西永良成『ミラン・クンデラの思想』
(以下の書評は2006年3月12日にブログにて発表済です)
ミラン・クンデラの小説観を理解する手助けとなる本。
クンデラの小説は世界的評価を得ているが、小説観を語った彼の講演は大時代的で時代遅れとの評価を受けている。クンデラは小説を近代ヨーロッパ特有のものと考えているからだ。彼にとってみれば、ヨーロッパ文明以外が作り出した小説は、小説でなくなる。ポストモダンを通り越して、ポストコロニアルかつマルチチュードの時代に、何をそんな19世紀的権威主義に陥っているのかと多くの識者がクンデラに落胆した。
著者はクンデラの大時代的小説観を擁護する。何故クンデラはこう言ったのか。彼が書いている小説は、セルバンテス以降のヨーロッパ小説の伝統に乗っ取ったものであると表明したかっただけで、ヨーロッパ以外の小説を否定しているわけではないと著者は言う。
釈明にしか聞こえないが、クンデラがヨーロッパ近代にとって小説の意義を明確に定義づけていることは確かである。すなわち、デカルトから発生する近代哲学は合理的で整った、直線的世界を構築するが、セルバンテスから派生するヨーロッパの近代小説は、合理性からはみ出し、落ちこぼれる、個人の生を記録するというのだ。近代小説は発生からして近代を超克しているというのがクンデラの説である。
硬直した理想の塊、全体主義国家において、小説は大衆の合意に寄りそうキッチュな芸術となるが、クンデラが主張する小説とは、多数の合意からはみ出すもの、不真面目さ、嘲笑、懐疑、ユーモアと皮肉の精神である。この点でクンデラは反ロマン主義、反理想主義、反叙情主義であり、冷酷に、くそまみれの現実を見つめる叙事詩こそ、クンデラの小説なのだ。それはセルバンテス、カフカ、プルースト、ジョイス、カフカ、ムージル、ブロッホに通じる小説の精神である。
こう書いていくと、クンデラは実に類いまれな現代小説家のようだが、やはり彼の小説観はヨーロッパ中心主義の枠内にあり、キッチュ、大衆性を嫌悪しつつ、少数者にのみ理解されうるある種の芸術性、美を信じている点で、彼は19世紀的なモダニストという烙印を押されるだろう。しかし、そうでなければ、20世紀後半にみなが読みうる文学を成立できないわけで、文学の状況は極めて困難であることに変わりはない。