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フーコー『性の歴史I 快楽の活用』

最終更新日:2008年2月11日

(以下の書評は2007年8月26日にブログにて発表済です)


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快楽の活用 (性の歴史)
ミシェル・フーコー Michel Foucault 田村 俶
新潮社 1986-10

自己への配慮 (性の歴史) 知への意志 (性の歴史) 狂気の歴史―古典主義時代における ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱 フーコー入門 (ちくま新書)

by G-Tools , 2008/02/11



ギリシア時代の哲学者や医者が、性の営みについてどんな言葉を残していたか、歴史をひもとき、現代の性にまつわる慣習と比較考察するフーコー晩年の名作です。

ギリシア時代においては、個人一人一人が自分の意志で性欲を制御する。こうした態度は節制とか克己などと呼ばれる、自分をよりよくしていこうとする自己への配慮である。ギリシア時代、性欲コントロール能力は、個人の美徳と考えられていたのに対し、キリスト教社会では、個人の領域であるはずの性生活が、教会によって管理されるようになったとフーコーは指摘します。どういうセックスがいけないか、教会が厳密に規定していき、個人の自由がどんどん狭められる。さらにビクトリア朝の社会になると、個人の欲望とか、どういう性欲のあり方が正しいものなのかという点が、社会によって管理されるようになります(逆にいうと道徳から逸脱している人は「正常」な社会からつまはずきにされる)。

フーコーは個人が自由に振舞える領域の拡大を主張しています。それは性欲の無制限の開放でなく、欲望にはいろいろな形があっていいのだということの肯定です。また、自分自身の欲望は、自分自身の意志で節制できる人になることの推奨。フーコーはニーチェみたくキリスト教が心底嫌いっぽいんだけど、クリスチャンの神谷美恵子がフーコーのよき理解者と知って、フーコーとキリスト教は両立しうるのかもしれないと思えてきました。

60年代ごろは思想界でもアートでも、性を積極的に描くことが、そのまま社会批判になりうる時代でした。それだけ性に対する抑圧が強かったのですが、現代の何でもありの状況を見ると、これでよかったのかと思えてきます。性の多様なあり方が社会的に肯定されるようになったのだから、自由の領域は確実に広がったのですが、ネットでの性表現の氾濫など、どうも何か違う方向に向かっている気がしなくもない。社会からの強制でなく、自分自身で自分の欲望を節制する、セクシャル・リテラシーとも言うべき能力の育成が必要なのでしょう。何だか今の状態は、誰かの金儲けのために、性欲やら食欲やら承認欲求やらをかきたてさせられまくっている気がする。

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