西原克成『内臓が生みだす心』
最終更新日:2008年2月11日
(以下の書評は2007年12月15日にブログにて発表済です)
人間の中心はどこにあるのか。脳の中にあるのか。自己意識はどうして生じるのか。こうしたテーマで本を読んできて、偶然見つけたのがこの本。著者は、人間の心は内臓にあるという。心臓を移植すると、ドナーの記憶が移植された人の心に浮かんでくる。性格まで変わってくる。脳細胞を取り替える実験をしても、心は入れ替わらないのだという。脳は入出力の装置にすぎず、性格、記憶といった個人のアイデンティティーを形作るものは、心臓、腸といった内臓にあるという主張。
心臓には心、ハートが宿る。脳には精神、思考、マインドが宿る。心、思考、意識、精神といった、言葉は似ているけれど、厳密に分けたほうがいい。脳には心がない。心は内臓に宿る。では意識はどこにあるのか。思考は大脳新皮質の中で成されているだけなのか。意識と心と精神と思考に関する哲学的科学に対する興味は尽きることがない。
類書として、皮膚に脳があるという『第三の脳』もある。著者もまた、皮膚や体壁が考えているのであって、脳という脊髄神経系の末端組織は、皮膚の特殊化したものにすぎないと主張している。人間というか生命体のアイデンティティーは、脳や魂にあるのでない。皮膚にあるのだ。
人間が抱えている食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲は脳の中で起きるのでなく、腸や下半身の皮膚組織から沸き起こってくる。ここまで書くと、なんだかうさんくさいトンデモ科学っぽい。現に科学の主流は、脳を人間の中心と定めている。現代の都市は人類が大脳新皮質を発達しすぎたことに呼応するように、大脳新皮質のような街並みとなっている。著者は、生命は変化を好まないという。快も不快もなく、何も感じない状態が、生命としては一番安らいでいる。これは睡眠中とか入浴中の解放状態に近いけれど、現代人は脳で思考し続けているから、脳が関係してくる脊髄、背中が痛くてしょうがなくなってくる。
脳は背中の皮膚に関係しているが、情動なりまったり感なりぐうたら度は、腹や体表面側に関係してくる。快楽も恐怖もなくのんべんだらりとしている時、生命体の体内では何が起きているのか。意識を持っている本人と同じように無気力となっているのか。そうではない。細胞の再生産、リファクタリングが行われているのである。生命はエイジング、経年劣化に対抗して、自分を更新しようとする。自分を再生産させる能力があるかないかが、生命と非生命の違いだと著者はいう。
さて、著者はアリストテレス的、目的論の生物学、進化論に反抗して、生命現象を帰納的に研究、観測することで、胚から考える生命学を構築した。著者の価値観は既存の生物学と随分違う。いろいろ未解決の問題をさらっとさも解決し終わったかのように書かれてもいるから、とんでも科学の印象を拭うことはできないが、脳の思考が人間の中心、アイデンティティーではないという主張には、同感できる部分がある。
生命は無目的なのか。著者によれば、自己を再生産することが、生命活動の目的と呼べなくもないという。性欲、食欲、睡眠欲等は再生産に必要と理解できる。名誉欲や蓄財に関する欲求も、自己の繁栄の十分条件になりうる。印象的だったのは、古代ローマでは図書館と浴場と娼館が一体になっていたという指摘だった。知的活動をとおして物なり思考のエネルギーを生み出すこと、すなわち自己実現活動と、入浴という新陳代謝をすすめる活動場と、性欲の場所が渾然一体となっていたことは、古代人が生命の本質に気づいていた証だと著者は指摘する。
中世以降人は生命活動と思考活動をどんどん分離させてきた。思考とは背骨や肩を痛めるためにするものではなく、自己を拡大再生産するという生命の働きそのものなのだろうと私は想った。その働きに忠実に従うことで、私は自分の大脳の神経活動を文字に変換していく。
人間の中心はどこにあるのか。脳の中にあるのか。自己意識はどうして生じるのか。こうしたテーマで本を読んできて、偶然見つけたのがこの本。著者は、人間の心は内臓にあるという。心臓を移植すると、ドナーの記憶が移植された人の心に浮かんでくる。性格まで変わってくる。脳細胞を取り替える実験をしても、心は入れ替わらないのだという。脳は入出力の装置にすぎず、性格、記憶といった個人のアイデンティティーを形作るものは、心臓、腸といった内臓にあるという主張。
心臓には心、ハートが宿る。脳には精神、思考、マインドが宿る。心、思考、意識、精神といった、言葉は似ているけれど、厳密に分けたほうがいい。脳には心がない。心は内臓に宿る。では意識はどこにあるのか。思考は大脳新皮質の中で成されているだけなのか。意識と心と精神と思考に関する哲学的科学に対する興味は尽きることがない。
類書として、皮膚に脳があるという『第三の脳』もある。著者もまた、皮膚や体壁が考えているのであって、脳という脊髄神経系の末端組織は、皮膚の特殊化したものにすぎないと主張している。人間というか生命体のアイデンティティーは、脳や魂にあるのでない。皮膚にあるのだ。
人間が抱えている食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲は脳の中で起きるのでなく、腸や下半身の皮膚組織から沸き起こってくる。ここまで書くと、なんだかうさんくさいトンデモ科学っぽい。現に科学の主流は、脳を人間の中心と定めている。現代の都市は人類が大脳新皮質を発達しすぎたことに呼応するように、大脳新皮質のような街並みとなっている。著者は、生命は変化を好まないという。快も不快もなく、何も感じない状態が、生命としては一番安らいでいる。これは睡眠中とか入浴中の解放状態に近いけれど、現代人は脳で思考し続けているから、脳が関係してくる脊髄、背中が痛くてしょうがなくなってくる。
脳は背中の皮膚に関係しているが、情動なりまったり感なりぐうたら度は、腹や体表面側に関係してくる。快楽も恐怖もなくのんべんだらりとしている時、生命体の体内では何が起きているのか。意識を持っている本人と同じように無気力となっているのか。そうではない。細胞の再生産、リファクタリングが行われているのである。生命はエイジング、経年劣化に対抗して、自分を更新しようとする。自分を再生産させる能力があるかないかが、生命と非生命の違いだと著者はいう。
さて、著者はアリストテレス的、目的論の生物学、進化論に反抗して、生命現象を帰納的に研究、観測することで、胚から考える生命学を構築した。著者の価値観は既存の生物学と随分違う。いろいろ未解決の問題をさらっとさも解決し終わったかのように書かれてもいるから、とんでも科学の印象を拭うことはできないが、脳の思考が人間の中心、アイデンティティーではないという主張には、同感できる部分がある。
生命は無目的なのか。著者によれば、自己を再生産することが、生命活動の目的と呼べなくもないという。性欲、食欲、睡眠欲等は再生産に必要と理解できる。名誉欲や蓄財に関する欲求も、自己の繁栄の十分条件になりうる。印象的だったのは、古代ローマでは図書館と浴場と娼館が一体になっていたという指摘だった。知的活動をとおして物なり思考のエネルギーを生み出すこと、すなわち自己実現活動と、入浴という新陳代謝をすすめる活動場と、性欲の場所が渾然一体となっていたことは、古代人が生命の本質に気づいていた証だと著者は指摘する。
中世以降人は生命活動と思考活動をどんどん分離させてきた。思考とは背骨や肩を痛めるためにするものではなく、自己を拡大再生産するという生命の働きそのものなのだろうと私は想った。その働きに忠実に従うことで、私は自分の大脳の神経活動を文字に変換していく。
COPYRIGHT (C) 2003 HAL HILL. All RIGHTS RESERVED