小説『7代後の孫への話』
最終更新日:2008年2月3日
○衣
どんなコートを買おうかとここ一ヶ月くらい迷っていた。土曜日の朝、やはりこんなことで迷うのは頭によくないと想った。
七代後の孫たちに想いを馳せてみよう。祖先がどんなコートを着ていたかなんて、七代後の孫たちにとってはたいした問題ではない。
祖先が温かいコートを開発する技術を持っていたかどうかは、七代後の孫たちも気になるところだが、祖先の個人的悩みなど、孫たちにとってはどうでもいいことだ。
どんなデザインの、いくらくらいのコートを買おうかと一ヶ月近く悩んでみても、子孫の未来に取り組むための時間を無駄にしてしまうだけだ。
もちろんこうしたどうでもいいことで悩めるのは、日本が平和だからだ。今ある平和には感謝するけれど、七代後の孫たちのために、平和が用意してくれた有り余る時間を有意義に利用したい。
七代後の孫のことをいつも気にかけながら暮らせば、今私が感じている葛藤のほとんどは発生しないだろう。だいたい自分自身の、小さなエゴの問題で葛藤しているだけだ。
近代的個人意識は必然的に葛藤を発生させる。大きな規模で人類の幸せを願っていたら、個人的な葛藤など霧程度の意味しか持たないだろう。
個人の自由の確保は大事だけれど、七代後の孫たちのことを考え出せば、エゴのために使うお金は不要となる。
もっと大きなことのためにお金を使いたい。七代後の孫が幸せに暮らすために必要な仕事に生涯を捧げて、生きていくのに必要なお金を得たい。
お金は普遍的な万物の尺度になりつつある。万物の尺度を有意義なことに投資しよう。個人の悩みは最小限におさえて、孫たちのために投資しよう。自分はまだ子どもいないけれど、七代も後の孫たちは、私以外の人の血や遺伝子がたくさん入っているから、彼らのことを想像してみて、何も具合悪いことにはならない。
一ヶ月前から気になっていたコート売り場にまた行ったら、今日は店員に声をかけられた。
「広告にも出ている商品ですよ。カシミア百パーセントでこのお値段ですからね。多分今日で全部なくなっちゃうんじゃないかな」
私は週末の度店に来て、このコートがあり続けているのを見ているから、そんな簡単に売れやしないとわかっているけれど、あえて店員の言葉には口を挟まない。
店員に話しかけると、簡単に話が進む。黒色のハーフコートを試着してみた。着てすぐにサイズが大きいとわかった。一つサイズを下げてもらいまた試着してみて、根本的にデザインを好かないことに気づいた。
「すいません、他もちょっと見ていいですか」
私はそう言って、結局ワイシャツだけ買って店を出た。
すぐ近くにある紳士服向けの店に行った。試着を繰り返したら、よいデザインで、予算内におさまるコートを見つけた。私は新しいコートをカードで購入し、自転車でマンションに帰った。一ヶ月間の迷いが消えて、すっきりした。七代後の孫たちは、私が今日買ったコートのことなど興味がないだろう。暖かい服を着て快適に暮らすことができていたら、それで十分だと思っていただろう。孫たち本人は、現代人みたく、どんな洋服を着ようかエゴイスティックに悩むかもしれないが、少なくともご先祖様がどんなコートを買おうか悩むことなんて、どうでもいい話題のはずだ。私はこうして孫たちに関係ない悩みの種をつぶし、彼らのための思考を持つ時間を確保した。
一ヶ月の逡巡の末、買ったコートを羽織って会社に行くと、気分がとてもいい。肌触りがよくて、自分が大事にされている気がする。着心地のいい衣服に包まれて、自分を慈しむことは、裸では性器が露出してしまう人類にとって必要な習慣だ。
誰も私が今年初めてコートを着てきたことには気づかない。気づいていても口に出さない。あるいは、私のコートが去年着ていたのと違うことにも誰も触れない。触れなくて当たり前だ。服装なり身なりについて言及しあう女性の多い職場ではないのだから。私が今日コートを新しくしたことは、七代後の孫たちは知っている。七代後の孫たちはどんな服装で過ごしているだろう。女性と男性の服装差はなくなっているだろうか。
○食
夜ファミレスに行った。二十二時を過ぎると深夜料金になるから、二十一時半に店に入った。ハンバーグとライスのセットを注文して、午前中買っておいた雑誌を読むことにした。
雑誌の国際記事に集中していたら、すぐにハンバーグとライスが出てきた。いつもなら何も考えず、味覚だけ味わって胃袋に放り込むところだけれど、今日摂取したこの食品が、やがて私の細胞になるんだと想った。ゆくゆくは、七代後の孫の遺伝子にまで、今日食べたハンバーグが影響を与えるかもしれない。私はハンバーグとなった牛に申し訳ない気持ちを覚えながら、ゆっくりとミンチになった肉をかみしめた。
私のために死んでくれて申し訳ないという気持ちと同時に、栄養になってくれてありがとう、しっかり養分を吸収しますという感謝の念が湧き上がってきた。この牛は養育者である人類に食べられるためにハンバーグとなった。私はこの牛を消費のためでなく、栄養とするために食べることを心がけた。
一口一口に意味が生み出されてくる。ハンバーグについているとうもろこしも、じゃがいもも、大盛りライスも、日替わりスープも、命を持っている。彼らの命が私の口に入ってくる。命はやがて私の新しい細胞になる。
一ヵ月後の私の細胞は、全てこうした私が口にしたほかの生命体から生じているだろう。
私は彼らになる。彼らはやがて、私の七代後の孫になる。
ニュースでは毎日のように賞味期限切れの食品販売が報道されている。よくもまあここまで続くなと言うほど、老舗や有名店で不正表示が行われていることがわかった。何故こんなに告発されるようになったのか。政治家が大企業の利得のためでなく、一般消費者の利益のために動くようになったから、こうして相次いで企業の不祥事が明るみに出るのだろう。
昔なら、大企業からの組織票が期待できた。今はみんな自由で個人主義的だから、組織票は期待できない。むしろ多くの若者がそういう風習ってうざったいと想うことだろう。
また、大企業から利権提供を受けていると、やれ接待だ癒着だとさんざんバッシングされるようになった。故に政治家は大企業の既得権益から離れて、今まで切り捨てていた消費者に向かう。セールスから顧客へのマーケティングの大きな流れが、政治家にも広がったわけだ。
自由で組織的に行動しない現代日本人から票を集めるためには、一人一人にとって直接利益になる行動をして、アピールしていくのが効果的だ。故にどこの国の政治家も、イデオロギーを主張したり、政策を論議するのをやめて、有権者の日常生活のためになる工夫をせっせとするようになった。政治の庶民化。
この流れによって、消費者を欺いていた食品会社が告発されることはありがたいことだ。消費者は無知だから欺いてオッケーと企業人たちが想っているなら、消費者はもっと狡猾になる必要があるが、クレーマーにだけはなりたくないと想う。気になるのは、毎回偽装表示で記者会見を開く企業経営者が、私の指示ではない、現場が勝手にやっていた、知らなかったと言うことだ。そしてまた操作が進むと決まって、経営幹部の指示による組織的犯罪だったことが明るみに出る。誰もが最初に嘘をつくから、また嘘ついてるんだろと想ってしまうようになった。不正を起こす企業の経営者はみんな狼少年みたいだ。
記者会見の場で同席していた経営陣に促されて、謝罪をはじめた経営者もいる。七代後の孫たちがこのニュース映像を見たら、おじいちゃんおばあちゃんたちはなんだか不可思議なことで困っていたんだなと笑うことだろう。
食品というよりも、目の前にある料理一つ一つを大切に、慈しんで食べていたら、こんな不祥事も続発しなかっただろう。感謝しながらゆっくりと味わって食べたら、そもそも大量の食品なんていらないし、エンゲル係数が高くなって今の私みたいに困ることもない。
ここにある食事は七代後の孫たちが生まれるために存在しているんだ。
私は栄養を尊ぶ。
○住
マンションに帰って、風呂のお湯をためている間、部屋を雑巾で水拭きした。雑菌に弱いため、防護用の手袋をして、雑巾で部屋中の埃をふき取る。ここ最近頭も体もこちこちにかたまって、リウマチみたく痛くてしょうがなかったけれど、水拭きをすると、何故か体も心もすっきりと晴れ渡ってくる。髪の毛やら埃やら汚れ物を水で吸い取っていると、心身まで浄化されるようだ。
部屋を拭いているのではない、心身にたまった汚物をふき取っているのだろう。
これは水拭き特有の現象だ。掃除機を使っても、コロコロを床に転がしてほこりを集めても、こんなに頭と体がすっきりすることはない。床に雑巾を押し付けて動く作業が体にいいのか。水拭きの時が、掃除機やコロコロを使っている時より体を動かしているのは確かだ。
大学五年目の夏休み以降、私は毎朝起きてから深呼吸をし、ヨガをし、水拭きをしていた。最近全身がめちゃくちゃに痛いので、ヨガをまたやるようにしたが、腰から背中にかけての痛みはとれなかった。それが水拭きをしたらこんなに心身が甦った。ヨガより水拭きの方がきくみたいだ。
水拭きをする気になったのも、七代後たちのために生きようと想い直したおかげだ。七世代後のために必要ないことを私はたくさんやってきた。彼らにとっては何の意味もないことでうじうじと悩み続けていた。そんな無駄なことを繰り返していたから、部屋を水拭きする時間さえ確保できなかった。忙しすぎるわけじゃない、時間の使い方が間違っていただけだった。
七代後のためを想うと、やることが少なくなる。生活にゆとりが戻る。すると掃除をする時間が持てる。というか、掃除をしようという計画、意志を持つことができた。人生設計の中に水拭きを持ちこんでしまえば、後はすんなり行く。続けることだ。水拭きはヨガや栄養ドリンクより効果がある。
掃除だと想っていたから、めんどくさかったのだ。だいたいにして、学校の清掃の時間の影響で、掃除は面倒臭くかったるいという観念が頭に植えつけられてしまう。水拭きは掃除じゃない。運動だし、もっというと、清めの儀式だ。床を拭いていると軽い運動になるし、心もすっきりする。七代後の孫たちのために、綺麗で住みやすい世界を維持していこう、生成発展させていこうと思えば、掃除をすることにも、大きな意義を見出すことができる。自分のためではないのだ。将来野子どもたちの世界が綺麗で住みやすいものとなるために、掃除をしているのだ。そう想えば水拭きに対するモチベーションが煮えくり返ってくる。
○体
自然とテレビをつける時間も減った。液晶テレビを買ってから、テレビを見る時間が明らかに増えた。
以前はテレビ番組なんて面白くないから、液晶テレビも要らないと考えていた。引っ越した時に液晶テレビを買ったら、なんでもっと早く買っておかなかったんだろうと後悔したし、同時にテレビの視聴時間も格段に増えた。液晶テレビを見ている自分が好きになったのだ。
けれど、七代後の孫たちのために人生を設計し直すと定めたら、テレビを見る時間が減った。
腰痛の原因は、ベッドに寝ながらテレビを見ていたせいかもしれない。テレビとベッドが直角に配置されているから、テレビ画面を見るためには、首を枕から左にずらして、ちょっと持ち上げないといけない。すると首がこるし、肩も腰も変な位置に曲がる。体に悪いとわかっていても、体を横たえているのが楽だからやめられないでいた。
そんな怠惰ともお別れだ。孫たちのために体に悪いことはしない。
この体は私だけのものではないのだ。節制して、後世に生き方を伝えていく必要がある。
七代後の孫たちのことを想いつつ、職場へと向かったら、毎朝感じている倦怠感は少なくなった。朝目覚める時は、まず首やら背中やらの痛みを感じながら起きていた。休んでいるはずなのに休めていなかった。夜眠るは夜の気をたくさん吸いこんで、朝元気に起きてみようと想ったら、朝起きることが鬱陶しいというマイナスの想念が消えていた。
いつも足先や背骨や肩周辺が痛くなってしょうがなかったのだけれど、今日は痛みも少なかった。痛んでくれば、水拭きをした頃の頭と体の晴れやかさを想い出して、疲れを心の外に追いやることにした。心から疲れが取れれば、体の痛みも取れるだろう。慢性的な痛みは脳が深いところで記憶している痛みだとも言うし。
男子トイレで用を足している時、隣に人が来ると二の腕に力が入ることに気づいた。性器を覗かれるのではないかという恐怖の気持ちがわき起こってくるせいだろうか。肩甲骨も異様に上がっているし、体中が他人の来訪に怯えている。大丈夫だ、彼らは何もしないと自分に言い聞かせた。たとえ何かしてきたところで、自分には脅威を跳ね返す力もある。怯える気持ちを見せていては、つけこまれるだけだ。
「私の終わりは私の始まりで、私の始まりは私の終わり」
私の終わりは私の始まりで、
私の始まりは私の終わり
時空の終わりは時空の始まりで、
時空の始まりは時空の終わり
愛の終わりは愛の始まりで、
愛の始まりは愛の終わり
銃乱射の終わりは銃乱射の始まりで、
銃乱射の始まりは銃乱射の終わり
○
西原克成の『内臓感覚』を読んだ後のせいか、風呂上りの気持ちよさが尋常ではなくなった。以前から、風呂上りは気持ちよくなるとわかっていたが、今、本当にくつろいでいる。細胞全体が重力から解放された喜びを味わっているかのようだ。
日記は、フランツ・カフカ、レフ・トルストイ、神谷美恵子がかつて書いていたような調子で、毎日書いていきたい。時代と対決し、人類が抱えるハードな問題にチャレンジする日々の記録を書き綴ること。
焦ることはない。問題の領域は広大だ。ゆっくりと、こちらのペースで進んでいこう。敵は無数にいるが、味方もまた大勢いる。インターネットの広大な空間には、人類が抱える問題にチャレンジしようとしている生命がたくたん生まれている。私も再生したい。
○進化論と生命多様性
風邪がなかなか治らない。自分を振り返る過程で問題が見えてきた。睡眠時間が少ない。ストレスが多い。冷たい飲み物をたくさん飲んでいる。体を横にして眠っているため、背骨が曲がっていく。治そう。
喫茶店ではいつもアイスラテを頼んでいたが、今日はホットのカフェラテを飲んだ。体も心も温まるという詩的表現はまさに自然科学に適している。皮膚と心は同一なのだ。内臓を温めるものを飲めば、神経もあたたまってくる。すると心も休まる。
今テレビではライオンが交尾する映像が映し出されている。メスライオンはオスが後背位で上に乗ろうとするたびに、ぱっと身を翻して、逃げる。そしてまた地面の上に寝そべる。オスがよる。そんな戯れなのか駆け引きの繰り返し。
自分は結婚すべきだろうか。子どもを創るべきだろうか。愛の結びつきが眼前に存在すれば、そんなことで哲学的に悩む必要はないだろう。多くの人は哲学的に考えず、多くの人がやっているから、社会がそうと定めているから、あるいは気持ちいいから、好きだからという理由でセックスをし、子をもうけている。生殖について考えないですむ社会は幸せだ。人は考えないで済ませることができる時幸福かもしれない。何故だろう、何故そうするのだろうと考えることは苦しい。考えていると脳とつながっている脊髄が痛んでくるが、考えずに性を楽しめば、体の前表面が喜んでくる。
深く考えず性の契りを結んで遺伝子を残すことは、本当に必要なことなのだろうか。昔の社会では必要だったろうが、現在の東京では必要ないかもしれない、というか必要性をあまり見出すことができない。かつての血縁社会では、自分たちの一族の子孫を残すことは、一族にとって重要なことだった。今は実力社会だ。私がとりわけがんばって子孫を残さなくても、他の人が残した子孫が、優秀になって、社会を引き継いでくれる可能性がある。実力社会の浸透は、繁殖の必要不可欠性を人類から剥ぎ取る。
繁殖する代わりに、私は文章、思考の足跡を記録する。文化の伝達は、繁殖より偉大な行為だろうか。生物学の価値観では、元来文化活動による伝達よりも、遺伝子による伝達の方が重要だと考察されてきた。遺伝子が持つ情報の中には、私が創造した文化的活動の功績は引き継がれていかない。遺伝子は一世代程度の文化的発展は引き継がない。ただし、人間社会を見る限り、文化や社会が人の人生に与える影響力は、遺伝子よりも高いように思える。ソクラテスやプラトンやアリストテレスなど偉大な学者たちが繁殖によって生み出した子孫よりも(そもそも子どもを残していない学者も多いが)、彼らが考察したことどもの成果である書物の方が、人類に多大な影響を与えてきた。文化や創作物は、遺伝子よりも強い影響力を持つのだろうか。もう子どもを創らなくてもいいのだろうか。
繁殖行為には強烈な快感がともなう。神の動機づけ。しかし、創作活動の真っ最中や、宗教的神秘体験、ビジネスの間においても、性交の際よりも強烈な快感を得ることができる。快楽が指し示す方向に集中すれば、人類は幸福になるが、強烈な快感ばかり体験していては、次第に感覚が麻痺して中毒症状が起きてくる。快楽だけを追い求めると、人は壊れてしまう。
人間が作り出す書物、言葉の集積は、生殖による遺伝子の複製保存よりも重要なのだろうかという疑問は、人間が生殖以外の方法で子どもを作り出せないことによって破綻する。神が発明した生殖という技術までに、人間文化はいたっていない。故に繁殖の方が文化活動よりも崇高だというのが、十九世紀的前提だったが、現代科学は、この領域にまで踏み込もうとしている。人工授精、人工生命、遺伝子の究明、これらはまだ序の口に過ぎず、まだまだ生殖の方が上手だ。何せどのようにすれば生命が誕生するかについて、人は知り尽くしていない。生殖以外の方法で自分と同じ知的生命体を生み出すことに成功した時、人類の文化活動は生殖よりも優れたものとなったと認めることができるだろう。
人体の助けを借りている限り、人工授精を生命誕生の技術だと言うことはできない。人間の体から摂取した精子も卵子も使わずに、人間を生み出すことができるようになった時、そんなことが可能かどうかはわからないが、人間の文化活動は生殖能力を超えたと認めることができるだろう。その時が来るまで、少なくとも人類はセックスし続けるだろう。
さて、いまだ神の技術領域に達していないのだから、私は生殖して子を生んでもよいという結論にいたることができる。しかし、その命題はしてもよいという許可を与えてくれるだけで、生殖するかどうかは私の自由意志による。私は少なくとも、自分の仕事を社会に必要不可欠なレベルまでに高めることができずにいるのだから、もっと仕事を実践することの方が、繁殖するよりも必要なことだと思う。もちろん子を持つことで生命の秘密に近づくことができるのだろうが、私は仕事から財を成すことにまだ成功していない。自然淘汰に負けているのだ。
ここで進化論が頭をもたげてくる。今まで私は進化論に否定的だった。進化論的思考法は優生学や、アウシュビッツ、新自由主義、格差社会を生み出したと思っていたが、ダーウィンそのものの進化論と、優生学は違うことがわかってきた。
新自由主義はダーウィンの進化論と相容れない奇妙な突然変異だ。市場競争によって、勝者と敗者がわかれる。新自由主義は自然淘汰を支持する。強い者だけが生き残ると説く。故に政府すなわち神はあまり市場に介入せず、市場競争参加者、すなわち生命体に自由に競争させている。
ダーウィンの進化論によく体を沈めてみよう。進化論は強い者だけが生き残ると言っているわけではない。環境に適応したものが生き残るのだ。強い者と弱い者の定義が間違っている。強い者とは、他の生命体全てをなぎ倒す、多国籍巨大企業的動物のことをさすのでない。進化論において強い者とは、環境に適応する能力が高いものをさす。同様に弱い者とは貧困層、負け組をさすのではなく、環境に適応できにくいものをさすだけだ。
ライオンは肉しか食べない。草を破壊しないが、人間社会における多国籍企業は自然環境まで破壊しつくす。ナチスはユダヤ人を絶滅しようとした。強い人種だけ生き残ると考えたが、これは根本的に間違っている。環境にもっとも適応した種は、そもそも一部の種族を絶滅させようなどとは考えないものだ。
生物には多様性が見られる。生存競争とは、誰か一人が勝つ社会ではない。新自由主義的価値観、優生学的価値観における、生存競争の尺度は、一つしかない。勝つか負けるか、どれだけの金を溜め込むことができるかどうか。
実際の生物が行う生存競争には、数え切れないほどのパラメーターがある。ライオンが生存競争に生き残っても、猿もチーターもシマウマも草も生き残っている。生存競争における勝者は無数にありうるし、多様である。生物は多様な方がよい。できるかぎり多様である方が、生命体全体が生き残る可能性が高まる。
市場原理主義と呼ばれる理論においても、市場競争は勝者と敗者を分ける単純な理論だと思われていないかもしれない。市場はつかみどころがなく、変化するものだ。市場の流れに適応した企業だけが生き残っていく。勝者になれる可能性は無数にある。勝者は多分市場競争に勝っても無邪気に喜ばないだろう。市場競争に勝つとは、ただ単に生きていたということだ。生きていた結果、市場競争に勝ったのだと後でわかるだけだ。
市場競争の押しつけは批判されているけれど、進化論的な意味での市場競争は、勝者と敗者を明確にわける技法ではない。本来的市場競争では、勝者と弱者のすみわけが起こる。あらゆる保護を撤廃して、市場原理に完全にゆだねることを新自由主義とするなら、それは進化論的にみて間違っている理論だということができる。あらゆる保護がない市場とは、草も水もない、コンクリートでかこまれた環境だということができるだろう。そんな場所で生きていこうとすれば、平原で暮らしていた動物たちは、環境に適応するため、必死に頭を働かせる必要がある。本来の生命系には、たくさんの生物が共生している。共産主義によるコントロールも、新自由主義によるコントロールの放棄も、自然環境とは異なるものだ。どちらもコンクリートの環境を生み出してしまう。生命がいる環境には、安らぎと食物がたくさん必要だ。
○
さて、話を私の実存に引き戻そう。私が繁殖するためには、独立した収入源を持つ女性と関係を結ぶか、私が富や名誉の一切を放棄して愛に邁進するか、自分の仕事を生存競争の勝者となるよう工夫するかの三つの選択肢がある。自由意志を持つ私は、第三の選択を選びたい。
インターネットでも、新人賞でも生存競争が繰り広げられている。まず、新人賞を観てみよう。新人賞は千人程度の参加者のうち、たった一人だけが生き残る過酷な競争である。この競争形態は、自然に見られる生存競争の仕組みからかけ離れた、ひどく殺人的な、敗北を宿命づけられた競争だ。新人賞は種の絶滅を意図した競争としか思えない。新人賞制度は創造的活動を促進することはないだろうと思える。千人に一人しか生き残らないという確率は、創造的活動にとっては伝染病のように野蛮で危険な病原菌としか思えない。
生存競争の現場では、本来生命の多様性が維持される。複数の異なる種が同時に勝利し、負けるものは自分が負けたと気づくこともなく、自然に死を迎えて絶滅していく。新人賞は生存競争を人の手によって加速度的に強化したものだと理解することができる。文化活動は生命体の活動を極度にハイスピード化したものなのだろうか。競争の流れが加速することで、進化発展まで促進されるのだろうか。
そう簡単に結論づけることはできない。新人賞制度ができてから優れた作家が増えたわけでもないし、人と人との対面的共感によって育成されてきた作家のレベルは、対面を必要としない新人賞精度の導入によって下がったとも考えられる。新人賞をオリンピックと対比させてみよう。オリンピックでは各国代表の類まれなるアスリートが競い合い、各競技でただ一人のゴールドメダリストが選別される。これは生存競争の最終局面なのだろうか。ここには自由と民主主義的な生命系の振る舞いがあまり見えてこない。ではひるがえって、より自由で民主的だと思えるインターネットの場を見てみよう。
インターネットでは、日本語だけでも多数の文章が毎日量産されている。キーの入力一つ一つによって、ビットという生命体が多数出現している。そしてアクセス数によって、生存競争が計測されている。インターネットの系は新人賞の系よりも、自由で開放的だ。新人賞はインターネットに比べて閉じられた、かつより競争が過酷な系だと考えられる。アマの世界は気楽だが、プロの世界は過酷出厳しいという常套句がよくきかれるが、ネットは気楽で新人賞は過酷だ。
思考を根源に向けて深めてみよう。生存競争にとって、気楽な系と過酷な系とどちらが都合いいのか。もちろん気楽な系で過ごしている方が、種の保存を意図している生命体にとっては居心地がいいに決まっている。気楽な場所は、遺伝子にとっても気楽な場所なのだ。では、何故多くの人は過酷な系にあえて身を投じるのか。過酷な系で生き残ることにより、生活が変わるかもしれない。過酷な生存競争がもたらす報酬はしかし、財産が増えたり、名誉欲が増えたりといった、欲求を満足させる報酬に過ぎない。
ここでさらに思考を根源に進めてみよう。名誉欲、財産欲は生命体にとって必要なものか。有名で財産があれば、種を保存するには有利になるかもしれない。しかし、生命にとってより本質的なことは種の保存だ。有名になること、財を蓄えることは繁殖欲求の副産物に過ぎない。生命の文化活動にとって根源的に必要なのは、自己が生み出す創造物を増やしていくことだ。自己を増やしていくこと、目的があるとすれば、何のことはない、それだけだ。
人間が生み出す文化的活動は、自己の活動に文化的意味合いを見出したがる。何故私は生存競争に参加しているのか。緩やかな生存競争よりも、過酷な生存競争に参加したいと思う動機は何なのか。
自分の言葉に社会的意義を与えること、重要性を与えること。社会に貢献できる生産物を生み出していくこと。過酷な生存競争に参加したいと思う私の究極的動因はこれだろう。しかし、インターネットという新人賞よりも緩やかな生存競争の場で文化的生命活動を続けていても、こうした目的を達成することはできる。
生存競争の勝利者とは、その環境で生き残ることができたもののことをさす。だとすれば、新人賞における勝利者は受賞者一命か二名しかいない。インターネットにおける生存競争の勝利者は、更新作業を続けている人すべてをさす。更新できていれば、インターネットの系では勝利者なのだ。アクセス数の大小は、自分がヒトなのかライオンなのか鳥なのか魚なのかという目安にすぎない。数の大小はインターネットという系においては、生命の多様性をはかる尺度に過ぎなくなる。九十九%の種が絶滅してしまう新人賞という生存競争に比べれば、インターネットの系は自然環境に近い。新人賞は毎日生命体の危険を脅かす新種のウィルスが生まれているようなものだ。
インターネットの系では、更新していれば生存競争の勝利者となる。インターネットの系で人類史にとって重要な情報を発信し続けることは、生存競争そのものとは関係ない、生命体の自由に属する領域だ。ならば私はインターネットの系に自分の創作活動の中心をおこう。新人賞の系では殺人ウィルスが蔓延しているし、自分の名誉欲、財産欲を満足させることよりも、他の人にとって重要な情報を伝える営為の方が重要だからだ。利他的活動が最終的には、遺伝子群の繁栄を助けることもある。殺人ウィルスが蔓延する系で善意に基づく活動をしていては、獰猛なライオンの手によって簡単に虐殺される。殺人的競争に参加している人たちは、緩やかな系で気ままに生きている人々よりも、獰猛で自己中心的なことだろう。何せ生き残るのはたった一人の過酷な世界なのだから、殺し合いが促進されて当然だ。利他的行為は緩やかな、ある程度の平和が保障された組織体で発達していく。インターネットは悪意よりも善意を生み出してくれると信じたい。
○
インターネットにおける創作活動は、ただ単に更新できたというだけで、生存競争に生き残ったと宣言できる。実際の生命系における生存競争とはそれくらい心温まるものなのだ。新人賞の生存競争は彗星が落下した後、火山が爆発した後くらいの絶滅必死の生存競争だ。何せ一人しか生き残らないのだから。
そう、一番にならなくてもいい。一番になりなさいという強迫命令は、教育の世界に根深く残る悪魔のささやきだ。これは自然法則に反している。だから、多くの人が一番になろうとして、もがき苦しみ、体を壊し、悲嘆にくれている。生物の世界において、一番になる必要はない。生物にとって必要なのは、環境に適応すること、それだけだ。環境に立派に適応できていれば、環境適応度が一番だろうが何番だろうが関係ない。逆に、現在ある環境系に適応しすぎた種は、環境が変化した際、生き延びる確率が低くなる。現在ある環境に完全に適応してしまうことは、種の保存という生命活動の目的にとっては、リスクが高すぎる賭けなのだ。
多くの教育者は、一番になりなさいという。声を大にして繰り返そう。
一番になることはたいして意味がない。むしろ危険である。無意味な活動に取り組むことは、生命を磨耗させるし、環境に一番適応した生物は、融通がきかなくなるからだ。
昨日の夜このことに気づいたら、今日は給に体の動きが緩慢になった。ビジネスマンっぽい体の使い方とは、常に戦闘態勢であり、心身に実によくないと気づいた。何も一番にならなくていいのだ。私は心理学でタイプAと呼ばれる強迫障害から脱することができたように思える。一番にならなくてもよい、ただ単に環境に適応できるよう、気ままに暮らしていこうと思ったら、実に心が優しくなった。
むしろ通勤電車に乗る疲れは増えた。体は重くなった。今まで我慢していた全身疲労が一気に表に這い上がってきた感じがした。それでも夜酒を飲んで笑いあったら、体はまた安らいだ。私が気づけていなかっただけで、多くの日本人は一番になろうとせず、毎日人生を楽しみ、気楽に生きているのかもしれない。それでいいのだ、というよりその方がいいのだと、ダーウィンに背中をさすってもらったような気がする。
一番になりなさいという強迫的命令は、文化活動のいたるところで見られる。一番で無ければ気がすまない? これはおかしい。生存競争でトップに立つことは、たいして名誉あることではない。
多くの企業は、業績を上げようと努力している。しかし、そんなに業績を上げることが必要か。ただ単に環境に適応して、末永く生き延びていく企業こそ、生存競争に強い企業と言えるのではないか。
学問を突き詰めていくと、精神と背骨がまいってくる。脊髄神経系を使いすぎるためだ。学問の中で閉じこもるのでなく、社会で暮らし生きている多くの人々のためになる学問をしなさいという命令が昨夜眠れない時間に降りてきた。
どんな最新理論でも、多くの人にとって有益とならねば考えていく意味がない。何故新理論が、多くの人にとって有益となることができるのか。既存の広く社会に行き渡っている理論が、現実とあまりに乖離しているため、人々が疲弊している時、より現実に即した理論の登場は、多くの人々を慰めることになる。
一番になることにはたいして意味がない。生存競争なり市場競争なりの尺度はたった一本の尺度ではかれるものではない。競争の尺度は何本もあり、勝者もまた無数にいる。多様な勝者を生み出すことこそ自然の営みだ。ただ一人の独裁者によって支配される世界は、すぐに活力を失ってしまうだろう。自然は多様性と安らぎを愛する。焦らないことだ。何年もかけることだ。変化は急激には起こらないものだ。
人間の文化的活動は、一番になることを強く求める。生存競争という概念に対する誤った解釈が原因だ。
○
会社の昼休み、カフェにランチセットを食べに行った。カルボナーラピザとクロワッサンとアイスカフェラテのランチセット。レジで注文している時、店員の女性が私に微笑みかけながら注文内容を繰り返した。いつもなら、店員が笑顔を差し向けていても、私は愛想の悪い顔をし続けていたが、今日は相手の目を見て微笑み返した。
東京で暮らしていると、コンビ二、スーパー、ドラッグストア、ファミレス、ファストフード、カフェの店員はいつまでも他人である。彼らは顧客満足を気にして都会面した冷たい客にいつでも変わらぬ笑みを向けてくるが、私は恥ずかしがって笑い返さずにいた。生存競争で一番になることは意味がないと気づいたせいか、今日は自然に微笑み返した。
笑顔は友好の証であるし、人類の証である。動物で笑顔を持っているのは、人間だけではなかろうか。笑いこそ、言葉とコミュニケーションが発達した証である。文化が生まれた場所には、ユーモアもまた生まれる。
店員に笑顔を向けられると、笑い返せないのは、気恥ずかしいからか、彼らを他人だと想っているからか、内心見下しているからかはわからない。笑顔を返そうとしても、顔の筋肉が不自然に歪んで、いびつな笑顔になってしまっていた。今日は微笑み返した時、顔がひきつっていなかった。
○
人間の文化活動に意味はあるのか。一代限りの文化活動は、遺伝子に残らないけれど、子どもたちは親の習慣行動、言葉がけから遺伝子以上に多大の影響を受ける。何よりも、文化は集団的記憶を生み出す。蓄積された集団的記憶は、七代後の子どもたちにまで、祖先の栄光と挫折を教えてくれる。世界での身の振り方について何も知らないでいるよりは、かつての人類の文明の足跡を知っている方が、過ちが少なくすむ。
文化は生存競争の延長だが、頭脳が作り出す世界での生存競争は、遺伝子間の生存競争よりも速く、過酷だ。特に科学技術が発達した二〇世紀以降は、競争スピードが年々速まっている。コンピューターの現場では、あまりの技術革新の速さにラットイヤーなどと呼ばれてもいるが、実際のねずみたちは、IT技術者たちよりも緩やかな生存競争の渦中にいる。
生存競争が過酷になることで、より進化のスピードが速まったのだろうか。速くなることに不満はないけれど、文化的生存競争の過程で、一位を目指すことには、意義を見出すことができない。生存競争の中で一位になるということは、大草原の中でライオンになることか、もしくは霊長類の中で現生人類になることを意味する。一位を目指すことは、ただ単にライオンを目指すことにすぎないとしたら、その目標にはたいした意味がない。生存競争の勝利者とは、環境に適応した種のことをさす。環境に適応できればみなが勝利者なのだ。何故わざわざライオンとなることを目指す必要があるのか。百獣の王といっても、ライオンの周りには無限に複雑な生態系が存在している。ゾウもシマウマもチーターもハイエナも生き延びることができれば等しく生存競争の勝利者であり、わざわざライオンでいる必要はない。言うなれば、ライオンが食事後排泄する糞の中に含まれるバクテリアであろうとも、生存競争の勝利者なのだ。生態系は生命体の共生によって成り立つ。誰もがライオンを目指していては、生物バランスが崩壊し、その地域からは生命が消え去っていく。
意義があることは、どんな形でもいい、生存競争に生き残ることだ。現在ある環境に適応できれば、生命は生存競争の勝利者となる。文化の生存競争においては、自分が死んだ後でも、作品を残すことができる。文化作品とは、作者たちにとって子孫のようなものだ。自分の命が分解しても、子孫たちは末永く愛される可能性を持っている。
優れた作品、劣った作品という評価は、環境に適応したかどうかを基準とすると、気楽なものになる。他人の評価は実のところ、生き延びること、新陳代謝を繰り返すという背名活動目標にとって、たいした意味はない。優れていると評価された作品がすぐに滅亡する場合もあるし、かつては評価されない作品が、後々歴史に残り続ける場合もある。ようは、気を抜いて、生存競争に参加することだ。参加している限り、あなたは勝利者なのだから。パンクバンドは、バンドを結成した時点で世界一になれるという。それは全ての文化活動における真理だ。文化活動に参加することを諦めた瞬間、生存競争の敗者となる。しかし、やめない限りは、生命の火花がきらめいている。
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夜ファストフード店に食べに行ったら、いつもの店員がいた。20代前半という感じの若い女性が二人いて、いつもどちらかはいる。今日は二人とも揃っている。毎週食べに行っているし、こっちが顔を覚えているのだから、向こうも覚えているのかもしれないけれど、マニュアルどおりのファストフード接客故に世間話をすることもない。
私から注文をとった店員が突然顔を上げて、いつもは見せない満面の笑みを造った。咄嗟に、この無条件の笑顔はお客の私に向けられたものではないと気づく。何故彼女はこんなに親しげな表情を作ったのか、周囲の状況に意識を向けたら、私の背後を何人かの若い女性が通り過ぎた気配を感じた。
おそらくアルバイトで働いている彼女の友達が店に訪れていたのだろう。あの笑顔は店を出る友人たちに向けられたものなのだと推理して、不可解な気持ちが解消した。理解できない事態に遭遇すると、わかりやすい理由を探したくなるものだ。実際探してみれば、謎の原因は簡単に見つかる。
彼女は自動ドアが閉まると、また前と同じ無機質な表情に戻って、すぐ下を向いて、私が注文したクラブサンドを作り始めた。
「苦手な野菜はありますか」
「ドリンクなどの追加注文はありますか?」
機械的な言葉の反復に、私も決まった答えを返す。先ほど人間的な笑顔を見せてくれたせいか、いつも以上に彼女の言葉が無機質に聞こえた。
いつもより多く残業して、地下鉄に乗ったら、満員電車で驚いた。電車に乗ると、すぐに他人の体に挟みこまれる。痴漢に間違われることのないよう、周りに男しかいない空間を見つけ出して、その隙間に逃げこむ。すぐに圧迫される。
「中央線で人身事故があったため、丸の内線は振り替え輸送をしております。車内が大変込み合いまして、ご迷惑をおかけします」と車内アナウンスが入った。満員電車の理由がわかり、それではしょうがないと納得してしまう。
人が多すぎるせいなのか、ドアが閉まった後も電車はなかなか動き出さない。私は目を閉じて、まぶたの中に広がる光を見つめた。私の目の前にはコート姿のおじさんがいる。私はまぶたに広がる光の点滅だけを見ている。
人と人に押されて苦しいなと想うと、体が疲れる。人肌に触れる心地よさを楽しめば、体に眠気が広がってくる。自然と笑みも漏れてくる。
都会に一人で暮らしていては、なかなかスキンシップを取る機会がないが、満員電車は日ごろの触れ合い不足を解消するためにあるかのように、人と人の肌を接触させる。見ず知らずの男女が狭い車内の中で、体を密着させあっている。親しい人ともこんなに肌を押し付けあうことはないのに、誰もが押し黙って人肌の密着を体験している。満員電車は都会に必要なものなのかもしれない。
ドア付近に立っていると、いつまでたっても体の密集度が変わらない。新宿に着いた時点で、人が一気にホームに出た。ホーム側ではこの満員電車に乗ろうとしている大人たちが列を作って待っている。私はドア付近から離れて座席と座席の間の狭い空間に立つことにした。
人が出終わると、続いてまた大量の人が車内に入ってくる。ドア付近はやはり密集度が高い。車両の真ん中あたりは、体を密着させるまでは密集していない。まるで生態系の違いを見ているかのようだ。ドア付近は生命が密集しており、自分の場を確保するための競争率も激しい。車両の真ん中に来れば楽に立っていられる。座っている人たちは満員電車であろうとも、周囲に人が多いなくらいしか感じていないだろう。
部屋に帰って軽くシャワーを浴びた後、ネットでニュースを見た。夜のニュース番組の放送時間帯を超えているから、ネットの方が情報収集に適している。先週末に起きた長崎での銃乱射事件の続報がトップの方に来ていた。当初殺害されたインストラクターの女性は、偶然殺されたのか、意図的に殺されたのかはっきりしなかった。殺された二人のうち、犯人の親友だった男性は、関係が親密だったせいか、すぐに意図的に殺されたのだと報道された。助成インストラクターは犯人とのつながりはないと報道されていた。
彼女がスポーツクラブ内でも人気の美人だったこと、犯人は彼女がいるプールで待つよう親友に指示していたこと、彼女が付き合っていた男性と犯人は面識があったことなどから、犯人は意図を持って彼女を殺したのではないかと私は予想していた。
私も大学時代スポーツクラブに通っていたから、プールの女性インストラクターがどれだけ魅力的に見えるかはわかる。だいたいにして、スポーツクラブは、冷め切った日本社会の日常からかけ離れた、カーニバルの空間である。受付に行っただけで、トレーニングウェアを着た女性スタッフが満面の笑みで、「こんにちは」と元気よく挨拶してくれる。どんな店に行っても、店員がこんなに元気よく、かつ親しげに、挨拶してくれる店はない。スタッフの放つオーラに飲み込まれて、クラブに入る前はいつも通り無表情の顔で歩いていた私も体温が上がってくる。トレーニングウェアに着替えて、ジムの中に入っても、いたるところに元気よく人なつっこいスタッフが挨拶の声をかけてくれる。プールでは、ただでさえ好感度抜群のスタッフたちが、水着姿で迎えてくれる。
マシーンを使ってトレーニングしている限りは、スタッフがどんなに筋肉たくましくても、それほど羨望のまなざしで見つめることはない。泳ぐこともまたマシーントレーニング以上に孤独なスポーツだが、プールにいるスタッフはみな泳ぎが上手いから、自然な尊敬の念が芽生えやすい。
プールに入って最初のうちは、大人の男性なら、泳ぎのレッスンや、アクアビクスなどのイベントには参加しにくいものだ。レッスンやアクアビクスには、女性会員の参加が多い。当然女性会員にも目をひく美人はいるが、元気よく声をあげて、常に好意的に対応してくれるインストラクターたちには、やはりかなわない。
何回か通っていれば、自然とスタッフの顔を覚えるものだ。人気のあるスタッフは、周囲によい雰囲気を振りまいているから、とりわけクラブ内で目立つ。殺害された女性は、事件当時、子どもたち向けのスイミングレッスンをやっていたという。
私は仕事中、犯人が何故彼女を友人と一緒に殺害したのか、いろいろと推理してみた。最初に報道された当初は、犯人が何故銃を乱射したのか、犯人が普段通っている教会で自殺したため動機がわからず、不可解だった。女性は友人の殺害か、自殺の巻き添えにされただけなのか。もしくは、羨望の目で見つめていた女性を何故殺そうと思ったのか、動機がわからず気味が悪かった。
愛情の念を差し向けている人を、殺してしまう。
愛から憎しみへの反転なのだろうか。愛憎は表裏一体なのだろうか。そのような古典的理解では、今回の事件は理解できないのではと想えた。最近親子殺し、兄弟殺しなど、ニュースでぱっと見ただけでは、不可解な事件が連続して起きている。昔なら、そのような事件は一年に一度くらいしか見なかったのに、ここ数年は月一回のペースで何故そんな事件が起きてしまったのか、頭を抱えざるを得ない事件が続いた。佐世保で起きたこの銃乱射事件も、常軌を逸した犯罪だと想えた。犯人は寂しかったのだろうか。親しい人や憧れていた人を殺した後、彼はどんなことを感じたのだろう。そもそも何故銃で殺そうと思ったのか、その部分が理解できない。最近の理解できない事件を起こす人たちは、近代的人間像を超えた観念を持って犯行に及んだのかもしれない。今まで積み重ねられてきた犯罪心理学なり近代的人間理解では、犯罪の動機をつかめないのではないかと思えた。
しかし、謎は今日解けたようである。不可解なことには、いつでも単純な理由がある。その理由がわかれば、何故こんなことで悩んでいたのかと思える。納得いかなかった自分の心が安定を取り戻す。
ネット上のニュースサイトを回って集めた情報によれば、犯人は十月から急に明るくなり、スポーツクラブに足しげく通うようになったのだという。犯人は殺害された女性に声をかけてもいた。新車を購入して見た目もすっきりした犯人が、十一月中旬ともなると、急にまた元の目つきが悪い状態に戻ったのだという。
確かな情報ではないのだが、こうした情報を手に入れてみると、この事件は実に陳腐な週刊誌の三面記事的内容に様変わりしてしまう。わからないことだらけで、相互に連関しない大量の情報の断片は、失恋による殺人という実に簡潔で古典的犯罪に圧縮されてしまう。
こうした情報圧縮、まとめ方は、本当に事実なのだろうか。ただ単に社会が、理解できなかった犯罪をわかりやすく圧縮してしまったのではないか。周囲の情報を集めて、体系だてて整理してみれば、どんな不可解な事件も陳腐でありふれた怨恨犯罪になってしまうのだろうか。
人は整理された情報を好むけれど、理解できない大量の情報を整理したいという欲望もまた強く持っている。実は大量の情報を収集して、それを理解できるレベルにまで圧縮しようとする過程にこそ、人類が生きる喜びがあるのかもしれない。実際整理されて見つかった結果が、数千年前からあった犯罪の範疇に分類されてしまったとしても、そこまでたどりつく過程には、謎が多く含まれる。
このように情報は圧縮され、次第に人々の記憶の奥底に埋められて見えなくなっていくが、実際に起きたことは多くの人の未来を変えた。何人もの人が心身ともに傷つき、尊い人の命が二つ失われた。被害者の家族や友人たちの間には、言葉にしようもない慟哭が残された。
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夜仕事の合間に蕎麦屋で食事をしていたら、向かいの席にいたスーツ姿の男性客二人が、銃乱射事件の話を始めた。
三十代にもさしかかろうかというめがねをかけた男性が低い声で、
「しかし長崎の銃乱射事件ひどいよな。ありゃ誰でも殺されちゃうぜ。電車の中に目つきのやばい奴いっぱいいるじゃん」と後輩らしき男に語っていた。
私はかつ丼にむしゃぶりつきながら、銃乱射事件について人が話題にしているのをはじめて聞いた。事件報道はこうして、食事を待つ社会人の間を保つための道具として消化されるのだ。
動機が不明で無差別殺人かと思われた事件は、単なる失恋によるストーカー的妄想劇だったのだろうか。ストーカーという現象も、社会に知られるようになった当初は、ひどく奇怪で気持ち悪い現象だったが、最早ストーカーは、現代日本語の一般語彙として定着している。ストーカーなんて東京都内にはそこら中にいるし、ちょっとでも外見に自信のある女性は何かしらストーカー的被害に遭遇しているようでもある。言葉が一般化することによって、突飛に見えた現象もありふれた日常の事件に変わる。銃乱射事件は、ストーカーという言葉づけによって、どこにでもおこりうる、誰でも被害者になりうる、自動車事故のような現象に落ちぶれる。情報の見事な圧縮。
圧縮されたニュースは人々の記憶から次第に遠のいていく。ニュース報道は、韓国の新大統領とか肺炎の問題とか、新しい事件についての情報を流し始める。それでも、実際の事件に遭遇した人の日常は、根本的に破壊されたままだ。
不可解な事件の原因は何なのか。犯人は定職につかず、実家で過ごしていた。親から援助を受けていたから、貧しかったわけではないが、本人には、思い通りの人生にならない気持ちがあっただろうか。事件を引き起こしたのは、犯人個人の特性によるものなのか。銃の保持を与えたり、定職につかない三十代男性を増やした社会、というよりも環境のせいだろうか。
環境に要因を求めれば、不可解な事件群の謎も明確になってくる。事件を起こす人は。お金に困っている人、お金を持っていても自分の夢や目標がかなわず不満を抱えている人たちだ。お金に困っている人や、目標が敵わず不満を抱えている人など、今の社会には溢れかえるほどいる。社会は常に一部の勝利者と願いが叶わない多くの敗者を生み出す。これが今ある文化がもたらす生存競争だ。不満を抱えた多くの人は現状を受け入れ、あるいは我慢し、ぬくぬくと日常を暮らしていくが、一部の人が法や社会秩序を犯すほどに暴力的行動に出る場合がある。彼ら彼女らが暴力に向かうのは何故なのか。不満を抱えたまま犯罪行為に向かわない人と、人を殺すまでの犯罪に向かう人の間で、何が異なっているのか。こうした問題は社会科学が長年格闘してきた問題である。
法的罪を犯すまでにいたった人は、我慢の限界に達したのだろうか。集団の中で、構成員を傷つけた罪を問われ、集団から排除される動物は、人間以外の動物集団の間でも見られる。
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一週間の仕事が終わった。明日から三連休だが、明日も会社で仕事はする。それでも私の本当の仕事はこうしてブログで毎日書いていくことだ。収入は発生していないけれど、自分にとってはこっちの方が重要な未来に向かう仕事だ。
何故こんなに疲れたのか。体中痛いし、風邪も2週間近く治っていない。七代後の孫たちのことについて考えるのをやめたせいだと思った。自分のことばかりで悩んでいる。仕事のこと、将来のこと、クリスマスどうするかということ。エゴのことばかり。エゴについて考えることは、種の保存につながる。私が精一杯生き抜こうと創意工夫すれば、私の孫が7代後にまで続く可能性も芽生える。しかし、自分の幸せなり満足のことだけを考えて生きていくのはむなしい。
まだ生まれる可能性しか持っていない7代後の孫たちのことを考えると、なぜこんなに心が安らぐのだろう。利他的行為というか利他的思考をするだけで、体の痛みがとれ、書く意欲も芽生えてくる。
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銃乱射事件は一週間もしないうちにテレビに取り上げられることはなくなった。一年に一度起きていたような重大事件が頻発するようになったが、テレビの情報量も増えている、衝撃的ニュースは一週間以内に消化されてしまう。人々の興味は一週間以上持続しないのだろうか。事件に遭遇した人たちは、新しい日常を送っているだろうが、一週間程度では心の傷は癒えないものだ。ニュースは一週間程度の興味関心しか呼び起こさないが、事件は何年にも渡り深い傷跡を残す。
自分のために行動する人は、利己主義者だが、七代後の孫の幸せを想って行動する人は、利他主義者にうつる。彼らは社会の平和的発展を願うし、個人的欲望にしたがって快楽をむさぼることもない。私は七代後の孫の幸せを願いながら、毎日を過ごした方が、気分よくなる。無駄な力も抜ける。やることが少なくなって日々の生活が快適になる。利他主義の方が人を幸福にするのだろうか。
しかし、遺伝子の単位で考えれば、七代後の孫のためを想って行動する人も、自分ひとりの幸せを願って生きる人も、共に利己的遺伝子の保持者となる。むしろ、七代後の孫たちのために行動する人の方が、遺伝子レベルでは、利己的欲望が強いと考えられる。
遺伝子が、七代後まで残るように毎日行動している人は、子どもなんていらない、自分だけ幸せであればいいと考えている人よりも、明らかに遺伝子を残そうという意志が強い。七代後の社会のことを考えつつ生きる人の方が、遺伝子的にみればエゴイスティックで強烈な欲望の持ち主となるのだ。
七代後の孫たちのことを考えて生きる方が、幸福感が増すように感じた原因は、遺伝子単位で考えると、こういう説明ができる。私の細胞一つ一つで息づいている遺伝子もまた喜んでいるのだ。彼らは私が死んだ後も生き残りたいと想っている。彼らと言っているが、彼ら遺伝子は私の核でもあるのだ。
かといって、遺伝子即私というわけではない。私は遺伝子が伝えた情報以外に、様々な文化的、環境的情報を得て生きている。私の意識は、遺伝子が伝えた情報以外の様々な情報を摂取しながら、毎日悩み、楽しみ暮らしている。文化生活を送っている私にとって、遺伝子は日常でそんなに意識するものではない。顔を見たり、性格の根本を意識する時、両親から伝わった遺伝子を意識するくらいだ。
文化はどんどん個人主義的になっている。次第に子どもを産まない選択肢も、家族を形成しない選択肢も一般化してきている。「千の風になって」という歌がある。紛争が続く地域で生まれた詩は歌となり、世界中で愛聴されるようになった。日本でもクラシック歌手による日本語訳の歌で、クラシックでは異例の百万枚を超えるセールスを記録したという。
クラシックで百万枚を超えるということは、音楽の生存競争の観点からして考えられないほどの圧倒的勝利である。なぜこの歌がそこまで多くの人に支持を得たのか。私は墓の中に眠っているのではない、千の風になっていつでも貴方の傍にいるという永遠の絆を語る詩が、人々の共感を呼んだのだろうか。
「千の風になって」で語られる死生観は、ケルト的世界観である。人間の魂が自然に息づく精霊にもなるという死生観は、死んだら魂が天国か地獄に行くというキリスト教的死生観とも、死んだら個人の肉体も意識も滅ぶという近代科学的死生観とも異なる。ケルトの死生観は日本人がかつて持っていた死生観にも近い。世界の多くの民族はかつて、死んでも霊魂は滅びないという観念を持っていた。近代社会はそうした観念から離脱した世界観をもとに成立しているが、「千の風になって」のような曲は、多くの人々に安らぎをもたらす。
近代社会の生存競争はきついのだろうか。「千の風になって」で語られる世界の方が、死ぬこと、生きることに希望をもたらすだろうか。数々の紛争や凶悪事件で亡くなった人たちも、生きている人たちの傍で息づいているだろうか。
死んだら霊魂も肉体も滅ぶという死生観は、しかし、遺伝子の仕組みをよく知らなかった近代科学の死生観である。私の肉体と精神が滅んだ後でも、私の遺伝子は、私の子どもの中で残っている。また、私が子どもを産まずとも、私の兄弟姉妹、親戚の中に、私と同じ遺伝子が息づいている。さらには、人類全体の体の中に、アフリカで五万年前に生まれた現生人類共通の遺伝子が息づいている。これが、現代科学のもたらした新しい死生観である。私の肉体と精神が滅んだ後でも、私は別の場所で、愛する人たちとともに生き続けるのだ。
人類と言う種の保存のことだけを考えれば、このような死生観となるが、そもそも七代後まで人類が存続するためには、人類以外の生命全体の遺伝子についても適切な配慮が必要だ。そう、近代人は、他の生命、さらに言えば地球という生態系に対する配慮が著しく欠けていた。地球という生態系が激変すれば、人類の存続も危ぶまれる。最近になってようやく多くの科学者が、気候変動問題に深刻に取り組むようになった。
遺伝子の保存が、遺伝子を持つ生命の存在理由だとすれば、他の種の存続は、自己の遺伝子を残すという目的に従属する限り、望まれることに過ぎない。しかし、人類以外の生命全てが絶滅してしまっては、人類は確実に生き残ることができないのだから、生命多様性の維持は、霊長類の先端を行く人類に課せられた重大な使命なのだ。
あらゆる生命の遺伝子が利己的であっても、なぜ地球環境がこんなに生命で多様なのか。なぜ生存競争の結果、一つの圧倒的に強い種だけが生き残る結果にならなかったのか。大平原には百獣の王たるライオンだけが存在しているわけではない。チーター、シマウマ、キリン、ゾウ、ハイエナ、草木、虫、たくさんの生命が共存している。
人類はライオンにならって、食糧の過剰摂取をあらためる時期に来ている。今までさんざんライオンになる必要はない、生存競争の場ではシマウマやハイエナでいるだけで十分だと書いてきたが、ライオンこそは、我々が見習うべき、生態系の頂点に存在する生命体の模範なのだ。
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人類は文化、技術の発達を促進することで、地球を制覇していった。熱力学、電磁学、素粒子物理学の発展によって、人類は科学文明を促進し、一気に生態系の圧倒的頂点に躍り出た。自然科学の発展は、人文科学の発展より圧倒的スピードで進展したように見えるが、人文科学もまた、十九世紀以降それまでの神学、哲学を超えて圧倒的に発展した。近代小説のリアリズム描写は、科学の発展とともに人々の世界認識を根本から変えたし、自由主義の経済学、民主主義の政治学、社会学、法学、経営学などが、人類の社会、文化を豊かに発展させた。それでも、熱と電気と原子力を利用して文明の発達を促進した科学技術こそ、人類を生態系の王座というか破壊者に導いた諸刃の剣である。
科学技術も含めた現代文化は、発展の度合いを加速化させている。文化は種の生存競争と並行稼動している。種の変容は数百年単位でしか進まないが、電磁力学の発見以降、人間文化の発展は超高速化した。それでも文化は、種の生存競争が途中に見せる繁殖のような、自己の分身を生み出す技術の開発はできずにいた。人間は文化によってまだ自己の複製、すなわち別の人間を作り出すことができずにいる。繁殖によってのみ、人間は別の人間を作ることができる。
しかし、ここで思考のレベルを遺伝子レベルに移行させてみよう。繁殖によっては自己の完全な複製ができるわけではない。繁殖によってできるのは、自分以外の別の人間であるが、新生児の中には、遺伝子が伝わっている。繁殖行為とは、遺伝子の複製行為となる。
人間はまだ別の人間を作り出すことはできずにいるが、遺伝子を操作できる段階まできた。ついに人類が発達、加速化させてきた文化の生存競争は、生命の生存競争に追いついてきたと言える。生命の生存競争の結果としてしか、遺伝子は複製されなかったが、人類は文化の生存競争によっても、遺伝子を複製させる時代の到来を待っている。
遺伝子技術の領域に入ることは、神の領域に入ることを意味する。遺伝子操作の技術発展は、原子の崩壊を引き起こすことで原子爆弾を生み出したのと同じレベルの文化的ショックを人類及び人類が属する生態系全体に及ぼすことになるだろう。科学者および社会全体に倫理が求められる。
遺伝子のどの部分が生体の動作をコントロールしているかまでわかってきた。例えば、植物のある遺伝子を操作すれば、花を早く咲かせることができるようになった。人類は他の生命体及び自分自身の遺伝子を操作することで、自然の動きとは別の動きを生命に与えることができるようになった。これは神の領域への文化の侵食なのだろうか。
神はアダムとイブが智慧の実を食べた時、現生人類をエデンの園から追放した。ニュートンは楽園追放の原因となった林檎が落下するのを見て、重力法則の秘密に近づいた。智慧の実がもたらした文化、技術の発展は、植物の自然の発育を遺伝子操作で促進、変更させることは、イブが食べた禁断の果実がもたらした智慧の究極形態である。そのうち人間は自分の遺伝子に改良を加え、遺伝子の複製を繁殖以外の方法で残せるようになるだろう。もちろん人口受精などの技術はすでに確立しているが、未来では、受精によらず生命を発現させることが可能となっているかもしれない。
遺伝子の操作技術はかつてナチスの悲劇を生み出した優生学に連なっていく危険がある。優れた遺伝子だけを残して、後は根絶し、生存競争を促進させることが、遺伝子操作によってもたらされるようでは、以前繰り広げられたような差別の悲劇が再現されるだろう。
生命には多様性が必要だ。劣等種の根絶は害をもたらすことこのうえない。文化に必要なのは、優れた遺伝子だけを残すことが、必要ではない、むしろ有害であるということの、誰もが納得のいく証明だ。
優れた遺伝子とは何か。何を基準にして遺伝子の優劣を決定するのか。遺伝子の優劣は、文化に属している人間の恣意によって判断されるものではない。遺伝子の優劣は、生存競争に対する優位性によって決定される。ある時期優位な遺伝子も、生態系が変われば、途端に劣位となりうる場合がありうる。決定的に、どんな生態系でも優位な遺伝子というのは、原理的に存在しない。生態系が変われば、どれが優れているのかの判断基準も変わる。数千年程度のタイムスパンで見れば、優位であり続ける遺伝子はあるだろうが、もしも人間が遺伝子を操作し出したら、どの遺伝子が優位にあたるかの判断基準も、自然における変異のようにゆったりしたものではなくなるかもしれない。人間による遺伝子操作により、生態系バランスの急激な変化が訪れれば、数千年体位で生存競争に優れていると判定された遺伝子が、新しい系では劣位に置かれるようになるかもしれない。
すなわち、遺伝子の優劣は複雑な生態系のバランスによって判断されるものに過ぎず、たくさんの生物の遺伝子を操作すればするほど、生態系の変容は加速されるため、劣位の基準変化も加速されうるということだ。
人間は牧畜文明を発展させる過程において、動植物の交配を操作することで、自分たちにとって食しやすい動植物を作り出してきた。交配の操作は、広義の遺伝子操作技術だと言える。文化は常に自然変化に手を加えてきたと言える。智慧の実がもたらした文化とはすなわち、自然に手を加えることができる技術のことをさすのかもしれない。
古来より、新しい技術の摂取、技術革新に積極的な集団が人類の覇権を手に入れてきた。遺伝子操作技術は生命の神秘に関わる危険でかつ魅惑的なものだが、だからといって忌避するのでなく、現生人類が抱えている様々な問題を解決するために遺伝子操作技術を発展させようと想っている社会が、発展していくかもしれない。
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年末には毎回M1と呼ばれる漫才日本一を決めるテレビ番組がある。M1の優勝賞金は漫才の賞としては破格の一千万円である。M1以前にも、関東関西には権威ある漫才賞が数多くあったが、M1誕生以降、漫才の賞といえばM1が一番権威あるものとなった。一千万円という高額の賞金が、それを可能にしたかのかもしれない。何故M1が漫才賞のトップに立ったのかの理由を解明してみよう。単なる時流におもねた受け狙いの論評と成り下がるのでなく、M1の分析を通して、新しい知を創発させてみたい。
他の漫才賞レース番組を見ても、M1ほどには会場が盛り上がっていない。M1には有名スポーツ選手や一般芸能人等が客として観にきている。
M1にはゴールデンタイムの民放キー局番組にふさわしい司会者、自身がかつては漫才の頂点に立ち歴史を作っていた審査員が揃っている。他の漫才大賞では、よく知らない年輩のお笑い評論家などが審査員に加わっている。
二〇〇七年のM1では四千組以上の応募があったという。このレース参加人数だけを見ても、M1に人気が集中しているのがわかる。量は明らかに質を作り出す。四千組参加したうち、本番放送には、敗者復活の一組含めて九組しか出場できない。〇.二パーセントの確率で現れた漫才師が面白くないはずはない。彼らは過当生存競争の勝利者なのだから。しかし、実際決勝戦では、九組のうち半分以上はそれほど面白い漫才を披露しないで終わる。会場当日の緊張感が準決勝までは面白かった漫才をだめにしてしまうのか、あるいはゴールデンタイムの笑いのレベルは、四千組中残った九組でも届かないほど高いものなのか。合理的説明として最もなのは、どんな優秀な人材を集めて組織を作っても、組織の中で優秀な者は二割だけに限られるという組織理論だろう。これはたとえ優秀な遺伝子を選別して社会を創ったとしても、選別された集団内で更なる優劣が生じるという現象を予言させる。げんにM1でも九組中腹を抱えて笑える程面白いのは四組程度、優勝決定戦に残るのは三組のみである。さらに、優勝決定戦においても、最強のはずの三組全てがまた面白い漫才をするわけではない。優勝する一組のみが、決勝、優勝決定戦の二回連続で面白い漫才をできる。
勝ち残る漫才師たちのスタイルは近年とみに多様化している。前衛的な芸風、早いテンポでたたみかけるもの、体で笑わせるもの、ゆったりした間でじわじわ笑わせるもの、ツッコミのないWボケ、王道派、戦略は多種多様である。何を基準に評価したらいいのか、素人目にもわかりにくい勝負で、高得点を稼ぐ組は、決まって完成度の高い漫才をしている。
勝つ組は、安定性が高いのだ。万人に受ける笑いをしている。テンポ、間、四分間の緩急構成、盛り上げ方、ボケとツッコミのバリエーション、独創性、どれをとっても完成度が高く、マイナス評価をつける隙があまりない。賞レースの場でも、ワールドカップでも、野球オリンピックでも、実力が拮抗する者同士の戦いとなるから、ちょっとしたミス、マイナス評価が勝敗を左右することになる。すなわち、一芸に秀でた特殊能力者の組よりも、漫才の組み立てに必要とされるあらゆる技能において、短所なく高い能力を発揮する組が、優勝しやすい。二〇〇七年の大会でも、優勝決定戦にすすんだ上位三組は、スタイルは異なるが、漫才の基本技術においてはどの組も高い技術を誇っていた。そして、会場の笑いをもっとも受けた組が、最終的に一千万円という高額賞金を手にした。
M1は他の文化生存競争と同じく、優勝賞金を元に、高度な芸術競争が繰り広げられる舞台だ。高額の優勝賞金と高視聴率が、参加希望者を増大させ、競争率を加速させている。お笑い好きの視聴者としては、大笑いできるプロの技を堪能できるため、誰が勝利するのか予想しつつ見るという楽しみとあわせつつ、年末の恒例行事となっている。さて、問題はこのような過度の生存競争は自然なものかという点である。
自然において四千組中、たった九組か一組しか生き残らない競争は、実に過酷なものである。魚類の産卵時などは、大量に放出された卵のうち、実際魚として生育していくのはほんのわずかだが、少なくとも哺乳類においてはこのような過酷な生存競争は見られない。人間は社会の近代化が進むに連れ、どんどん一人当たりの出産人数を減らしてきた。まあ人口は地球生命史上ありえないほど爆発的に増え続けているのだけれど、霊長類の先端にある人は、大量の子ども作らずとも住む平和な社会組織の構築に勤めてきた。そんな彼らが何故か文化競争においては高レベルな競争を好むようになっている。
プロの場における、日本一、世界一を決める競争は過酷過ぎる。そこまで過酷な競争を勝ち抜いて、生存競争のトップに立つことには、たいした意味はない。生存競争においては、環境に適応して、とりあえずの勝利者になっておくだけでいいのだ。最大限に環境適応した勝利者は、その環境内では利益を甘受できるだろうが、環境変化に堪えられる保障はない。そこまで絶対的な勝利にこだわることに、何の得があろうか。賞金か。人気か。名声か。一千万円という大金は、生存という生命の目的にはたいして必要なものではない。漫才という場で、勝利者でい続けるためには、ただ漫才をし続けているだけでよいのだ。漫才をやめずに続けている人だけが、その時点での生存競争の勝利者となる。
草野球とプロ野球は違うという。草野球は自然に見られる生存競争に近い。プロ野球の高度に発達した技術の対決は、自然には見られない、文化的技巧の極致だ。ひょっとしたら人という種は、過度の競争を歓迎する性質を持っているかもしれない。他人が織り成す過激な競争を見ることで、人は喜ぶ。まず自分が参加していないから、競争を気楽に見て楽しむことができる。さらには、競争を見ることで、自分自身あのような生存競争に直面したらどう振舞うべきか学習する効果も期待できる。
古来、過激な競争をする人々は、市民にとっての見世物に過ぎなかった。ローマではコロッセウムで奴隷の剣闘士たちがローマ市民を楽しませていた。スポーツ競技の参加者や、演劇俳優、小説家、音楽などは、古来より、市民や貴族の生活を楽しませる、下等な役割しか与えられていなかった。近代以降、彼ら生存競争の何倍も激しい競争に参加を余技なくされてきた文化従事者は、市民よりも高い地位を得るようになっていった。市民は相変わらず彼らの競争に熱中した。人気者である彼らには、多額の財産ができるようになっていった。パトロン制度が廃止になり、彼らの主人だった貴族は滅びた。彼らはパトロンのかわりにスポンサーを自分の主人に選んだ。大企業は国民に人気がある文化競争の従事者を広告宣伝に利用しようとする。文化の競争者たちは大衆の人気を企業から得られる収益に変換して、一般市民よりも高い地位と財産を手にするようになっていった。
文化競争の従事者たちは、企業や国民に踊らされている過当競争の犠牲者なのだろうか。いや、実情は異なる。近代以降、全ての市民が過当競争に参加するようになった。産業革命によって重労働は熱力学や電磁力学で動く機械が担うようになったのだから、市民は自由時間をより謳歌するようになると考えられたが、実際の歴史では、時間はより小刻みに、切迫したものになった。人々の時間は、産業革命の進展と共によりせわしないものになり、文化がもたらす生存競争も過酷なものになった。科学技術が生み出した軍事兵器は、ナポレオンの時代の戦争よりも多数の死傷者を生み出すようになった。まさしく人類は二〇世紀はじめ、未曾有の競争時代に突入したのだ。グローバリゼーションは競争と生態系の破壊を世界規模で加速化しているようである。コンピューターをはじめとした情報技術の発達により、人間が行う作業はますます少なくなり、人々は哲学者のごとく自由な精神的活動に従事するようになると理想的に想われていたが、実際は情報技術の進展にともなって、人々の生活はさらに圧迫されるようになった。技術進化はますます高速化し、情報量も増大していった。人々は記憶しきれない情報をメモにとることさえやめて、自身のパソコンやインターネット上に情報を記録するようになった。情報は今でも人口爆発以上のペースでサイバースペース上で増え続けている。そう、過当競争に参加しているのは、テレビで一千万円の賞金を争う漫才師たちだけでなく、近代社会で働き生きている私たち市民全てなのだ。
この競争の加速性に意義はあるのだろうか。競争のテンポが高速化することで、進化及び自然淘汰のスピードも上昇する。他の国が文化と技術を進化させているのだから、自分たちの国も情報技術発展に追いついていかないと、そのうち世界経済の中心から落第してしまう。このような不安を抱えて世界中の国々の競争参加が、さらに競争の速度を加速化させている。現在の世界経済にみられる過当競争は、M1の優勝争いに等しい高度で高倍率の競争なのである。
生存競争はテンポをあげているけれど、この生存競争において勝利者でいるためには、別に進化の最先端を突っ走る必要もない。中心から少し遅れた部分で、一緒に進んでいけばいいだけだ。経済環境の激変は続いているが、環境になんとか適応して生き延びることは可能である。生存競争で生きていくためには、末永く生きていくこと、後代に遺伝子を残していくことを考えればいい。時間と情報の洪水にあくせくして、自分を打ち滅ぼす真似だけはしない方がいい。
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別の方面からお笑いの競争を見てみよう。お笑いの競争に参加している生命、すなわち漫才師、現在の呼び方で言えばお笑い芸人は、お笑いの遺伝子と文化から成り立っている。お笑いの遺伝子と文化とは何だろう。
生命体の持っている遺伝子と言えば、その生命体を形作るための基本設計である。種に共通の遺伝子によってその種の体型、外見的特長、意思疎通の方法、繁殖方法、食物の摂取方法などが決まっていく。遺伝子はそれら全てを決定するわけではない。それらの基本、雛形を決定するのみで、遺伝子は文化が与える経験によって、様々な形質を生命に発現させることになる。
遺伝子と文化は不可分なものだ。動物たちも様々な文化を持っている。ある程度の脳を持った動物たちは、遺伝子による伝達以外の方法で、子どもたちに慣習行動を伝える。その慣習行動は、同じ種でも集団が違えば若干違ったものになる。遺伝子は文化が与える経験を受けて、生命体に様々な形を与えていくことになる。文化も遺伝子の両方が人に必要だ。どちらかが人のあり方について決定的役割を持っているわけではない。どちらもが決定的であり、相互補完的なのだ。故に人間には、多様な選択肢、自由意志の余地がある。
さて、お笑いの遺伝子、文化とは何だろうか。お笑いの遺伝子と言う言葉で伝えられるのは、代々連綿と続いている特長的芸風などを指す場合が多いが、私にはそのような芸風は、集団的知識の積み重ねによって生じた文化の産物であると思える。ツッコミの様式、特徴的なボケ、関東と関西でのネタの作り方の相違性などは遺伝子によるものでなく、文化の相違によるものだろう。
ではお笑いの遺伝子とは何か。それは、笑うということ、その活動そのものに宿っていると想像される。笑顔は人間に特徴的な美しい表情である。人は微笑みあうことで、争いを避け、友好を結んだ。笑えば体の免疫力まであがるという。人の話のうち、どんなものに対して笑顔で反応するのか、これは半分遺伝子、半分文化による。しかし、笑うという行為そのものは、遺伝子が作り出したものだ。漫才の競争を見て楽しいと思うこと、漫才をして多くの人を笑わせるのが楽しいと想うこと、これが笑いの遺伝子である。日本人はなぜお笑いが好きなのか。日本以外の世界でも、テレビ局では世界情勢に関するニュースやドキュメンタリー番組でなく、お笑い番組、バラエティー番組の方が、人気が高い。これが出版メディア等からテレビメディアが批判される理由ともなっているが、人が笑顔を好きなのは単純だ。笑顔を好きでいれば、笑顔を見れば、笑顔の遺伝子が喜ぶのである。
笑顔は友好と平和と文化の証である。笑顔に包まれていれば、遺伝子は攻撃されることなく生き残ると確信することができる。笑顔は暴力の対極にある、平和の親善大使なのだ。
本を読んでいて笑っているよりも、テレビを見て笑っている方が、人々はここちよさを感じる。なぜなら、本には笑顔がないからだ。小説の登場人物が笑っている様子を脳内で想像することはできるが、脳の中で笑いのイメージを作り出すよりも、テレビ画面に映る他人の笑顔を見ている方が、遺伝子は喜ぶ。故にテレビ番組は、出版物よりも、笑顔の出演者、場面が溢れていくようになる。
日本のお笑い番組は暴力的だとよく批判された。子どもたちの間のいじめを助長させる内容だと良識派に批判されもした。ユーモアにはブラックな部分がある。過激なユーモアは辛辣な効果を生み出す。他人に嘲笑されることは、屈辱である。本来友好を証明するはずの笑顔も、嘲笑になれば、途端に敵意の表明となる。その切り替わりには注意が必要だが、ブラックユーモアと嘲笑は紙一重である。極上のブラックユーモアは嘲笑という機能を利用して、社会風刺という批評活動を行うことができる。
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クリスマス新宿に買い物に行った。三越の地下食品売り場には、若者向けのおしゃれな店が多く、クリスマス向けの食品もたくさんおいてある。三越ではギフト用にチョコなどお菓子でできた花束を買った。ハーブティーを買いたかったがなかったため、向かいの伊勢丹にいった。伊勢丹の地下食品売り場はありえないほどの行列ができていた。行列以外にも人ごみで全く動けない。伊勢丹にはクリスマスケーキを販売するような外資系風スイーツの売り場がたくさんある。どの店も普通のケーキ屋では売られていないようなおしゃれなデザインのケーキを販売している。伊勢丹で売られているケーキはどれもハイセンスだが、それは日本の他のケーキ屋と比べた場合に決定される相対的評価に過ぎない。伊勢丹フロア内でケーキを比べた場合、どれもこれも似たような、よく言えばある一定のレベルにあるケーキを販売している。それでも日本の他の場所で買うよりは優れたケーキが売られているから、みんな並んで買って行く。私もケーキまで買う予定はなかったが、これだけ行列ができているのだから、きっと喜ばれる品だろうと想い、一ついちごが山積みになっているケーキを購入した。
三越も随分若年女性層向けの店舗をそろえて変わってきたが、伊勢丹ははるか先に行っている。選択と集中。他の場所では味わえない商品の販売店を一つだけ誘致するのでなく、フロアにずらりと並べ、お互いに生存競争をさせる。クリスマスにでもなれば自然と大量の行列ができる。自然だ。
クリスマスとなれば、一人で過ごさざるをえない二十代の男女は若干劣等感を抱かざるを得ない環境が日本国内に蔓延している。本来のクリスマスは恋愛のためにあるのでなく、家族で祝うものだが、何故か日本ではクリスマスが突然変異して、恋人たちと、恋人たち向けの商品を販売している企業のものとなった。
しかし、そんな懸念も、二十代を過ぎ、三十代になる頃には変化する。若い女性の少ない企業では、クリスマスの話題が出ることはほとんどない。クリスマスなど存在しないかのごとく、年末年始の営業、特別休暇の話、忘年会の話、ボーナスの話が繰り広げられる。確かに年末年始にはイベントが目白押しである。ある程度の年齢となれば、クリスマスは重大な意味をもたないものに変化する。
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パキスタンのブット元首相が暗殺された。国家首領クラスの暗殺といってすぐ思い出されるのは、アメリカのリンカーン大統領、ケネディ大統領、日本の犬養毅首相、そして第一次世界大戦勃発の引き金となったオーストリア皇太子の暗殺事件である。リンカーンもケネディも犬養毅も、おそらく自国民によって暗殺されている。犯人が周囲を巻き添えにして自爆したから定かでないが、ブット元首相の暗殺者もパキスタン自国民と推定される。オーストリア皇太子を暗殺した青年は、はたしてオーストリア・ハンガリー帝国の自国民と言えるのかどうかは曖昧だ。暗殺者個人としては、自分は皇太子一族が頂点に立つ定刻の臣民ではないという独立意識があっただろう。
国家首領が暗殺された場合、政情不安定、戦争の大きな原因となるが、犯人が同国民である限り、復讐戦争に発展していく可能性は低い。今回の暗殺事件はパキスタンの国民が犯人だったのかどうかは、第一次世界大戦のような復讐戦争がおきるかどうかの重大な決定条件となる。しかし、今回の事件については、最早犯人がパキスタン国民であるかどうかは関係ないレベルにあるだろう。国民意識という治安を維持するための共通了解は、既に崩壊の危機にある。
暗殺後の自爆という手法からして、犯人はイスラム過激派の国際テロ組織に属している可能性はある。そうした組織は国境や国民という概念を越えた存在である。犯人がパキスタンの国民だったからといって、彼が国際テロ組織に属しているのであれば、復讐の情念はパキスタンを越えてイスラム諸国や欧米に飛び火するかもしれない。さらに、パキスタンの治安自体が既に危機的状態にあった。ムシャラフ大統領は選挙前に戒厳令を強いたり、パキスタン国民の自由と自治を脅かす強硬政策をとっていた。ブット元首相の支持派は、政府がテロに備えた防衛体制をとっていなかったがために、暗殺事件が現実化したと政府を非難し、暴動を起こしている。げんに今年ブット元首相のパキスタン帰国直後、彼女の暗殺をもくろんだ自爆テロ事件が起きている。親米派のブット元首相に対する殺戮意志は渦巻いていたのに、ムシャラフ政権は政敵であるブット氏を守り通すことができなかった。
一年も終わろうとし、マスコミ各局が今年の重大ニュースをまとめあげようとしていた矢先に、日本国内では佐世保で銃乱射事件が起き、世界では元首相の暗殺事件が起きた。日本も世界も治安が不安定である。マスコミ報道では、親米派のブット氏をよく想っていない反欧米イスラム過激テロ組織が暗殺事件を起こしたと指摘されている。ブッシュ政権やアメリカが掲げたテロに対する戦いを支持する政府は、世界平和を維持するためテロを許してはならない、テロを撲滅すると早速宣言し始めた。しかし、事態は違うのでないか。
テロを撲滅しようとしても、決してなくならないだろう。テロに対する戦いを宣言し、どんなに強力な軍隊を送りこんでも、テロリストは増殖し続けるだろう。テロへの戦いを支持する政府は、テロリストのことをウィルスやがん細胞のごとく想っているのではないだろうか。彼らは最新兵器と強力な軍隊というワクチンを投入して、テロリストという種を地球から絶滅させようと奮闘しているかのようだ。人類が数多くの生命体を絶滅に追いこんできたように、テロリストも駆逐されうるのだろうか。
武力によってテロリストを撲滅することはできないだろう。たとえどんなにテロリストを殺し、テロ組織の物資や情報網に壊滅的な打撃を与えたところで、人類を含めた地球の生態環境が変わらない限り新しいテロ組織が地球中に生まれ続けることだろう。
テロや政情不安定の最大の原因は何か。イスラム教圏とキリスト教圏の長年に渡る宗教対立が原因ではない。イスラム教にもキリスト教にもいる一部の過激派、原理主義者同士がいがみあっているだけで、平和的友好関係を強めたいと想っている宗教的愛情を持っている人は双方にたくさんいる。
テロを生み出す欧米敵対感情の根源はどこにあるのか。よく指摘されているように、原因は経済格差だろうか。豊富な石油資源を持つアラブ地方には経済的に潤っている国もたくさんある。だが、欧米圏以外の世界には、一日一ドル以下の収入で暮らす人々や、飢餓や死をもたらす病気の危機に苦しむ絶対的貧困層がたくさんいる。資源と富を持ちすぎている欧米諸国に対する敵意、嫉妬心、闘争本能がテロの原因なのだろうか。
なぜ怨恨が相手を殺したいほどの敵意にかわるのか。どんなに幸福そうな人でも、人間である限り、嫉妬心の誘惑に負けることがありうる。失恋して絶望、孤独、振った相手に対するみみっちい敵意を持つだけの人と、振った相手を銃で撃ち殺し、同時に長年の親友も撃ち殺し、さらには罪のない子どもたちにまで銃を乱射して負傷を追わせた後、自殺する人の違いは何から生じたのか。
また、欧米に対して嫉妬心や敵意を持つだけの人と、国際情勢が不安になることを承知の上で親米派の政治家を暗殺し、さらには自爆することで周囲の人々を巻き添えにして殺傷する人の違いはどこから生じるのか。
こう書いていて気づいたのだが、佐世保の銃乱射事件の犯人と、ブット元首相を殺害した犯人の行動には、嫉妬心、憎悪、殺害、標的とは関係ない人の巻き添え、自死など、共通点がたくさんある。多くの人は、嫉妬心や憎悪まで持つことがあるだろうが、そこから先の行動をとることは少ない。彼らを行動に促した究極原因は何かを探ることが、今後の悲劇の発生をくいとめるための希望につながる。
テロリストが増殖していく有力な要因として考えられるのは、人間を取り巻く生態系の変化である。二十世紀以降人口は爆発的に増殖し続けている。人数と言わず人の口と書いて人口と言い慣わすのと符合するように、増えすぎた人類の口を満足させるために必要な水、食物、エネルギー資源、自然環境は爆発的に減少している。人口と一緒に増大しているのは、本来自然にはなかった人工的化学物質である。
昨日テレビを見ていたら「腐る化粧品」というキャッチコピーが、化粧品のCMでうたわれていた。腐敗することは自然の方程式にそう現象だが、人類は腐らないように、自然変化とはかけ離れた永遠を追い求めたが故に、化粧品に人工化学物質を注入した。腐らない化粧品は科学の戦利品であるかにみえるが、化粧品に入っている化学物質により、皮膚アレルギーを起こす女性も出ている。「腐る化粧品」と宣伝する方が、自然な人体に優しい、安全な商品であると認識されるようになったわけだ。
同様にテレビでは、有名俳優が「この映画の主人公は地球です」と言う大自然を映し出した映画のCMが流れていた。自然の営みを描写するドキュメンタリー番組などは、世界中の国営放送で何十年と前から放送されているはずが、「この映画の主人公は地球です」と有名俳優が言って、第一級のエンターテイメント映画張りのカット割りで宣伝されれば、その映画は国営放送のドキュメンタリー番組とは一線を画す、流行に沿った話題作品に変貌する。
人は腐敗する自然の選択を愛するようになった。では、自然の少ない都市環境で生活している人たちの周りでは、何が起きているのか。人口爆発と、過度の密集と、貧困の拡大である。
人が増えすぎれば、当然資源獲得のための競争が活発になる。生存競争は、小さな隣接地域内で繰り広げられるものでなく、国境を越えて、世界中の企業と対決せざるをえない大規模なレースに発展した。資源が配分されない人々には、貧困と死が待っている。この段階に来て人は状況を解決するため、競争相手に攻撃をしかけるようになる。
現代世界における競争は、戦争でなく、経済、あるいは文化競争という形態をとっているが、経済でも、文化でも、圧倒的に負けた人たちは、武器を手に取り、別のルールでの競争をしかける。もちろん、経済、文化競争で圧倒的に勝利している先進国は、他の諸国よりも強大な軍事力を持っているのだが、テロ行為は獰猛な自然界の覇者の体を内側から滅ぼす病原菌のごとく、相手の体を破壊する。国際法のルールに基づかない予想外の攻撃であれば、軍事力の格差は勝敗に関係なくなる。
人口爆発、資源の枯渇、奪い合い、飢餓と貧困の増大がテロの要因であれば、人口の減少が予想される日本においても問題は深刻である。
若年層の働き手が減り、労働力の少ない老人が増大する。人口ピラミッドの数が逆三角形になるため、将来的に老人は養えなくなっていく。この問題を解消するためには、国際市場から安価な労働力を輸入すればよいのだが、労働訓練を受けてこなかった若者は、外国の労働者に仕事を奪われることになる。本来なら多数の働き手が必要なのに、仕事を選ぶ若者は、就労することができなくなる。
医師の全体数は増えているが、都市部に集中しているため、地方では医師が不足し、病院をたらいまわしにされ、救急車の中で流産したり、死亡する患者が増えてくる。国の借金は増え、年金を管理できない官僚がのさばる。経済力とコネのない人は、基本的人権さえさえ脅かされる状況が広がっている。
人口の密集度で言えば、狭い国土の日本は先進国の中でも異常だった。これだけ人口がふてもなぜプレッシャーが人間関係による精神的ストレス程度でおさまっていたかといえば、衣食住が多くの人に保障されていたからである。これからの日本には貧困層が増大する。医療を受けることができない人、贅沢品を消費することができない人だけでなく、着るもの、食べるもの、住む場所を確保できない人が増大していくことだろう。貧困層が増えていけば、なんとなく存在していた嫉妬や憎悪は、殺人にまで発展しやすくなる。
こうした生存環境の変化を前にして、テロを撲滅するとか、テロは平和の敵だなどと繰り返し宣言しても、何の効力もない。貧困の解決と、生態系バランスの改善が必要だ。
一日一ドル以下で暮らしている人たちが、欧米諸国の消費者層のような生活を享受できる未来はない。資源が足りないからである。増大する人口を養うに足るだけの資源を科学によって作り出せる日が来るかもしれないが、道のりは遠いし、実現の前に世界平和と環境が崩壊しそうである。
かつて夢見られていたかのごとく、地球以外の惑星に移住することで、環境問題を解決できるだろうか。残念ながらこちらも実現が難しい。科学は自然が与えた地球生態系の類似品を作ることができるが、そこで我々人類を含めた何百種という生命が繁栄していけるかというと、そこまでの技術も知識も人類は獲得していない。地球以外の星や宇宙ステーションでは、一日や一週間程度のバケーションなら楽しむことができるだろうが、長期的に暮らして、食物や子孫や文化活動を養い育てることができるかというと、実現が難しい。
人類が今すぐ取り組めることは、生存競争の勝利者が享受しているライフスタイルのモデルを、今ある資源で運用できるように変更することだ。
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さて、七代後の孫たちと、彼らの先祖となる人々に向けて今まで様々な話題をとりあげてきた。
日本は高齢化社会となり、経済を停滞させ続けている。国民経済学の観点からみれば、これは日本国の将来にとって一大事なのだが、生態系の視点から見れば、今までの成功が異常すぎただけで、何ら問題はないと思える。地球上に人が増えすぎているし、高度な技術による環境破壊も深刻だ。多くの種が絶滅の危機に瀕している。人類は自分の身の回りにある人々の利益だけを見て活動した方が、生命を発展させるためには有利なように生きてきたけれど、これからは生態系的な視点に基づいた生命との係わり合いが必要だ。何せ人類が持つ技術は諸刃の剣である。一操作間違えるだけで地球に甚大な影響を与えかねない。
もちろん、ここでいう地球環境に対する甚大な影響とは、人類を含めた現在繁栄している生命にとっての、甚大な影響ということである。人類や今地球上で活動している生物たちが、人類の文化的活動の影響で環境が激変した結果、絶滅することになっても、新しい環境に適応したまだ見ぬ種が、次の地球で繁栄することだろう。その種が人類並みの頭脳を発達させるかどうかは未知数だ。だいたいにして、人類の次に繁栄する種が、人類と同等の歴史的発展をたどって、人類と同等の知能を持つようになるとは、確率論的にみてなかなか考えられない。人類が今持っている知性は、生命活動の奇跡である。ただし、忘れてはならないのは、人類だけが特別な種というわけではなく、地球上に存在する全ての種が、かけがえのない存在であり、一度滅んだ後で同じように進化発展する種が出現するかどうかは、極めて未知数だということだろう。生命はどれも尊くかけがえのないものなのだ。
七代後の孫たちの社会はどうなっているだろうか。そもそも存在しているだろうか。彼らの社会は遺伝子操作やもろもろの技術発展によって、今ある社会とは別物になっているだろうか。
少なくとも、七代後の孫たちのことを考えながら生活している人は、自分の遺伝子を残そうという生存本能が、自分の孫たちのことまでしか考えていない人よりも強いはずである。ただし、七代後の孫を考えている集団は、地球環境に優しくあろうという意志が強いであるから、せめて自分の孫の世代まで社会が平和であればよいと考えている集団よりも、技術発展の程度は劣るかもしれない。何せ今までの人類は環境破壊、自然をより改変させるがために、技術を発展させてきたようなものである。
七代後の幸せを願うために、私たちがすぐできることと言えば、祈ることの他には、自然の生態系を破壊しない、あるいは再生させる技術の発展に貢献していくことである。
七代後の孫たちの幸せを願うのであれば、今生きている自分が勝利することを願ってあくせくすることもない。過度の勝利は必ず害をもたらす。心身を磨耗させるほどの生存競争によって、文化の発展はもたらされてきたが、生き残るには、ほどほどでよいのだ。七代後の繁栄を願う現実主義者は、磨耗行動を選択しない行動主義者である。彼らはちょっとした行動が、いかに広大な環境に影響を与えるか考慮し、環境負荷が最小限となる行動で、生きていこうと努力する。同時に、環境負荷を最大にするような、破壊的行動については、その無意味性と、害の甚大さを警鐘し、文化の組み換えを狙っていくだろう。遺伝子を組みかえるよりも、まず技術に対する観念の組み換え作業が必要だ。七代後への倫理はそこから生まれる。
(2007年制作)
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