書評:クッツェー『夷狄を待ちながら』
最終更新日:2008年2月11日
(以下の書評は2006年3月12日にブログにて発表済です)
原著は1980年。
著者は南アフリカ出身の作家。2003年度ノーベル文学賞受賞。
英ブッカー賞を史上初2回連続受賞もしている。
当作はスピヴァクの論文でも取り上げられている、ポストコロニアル文学の代表的作品である。夷狄と、彼らを制服しようとする帝国の人間、双方をクッツェーは描く。語り手の男は、辺境の街で民政官を勤める初老の男。
語り手は不当な暴力を受ける夷狄をかばい、帝国から派遣されたジョル大佐らと対立する。夷狄の関係者として監禁され、拷問を受けるが、終始語り手は夷狄の側に立ち、帝国の非業を告発する姿勢を変えない。
白人作家であるクッツェーは、自分たちを加害者と捉え、アフリカ現地の人々に対して行なってきた不当な暴力を告発する。日本の多くの小説家たちは、戦争を小説化するが、ヒロシマ、捕虜生活など、自分たちを被害者の立場においてしまう。村上春樹も大江健三郎もかわりない。
辛くても加害者の立場に身をおいて、自分たちの側が行なってきた暴力の限りを描けるか否かは、歴史認識、自己反省力、客観的判断力に寄るところが大きい。日本の小説家に南アフリカの白人作家たちのような問題意識がいつ芽生えるのか、醸成を期待するばかりである。
南アフリカと日本では事情が違う、日本はアメリカに原爆を落とされた、ヨーロッパ諸国による植民地化の驚異にさらされていたという言い訳は通用しないだろう。どこの国でも複雑な事情はあるものだ。加害者の側で自分を描くと、罪の意識にさいなまされて自虐的になるというなら、この小説のように、加害者の組織に属しながら、侵略行為の不当性を認識して、強い姿勢で告発する立場に身をおくといい。
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