松本人志『大日本人』
最終更新日:2008年2月21日
一般的には酷評が多いけれど、個人的には何でここまで酷評されるのと思うほど素晴らしい作品だと思えた。松ちゃんは北野たけしみたいにテレビと映画で作り方を変えない、自分はテレビの作り方で映画を作ると言っていた。作り方はコント風かもしれないが、扱っているテーマはもろ非商業的芸術映画の重さがあった。最後の暴力的展開は『ドッグヴィル』に似ていると思った。
以前サイゾーのレビューで「放送表現の自粛」について書いたけれど、ダウンタウンこそは大人たちから暴力的、性表現が過激とさんざん批判されてきたお笑い芸人の代表格である(ビートたけしもそうだったけど)。今後お笑い番組は暴力やシモネタをどう表現していくべきなのか、テレビ製作者たちはまだ見つけ出せていない。お笑い番組同様、現代小説やら映画も暴力表現、過激な性表現のオンパレードである。
ただ、優れた作家は、子どもの教育に悪影響を与えると教育者から批判されようが、暴力、性を描く必要性を認識している。現実の世界には暴力と性の問題が溢れかえっているからである。優れた文学、映画は暴力、愛のない性行為が生み出す悲劇を作品にして、多くの人に暴力、性の問題を考えるきっかけを与える。現実世界に暴力と性の問題が溢れかえっている限り、映画や小説やテレビには、それらの問題を告発する姿勢が必要だ。
『大日本人』のラスト、洋風の正義の味方スーパージャスティスが現れて、「ミドン」を丸めた新聞紙で殴りつける。スーパージャスティスたちはみんなでよってたかって無抵抗の「ミドン」の服を破り、パンツまで無理矢理破り去る。ちょうど沖縄で米軍海兵隊が少女に暴行したニュースの続報を昨日見ていたから、この場面を見ていて、現実に起きた事件とのリンクを感じた。
お笑い番組やテレビドラマが、子どもの教育上よくないとしても、暴力や性を表現する必要がある領域、それは社会風刺のブラックユーモアだ。お笑い番組で表現される暴力と子どもの暴力の関係は、因果関係であるよりも、相関関係である可能性の方が高い。現実には暴力がたくさんあるのだから、「ストップいじめ!」とか「暴力はいけないよ」とか、道徳教育番組的に、つまらないやり方で暴力の悪さを告発するのでなく、ブラックユーモアの強烈なやり方で批判したらいいだろう(よく考えると北野映画にも暴力がたくさん描かれているし、お笑いというかアートというか人間生活と暴力は切り離せない)。
(このレビューは2008年2月19日にブログに発表した文章を転記しています)
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