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観月ありさ、ミムラ主演ドラマ『斎藤さん』から考える公共正義〜サービスとケアの違い

最終更新日:2008年2月22日
日本テレビ系列水曜ドラマ『斎藤さん』を見た。やしきたかじんもおすすめ、視聴率もよい。観月ありさは、曲がったことが嫌いで、だめなものにはだめとはっきり言う正義感が強い主婦、斎藤さんを演じている。ミムラは斉藤さんと幼稚園保護者友達、真野さんを演じている。真野さんはみんなに合わせるタイプで、怖い人が苦手、自分の意見もはっきり言えないタイプ。斉藤さんと真野さんは仲良し。彼女たちのほかに幼稚園の保護者仲間多数。みんな意見をずばずば言う斎藤さんをけむたがっている。

今回の放送が初見。斉藤さんは通っているフィットネスクラブで骨折してしまった(僕が通っているフィットネスクラブは年輩のおばさん、おじいさんだらけだ。おじさんではなくおじいさんなところが肝心で、おじさんは会社に働きに行っているから、かわいそうにフィットネスに通うこともないのだろう)。夫が単身赴任中のため、斎藤さん入院中は、真野さんが家で斎藤さんの子どもの面倒を見ることになった。男の子が一人増えたと真野さん夫妻は喜ぶ。真野さんは子どもたちにお菓子を出したのだが、不均衡に分配されたため、困ったことになった。斉藤さんの息子は、多すぎる自分のお菓子を真野さんの息子にさっとわけ与えた。「お母さんだったらこうしてるよ」。この光景を見て真野さん夫妻は感心する。うちの子どもだったら、ああはしなかっただろう、自分だけたくさんもらえてラッキーと思うことだろう、斎藤さんちはしつけがしっかりしているな。

僕もこの様子には感心した。自分が持ちすぎていたら、持っていない人に分け与える心。自分の利益ばかりを最大化しようとする経済社会では、こうした美徳というか社会を営む上で必要な気配りが忘れられそうになっているだろう。僕はこの様子を見ていて、すぐ自分が子ども時代同様の体験をしたことを思い出した。僕は末っ子だった。よく隣の家に遊びに行っていた。隣の家には同い年の女の子と、年下の妹がいた。ある日その家のおばあちゃんが僕を含めた三人にアイスを出してくれた。バニラアイスが二つと、あずきのアイスだったと思う。僕はあずきのアイスよりもおいしいバニラアイスの方を食べたかった。他の二人もそうだったろう。じゃんけんをやったか、おばあさんの配慮かで、僕があずきアイスを食べることになった。「お兄ちゃんだから我慢してね」とその家のおばあさんに言われた記憶がある。僕とその家のお姉ちゃんは同じ学年だったが、生まれた月は僕の方が早かった。僕は姉一人の末っ子だったからか、あまりしつけられず自由に育てられたからか、嫌々我慢しながら食べた。

このとき僕は、同い年の女の子や、その家の妹が、僕が犠牲になることで、自分たちが食べたいバニラアイスを食べられることに大きな喜びを感じているとは思えなかった。ただただ不満だけがあった。こういう状況で不満を多く感じる人は、競争意識、勝利に対する渇望、嫉妬心が旺盛なのだろう。逆にこうした状況で、すすんで一番みんなに望まれていないものを自分のものとし、他の多くの人が喜ぶことを望む人は、自分の望みよりも、友人たちの望みが叶うことを大きな喜びとして生きる人だろう。彼らは友人、周囲の人を愛しているといえる。隣人たちの幸せを願っているからだ。

たとえけんかすることになっても、相手の成長のためを思ってけんかする人は、相手を愛しているといえる。けんかするとき、相手に暴力をふるえるから楽しいと思う人は、相手の喜びよりも自分の快楽を大事にするわがままな人だ。わがままな人は、我慢することが苦手だろう。相手の成長を思って意見対立できる人は、我慢を臆しないだろう、わがままでないからだ。彼らはわがままな態度を取る人に注意の視線を向けるだろう。

自由主義の経済学は自分が幸せにならねば、人を幸せにすることはできないと考える。けれど本当は、自分の取り分が減っても、人の取り分が増えれば、喜べる人を増やすことが今後の地球に必要ではないだろうか。オーストラリアはニュージーランドでは、牛など家畜から出るメタンガスが、温暖化の大きな要因となっていると報道された。ニュージーランドではメタンガスを排出する家畜一頭ごとに税をかけるのはどうかという案も議会で真剣に検討されたという。このニュースを見て、税金とは、持ちすぎていては他人の迷惑になるものに対して、かけるものなのだと気づいた。それを持っていては人の迷惑になるから、かわりに公共団体に税金を払って、代償を行う。そうした考えから所得税、住民税を考えてみよう。多く所得を取りすぎていては、貧困や飢餓でなくなっていく世界の人々に申し訳ないから、所得の一部を償いとして公共団体に支払う。豊かで安全な地域に暮らしていては、日々紛争と自爆テロの恐怖に覆われている地域で暮らす人々に申し訳ないから、公共団体に償いとして税金を支払う。そうした公共心、幸せに生きていることに対する代償行為が必要だから、税金制度があるのではないか。僕は税金の専門化ではないからよくわからないけれど、斉藤さんから派生してそうしたことを思った。

斉藤さんは、ずばずば自分の意見を言うけれど、自分のわがまま、満足のために意見を言っているわけではないし、人に取り入ろうとして意見を言っているわけでもない。公共の社会ルールから見ておかしいことがあれば、まっすぐに批判するのだ。入院中の病院でわがままをいう患者がいれば、斎藤さんは注意する。「あんたたちちゃんとサービスしなさいよ」とクレーマーが看護婦に言っていた。斎藤さんは、あなただけの病院じゃないでしょう、病院は公共の場所でしょう、みんなが必要としているんですと注意する。公共事業にも私企業並みのサービス基準を取り入れようという運動が広がっているし、実際行政サービスはそうした意識改革によって便利になったものも多数ある。ただ、利用者がもっとサービスを拡充しろと叫びすぎるのは僕もおかしいと思う。サービス業の私企業に向けて言うのは正しいだろう。企業はお客から金をもらってサービスを提供するのだ。税金を払っているのだからちゃんとサービスしろというのは違うと思う。そういう時、クレーマーは市民ではなく行政の消費者になっているだろう。

消費者でなく市民として生きたいものだ。消費者はサービスを求めるばかりで、自分が相手にサービスすることはない。これは一方通行だ。コミュニケーションとは、本来相互通行なものだ。サービスの相手は実は人でなく、本当はお金なのだ。サービスする人は、相手のためでなく、お金のためにサービスしている。相手が愛しいからサービスするのでなく、お金が支払われるから、自分自身の欲望が満たされるからサービスしているだけだ。行政の担当者がサービスしだしたらとんでもないことになる。彼らは市民のためでなく、自分の給料のためにサービスすることになる。税金を使ってますます私腹を肥やすようになるだろう。

行政、公共機能を利用する時、人々はサービスを受けようとするのでなく、ケアの気持ちを交換し合おうと思って向かえばよいだろう。ケアは相手の人格に注意を払う行為である。行政の担当者にケアしてもらったら、自分でも彼らにケアの気持ちを払う。すると人格の相互交流が生まれる。公共心が芽生えてくる。ケアする時は、人と人で気持ちの交換が生まれる。サービスでは人とお金が交換されるだけだ。


(このレビューは2008年2月21日にブログに発表した文章を転記しています)
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