始まった。

「ねえ、ジェーン・フォンダとか、オードリー・ヘップヴァーンとか、ダイアナとか、きれいな人たちが、売れた後、飢餓の子どもたちのために仕事をしたり、慈善事業に進むのってどんな気持ちだったのかなって考えたりしてたの。なんかさあ、外見の美しさでもてはやされすぎて、それが空しくなったんじゃないかなって思った」

「それはそうだろうね」

「でも、華やかな生活が空しくなったから、慈善事業に進むのって、そういうつながりでいいのかな、と思って」

「何が問題なの?」

「うん、何となく考えこんじゃっただけ。暇だったから」

「論理的につながらないってこと?もてはやされるのに嫌気が指したことから、慈善事業に進むことに、論理的な必然性が見つからないことが気持ち悪いの?」

「ううん、そういうんじゃないの。もちろん彼女たちの中に、もっと他に慈善事業に進む原因はあるでしょうね。でも端から見ると、それこそマスコミみたいな感じで言ったら、やっぱり顔でちやほやされるのが馬鹿らしくなったから、まるっきり違うことがしたくなったんだって思えるじゃない?」

「新しい仕事が偶然、慈善事業だったとしても何も悪いことはないじゃないか」

「私もね、本当馬鹿みたいだけど、そういう仕事がやってみたくなったの。彼女たちに自分を重ねるなんて、本当、思いあがりもいいとこだけど」

 美紗緒の顔は元に戻らないのか。皮膚はいくらでも整形可能だろうに。しかし、美紗緒は怪我を負ったことを原因として、こういう話を突然僕に切り出したのではないのかもしれない。

「私はこんな体になっちゃったけど、世界中には、私よりも困っている人が数えきれないほどいるんだろうなって思って」さっきから、美紗緒の話は文の論理構造がおかしい。前節と後節が、文法的におかしなつながり方をしている。傷が深いから、文章も錯綜してしまうのだ。

「傷は必ず治るよ。どんなに時間がかかっても、今の医学なら、元の美紗緒に戻れるさ」

「違うの。もう元に戻っても、一度この世界を見てしまったら、前と同じ生活はできないと思う」美紗緒の声は昔に比べてずっと力強くなっていた。ぼそぼそと喋る感じがなく、低音に熱が入っていた。

「そうか。強くなったね美紗緒」もう僕が慰めに行く必要はないのかな。

「ありがとう」美紗緒の姿は変わった。彼女は方向転換することを僕にまで勧めようとはしなかった。個人的な問題だ。強く底から思わないと、こうはなれないし、続かない。

 続かない、と言っても、彼女は新しい仕事に対する夢を抱いただけで、まだ続くようなものは何も始まってはいないのが実状だ。これから長い困難が待っていることだろうし、実際現場に行ったら、思っていたこととまるで別の実態が持ち上がることだろう。それでも、美紗緒なら続いていく気がする。

「実はね、ハルカのことなんだけど。タカシ、看護婦さんからもう聞いた?ハルカのこと」

「いや、詳しいことは何も」

「あのこ、体に傷は一つもついていないのに、記憶は一切失くしてしまったんだって」

「ふうん。記憶が戻る可能性はないの?」

「いろいろ努力してるみたいだけど、全然みたい。ハルカに会って、話してあげて」

「うん、わかった。できるだけやってみるよ」

 窓から入ってくる弱い日光が部屋に広がっていた。ベッドの上空では、布団から出た埃が、光に照らされながら舞っている。

「ハルカはね、タカシのこと好きだったんだよ。多分、何となくだけど」

「そうかな?俺はそう思わなかったけど」

「そう?ハルカが記憶を思い出せるといいね。きっとはっきりするよ」

 美紗緒の部屋を後にした。この前行った時には絶望していたような状況だったのに、今日の彼女はもうあんなに朗らかだった。

 ハルカの部屋に向かいながら、僕は自分自身の今後の身の振り方について少し考えてみた。美紗緒のように新しい仕事を見出そうとは思わない。僕は仕事によって人生の方向を決めるようなタイプではないからだ。

 学生を終える頃に、就職先の決定でいろいろ悩んでみたが、結局仕事によって人生の意味を決定づけるという問題設定自体が、僕の生き方には適さないという結論が出た。お金をもらうためのものと割り切って、僕は仕事を選んだ。割り切ってからは、すんなりと決まった。それで選んだ仕事が、アダルト芸術だというのは何とも皮肉な話だが。

 ただし、今回の問題は、この傷ついた体で、果たしてあの仕事を続行できるかどうかということだ。いいや、できなければ他の仕事を探すまでだ。僕のパートナーである美紗緒も辞めてしまうことだし。巨匠もいなくなったことだし。

 

 

  巨匠のインタビュー

 

 

「アダルト芸術について詳細に説明してもらえますか?」

「私の作った作品をみてくれ。そこに全てがある。それ以外に語るものは何もない。作品の外で語っても、空虚なおしゃべりに終わるだけだ」

「そうおっしゃるのもわかりますが、巨匠の作品に接したくても接することができない人がたくさんいますでしょう?そういう人たちに向けての、アダルト芸術についての簡単な説明でかまいませんので」

「私の作品は良心的な人々からは忌み嫌われているからね。だが、作品を見ないでわかった気になってもらっては困る。作品の外で説明することはできない」

「あなたは作品、作品とこだわりますが、作者の優位も、作品の完全性も、二十世紀に否定されたわけで」

「私は別に自分を優れたものとして確立するためにこう言っているわけではない。芸術家には何の特権性もないよ。作品と言っても、その作品は一枚岩のものではないし、私のものでもない。作品に接する一人一人のものだ。だから、作品抜きで解説などできるわけがない」

「もうへ理屈ばかりだ。これではインタビュー記事になりませんよ巨匠」

「君の質問の立て方が悪いのだよ」

「それでは切り口をかえてみますよ。アダルト芸術は、作品製作中に、製作者が実際にパートナーと性交をするわけですが、何故こんなことをするのですか」

「言葉では説明できない。何故という理由が示せない」

「たしかに、芸術製作行為および芸術鑑賞行為はセックスと類似した行為と言えるでしょう。しかし、作品を作ることとセックスが同時進行で行われるというのは、過激というか、やりすぎではないですか」

「私からは何も言えない。答えは君の心の中にある」

「しかも、そのパートナーとの性行為には愛があると、あなたは以前どこかでおっしゃっていたそうですね」

「そんなことを言ったかもしれない」

「快楽ではなく、愛なのですか?」

「欲望ではない。愛の有り様を私は見ようとした」

「そんな、愛なんて古臭い、嘘臭い言葉を二十一世紀にもなってアーティストが使うなんて、時代遅れもはなはだしい」

「君らが批判する一般的な愛という概念は、私の知る愛とは全く関係のないものなのだ。人が作った見方・理論で自分の現実を解釈することが、どれほど誤謬に満ちた行為なのか、みんなわかっていないのだ」

「それじゃあ、アダルト芸術作成中に膣内射精をすればいいでしょう。なぜ避妊するのですか?」

「愛による性交ならば、生殖につながるはずだと君が勘違いしているだけだ。愛とはもっと多様で、決して言葉では掴めないものだ」

「実際、作品製作中に性交するパートナーとあなたは婚姻関係を結んでいませんし、何人もの人とあなたは性交している」

「それは、愛とは一対一関係であるという誤解に基づく意味のない批判だ。愛を言葉で定義することはできないのだよ」

「アダルト芸術を鑑賞する者もセックスの擬似体験ができるといいますが、これははなはだ猥褻ですね」

「擬似体験などという言葉で説明はできない。擬似の体験などどこにもない」

「全くあなたの言っていることはわけがわからない」

「だから最初に言っただろう。言葉では決して説明できないと。私の作品についても、愛についても」

「最後に一つ。アダルト芸術とアダルトビデオの違いを教えてください」

「違いなどないよ。全て同じことだ。私の作品を皆がアダルト芸術だと勝手に呼んでいるが、私は結局芸術という言葉も、ポルノという言葉も信用していない。巨匠という私の呼び名も信用していない。かといって、現在の用法を否定する気もない。現在の言い方に変わる新しい呼称などどこにもないからだ。結局、名づけえないのだよなにものも。私の作品とアダルトビデオに何の違いも序列もない」

 

 

  社会空間11

 

 

 僕はハルカの部屋で泣いた。

 ハルカの部屋は病院の最上階にあった。エレベーターで最上階まで昇り、長い廊下を歩ききり、一番左奥にあるハルカの部屋に向かう。部屋にたどり着いた頃には、僕はもう体力の限界に達していた。

 無傷のハルカが一人で笑っていた。ハルカは本当に何の傷も負っていないようだった。パジャマからはみ出て露出している肌のところどころから、小さな擦り傷の跡が見えるが、美紗緒や僕が全身に火傷を負ったのと比べると、ハルカの傷は少なすぎる。ただ転んだだけのようだ。ハルカはダンプと激突した時、前の座席にいたし、隣に座って運転していた男は黒焦げになったというのに、おかしい。

 ハルカは僕を見つめて笑っていた。今初めて二人が出会ったかのようだ。目が爛爛と輝いていて、まるで大好物を前にした時の子どものような表情をしている。

「ハルカ、俺のこと、分かるか?」

「ごめんなさい、私、わからないの、何も」そういうハルカの声には、何の悲壮感もない。ハルカのあの、ハキハキと明るく弾む声はそのままだ。

「ごめんね」僕はそう言って、ハルカの右肩に手を置いた。ハルカの肩は柔らかく弾んでいる。

「ありがとうございます。でも、本当、もう、何ていうのかな、いいんですよ、私」声が元気で、優しくて、弾んでいて、泣いていて。

「もうだめだよ。続けられない、君と話せない」

「いいんですよ。私、大丈夫なんです」

「そうだ。自分の名前はハルカだってわかる?」

「うん。お医者さんから教わったから。自分で思い出したわけではないですけど。でも、それでいいんですよ、全然、私、大丈夫だし」

 もう耐えられないと思っていると、誰かが部屋に入ってくる気配がした。振り返ると、真琴が僕のすぐ後ろに立っていた。日本人形のように、すまして笑っている。真琴の手が僕の肩に置かれた。力が抜けた。そんなに悲嘆しなくてもいい気がしてきた。

 今度はハルカの左肩の上に真琴の手が伸びる。僕はハルカの右肩に置いていた自分の手をひこうとしたが、真琴がそのままでいいと呟いた気がしたので、手を引くのをやめた。

 三人の腕がH型につながった。時間がしばらく止まった。

 窓が開いていた。今までは気づかなかった。最上階の窓からは、街の景色全体が見渡せる。ビル街が山脈にぶち当たるまで続いている。空はよどんでいる。窓から冬の冷たい風が室内に入ってくる。ハルカのいるベッドの布団には、何本もしわの線が走っている。よじれた布団が、複雑な模様を作りだしている。布団の上には弱い太陽の光が差している。布団のひだの上に光が当たって、陰影ができている。枕のシーツには、ハルカの茶色い髪の毛が散らばっている。ハルカの黄色い無地のパジャマにもひだが積み重なっており、そこにも光があたって陰影ができている。ハルカの顔にも陰影があり、細かい産毛の存在まで感じられる。部屋の白い床。タイルの模様。時々見える埃。暖房器の細かいスイッチの数々。三人の腕がつながっていると、部屋のあらゆる物体が、僕の体に直接触れてくるように迫ってきた。こんなにたくさんの生き生きとしたものたちに囲まれていたのか。

 ふと気づくと真琴の腕が視界から消えていた。ハルカの右肩と僕の右腕がつながっているだけだ。真琴はもういなくなった。ゆっくりハルカの肩から僕の腕を離す。ハルカがにこにことして僕を見つめている。心の底まで見透かされそうな感じだ。僕も微笑みをハルカに返して、彼女の目を覗きこんだ。こんなに人の目を真摯に見つめるなんて、何十年ぶりだろう。

 

 

  巨匠の日記

 

 

 私は今、山奥に一人いる。兼好法師のような隠者になってしまった。山の頂上に座って、夜明けと夕暮れを毎日見つめる。毎日することは、ただそれだけだ。ゆっくりと日が動くと、突然世界が変わる。私の生も突然変わった。

 これから作るのは私の最後の作品だ。相手などいない。この山の中で、一人残す最後の作品。命の最後のきらめき。

 燃え立つ匂いのかけらが何万回も私を焼き殺した。私は焼き殺される度に生き返った。炎の匂いが私を覚醒させる。時々私は感じる。水が液体になれない時間を。

 

 

  社会空間12

 

 

 また太陽が何回も昇って、降りて、地球が何回も回転して、僕らも一緒に回転して、僕の傷も癒えて、美紗緒の心も癒えて、美紗緒の体は少しも癒えなくて、ハルカは何も変わらなくて、真琴は姿を消したままで、そんな輪の中に、例の男が再び入ってきた。

「今日は。まだ痛々しい様子ですね。顔の包帯は取らないのですか?」

「美紗緒の傷が治らない限り、僕も包帯を取りません。そう決めたんです」

「すばらしい友情だな」

「今日は何の用で来られたのですか?」

「嫌だな、あなたたちの具合が気になって、お見舞いに来ただけですよ」

「僕の作品は、ありますか?」

「それなら持ってきました。どうするのです?傷が治ったら完成品に仕上げるつもりですか?」

「それはわからない」

「飯塚さんにでも託しますか?」

「何だ、飯塚のことも知っているのですか」

「実はね、巨匠の身が危ないことになっている。あなたたちのところまで危害は及ばないでしょうが、巨匠は確実にこの世界からいなくなってしまうでしょう」

「そんなことを僕に教えて何になるというのです?巨匠を助けに行けとでも?」

「いやそうではない。これから起こることを、私はあなたに言う責任がある。ただそれだけです」

「何とまあ、たいしたことがないな、あなたたちは」

「生物なんて、みんなそんなものですよ」

 

 

  自然空間6

 

 

 水。水。水。水の中から時々生命が生まれる。水の中で時々生命は死ぬ。水の中からまた時々生命が生まれる。ただそれだけ。

 水の底に潜りすぎた。真っ暗で、何も見えない。

 光のない場所まで来てしまった。それでも生き延びる生物がいる。時々ぼくの体に小さい、柔らかいものがあたる。硬い、大きなものがあたる。確かに、何かがこんな底でも生きている。

 突然水がお湯に変わってきた。マグマでもあるのか。進むと急に熱くなってくる。

 引き返そう。上に急いで逃げる。手を掻いて、足を掻いて、体を波うたせて。

 熱もどんどん上昇してくる。僕の体が熱に包まれる。熱い。肉が溶けていきそうだ。骨になるのか。骨も溶けてしまうのか。

 

 

  巨匠1

 

 

 山の頂にただ座る。久々に人間を一人見た。こちらに一人の男が登ってくる。その後にもまだ続いていた。七人の黒服の男たちがやってきた。一分の隙もない緊迫感を漂わせながら、私の前に七人の男が並ぶ。真ん中の男が喋り出す。

「巨匠、あなたをお連れします」

「あなたを逮捕します」

「あなたを拉致します」

「あなたの存在は公衆良俗に反します」

「世界にとって邪魔です」

「あなたには何の意味もありません」

「もうやめてください。こんなところで生きるなんて」

 七人の唱和が終わった。私が何か一言言えば、また七回口が開くのだろう。私は立っちあがった。

 男たちは私を取り囲んだ。手をもたれた。足を持たれた。

 腹に何かが刺さった。血が出た。死にはしなかった。

 男たちが私をかつぐ。運ぶ。私にはわからない。生まれた時からずっと、わかってしまったことなどなかったが。

 私の腹から滴り落ちた血が、雪道に跡を遺していった。七回道が曲がる坂を下る。男たちの足並みに乱れはない。

 

 

  社会空間13

 

 

 飯塚が久々に見舞いに来た。頬がこけている。着ている服もしわだらけだ。

「今日は天気がいいな」飯塚が布団のしわを見つめながら呟いた。たしかに空には雲一つない。

「巨匠が捜索されている。気づいていたか?」飯塚はまだ布団のしわを見つめている。

「俺の起こした事件と関係があるのか?」

「関係ないよ本質的には。もちろん、お前たちの関わっている事件についても言及されるだろうが、巨匠はもっと重い罪を問われている、いや軽いかもしれない」

「相手は警察なのか」

「わからない。けれど、巨匠は捕まって殺されるだろう。俺も消されるかもしれない」

「そうか」飯塚の顔がどんどん沈んでいく。布団に吸収される。

「お前たちも病院を出たら危ないぞ」

「俺たちのことは心配するな。多分大丈夫なんだ。それより、他のみんなは大丈夫なのか?」

「ほとんどのスタッフにはもうにはやめてもらった。残っているのは、俺や和実さんや、ほんの数人だけだ。実は、巨匠がスタジオから姿を消した時に、大抵のやつらが辞めていったんだけどな。結局、巨匠がいなくなってしまったら、俺たちのやっていることは続かないのかもしれない」

「和実さんたちの身の安全は大丈夫なのか?」

「和実さんは巨匠が死んだら一緒に死ぬ気だ」

「そうか。空しいな」僕はしばらく空を見ていた。青い空。空の色はなぜ「青い」のだろう。この色を「青い」と僕たちは感じられるのだから、他のものの色も見分けられるはずなのに。

「とにかく気をつけろ。この国を出るなら、急げ」飯塚は布団から目を上げた。

「待てよ。俺の筆と森で作っていた作品が見つかったんだ。お前にやる。和実さんを相手にして、お前が森の場面の続きを作ってくれないか」

「お前の筆でか?」

「いいよ。お前の筆を使ってくれ。どっちでもいいんだ俺は」

「確かに俺たち二人じゃ、どっちも筆は変わんないけどな。わかった。余裕があったらやってみるよ」

「余裕があったらじゃなくて、急いで作ってくれないか。帰ってすぐにでも」

「お前らしいな。わかったよ。和実さんとかぁ・・・」最後に笑顔をみせて、飯塚は病室を後にした。美紗緒やハルカの部屋には見舞いに行かないのだろうか。もうどうでもいいけれど。

 

 

  巨匠2

 

 

「お前は捕まった」

「お前は終わった」

「お前は疑惑の渦中にある」

「お前は要するにもう死ぬ」

男たちは四人に減った。地下室。処刑場。四人ならば反論してもいいか。だが、結局どうでもいい。いつでも死ねる、私は毎日死んでいるのだから。朝になる度に私は生き返っている。

 扉が開く。光が室内に入る。光と一緒に、白い服の男が現れる。

「ようこそ、巨匠。このものたちが大変な失礼をいたしました」その男は卑屈に笑う。あるいは、高貴に笑う。

「何か食べたいものでもありますか。何でも作らせますよ」

「肉はあまり入れないでくれ。果物をたくさん。それで十分だ」

「わかりました。ベジタリアンというよりも、フルーツな方なのですね。肉は小量ならば大丈夫なのですか?」

「多くてもいい。ただ、果物の方が肉よりおいしいだけだよ」

「わかりました。シェフに伝えておきましょう。毎日が最後の晩餐となるでしょうから。別に毒を盛るとか、そういう卑怯なことはしませんからご心配なく」四人の黒い男はいつのまにか室内から消えていた。後はこの男とだけ話せばいい。育ちの良さそうな、上品ぶった男だ。

「誰か、お会いになりたい方はいらっしゃいませんか?」

「私の知り合いには危害を与えないでくれ。頼む」

「直接には攻撃しません。ただし、マスコミにも情報が流れますので、日本人がどういう反応を取るかまでは面倒を見れませんが」

「そうか。まあしょうがないと言えば、しょうがないだろう」

「あなたのような方だと話が通りやすい。ところで、お会いしたい方は?」

「誰もいない。私とどうしても会いたいという者がいたら、そいつを連れてきてくれ」

「なるほど。では。また明日お話しましょう」また扉が開いた。光が差しこむ。白い男が消えて、四人の黒服がまた現れた。

「調子に乗るなよ」

「もうだめなんだよ本当は」

「おまえをおかしたい」

「どうにでもなるんだよ、人の体なんて」

 

 

  社会空間14

 

 

 美紗緒の部屋にいた。美紗緒の体に巻かれていた包帯が、今日遂に取られる。僕は彼女の肌の色を確かめるために、ここにやってきた。部屋の隅に椅子を置いて、そこに座った。医者がゆっくりと美紗緒の顔から包帯を取っていく。頭頂の方から、白い帯をゆっくりと剥がす。肌の状態を確かめながら、ほどいた帯を医者は看護婦に渡す。看護婦は帯をたたんで、容器に入れる。僕はその様子全体を何の感情もなく眺めていた。

 退屈だったので、巨匠と初めて出会った日のことを思い出してみた。十年くらい前の話だ。僕はまだ学生で、いろいろな裏のバイトを転々としていた。いたるところで巨匠の噂を耳にした。ひょんな縁から、巨匠の仕事場でアシスタントとしての仕事をもらった。初めて見た巨匠の仕事場の、全体の光景は、今でも鮮明に覚えている。床も壁も辺り一体が全て白で覆われていて、余計なものが一切ない、整理された仕事場だった。生活感がなく、誰もそこで仕事をしていないようだった。

 巨匠に会う前に、僕はまず和実さんに出会った。和実さんは、街で会っても何の感動も覚えないような、普通の女性という印象を人に与える。ただ、巨匠の目で和実さんが捉えられると、彼女はまるで別人になってしまう。巨匠によって、彼女の隠されていた部分が全て露わになってしまうのだ。彼女の全身は輝き、熱い塊が体中から放射されるようになる。声も、表情も、全てが熱を帯びて、生き生きとした存在感を持ち始める。どんな人でも巨匠の目に射ぬかれるとこうなってしまうのかもしれない。ただ、巨匠は和実さんしかパートナーにしていない。例外は、美紗緒と一回交わったくらいだ(美紗緒は、この仕事場のスタッフ全員が共有している稀有な存在である)。

 最初に出会った時、和実さんは僕にありきたりの質問をした。それが普段の和実さんだ。僕は和実さんにどんなことを話したのか、今では何も覚えていない。和実さんと話していると、巨匠がやってきた。その頃の巨匠は今よりずっと大きかった。下着一枚の裸姿で現れた巨匠には、相当のインパクトがあった。それまで業界にいたから、得体の知れない人間と数多く会ってきたのだが、こんな存在感を持つ人間と出会ったのは初めてだった。おかしいのだ明らかに。巨匠の目はものすごく鋭いのに、人と話す時巨匠は、たいてい他人の目に自分の目を合わさない。体全体をぼんやり眺めるようにして、巨匠は人と喋る。会話していると、巨匠の体の中に自分が取りこまれる気分になってくる。

「おはようございます。今日からアシスタントとして入ります、牧村タカシと言います。よろしくお願いします」僕は、もう話しかけただけで、巨匠の魅力に捕われてしまった。まだ何も巨匠の言葉を聞いていないというのに。

 結局その日は、巨匠と一言も喋れなかった。そんな空気ではなかったのだ。巨匠の製作が始まると、白い壁が血で真っ赤に染まっていくようだった。誰もが息を呑んだ。こんな白熱した場面を見たことなんて、人生で一度もなかった。僕はアシスタントとして、何をすべきかさえ全く忘れていた。

 その日の製作が中断すると、あたりはまた白一色になった。生命の塊になっていた和実さんが、ミイラのようになって床に転がっていた。それを介抱する男がいた。飯塚だ。巨匠はもう一番奥の部屋に行ってしまい、仕事場から姿を消していた。飯塚におぶわれて、和実さんは僕の隣にやってきた。和美さんの目はうつろだった。

「新入り。ここで和実さんの目が醒めるまで、彼女の肩を抱えていてくれ」そう言う飯塚は、まだ十代半ばでも通りそうな顔つきをしていた。僕は言われた通り、仕事場の隅で、和実さんの肩を抱いて一緒に座っていた。五分くらいたつと、和実さんは意識を取り戻した。

「すごかったでしょ。巨匠は。あれだから、みんなから巨匠と呼ばれてしまうの」

「はじめてです、あんなの。あんなのなんて失礼な言い方ですけど、そうとしか表現できません」

「いいのよ。みんな生で見た人はびっくりしちゃうんだから。その場で卒倒する人もいるし。あれだけ激しいのに、作品になると静かな調子に変わるからね。それを見てまたびっくりすると思うよ」

 美紗緒の顔には、まだ痛々しい傷跡がくっきりと残っていた。赤く膨れ上がり、今にも虫が湧いてきそうなその忌まわしい場所に、すぐに新たな純白の包帯が被さった。顔がまた白で閉ざされる。アダルト芸術のせいで、傷が治らないのかもしれない。

「牧野さんは包帯、どうしますか?」

「いいです。僕もこのままで」

「あなたは、もう治っていると思うよ」

「いいんです。それより、僕たち三人はもう退院できますか?」

「確かに、ここにいてももうあなたちの傷の治療の仕様はないからね。別の病院を紹介しましょうか?」

「そこでもまた入院でしょう?」

 巨匠のこんな言葉を思い出した。僕がアシスタントから監督に昇格した時だ。監督第一作をとるまえに、巨匠はこう僕に言った。

「私は力を持ちすぎてしまったのだよ。一旦強大な力と出会ってからというもの、その力がずっと私の中から湧き出てくるようになってしまった。君には、その力はまだない。その分私とは違った方法で、君だけの方法で作りたまえ。私にとって女は、力を注ぎこむ対象にしか過ぎなくなった。今の時代、そういうものは流行らない。時代に逆行しているからな。だから、君は私の真似などせずに、新しい方法をとってくれ」

ハルカの部屋に行った。ハルカは窓辺に立って、外の景色をじっと見ている。冬の突風が部屋の中を這い回っていた。ハルカはもう何年もそうして景色を眺め続けているかのようだった。彼女は僕がやってきたことには気づいていない。

「行こうハルカ。外に出たいんだろう」

「あ、あなた。外に出たいけど、無理です、私、こんな感じなんで」

「いいよ。俺が連れていく。美紗緒と三人でまた一緒に出かけよう」

「真琴さんは?」

「それじゃあ、彼女も入れて四人で」

 

 

  巨匠3

 

 

 扉が開いた。光が来た。和実が来た。

「元気そうで何よりです」

「何もひどい目には会っていないよ。心配しなくていい」

「これから先、どうなるの?」

「殺しはしないそうだ。死ぬまでずっと閉じ込められたままかもしれない」

「いつでも、会いに来ていいのですか?」

「私はもともとどこにもいても、自分が閉じ込められているように感じていた。だから、今の心の状態にも慣れている。君も来たかったら来なさい。誰も邪魔はしないだろう」

「ありがとう」

「他の者はどうしている?もう私のことは忘れてしまって欲しいのだが」

「飯塚君と私で、牧村君と美紗緒さんが作っていた作品の続きをとることにしたの。もう飯塚君しか私の近くにはいません。牧村君たちが、今どうしているのかは、よくわからないけれど」

「そういえば、彼ら、撮影に行って、事故を起こしたそうだな。話は聞いている」

「そうなの。でも、今後どうするのかはよくわからない。美紗緒はもう仕事をやめるって言っていたみたいだけど」

「そうか。彼らが彼らで決めることだ。それより、お前はこれからどうする?」

「わからない。飯塚君との仕事が終わってから、考えるつもり。けれど、死にたい」

「それだけは、思っても口に出して言うな。」

 和実は私の体に自分を投げ出した。私は彼女を抱きとめてから、彼女の魂に彼女の体を返した。

 

 

  鏡像段階6

 

 

和実「先生は、生まれた時、皆さんと違って両親がいませんでした。十代の終わり頃、ある独身の芸術家の養子となったのです」

ハルカ「その芸術家って、どんなジャンルの芸術家なんですかあ?」

和実「あなたたちの知らないジャンルの芸術家です」

美紗緒「何々?もしかして、エッチなやつ?」

和実「子どもには理解できないようなものですよ」

真琴「子どもの方が、大人よりよっぽど理解できるかもしれませんよ」

美紗緒「俺、実を言うとそういうの結構見てるよ。お父さんの部屋にいっぱい隠してあるの、知ってるんだ」

ハルカ「うちはお母さんの部屋にあったよ」

和実「とにかく、とにかくですよ、話を元に戻すと、私はその芸術家のおうちで、養子としての生活を始めたんです。養子になる前の私は、あまり将来のことなど考えもせず、芯の通っていない生活をしていたんです。養子になってすぐに、私はお父さんの芸術のモデルとしての仕事を始めました。お父さんの作品のモデルとなることで、私はその世界で有名になっていきました」

美紗緒「そのおじさんてさあ、先生としたかったから、養子にとったんじゃないの?」

和実「あなたの思っているようなものじゃないのよ、私のお父さんの作品は」

ハルカ「それで、先生はどうしてモデルをやめて、先生になったの?」

和実「その話だったわね。私のお父さんは、ある時、芸術家の仕事を一切やめてしまったんです。その後お父さんは、芸術家の仕事をしながらも、前からずっと続けていた仕事だけをして、生活することにしたのです。だから、私もモデルをやめて、教師になることにしたんです。父親以外の人を相手にして、モデルの仕事を続けたくはなかったから」

真琴「それでも、先生は最後に一回、巨匠ではない人を相手にしましたね?」

和実「えっ?」

美紗緒「なんで真琴ちゃんそんなこと知ってるの?」

真琴「私は私なんです」

 

 

  自然空間7

 

 

 熱死しそうだ。いくら上に進んでも、光が全く射してこない。下からは高熱が吹き上がってくるのに。

 体がばらばらに砕ける寸前で、あの人形が目の前に突然現れた。

「ごめんね。やっと見つけた。さあ、帰りましょう。お婆さんも待ってるわよ」人形を見ていると、僕の体が一つにまとまっていく。熱も消える。体がぐんぐん上昇していく。水が水色に変わる。光が射し始めたのだ。

「そういえば、私の名前をまだ言ってなかったわね。私は真琴」

「ぼくはたかし。よろしく。」

「あなたの名前は、さっきお婆さんから聞いたわ」

 

 

  社会空間15

 

 

 ハルカを美紗緒の部屋に連れてきた。三人で窓から首を出し、真下を覗く。真下は緑だ。

「私はそんな急いでないよ。それに真琴もいないし」美紗緒の顔にはまだ包帯が巻かれている。

「いや急ごう。いつまでたっても、ここから出られない気がする。真琴はきっと僕らの後から来てくれるはずだ」

「でも、どうするんですか?本当に、ここから飛び降りて、死んじゃったり、しないのかなって」

「ちょっと待ってよ」部屋の入り口の方から小さい男の子の呼び声がした。振り返ると、真琴が中学生くらいの男の子と手をつないで立っている。田舎の子どもっぽい男の子は裸で、全身が濡れている。普通に考えるとおかしいところだが、美紗緒もハルカも、男の裸は見なれているので、別に驚かない。この状況自体は滑稽だが。

「ぼくも連れてってよ。真琴さんも一緒。五人で行こうよ」

「いいでしょ?タカシ」

「うん。別にかまわないけど」

「なんだ、お兄ちゃんもタカシっていうんだ。ぼくの名前もたかしって言うんだ。よろしくね」

「じゃあ、これからあなたはたかし君ね。私は美紗緒っていうの。この子はハルカ。よろしくね」

「よろしく」たかしは別に美紗緒の姿や、ハルカの人と違った様子に、特別な視線を注がない。まあ、自分自身裸だし。

「こっから飛び降りたら死んじゃうよ。屋上から飛び降りようよ」

「ちょっと待って。論理的に考えておかしくない?それ」

「大丈夫。さ、急ごう。はやくしないと見つかっちゃうよ。いろんな人に」

五人で屋上まで駆け昇る。はやく、はやく、はやく。と言っても、病人ばかりなので、そんなに足早でもないが。

 階段の一番上まで昇りきり、非常口を開けて屋上に出た。屋上からは、街の景色が見えなかった。あたり一面が砂漠だった。遠くにピラミッドも見える。ここはエジプトか?

「さあ、ここから飛ぼうよ」たかしが気持ちよさげに言う。

 

 

  鏡像段階7

 

 

 四人でしばらくお話していたら、チャイムが鳴りました。お昼休みです。男の子たち二人が給食を取りに出かけました。真琴さんは手洗いにもでも行くつもりなのか、教室を出ていきました。私一人で教室の窓から外を眺めていたら、廊下を通る教頭先生を見つけました。こちらに向かってくるようです。私はわけもなく、ジャケットを脱いでブラウス一枚になり、教壇の椅子に座って、待ちました。

 教頭先生は、ドアは開いているのに、規則正しくノックを2回してから、教室に入ってきました。

「巨匠からタカシ君の居場所の連絡が入りましたよ。ここのすぐ近くです。中庭の池の奥底に、タカシ君が隠れているそうです」

「また何でそんなところに?しょうがないな、もう」私が笑うと、教頭先生も苦笑されました。

「どうなさいますか?探しに行きます?」

「待っていれば自分から出てくる気もするけど、見つけてくれるのを待っている気もしますしね。給食を食べ終わったら、子どもたちと一緒に探しに行きますよ。どうもご面倒おかけしました」

「いえいえ。桐生先生のクラスの児童はみな元気でよろしい。私はまた監視室に戻りますので、何かあったら、また」教頭先生はきびきびとした足取りで、去っていきました。私はほっとして、上着を着直しました。

 男の子たちが給食の配膳台を運んできました。今日はカレーうどんのようです。カレーの香りが教室中にたちこめます。真琴さんもすっきりした顔をして、教室に帰ってきました。私も入れて、四人しかいないので、給食はすぐ準備できます。

「先生、タカシはまだ帰ってこないのかな?お腹すいてそう」

「実は、タカシ君の居場所がわかったのよ。給食を食べてから呼びに行こうと思っていたけど、確かに、タカシ君もお腹減ってるだろうから、今みんなで呼びに行こうか?」

「え?どこにいるのタカシは?」

「あそこよ、水の中」そう言って、私は教室の窓から見える、中庭の池を指差しました。

 

 

  社会空間15

 

 

 病院の屋上から飛び降りると、砂漠は砂漠でなくなった。五人で手をつないで飛び降りる。地面に柔らかく着地すると、砂だった大地は街の緑に戻っていた。僕は急ぐ。里美は来ない。里美って誰だ一体?こんなところにまで来てみても、まだ新しい女がいるというのか?里美・里美・里美。記憶を辿ってみても、里美という女性と会った思い出は浮かんでこない。違う。サトミは里美じゃない、里見だ。僕らの主治医は里見という名字だった。里見は来ない。来なくていい。

「さあ、どこに行きたい?」たかしが僕に聞く。巨匠のいる居場所?それとも和実さんと飯塚のいる仕事場?それとも、また、別の場所?マスラの森?

「五人ばらばらに進もう」僕がそう言うと、みんながびっくりして僕に視線を注いだ。

「それぞれ行きたいところがあるだろう?美紗緒はやりたい仕事がはっきりしているし、ハルカは・・・」そうだった。ハルカには何もなかった。

「ハルカはしばらく俺と進もう。真琴とたかし君はどうする?」

「ちょっと待ってよ。私だって、すぐ仕事始めるわけじゃないんだからね。みんなの今後が決まってから、日本を離れることにするから」美紗緒の包帯が風でなびく。

「ぼくはみんなでしばらく一緒に進みたいな。真琴もきっとそう考えてると思うよ」たかしがそう言うと、たかしと手をつないでいた真琴がうなずいた。

 病院から抜け出してみたものの、僕は特に何も未来を決めていなかったし、ハルカなんて病院にしばらくいた方がよかったのではないかとさえ思えてきた。いや、だめだ。ハルカがよくなるまで、いや、もしかしたらよくはならないかもしれないので、今の状態が当たり前になるまでは、僕はハルカと一緒にいることにしよう。

「ハルカとは一緒に進む。どこに行くわけでもないけど、とにかく一緒に。たかしと真琴はついて来たかったら、ついて来いよ。俺たちの今後なんてそんなものだけど、美紗緒はじゃあどうする?それでも一緒にいる?」

「もうしょうがないな。じゃあ私は勝手に行っちゃうよ。本当はみんなのこと心配だけど」

「待てよ。送るよ。美紗緒が新しい仕事始めるまでは、美紗緒に俺たちつきあうよ」

「そう?ありがとう。じゃあ、私の家までとりあえず行こうよ」

 

 

  巨匠のインタビュー

 

 

「私は巨匠の作品を見て、大変感動しました。それから毎日やるようになったんですけど、どんどんやせ細るばかりです。どうしたら、巨匠みたいにあんなパワーを保てるんですか?」

「私はそういう下品な質問には答えないことにしている。意味がないからだ」

「違いますよ巨匠。僕の言ってることって、とても重要なことだと思いませんか?僕巨匠のこと大好きっす。巨匠の相手役の女の人も。あの女優は巨匠の娘だって、聞いたんだけど、それ本当ですか?本当ならヤバくないですか?そんなの」

「そう言った質問にも私は答えられない。およそ意味がないからだ。家族だとか、血のつながりだとか、どうでもいい。全ての絆と離れたところで私はやっているから」

「いやいや、偉そうにコメントして、問題から逃げちゃいけませんよ巨匠。だって、娘と言っても彼女は養子なんでしょう?わざわざ養子にして、それで娘とやっちゃって、しかもそれを芸術だなんて言い張って、世に出すって、あなたのやっていることは、犯罪だよこれは」

「それについても私はコメントできない。君がそう思うなら、君が犯罪者だ」

「またわけのわからないことを。巨匠、社会の多くの人が犯罪だと思えることが、犯罪なんですよ。巨匠のやっていることは明らかに犯罪ですよ。法を犯していなくても、冒涜的すぎる。あなたに自粛という観念はないのか?」

「私は結局社会化されてしまったら、消える存在なのだ。社会化できないことを作っているんだから。それが冒涜的に見えるのは仕方のないことだ。否定はしない」

「いつかあなたは捕まるよ。国家じゃなくても誰かに」

「どうでもいいのだよ私は。自分の安全の保障など。大きなものにつき動かされているから」

「それだそれ。その大きなものって何ですか?それさえあれば、疲れることも、老けることもなくなるんでしょう?」

「それこそ言葉では説明できないことだ。もうあなたもそれを持っている。それは、求めようとして、見つかるものではない。心を静かにしなさい」

「だめだやっぱり。あなたに話を聞こうとしたのが間違いだった。およそまともではないな、あなたは」

「どうとでも言ってくれ。これでインタビューは終わりか?」

「こんなことが記事になったら、あなたにも私にも、さんざんクレームが来ますよ。なぜ、自分をよく見せようとしない?」

「そんなことに興味はないからだ」

「これだから、あなたが巨匠と呼ばれるわけだな。わかった、これは記事にできませんが、私個人としては、最高のインタビューがとれました。ありがとう」

「こちらこそ」

 

 

  鏡像段階8

 

 

 ベランダへ通じる扉を開けました。教室のベランダからそのまま中庭に入れます。花壇を越えて、池の淵まで四人で一緒に進みました。ハルカ君のお腹が鳴ったので、みんなで笑いました。

池の水は苔とプランクトンのせいで、緑色に濁っています。鯉が三匹、池の中にいます。白いのと、赤いのと、まだらの。鯉はみな、体をくねらせて、ゆっくり動いています。

「おーい、タカシ、ここにいるんだろ?出てこいよ」ハルカ君がかくれんぼをしている時のような声で呼び出しました。

「今日の給食はカレーうどんだぞ。まずいけど、食べなよ。お腹すいてんだろ」美紗緒君も池を覗きこんで、どこにタカシ君がいるのか目で探しながら、呼びかけます。

 何の返事もありません。鯉のゆっくりとした動きが見えるだけです。鳥の鳴き声が聞こえてくるだけです。

 

 

  巨匠の再生

 

 

「巨匠、出なさいよ」気取った男がそう言った。

「何故だ、捕まえたばかりだろう」

「いいから、とにかく出なさいよ。後はまたあなたの勝手にしなさいよ」

「どうしてだ、理由をいえ」

「あなたらしくもない言葉だね巨匠殿。あなたを捕まえるのに理由なんて必要なかった。だから、あなたを解放するのにも理由なんて必要ないんだ。早く私の前から消えてくれ」

「つまらん男だ」私は立ちあがり、鎖をふりほどいた。

 外に出る。七人の男たちが悔しそうな目で私を見つめている。私には妬みも批判も賞賛も関係ない。ただ、私は最後のアダルト芸術を作るだけだ。

 

 

  鏡像段階9

 

 

 ごぼぼぼぼぼっというすごい音を立てて、タカシ君が池から飛び出てきました。水があたりに飛び散ります。タカシ君はぜいぜいと激しい呼吸をしています。

「お帰りなさいタカシ君。さ、給食食べましょ」

「ああ、腹減ったわ、先生」

「給食食べる前に着替えなきゃね。体操着あるでしょ。早く着替えてきなさい」

「はい」タカシ君を美紗緒君とハルカ君が取り囲みます。三人で教室の方に帰っていきました。真琴さんと私だけが池の淵に残りました。

「先生、また質問してもいいかしら?」

「どうぞ、答えられる質問なら答えるわよ」

「答えられない質問ばかりよ。なぞなぞだからね。まず第1問目。答えたら、教室に帰してあげる」そう言って、真琴さんは楽しげに微笑みました。

 その時です。空から巨匠が降ってきました。「お父さん!」びっくりしました。

「和実か。久しぶりだな。さあ、最後のアダルト芸術を作るぞ」そう言って、巨匠は服を脱いだのです。ここは小学校だというのに。  

(Fin)
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