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松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方』

最終更新日:2008年2月11日

(以下の書評は2007年6月11日にブログにて発表済です)



宗教は政治権力と結びついた途端に腐敗するというのがトルストイの影響を受けた私の考えだったのだけれど、著者の思考は全く違った。宗教・神話と政治経済、文化は、共同体・国家・社会・組織というコスモロジーの中で不可分のものだというのが、著者の文化人類学的な「見立て」である。

宗教や思想は世界の見方を教えてくれる。同じ宗教、神話、伝説を共有している者たちの間には、共通の価値観、コミュニケーションのコードが芽生え、共同体が作られる。人類は宗教で世界を理解してきたが、近代以降は、思想や理念で世界を理解し、国家の連帯感を作ってきた。しかし、ポストモダンの現代では、とりわけ日本人の間では、宗教も思想も不要となった。

著者はポストモダンの現代でも宗教や思想は文化コードとして機能しているという見立てをとるだろうが、社会学者北田暁大の立場からすれば、宗教、道徳、思想を語る人は、1980年代以降かっこ悪い人、痛い人となっている。それらは近代社会を支える基本的価値という絶対的ブランドから、他の商品と変わらない相対的ブランドになったのだ。今の時代では、熱中する対象は個人の恣意による。何でもいいから萌えて、自分と同じように萌えている人たちとの間で、「つながり感」を共有すること。つまり、何を共通価値とするかはどうでもよく、誰か他者とのつながり感を神経質なまでに維持し続けることが最重要命題となる。目的が後退し、コミュニケーションという手段が生きる目的となったのだ。

この本は著者の若者への講義をまとめたものだが、「ゴート人て前の抗議で言ったけど、当然覚えてないよね」とか「知らないよねそれ。まあ諦めてるけど」などといった、教養を知らない若者たちへの嘆きが幾度となく書きこまれている。こうした状況について著者は憤ることなく、他の大学講師たちと同じく諦めてしまっている。思想がもはや恣意的萌えの対象でしかないと観念しているのだろうか。

それでも私はこうした本に萌えてしまう。例えば、貴族的「あはれ」と武士的「あっぱれ」の違いについて説明した箇所には刺激を受けたし、千利休や世阿弥についての個人史的解説も良質だった。能を見てみようと思ったし、わびの美学を日常生活で実践してみようと思った。

歴史上の偉大な業績は、最初は10人くらいの小さな集まりで始まり、5年間くらいの間で終わっているという指摘にも勇気づけられた。この小さなブログで毎日書いて、それを読みに集まってくれる人たちとの小さな小さな集まりから、永い人生のうち5年だけでも、最良の結晶を生み出せればよいだろう。

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