仲正昌樹『日本とドイツ二つの全体主義』
最終更新日:2008年2月11日
(以下の書評は2007年9月24日にブログにて発表済です)
日本とドイツの戦前思想の共通点を探る内容。ドイツも日本も遅れた近代国家だった。二つの国とも、フランスの普遍的・合理的啓蒙思想に対して、近代を超克する思想を練り上げる。普遍的文明とは異なるドイツ民族独特の文化、ロマン主義、ドイツ観念論、社会主義、全体主義。第二次世界大戦では、西洋近代の超克を唱える国家が破れ、個人の自由を保障する近代的教養、人間観が勝利することになるのだが、近代的人間観を懐疑する思考は、ポストモダン思想として根づいていく。
面白かったのは、日本における教養のあり方を批判的に語る箇所だ。ヨーロッパにおける教養は、合理的、主体的に考え、判断する人間を育成するための学問、書物をさす。日本はヨーロッパの知識を輸入する。すると、本来合理的人間とは相容れない、ニーチェ、さらにはニーチェが批判した前近代的な聖書まで「教養」にくくられて、崇拝の対象とされる。どのような人間を作り上げるのかという大前提が忘れられ、ただ単にためになる書物、みなが読んでいる書物が「教養」の枠の中に並べられる。こうした傾向を著者は批判している。
私自身の教養に対する接し方も、まさしく著者が批判しているような態度に貫かれていた。小説や文章を書くといえば、本義の一貫性なく、面白いもの、読者の興味を誘うものを書こうとしていたが、今後は一切そういう曖昧な態度をやめることにした。面白いものが小説だとすれば、それは単なる娯楽小説であって、教養の範疇に入る小説ではない。
二十世紀では近代文明の教養観、人間観、個人を中心にした背か認識哲学が徹底的に批判されてきたが、私はあえて面白さ以外に根拠を持つ小説を書きたい。「人生いかに生きるべきか」とか「社会はこれからどうなるか」とかそういうことを綴った紙面は雑誌からなくなったと村上龍は書いている。人々は知識人的な語りを必要としなくなり、変わりにおすすめスポットのカタログ的羅列を雑誌に求めているという。
社会があまりに複雑化、細分化しすぎたため、知識人が人々の生活を言い当てられなくなった、言葉を連ねても現実に有効な助言とはならなくなったというのが、教養的言説の衰退の原因の一つだろうが、社会というか地球は再びマクロの動きに統合されようとしている。これだけ人と情報の移動が多様となってくると、むしろはるか古代、ソクラテスや仏陀や孔子老子の時代の頃のような、知識が必要となるだろう。
せめて生きていく上では現代最高の知性となることができるよう自分の知と行動を高めていくこと。自分に限界を課してしまっては、カタログ的生活で人生を終えることになってしまう。
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