ゴダール『アワーミュージック』
最終更新日:2008年1月20日
21世紀のゴダール映画。9.11後にゴダールはどんな映画を創るのか。その素晴らしい回答。舞台はサラエボ。かつて民族浄化の殺戮が起き、アメリカ率いる世界に爆撃を受けた街。アメリカを直接描くことなく、20世紀の傷跡サラエボを舞台にして、9.11後の殺伐とした世界が描かれる。
見終わった後、頬がピンク色に染まる。90年代のゴダールはひたすら晦渋で観客受けしない、「老人的」映画を創り続けていたから、こんな若々しい、ある種わかりやすい高まりをラストに持つ映画が観れるなんて驚きだった。時代状況が老成したゴダールを奮起させたのだろう。
しかし、一度観ただけじゃあらすじさえよくわからない。細かい提示を注意深く観察していないとプロットの展開を見失ってしまう、相変わらずアンチ顧客満足的展開である。観る前に簡単なあらすじは読んでいたのだが、一度観終わった後、初回特典ブックレットの浅田彰による解説を読んだら、そんな話だったのかと仰天してしまった。(浅田彰による解説はいつも通り一般的には難解なはずの作品を、実に平板に全てチャート化してわかりやすく提示してくれるから、ゴダールの映画をこんなにも理解しやすいものに変えてしまって果たして大丈夫なのかという一抹の不安はあるのだが、それでも、)付録のブックレットを一通り読んだ後、2度目の視聴をしたら、映画を細部まで楽しむことができた。一般的な物語と思ってゴダールやタルコフスキーの映画を観ても楽しめやしないのだということが身に染みた。一つ一つのカットを絵画でも眺めるようにして、全身の神経を研ぎ澄ませながらどっぷり画面と音に浸っていると、映画全てが体にダイレクトに迫ってくる。その時、引用と特殊技術に満ちた映画は何重にも重ねられた意味を私の体に伝えてくれる。
映画中、パレスチナの詩人にイスラエルの女性記者がインタビューするのだが、その場面での詩人の言葉が深かった。詩人は、自分はトロイの詩人にあたるという。トロイ戦争を描いたのは勝利者側のギリシアの詩人ばかりで、トロイの詩人は一人もいない。
「敗北は詩人の不在ゆえなのか
詩とは将来への命題か
あるいは権力が使う道具の一つなのだろうか(…)
自らの詩を持たない民族は強くなることができるのだろうか
不在の名において語りたかったのだ
トロイの詩人として
勝利より敗北の中にこそより多くの示唆と人間性が存在する
喪失の中にこそ偉大な詩は生まれる
もし私が勝利者の側にいたら敗北への連帯を表明しただろう(…)
詩をもたない民族は打ち負かされた民族だ」
というパレスチナの詩人の言葉は、21世紀において詩を紡ぎ、芸術作品を創っていこうと考えている全ての若い人たちに、強く働きかける希望の言葉となるだろう。
「映画の原理とは光に向かいその光で私たちの闇を照らすこと。私たちの音楽」と講義の場面で学生たちに語る主演ゴダールの言葉も創作過程の秘儀を明らかしていて興味深い。
ゴダールの映画には詩のような台詞がたくさんある。例えば、ゴダールの講義を聞いていたオルガの言葉。
「どうでもいい
私たちの貧しさは明確だ
それがはっきりした
鉄条網だらけの風景と爆発で赤く染まる空
文化などから程遠い廃墟なのだから
文化など忘れるべきだ
無から築き上げよ
火事のとき家具を運ぶのは馬鹿げている
敗者としての幸運をつかむのだ」
オルガは、ロシアに住むフランス系ユダヤ人という複雑なアイデンティティーを持っている。オルガはイスラエルで自殺しようともしている。
「生にも死にも無関心でこそ完全な自由になれる。それが目標よ」
「では生きるきたくないというのかね」
「そうね」
とオルガは叔父との会話で語る。オルガはレヴィナスを引いて「生と死は別々のもの。存在するものとしないもの」とも言う。
こう語ったオルガは、ゴダールに自作のDVDを渡したい意志を伝える。が、土曜日までいるから助手に渡しておいてくれとゴダールはそっけなく答える。このゴダールの冷たい態度は実にリアルで滑稽だ。若者に対するあきらめとも無慈悲とも取れる行動。しかし、たくさんの無名映画作家志望者たちからDVDを渡されていたら、冷たくもなるだろうと思う。
ゴダールはサラエボを出る直前、助手から確かにオルガのDVDをもらう。彼女によろしく言っておいてくれというゴダールの様子がまた権威主義的俗物教師チックで滑稽なのだが、この後、ゴダールの元にオルガがイスラエルで死んだという訃報の電話が届く。
オルガはイスラエルの映画館で人質をとってこう宣言した。
「近代の民主主義政治と思想が乖離しているので全体主義に向かう危険がある
私が信じるのは死を前にした証言者だ
ロシア出身の私とイスラエルの人が
平和のために一緒に死んでくれればうれしい」
赤い鞄から何か取り出そうとしたところで、銃で撃たれオルガは死んだ。公式サイトにあるインタビュー(http://www.godard.jp/ourmusic/ourmusicinterview.htm)でゴダールは、オルガの自殺は最近の自爆テロを連想させるとインタビュアーに言われて、こう答える。
「自爆するテロリストは操られているという人もいます。でも、実際にはもっと簡単なことではないでしょうか。9.11のテロリストもそうですが「もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる」と彼らは思っている。そこがオルガ、つまり私との違いです。もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる、というのが私の考え方です。」
映画の最後には、地上の天国の映像が流れる。ここで一気に映画が若々しくなる。
赤いワンピースを着ているオルガは湖畔を歩いている。朗らかで悲劇のない世界。しかし、その楽園は柵で覆われており、柵の周りにはライフルを持った黒人の水兵がいるところが、ゴダール的なアイロニー。座りこんでいる水兵から、腕に見えないスタンプを押してもらったオルガは、柵の内側に入っていく。すると「弟が生まれたよ!」という福音的な声が響き、カットが変わる。
画面は左から右にゆったりと流れていく。若者が座って『ストリート・オブ・ノーリターン』を読んでいる。犬も休んでいる。水着姿の女性がはしゃぎ声をあげながらバレーボールを楽しんでいる。今までの悲惨な歴史状況から打って変わった牧歌的な映像が続き、観ているこちらも若々しい、天国の心地に包まれる。
波が何度も打ち寄せる浜辺に、若者が座っている。波の音が面白い。普通映画の波音は岸辺に届いた音が鳴った後、ひいていく音が続くが、この波は一方的に打ってくるだけ。ただただ人間の側に届いてくるばかりの波。波の音の印象は強烈だった。後で「ヌーヴェルバーグ」は「新しい波」という意味だったことを思い出し、なんだか深かった。
映画の常識からすれば異常な波音が続く中、若者はオルガに林檎を勧める。オルガが林檎を齧って若者に返すと、若者はその林檎を齧って、またオルガに勧める。オルガが再度林檎を齧って若者に返すと、その林檎を若者はまたもや齧る。この齧り合い、交換はアダムとイブが知恵の実を食べた神話的光景を思い起こさせて、ゴダールにしてはほほえましい象徴。
台詞はほとんどないのだけれど、物語性が強烈でわかりやすい世界。若者が画面に溢れてきて、60年代のゴダールを想起させる内容。こうした牧歌的物語を創ろうと思い立たせるほど、ゴダールが生きている現代世界史は荒れているのか。以前は冷たく引き離していた若者たちに希望を託すしかないのだろうか。
ずっとひきのショットだったのが、画面はオルガの顔面アップになる。オルガの顔は寂しげだ。
「二人が横に並んでる
私の横に女性がいる
見知らぬ女性だ
自分はわかる
それは何かのイメージだ
ぼんやりしている
よく晴れた日だった
遠くまで見える
でもオルガのいる所までは見えない」
これとほぼ同じ台詞をオルガが言う場面がサラエボの時にもあった。ただ言葉の位置は微妙に異なるし、付け加わった言葉もある。
最後、オルガは何か言いそうになる。口を少しあけて、何かつぶやいたのか、つぶやかなかったのか、私には判別できなかった。言葉の瀬戸際で、オルガは目を閉じる。そこで画面は真っ黒になり映画は終わる。何か言いたげだったが言えなかったのか、あるいは全て語り終わった後目を閉じたのか…ラストもよかった。
それにしても、題名は「ノートルムジーク」か「私たちの音楽」でよかったのに。皮肉にも英語の音訳。
ゴダールが描く現代は戦争の時代である。二つの世界大戦があって、核爆弾の脅威を元にした冷戦、民族紛争の20世紀は、数百年後の世界史の教科書には、戦争の世紀として書かれるだろう。しかし、生きている私自身の実感はどうか。戦争は遠い向こうの話、テレビ画面に映るだけの物語で、実感がない。20世紀は(これもすでに常套句だが)映像の世紀でもあった。マスメディアの席捲、見るまなざしの特権化。日本に生きる私は日米安全保障条約と自衛隊に守られながらも、平和な日常の中にいる。戦争は、自分の実人生と関係ない遠い世界で起こっているというのが、先進国に住む多くの人々の実感だろう。故に世界情勢に対する知識欲も薄れてくる。
ゴダールが描く悲惨な歴史もまた、映像の向こうで起きている物語になってしまう滑稽さ。それでもゴダールは苦悩する。我々が暮らしている世界は決して天国ではない。煉獄だ。外部脅威からの安全は保障されていても、ばらばら殺人はよくおきるし、いじめも自殺も多い。ばらばら殺人事件もまた所詮映像の向こう側の世界で起きる悲惨な事件であり、人の死は私たちが生きる実世界から隔離されているのだが、それでも私が生きる世界は平和な天国ではない。肩こりで苦しいし、睡眠不足でもある。満員電車で家畜のごとく通勤するし、残業もある。生活の不安もあるし、結婚したら家計が破綻しそうだ。生きることに漠然とした不安がある。戦争とばらばら殺人は映像の向こう側にあるが、決して平和で満ち満ちている、安全が保障されているとは言えない日常世界に私は暮らしている。こう考えていくと、ゴダールの抱える過度とも思える苦悩が身に迫ってくる。
現代人は国際情勢のニュースを切実に欲しはしない。一方ゴダールの最近の映画には世界情勢の最新状況が常に盛りこまれ、世界の悲惨が訴えられる。芸術作品や哲学からの過度の引用は、批判の対象となるが、一部の人には熱狂的に支持される。
ゴダールはわかりにくいのか、難解なのか、引用しすぎなのか、つまらないのか。
そんなものは個人の主観による。しかし、多くの観客がそう思うなら、それが今度は客観的評価になっていく危険がある。
私は、ゴダールの映画創りは19世紀的な教養の伝統に沿うものだと考える。フランス革命以後市民は新聞を読み、文学、芸術、文化、国際情勢に親しんだ。映画や小説は芸術と文化の担い手として扱われていた。明治の近代文学もまた近代化する日本の文化を描写し、同時に形成しようとしていた。そこには強い理念があった。今や、映画も小説も商業主義に染まっている。が、ゴダールは抵抗している。
ゴダール作品は世界情勢に詳しく、文学、美術、音楽、哲学に深い知識を持つ観客を対象としている。そんなゴダールみたいな観客はごく一部だと批判されるが、思い返せば、かつての芸術作品はみなこうした芸術の理解者、愛好家たちを対象として製作されていた。芸術に深い造詣がない人にも、優れた芸術作品は感動を与えうる。ゴダール作品にはそうした深みがないと言い切れるだろうか。そうではないだろう、決して。ゴダールこそ最も映画を愛した男である。快作『アワーミュージック』は若い人たちを商業主義ではない創作に駆り立てる危ない魅力を持っているだろう。
(このレビューは2007年1月15日にブログに発表した文章を転記しています)
見終わった後、頬がピンク色に染まる。90年代のゴダールはひたすら晦渋で観客受けしない、「老人的」映画を創り続けていたから、こんな若々しい、ある種わかりやすい高まりをラストに持つ映画が観れるなんて驚きだった。時代状況が老成したゴダールを奮起させたのだろう。
しかし、一度観ただけじゃあらすじさえよくわからない。細かい提示を注意深く観察していないとプロットの展開を見失ってしまう、相変わらずアンチ顧客満足的展開である。観る前に簡単なあらすじは読んでいたのだが、一度観終わった後、初回特典ブックレットの浅田彰による解説を読んだら、そんな話だったのかと仰天してしまった。(浅田彰による解説はいつも通り一般的には難解なはずの作品を、実に平板に全てチャート化してわかりやすく提示してくれるから、ゴダールの映画をこんなにも理解しやすいものに変えてしまって果たして大丈夫なのかという一抹の不安はあるのだが、それでも、)付録のブックレットを一通り読んだ後、2度目の視聴をしたら、映画を細部まで楽しむことができた。一般的な物語と思ってゴダールやタルコフスキーの映画を観ても楽しめやしないのだということが身に染みた。一つ一つのカットを絵画でも眺めるようにして、全身の神経を研ぎ澄ませながらどっぷり画面と音に浸っていると、映画全てが体にダイレクトに迫ってくる。その時、引用と特殊技術に満ちた映画は何重にも重ねられた意味を私の体に伝えてくれる。
映画中、パレスチナの詩人にイスラエルの女性記者がインタビューするのだが、その場面での詩人の言葉が深かった。詩人は、自分はトロイの詩人にあたるという。トロイ戦争を描いたのは勝利者側のギリシアの詩人ばかりで、トロイの詩人は一人もいない。
「敗北は詩人の不在ゆえなのか
詩とは将来への命題か
あるいは権力が使う道具の一つなのだろうか(…)
自らの詩を持たない民族は強くなることができるのだろうか
不在の名において語りたかったのだ
トロイの詩人として
勝利より敗北の中にこそより多くの示唆と人間性が存在する
喪失の中にこそ偉大な詩は生まれる
もし私が勝利者の側にいたら敗北への連帯を表明しただろう(…)
詩をもたない民族は打ち負かされた民族だ」
というパレスチナの詩人の言葉は、21世紀において詩を紡ぎ、芸術作品を創っていこうと考えている全ての若い人たちに、強く働きかける希望の言葉となるだろう。
「映画の原理とは光に向かいその光で私たちの闇を照らすこと。私たちの音楽」と講義の場面で学生たちに語る主演ゴダールの言葉も創作過程の秘儀を明らかしていて興味深い。
ゴダールの映画には詩のような台詞がたくさんある。例えば、ゴダールの講義を聞いていたオルガの言葉。
「どうでもいい
私たちの貧しさは明確だ
それがはっきりした
鉄条網だらけの風景と爆発で赤く染まる空
文化などから程遠い廃墟なのだから
文化など忘れるべきだ
無から築き上げよ
火事のとき家具を運ぶのは馬鹿げている
敗者としての幸運をつかむのだ」
オルガは、ロシアに住むフランス系ユダヤ人という複雑なアイデンティティーを持っている。オルガはイスラエルで自殺しようともしている。
「生にも死にも無関心でこそ完全な自由になれる。それが目標よ」
「では生きるきたくないというのかね」
「そうね」
とオルガは叔父との会話で語る。オルガはレヴィナスを引いて「生と死は別々のもの。存在するものとしないもの」とも言う。
こう語ったオルガは、ゴダールに自作のDVDを渡したい意志を伝える。が、土曜日までいるから助手に渡しておいてくれとゴダールはそっけなく答える。このゴダールの冷たい態度は実にリアルで滑稽だ。若者に対するあきらめとも無慈悲とも取れる行動。しかし、たくさんの無名映画作家志望者たちからDVDを渡されていたら、冷たくもなるだろうと思う。
ゴダールはサラエボを出る直前、助手から確かにオルガのDVDをもらう。彼女によろしく言っておいてくれというゴダールの様子がまた権威主義的俗物教師チックで滑稽なのだが、この後、ゴダールの元にオルガがイスラエルで死んだという訃報の電話が届く。
オルガはイスラエルの映画館で人質をとってこう宣言した。
「近代の民主主義政治と思想が乖離しているので全体主義に向かう危険がある
私が信じるのは死を前にした証言者だ
ロシア出身の私とイスラエルの人が
平和のために一緒に死んでくれればうれしい」
赤い鞄から何か取り出そうとしたところで、銃で撃たれオルガは死んだ。公式サイトにあるインタビュー(http://www.godard.jp/ourmusic/ourmusicinterview.htm)でゴダールは、オルガの自殺は最近の自爆テロを連想させるとインタビュアーに言われて、こう答える。
「自爆するテロリストは操られているという人もいます。でも、実際にはもっと簡単なことではないでしょうか。9.11のテロリストもそうですが「もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる」と彼らは思っている。そこがオルガ、つまり私との違いです。もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる、というのが私の考え方です。」
映画の最後には、地上の天国の映像が流れる。ここで一気に映画が若々しくなる。
赤いワンピースを着ているオルガは湖畔を歩いている。朗らかで悲劇のない世界。しかし、その楽園は柵で覆われており、柵の周りにはライフルを持った黒人の水兵がいるところが、ゴダール的なアイロニー。座りこんでいる水兵から、腕に見えないスタンプを押してもらったオルガは、柵の内側に入っていく。すると「弟が生まれたよ!」という福音的な声が響き、カットが変わる。
画面は左から右にゆったりと流れていく。若者が座って『ストリート・オブ・ノーリターン』を読んでいる。犬も休んでいる。水着姿の女性がはしゃぎ声をあげながらバレーボールを楽しんでいる。今までの悲惨な歴史状況から打って変わった牧歌的な映像が続き、観ているこちらも若々しい、天国の心地に包まれる。
波が何度も打ち寄せる浜辺に、若者が座っている。波の音が面白い。普通映画の波音は岸辺に届いた音が鳴った後、ひいていく音が続くが、この波は一方的に打ってくるだけ。ただただ人間の側に届いてくるばかりの波。波の音の印象は強烈だった。後で「ヌーヴェルバーグ」は「新しい波」という意味だったことを思い出し、なんだか深かった。
映画の常識からすれば異常な波音が続く中、若者はオルガに林檎を勧める。オルガが林檎を齧って若者に返すと、若者はその林檎を齧って、またオルガに勧める。オルガが再度林檎を齧って若者に返すと、その林檎を若者はまたもや齧る。この齧り合い、交換はアダムとイブが知恵の実を食べた神話的光景を思い起こさせて、ゴダールにしてはほほえましい象徴。
台詞はほとんどないのだけれど、物語性が強烈でわかりやすい世界。若者が画面に溢れてきて、60年代のゴダールを想起させる内容。こうした牧歌的物語を創ろうと思い立たせるほど、ゴダールが生きている現代世界史は荒れているのか。以前は冷たく引き離していた若者たちに希望を託すしかないのだろうか。
ずっとひきのショットだったのが、画面はオルガの顔面アップになる。オルガの顔は寂しげだ。
「二人が横に並んでる
私の横に女性がいる
見知らぬ女性だ
自分はわかる
それは何かのイメージだ
ぼんやりしている
よく晴れた日だった
遠くまで見える
でもオルガのいる所までは見えない」
これとほぼ同じ台詞をオルガが言う場面がサラエボの時にもあった。ただ言葉の位置は微妙に異なるし、付け加わった言葉もある。
最後、オルガは何か言いそうになる。口を少しあけて、何かつぶやいたのか、つぶやかなかったのか、私には判別できなかった。言葉の瀬戸際で、オルガは目を閉じる。そこで画面は真っ黒になり映画は終わる。何か言いたげだったが言えなかったのか、あるいは全て語り終わった後目を閉じたのか…ラストもよかった。
それにしても、題名は「ノートルムジーク」か「私たちの音楽」でよかったのに。皮肉にも英語の音訳。
ゴダールが描く現代は戦争の時代である。二つの世界大戦があって、核爆弾の脅威を元にした冷戦、民族紛争の20世紀は、数百年後の世界史の教科書には、戦争の世紀として書かれるだろう。しかし、生きている私自身の実感はどうか。戦争は遠い向こうの話、テレビ画面に映るだけの物語で、実感がない。20世紀は(これもすでに常套句だが)映像の世紀でもあった。マスメディアの席捲、見るまなざしの特権化。日本に生きる私は日米安全保障条約と自衛隊に守られながらも、平和な日常の中にいる。戦争は、自分の実人生と関係ない遠い世界で起こっているというのが、先進国に住む多くの人々の実感だろう。故に世界情勢に対する知識欲も薄れてくる。
ゴダールが描く悲惨な歴史もまた、映像の向こうで起きている物語になってしまう滑稽さ。それでもゴダールは苦悩する。我々が暮らしている世界は決して天国ではない。煉獄だ。外部脅威からの安全は保障されていても、ばらばら殺人はよくおきるし、いじめも自殺も多い。ばらばら殺人事件もまた所詮映像の向こう側の世界で起きる悲惨な事件であり、人の死は私たちが生きる実世界から隔離されているのだが、それでも私が生きる世界は平和な天国ではない。肩こりで苦しいし、睡眠不足でもある。満員電車で家畜のごとく通勤するし、残業もある。生活の不安もあるし、結婚したら家計が破綻しそうだ。生きることに漠然とした不安がある。戦争とばらばら殺人は映像の向こう側にあるが、決して平和で満ち満ちている、安全が保障されているとは言えない日常世界に私は暮らしている。こう考えていくと、ゴダールの抱える過度とも思える苦悩が身に迫ってくる。
現代人は国際情勢のニュースを切実に欲しはしない。一方ゴダールの最近の映画には世界情勢の最新状況が常に盛りこまれ、世界の悲惨が訴えられる。芸術作品や哲学からの過度の引用は、批判の対象となるが、一部の人には熱狂的に支持される。
ゴダールはわかりにくいのか、難解なのか、引用しすぎなのか、つまらないのか。
そんなものは個人の主観による。しかし、多くの観客がそう思うなら、それが今度は客観的評価になっていく危険がある。
私は、ゴダールの映画創りは19世紀的な教養の伝統に沿うものだと考える。フランス革命以後市民は新聞を読み、文学、芸術、文化、国際情勢に親しんだ。映画や小説は芸術と文化の担い手として扱われていた。明治の近代文学もまた近代化する日本の文化を描写し、同時に形成しようとしていた。そこには強い理念があった。今や、映画も小説も商業主義に染まっている。が、ゴダールは抵抗している。
ゴダール作品は世界情勢に詳しく、文学、美術、音楽、哲学に深い知識を持つ観客を対象としている。そんなゴダールみたいな観客はごく一部だと批判されるが、思い返せば、かつての芸術作品はみなこうした芸術の理解者、愛好家たちを対象として製作されていた。芸術に深い造詣がない人にも、優れた芸術作品は感動を与えうる。ゴダール作品にはそうした深みがないと言い切れるだろうか。そうではないだろう、決して。ゴダールこそ最も映画を愛した男である。快作『アワーミュージック』は若い人たちを商業主義ではない創作に駆り立てる危ない魅力を持っているだろう。
(このレビューは2007年1月15日にブログに発表した文章を転記しています)
COPYRIGHT (C) 2003 HAL HILL. All RIGHTS RESERVED