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国際ニュースと私的日常の乖離

最終更新日:2008年2月3日
(ブログ記事掲載日:2008年1月8日)

多くのドキュメンタリー映画は、カメラ自身が見つめる現実を映し出している。ニュース記事においても、記者自身が実際に見聞きしたレポートが尊ばれる。私もニュースで見たこと、聞いたことばかりを日記に書くのでなく、自分自身が見聞きしている日本の現実を書いた方がよいのだろうか。

ニュースでは現地からのレポート映像が重宝されるが、同時に、多くの新聞記事では大手通信会社が配信する共同ニュースを記事に流用している。メディア各社には、大手通信会社が配信する国際ニュース記事が常時届く。ブログで記事を書いている私は、新聞のように、大手マスメディアが配信するニュースを流用して記事を書いていることになる。そして時々自分自身の体験記事も混ぜこんでいる。

私が日常体験していることは何だろう。通勤時間、昼休み中の読書、家に帰ってからのニュース視聴、ブログ更新作業、後は生活費を稼ぐための仕事仕事仕事。仕事中は国際ニュースのことも、日本の国内で起きた重要な事件についても、多くの人と同じように意識がいかない。自分の目前に控えている仕事のことで意識が満杯だ。こうしたことを小説的に書き留めていっても意味があるのだろうか。私が日々体験していることは、世界全体のニュースとつながっていないように感じられる。その実生活の節々には、国際ニュースの影響が響いているのだろうが、実感するほどではない。例えば最近になってカフェのコーヒーの値段が10円、20円高くなった。一つの店だけでなく複数の店で、歩調をあわせるようにコーヒーの値段があがった。たとえばタクシーも特急も新幹線も全席禁煙になっていた。日常で接する出来事の中にも、確かに世界規模で進展しているニュースの事象が影響しているのだろうが、変化は微々たるものなので、ほとんど気づけない。しかし、国際ニュースは国家首脳の殺人など時として非常に衝撃的である。

この乖離をどう埋め合わせればいいのか。日常の些細な変化に意識を払っている必要がある。コーヒー一杯の値段が10円あがった。同時にカフェラテの値段もあがった。複数の店でほぼ同時期に値段があがった。この小さな変化。ほとんど財布に影響しないように思える微々たる変更。しかし、積み重なれば膨大な変更に対する注意力の鋭敏化。

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