クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
最終更新日:2008年2月11日
(以下の書評は2006年3月12日にブログにて発表済です)
軽いのと重いのとどちらがいいのか。パルメニデスは軽さを肯定した。ベートーヴェンは重さを肯定的に捉えた。小説の冒頭に言及されるニーチェの永劫回帰の思想が、重さと軽さどちらを肯定しているかは、はっきりと書かれていないし、クンデラ自身が重さと軽さどちらを肯定しているかもはっきり書かれていない。そんな単純な二者択一の答えは半ばどうでもよく、面白さは、重さと軽さについての複雑な考察作業なのである。
ベートーヴェンは、最後の交響曲の合唱「Es muss sein!」(そうでなければならない)を極めて重いものとして表現したし、それが多くの人に感動を呼び起こした。クンデラは「そうでなければならない」のインスピレーションが、日常の軽い冗談話から生じたことを暴き立てる。冗談はベートーヴェンによって重く、荘厳なものに昇華される。果たして「そうでなければならない」という重い命令は人を幸福にするのか。
トマーシュは自分自身の「そうでなければならない」から逃れ、軽くなろうとする。全ての命令、全体主義国家の、仕事の、キッチュな芸術の「そうでなければならない」からトマーシュは逃れ、軽くなろうと、独自性を持とうとする。
あらゆるキッチュ(俗悪)なものからの逃避。完全な休暇。その逃避行為は、究極的にはニーチェが示した、デカルト的な「世界の支配者としての人間」からの決別を意味する。
「人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである」(p374)
「そうでなければならない」は使命である。使命のない人間は軽くなる、自由になる、幸福になる。
使命を放棄した人は、何の力も持たなくなり、社会の最底辺にいるように見えるが、彼らはきわめて軽く、低い場所にいるようでいて、実際は高く身軽なのだ。
こう書くと単純化してキッチュになるから、小説そのものを読んで欲しい。
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