現代文化、社会について領域横断的に思索するホームページ

職業に関係なく、読んでおくべき書について

最終更新日:2008年9月23日
(ブログ記事掲載日:2008年2月27日)
その人の職業に関係なく、読んでおくべき本というものがかつてはあった。若者に読んでおくよう勧めたくなる本がたくさんあった。聖書、プラトン、アリストテレス、マルクス・アウレリウス、シェイクスピア、ゲーテ、カント、モンテーニュ、トルストイ、ドストエフスキー、リルケ、プルースト、ハイデガー等、読んでおくべき本がかつてはあった。

彼らの著作は、教養と呼ばれていた。人間として生きていくのに何が必要なのか、倫理や道徳とはどういうものか、人類が抱えている問題とは何か、偉大な先人の著作は教えてくれた。専門職に関わらず、読んでおくべき本が以前は多数あった。

最近はそういう本がなくなったとは言わないが、極めて少なくなった。自分はここしばらく小説を書く気分になれなかった。新人賞に堕ち続けてきたし、いくら送っても受からないだろうという諦めが第一の要因だけれど、小説はもう教養としての使命を終えていると思えるから、書く気力がおきなかった。

20世紀は哲学も思想も教養を否定している。誰もが読むべき普遍的教養書などというのはない。今まで普遍的と考えられてきたものは、西洋の個別性に過ぎないといわれる。各文化ごとにすばらしさがある。己の文化の特徴を他の文化に押しつけてはいけないといわれる。現代はこのように多様性が尊重される時代である。ならば、多様性のすばらしさを説くことが、教養として必要ではないだろうか。

しかし、多様性を強要することは、新しい普遍性となる。多様性は人に強要するものではない。強制された多様性など多様性であるはずがない。多様性を強要することは、多様性を否定することと何ら変わりない。しかし、これはとんだ矛盾、ポストモダン状況的問題だ。では、一体何を書けばいいのだろうか。

多くの人々が求める文章を書くべきだろうか。人々は教養を必要としていないのだろうか。

人々は面白さ、快楽を与えてくれる文章を買う。人々は政治的、生活的市民であることをやめて、消費者、生産者としての自己を生きている。消費者は自分を楽しませてくれるものを買う。快楽的消費文化は、教養を必要としない。これでは文化が消費一辺倒となってしまう。

とりあえずは、そうしたもろもろの経済状況を前にして、普遍的教養でもなく、多様性を擁護するようでいて多様性を減少させることでもない、新しい教養を打ち立てることは可能だろうか。

少なくとも多くの人に読んでもらいたいと思える文章を書くことはできる。それが一体何なのか明確にはイメージできないけれど、そうした文章がどういうものなのかは、直感的に、遺伝子的にわかっている。

COPYRIGHT (C) 2003 HAL HILL. All RIGHTS RESERVED