エッセイ『感謝と想像の時間』
最終更新日:2009年10月11日
近所のスーパーマーケットで売っているキムチをよく食べるようになった。キムチの原料、唐辛子に含まれているカプサイシンを摂取すると禿げにくくなると、テレビの情報バラエティーで聞いたのがきっかけだった。
キムチの味は強烈だけど、何故だかどんな食べ物ともあう。ビールとも相性がいい。一人暮らしの野菜不足を補ってくれそうでもある。有名焼肉店のブランドネーム入りのキムチが、四百円くらいで手に入るのだから、ついつい食べることになる。
キムチを食べていると、産地である韓国に想いが向いてくる。キムチを食べるようになってから、日本国内でブームと言われても、興味がなかった韓流映画も見るようになった。
客人を招いたらお茶を出し、食事でもてなす。万国共通の礼儀作法だが、確かに異国の特産料理を口にしていると、興味の薄かった異国に対する愛情が、自然と芽生えてくる。
アフリカの紛争地域で働く日本人の平和維持活動家が、テレビ出演時、現地の人に飲み物を勧められたら、どんなに濁っている水でも、一度は口につけてみると言っていた。食べ物の分かちあいから、親交が生まれる。キムチは無理をしなくても、普通においしいから、食べる。
キムチの容器には、産地の表示がある。韓国で作られた白菜だ。日本海(韓国の人は日本海と呼んでいないだろうが)の向こうにある半島で作られた白菜を僕は食べている。白菜を育ててくれたのは、異国の農家のおじさんおばさんたちだ。白菜を漬物にしてくれたのも、異国の見知らぬ人だろう。
もしも近所の人がキムチを作ってくれたのなら、「とてもおいしくいただきました」と感謝の言葉を伝えることができる。しかし、僕が休日食べているキムチを作ってくれたのは、異国の見知らぬ人であり、感謝の気持ちを述べることができない。だからせめて、食べる時に心の中で、感謝するようにしている。
キムチは韓国で作られた後、容器に入れられて、飛行機に乗って日本に来たのだろう。容器への包装作業は、日本国内で行われたのかもしれない。作業工程の詳細は、メーカーに問い合わせでもするか、グーグルで検索しないとわからないが、僕の部屋にキムチがやってくるまで、たくさんの人の仕事があったことは、確かな事実だ。
白菜を育ててくれた人、唐辛子を育ててくれた人、白菜と唐辛子を混ぜあわせてキムチを料理してくれた人、キムチを容器に入れてくれた人。
キムチを韓国の空港まで運んでくれたトラックの運転手さん、キムチを載せた飛行機を運転してくれたパイロットさん、日本についてから、スーパーの倉庫まで運んでくれたトラックの運転手さん、スーパーの棚にキムチを並べてくれた店員さん、僕が買い物した時、レジを売ってくれたパートのおばさん。本当にたくさんの人の仕事を経て、僕の部屋にキムチがやってきたのだ。このつながりを意識しないと、キムチのありがたみを忘れてしまう。
そう、キムチが僕の胃袋の中に入るということは、現代日本で生活していると、当たり前の出来事と思えるのだが、実は、たくさんの人の手を経て起きた、奇跡なのだ。韓国産のキムチを日本で食べるということは、一昔前ならば起き得なかった、ありえない出来事だったのだ。
スーパーの棚に並んでいるたった三百九十八円の特売キムチをプラスチック製の買い物かごに入れて、レジに持っていく。レジの店員さんは、機械的に、高速にレジを打つ。月何回か顔をあわせているかもしれないが、互いに他人のふりをして、お金をやりとりする。スーパーでキムチを買って、家に帰るまで、東京なら、無言ですむ。けれど、そこにはたくさんの人の支えがある。このつながりをよく思い出すことにしよう。
古代中国では、烏龍茶といえば、皇帝が飲む貴重な飲み物だった。現代の東京なら、スーパーでもコンビ二でも自動販売機でも、烏龍茶のペットボトルを買うことができる。文明の進歩は、意識しないと日常に埋没してしまう。たくさんの人の仕事、知恵、技術に支えられて生きているのに、そのありがたさを忘れてしまう。買った烏龍茶を飲み残して、水道に捨ててしまうこともある。烏龍茶を捨てるなんて、本当は、もったいないことなのに。
キムチについてもそうだ。キムチを買って少し食べた後、冷蔵庫に保管する。二週間も放っておくと、発酵が進んで、キムチはすっぱくなる。一度だけ、食べることができないほどすっぱくなってしまい、キムチの残りをごみに出したことがあった。今振り返れば、実にもったいないことだった。
キムチは安く買えるし、都内で大量に販売されているから、食べ残しても罪悪感が生まれにくい。けれどキムチや烏龍茶の過剰供給は、日本など一部の「経済先進国」に限った話であって、世界各国を見渡せば、食料の分配は、不公平である。
アフリカで起きている飢餓のニュースを見る。やせ細った子どもたちが、テレビ画面に映し出される。僕たちが暮らす日常とは、別世界の光景のようである。世界の富の分配は明らかに不公平だけれど、東京で暮らす多くの人は、食事を残しつつ、日常生活を送っている。スーパーやコンビ二に大量の食品が並ぶ。外食産業の競争も盛んである。売れ残った食材は廃棄される。リサイクルにまわされることもあるが、新鮮な食品が常に店頭に並ぶほど、東京都内には、食料が供給されている。
こんな贅沢で過剰な生活は、一時の夢幻であり、すぐに日本国内にも、食糧難の時代が到来するかもしれないが、今のところ、多くの人に危機意識はない。
テレビ画面の向こうに映るアフリカの現実は、自分たちの現実と地続きでないという感覚。自分たちの生活の安全、食料は、保障されているという認識は、誤謬だろうか。
仮に自分たちの食生活が保障されているとして、他の国で起きている食糧危機の現実を知りながら、知らないふりをして、贅沢に暮らしていいのだろうか。自分がいかに贅沢な暮らしをしているかという現実さえ、認識できずにいるかもしれないが。
なぜこういう状態に陥るのだろう?
自分たちの身の回りの狭い世界ばかり気になるからだろう。隣人たちの間で、互いの生活を比べていると、広い世界で起きている現実を理解できなくなる。
「知り合いはあんなにリッチな生活をしているのに、自分はまだまだだ」
日常手の届く範囲内で、どんぐりの背比べをしていると、自分自身が享受している幸せを、幸せだと感じられなくなる。同時代の人類全体で見た場合の自分自身の幸福度、および過去の歴史と比べてみた場合の現代人の幸福度がどんなに高かろうが、自分の知り合いの方がリッチで幸福そうであり、それをうらやましいと思い始めたなら、自分自身の幸福感は、とたんにしぼみだす。
もちろん、身の回りの世界を愛し、慈しむことは大切なことだ。キムチを食べて、韓国の農家の人に感謝の気持ちを述べられないなら、せめてレジを打ってくれた店員さんに感謝の気持ちを表現しよう。コンビ二の店員さん、ファストフードの店員さんにも、無愛想にすることなく、「いつもありがとう」と、感謝の気持ちを表現しよう。
現代は、どんどん仕事の充実感を得られなくなっている。グローバル市場で、多くの人に製品とサービスが行き渡るのだろうが、自分の仕事を受け取ってくれた相手の顔は、見えにくくなっている。だからこそ、人の仕事に助けられたと思うのなら、身の回りの人に感謝の気持ちを表現しよう。
東京都内が贅沢だというのは嘘だ、都内で生活する人の多くに貧困が広がっているという意見もあるだろう。確かに僕個人の周りでも、ホームレスの人をよく見かける。
近所の駅前にホームレスの女性がいる。ビニール袋をたくさんつけたキャリーバッグをそばにおいて、彼女は通勤者の多い駅前歩道にたたずんでいる。夜仕事を終えて帰ってくれば、キャリーバッグだけおいてあり、彼女の姿が見えないこともよくある。背が小さく、白髪の交じった長い髪の女性。僕も含めた多くの通勤者は、彼女が視界に入っても、声をかけず、素通りしている。
会社近くの高架橋の下には、ダンボールでできた家が二つある。ダンボールの中では、おじさんが横になって寝ている。二つ並んでダンボールの家があったが、いつのまにか一つなくなった。しばらくすると、残った一つも高架橋の下から消えた。
(ダンボールの家があるのだから、ホームレスと表現するのも失礼だが)ホームレスのおじさんたちは、どこか別の場所に引っ越したのか、仕事を見つけたのか、病気にでもなったのかと思っていたら、最近またダンボールの家が一つ、高架橋の下に戻ってきた。ダンボールの家は、今でもできたり、なくなったりを繰り返す。
ダンボールの家の横を通る歩行者たちはみな、僕も含めて、寝ているおじさんたちに声をかけることはない。
見て見ぬふりをして、生きていくこと。瞳に映し出さなかったことにして、いき続けること。目に入ってきたとしても、自分の問題ではないと、自分の枠外に追い出してしまうこと。
貧富の差は自己責任の問題だろうか。国家間、大陸間の貧富の差まで、そこで暮らす人々の努力の差だと、説明されてよいのだろうか。
助け合うこと。一度、目にしたなら、ともに支えあい、生きていくこと。
僕らの日常生活は、誰かの仕事、支えがなければ、維持できないものだ。常にたくさんの人の助けと支えがあって、今の生活があることを、忘れがちである。想像力を広げてみよう。感謝の気持ちは、想像力から生まれる。
僕はいつも韓国産のキムチを食べている。韓国の人は、キムチをよく食べると聞く。北朝鮮の人はどうなのだろうかと、ふと疑問に思った。北朝鮮産のキムチが日本国内に輸入されることはない。北朝鮮の人は、キムチを食べているのだろうか。グーグルで調べればすぐにわかることだろうが、外にある知識に頼ることは、この場合重要ではない。北朝鮮の人々の状況に、想像力を広げてみよう。
北朝鮮は食糧難で、餓死する人も多いとニュースで聞く。北朝鮮がミサイルを発射した、核兵器を開発しているとニュースで流れれば、北朝鮮という国に対する嫌疑の気持ちが生まれる。わが身の安全と平和を願って、恐怖に怯えることも大事なことだが、北朝鮮で暮らすおじさんおばさん、子どもたちの、安全と平和を願う気持ちも、大事ではないだろうか。
自分一人が、安全で快適であってくれればよいと思うことは簡単だ。想像の力を拡大してみよう。世界のつながりを感じてみよう。
朝起きる時鳴り響く目覚まし時計は、どこかの工場で、誰かが組み立ててくれたものだ。目覚まし時計の部品を作ってくれた人がいる。設計をしてくれた人がいる。工場で製造が始まる以前に、目覚まし時計というものを発明してくれた人がいる。目覚まし時計の発明以前には、時計というものの概念を、考案してくれた人がいる。
目覚まし時計が鳴って、起きてからトイレに行く。水洗トイレに座る。水洗トイレの仕組みは、当然ながら僕が作ったものではない。上下水道を街中に設計し、張り巡らせてくれた人たちがいる。
トイレの後ば、冷蔵庫に入っている麦茶を飲む。冷蔵庫、麦茶、コップ、当たり前に使っているが、どれもこれも、僕一人の知恵と技術で生まれたものではない。僕以外の誰かが発明、設計、製造したものであり、僕は毎日、多くの人たちの恩恵を受けている。
パジャマからスーツに着替える。洋服を作ってくれた人たちに感謝することができる。着替えながら、リモコンでテレビをつける。リモコンとテレビを発明、設計、製造してくれた人たちに感謝することができる。
放送されているテレビ番組の出演者、製作スタッフ、スポンサーに「ありがとう」と感謝することができる。テレビの電波放送技術なんて、生まれた頃から当たり前にあるから、感謝することもないけれど、よくよく考えれば、自分自身どう設計してよいかわからない、すばらしい技術の結晶だ。
部屋を出て、地下鉄まで歩く。歩道、道路、信号、どれもこれも誰かが設計し、製造してくれたものだ。
朝の満員電車に乗る。満員電車なんて、普通に考えると苦痛だけれど、たくさんの人を輸送してくれているのだ。鉄道会社の人たちに感謝しよう。毎日一緒に通勤している人たちを邪魔に思わず、彼ら彼女らの一日が、幸せであるように願おう。
毎日享受している当たり前の技術にこそ、感謝と驚嘆の目を向けてみれば、どれだけ自分の生活が、たくさんの人々に支えられているかわかってくる。当たり前に見ていることの成り立ちを想像することは、世界の見方を変えてくれる。
会社近くのコーヒーショップでモーニングセットを食べる。トースト、バター、アイスコーヒー、ガムシロップ。どれもこれも、誰かが作ってくれた食料だ。誰かが作ってくれた以前に、コーヒーもトーストも、僕の目の前に出てくる前は、それぞれ命だった。
コーヒーは異国の農家で栽培された豆だった。トーストは小麦からできたものだ。アイスコーヒーの中に入っている氷も、大きく考えれば命だし、ストローの入っている紙袋は、コーヒーショップにやってくる前、木という命だった。
僕は命を食べて、命に支えられて、一日一日生き延びている。食料なんて東京都内にありあまるほどあるから忘れがちだが、牛肉、豚肉、鶏肉だけではない、白菜も唐辛子も、命である。ベジタリアンも、野菜の命をいただいて、毎日自分の生命活動を支えている。
命を犠牲にして生活を維持している僕たちに、何ができるだろう?
できることなんてたくさんある。考えるまでもない。客観的にみれば、そうだろう。けれど、主観的に生きていると、自分にできることなど限られていると思いがちである。
自分なんて何の才能もない、社会の役に立つこともない、未来のないこんな社会に役立ちたいとも思わない。
主観的に生きていると、自分の存在など塵のように感じられることもある。
想像力を広げてみよう。
キムチを一口食べるだけで、たくさんの見知らぬ人に支えられていることがわかってくる。日常の小さなこと一つ一つが、存在しがたいことだとわかってくる。
偉大なる天性の才能など不要なのだ。小さな仕事が、誰かの生活を支える。ほんの小さな命の支え、多くの人の仕事で僕たちの人生は成り立っているのだから、僕らもその大きな支えあいの輪の中に、入ることができるだろう。
この世界に生まれてきただけで、両親を喜ばせた。あなたが笑顔になるだけで、家族がみな喜んだ。そう思えるのは、親に愛情を持って育てられた人だけだろうか。
生きていることそれ自体で、人は誰かの支えになっている。小さな仕事が、めぐりめぐって、誰かの命を支えていると知ること。
古来より言われている通り、無知を知ることはとても大切なことだが、情報あふれる現代社会においては、知っているのに知らないふりをしないことも重要だ。
世界のどこかで飢餓、紛争、テロが起きている現実をニュースで知っておきながら、知らないふりをして過ごすこと。
自分自身やろうと思えば、変える力を持っているのに、面倒くさいからと、何も変えずにすますこと。
きっと他の誰かがやってくれるだろう。人口爆発と言われるほど人類は増えたのだから、世界のどこかで誰かが立ち上がってくれるだろう。なら、自分は、遊ぶだけでいいのだろうか。与えられた恵みを享受するだけでいいのだろうか。
知っているのに知らないふりをしないでください。
本当は知っているのだから、知っていることを発言してみよう。
世界には、知っているのに、何も知らないふりをしている人が多いかもしれない。実際、事実を知らずに生きてきた人も多いかもしれない。
自分の意見を声に出して、たくさんの人に伝えてみよう。知っていることがあったなら、他の人も知っているかもしれないけれど、勇気を出して伝えてみよう。
一日の仕事を終えて、誰かしらの生活を支えた後で、電車でまた部屋に戻ってくる。バスルームに入ってシャワーを浴びる。シャワーの水道水は、汚いと言われるけれど、社会インフラを批判して、浄水器を取り付けるだけでは、根本の問題は解決しない。
テレビを見ながら、ノートパソコンを起動する。インターネットに接続すれば、世界中の情報とダイレクトにつながることができる。インターネットの時代には、誰もが情報の発信者になれる。これだけたくさんの情報を摂取できる時代にあるのだから、知っているのに知らないふりをして過ごすことは、罪作りなことだと思える。
夜になれば、目覚まし時計をセットして、電気を消して、ベッドの中に入る。今日こうして眠ることは、当たり前のことでなく、奇跡なのだと感じとること。
長い一日のうち、ほんの一分だけでいいから、感謝と想像の時間を持つこと。何も大仰ぶらなくていい。まずは夜眠る前、ほんの一分だけでいいから始めてみよう。時間がない人、忙しい人でも、一日一分だけでいいのだ。
一日は、一四四〇分もある。一四四〇分の一なんて、簡単に作り出せる時間だ。力む必要はない。たった一分の感謝と想像の時間から、世界とのつながりが回復する。
一日一分だけでも想像力を世界に大きく広げてみよう。今日口にした食事について思い起こすだけで、世界とのつながりを感じることができる。食事に関わる人と人のつながりを想像することで、命の犠牲に感謝することで、世界の現状が理解されてくる。
一日たった一分の小さな感謝と想像の時間が、あなたと世界がつながっている事実を立体化する。
(了)
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