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樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』

最終更新日:2008年2月11日

(以下の書評は2007年8月26日にブログにて発表済です)



久々に読み応えのあるよい新書を読んだ。著者の専門は、ラカン派の精神分析の枠組みによる現代社会・文化分析とのこと。最近のフランス思想の動向にも詳しい。ドゥルーズやラカンの議論が現代日本を覆う社会問題に適用できると知って(まあ当たり前なのだが)、面白かった。

冒頭にドゥルーズの管理社会論が書かれている。ドゥルーズによると社会を支配する権力の実践形態は、君主型、規律型、管理型と変化してきた。規律社会では、教育により国民全員を規律訓練して、主体として確立しようとするが、管理社会では、一般大衆への規律的教育は放棄される。一部のエリートが社会資本を独占し、一般大衆は警察権力等により管理されるようになる。

続いて紹介されるのは、スティグレールの政治の欲動化=動物化。精神分析では欲動と欲望が区別される。欲動とは、快楽や感情の興奮を得ようとする原始的な機能である。欲望は、言葉という象徴を介して他者に働きかけようとする、社会的な機能である。政治は欲望のレベルで形成されてきたが、マスメディアによる情報操作を多用する現代の政治家は、欲動レベルで政治を行っているとスティグレールは指摘している。有権者の感情を重視し、テレビ映りのよさ、好感度調査を気にする政治家の行動は、確かに欲動的になる。

続いてイタリアの哲学者ヴィルノによる議論が取り上げられる。ヴィルノは、ポストフォーディズムの社会では、人間は「純然たる存在論的体制」に陥るという。つまり、ローカルなコードを解体する、フレキシブルでグローバルな経営システムは、人間がよってしかるべき共同体のコード、規範を解体する故に、人々は自分が生きる意味を一人一人個別に見出す必要がある。ハビトゥス、すなわち慣習行動を人々は所属する共同体からでなく、自分の力で獲得していく必要が出てくるのだが、その実企業広告が、人々のハビトゥスを規定するというのが、著者の主張である。自分の生活を振り返っても、あまり脈絡なく本を読んでいるし、観るテレビ番組によって考え方が変わってくる。情報の少ない社会でなら、人生の目的にそって情報を取捨選択しつつ生きていけたろうが、今は情報過多で、さらに企業が消費させたいものにあわせて個人の趣味思考、生活習慣までころころ変わってしまう。

著者が問題にするのは、再帰性と恒常性の相関関係である。ネオリベラリズムは、共同体的価値観、規範を解体し、地球規模で市場競争の原理を広めている。競争で勝つか負けるかは、個人の努力、責任によっている。共同体のコード解体と、共同体から離れて自由に活動する主体の形成は、近代に特有の動きである。イギリスの社会学者ギデンズは、これまで他の誰かがやってきたことを無反省に繰り返すことを「伝統的行為」と規定する。一方、自分の行為の起源や結果を自分で考えながら行為を繰り返すことを、ギデンズは「再帰的行為」と命名する。まさしく、再帰的行為を繰り返し、生成発展していく主体の育成こそ、近代発生の条件だった。近代小説の登場人物たちが、自己の内面、行動を詳細に分析しつくすように、近代人は自分の行為を他の誰でもない自分で選択し、生み出していく。そうした再帰的行為の極限形態が、ネオリベラリズムといえるだろう。

と学問的に規定されても、多くの人は、自己反省的に考えながら行為していないことは明白である。現代人の行動は誰かの模倣だし、企業広告に基づいて行動を選択することもしばしばある。共同体的絆から引き剥がされた都市生活者は、メディアの多量な情報を元に行動を取捨選択しているのだが、実のところ、自己反省的に再帰的行為を取捨選択できる人たちこそ、競争社会にあって勝利者となっていく。

著者は再帰的行為を遂行していくためには、ある種の恒常性が必要だという。たとえ自分の選択した行動が間違っていたとしても、またチャレンジできるのだ、自分の自我は傷つかないのだという自己と他者に対する信頼がないと、人は競争に乗り出すことができない。自己の基盤が揺らがないのだという恒常性はどこからもたらされるのか、どうやって確保するのか。再帰性を否定して、恒常性の追求ばかりを求めると、復古主義者、原理主義者となるのだが、再帰性を確保するために、恒常性の確保をも目指すこと、これが著者の提唱する方向である。

再帰性の担保となる恒常性は誰もが生まれながらに持っているものではない。恒常性を均等に配分すること、これこそスタート段階の格差を是正する社会設計である。

私はこの本を読んでいて自分の卒論を思い出した。私の卒論のテーマは、ポストコロニアリズムの分裂症的アイデンティティ概念と精神治療家が勧める統一された人格概念と、特殊部隊のパワーエリートが持つとされるような強固な人格概念とを対比させることであった。ポストコロニアルの思想家たちは、近代的主体の概念にとらわれない、流動的で国境横断的なアイデンティティを主張するが、精神治療家はばらばらに分裂して苦しんでいる患者を健康にするために、統一された人格概念を称揚する。この違いはどうして起きるのかが卒論執筆時のテーマだったが、社会人になって、結局両者は同じ一つのものを求めているとわかった。それは、自分の人格は、誰か強圧的な他者権力の支配下においてはならないということだった。ハーマンの「心的外傷と回復」では、戦争中捕虜となった兵士で、心的外傷の程度が低い兵士はどのような行動パターンを持っていたかが記述されていた。外部からの強い権力介入によって、人の心は大きく傷つく。誰かに心を支配されず、自分の人格を保つにはどうするか。その守ろうとする人格が唯一で固定的なものでなくともよいのだ。複合的で多様な自己像が重なり合ったアイデンティティーであっても、他者の強圧的なコントロール下におかれない、自己コントロールによるアイデンティティの維持が必要なのだと思った。

著者が繰り返している再帰性とは、まさしく自己によるアイデンティティー、たえざる行動選択のコントロール基準を自己におくということではないだろうか。もちろん人間は社会的存在なので、純粋な自己による自己操作はありえないのだが、他者に服従するばかりのつまらない人生は避けたい。

著者は行動の選択基準が動物化しようとしている傾向を批判する。一方、東浩紀はある意味動物化を肯定している。全ての形而上学は脱構築できるが、人間が子供をうむこと、食事をして生命を維持することなど身体的な問題、動物的な問題は、脱構築できないのではないか、そうしたものから社会設計を考えた方がいいのではないかというのが、『動物化するポストモダン』以降の東の考え方である。『存在論的、郵便論的』でも東は、後期デリダが精神分析的な、リビドーのレベル、複数で雑多で近代主体的には定義できない欲動のレベルに思想の比重をおいていたことを指摘していた。そのような後期デリダの欲動レベルの考えによれば、自己反省的な主体の育成を支持する著者の考え方は、近代的思考法であり、脱構築の対象となりうる。著者はラカン派として、言葉という象徴界のコミュニケーションを擁護する。人と人が会話する欲望、関わる欲望と、単純に自分の快感を追い求める欲動。どちらを社会の中心として重視するのか。そもそも欲動を中心に考えていては、社会という概念自体成り立たなくなるのだというのが、著者の立場である。


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